部屋: 講堂
哲学者たちは、多くの中心的な哲学的問いについて意見を異にする。この不同意の事実は、対等者不同意(peer disagreement)に関する調停的原理(conciliatory principle)と結びつくことで、「哲学者たちの哲学的信念は正当化されていない」という懐疑的結論を導く(不一致からの懐疑論証)。
この論証には多くの応答がなされてきたが、本発表が検討するのは、これまで比較的注目されてこなかった「多数決的応答(majoritarian response)」である。多数決的応答は、一定の条件下で多数派の見解が真である蓋然性は高いとするコンドルセの陪審定理(Condorcet Jury Theorem)に訴え、実質的だが不均等な不一致がある場合、多数派の見解を支持する哲学者は正当化される、と論じる。
本発表の結論は両義的である。すなわち、多数決的応答はいくつかの軽微な反論を退けうる点で見かけより強力だが、既存の反論を適切に強化したもの、およびこれまで見過ごされてきた新たな反論の前では、最終的に破綻する。
部屋: 講堂
人間の行為を理解・説明・予測するための理論として、道具的合理性は標準理論としての地位を確立している。道具的合理性モデルにおいて、行為主体は、自身の信念に照らして欲求を最もよく充足するような行為を選択するとされる。その意味で、道具的合理性は「帰結を最大化する人間観」を表現している。しかし近年、道具的合理性が行為理論として限界を抱えているとの認識を背景に、その限界を克服しようとする理論が相次いで提案されている。その多くは、道具的合理性では捉えきれないような「ルールに従う人間観」を表現しようとするものである。
本発表では、ジョセフ・ヒースが『ルールに従う』(Heath 2008)において提示した行為理論を、こうした「ルールに従う人間観」の台頭というトレンドの中に位置づける。そして、ヒースの行為理論が、どのような観察によって動機づけられており、どんな理論的メリットを持ち、どんな示唆を与えるのかをまとめる。
本発表の構成は次の通りである。
第1節では、本発表の目的と構成を確認する。
第2節では、道具的合理性の基本構造について説明する。そして、道具的合理性が、様々な行為を説明できるような十分に柔軟な枠組みであり、直観的なもっともらしさを持つ、ということを確認する。
第3節では、にもかかわらず、道具的合理性が行為理論として限界を抱えていると見なされる理由をまとめる。道具的合理性モデルは、複数の主体が相互依存的に行為するインタラクション状況において、なすべき行為を一意に決定できなかったり(非決定性の問題)、現実の観察と明らかに食い違う挙動を見せたりする(非最適性の問題)。
第4節では、こうした道具的合理性モデルの欠陥を受けて、これまで提案されてきたオルタナティブな理論に目を向ける(e.g., Elster 1989; Bicchieri 2006)。これらの理論は、何らかの仕方で「ルール」を導入することによって、道具的合理性の限界から脱出しようとしている。その意味で、これらはいずれも「ルールに従う人間観」を表現する理論だと言うことができる。ヒースの議論は、こうしたオルタナティブな諸見解のうちの1つとして位置づけられる。
第5節では、ヒースの議論がどんな現象を自然に記述できるのか、そしてどんな示唆を与えるのかをまとめる。
参考文献
Bicchieri, Cristina, 2006, The Grammar of Society, Cambridge University Press.
Elster, Jon, 1989, The Cement of Society, Cambridge University Press.
Heath, Joseph, 2008, Following the Rules, Oxford University Press.(瀧澤弘和訳, 2013, 『ルールに従う』NTT出版.)
部屋: 講堂
価値の適合態度分析(FA: fitting-attitude analysis)は、近年のメタ倫理学において広く論じられている価値分析の一つである(Howard & Rowland 2022)。FAによれば、ある対象が正の価値をもつとは、その対象に対して何らかの肯定的態度をとることが適合的(fitting)であるということである。しかし、この分析にはpartiality problemと呼ばれる問題が提起されている(Zimmerman 2011)。たとえば、自分の友人と見知らぬ人のいずれか一方しか救助できず、二人の救助が同等の価値をもつ場合でも、自分の友人の救助を選好することは適合的であるように思われる。すると、同等の価値をもつ対象には同等の態度をとることが適合的であるとするFAの主張との間に緊張が生じる。本発表は、この問題に対し、FAの主要な歴史的源泉の一人であるFranz Brentanoの価値論を用いて応答する。
本発表は次のように進む。まず、partiality problemを三つのもっともらしい主張から成るトリレンマとして定式化し、FAの支持者にとって可能な応答を明らかにする。次に、先行研究で提案されてきた応答を一つずつ検討し、それぞれが問題を抱えることを論じる。そのうえで、FAの文脈ではあまり着目されてこなかったBrentano (1952 / 2009) に着目し、partiality problemに対する応答を提案・擁護する。具体的には、選好という態度が二種類に区別されるというBrentanoの示唆を参考に、トリレンマの解消を試みる。
以上の議論を通じて、本発表は、partiality problemがFAに対する決定的な反論とはならないことを示す。さらに、Brentanoの価値論が、現代のFAをめぐる議論に有効な理論的資源を提供しうることを明らかにする。
主要参考文献
Brentano, F. (2009). The foundation and construction of ethics (Routledge Revivals). Routledge. (Original work published 1952)
Howard, C., & Rowland, R. A. (2022). Fittingness: A user’s guide. In C. Howard & R. A. Rowland (Eds.), Fittingness: Essays in the philosophy of normativity (pp. 1–28). Oxford University Press.
Zimmerman, M. J. (2011). Partiality and intrinsic value. Mind, 120(478), 447-483.
部屋: 講堂
「共感的な思いやりに欠ける行為はすべきではない」という行為指針は規範倫理学説として妥当なのだろうか。マイケル・スロートは共感的な思いやりが行為の正/不正を区別する十分な基準になるとし、ケアの倫理は義務論や功利主義から独立した独自の規範倫理学説になると主張した。
しかし、「共感的なケアの倫理はあらゆる道徳的問題に対するアプローチとして義務論や功利主義と同等の説得力をもつ」という主張には修正の余地がある。本発表では、共感およびケアの倫理に対する主要な批判を検討し、スロートの共感的なケアの倫理は他の規範倫理学説と同等の妥当性をもたないことを指摘する。
その一方で、共感的なケアの倫理を規範倫理学から排除するのも性急である。むしろ、この立場に対する批判はどのような道徳的問題を念頭に置いていたのか分析することで、「共感的なケアの倫理はいかなる問題を扱うのに優れたアプローチか」という問いに焦点を当てる。そして、規範倫理学におけるケアの倫理の展望について建設的な意見を述べる。
本発表の流れは、はじめに共感的なケアの倫理の内容とその理論的動機を説明したうえで、共感およびケアの倫理に対する主要な批判を紹介する。次に、そうした批判が想定している道徳的問題の性質を分析する。ケアの倫理は、普遍的な原理原則に基づいて「どのような行為が正しいか」に答えるというより、個別具体的な関係性に基づいて「どのように相手に応えるべきか」に答える道徳的思考である。そのため、ケアの倫理の擁護者と批判者が想定している道徳的問題にずれがあるならば、前提が異なるままにケアの倫理を評価することは不適切である。したがって、本発表は共感的なケアの倫理はいかなる道徳的問題に対して優れたアプローチとなりえるかという問いのもと、規範倫理学におけるその具体的な位置を明確にすることを試みる。
発表の最後には、試論として、ケアの倫理と功利主義の関係性について考察する。ケアの倫理と正義の倫理の間には、両者はどちらかに還元されるのか、されないならばどのような関係にあるのかという論争が存在する。本発表では、非還元かつ相互補完の立場に立ったうえで、普遍性を重視する功利主義とケアの倫理はいかにして相互補完可能か簡単な方向性を示す。
部屋: 講堂
受精卵への遺伝的介入を可能にする技術は、現代の生命倫理学において最も論争的な主題の一つである。これらの技術には、胚の選択や遺伝子編集を通じて、遺伝性疾患を回避したり、将来の子どもの遺伝的特徴に影響を与えたりする試みが含まれる。さらに、将来的には外見上の特定の特徴や知能など、親が望ましいと考える形質を子どもに付与することも可能になると考えられている。このように親が将来の子どもの遺伝的特徴を選択できる技術は、しばしばリベラル優生学の実践の一つとして位置づけられる。リベラル優生学は、国家による強制を特徴とする旧来の優生学(しばしば「古い優生学」と呼ばれる)とは異なり、生殖に関する選択を個々の親の自由な判断に委ねる点に特徴があり、「新しい優生学」として知られる。
本発表では、リベラル優生学の実践としての受精卵への遺伝的介入について、その倫理的是非を批判的に検討する。受精卵への遺伝的介入を行うことが、旧来の優生学と結び付けられてきた特徴を備えているかどうかについては広く議論されてきた (Douglas, 2019; Savulescu, 2001; Sparrow, 2007; Wilkinson, 2010)。しかし、リベラル優生学それ自体がもつ倫理的懸念についてはさらなる精査が必要であると考える。
本発表では、遺伝的介入が旧来の優生学とは区別され得ることを認める。しかし、それにもかかわらず、リベラル優生学は慎重な検討を要する独自の倫理的課題を提起すると主張する。特に、本発表は、望ましい形質を増やすことを目指す積極的優生学と望ましくない形質の予防・排除を目指す消極的優生学という区別が、リベラル優生学の倫理的問題を理解するための有用な分析枠組みを提供すると論じる。そのうえで、リベラル優生学はこの区別を曖昧にし、それにより諸問題を引き起こすことを示す。
具体的には、両者の境界が不明確になることで、生殖技術の利用は疾病予防から能力強化へと拡張されやすくなり、どのような遺伝的介入が許容されるべきかという規範的判断も困難になることが挙げられる。さらに、将来の親は疾病予防のみを意図していたとしても、その選択が結果として積極的優生学的実践へとつながる可能性がある。本発表は、こうした観点から、リベラル優生学は積極的優生学と消極的優生学の境界を曖昧にする点で、新たな優生学的懸念を生じさせると論じる。
参考文献
Douglas, T. (2019). Genetic selection. In D. Edmonds (Ed.), Ethics in the contemporary world (pp. 303–317). Routledge.
Savulescu, J. (2001). Procreative beneficence: Why we should select the best children. Bioethics, 15(5–6), 413–426. https://doi.org/10.1111/1467-8519.00251
Sparrow, R. (2007). Procreative beneficence, obligation, and eugenics. Genomics, Society and Policy, 3(3), 43–59. https://doi.org/10.1186/1746-5354-3-3-43
Wilkinson, S. (2010). Choosing tomorrow’s children: The ethics of selective reproduction. Oxford University Press.
部屋: 講堂
認識論は哲学における主要な分野の一つである。その中でも命題的知識の分析は、少なくとも現代英米圏の哲学における主要なテーマの一つである。そしてこのテーマにおいて、「ゲティア事例」や「ゲティア問題」としてよく知られているGettier (1963)は知名度や影響力において無視できない重要な論文である。
ゲティア論文は認識論だけでなく、メタ哲学の観点から見ても重要である。というのもそれは哲学における特徴的な実践や方法の典型例だからである。ゲティア事例は例えば、哲学における直観への依拠の典型例とされたり、哲学における事例法(the method of cases)の典型的な使用例とされたりする。
本発表は、哲学の進歩という観点からゲティアの研究を扱う。哲学において認知的な進歩があるとしたら、ゲティア論文は有力候補である。実際、ゲティア論文は哲学における否定的なテーゼへの「合意」(Van Inwagen, 2004)や「収束」(Chalmers, 2015)の例と見なされたり、進歩の例と見なされたり(Dellsén et al., 2024)する。ある理論に対して反例を提示することによってその理論を拒否するということは、哲学においてしばしばなされることである。ゲティア論文はJTB理論の反例の提示と拒否だけをするという点で、そのような実践の典型例である。
しかし、ある論文がある分野やテーマにおいて重要だということは、それが本当に認知的な進歩だということを伴うとは限らない。本発表では、ゲティアの研究が哲学に退歩(regress)をもたらしたと考える可能性が提示される。すなわち、現代哲学のあり方と進歩の条件や本性についての哲学的探求で用いられる概念に注目すると、ゲティア事例は退歩だと考える理由を構成できるということが述べられる。
この要旨の参考文献:
Chalmers, D. J. (2015). Why isn't there more progress in philosophy?. Philosophy, 90(1), 3–31.
Dellsén, F., Firing, T., Lawler, I., & Norton, J. (2024). What is philosophical progress?. Philosophy and Phenomenological Research, 109(2), 663–693.
Gettier, E. L. (1963). Is justified true belief knowledge?. analysis, 23(6), 121–123.
Van Inwagen, P. (2004). Freedom to break the laws. Midwest Studies In Philosophy, 28(1), 334–350.
部屋: 講堂
This study examines whether laypeople’s apparently compatibilist judgments about moral responsibility genuinely support compatibilist theories of moral responsibility by investigating whether people endorse moral responsibility in a deeper sense under determinism.
One of the central issues in the contemporary free will debate is whether the kind of free will required for moral responsibility is compatible with causal determinism. Incompatibilists deny such compatibility, whereas compatibilists defend it. Experimental philosophers have investigated this issue by examining whether ordinary people attribute moral responsibility in deterministic scenarios using hypothetical cases (e.g., Nichols and Knobe 2007).
Several recent studies suggest that participants who correctly understand determinism tend to give compatibilist responses regarding moral responsibility, especially when evaluating concrete immoral actions (e.g., Lim et al. 2024). These findings have been interpreted as evidence that ordinary people are “natural compatibilists.”
However, this conclusion may be premature. A crucial but underexplored question concerns what participants’ agreement with moral responsibility attributions in these experiments actually amounts to. Moral responsibility is a multifaceted concept, and the notion centrally at stake in the traditional free will debate is responsibility in the basic desert sense (Pereboom 2014): being blameworthy or praiseworthy solely in virtue of one’s action, independently of further consequentialist or pragmatic considerations. It remains unclear whether standard experimental measures genuinely capture intuitions about moral responsibility in this deeper sense.
This concern motivates two competing hypotheses:
H1: Most people attribute moral responsibility under determinism only in a superficial or limited sense, while rejecting moral responsibility in a deeper sense, such as the basic desert sense.
H2: Most people attribute moral responsibility under determinism even in a deeper sense, such as the basic desert sense.
If H1 is correct, then compatibilist responses in existing experiments do not necessarily indicate that laypeople possess intuitions aligned with compatibilist theories of moral responsibility. Rather, their intuitions may diverge from compatibilism at a philosophically significant level.
To investigate this issue, I examined whether participants agreed with statements of the following form: “X is morally blameworthy for the immoral action in one sense, but in a deeper sense, X is not blameworthy at all,” under both deterministic and indeterministic conditions. H1 predicts agreement with such statements under determinism, but not under indeterminism.
The results supported H1. Most participants judged that wrongdoers are morally responsible under determinism in a limited sense, while denying responsibility in a deeper sense. Although disagreement about responsibility in a deeper sense may admit multiple interpretations, the findings at minimum suggest that people do not endorse moral responsibility in the same sense across deterministic and indeterministic conditions. These results raise the possibility that many individuals who appear to exhibit compatibilist intuitions in standard experiments may in fact hold intuitions that conflict with compatibilist theories at a deeper and philosophically significant level.
部屋: 第4会議
近年の美的価値論では、これまで支配的な地位を占めてきた経験主義に対する批判的検討が進むとともに、代替理論の構築が行われている。本報告では、その内、価値ある諸活動とのつながりから美的価値を説明しようとする一群の理論(e.g., Matthew Strohl; Nick Riggle)を「活動中心説」として類型化し、批判的検討を加える。
活動中心説によれば、あるものが美的価値を備えているとは、それが価値ある諸活動(ただし、その内実は論者によって分かれる)を可能にする力を持っているということに他ならない。例えば、『グレート・ギャツビー』が美的に優れているとは、典型的には、それが〈友人とおこなう読書会〉や〈アメリカ文学ランキング作り〉、あるいは〈批評を通じた自分の価値観の開示〉といった様々な価値ある活動を喚起する力を持っている、ということである。
対象の美的価値を、単なる鑑賞経験に限らず対象との多様な関与に基礎づけるこの立場は、美的に価値ある対象への適切な反応を鑑賞に限定しない点で、私たちの美的生活の実情を的確にとらえている。また、愛すべき駄作映画(いわゆる“good-bad movies”)の美的な良さを説明できる等、美的価値に関する寛容な描像をもたらす点もこの立場の魅力である。
しかし、この寛容さは問題にもなる。既に先行研究が指摘している通り、〈どんな活動をするか〉はかなりの程度私たち行為主体の側の問題であって、私たちはどんな対象についてもそれを取り巻く価値ある活動を実現できてしまうように思われるのである。結果的に、活動中心説は美的価値をどんな対象にも認めてしまうと懸念される。
この問題に対して、本報告が活動中心説として分類する共同体主義を提唱するニック・リグルは、〈美的価値があるとは、単に実際に価値ある諸活動を引き起こしているということではなく、価値ある諸活動に値するということなのだ〉と応答する。そのような諸活動に値しない諸対象については、美的価値の誤帰属を回避することができる、というわけである。この応答は、共同体理論のみならず活動中心説一般が前述の問題を克服するために訴えることができる、汎用的なオプションである。
しかし、諸活動に「値する」とはどういうことだろうか。本報告では、主にリグルの記述に依拠しつつもっともらしい解釈をいくつか挙げたうえで、いずれの場合も活動中心説は(場合によっては、経験主義に対して差し向けられてきたのとよく似た)問題に直面すると論じる。
部屋: 講堂
変容的経験とは、個人の人生のあり方を根本から変えてしまう劇的な経験である(Paul, 2014)。変容的経験は認識的な(epistemically)変容と人格的な(personally)変容の二つの変容が揃う経験とされる。認識的な変容をもたらす経験とは、それを実際に経験するまでは「それがどのようなことか(What it is like)」が分からない経験である。一人称的視点を通して獲得されるその経験の現象的な性質に関する知識を、WIL知識(the knowledge of what it is like)と呼ぶ。人格的な変容をもたらす経験とは、その経験の前後で判断や行為の基盤となる選好や価値体系が刷新されることで、判断や行為、あるいは人格までもが変容するような経験である。以上は、個人における変容的経験である。
本発表では、変容的経験は、個人だけでなく集団(group)においても生じると主張し、集団の変容的経験に定義を与えることを試みる。本発表は以下の事例を基に考察を進める。
【巨大津波と消防団】
M8クラスの地震の直後、沿岸部の消防団員は郷土愛と使命感から最前線に留まり、多くが巨大津波の犠牲となった。この悲劇を経て同分団は「津波てんでんこ」に基づき、団員自身の即時避難を義務づけるマニュアルを策定した。「地元民で助け合う」集団から「まず自分が逃げる」集団へと、集団の性格が変容したように見える。
この消防団がもつ規範は、巨大津波に遭遇した経験の前後で変化した。この規範の変化は個人の人格的変容とパラレルに記述できるように思われる。すなわち、個人が主体となる経験の前後でその個人の行為や判断が変容するように、集団が主体となる経験の前後でその集団の行為や判断が変容したと言えるだろう。本発表は集団の人格的変容を、Gilbertが主張した共同コミットメントの観点から説明する。
他方で、集団の認識的変容については、Tuomelaが主張したwe-modeという観点から説明を試みる。具体的には、集団それ自体がWIL知識を有することはないものの、集団の構成員がwe-modeでWIL知識を獲得することが、集団の認識的変容に求められると主張する。
結論として、集団の人格的変容は、集団の構成員がwe-modeで経験する認識的変容に基づき、以前とは異なる、新たな共同コミットメントをもつことで生じると主張する。
部屋: 第4会議室
本発表の目的は、哲学の主要目標(the primary aim / goal of philosophy)と哲学的進歩の関係を再検討することで、〈哲学の目標は哲学的真理への収束、あるいは哲学的知識の獲得にある〉とする標準的見解を擁護することにある。
長きにわたって、この標準的見解は多くの哲学者によって自明視されており、それに異論を唱える論者もほとんどいなかった。しかし、この10年ほど、標準的見解の妥当性をめぐる論争が大きな盛り上がりを見せている。そのきっかけは、哲学的進歩についての悲観主義の登場にある。この見解は、〈これまで哲学的問題についての哲学者の意見が収束したことはほとんどなく、今後も収束する見込みはない〉ということを根拠に、〈哲学はこれまで進歩していないし、今後も進歩する見込みはない〉とするものである(e.g. Dietrich 2011; Chalmers 2015)。
この悲観主義に立ち向かうために考案されたのが、哲学の目標についての標準的見解を否定する、というアプローチである。このアプローチによれば、哲学における不一致の存在から進歩についての悲観主義を導くには、〈真理への収束、あるいはそれに伴う知識の獲得こそが哲学の目標である〉という標準的見解を前提する必要がある。したがって、この見解さえ退けられれば、不一致の存在を認めたままでも進歩についての楽観主義を維持できることになる。
こうした考えのもと、標準的見解に代わり、近年は〈哲学の目標は哲学的問題への理解を深めることにある〉とする理解説や、〈哲学の目標はさまざまな哲学的意見から構成される整合的な理論体系(均衡)を実現することにある〉とする均衡説が人気を博している(e.g. Beebee 2018; Hannon & Nguyen 2022; Keren 2023)。哲学の目標が真理や知識ではなく理解や均衡にあるとするならば、いかに意見の不一致が持続しようとも、進歩についての悲観論は回避可能だ、というわけである。
しかし、私の見立てでは、こうした議論状況には一つの問題がある。それは、標準的見解の批判者たちが、〈ある対象が進歩するのは、それがその目標に近似する場合、かつその場合に限る〉と想定していることにある。言い換えれば、彼らは進歩の程度を測る基準と目標を同一視しているのである。
本発表では、この想定を批判する。目標以外のものでも進歩を測る基準になりうるし、また、目標を基準とした進歩が常に重要なわけでもない。この主張がもっともらしいならば、哲学的進歩の悲観論を回避しつつ標準的見解を維持することは、従来の想定よりもずっと容易いことになる。というのも、哲学が目標に近似していないとしても、そこから直ちに〈哲学は進歩していない〉という結論は引き出せないことになるからだ。
部屋: 講堂
本発表では、自由意志と決定論の問題を概念倫理学の問題――すなわち、概念の評価の問題――として捉えなおすことを試みる。
Quelozは近年、概念の良し悪しをどのように評価するかという問題に対して、概念のニーズに訴えた説明を展開している。
すなわち、ある概念が良い概念であるのは、それが概念使用者ないしその共同体のニーズを満たすからである。
たとえば、障害の社会モデル――障害とは社会環境の問題であるというアイデア――に基づいた〈障害〉の概念は、障害を個人の疾患とみなす医学モデルに基づいた概念よりも、社会環境の改善を促すというニーズを満たす。
このように、評価基準となるニーズを特定することで、優れた概念とはどのようなものかが明確になる。
本発表では、決定論の下で、(1)責任を帰属させるに値する行為を特定するというニーズと、(2)人々の自己コントロール感を維持するというニーズの二つの観点にフィットする自由意志概念を提案することを試みる。
(1)の観点からすると、単に他行為可能性なしの両立論的な自由意志概念を採用すればよいと思われる。
しかし、この種の対応は(2)のニーズを真剣に受け止めることに失敗している。
というのも、決定論が真だという信念それ自体が人々の自己コントロール感を阻害するとされるからである。
本発表では、このニーズに対応するため、行為者の観点からの可能性を形而上学的可能性から区別して、前者に定位した(ある意味でリバタリアン的な)自由意志概念を擁護することを試みる。
部屋: 第4会議室
本発表は「何がある考慮事項を〈理由〉たらしめているか」という問題を扱う。現代の規範理由(normative reasons)に関する主要な理論は、理由をある考慮事項(存在者)として捉え、それが行為や態度を〈支持する(count in favour of)〉関係に立つとみなしている(Scanlon 1998; Parfit 2011; Schroeder 2021)。とりわけ理由第一主義(理由基礎づけ主義)は、この支持関係を原始的なものとし、あらゆる規範的性質の基礎に据える。本発表は、この枠組みこそが当分野の最も解決困難な諸論争のいくつかを生んでいると論じ、推論主義的な代替案がそれらに答えるのではなく解消すると主張する。
本発表が提案するのは、理由を〈支持する〉関係に立つ存在者としてではなく、〈理由を提示し要求する実践〉におけるその役割によって規定することである(Brandom 1994; Peregrin 2014)。すなわち、Rをφのための理由とみなすこととはRからφへの推論の適格性を是認することにほかならず、〈支持〉とは説明不可能な原始的関係ではなく、コミットメントとエンタイトルメントという規範的地位の間の遷移として、実践のうちに制度化された推論的適格性であると本発表では論じる。これにより説明の順序が逆転する。理由が規範を基礎づけるのではなく、実践の規範こそが基礎的であり、〈理由〉はその役割を明示化する表現的語彙として機能するということになる。
参考文献
Brandom, R. B. (1994). Making it explicit: Reasoning, representing, and discursive commitment. Harvard University Press.
Parfit, D. (2011). On what matters (Vols. 1–2). Oxford University Press.
Peregrin, J. (2014). Inferentialism: Why rules matter. Palgrave Macmillan.
Scanlon, T. M. (1998). What we owe to each other. Harvard University Press.
Schroeder, M. (2021). Reasons first. Oxford University Press.
部屋: 講堂
AIやロボットへの道徳的配慮をめぐる従来の議論は、意識、感覚、自律性といった内在的性質を基準に、それらが道徳的地位をもちうるかを問うてきた。これに対して関係論的アプローチは、対象がそれ自体として何であるかをあらかじめ確定するのではなく、人間との関係の中で対象がどのように現れ、いかなる倫理的応答を生じさせるのかに注目する(Coeckelbergh 2012, 2014, 2021; Gunkel 2018, 2022)。
この転回は従来の枠組みを問い直すものである一方で、関係論に固有の新たな規範的問題を生じさせる。Coeckelbergh and Gunkel (2014) は、関係論が道徳的地位を決定するための新たな規範的指針を提示することを目的としていないと述べている。これに対してDanaher (2018) は、関係論が規範的指針を提示せず、ある存在が道徳共同体に含まれる条件を問う記述的探究に留まるのなら、それは道徳的地位をめぐる本来の規範的問題に十分答えていないと批判する。
本発表はこの批判を手がかりとして、関係論が性質ベースの道徳的地位論とは異なる問題圏を扱っていることを明確にする。関係論が記述するのは、人間がAIやロボットに対して特定の感情や態度を抱いているという事実だけではない。むしろそれはある存在が関係の中で倫理的に重要なものとして現れ、応答を要求する現象それ自体であり、さらにその応答が適切、不適切、許容可能、あるいは許容不可能なものとして経験される仕方である。この意味で、規範は関係の外部から付加される基準ではなく、関係の中で対象への応答のあり方を形づくる条件として機能している。
もっともこのような関係は人間とAIの二者間だけでは完結しない。AIが単なる道具ではなく倫理的に応答すべき対象として現れる仕方は、制度、慣習、技術設計、社会的期待といった諸条件によって媒介されている。Ooka and Shimizu(under review)が制度的転回と呼ぶ観点は、こうした関係の成立条件を可視化するものである。
したがって、関係論を記述的と呼ぶことは、現に存在する感情や慣習をそのまま正当化することを意味しない。本発表は、AIが応答を要求する存在として現れる条件を問う現象学的・超越論的な問題意識を踏まえつつ、関係論が問うべき規範のあり方と、それがAIとの関係をめぐる実践的課題にもつ含意を検討する。
部屋: 講堂
我々は「嘘をつくことは間違っている」「人を殴ることは許されない」といった道徳的判断を容易にくだすことができる。それでは、こうした道徳的判断はどのようなメカニズムによって産出されているのか。本発表では、そのメカニズムの候補として、強化学習とベイズ学習を統合したハイブリッドモデルを提案する。
近年の道徳心理学では、計算論的アプローチが注目されており、道徳的判断のメカニズムとして、強化学習の枠組を援用した説明がしばしば議論されている(Cushman 2013; Crockett 2013)。たとえば、Cushmanは道徳的判断を過去の学習履歴にもとづいて方策を決定する直観的システム(モデルフリー)と環境の因果モデルにもとづく熟慮的システム(モデルベース)に大別して説明した。
しかし、この強化学習モデルには批判もみられる。Nicholsは、従来の説明では強化履歴をもたない行為にたいする道徳的判断を説明できないと指摘した(Nichols 2021)。すなわち、強化学習の枠組は、あらかじめ行為の報酬を学習していなければ適切に動作せず、新規の事例にまで判断を汎化させることができないのである。
本発表が提案するモデルは、この批判に応答するものである。本発表では、下位層に従来の強化学習を配置し、上位層にベイズ学習を追加するというハイブリッドな構造を採用する。この構造により、個々の行為は仮説空間のなかに位置づけられ、「意図的な危害」といった抽象化されたカテゴリとして学習される。そして、このカテゴリにたいして、罰や報酬などの強化履歴が付与される。本発表は、このハイブリッドモデルによって新規の事例における道徳的判断の産出(あるいは汎化)を説明できると主張する
部屋: 講堂
本発表の目的は、「私が自分ではない他人になる」という想像の内容分析に、ジョンストン(2010)による「私(I)」の二区分を用いることを提案することである。
自分ではない他人になるという想像は、日常的にありふれた想像である。例えば、「私(この文を読んでいるあなた)はナポレオンである」という想像をしてみてほしい。あなたの目の前には、アウステルリッツの、荒廃した戦場が広がっている。あなたは、右手を軍服のポケットに入れている。いま挙げた情景は、あなたが実際に経験したことではない。これは、ナポレオンであるところのあなたから見た情景の想像である(ここで実際になされているのは、あなたが想像している内容を、私が想像することであるが)。このように、私たちはしばしば、自分ではない他人になることを想像する。そして、この類の想像には何の問題もないように見える。
だが、想像を可能性理解の指標とするなら、問題が生じるとウィリアムズ(1973)は論じる。なぜなら、私もあなたも、ナポレオンになることは不可能であるからだ(あなたが、今話題にしているナポレオンその人でない限りは!)。
さらに、「私が他人になる」という想像に伴う問題として、この類の想像にはいくつかの種類があることも挙げられる。この想像内の区分を曖昧にしたままでは、この類の想像の内容分析は不十分なものにならざるをえない。
では、「私が他人になる」といった想像で、私たちは実際に何を想像しているのか。この問いへの応答には、想像の現象的内容に着目したアプローチと、この想像をde se態度(世界内時空間への自己位置付けに対する態度)とみなすアプローチという、大まかに分けて2つのアプローチがある。だが、どちらも、扱えているのは「私が他人になる」想像の一側面にとどまっている。本発表では、「私が他人になる」想像の区分を明確にし、かつ、ジョンストン(2010)による「主観的『私(I)』」と「指標的『私(I)』」の区別を導入することで、この類の想像の内容を統一して扱うことのできる枠組みの提示を試みる。
まず、ウィリアムズ(1973)の議論に沿う形で、「私が他人になる」想像が含む問題を確認する。次に、「私が他人になる」想像内の区分を提示する。その後、「私が他人になる」想像の現象的内容に着目したアプローチとde se態度アプローチとを概観し、どちらも「私が他人になる」想像の一側面のみの分析にとどまっていることを指摘する。そのうえで、ジョンストン(2010)による「主観的『私(I)』」と「指標的『私(I)』」の区別を導入する。最後に、この区別を用いることで、「私が他人になる」想像の区分全てを統一して扱えることを示す。
部屋: 講堂
本発表は、レヴィナス『全体性と無限』(1961)における言語主体のあり方を、弁明 (apologie) の概念から検討する。
同書において、自己同一のはたらきに回収されない他人 (autrui) との関係は、言説 (discours) として提示される。この言語関係については、他人の〈顔(visage)〉の呼びかけに対する応答として、すなわち主体の受動性において捉える読解が有力である(小松 2021)。だが、同書は言説を、自我のエゴイズムが消え去る場としてではなく、「その実存のエゴイズムを断念することができない」ものとして記述している。そして弁明を「超越者を前にして自我が自己を肯定すると同時に身を屈すること」と定義し、これが「言説の本質のうちにある」とする(TI, p.29)。
本発表は、この定義に含まれる自己肯定の契機に着目する。言説のうちに身を置くとは、他人にこのエゴイズムに対する権利を認めることであり、エゴイズムの放棄ではない。享受し労働し所有することによって自足した自我であればこそ、その自我は問いただされうる。所有しない主体は、他人に差し出すものも、告発されるべきものももたない。
以上から、同書の言語主体は、応答する主体であることをやめないが、応答しうるのはそれが弁明する主体であるかぎりにおいてであることを示す。受動性への一元化は、弁明の定義から自己肯定の契機を落とすことで成立している。
参考文献
Levinas, Emmanuel. (1961).Totalité et infini : essai sur l'extériorité. Le Livre de poche
小松学.(2010).サルトルとレヴィナスにおける言語と主体の問題――呼びかける/応答する主体.『立命館大学人文科学研究所紀要』,94, 105-128.
部屋: 講堂
本発表では、社会的抑圧システムのもとで差別的言動を行う個人の道徳的責任と非難の可能性について、《マイクロアグレッション》という現象に着目して検討する。
Regina Riniによれば、マイクロアグレッションとは「社会的に抑圧された集団に属する人に対する、小さな侮辱や尊厳を傷つける行為」(Rini 2021: 2)であるが、それは日常生活に広く存在する小規模な現象であり、多くは無意識のうちに行われる。この事実は、マイクロアグレッションを行う個人に対して道徳的責任を問うことや非難をすることの正当性を揺らがせる。一方で、本発表でも示されるように、マイクロアグレッションは社会的に抑圧された集団に属する人に対して小さくない害を与えるものである。この事実は、何らかの取り組みによってマイクロアグレッションを減らすことの必要性を訴えている。そしてここでの何らかの取り組みとして、害を与えた個人に何らかの形で道徳的に責任を問うたり、その人を非難したりすることは有効かつ正当であるようにも思われる。
以上を背景に、本発表では、社会的抑圧システムのもとでマイクロアグレッションを行う個人の道徳的責任と非難の適切なあり方について、道徳的責任や非難をめぐる哲学的議論の蓄積を踏まえて素描することが目指される。なお、マイクロアグレッションをめぐる個人の道徳的責任や非難の可能性を問い直す本発表の検討は、〈マイクロアグレッションに加担した個人は批判されるべきか〉〈マイクロアグレッションの是正策はどのようなものであるべきか〉といった実践的な課題に示唆を与えるものでありうる。
【主要な参考文献】
Regina Rini, 2021, The Ethics of Microaggression, Routledge.
部屋: 講堂
理解(understanding)は、近年の認識論において注目が集まっている概念の一つである。とくに、信念が理解の必要条件なのか否かをめぐっては現在も論争がある(Hannon 2021)。これについて、本発表は二つの主張を提案・擁護する。第一に、信念は理解それ自体の必要条件ではないが、理解の程度に影響を与えうる要素である。第二に、理解の必要条件はinclinationという心的状態である。
本発表は次のように進む。まず、対象となる理解を「なぜpなのかの理解(understanding why p)」に、対象となる信念を「qゆえにpであるという信念(belief that p because q)」に限る。次に、信念が理解の必要条件であるとする見解、および信念が理解にとっていかなる役割も果たさないとする見解を検討し、それぞれが問題を抱えることを論じる。そのうえで、Dancy (2004) による根拠(ground)・条件(condition)・修正事由(modifier)の三区別を参考にしつつ、信念は理解それ自体の根拠ではないが、理解の程度の修正事由ではあると論じる。加えて、Barnett (2024) を参考に、理解それ自体の根拠はinclinationという心的状態であると論じる。
以上の議論を通じて、本発表は、理解をはじめとする認識的達成と信念との関係を捉え直すための、新たな議論の視座を開く。
主要参考文献
Barnett, Z. (2024). Six Roles for Inclination. Mind, 133(532), 972-1000.
Dancy, J. (2004). Ethics without principles. Clarendon Press.
Hannon, M. (2021). Recent work in the epistemology of understanding. American Philosophical Quarterly, 58(3), 269-290.
部屋: 講堂
※センシティブなトピックを扱います。実例をあまり出さないようにしますが、聴講の際はお気をつけください。
生成AIとの対話が関係したとされる自殺による死亡事例や訴訟が生じている一方で、多くの利用者がAIに自殺念慮を語っている。OpenAIの推計によれば、週次利用者の約0.15%が、自殺の計画または意図を明示的に示す会話を行い、全メッセージの約0.05%が、自殺念慮または意図を明示的ないし暗示的に含んでおり、これは週約120万人に相当する。こうした状況を受けて、AI事業者は、自殺念慮の検知、応答の制御、相談窓口への誘導を強化している。さらに、2025年に改正された日本の自殺対策基本法は、情報通信技術およびAI関連技術の適切な活用を明記され、AIによる自殺リスクの検知や臨床支援が期待されている。このようなAIによる自殺対策に対して、プライバシー、偽陽性と偽陰性、バイアスと公平性、AIのブラックボックス性などが問題として指摘されてきた。たしかにこれらは重要な問題である。しかし、いずれも、自殺は当然に予防されるべきだという前提のもとで、予防をいかに正確かつ安全に行うかを問うものである。本発表は、この前提そのものを検討する。A. Barilによれば、自殺をもっぱら除去・予防すべきものとして扱う予防主義的スクリプトは、自殺念慮をもつ人の声を封じ、生存を強制する点で自殺排除主義的(suicidist)である。AIだからこそ自殺念慮を語ることができた利用者に対して、AIシステムが文脈や本人の意思を顧みず、定型的な制止やホットラインへの誘導に移るなら、その応答も同じ問題を再生産する。それは、利用者に語るよう促しながら、許容された仕方でしか語ることを認めない。その結果、AIは自殺念慮を率直に語ることのできるセーファースペースではなくなる。したがって、本発表では、救命の必要性を否定することなく、AIによる自殺対策の現状を自殺排除主義の観点から分析する。その上で、自殺念慮のある人々にとって望ましいAIについて検討し、非自殺排除主義的なAIシステムと制度のあり方を提示する。
部屋: 第4会議室
In this talk, I examine the grounds on which Husserl reversed Frege’s conception of number.
The work in which Husserl critiqued Frege’s account of number, Philosophie der Arithmetik, is chiefly concerned with the ‘psychological origin’ of number. Provided that Frege’s primary interest in his Grundlagen der Arithmetik, to which Husserl pays attention, does not rest in identifying the psychological origin, it may thus seem that Husserl’s critique of Frege is something of a by-the-bye. Yet it must be noted that Husserl’s verdict on the status of number is the exact opposite of Frege's: the concept of counted objects is attached to a relevant number, and not vice versa. It must also be noted that Husserl’s stance is grounded in his psychological account, which may seem irrelevant to Frege’s primary interest. This talk aims to fill the above-mentioned gap between Husserl's and Frege's interests by examining the grounds on which Husserl reversed Frege’s conception. To do so, I structure my talk as follows. First, I outline Husserl’s and Frege’s conceptions of number. I then contrast Frege’s position with Husserl's, which is a reversal, while noting some common points. In the end, I show how Husserl’s reversal is due to his psychological account of number and that it is not trivial for Frege.