「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」
2018.11読了。
ボルヘス『伝奇集』にある短篇のひとつ。いろんな哲学思想の遊び場になっていてそれだけでも面白いのに、幻想が質量をもつなんて魅力的な、そして恐ろしい仕掛けまで作動させていて、短篇とは思えない素晴らしさだった。
以下、読書メモ。
トレーンは18世紀の哲学者ジョージ・バークリーの唯心論が常識となっている国。物質主義は異端。
バークリーの思想は「存在することは知覚されることである」。私の五感が知覚した観念が、私の心の中に存在する……というもの。だから唯心論。物自体や、空間は存在しない。「普遍」も知覚されないから、存在しない(唯名論)。そしてその観念はどこからきているのかというと、原因として神を想定した。
唯心論への揶揄でよく言われる「じゃあ寝てる人の世界は知覚されてないから、存在しないっていうのか?」「落ちたコインを見つけて、目線を外したら、コインが存在したりしなかったりする……そんなの変だろ?」については、「神が常にあらゆるものを知覚しているから、存在が担保されている」と説いた。
ボルヘスは「ならば知覚されたものは存在するがいい」とばかりに、想像上のトレーンを現実に侵食させている。観念が現実にどう作用するか?がテーマのひとつ。
私はこれを読んで、はっとした。なぜエーコが『薔薇の名前』にボルヘスの影を置いたのか(盲目の司書ホルヘ)、わかった気がしたからだ。
バークリーとトレーン人の思想の大きな違いは、神の存在があるかないか。バークリーの考え方は「神が知覚しててくれるから、人間が寝てても世界は存在してる」だったが、はたして神なしでもそれは可能だろうか?
ボルヘスには可能だった。唯名論を転換することで。
トレーン人は神をもたないが、名詞ももたない。ひとつのものにあらゆる語彙が尽くされる……1が無限性をもつ世界であり、すべてが溶け合い、連続しているために、私が眠っていても、その世界は担保される。
p17「九つの貨幣が一枚である」「シェイクスピアの一行をくり返すすべての男は、ウィリアム・シェイクスピアその人である」……この奇妙な描写も、その連続性をパロディ化した表現。こんな世界ならば、こういうことも可能だろう、ああいうことも可能だろう、と。
p10「鏡と父性は忌まわしい。宇宙を増殖し、拡散させるからである」という印象的な句も、トレーン侵食の揶揄と同時に、ボルヘス自身がバークリー的思想に基づいたパロディを描いて(宇宙を殖やして)遊んでいるということではないか。彼の最初の短編集『汚辱の世界史』の1篇、「メルヴのハキム」にはこうある:「鏡と父親はパロディを増殖し、肯定するがゆえに忌むべきものである」。
このへんもパースの連続主義を思わせて、エーコの著作にもつながっていくのかなーと思う(記号論は難しすぎて私には理解できないけども)。
ある人にひとつとされる物が(たとえばりんご1個)、無限の語彙を尽くされて表現される。そうしたら、ひとつひとつが無限を内包する。もしくは、りんごが深海でしか生きてこなかった知的生物によって言語表現されたら、どんな語彙を使うんだろうか。ものすごく面白い表現になるんじゃないかとか、いろいろ想像する。
英Wikipedia によれば、この物語は「言語が認識にどんな影響を与えるか?:サピア=ウォーフの仮説」というテーマも扱っているとのこと。→ ボルヘス『ジョン・ウィルキンスの分析的言語』
謎の物体「フレニール」には、バークリーの思想を継承した現象主義者、デイヴィッド・ヒュームの考え方が反映されているようだ。彼は知覚作用を「印象」と「観念」のふたつに分けた。
観念は印象が元になってできているから、どんなに複雑になっても、抽象化しても、個々の印象に帰すことができる。たとえば、私たちが人間という観念を持つとき、私たちは個々を離れた普遍(抽象観念)の人間を思い描いているわけではなく、自分がこれまでに見てきた個々の人間を束にして(抽象化・特徴点の抽出が起こるだろう)、思い描いている。
フレニールはまさにこの「観念」が物質化したもののように思える。特徴点が誇張されたり、または前々バージョンにそっくりになったりする。時には純粋なフォームになり、そして希望が黄金のウルをもたらす(ウルってなんだ?)。
参考:英Wikipedia
聊斎志異は全部で500編ほどの短編を集めたものなので、25編というとほんの一部になるけれど、それでも摩訶不思議な世界を堪能できた。中でも惹かれたのは豪華絢爛な宴の描写や、美女との夢見心地な対峙。優美で、単純に気持ちがよい。あと、化狐や道術がふつうに人間世界に存在するものとして馴染んでるのが面白かった。鬼はこわい。
「聊」は「お喋り」という意味だそうだ。書斎を耳と口にして、道行く旅人の話、あるいは幽冥からの噂話を書き連ねる作者の絵が浮かんだ。また訳者・黒田真美子さんのあとがきによれば、蒲松齢は不遇の中で書をまとめていて、これを「孤憤の書」と規定していたそうだ。「我を知る者は、其れ青林黒塞の間に在りや」の一文が哀しい。
この本の最初に「自分をこれだけわかってくれる女は彼女しかいない」というような話があったけれど、あれこそ蒲松齢の夢物語だったのかもしれない。
知我者、其在青林黒塞間乎!
序文にある蒲松齢の言葉。解説を読むと暗鬱たるイメージらしいのだが、「黒塞」はわかるとして「青い林」から受ける印象がどうにも爽やかなので、詳しく調べてみた。
「青林黒塞」というのは杜甫の『夢李白』から引いたものだそうで、杜甫が消息のない友人・李白の身を案じ、彼のことを夢に見る、といった内容になっている。
「魂來楓林青 魂返關塞黑」
彼の魂は青き楓林(江南)からやってきて、私に夢を見せたが、帰った後ここには黒い関所が聳えるのみ。暗鬱たる不安だけが残る……というようなイメージだろうか。關塞は関所・要塞といった意味らしいが、杜甫のいるところ(秦州)のことでもあるそうだ。聳え立つ関所の陰気な、厳しく、寒々とした、孤独な、そんな印象が残る。
これを踏まえて蒲松齢の「我を知る者は、其れ青林黒塞の間に在りや」に戻ると、この「青林黒塞の間」というのは魂が来て帰る間のこと、つまり「夢の中」を指すことがわかる。しかも、もう亡くなっているかもわからない友人の魂が漂う夢の中だ。幽鬼。幽冥との接点としての、夢の中。
わかってくれる人がそこにいるというより、「私のことをわかってくれる人はこの世にはいない」という悲哀を、強く感じてしまう。
「孤憤の書」というのは『韓非子』孤憤篇からきているそうで、ネットで読めたので読んでみた。志が清くて誠実な部下がいても重臣には敵わん、重臣が国をだめにするんだ、しかも君主はそれを見抜けんのだ、というような内容。「術」という概念がおもしろい。
2019.01.12、杏花手帳 にて。
大雪、村民の冷たさ、主人公である医者の家への関心のなさ、豚小屋を蹴ると突如現れる馬と馬丁、女中ローザに暴行が及ぶ危機、患者の家へ一瞬で到着、健康な患者(いややっぱ病気)、服を脱がされる医者、思い通りにならないと殺しにきそうな患者の家族、なぜか患者と添寝、ローザ、ローザ、ローザ。
医者も医者らしい事をせず頼りない。何事も思い通りにいかない。
『木曜日の男』の中盤までと似た印象を受けた。まるで夢の中でもがくかのようだ。滑稽さは風刺の裏返しだろうか?
山村浩二さんのアニメも高評価らしい。見てみたい。
2019.01.12、『新・ちくま文学の森 奇想天外』にて。
掌篇。オドラデクという「糸巻きのようなもの」が気がかりだ、という話。『やまなし』に出てくるかぷかぷ笑うクラムボンみたいなもので、よくわからないが正体を知りたくなる。→ 徒然草・白うるり
私のイメージしたものはアスタリスクのような、角がたくさんついている、歯車にも見えるボディに、T字のねじ巻きがついているものだった。描写からすると、だいぶ年月が経ってくたびれているのではないだろうか。
『流刑地にて』に登場する死刑執行の機械もそうだけど、カフカの装置的な物体はなんか好きだ。
→『田舎医者』を読んでみることに。