銀 臺 遣 事

重賢の財政再建で毀された建造物

水前寺成趣園築庭350年のブログで説明したように,綱利が完成させた成趣園は50年後に重賢によって酔月亭を残して毀されてしまった.その事実は肥後国誌で確認できるが,重賢の治績についてまとめた銀臺遣事からの引用であり,もう一つ明確でない.そこで,原著の銀臺遣事を調べてみた.手書き資料を活字化した書籍が国会図書館デジタルコレクションに存在するが,現在閲覧できない状態である.いくつかの大学図書館でオンライン閲覧が可能であることが判明したので,Googleブックス経由で慶応大学図書館資料を入手した.

銀臺遣事(国立公文書館所蔵史料特別展より)

肥後国熊本藩主細川重賢(ほそかわしげかた,1720―85)の治績や言行を、同藩の藩校時習館の教授高本紫溟がまとめた書。寛政2年(1790)成立。書名は重賢が銀台侯と称されていたことに由来します。

重賢は、兄で熊本藩主の宗孝が延享4年(1747)に不慮の死を遂げたのち、急きょ部屋住みの身から家督を相続して熊本藩(54万石余)の主となりました。藩主として藩財政の再建に努めたほか、刑法典の整備や人材育成等の面で大きな治績を挙げた重賢は、また博物学に造詣の深い好学の殿さまとしても知られています。天明5年(1785)没。享年66歳。勤勉で質実な暮らしぶりと家臣や女性に対する細やかな気配り。本書を通して江戸時代中期の代表的な名君の姿がうかがえます。展示資料は、全4冊。

細川重賢の財政再建策を記述した部分は以下のとおりである.

一 此君土木の好み聊もましまさず、今其一ッニッをあげてしるす、領內なみ野といへるは、方六七里ばかりの萱野なり、むかしは筑紫野とて、武蔵野と、東西に名をならべたりなど、所の人はいひ傳へり、君の参勤には、いつも此野を行きかひ給ふに、しばし駕をとどめ給ふべき陰もなければにや、

笹倉といふあたりに、むかしより旅館をまうけたりけるを御覧じて、我身ひとつのために、民をわづらはして、此館をたてお かん事、恐れあるわざなり、道行きつかれたらんには、芝草の上にて事たりぬべしとて、宝暦四年(1754)、名殘なくときのぞけらる

國府の屋形南面に、三階に作りかさねたる樓ありて、遠望勝れてよかりしを、不用のものなりとて、同じ六年こぼたせらる、殊に國府(写本では熊府)より一里ばかりへだてて、水前寺村といふ所に、成趣園とて、致景勝れたる別荘あり、砌より清泉わき出て、やがて廣きわたりとなり、舟をもうかべたり、向には富士の形に芝山をつきなどして、當国の內にはたぐひなき所なり、君も此景趣をば殊にめで給ひ、政事のいとまには、常にこゝに遊び、参勤の道すがら、 他所の勝景を御覚じても、わが水前寺にはいかがあらんなどのたまはせしとぞ、かばかり執し思召せば、 こと所はいかにもありなん、ここばかりは、つくりもみががれぬべう覺えけるに、おもひの外、むかしよりありける廣き別館を、皆こぼたせただ醉月亭とて、 いささかなる亭のありけるをのみ残されたり、それも水のうへにをかしく作り出したる所をば、こぼたせられしかば、なみなみの人の心には、無下に淺間くぞ覺えける、

是につけておもひあはせたる事あり、 一とせ参勤の道に、江州醒ヶ井にやどらせ給ひけるに、 其宿いたく荒れて、 わびしき所なりければ、 大野満平といふ近侍のもの、今背の御宿のいぶせさよ、何とてかかる所には點しけんといふを、聞しめして、 さなおもひそ 總て人は衣食住の三ッさへたりぬれば、其上をねがふは皆おごりなり、衣は寒暑をしのぎ、食はうえをやめ、居所は雨露にぬれざる程にだにあればたれり、今宵の宿も、それには餘りあり、何かいぶせく思べき、兎にもかくにも、人はおごりを制すべきことわり、よくよく心得べしとさとし給ひき、 かかる御心にてましましければ、うべも峻宇彫牆の御好みなかりしなり、

笹倉茶屋

参勤交代(大津ー内牧ー久住ー野津原ー鶴崎ー大阪ー木曽路ー江戸)の途中で立ち寄る波野笹倉の旅館(休憩所?)は,その手前に内牧御茶屋や坂梨御茶屋があるので,無用と考えたのであろう.宝暦4年(1754)に名残なく解き除かれたと書かれている.

熊本城→大津(宿泊)→二重の峠→的石御茶屋(休息)→内牧(宿泊)坂梨御(休息)→滝室坂石畳波野笹倉→九重(宿泊)→野津原(宿泊)→鶴崎(宿泊)→→

坂梨で昼食をとった後,外輪山の坂道を登って峠を超え,波野を経て,久住へ向かって進むわけであるが,通過点の笹倉にある休息所(現在県境)は不用というわけである.自分ひとりのために民を煩わすことはできないとのことであるが,豊後側から見れば急坂の手前であり,休息所をつくった人達にはそれなりの理由があったのではないだろうか.

国道57号線における坂梨,笹倉間の峠の標高は792m

内牧ー九重間には阿蘇外輪山を越える必要があるため,石畳や御休所跡が残っている.県境の産山村に現存する弁天坂,境の松坂の石畳は,文化四年(1807)から四年間をかけて,久住手水の惣庄屋久住善兵衛のもとに,地元民によって造られた.笹倉の旅館(御茶屋?)を毀したのはその十数年前の話である.民に心配りした藩主へのお返しだったのではないかと思うのは考えすぎであろうか.坂の周辺には,御休所跡や茶沸場跡の標柱が設置されている.

波野笹倉の参勤交代道跡

国道57号線から分岐して県道216号に沿って進むと,2.5kmの地点で水恩碑,日吉神社があり.そこから上図点繊に沿って1km進むと弁天坂石畳や御休所跡,さらに進むと大分県境手前に境ノ松坂石畳がある.

国府屋形

水前寺成趣園から1里程離れたところに在った「国府の建物」を毀したのは宝暦6年(1756)である.国府の屋形(武家や公家の館)南面に三階に造り重ねた楼からの眺めは勝れていたが,「不用のもの」として毀されてしまった.国府という地名は現在も存在するが水前寺公園から400m程度であり,近すぎるきらいがある.歴代の国府の場所を調べてみたが,諸説あり判然としない.遺跡調査から二本木あたりを考える必要があるとの見解が有力である.注)15世紀初頭,鹿子木親員が築いた隈本城の位置は,現在の熊本城南隅の古城址である.

以下に追記あり

成趣園別館

成趣園については,昔より在ったお馴染みの広い別館はすべて毀され,酔月亭だけが残されたが水上に突出した趣のある部分は毀されて,非常に嘆かわしい状態になってしまった.

重賢は最低衣食住が整えばその以上は贅沢と言っているが,身を削って自ら見本を示さないといけないほど藩の財政は窮乏状態であったらしい.

永青文庫の屏風図に描かれている庭園の絵図は,重賢の取り壊しからずっと後の江戸末期になって描かれたものである.左側の絵図では成趣園の奥には熊本城,そのずっと先には金峰山の山なみが描かれている(絵師 杉谷行直・内尾栄一).その下に比較のため,最近天守閣最上階から撮影した金峰山の山並みの写真を示した.右側の絵図には,遠くに阿蘇山の噴煙が描かれている.左下隅の建物は酔月亭と思われる.

18世紀中頃,高い建物など存在しない時代,取り壊された3階建ての楼閣からの眺望は素晴らしいものであったはずである.水前寺庭園にオーバーラップさせて描いた成趣園の「広き別館」の絵図が見たいものである.

以下に追記あり

絵図の詳細は,美しき庭園画の世界 江戸絵画にみる現実の理想(静岡県立総合病院)のHPをご覧ください.

追記

国立国会図書館デジタルコレクションの蔵書,「偉人と其生活」(足立栗園 著,大正12)では以下のように記されている.

又,熊本城南に三層樓のあったも,無用なりとて之を廃し, 別墅(べっしょ,別邸)水前寺村の林勝を愛し,其の幽絶の裡に身体を休めた.而して其の別墅にも,亭榭(ていしゃ,あずまや)結搆(家屋などを組みたてること)の壮麗を極むるを見て,命じて之を毀たしめ,唯だ小亭のみを存して之に憩ふた.

国府に関する結論:国府は地名ではなく,熊本城の南側に存在したと考えられる政庁舎と見なすべきある.「銀台遺事」の別項で「山鹿は国府より,はるかにへだたりければ」と表現されていることからも,妥当と判断される.

成趣園の広い別館:小亭のみ残し,他は毀されたが,西南戦争で消失したので,当時の建物で現存するものは存在しない.

話題(建物の高さ制限 熊本市)

江戸時代に絵師が描いた水前寺庭中之園には遠くに阿蘇山が描かれている.熊本市は,景観を保持するため建物の高さを規制している.水前寺の高さの基準は古今伝授の間の前の視点場に立つ人の目と庭木先端を結ぶ線の内側に収まるように規定している.

参考資料

(2022.2.4)