胸の内に広がる永遠に晴れない曇り空。

 たった一筋だけ射す光を追って、私はひたすら駆けている。


 それを掴めば、このどうしようもない世界がひっくり返るかもしれない。

 それを掴めば、無数に広がる新たな地に繋がっているかもしれない。

 それを掴めば……──


 あらゆる可能性を夢想して、私はひたすら駆ける。

 ……駆ける、と表現すると伝わりにくいかもしれないな。手を動かして、頭を回して、考え続けているのだ。

 この世界の理について。この世界の成り立ちについて。

 最も難しいその理を解き明かしたその時、心には晴れやかな青空が広がると信じて。



 アラネオの魔女・アメリアは、一筋の光に照らされてうなだれていた。

 狭いその空間には、ぽつんと椅子が一脚置かれている。アメリアはそこに身一つで座らされ、足を鎖で繋がれていた。

 呆れるほど高い壁には、鉄柵が嵌められた小さな窓がある。その窓から射す光は弱々しく、湿気た空気が重たく肌にまとわりついた。

黒々とした鉄格子の間からは、紫紺のローブを纏った人間たちがアメリアのことを覗き込んでいる。

ローブの人間は時が経つごとに数を増やしていた。塔の上にあるらしいこの拘留所に次々と上がってくる足音が、やたらと反響している。興味深そうに、憎々しげに、興奮した様子でアメリアを囲う奴らは、ヴァローナの民であった。

紫紺のローブがその証拠だ。それはヴァローナの自警団が揃いで纏う制服である。ヴァローナの領地に侵入者がいれば捕らえ、処罰を下すのが奴らの仕事だ。

「まさか本当にアラネオの魔女を捕らえたというのか」

 ローブの人間の一人が、心底驚いたように鉄格子を掴んでアメリアを見つめた。

「だからそうだと言っているだろう。これが自らそう名乗ったのだぞ。アラネオの魔女・アメリアだと」

「けど本物の魔女ならば、こんなに簡単に捕まるかしら?」

「私もそこが疑問だ。これは卑劣なアラネオの罠か何かなのではないか?」

 アメリアを前にして好き勝手言ってる奴らを鉄格子越しに眺めながら、アメリアはもうこの世に存在しない施設の名を思い出した。

 ──まるで“動物園”の檻の中のようだな。

「おい。お前、名を名乗れ」

 一人がアメリアに乱暴に質問を投げかける。

「…………」

 アメリアは何も答えず、表情も変えずただ黙っていた。

 名は何度も答えた。

同じ質問に同じ答えを幾度も返すことほど、非効率的なことはない。

「なんなんだ、この態度は。本当に魔女か?」

「間違いない。取り上げた武器は魔女しか使えない代物だった」

「本物でも罠でもいい、折角捕らえたのだ。拷問でもして有益な情報を吐かせろ」

「そう逸るな。指示を待とうではないか」

 騒々しく語り合う奴らは、どうやらアメリアを始末する方向で話をまとめようとしているらしい。

 アメリアはひっそりと、静かなため息を零した。

 ──全く面倒なことに巻き込まれたものだ。




「いっ……た……」

 今朝のアメリアは鈍痛で目を覚ました。

 頭をゆっくり起こすと同時に、ばさりと床に書物が落ちる音がする。どうやら棚の上から書物が落ちてきて、アメリアの頭に直撃したらしい。

アメリアは何回か瞬きを繰り返し、目の前に広がる景色を眺めた。

薄暗く狭く、物に溢れ返った湿っぽい部屋の中。目の前には大小様々な金属片・クラッドの破片がいくつも転がっている。

 机の上には破片の素材を確かめるために使用した薬品や小瓶、実験結果を走り書きした羊皮紙がバラバラと置いてある。端に皺が寄っているものも数枚あった。

 ──うん。散らかりきっている。自分の部屋で間違いない。

 硝子瓶に反射する自分の額は、ほんのり赤くなっていた。

 ──また研究途中で寝入ってしまったか。

 アメリアは冷静に今の状況を捉え、眼鏡の下で目を擦る。どうやら昨夜は眠気で気絶するほど研究に没頭していたらしい。机の上に放り投げられていた懐中時計で、時間を確かめる。時計の針は六時半を指していた。

アラネオの民は地下に住んでいる。

 光の届かない地下では、今が昼なのか夜なのかもわからない。

「…………よし」

 アメリアは立ち上がり、長い手足をぐいと伸ばした。立ち上がった衝撃で机の上に置いた小瓶がいくつか落ちて転がったが、まあいいだろう。

散らかった部屋はそのままにして、白衣を脱ぎ、外出用の羽織に腕を通す。

 研究も行き詰まっていたし、寝起きの脳はまだ起動しきっていない。こういう時は探索するに尽きる。そうすれば酸素が脳に行き渡って頭も冴えるし、研究の足しになる材料も見つかるかもしれない。

この世界の唯一の都市・エンクラティアの地下には、広く複雑に通路が伸びており、精力的に探索を行うアラネオによって一部拡張もされている。アラネオの民はこの地下通路を使ってひっそりと都市内を移動することもあった。まるで、糸で張り巡らされた巣を這う蜘蛛のように。

アメリアも例外ではなかった。自身の住居を後にして、水道管らしきものを横目に見ながら、アメリアは地下通路を歩く。カン、カン、と反響するのは自身の足音のみで、自分以外の人間は近くにいない。

考えごとをするには好都合だった。

昨夜の研究では怪物──クラッドがどこからやってきているのかを解明しようと、躍起になっていた。クラッドの亡骸である金属破片からは、わずかではあるが、エンクラティアでは確認できない物質の反応が見てとれた。

これは壁外にまだ人間が知らない物質があるということかもしれないし、この世界のどこかに他の都市があり、そこで金属を生成しているのかもしれない。あるいはクラッドが独自に保有する成分が融解して混ざった結果かもしれない。

はたまた、全く別次元から持ち込まれた物質かもしれない。

可能性はいくらでも広がっていくが、その中から正解を探り当てるのは容易なことではなかった。だからこそアメリアは、夢中になって研究を続けた。

他にも自分がまだ想像すらしていない可能性はないだろうか。研究で真実を解き明かすために、足りていない材料や研究方法はなんなのだろうか。

考え始めると止まらなくて、アメリアは自分の爪先を見つめたまま、ぶつぶつと呟き歩き続けた。

…………それがいけなかった。

「何者だ!」

 地下通路に厳しい声が突き刺さる。

 アメリアがはっと顔を上げると、構えられた弓矢が松明の炎に照らされていた。

 紫紺のローブを纏い、フードを目深に被った人間がアメリアを前と後ろから取り囲んでいる。気づかぬうちにアラネオと敵対する勢力ヴァローナの領地に足を踏み入れてしまっていたらしい。

 近づいたローブの人間の一人が、アメリアの腰を背後から捕らえ、武器を取り上げる。

 アメリアはゆっくりと両手を挙げた。

 心底面倒だ、と胸中で悪態をつきながら。


 ヴァローナの自警団たちは、アメリアに問いかけた。

「ヴァローナの地に何をしにきた?」

「何も」

「どうやってここまで来た?」

「歩いていたらたまたま」

「たまたま領地に侵入したと? そんなわけがあるか。なら何故あの場所を歩いていたというのだ?」

「散歩」

「散歩とは何の隠語だ?」

「…………」

 散歩の意味くらいは自分で調べてほしい。

「もう一度聞くぞ、アラネオの魔女。お前の目的は何だ?」

「強いて言うなら、目を覚ますことだった」

「目を覚ます? それは我々のか? 性懲りもなくヴァローナの魔女信仰に文句でもつけようというのか? 科学などという汚らわしいものを好むアラネオらしいことだな!」

「別に。どうでもいい」

「他の領地の魔女が直々に侵略しに来るだなんて、エンクラティアが始まって以来の一大事だ。いったい何を企んでいる?」

「…………」

「答えろ! 今すぐ殺したっていいんだぞ!」

「それは困る」

「ではお前の爪を一枚ずつ剥がし、骨を折り、その目玉抉り出してやろうか?」

「それも困る」

 アメリアが素直に答えてやると、何故かローブの男は顔を真っ赤にして怒った。

「じゃあ目的を吐け!」

 ──だから目を覚まそうと思って散歩していたら、たまたまヴァローナの領地に入ってしまったと言ってるだろうに。

 アメリアは同じことを答えようとはせず、じっと男の顔を見つめ返した。

 その静かな湖面のような瞳に、男がさらに激怒する姿が映る。

「これだからアラネオは良くない! あいつらなんて人間じゃない××××野郎ばかりだし科学とやらに×××されて×××××になってしまえばいい!」

 口汚くアラネオを罵り始めた男にも、アメリアは何も言い返さなかった。

 ──感情論者め。

 この男や周りの自警団のやり方は全くもって論理的ではない。

 彼らが信じるのは自身の領地の魔女だけなのだ。アメリアも怪物退治の度に顔を合わせる、あの物憂げな少女。彼女のみが彼らの全てである。

 対してアラネオはさっぱりしたものだった。

 アラネオの民は古代より存在する科学こそが人類を進歩させ、繁栄させると信じている。そのため世界の真実の探究に努める者が多く、論理的な思考と建設的な議論が良しとされる風潮があった。

 ──いったい何故、こうも違うのだろう。狭い都市の中にいて、歩くだけで領地を超えられる程度には近くにいるのに、考え方も生き方も異なる。これはエンクラティアの成り立ちに紐づいているのかもしれないな……

 自警団の男の罵りを聞き流しながら、アメリアはまた考えごとの渦に身を沈め始めた。

 だが、突如鳴り響いた鐘の音で事態は一変する。

「なに……?」

 アメリアは思わず顔を上げた。

「怪物だ、怪物が現れた」

 ローブの人間たちは一様に慌て惑い始める。

 どうやら鐘の音はクラッドが現れたことを意味するものらしい。

「魔女様の元に行って祈りを捧げなければ!」

「だがこのアラネオの魔女はどうする? 見張りがいなくなっては……」

 その時だった。

 硝子の割れる鋭く激しい音と、鉄柵が落ちる音が響き渡る。

 拘留所の天窓が割れた音だった。ガラ空きになったそこから、ドローンが二台舞い込んでくる。

「何だ!? 何事だ!」

「今、怪物が現れた……って言ったよね」

 ドローンはアメリアが繋がれた鎖を断ち切り、鉄格子をアームで掴む。アメリアが立ち上がり、両手を突き出し外側へ広げると、アームも呼応して鉄格子を押し広げていく。

 天窓を突き破ったドローンは、アメリアが都市に放っている偵察用機体であった。

 これまでは逃亡の機を図り大人しくしていたが、クラッドが現れたというのであればじっとしてはいられない。

「行かないと」

 アメリアの口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。

 アメリアは心躍っていた。捕らえられ罵られ、それでも動かなかった感情が、突き動かされるのを感じる。

 呆気に取られている自警団たちの前で、あっさりと鉄格子を開く。そして取り上げられていた武器を奪い返すと、アメリアは拘留所を飛び出した。

棒立ちになっているローブの男を押しのけ、塔の階段から外へと飛び出す。

 アメリアはドローンを操り、空を飛んだ。

 雲ひとつ無い青空を駆け、朝の空気で肺を満たす。ようやく目が覚めてきた。

 アメリアの心はすでにクラッドのことでいっぱいだった。アメリアが怪物退治に向かうのは決して正義感や使命感からなどではない。

自分の知的好奇心を満たしてくれる存在がそこにいる。世界の理を明かすという大望を叶えてくれる存在がわざわざ姿を現してくれている。それが全てであった。

早く怪物の元に辿り着きたい。早く、早く、早く……──

「ああ……」

 それを瞳に映した瞬間、アメリアは恍惚と目を細め微笑んだ。

「クラッド(研究対象)だ」


クラッドの討伐はリュコスの魔女・ミアの手により決着した。

アメリアの手柄……手に入ったシーラはほとんど無かったが、そんなことは関係がない。アメリアにとって本番は戦いの後。

がらがらと崩れ落ちたクラッドの亡骸を前に、アメリアは嬉々として採取を始めた。

ガラクタにしか見えない金属片を拾い集めながら、アメリアは思考を巡らせる。

「やはりパーツによって形が違えば役割も違う……これって怪物どもが生まれつき持つ性質なのか? それとも育つ過程で得ていくものなのか与えられるものなのか……生まれる、育つという概念が奴らに当てはまるのかも、わからないな……」

 途中、ヴァローナの魔女・ルーナが破片集めを手伝ってくれた。研究に協力してくれた彼女には礼をいい、ありがたく受け取った。

拘留所を破壊されたヴァローナの自警団たちが、やはりアメリアを殺しておけばよかった、と悪態づいているとは二人とも知らずに。

「さて。帰ってから忙しいぞ」

アメリアの中では、ヴァローナに捕らえられていたことなど、もうどうでもいいこととして処理されていた。

 腕いっぱいにクラッドの破片を抱え、残りはドローンに運ばせて、アメリアは壁内に戻った。そしてアラネオの地にある自身の研究室に向かい、地下へ、地下へと降りていく。

 青空から注ぐ陽の光には、背を向けて。

 そしてまた研究に没頭するのだ。眠ることもせず、休むこともせず、気を失うまで、好奇心の赴くままに研究をする。ずっと、ずっと、ずっと……──