──空から見下ろすこの世界は、全てがひとつなぎ。


 高い高いところから、全身に風を感じて、わたしは飛んでいる。

 歪な円形を描く壁、その中に形成されている都市・エンクラティア。

 そこに居るのは複数の地域に別れ、互いに権力を求め、自分たちが一番だと信じ、争い忌み嫌い合う人間たち。

 ああ、哀れ。狭い視界の中で精一杯に、意味のない権利を奪い合っているなんて。

 空から見下ろせば、世界の区切りなんて見えないわ。

 どんなに人間たちが線引きをしようと、高いこの空から見下ろせば、世界は地続きであることは明白。


 わたしはこの景色が好き。

 そう伝える相手は、いないけれど。


「……──」

 ヴァローナの魔女・ルーナは薄暗い部屋で目を覚ました。

 好き放題に伸びた黒髪で、視界の全てを塞ぐように、シーツの上でうずくまる。顔を上げる気は起きない。天井以外に見るものなどないから。

手の届かない天窓から差し込む柔い陽が、今が早朝だということを告げていた。

 ふう、と息を吐いてみても、がらんどうに響くため息は空虚なだけだった。

 小さな部屋だ。だが、一人で過ごすにはひどく広い部屋。

 ルーナの世界はこの部屋にしかない。ぐるりと首を回せば終わってしまう。上等な寝床に清潔な肌着、クロゼットには真っ黒いローブ。持ち物もそれだけ。

「…………」

 部屋の内側から扉を叩いて合図をし、扉についた小さな覗き窓を開ける。

 すると部屋の前に立っていた見張りの女が気づき、振り返って右拳を左手で包むように手を合わせ、無言のままひざまづく。

「……水を」

 それだけ告げると、見張り番の女はしずしずと頭を下げて水差しを取りに去って行った。はあ、とまたルーナの口から息が漏れる。

 ヴァローナの魔女に、自由は無いに等しい。

 物心ついて、自分が魔女だとわかったその日から、ルーナは両親から離されこの部屋に閉じ込められるようにして暮らしていた。 

 この扉を開いて水を汲んでくる事さえ、ルーナには許されていない。用があれば見張りの女に伝えれば済ませてくれるが、話し相手にもなってはくれない。

 それもこれも、ヴァローナの強い魔女信仰の文化故である。

 ヴァローナの民は創世の女神フィリアとヴァローナの魔女こそが、都市・エンクラティア、牽いてはこの世界において最も尊いものだと信じてやまない。

 何故ならば、かつて世界で起きたとされる“災い”を食い止め人間を滅亡から救ったのは、女神フィリアとその使徒であるヴァローナの魔女と言い伝えられているのだ。少なくともヴァローナでは。

 そのため、魔女は崇拝しなければならない。奉らなければならない。簡単に人目に触れさせてはならないし、まして同じ空間で生活をするなんて不敬を働いてはならない。

 そうして信仰を続けなければ、魔女の力が弱り、再び“災い”が起きてしまう。

 そう信じ込まれているせいで、ルーナは大事に大事にされているのだ。

 檻に閉じ込められるようにして、ひっそりと一人で暮らし、崇められることを享受しなければならない。それが魔女の役割であり、民のためとなるのだから。

 これがルーナの現実。

 ルーナは再び白いシーツの波に沈み込んだ。

 ──今眠れば、また同じ夢を見られるだろうか。

 空から世界を見下ろすなんて、ただの空想。妄想。夢想。そんなことは分かり切っている。何もない部屋で、息をするだけの無意味な時間。永遠とも思えるその時を過ごす虚しさを紛らわせるために、何度も何度も繰り返した夢物語でしかない。真の意味で自由に空を飛べるわけなんて、ない。

 それでもルーナが空を飛ぶ夢ばかり見るのには、理由があった。

 どうやら、かつて世界が”こう”なる前。“災い”が起きる以前は、魔女と呼ばれる存在は空を飛んでいたらしいのだ。

 そう教えてくれたのは、アラネオの魔女・アメリアだった。

 たった一度だけ幼い頃に話した彼女は、丸い黒目をきらきらに輝かせながら語っていた。昔は世界の形が違ったらしいこと、至るところに都市があり自由に行き来できたこと、クラッドなどという怪物は存在していなかったこと。

 それから十数年、ルーナは空を飛ぶ夢ばかりを見た。

 こんなに狭い檻の中で、鑑賞物のように扱われる自分が、どこまでも自由に空を飛ぶ夢を。

 だが、この夢を見る度に疑問が頭を過ぎる。今の世界で魔女と呼ばれるのは、怪物と戦う術を持つ少女達。魔法なんて使えない。使えるのは血濡れた武器だけ。役になんて立てない。犠牲になるだけ。空なんて飛べない。閉じ込められるだけ。

一体なぜ、かつての魔女とこうも違うのだろう? その答えは幾度考えても出てこなかった。

シーラコアなど存在しない世界であれば、以前のように平和だったはずだ。

世界の在り方も変わってしまった。もし、もしも、世界の形が変わっておらず、人間が己の意思で幸福を目指せる時代であれば。

「わたしは、自由でいられたの……?」

 そうして空想と考えごとを繰り返すうちに、一日が終わっていく。

 もうずっとこうだ。

 何もない部屋で、何をすることも許されず、じっとしていると段々と沈んでいく。

 自分の存在が無くても、世界は変わらないのではないか。

 そう、思ってしまう。

 胸の内が黒々と塗りつぶされていく。何もかもを忘れるために、もう一度空想に逃げて、眠りについてしまおうかとルーナは考えた。

 だが、その瞬間、胸を高鳴らせる音が響く。

 ちいさな天窓から重たく響く、鐘の音。

 それはクラッドが現れたことを示す合図であった。


 ルーナは重たい体を起こし、武器を手にして部屋の外へ出た。

 長い廊下には昼中の陽射しが燦々と降り注ぎ、まるでルーナの行く道を照らしているかのようだった。

 だがルーナの視線は自身の爪先から動かない。

 ヴァローナの魔女が外に出て、動いて、自分の意志で行動することができる時間──それは壁外に、人間を襲う怪物が現れた時だけだった。大事に大事に囲われたその身が、怪物という危険に晒される、その時だけ。

 それがいかに皮肉な事か、慣習に染まったヴァローナの民が深く考えることはない。

 ──哀れだ。

 戦地へと歩を進めながら、浅慮な民をなじる。そしてその民の意向に逆らえず、促されるままに戦いに赴く自分自身も。

 部屋を出て、神殿を出て、ヴァローナの領地を真っ直ぐに進む。簡素な門の前でルーナは振り返った。

 するといつの間に集まったのか、民のほとんどが家の中から姿を現し、ルーナの背を囲うように並んでいる。

 ルーナは数多の視線に動じることなく、正面から民たちと向き合った。

 これもルーナにとっては、あの狭い部屋の中のように、見慣れた光景だった。民たちは広場のような空間に密集していた。全員が目を凝らして、ルーナを見つめている。その熱を帯びた眼差しに感じるのは、期待、祈り、願い。そしてわずかな好奇。

「では、御身のご無事を祈らせていただきます」

 一人がそう言うや否や、その場にいる民がみな、手を合わせて祈りの言葉を唱え始める。

 何重にもなって響く、今は廃れたとされる言葉での祈りは、他でもないヴァローナの魔女・ルーナのためのものだ。

「けしてその血を流すようなことがあってはなりませぬ」

「はい」

 民たちの祈りが続く最中、見張りの女が決まり文句となった言葉をかけてくれる。

 それもまた祈りであるため、ルーナは受け止め頷いた。

「忌まわしき怪物を人間の住む地に近づけてはなりませぬ」

「はい」

「アラネオの魔女にだけは、遅れを取ってはなりませぬ」

 念を押すようなその言葉に、ルーナは小さく頷く。

「……はい」

 アラネオ。ヴァローナの民が毛嫌いしているその領地の民は、“災い”の原因と謂われる、“科学”を蘇らせようとしている。

 統計や研究を好むアラネオの民には、どうやら魔女への信仰は無いに等しいらしい。

 二つの領地は忌み嫌いあっていた。

 ……魔女同士の関係が、どうあろうと関係なく。

「それではくれぐれもお気をつけて」

 長い祈りが終わり、民たちは一斉に膝をつき頭を垂れる。無数の人の頭に、ルーナは誰にも知られず、嘆息を吐いた。一様にルーナにかしずく彼らはまるで、意思を持たぬ操り人形のようだった。

 そしてその姿は、魔女の役割を与えられた自分にもよく似ている。

 ルーナは彼らに背を向けて、壁外に向けて走り出した。

 魔女として最低限、怪物退治という仕事をこなすために。


 しかし──戦闘の末、怪物にとどめを刺したのはリュコスの魔女・ミアだった。

 ルーナは武器を降ろし、浅く息を吐く。最低限役目を果たさなければ、と自分なりに果敢に挑んだつもりではあったが、服に汚れのひとつもついていない。

 今回は完全に出遅れた。あの儀式さえ無ければ少しは早く戦場につけたのに、と胸中でだけ悪態をつく。

 だが仕方がない。あれは毎回あるのだ。誰が決めたのかは知らないが、ずっと前から繰り返されている慣例に文句を言っても、何も解決はしない。そう自分に言い聞かせてルーナが自分の気持ちに折り合いをつけた瞬間…──

「あのような戦い方をして、貴女に誇りはないんですの?」

 突如聞こえてきた怒りを纏った声に、視線を向ける。

 どうやら、シャヴルールの魔女・フレアが、手柄のみを優先したミアの戦い方に苛立ち、責め立てているらしい。

「誇りってのは食えるの? 僕は食えないものはいらない。なんなんだよ、君が言うその誇りってのはさ」

 その言葉に、フレアは目を見開き固まってしまった。

 フレアは言い返す言葉を必死に探しているらしい。だが面食らってしまったのか、小さな拳を震わせるだけだった。

「ミア、さっきの戦いでの一撃、正直痺れたよ」

 二人を気遣ってか、ラガルトの魔女・ロゼットがミアを手招いた。それに反応してミアは小走りでロゼットの元へ寄る。この二人は馬が合うらしく、フレアとは対照的に和やかに戦闘の反省を話し合っていた。

 そのうちにフレアは苛立ちを隠さないまま去っていき、他の魔女たちも各々の領地へと帰っていく。

 ルーナは小さくなる魔女たちの背中を見ながら、その場に留まった。

 自由なものだ。言いたいことを自分勝手に撒き散らして、自身の領地に引っ込んでいく。彼女たちには自由がある。自分が好きな時に外へ出て、好きなように暮らして、民たちと対話ができる。

 同じ魔女だというのに、何故こうも違うものか。そう憂いたこともあったが、今のルーナの心を満たすのは諦念のみだった。

 ──せめてあと少しだけ、外の空気を吸ってから帰ろう。

 檻の中へ自ら戻る虚しさを、風に当たって慰める。

 それに…──ルーナには一つ、気になることがあった。

「よ……っと。いいねぇ、今回は派手にぶっ壊してくれたおかげで、持ち帰りやすい」

 まだ、アメリアが残っている。

 彼女は細長いアームで器用に動き回り、倒されて壊れた怪物の破片、歯車や装甲のガラクタをひとつひとつ吟味するように拾い上げて、集めていた。

「…………」

 話しかけるべきか、迷って、やめる。

 まだ自身のことをよく知らなかった幼い頃は、互いにはしゃいで話したこともあった。だが今では敵対する領地の魔女同士で、一つの手柄を奪い合う立場にある。今更声をかけたところで、何を話せばいいのだろう。

 それでもルーナはアメリアの挙動が気になった。

 恐ろしい怪物の亡骸を嬉々として集めるその姿から、目が離せなかった。

 ルーナはしばらくの間逡巡し、同じようにガラクタを拾ってみる。

 ──これがいったい、何になると言うの?

 すると、アメリアはちらりとルーナを見て、冗談を言うように軽やかに告げる。

「やっぱりカラスはこういうの、好きなんだ」

 ──……カラス?

 彼女の言葉が何を意味しているのか、気にならないと言えば嘘になる。

 だがそれより何より、アメリアの興味が少しでもルーナに向いたことに心底驚いた。

 アメリアは既にルーナから興味を無くし、ガラクタ集めに戻っていたが。

「やはりパーツによって形が違えば役割も違う……これって怪物どもが生まれつき持つ性質なのか? それとも育つ過程で得ていくものなのか与えられるものなのか……生まれる、育つという概念が奴らに当てはまるのかも、わからないな……」

 彼女の口は止まることがなかった。がしゃん、かしゃん、とガラクタを集めながらずっと何かを喋っている。もしかしたら自分で声を出している自覚も無いのかもしれない。

 誰に向けた言葉でも無い事はわかっていたが、ルーナは一言一句を漏らさず聞いていた。

 アメリアは自分とは違う。興味のある事に、自分の欲求に、常に一直線だ。いっそすがすがしいくらいに周りを見ない。

 ──わたしとは違う。

 囚われた籠の中で、あれこれ思案して妄想して、架空の世界ばかりを夢見て。自由に空を飛ぶ魔女になんてなれなくて、漂う雲より心許ない。

 だがそれも致し方がない。そう諦め切ってしまっている自分と、彼女は、違う。

「……ん。まあ今日の収穫はこんなところか」

「……あの」

ルーナはやっと声を発した。

 どうかしたのかと聞きたげに振り返ったアメリアに、ルーナは集めたガラクタを差し出す。

 するとアメリアは、彼女にしては珍しく驚いたような表情を見せた。

「これは君が欲しくて集めていたのではないのか?」

 ルーナはゆっくりと首を振った。

 こんなものはいらない。怪物の死骸でしかないガラクタに、何の意味があるのかもわからない。

 ──でも彼女はわたしとは違うから。

 アメリアはこのガラクタから何かを見出すのだろう。

 きっと自分では思いもつかないようなことを発見するのだろう。

 それはこのどうしようもない世界を変えてしまうことかもしれない。

 ルーナが生きる世界がひっくり返るようなことかもしれない。

 かつて幼い頃に、ひとりだったルーナを救ってくれたように。

「ありがとう」

 アメリアはそう言って微笑んだ。

 強い風が通り抜け、雲が一気に流れていく。差し込んだ光に照らされ目を細めた時、アメリアは腕いっぱいにガラクタを抱えて帰っていってしまった。

 ルーナは息を吸い込み、目を閉じた。

 重たい灰色の髪が風に靡いて、頬を撫でる。遠ざかる足音と、どこからか聞こえる鳥の鳴き声。土埃の香りに、照りつける陽射し。

 ルーナの頭上には何もない真っ青な空が広がっていた。

 ずっとずっと、どこまでも、広がっていた。