私達の住む六丁目本町会の区域内に初めて創られた町会は、大正7年(1918年)に創立した「新開地睦會」で、同じく13年(1924年)には、町内に「金杉自治會」も創られました。
その後幾多の変遷を経て、戦後間もなく、日暮里三丁目町会と三丁目北町会が合併し当町会の前身である「日暮里三丁目本町会」が誕生。
昭和22年(1947年)3月には、現・東日暮里6-21-5付近に活動の拠点となる町会会館を建設しました。
しかし、会館が落成した直後の5月3日、ポツダム政令15号の公布により解散命令が下され、町会は解散。
せっかく建てた会館も売却しなければなりませんでした。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約の調印により、「日暮里三丁目文化会」として再発足し、翌28年3月に「日暮里三丁目本町会」と改称しました。
昭和30年代、高度成長期に入ると町会の活動も活発となり、昭和38年(1963年)、再び町会会館を建設するに至りました。
昭和41年(1966年)住居表示が実施され、日暮里町は、東日暮里と西日暮里に分かれ、それぞれ一~六丁目で構成されることになりました。
当町会の区域は東日暮里六丁目(一部は五丁目)となり、町会の名称も「東日暮里六丁目本町会」と改称しました。
また、町域の拡張にともない、旧三河島町織戸の一部が当町会に編入され現在に至っています。
日暮里・南千住間の常磐線が高架になる前(昭和11年以前)の尾竹橋通りの踏切。
三河島駅入口の向かい側(東側)から現在のアトラスタワー付近を撮っています。
多くの人や自転車の他、乗用車やバスも見られ賑わっています。
右端の2階の四方が硝子窓の建物は信号所と思われ、その左に数軒の商店が見えます。「叶屋商店」「報知新聞」「古○×?」「綿菓子」のように読めますが...。
こちらは三河島駅入口側からアトラスタワーの向かい側を撮った写真です。
やはり歩行者や自転車で混みあっています。左に丸太の櫓が組まれており、常磐線高架化の工事が始まったようです。
この踏切は昇開式踏切門扉と言い、この踏切で初めて採用されたものです。右端に半分見える小屋は踏切警手小屋と思われ、上の写真にも屋根が写っています。
以前は改正通り、あるいは日暮里銀座通りと呼ばれた尾竹橋通りで、鶯谷方面を撮ったようです。足袋、パンの看板の並びに高島屋?ストアと読める店があります。
日暮里銀座実業会の90周年記念誌によれば、戦前、高島屋10-20銭ストアという店舗があったそうで、その4軒鶯谷寄りが加島銀行で、現在、三菱UFJ銀行がある場所です。
ということは、ここは三菱UFJ銀行とカンカン森通りの間ということになります。
同じく現・尾竹橋通りで、鶯谷方面を撮ったものと考えられています。昭和29年の撮影ということなので、バスも新しい形になっています。
右に見える「國末?パン」は一番上の写真の付近にありました。右手前の建物の看板は「みどり」とも読めます。また、左手前の花輪はパチンコ店の開店祝い?
それにしてもこの写真、一体どこから写したのでしょう。三河島駅前の鉄橋の上から?