湿ったカビの匂いと、積み上げられた参考書の山。それが「安芸ヒロ」の城だった。築40年のボロアパート「ひだまり荘」。建付けの悪い窓からは隙間風が入り、冬は凍え、夏は蒸す。
「……よし、今日のノルマ終了」
ヒロはシャープペンシルを置き、凝り固まった首を回した。模試の判定は常にA。学年1位の座は、入学以来一度も譲ったことがない。しかし、その輝かしい数字とは裏腹に、彼の日常は灰色だった。ボロアパートに住む、根暗なガリ勉。それが周囲の下す評価だ。
「……そろそろ、神頼みに行くか」
それが、彼の唯一の外出らしい外出だった。
向かった先は、近所にある「鯉城神社」。ヒロは拝殿の前で賽銭箱に5円玉を投げ入れ、深く頭を下げる。
(神様、どうか……今年こそ、僕に彼女ができますように。こんなボロアパートに住む僕でも、好きになってくれるような奇特な人がいれば……)
「またそのお願い? ヒロ君、神様も困っていると思うよ」
背後から鈴を転がすような声が聞こえた。振り返ると、そこには幼馴染の「鯉城 桜」が立っていた。巫女装束に身を包み、竹帚を抱えた彼女は、夕日に照らされてどこか幻想的に見える。
「うるさいな。僕にとっては死活問題なんだよ」「ふふ、学年1位の秀才様が、最後は神頼みなんて。でも、そういう一生懸命なところ、私は嫌いじゃないけどな」
桜はいたずらっぽく微笑むと、「掃除の続き、やってくるね」と言って、急な石段の方へと向かっていった。
数分後、ヒロが参拝を終えて石段を下りようとした、その時だった。
「――あっ!」
短い悲鳴。見上げると、最上段付近で清掃中だった桜が、濡れた落ち葉に足を滑らせていた。彼女の体が、宙に浮く。
「桜!」
思考よりも先に、体が動いた。ヒロは全速力で石段を駆け上がる。1段、2段……しかし、重力に引かれる彼女の速度の方が速い。
「危ない!」
ヒロは階段の途中で踏ん張り、落ちてくる桜の体を正面から受け止めた。ドォォン、という鈍い衝撃。背中が冷たい石段に叩きつけられ、右腕に経験したことのない激痛が走る。
「……っ……あああ……!」「ヒロ君!? ヒロ君、しっかりして!」
腕の中で震える桜の無事を確認し、ヒロは安堵の息を漏らした。だが、視界がチカチカと火花を散らす。右腕は妙な方向に曲がり、感覚が麻痺していた。
・・・
「……全治3ヶ月の複雑骨折ですね」
医者の淡々とした声が、病室に響く。ヒロの右腕は、肩から手首まで重々しいギプスで固められていた。
「ごめんね……私のせいで……。受験生なのに、大事な右手が……」
ベッドの傍らで、桜が顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。巫女服の袖は汚れ、解けた髪が痛々しい。ヒロは左手で後頭部を掻こうとして、自由が利かないことに気づき苦笑した。
「いいよ、桜が無事なら。……それにさ、左手は生きている。教科書はめくれるし、暗記ならいくらでもできる。成績が落ちる方が、骨を折るより怖いからね」
「そんな時にまで勉強の話!? ヒロ君のバカ……!」
桜はポロポロと涙をこぼしながら、ヒロの胸元に顔を埋めた。その温もりと、ほんのりと漂う線香の香りに、ヒロの心臓は右腕の痛み以上に激しく脈打っていた。
「……決めたわ。私、ヒロ君が治るまで、毎日お世話に行くから」「え? いや、ボロアパートだし、悪いよ」「ダメ! これは巫女としての、ううん、私個人としての『ご奉仕』なの!」
翌日から始まる、奇妙で甘い3ヶ月の共同生活。ヒロの灰色の日常に、桜色の春が紛れ込もうとしていた。