玄察日記 最近の話題

渡邊玄察の手録を子孫が寄贈

肥後の中世史を勉強するのに,渡邊玄察日記(拾集物語)は有用な資料のひとつであることを以前紹介した.

渡辺玄察日記は,寛永9年(1632年)から元禄14年(1701年)に至る年録(年代記)であり,出来事で言えば,玄察が誕生した年は加藤忠廣(清正の息子)が参勤交代の途中で足止め,改易されて,代わって細川氏が入国した寛永9年(1632年)である.日記の最終年である元禄14年には,浅野内匠守の事件が記載されている.「13歳までの記録は父親に聞き知ったことを記した」と書いている.

その資料を所有している子孫の方が県立図書館に原本を寄贈された.熊本日日新聞の記事(2017.9.20)を引用させてもらったので,詳細は記事を見てほしい.第八代藩主細川斉茲が目を通したことが付記されているという.

肥後文献叢書の例言によると,寛政十年(1798)に焼失したため,全体像は不明とのことである.現在残っているのは7冊だけである.これらは国会図書館のデジタルコレクションの肥後文献叢書第4巻(明治43年)に収録されている.すべてが原本ではなく,一部は通行本(流布本)が校正に用いられている(参考資料の例言を参照).

・拾集昔語三巻 / 353 (0180.jp2)

・拾集物語二巻 / 433 (0220.jp2)

・拾集記一巻 / 480 (0244.jp2)

・渡辺玄察日記一巻 / 512 (0260.jp2)

・渡辺先祖以来今事記一巻 / 552 (0280.jp2)

・早川故事一巻 / 573 (0290.jp2)

拾集昔語に記載されている阿蘇家臣中村伯耆守惟冬

今回,中村惟冬の菩提樹である「一心行の大桜」について調べる際にも,渡辺玄察の著書の中の「拾集昔語ニ」を紐解いてみた.島津氏が肥後を平定する過程が書かれている部分に惟冬についての記載がある.

【拾集昔語二】 (八) 渡邊玄察著(デジタルコレクション肥後文献叢書第四巻の画像データを活字化したものがホームページ”こじょちゃんの玄察かぶれ”に掲載されている)

・・・・天正十二(1584)年三月,新納(忠元)武蔵守,梅北宮内少輔.鎌田寛栖,河上左京此四人を四將として,騎馬雑兵(ゾウヒョウ)三萬相良先陣にて,兵船數百艘宇土郡(コウ)の浦に着船,天(矢)﨑之城代阿蘇家臣中村伯耆守(惟冬)を討取,其勢宇土より益城の内,熊之庄,甲佐,中山,砥用,御船江(エ)手わけいたし,甲斐入道死後とても花(軍)戰可有之侯とて,右の四將衆覺の軍士手たれのものは御船(ミフネ)にて一戰をとけさせ侯はんとて,圍(カコ)ひ置被申侯處に,甲斐宗立一戰に不被及,御船の城を明け置,飯田山によぢのぼり使者を以て島津の手下に向後可罷成との降を乞被申侯由に侯・・・・

玄察の親の時代の出来事であるので,傳聞として書き留めているが,阿蘇氏の功臣である(玄察の縁続きである)甲斐宗運の存在性が大きく,ごく簡単に触れているだけである.

かなりの長寿と長い日記

玄察の誕生日は玄察日記に書かれているが,没年が分からないのでずっと気になっていた.改めて肥後文献叢書第四巻の例言を見ると,「正徳四年」の記載があった.寛永九年(1632)ー正徳四年(1714)というから,82歳の長寿(当時としては)である.日記は,寛永9年(1632年)から元禄14年(1701年)に至る年録(年代記)であり,1701年まで69年間書き続けたということになる.

毎年,「此年正月十八日より同廿日迄江戸大火事」,のように「此年」で始まり一年を振り返って,正月から師走までの出来事を順を追って記していることから,もともと毎日書いた日記が在って,それを年代記に纏めたのかもしれないと推測される.もしそうだとすると,日本で一,二位を争う記録である.単純比較はできないが,『日本最長の日記』は遠藤三郎(元陸軍中将)の日記で,11才から91才までの80年の記録という.

外国では, イギリスのJohn Gadd氏で,17才のときに書き始め,83才に至る66年間の記録がある.45才までは毎日ではなく飛び飛びに続けて,45才以降は毎日書いたという.

貴重な火山噴火情報源

寛文三年の普賢岳噴火について,玄察は日記に次のように書いている.

此年之十一月廿三日之夜寅卯の刻に高來温泉山動揺して翌朝煙見ゆる

これは明治後期に編纂された肥後文献叢書に記されているものである.国土交通省九州地方整備局が編集,公開した「日本の歴史上最大の火山災害 島原大変 寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊」の中で,寛文三年の噴火についても記載があるが,異なる解釈がなされている.

国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所(財)砂防フロンティア整備推進機構の資料(PDF版)4頁より引用

国交省の資料では,「高来」ではなく「音来たり」と解釈している.噴火時の轟音が有明海を越えて御船町まで到達したことになる.肥後文献叢書の活字は「高来雲仙岳」である.それで意味が通じるのは,雲仙は旧藩時代は南高来郡域に位置していたからである.

噴火の規模は異なるが,1707年(宝永4年)の富士山噴火では,噴火音は江戸まで聞こえたとのことである.

肥後文献叢書は明治後期に編纂されたものである.手録資料を活字化した際に,「高」と「音」の「くずし字」が類似しているため,「高」を採用した可能性がある.手筆の日記が寄贈されたとのことであり,確認が望まれる.

参考資料

肥後文献叢書第四巻例言に書かれている渡邊玄察著作の説明および収載されている資料目次

資料の赤枠部分

1.渡邊玄察物語は,渡邊玄察の手録せしもの,原 拾集昔語,拾集物語,拾集記,渡邊建長以来故事,早川故事と名く,其の玄察物語といへるは,後人の追題に係る.

玄察は寛永9年に生まれて,正徳4年に没せし人なり.其の家系来歴は,玄察暑中に詳なれば,今爰(ここ)には云わず.

本書原本は,玄察の後人渡邊光叔氏の家蔵にて,先祖以来今事記の末尾数條を除き,均しく玄察の手筆に係る.原巻数は詳かならざるも,寛政十年(1798)に焼失して,今は僅かに拾集昔語一,同三,拾集物語三,同五,拾集記,玄察日記,先祖以来今事記の7冊残れるのみ,本書上記の書巻は,一一原本に依りて校正し,拾集昔語ニ,及び早川故事は,並びに同家の原本,現存せざるを以て,通行本を以て之れを補ひたり.

思うに本書は,往々重複の処あり,未だ必らずしも定本たらず.又其の燼餘(じんよ,燃え残り),缺落せる處ありて,亦完校ならざるに似たり,然れども戦国時代の佚事(いつじ,細かな事)傳聞,亦本書に頼りて存するもの鮮しとせず,具眼の士,其の荒謬を芟(か,取り除く)りて,精處を採らば可なり.

追記

渡邊玄察  熊本県上益城郡早川(そうがわ)の厳島神社の神主

撮影日 2016年3月2日(熊本地震前)