肥 後 迷 惑

想像を絶する津波被害の実相

国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所がWeb上で公開している「日本の歴史上最大の火山災害ー島原大変ー寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊」 という資料に下表がある(資料1).寛政の普賢岳噴火とセントヘレンズ噴火やピナツボ噴火,平成の普賢岳噴火の規模を比較したものである.総噴出量を見て「おや」と思った.寛政の普賢岳噴火の噴出量は平成の普賢岳噴火の十分の1程度である.ところが人的な被害は,ピナツボ噴火の250人に対して寛政の普賢岳噴火は15000人と圧倒的に多い.

資料1の表を利用.東京ドームの容積は 1240000m³.

島原大変による被害の内訳(資料1)を見ると,その原因が眉山の山体崩壊に伴う津波であることが分かる.東京ドームの容積の272倍の土砂を,一度に有明海に投げ込んだようなものであるから海を挟んだ肥後領沿岸(15Km程度)はたまったものではない.それによってもたらされた津波被害の甚大さに驚かされる.天草を含めた人的被害は五千人に迫り,島原藩のそれの二分の一に上る.家屋,田畑の物的被害は肥後藩の方が甚大であり,肥後迷惑といわれる所以が理解できる.資料2の図3から明らかなように,南は宇土半島の付け根(網田,長浜)から緑川,白川,北は菊池川の河口から長洲,上沖須(洲),下沖須(洲)へ広がる干拓地が大きな被害を受けている.円の大きさは死亡者数を表している.

1)主として大矢野島.2)宇土,飽田,玉名の3群.3)停泊中の船の住人を除く,深溝世紀によれば,9534人.4)うち106人は間もなく死亡.5)住居のみ

資料1の表を加工

資料2の図を加工

今回,古文書を含めた史料,研究論文を調べている過程で,津波被害を示 す貴重な資料として,肥後藩の近代史研究家渋谷敏賓氏所蔵の資料が崇城大学附属図書館にあることが分かった.「寛政津波被害之図」 は波先侵入を知 る上でたいへん役に立っているとのことである(資料1,2,4,6).

寛政津波被害之図(崇城大学蔵)

「寛政津波被害之図」には三角,大田尾から緑川河口,白川河口を経て,菊池川河口,横島町京泊,長洲までの被害が描かれている.この図は,後世において当時の被害を解析する研究論文に必ず引用されている資料でり,資料2では,絵図の注記を判読した図が掲載されている.河内町を境に南北に分けて,手永(肥後の行政区画)の境界と被害状況(溺死者と流失数)が記載されている(今回,海を淡青色にして,活字体で見やすくした).

下表は郡,手永,村単位の被害データである.5種類の史料データ(肥前高来島原温泉大変略記,寛政四年日記,千代の不知火,寛政年間両大変記,両肥大変録)を比較している.

資料2a に掲載されている表を加工(オリジナル論文は資料5)

2b) に掲載されている肥後三郡の被害(そのまま引用)は以下のとおりである.天草を入れないで,死者数は4653名に達している.国交省資料(1)もこのデータを使用していると思われる.

津波の高さ

津波の沿岸遡上高についての調査研究報告(資料4)によれば,宇城市三角町大田尾では22.5 mに達したという(次図).被害の規模と津波の高さに相関が認められるが,例外も認められる.背後に山地のない集落(長洲地区)では,津波の高さは6m程度であるが,逃げるべき高い場所がない上に,流速が衰えないため被害が大きくなったと考察されている.

津波の高さを示した図を加工(資料4)

熊本で海水浴や潮干狩りに出掛けるといえば,長浜,網田,赤瀬,大田尾に至る宇土半島沿いの有明海沿岸の浅瀬である.網田を中心とする海岸は別名「御輿来海岸」といわれており,「日本の夕陽百選」に選定された景勝地である.寛政大津波では宇土郡は1226名の犠牲者を出している.次図は,宇城市三角町大田尾に残る津波境石と碑(Googleストリートビュー,右端)である.

2023年10月13日修正

寛政津波の慰霊碑は,熊本県に70基存在するという.次のストリートビューは玉名市岱明町扇崎に在る扇坂千人塚供養塔である.当時周辺は干拓地を造成していたため,沖洲村や鍋村での被害が大きかった.

碑の正面に は、南無阿弥陀仏と大害され、三面には次の 文が刻まれている。「ことし寛政四の年壬子 正月より肥前国温泉乃獄煙たち炎火日に月に 職にして、おなしき四月一日の夜山崩れて海 に入り潮溢れて我が国飽田宇土玉名三郡の浦 浦に及び良民溺れ死する者玉名郡に二千二百 余人飽田宇土を合わせて四千数百余人たまた ま活き残りたるも父母を失い或は老いたるか 子むまごにおくれて泣きさまようあわれとい うもさらなりかかる事はふるき史にもまれな る こ と に な ん 夫 民 は 国 の 本 な り と て 同 じ き 六 月に宮より僧に命して追福の事を修せしめそ の九月に一郡に一基の塔を建てられ死者の名 を録してここに納め霊魂を鎮せしむ死者もし 志る事あらば千年の後までも死して朽ちずと お も う な る べ し 」 。(文献2より引用)

県内の考古学者らのグループは,江戸時代の人々の残した教訓を風化させないようにするため,現地の写真等を基に,津波碑の分類や分布,建立目的を調査していると報じられている.河内町船津地区蓮光寺の津波教訓碑には,島原大変肥後迷惑の震災復興に尽力した鹿子木量平(庄屋の子,後に惣庄屋)が後世に残した教訓が残されており,熊本県の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に,『碑に込められた願い』というタイトルで載録されている(資料3a および3b-動画).

今回,古文書を含めた史料,研究論文を調べて,子供の頃から聞かされてきた「島原大変肥後迷惑」という言葉の真の意味を改めて知ることができた.

参考論文および資料

1)寛政4年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊 - 国土交通省 九州地方整備局

2)a)   堀川治城,熊本地学会誌.86,1−14(1987−12−01),眉山大崩壊と津波被害(熊本大学学術リポジトリ)

          b)   堀川, 治城 ,熊本地学会誌, 140: 2-17(2005-11-26 ), 寛政大津波, 熊本側の波先侵入 : 防災意識高揚の資料と して (同上)

3)a)『碑に込められた願い』島原大変肥後迷惑(慰霊碑11箇所の写真が掲載されている)

          b)   20151212_4_碑に込められた願い~鹿子木量平~ - YouTube

         c)   蓮光寺のストリートビュー(鹿子木量平の碑).蓮光寺山門横の供養碑(市の指定有形文化財)には,「寛政四年壬子四月朔日死者七六五人」と刻まれている. 文献4によれば,五丁手永(白浜,船津,河内,塩屋,近津の五集落)の被害者数.

4)寛政四年(1792)島原半島眉山の公開に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸遡上高,郡司嘉宣,日野貴之,地震研究所彙報,68 (1993) pp. 91-176.

5)表3の原報 :菊池万雄(1980):日本の歴史災害一江戸後期の寺院過去帳による実証一。古今書院、 95-121.

6)島原大変の教材化と防災意識を高める学習指導,堀川治城,地学教育,第45巻第 5号〈通巻第220号〉 日本地学教育学会   

7)託麻郡の津波供養塔:熊本市西区小島の坪井川沿いの小島小学校入口に立てられている島原大津波供養塔(坪井川が海に注ぐ地点まで2.8km程度,当時は海まで1.4km).この慰霊塔は池田手永(熊本市南部)における犠牲者を供養したものと考えられる.すこし上流の高橋では浸水したものの被害は少なかったと言われている.津波の先端は白川河口から8kmの熊本城下まで達し.長六橋で3尺程度の水位の上昇がみられたという.緑川,加勢川筋においては,川尻御蔵前船着場(旧藩時代の重要な物資集積,積出港,現JR鉄橋付近)の石壇の上段まで波が及んだと言われている.

8)九州災害履歴情報データベース(トップ)から熊本県(主な災害)の雲仙岳噴火・地震(島原大変非ご迷惑)を選択.熊本県(熊本市・宇城市・宇土市)の現地調査概要

9)寛政の津波供養碑|宇土市デジタルミュージアム - 宇土市役所