2024.10.27 設立記念シンポジウムを開催しました!
今年4月、多摩市に立ち上げたグリーフサポートたまの設立記念シンポジウム(多摩市公民館と共催)が10月27日に開催されました。
当日はキャンセル待ちも出るほどの盛況ぶりで、東京大学名誉教授で当団体顧問の島薗進先生、ニューヨーク訪問看護サービスで長年ホスピス緩和ケアに従事されたご経験をお持ちの岡田圭先生によるご講演には終了後にも多くの質問が寄せられました。
会場には多摩市の阿部市長、また多摩市会議員も来場されるなど関心の高さが伺えました。
質疑応答についてご紹介します
シンポジウムで島薗先生、岡田先生に寄せられたご質問と、それに対するお返事をご紹介します。
島薗進先生
Q_身近にあるグリーフはとても多く、その方を少しでも支えてあげられたらと思いますが、なかなか声をかけるのが難しいです。どんな声をかけたら、どんな形で手を差し伸べたらいいか教えて下さい。
A_表出できないでいるグリーフが言葉にできるようになるのは、簡単ではないことが多いと思います。
支えてあげる可能性を生み出すには、複雑なことではなく、ともに過ごす時間をもち、気持ちの通いあいができるような機会をもつことが大事かと思います。
思いやりがそれとなく表れる何気ない語り合いが、相手の気持ちをほぐすことにつながるでしょう。
Q_友人が30代の息子さんを心の病で亡くしました。友人の背中をさすりながら「ふるさと」の「志を果たして」について考えています。息子さんは志を果たしたのでしょうか。
A_「志」を立派なこと、よいことを成し遂げた、あるいは成し遂げようとしていた何かというのではなく、その人ならではのこの世への贈り物があったというふうに考えてはいかがでしょうか。
亡くなった人の魂が望んでいたよき何か。苦悩を超えていく何かがあったのではないでしょうか。
その人なりの人生の歩みに尊いものがあったと思います。確かに自分が押し潰されるほどの辛さや過ちもあった。
しかし、それでもその人なりに大事なものを求めていた。そのことを認めてねぎらい、安らぎを願う。
またそのような人生から遺された者が得る恵みを思い起こす。こんな方向に心が向かうことができないものでしょうか。なかなかそうはなれないものと思いますが。
Q_先生は「死」をどのように捉えているのでしょうか?
A_「死」によって人は多くのものを失い、この世から切り離されていくように感じます。究極の孤独に落ち、消えいくという感覚は否定できず、恐怖ともなります。
ですが、人は無に帰すわけではない。その人の生きた軌跡があり、交わりは死後も続いていきます。感じたり、考えたり、何かを行動したりするわけではないのですが、遺された者たちのなかに生きていくと言えます。
また、生きてきた間にこうむらざるをえなかった苦しみや悩みから解放され安らぎに向かうことでもあり、大いなる恵みのなかで生きてきたことをあらためて思い起こすときでもあります。いのちは宇宙のすべてにつながっている、そこに戻っていくことだと考えることもできます。
ですので、いのちの源に還るとか、魂のふるさとに帰るということもできるでしょう。
Q_境遇が違い、お互いを知らない人とどのように「分かち合える」のでしょう。
A_人同士が交わりを持ちたいと思えば、そこに分かち合いの種が芽生えてくるのではないでしょうか。そのために挨拶をかわしたり、自己紹介をしたり、話題を共有しようとしたりします。
そのようにして、まずはわずかながらも「知り合い」になっていき、「通じ合う」ことによって温もりを感じ合い、心の重しになっているものがやわらぐと感じます。
これが「分かち合い」の始まりになると思います。ともに生きる者どうしと感じることが、生きる力になり癒しになると感じるので、ともに生きていることを感じ合い、分かち合おうとするのではないでしょうか。
Q_先生ご自身のセルフケアはどのようにされておられますか?
A_私の場合、仕事で考えていることが、自分自身を顧みることに通じています。とくに詩歌や物語にふれることがセルフケアになると思っています。
また、適度な交わりを大事にしています。交流でエネルギーをいただいているように感じます。他方、リラックスし、無心になる時間ももつようにしています。時間があるときは、水泳をし、からだと心をほぐすようにしています。
Q_悲しみや苦しみを抱える人に寄り添おうとする時、自分自身が傲慢ではないかと思う時があります。ケアする立場にいようとする者に必要なこととはどのようなことでしょうか。
A_自分にできることを「人を支える」というようなとても大きなことと考えると、かえって踏み込みすぎて相手を傷つけるようなことにもなりかねません。
ですので、自分のできることについて謙虚であり、現実を自分勝手に捉えてわかったなどと思わないことが必要です。よいことが見えてくるのを待つことが思いやりの重要な要素でしょう。
しかし、過度に神経質になる必要はなく、交わりのなかから生まれてくる恵みがありうるという希望ももっていてもよいのではないでしょうか。
岡田圭先生
Q_言葉を失い会話にならない時、どうしたら自分らしく落ち着いていられますか?
A_言葉を失うことを真剣に考え過ぎず、そうした瞬間も自然に起きることとして自分の出来不出来を意識せず、相手に何が起きているのか、それをどう体験し表現されるのか、その時から自分は何に気づけるのかに関心を寄せながら、あるがままに、相手のためにそこにいることだと思います。
Q_先生がホスピスで傾聴する際、「もうお手上げ!」という経験はありますか?
A_はい。目の前で家族が喧嘩している時に、そう思いました。しかしそれでも「(自分にできることは)もうない」という意味での「お手上げ」感ではなく、自分の知り得ない家族の歴史と、個々人に直面させられていることに反応の仕方や価値の置き方が違うことで、どう喧嘩になっているのか、それに対して私は何も解決してあげるなどということは、できないぞという、自分の解決力の限界に気づいた瞬間でした。
「何もできない」のではなくて、自分にも相手にも、解決など何も期待せずに、それでもその場に心込めて「いる」ことに集中することが重要なのだと思います。今目の前で起きていることが、ここからどう展開してゆくのか、そこに、双方の家族の方達がどこかで折り合いをつけられるのか、最後までつけられないのかも彼らの人生の物語の現れ方。私や私の医療チームにできることは、彼らがサービスを選んで受け続ける限り、旅路に同伴してゆくこと。何が大事になり、何を望み、そのために何が良いのか、できるのかなどを一緒に探究しながら。彼らの探究のほんのわずかでも後押ししながら。
Q_終末期の方と向き合い、見送るケアラーの心は、何によって保全されているのでしょうか。
A_「保全される」という意味をもう少しわかりたいのですが、終末期の方と向き合うということを、ケアラーがどう解釈するかによると思います。「命の悲しい喪失」「自分も恐くて、その恐怖心と折り合いのついていない死」という印象があれば、ケアラーは信頼する仲間たちと一緒に、静かな思いの中に、あるいは生死をめぐる詩人や作家たちの表現に多く触れてみるなどして、自分自身の死についての思いに向き合って、知らずと衝動的に圧倒されたり凍ってしまうことのない、人の自然としての死、人生という作品の大切な最終章、仕上げとしての死といった、自分にとっての落ちつきどころを見つけておくことだと思います。
それと、私の本の主題にもしました、人の意識や知識では知り得ない「いのち」への畏敬だと思います。人が操作しきれない、思うように丸め込めない、人の力を超えて人を生かし続けている不可思議で神秘な、神聖でもある命の現れ方への信頼、畏敬だろうと思うのです。
Q_死を目前にされている方に寄り添う時、何を一番大事にされていますか?
A_自著にも書きましたが、相手が何を必要としているか、それについて何も知らない自分が、わずかの経験知で向き合うという初心者の心で、その場に呼ばれて寄り添う機会に感謝しつつ、自己評価の意識は横に置いて、相手の置かれている状況と、それを本人がどう解釈し、どう体験し、何を望んでおられるのかを本人が安心して話せるような、心を包むような場を提供して、何が起きているのかを知らされるだけ理解しようとします。
Q_仏教ではこの世を「無常なるもの」という見方があります。先生の感じ方はいかがでしょうか。
A_「無常」つまり、すべてが変わり続ける「いのち」の根底に、変わらない「愛」「慈悲」「赦し」「恵み」がすべてを愛し、支えてくれていることを体験しています。
人がそのことに気づけていないだけ、自分の願いとは違う変化を恐れて、脅威から身を守るべく、脅威ではないものや目的を持って生かされている自分や他者、人間同士を傷つけているのだと見ています。
Q_先生ご自身のセルフケアはどのようにされておられますか?
A_自分自身の身体や心の正直な「声」に聞いて、最善の状態でいられるように、仲間や親友のように休ませるようにしています。
(無理をしていたことも多々ありました)
公園や自然の中を散歩したり、美術館に行ったり、音楽を聴いたり、映画を観たり、友人と会って良い時を過ごしたりします。
Q_悲しみの意味を考えた時、これだけ悲しいのは深い愛が存在したからだと納得する一方で、事故死や若くしての病死、またいじめによる自死などの場合、辛さが愛しさを上回るように思います。そうした場合の気持ちの持ち方について、何かヒントがあれば教えて下さい。
A_そのような悲劇が起きるこの物理的な、人の争いや失意などのある「この世」を離れた、亡くなった人の遺霊が、あなたの思いを心から感じて、あなたの心に心を寄せていることと思います。
そのような仕方で亡くならねばならなかった人に話しかけてみてください。その人の写真を飾って、その場所を、その人と話す場所のようにするのもいいかも知れません。
その人がいつも座っていた椅子を置いておいたり、使っていた器を手に取ったりして、過ごした時の中で思い出されることを、その人との出会いの物語を育てながら、その人に感謝を送るようにしてみてください。
Q_資料の中に「人と人との尊厳の交流」という言葉がありました。この言葉の持つ意味と、講義に用いた思いを教えていただきたく思います。
A_尊厳が個人の所有のように、死に方を固定した価値観で評価して決まるものではなく、残された遺族の物語によっても、亡くなった人の尊厳は進展し得るという、人間関係の中で生かされ、死を超えて新たに発見される価値や物語が、遺族の人たちの人生を後々まで影響するという側面の尊厳を、「交流」と表現しました。
これを覚えて、亡くなった人の死に方の評価を超えて、亡くなった人との失われていない関係を育んでゆくことが、その人への供養でもあるのかなと思います。
今後もシンポジウムやグリーフケアについての映画上映会などイベントの開催を予定しています。