先日、ある講座に参加して興味ある言葉に出会った。ゲニウス・ロキ[genius loci] という言葉である。
どうやら古代ローマ人が取り憑かれた観念で、ゲニウス(守護霊)とロキ(場所の)というラテン語が語源とのこと。 それぞれの場所にひそむ“地霊”の力のようなものをさしている。場所の安定性、土地の個性といった感じらしい 。
中村雄二郎は「ゲニウス・ロキは、それぞれの土地がもっている固有の雰囲気であり、歴史を背景にそれぞれの場所がもっている様相である」と説明した。講座では「積み重なった土地の記憶」という表現をしていた。
ZERO・SQUAREというコラムで日本橋の例を挙げたがまさしく「積み重なった土地の記憶」という観念が当てはまると感じた 。
開発には今まであったものを壊すというイメージがある 。新しくマンションが建ちそこに人々が住み始めるがほとんどの場合新住民は以前そこに何があったのか知らないでいる。そして風景がどんどん変化していく 。
このスピード、サイクルが激しく人々は翻弄され続ける社会の変化に伴い開発していくことは必要であるが やはり積み重なった土地の記憶を呼び起こすよりどころのようなホッとする場所を築いていく必要を感じる。
開発という行為は過去を破壊して行うものではなく過去を尊重して行われるべきだと感じる
日本橋と高速道路の問題で高速を地下化するより日本橋を移設しようという意見がある
私はこの意見には反対である。 ゲニウス・ロキという概念からすれば日本橋はその場所にあるから日本橋なのである 。ほかの場所に移せば博物館に展示された日本橋の模型と同じである。
文京区にある元町公園を移設する計画がある(2006/6時点) 元町公園は震災復興公園として設置された52箇所の小公園の一つである これらの小公園は学校とペアで配置されているのが大きな特徴で
狭い校庭に公園を隣接することで児童の体力づくりに役立ちまた地域に小学校をより認識させるといった狙いがあったように思う。
そしてこの元町公園は震災復興公園の中でも唯一開園当時の面影を残している公園で段差のある地形により園内にはカスケードや壁泉などがあり現存する他の復興公園に比べるとデザイン的にもかなりユニークな存在となっている 。
計画は公園を隣接地(小学校のある場所:学校は統廃合で廃校)に移設し大通りに面している元町公園に総合体育館を建てるということである。
この計画は総合体育館の具体案がなく公園の移設だけを先行させたいという区の説明に一部住民が難色を示しているらしい。(もっともだと思う)
私は単に公園を移せばいいだろうという考え方には疑問である。 かといって公園は絶対保存すべきだとも言い難い。 例えば総合体育館ロビーに元町公園のイメージ(カスケード、壁泉)をうまく取り入れそれが連続して背後のオープンスペース(公園)に繋がっていくような感じになればいいなと思う。
利用者が以前はこんな感じの公園がここにあったなあと思い出せる空間になってほしい。
単純に経済性と機能性を求め元町公園のイメージとは何の関連性もない体育館と公園が出来るのだけは避けたい。
この元町公園の角に何故か柱が立ちあがってその上に鷲(彫刻)がいる。
この鷲は何十年もこの「場」を見続けてきた
これからも見続られる場所にいて欲しいと願っている。
桂離宮は江戸時代初期に八条宮家智仁、智忠親子により造営された。
智仁親王は月見台と言うデッキを備える書院と呼ばれる建築を作る。その後智忠親王が庭園を整備し、庭園の随所に茶屋、寺院なども作った。
桂離宮と言うと、何か高貴で厳かなイメージを抱く人も多いと思うがここは宮家の作ったテーマパークではなかったのかと思ってる。
桂離宮のある場所は源氏物語にも出てくる月を愛でる名所であった。
そして当時月は最高のエンターテイメントであった。
月を愛でる事は上流階級の証でもあったと思われる。銀閣寺などは、月を愛でるための巨大な舞台装置だったとも言われている。
夜は月を愛で酒を飲み、昼は舟遊びをして茶屋で酒を飲みおしゃべりに興じる。
茶屋は茶室と違って縁台(テラス)でツマミやお酒など飲食しながらでおしゃべりを楽しむ場である。それに比べて茶室はもっと格式が高く厳かなイメージである。
桂離宮には茶室もあるが茶屋だけでは、ちょっとかっこがつかなかったから、後から茶室を作ったのではないだろうかなどと邪推している。
桂離宮は昭和に入りブルーノタウトと言うドイツ人によって評価され非常に有名になった。
ブルーノタウトは、ドイツのバウハウスと言う建築集団に影響を受け、モダン建築に非常に興味があった。
そんな彼が書院のモダンな造形と巧な空間演出が展開される庭園に惚れ込んだのだろう。
しかし桂離宮には朱色の大橋があったという説がある。外腰掛から松琴亭に向かう一直線の空間の先に大橋があったという事らしい。
桂離宮のイメージから考えるとこの朱色の大橋は場違いな感じを受けるがテーマパークだと考えれば派手な朱色の大橋はむしろ桂離宮のシンボルだったのかもしれない。
=====樹木と照明について======
最近の樹木は照明やライトアップ、電飾ブームで夜もなかなか寝かせてもらえないようである。ご存知のように植物は光合成をする。光、水、二酸化炭素から酸素とでんぶんをつくるわけである
しかしこれは昼間の話である。夜は人間のように酸素を吸って二酸化炭素を放出して呼吸をしているのである。(厳密には呼吸は常に行い、明るいときは光合成も行う)
昼間一生懸命働き、夜は休んでいるわけであるがそれを夜遅くまで(場所によっては朝まで)葉を煌々と照らせれているという環境は寝かせて貰えず働き続けているようなものである。
晩秋に街路灯近くの落葉樹が常緑樹かと思うほど青々としている時がある、また街路樹の照明器具側の葉にまだ青味が残り、反対側は落葉していたりという状態をなどもよく見かける。これにより樹木がすぐ枯れてしまうという例は少ないと思うがボディ-ブローのように叙叙にダメージを与え、寿命を縮めているのではないだろうか。
葉の裏に強い光があたるライトアップは自然界にはない光で樹木への悪影響が懸念される。ライトアップでなくても根元まで明るい色調の舗装材に囲まれたような環境では枯れてしまうなど照り返しに弱い樹木は多い。(モミノキなど)。
樹木のライトアップは比較的安易に照明効果が得られるのでよく見受けるが少なくとも葉のある時期の樹木のライトアップには注意が必要である。
クリスマスの時期になると電飾が華やかになる。電飾も幹、枝に電球を多数点灯させるわけであるから樹木に良いとは思えない。
ただ落葉期のケヤキなどは休眠期であるので常緑樹に電飾するよりは影響は少ないのかもしれながモミノキは常緑樹であるがクリスマスの主役なのでこの電飾のターゲットになりやすい。ただ前述したケヤキのような休眠期ではないので影響は大きいと思える。
どうしても電飾するときは期間を短く限定してかつ点灯時間もなるべく短くしたいものである。
=====景観から風景へ======
景観と風景という言葉がある
どちらも同じ意味と解釈されがちであるが考えてみるとニュアンスに違いを感じる 。これは私見であるが景観という言葉にはあるルールに基づいた視覚のみで捉える空間といったイメージがある。ルールを権力という言葉に置き換えることもできそうである
景観というのは眺めであるので統一された景観、美しい景観を築くということはそれだけ広大な空間(土地)を支配しているという権力の象徴であると考えることもできる
美しい景観というと言葉を街並でイメージすると形、色がコントロールされ自然と調和した景観などが考えられる 。例えば中世ヨーロッパや江戸の街並などがお手本になるようなイメージであろうか
その時代の街並は材料、技術の制約などから利用できる素材は限定されていたであろうしまた封建的な社会制度で制約もかなりあったと考えられ結果的に統一された美しい街並になりやすい。乱暴な言い方をすれば昔は景観などというものを特に意識しなくても自然と(あるいは強制的に)美しい景観が築かれていったのかも知れない。(その点現代は世界中から材料を集め高度な技術で好きなように建設できるので統一感がなくなるのは当然だといえる)難しいのはその景観を現代生活の中で維持していくことである。街並保存をする人々等の努力は大変であろう。 パリ市の景観条例にフュゾー規制というのがある定められたポイントからの歴史的景観を損なう建築物を建てることを禁止する条例であるが市の条例のため市外にある建築物には当然適用されない。 景観という範囲は広く行政区とは無関係であり景観保護の難しさを感じる。
風景という言葉には空間を五感で感じ生きたものとして扱っているイメージがある
多少言葉遊びになるが殺風景という言葉は風景を殺すと書くわけでこれは風景を生き物と捉えているからであろう。 人々の生活の中で風景は作られていくといったイメージである 。
ナポリ旧市街の細い街路に洗濯物がひらめいている状態は景観としては美しくないが風景としては美しいと感じる人もいるし電柱が林立する街並は景観としては美しくないが生活観を感じる風景として好まれる場合もある
景観保存というのはある時代に完成された景観の中に他の時代の景観が入り込むことを拒否することであるが 現実的にむずかしい場合が多い。
景観を保存するという考え方に偏るのではなく「生活と共存した生きた景観=風景」に変換していく考え方も必要だと感じている 。昔の景観に現代の景観を重ねて新しい風景を作っていくのである。
この仕事は非常に難しいかもしれないがこれからのランドスケープアーキテクトの一つの分野だと思う
日本橋の上を通る高速道路を地下に移設する構想がある費用は数千億円以上かかるらしい。
日本橋の景観を復活させる目的らしいが(正確には日本橋から青空と水辺空間を取り戻しそれを起爆剤とした地域復興を目的としているらしい。)高速道路を移設することで日本橋の景観は復活するのであろうか 。高速を見えなくしても日本橋に背を向けたように立ちはだかるオフィスビルや商業ビルが目立つようになるだけのような気がする。確かに日本橋を江戸時代のテーマパークのようにしたいのであればその上に高速道路があるのは許されない。 しかし日本橋は江戸時代のテーマパークではない.現代の人々の生活が生き生きと繰り広げられている場である
江戸時代から明治大正時代の景観として今の日本橋をとらえるのであれば上を通る高速道路は昭和の高度経済成長の景観とみることができる。日本橋の上に高速を建設したのが間違いだという指摘はあるが建設当時は日本橋の上に建設することを選択したわけであれは景観上間違いだったから壊す(移設)というのはあまりにも暴力的な感じがする
ここで一つの提案をしたい 。
日本橋の中心には道路元標が埋め込まれているがこの元標を中心としたオベリスクを設置する 。あたかも日本橋と高速という積層する景観を突き刺す串のようなイメージである 。(オベリスクの語源には串という意味合いがある)
高速を走っている車にもここが日本橋だということをアピールできる(現状でも小さな灯具があるが高速を走っている人にはほとんどわからない) これにより二つの景観を道標という軸で風景として一体化させ、日本橋のシンボルにする そして日本橋の上は歩行者に開放し、恒久的な広場にする
オベリスクには太陽光の集積装置などを内蔵させ高速下の照明に活用し歩行者レベルは道路元票の博物館ブースとして整備する。また高速道路はルーフとなり日差しや雨から広場利用者を守ってくれる。広場にはベンチ、オープンカフェなどがあり、日本橋周辺の施設を繋ぎ合わせる核として機能させる
という提案である費用は数千億の1%未満でできるであろう
元票(0kmポスト)を中心にしたこの広場を「ZERO SQUARE」と名づけたい
後日追記
山口晃氏の個展で日本橋の高速道路の上に新たに巨大な太鼓橋として日本橋をかけ直した絵があり感心して見入ってしまった。
明治、大正の日本橋の上に昭和の高速道路があり、その上に平成の太鼓橋が重なっていく。これもまた風景の積層だと思う。
また山口氏は電柱は美のよりしろだとして電柱を飾り柱として表現した作品もあった。
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山口晃「美のよりしろ 十選 6---電柱」
絵を描く身からすると電柱は正に美のよりしろだ。点景として電柱を描く時、電線のはしらせ方ひとつで黄金比を表したり、心地よい律動を生んだりすることが出来る。なぜなら既にして絵画の要素の一つ「線」であるからだ。
電柱単体を見ても到る所に美が下りて来ている。・・・
高圧線の水平の広がりから引き下げ線の垂直の広がりに目を転じる時の、目の前の空間を改めて意識させられる開口感。優美に撓む接続線、それらを引き立てる碍子の艶やかな白(関西にある3連カットアウトは絶品)。各部の響きあいと空間への干渉。電柱を見ていると立華のエッセンスを思う事しばしだ。
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また下記のような記事もあった
「蓄積の思考を」
(H26/2/15日本経済新聞朝刊文化欄より抜粋)
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(建築評論家の)五十嵐(太郎)氏は「1964年の東京大会はゼロからものを作り上げたが、これからは蓄積していくという思考も必要」と話す。例えば、前回の五輪で日本橋の上空に掛けられた首都高速道路。当時、世界に日本の技術力を示し、未来の道路ともてはやされた。景観を損なうという理由で撤去を期待する声も上がっているが、「数十年で価値観をがらりと変え、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返していては重層的な都市にならない」。軽視されがちな高度経済成長期の建造物も「歴史的遺産」と見なす考え方もあるだろう。
首都高速道路の地下化案決定
(H30.5.23毎日新聞より)
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東京・日本橋の真上を高架で通る首都高速道路の地下化計画で、国土交通省と東京都、首都高速道路などでつくる検討会は22日、都心環状線を江戸橋ジャンクション(JCT)付近から地下化し、日本橋の直下を通過して既存の八重洲線トンネルに接続する案を決定した。江戸橋JCTからJR東京駅北側までの約1.2キロの区間が地下を通ることになる。
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案の決定であって事業化決定ではないことに望みを繋ぎたい。
田山花袋の随筆「日本橋付近」 は下記のような文章で始まる。
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日本橋附近は変ってしまったものだ。もはやあのあたりには昔のさまは見出せない。江戸時代はおろか明治時代の面影をもそこにはっきりと思い浮べることは困難だ。
あのさびた掘割の水にももはやあの並蔵の白さはうつらなかった。あれがあるために、あのきたない水も詩になったり絵になったりしたのに……。
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当時日本橋にあった魚河岸が移転になり、魅力がなくなった日本橋の風景を嘆いているようである。高速がなくなれば日本橋の風景が取り戻せるという事ではない
日本橋上で行われていたコンサート(2023/4/2)の写真をベースに0squareのイメージを描いて見ました。
江戸時代の埋立
鎌倉、室町時代に利根川は今の墨田区北部付近を河口としその南(江東区付近)は広大な湿地帯であった。河口の右岸には浅草寺があり浅草湊として交易の中心となってた。
浅草の西側にも広大な湿地帯(千束池、姫が池)があり浅草は孤島状態で高潮の被害も多かったと考えられる
また今の八重洲、丸の内、日本橋、京橋、新橋、築地当たりは日比谷入江と呼ばれる海だった(日比谷の云われは海苔をとるためのヒビからきていると言われている)
ようするに江戸は広大な湿地帯の一部に台地が掌上に食い込んだような地域であったということである。
環境面から考えると多様な動植物の楽園であったと想像できる
ここに家康がやってきて大規模な都市造成を行ったのである
この時代にラムサール条約があったらとても開発ができなかったであろう。
まず日比谷入江の埋立を行う
また1594年から60年間かけて度重なる氾濫を起こす乱暴者の坂東太郎(利根川)を銚子に方向転換させる(利根川東遷時業)
同時に水路確保のため小名木川(現江東区)、新川を開削して物流を確保しその土で小名木川北部の埋立を行った。
江戸の人口が集中してくると1596年ごろから小名木川の南部埋立を行う。
市中のゴミは屋敷、空き地、川などに投棄していたがゴミ処理令(1655)により市中のゴミは永代島に投棄することを義務づけ、1681年には永代島新田、砂村新田(現江東区内)を指定している。以後現代にいたるまでこの地域は市民のゴミ捨て場となるのである。
振袖大火(1657)の被害から小名木川北部に竪川、大横川を開削して新たな街づくりを行い城下に密集していた武家屋敷を分散させた。これにより江東地区は農業、漁業中心から市街地へと変貌していった。
1764-1771には平井新田の埋立が行われ江戸の河口に残された最後の干潟がなくなり海岸線はほぼ直線上となったのである。
同様に現江戸川区付近も埋立が行われた。
通常埋立は農地確保のために行われるが、江戸の場合は増大する人口のための居住地確保と家庭ゴミの処理場確保のためという特徴がある。
そしてこの埋立は現在でも続けられ今東京湾には「海の森」が生まれつつある
下図は現在の東京の高低差を表現したものだが
図の青系のエリアはかつて湿原または海であったと想像できる
(東京湾の埋立地部分も海)
浅草が孤島状態、日比谷入り江などもイメージできる
久々に東照宮に行き見ざる聞かざる言わざる、日暮門、眠り猫、泣き龍など超有名なスポットを見て回ったが豪華絢爛なイメージの中にも何か庶民的な分かりやすさが楽しい。泣き龍も厳格というよりアニメ的な雰囲気を感じた。一番面白かったのが主柱の控柱役を務めていた狛犬?であった。まるで柱にマーキングしているようである。
すごさを感じたのは奥宮の石段だ。石段の脇壁の石積が非常に美しい。石積の美しさと真っすぐ伸びる杉木立が緊張感を生み出して上へ上へいざなうのだ。石柵も柱、手すりを一つの石から削って作りだしたらしい。すごすぎる!
「楽しさ」と「緊張感」が徳川時代のキーワードなのか....
我々は閃光の時代に生きている
それは化石エネルギー消費時代である
この化石エネルギーは有限であり今のままの消費を続ければ100-200年で枯渇することになる
化石エネルギー時代を19~22世紀の400年間とすれば
地球規模のタイムスケールで考えるとほんの一瞬の出来事となる
この一瞬の閃光のようなエネルギーを利用して人類は爆発的に人口を増やし、生活を劇的に変えた
問題はこのエネルギーバブルのような状況からどのようにソフトランディングするかである
そのためにはまず化石エネルギー消費を低減することだ
そしてソフトランディングのための時間を稼ぎ、その間に代替エネルギーによる生活にシフトしていかなければならない
古代イースター島では森林の伐採により得たエネルギーで人口が増えたが全ての森林を使い切ったとき
次に起こったことは部族間による悲惨な殺し合いであった。
化石エネルギーという閃光のようなエネルギーを使い切ったとき
ソフトランディングに失敗すれば世界は悲惨な状況になる
少子化が問題になっているがソフトランディングをするためには人口が減ることは望ましいことである
右肩上がりの成長ではなく右肩下がりの安定値への収束というパラダイムシフトなのだ
ガソリンが高騰しているが新しい税を導入してさらにコストアップしてでも化石エネルギー消費低減を強制的に行い
税収を代替エネルギー開発に当てるぐらいの荒療治が必要かもしれない
代替エネルギーとしては太陽、風力、水力、バイオマス、地熱などがある。これらを駆使し、
かつ省エネルギーをベースとした消費から循環型生活への質的変換が必要になるだろう。
バイオマスという分野においてはみどりが担う役割は大きいと考える
以前の里山が持っていた炭の生産という循環型エネルギー供給機能を現代版にアレンジした新・里山の創造が望まれる
すでにスウェーデンのベクショー市では1996年「化石燃料ゼロ宣言」を行い
木質バイオマスプラントにより電気、熱供給が大規模に行われているのである。
庭というのは作り込むものだと思われているが
反対に何もしない庭という発想もあると思う
雑草が生い茂る庭になってしまうが
その土地にどのような植物が育つのかを楽しむ庭
と考えればりっぱな庭である
何もしないといったが一つだけしなくてはいけない事は
そこに芽生えた植物の種類を調べることである。
これをしないと庭ではなくだたの雑草地になってしまう。
あるマンションのエントランスの写真である
出来たころは植栽地にタマリュウが多少植えてあったようだが
今はペンペングサやヒメオドリコソウ、ムラサキハナナなどの雑草で覆い尽くされていた
雑草ではあるが雰囲気よくまとまった印象を受けるは私だけであろうか。もしかしたら雑草が勝手に生えたように管理しているのかも!
クヌギ、コナラ、イヌシデ、クリなどの樹林の間に小池が無数に点在し、足元はコケで覆われている。
庭建築家、石上純也氏によるアートガーデンである。
樹林はこの地域の原風景である落葉樹林とコケ、池はその後人間により開拓された水田、これらの時間軸を融合した表現らしい。
樹木は隣接する宿泊施設用地(工事中)から間引きされたもので根鉢を大きく取り無剪定で移植されている。支柱もない。場内移植のため可能だったと思われる。
一見すると湿地帯にコナラ林が出現したようで自然景観としては違和感を感じる。
しかし「建築としての庭」としてとらえればこの不自然さが魅力的なのかもしれない。
水は小川から導かれ小池を満たし、下流に放流されている。(ポンプなどの人為的施設なない)小池は水中で連結されているため水面のレベルは一定になる。そのため庭全体もほぼフラットな形態となりより建築的に見えるのかもしれない。
今後は最小限の管理(4人の専属ガーデナー)で自然の推移に任せたいということなので5年後、10年後、20年後にどのような景観になっていくのか楽しみである。
=====校庭緑化について=======
校庭の芝生化が話題になっている
小中学校の校庭を緑化するのはヒートアイランドの緩和などに効果的で景観上も望ましいことであるが
芝生の緑化となるとハードルは高い。
転んでも痛くない芝生の校庭で思いっきり体を動かしてもらうという趣旨は理解できるが
Jリーグのような芝生のグランドを 造り、維持していくのはかなり難しい
そもそも日本(寒冷地を除く)のような夏の高温多湿な気候では常緑の芝(冬芝)の育成は難しく
一年中緑の芝をキープするとなれば
冬に冬芝(西洋芝)を撒布し、夏に夏芝に移行させるオーバーシーディングとよばれる
二毛作のような手法を使う場合が多い。
この作業を先生や生徒あるいは地域ボランティアだけで行うのは難しく
専門の業者のサポートが必要となるであろう。
生徒が芝生の管理を通してみどりへの親しみを持ってもらうという効果も期待したいところであるが
いきなりオーバーシーディングのような高度な芝生管理はレーシングカーで自動車教習を行うようなもので
親しみを持つ前に難しさばかりが印象に残り逆効果になりかねない
薬剤散布なども必要となり生徒が転がりまわることを想定すると疑問を感じる
さらに管理、養生のため校庭を一時利用できなくなり
生徒のための校庭か芝生のための校庭かわからないという本末転倒な状況になりかねない
冬は地上部が枯れても仕方ないということであればノシバ、コウライシバ、ティフトンなどの緑化になる。
冬芝を利用するより管理は楽だがそれでも校庭のような面積の芝生地を管理するのは大変なことである
そこで提案は「原っぱ校庭」だ
オオバコ、メヒシバ、オヒシバ、ノシバ、タンポポ、スズメノカタビラ、コニシキソウ、チドメグサ、ツメクサ、ホトケノザ、シロツメクサ
などの郷土種、帰化植物で緑化するのだ。管理は草刈(刈高5cm)のみ。
芝生のような均一化した校庭にはならないが運動は十分行える。
バッタや蝶やコオロギなども遊びにきてくれるだろう
西洋芝による高管理の緑化ではなく郷土に合った緑化をしていくのが本来の緑化教育の姿であると思う
========街路樹の話========
街路樹の歴史は古く奈良時代までさかのぼるようだ
当時は都大路に柳を植えたり、街道に果樹を植えていたらしい
その後室町時代には街道に一里塚が設置されるようになり江戸時代には全国に広められ、街道沿にも松、杉の並木が植えられた。
市街地の道路並木が植栽されたのは明治になってからと言われているが銀座の煉瓦通りでは歩道ではなく車道側に植えられておりまた樹種も統一ではなく多様な樹木が列植された。
現代の街路樹は非常に厳しい環境の中で必死に生きている。電線に当たりそうな枝、信号が見えにくくなるような枝は容赦無く切り落とされ、管理費用の節約による強剪定で丸太のようにされてしまう。歩道の舗装材を破壊する悪者にされたり、毛虫等のクレームの標的にされる、また街路灯の灯りや電飾で夜も寝かせてもらえない。そして常に排気ガスにさらされる。看板などが巻きつけられたりすることもある。車の出入の邪魔であれば伐採される。落ち葉は嫌われ、イチョウなどは車のスリップの原因になると非難される。常緑樹であれば日当たりが悪くなると攻撃される。根は猫の額ほどの狭い植栽桝に押し込まれ、十分な水分、養分も吸収できない。最近は除草対策の為か植栽桝を透水性の舗装で固めているものもあるがそのうち目詰まりして透水機能が失われてしまうであろう。
こんな状態では健全な生育など望めるはずもなくただひたすら耐え偲ぶように生きているのだ。
先日(2014・2・17)家の前で耐え偲ぶように生きてきた街路樹(プラタナス)が伐採された。生育不良のため撤去しますといった表示が近くの街路樹に貼られていたので私はその木だけが伐採されるのかと思っていたら沿道のすべてのプラタナスが伐採されてしまったのである。せめて沿道の住宅等にはちらしでも配布すべきだと思う。この木は夏場西日を遮ってほどよい緑陰を窓辺に作り出してくれていたので非常に残念である。
幼い頃から植えられていた思い出深い街路樹だったので伐採している業者の方にお願いして幹を長さ60cm程度にカットして譲ってもらった。目通りは70cm程度、プラタナス特有の樹肌の模様が美しい。年輪を見ると植栽時目通り20cm内外とすればその後50年以上経過していると思える。植えた頃は年輪の幅も2-3mm程度あるが最近のは1mmにも満たない。かなりきびしい生育状態であったことが想像できる。
管理者に問い合わせてみるとモッコクに植え変えるとの返答があった。モッコクは常緑で大木にはなりにくいので管理上は都合がよいのであろうが季節感は乏しく、成長しても西日を遮るほどの緑量は期待できないのである。
都は街路樹倍増計画などを打ち出しているがプラタナスをモッコクに変更していたら本数は倍になっても春~秋の緑量は半分以下になってしまいそうである。
ちなみに平成23年の東京都内の街路樹は約70万5千本で内訳は以下のようになる。(カッコ内は平成18年の本数)
イチョウ:62(63)千本
ハナミズキ:60(57)千本
サクラ(ソメイヨシノ):32(41)千本
トウカエデ:28(37)千本
スズカケノキ(プラタナス):23(36)千本
ケヤキ:22(30)千本
クスノキ:10(20)千本
マテバシイ:10(17)千本
その他:467(185)千本
平成18年と平成23年ではベスト8の樹種は同じであるが本数は減っている。しかしその他がかなり増えて全体の7割近く占めている。多様性という意味ではよいと思うが前述したように緑量の少ない(コンパクト)樹木の割合が多くなっているのであろうか?
管理上はコンパクトな樹木が有利で、樹木に負担をかける事も少なくなるのかもしれない。
冒頭で紹介した銀座煉瓦街の街路樹は今は高さ2mほどのイチイになっている。管理も容易で車道から看板なども見やすいと思うが私には街路樹というよりストリートファニチャーに見えてしまう。
この通りは電柱もなく歩道幅員も広いのでもっと緑量のある街路樹にして表参道のような日本を代表する緑豊かな通りになって欲しいと思うのだが。
明治の銀座通りの並木
先日、小石川後楽園で龍井竹之助氏の「庭園の復元」についての講演を拝聴した。
興味深い内容だったので私の感じたことを述べたい。
庭園を復元する時、重要なのは庭園が生き物であると言うとらえ方である。
庭園はできた時から日々変化していく。それは庭園の構成要素が生き物であることにもよるが、その時の庭園オーナーの趣味、嗜好、さらに自然災害や人的災害(戦争)などにも影響を受ける
大胆に言えば、同じ庭でも時代によって全く違う庭になっていたと言うことである。
そのため復元と言う時はその庭園のどの地点に復元するかと言うことが重要なポイントになってくる
しかし一般的に復元と言うとその庭園の過去の資料からある要素を再現していく場合が多いのではないだろうか。しかしそれはある時代の一片を再現したにだけであって庭園の再現とは言い難い。
そもそも刻々と変化した庭の復元などは不可能だと思う。
ここで庭園を復元と言う観点ではなく庭園をデザインすると言う観点で考えればもっと違ったアプローチが考えられる。
庭は「人」が祈り、思考し、楽しむのための装置である。それはその「人」がごく限られた人物だったかもしれないし一般大衆だったかもしれない
楽しむと言うことを観点からすればいわばテーマパーク的な要素がデザインベースになると思う
大名庭園などでは全国の名勝等の風景を真似してそのミニチュアのような景観を庭園に配しそれをめぐることで楽しみを得ていた。
銀閣寺や桂離宮などは月を愛で、楽しむための巨大装置であったとも言える。
そしてそのデザインは皆が協議し検討していく平均値のようなデザインではなく
1人のデザイナーによってデザインされるべきである。(龍居氏も主張しておられた。)
庭とはそういうものではないだろうか?そこに庭の価値がある。
「庭はわがままであるべきだ。」
我々が目指すのは復元ではなく、今の時代に求められる庭園のデザインではないだろうか?
しかし、それはガーデンではない。庭園である以上伝統技術の継承を前提にしたものであるべきだ。
言い換えれば「復元」とは過去の資料から一片を再現することではなく
現代のデザイン+伝統技術
と言えるのではないだろうか。
小石川後楽園
樹齢1000年などと言われると一つの生命が1000年間生き続けていると思われがちだが
樹木で実際に生きている部分の寿命は長くて数年である。
死んだ部分は木材として樹木を支える役割を担う
枯れ落ちた枝葉は肥料となり成長の糧になる
個体として命を引き継ぎながらその場で成長していくのが樹木である。
人間の場合は体全体の細胞が10年ほどで入れ替わると言われているが
細胞が更新されることで長くて100年ほどの命が継続されていく。
巨樹のように数百年以上存在する樹木は
前の時代の生き様に今の自分の生き様を蓄積させてその場に長年存在し続けている生きた地神のような存在なのだろう。
欧米の街などと比べると、日本は街中にちょっと休めるベンチがないことに気づきます。公園やショッピングモールなどの施設内に入ればベンチはありますが、一般の歩道にはほとんどベンチがありません。なぜでしょう。多分道路を管理する自治体がベンチと言う休憩施設を道路と言うする場の付属物として認めにくいのではないでしょうか。
高齢化社会の今道路を歩く人が休みたいという要望は多いと思います。自治体はベンチ設置となると予算や維持管理の問題が発生します
であれば歩道にベンチを置くことを許可制にして希望者がそこにベンチを置くのはどうでしょう。管理はベンチ所有者が行うと言うようなシステムができれば、広告等としてベンチを利用したい企業は多く存在すると思いますし、純粋に自分の街に寄与したいと言う人もいるだろうし、または芸術家気取りで自分のオリジナリティー溢れるベンチを置く人も出てきてまちベンチが街を彩ると思うのですが。
【提案書】
街路ベンチ自由化構想 〜誰もが設置し、誰もが休める歩道のために〜
■ 提案概要
本提案は、現在日本の街路(特に歩道)において著しく不足している「ちょっと休める場所=ベンチ」を、行政に代わって市民・企業・団体等が自発的に設置・維持できる制度の創設を目的とするものである。
ベンチを通じて、高齢化社会における移動の支援、都市空間の魅力向上、地域参加の活性化を実現する。
■ 問題意識
1. 日本の街路にはベンチが圧倒的に少ない
• 高齢者や体力に不安のある人が「歩き続けなければならない」
• 公園や商業施設内以外には、公共の休憩場所が乏しい
2. 行政による設置は財政・責任面で限界がある
• 設置・維持管理・事故対応などの責任が重く、自治体の財源に依存
3. 道路法の解釈が「通行主体」であり、滞留機能が軽視されてきた
• 結果として、歩道が「人にやさしい空間」として整備されていない
■ 提案の骨子
① ベンチ設置の制度自由化(許可制)
• 自治体が歩道空間における**「占用型ベンチ設置」制度**を創設
• 市民・企業・団体などが申請によりベンチを設置できる
• 所定の設置基準(安全性・通行妨害の回避・景観配慮)を満たすことを条件とする
② 管理責任は設置者に帰属
• 設置者が日常点検・簡易修繕を担うことで、行政負担を軽減
• 不具合・老朽化時の撤去義務も設ける(条例または協定で明文化)
③ 広告・ネームプレート設置を容認
• ベンチには企業広告・アーティスト名・個人の寄贈表示を許可
• 占用料・掲出料を徴収することで行政にも財政的メリット
④ 多様な担い手による共創型整備
担い手
役割例
地元企業
自社広告ベンチ、CSRとして地域貢献
市民・高齢者
寄贈ベンチ、記念ベンチ(例:還暦祝い、故人追悼)
アーティスト
オリジナルデザインベンチの設置
学校・福祉施設
地域活動としての制作・維持管理
■ 制度設計イメージ
• 管理主体:自治体(都市整備課・道路管理課等)
• 許可基準:構造・設置場所・通行幅確保・安全対策
• 管理形態:協定書または設置登録制度
• 制度名例:「まちなかベンチ登録制度」「歩道ベンチ設置協定」
■ 想定される効果
分野
効果
高齢社会対応
歩行困難者が「途中で休める」ことによる移動支援
地域福祉
居場所の創出、高齢者・障がい者にやさしいまち
都市の魅力向上
画一的空間から、多様で人間的な街並みへ
行政の効率化
公共インフラの維持負担を社会全体でシェア
市民の参加
まちづくりへの意識醸成、自己実現の機会
■ 導入ステップ(例)
1. モデル地区での社会実験(実証事業)
• 小規模に市民参加型で始動
• 成果・課題をフィードバック
2. ガイドライン策定・制度化
• 他自治体事例・海外の制度も参考に
3. デジタル連携
• ベンチの位置・設置者・利用ルールをアプリやマップで共有
■ 補足:制度に期待される市民像
• 寄与者型:「自分のまちに貢献したい」
• 表現者型:「アートで都市を飾りたい」
• 実利型:「広告や企業イメージアップに活用したい」
• 協働型:「学校や団体で管理・清掃をしたい」
おわりに
日本の街に「座れる場所」を取り戻すことは、単なるインフラ整備にとどまりません。
それは、人の動きと交流、まちへの愛着、都市の創造性を回復するための、小さくて大きな一歩です。
今こそ、公共空間の使い方を見直し、**“歩道を通路から人間の空間へ”**と再定義する時です
メガソーラーの景観が問題になっています。確かに山肌に輝くパネルが大規模に並んでいる景観は違和感を感じます。
また反射光が眩しく光害も問題になってます。
しかし、放置林を伐採し、メガソーラーを作る事は私は肯定的に考えています。なぜなら放置された杉植林等は、生態的に非常に貧相で植生価値はほぼありません。なおそれ以上は育たない状態で二酸化炭素の削減と言う意味でも期待できません。しかし大勢の人は緑を大切に、自然を大切にしようといった意見です。放置された植林などは全く自然ではありません。
そこで提案です。ソーラーパネルの設置角度を意図的に1、2度バラバラに設置すると、もしかしたら思いもかけない模様が浮かび上がるかもしれません。雲が見る人によって、いろいろな形に見えるように、あえてランダムにすることで、見る人によっていろいろな形に見える。見る場所によって違う形に見える。
光も拡拡散するので集中的にまぶしくなる事も低減できると思います。
現状ソーラーの設置は太陽光発電が最も有効な角度に設定しているので光の反射が単一になってしまうのです
±1〜2°の微小ずれだけなら、**日積算エネルギーでの損失は通常ごく小さい(概ね 0〜数%のレンジ)**と予想されます。
― 地形調和型・ランダム配置パネル方式 ―
日本各地でメガソーラー事業が拡大する一方、以下のような問題が指摘されている:
景観破壊:山肌に一様に並ぶパネルの人工的印象
環境負荷:造成工事による森林伐採・土砂災害リスク
光害(グレア):均一角度による反射光集中
地域反発:自然を損なう「異物」としての認識
現行の設置方式は「効率最優先」で、角度を均一に揃えることに固執しており、これが上記の副作用を助長している。
地形に沿った基礎設置
均一角度のための大規模造成を避け、地形の傾斜を活かす。
パネル角度のランダム配置
微妙に異なる角度をランダムに配置することで、
反射光を分散 → 光害低減
景観に偶然性・多様性を創出
トータルバランス重視
発電効率のわずかな低下を許容しつつ、
コスト削減(造成費用減)
環境負荷軽減(森林・土壌保全)
景観調和による地域受容性向上
を同時に実現。
国のガイドライン改訂
「均一角度=効率最優先」から「効率・環境・景観の総合評価」へ。
ランダム配置を許容・推奨する設計基準を策定。
補助制度の設計
環境保全や景観調和に配慮した設計を採用する事業者に対し、補助金や税優遇を与える。
地域住民参加型のデザイン検討
景観性を「ランドアート」として共創。
「見え方の多様性」を地域の文化資源として位置付ける。
経済的:造成工事削減による初期投資コスト低減。
環境的:森林・土壌保全、CO₂削減効果の最大化。
社会的:光害や景観問題の緩和、地域の合意形成促進。
文化的:偶然の模様が生み出す「自然と人の共創的景観」。AA
太陽光発電は温暖化対策の柱であると同時に、社会との調和が不可欠である。
「地形に沿ったランダム配置方式」は、効率一辺倒から成熟社会型エネルギー設計へ移行する象徴的アプローチとなり得る。
都市と野性動物
ニューヨークの摩天楼にはハヤブサが10数羽生息していることが確認されているらしい。
超高層ビル群がハヤブサの生息地である断崖絶壁の生活環境に似ているためだろう。本来は絶壁などの高い場所から低地にいる獲物を探し、急降下してしとめるのだが都市のハヤブサは超高層から地上にいるハト、ネズミなどを狙っていると思われる。東京も超高層ビルが林立している大手町付近でハヤブサが確認されるかもしれない。
都市に住む野性動物の中で野鳥というとカラス、ハト、スズメなどがすぐに思い浮かぶがオナガ、ヒヨドリ、ムクドリ、コウモリなどもよく見かける。水辺環境が近くにあればハクセイレイ、カワウ、アオサギ、カルガモやカワセミなども見ることができる。
人間が想像するよりはるかに野鳥は都市環境に順応しているようである。少し前まではオオタカは自然環境のシンボルで広大な自然がなければ生息できないと言われていたが皇居にもオオタカが生息し、日中は八王子あたりまで飛んでいくのが確認されたらしい。
しかし多くの野鳥が都市環境に順応できるのかといえばそうではなく、やはり大きなまとまった面積の自然緑地が必要な種もあるし、小さな緑地でも繋がるように点在していれば生育できる種もある
哺乳類ではイノシシ、サル、ハクビシンなどが街中に現れる事がある。ネズミ、ネコ(野良)は定番であるが野良犬はほとんど見かけなくなった
イノシシなどが都会に出没することはまずないが森と接しているような町中に出没する
最近はアーバンベアと言われ市街地に出没する熊の話題も多い。人命に関わるようなこともあり問題である。
昔は町ー里山ー深山という構成が維持されていて深山に住む野性動物は里山に降りてくるがそこで人間の気配を感じ警戒して町まで降りてくるこあはなかったと言われている今はこのクッション役であった里山がなくなり深山から降りてきた動物はいきなり町に出現してしまうという事が一因らしい。
野性動物ではないが最近ミツバチが話題である。大都市のど真ん中の銀座で養蜂をして蜜を採集している。ビー(蜂)ガーデンと称した屋上緑化が広まりつつある。
地球に住んでいるのは人間だけではない。上手に共存、住み分けをしたいものである。