3月の朝の空気は、まだ肌を刺すように冷たかった。「安芸ひろし」は、「鯉城県立鯉城中央高等学校」の制服に身を包み、緊張でこわばる手で受験票を握りしめていた。目指すは「鯉城大学」。だが彼にとって、この受験は単なるステップアップではなかった。
高校2年生のゴールデンウィーク。ひろしの人生は一瞬で暗転した。飲酒運転の逆走車に正面衝突され、運転していた父と、助手席の母を同時に失ったのだ。後部座席で一命を取り留めたひろしは、それ以来、天涯孤独の身となった。平日は放課後から22時まで、休日は14時から22時まで、物流会社の出荷作業のアルバイトに明け暮れた。時給1,250円、20時を過ぎれば夜間手当で1,500円になる。その汗の結晶をすべて生活費と学費に充て、孤独な「陰キャ」として息を潜めるように生きてきた。すべては、この大学受験のために。
「今日で、やっと前へ進める……」
鯉城大学へ続く大きな交差点。信号が青に変わり、ひろしが歩き出そうとしたその時、鋭い急ブレーキの音が響いた。視線の先には、呆然と立ち尽くす一人の少女がいた。白いブラウスに、鮮やかな紅葉柄のロングスカート。黒ストッキングに包まれた足は恐怖ですくみ、綺麗な紅葉色のポニーテールが小刻みに揺れている。
彼女へ向かって猛スピードで突っ込んでくるのは、一台の軽トラック。フロントガラス越しに見える運転手の顔は、真っ赤に泥酔していた。そのトラックには「のん太酒造」のロゴが印字されている。
(また……飲酒運転……!?)
ひろしの脳裏に、両親を奪ったあの日の光景がフラッシュバックした。身体が思考を追い越していた。ひろしは激しく地面を蹴り、少女の身体を突き飛ばした。
「危ないっ!!」
ドン、という凄まじい衝撃。身体が宙に浮き、コンクリートの冷たさを感じたのを最後に、ひろしの意識は深い闇へと沈んでいった。
・・・
事故から四年後、ひろしはゆっくりと瞼を開けた。視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井と、鼻を突く消毒液の臭い。「鯉城市立鯉城市民病院」のベッドの上だった。
「気が付きましたか!」
医師が駆け寄り、いくつかの検査を行う。ひろしは掠れた声で「僕は、どれくらい寝ていたんですか……?」と尋ねた。医師は痛ましそうな表情を浮かべ、静かに告げた。
「君が搬送されてから、4年の歳月が流れたんだ。今は2026年だよ」
「4年……? 受験は……?」混乱するひろしに、医師はさらに残酷な真実を告げなければならなかった。「あの事故で、君の足の神経は深刻なダメージを受けた。命が助かったのは奇跡だが……これからは車椅子での生活になる」
両親を奪われ、今度は自分の足まで奪われた。絶望で目の前が真っ暗になるひろしの耳に、病室のドアが勢いよく開く音が響いた。