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もくじ
あと一人――――――――――――――長月州
「低く垂れ込めた分厚い雲が、その上にあるはずの青空と冷えた地面を頑なに隔てている。中堅電気メーカー、パナックスの技術部に所属する黒滝達也は豊田市郊外の工場を出た途端、冷気に圧されるように背を丸め、早足で駐車場に向かった。車に乗り込む寸前、背後に何かの気配を感じ振り返ると、茶色と黒の縞模様のキジトラ猫が、何かを訴えるように鋭く見つめていた。」
白線をなぞる――――――――――――若林明日香
「銀杏並木を通り抜けるとそこは朝だった。鼻先が冷たくて私は思わず指で鼻をなぞる。冬の匂いがする。一度大きく息を吸い込むと、鼻の中全部が冷たい空気で満たされた。私は手をこすり合わせ、息を吹きかける。まだ白くならない息が私の手を温めた。」
今日もどこかで誰かが――――――――打田真愛
「1.夕方五時半、水族館
夕方五時半。ここは外の光が届かない。青く、深く、ゆらゆら。忙しくしているサラリーマンも、気だるそうに歩く学生の姿もない。自信を持って言えるのは五時半。この瞬間だけだ。ある女性がやってくる。黒い艶やかなストレートヘア。腰まである髪の毛が上品に揺れる。薄暗い室内で、あの白いワンピースはよく目立つ。半袖姿を見て、ああ夏がやってきたのだな、とここで季節を感じる。」
夏の魔法――――――――――――――佐藤慎祐
「「でさ、中学のソイツ、アホだから乾燥大麻をクラスで見せびらかしたの」
「ふーん」
生返事をして、俺はスマホを手繰る。目の前には黒い一台の自転車が映る。
ギリシャの町中に、自分の自転車を置いて撮影した風景写真だ。白い石材の家を背景に、クロモリフレームのくたびれた自転車が、色とりどりの植木鉢の花に囲まれている。飛び込んでくる色彩が、脳を、感情を圧倒する。魔法のように、今、その場にいるように錯覚する。」
はやりもの―――――――――――――寺田雛子
「その時々、流行るものがある。
六十年前、ピアノのおけいこがはやった。
みんなが、ピアノを弾いてみた。
私も、ピアノを弾いてみた。」
死ぬくらいなら殺してほしい―――――可借朝
「これまで生きてきた十六年間。
これからわたしが生きるであろう数十年間。
みろく弥勒 かすか幽という一人の人間の人生において、恐らくは。この出会いが最初で最後の奇跡なのだろう。」
キャッシュクリアは価値である――――河邉 真由香
「公共の作業場として、コワーキングスペースが認知されて久しい。
コワーキングスペースとは、同じコミュニティに属さない赤の他人同士が一つのスペースに寄り集まり、それぞれ違う作業をできる場のことだ。
否、コワーキングスペースの考え方自体は昔からあったものだ。カフェなり図書館なりがその役割を担ってきただけで。」
『薔薇園』―――――――――――――michianri(ミチアンリ)
「第一文
『忘れ得ぬ』 〜永く薔薇であったあの人へ捧げる
あなたがどこにいようとも、そして、あなたの考えがどこに咲こうとも、わたしの眼は時空を超えて、あなたを見つめる。あなたの捜し求めるものが、美しい薔薇の人であっても、わたしはそれを静かに俯瞰しよう。あなたの追い求めるものが、哀しみの薔薇の極限であっても、わたしはともにそれを求めよう…」
心配性の飛び出し坊や―――――――次流鈴奴
「夕方。今日は久々に仕事が早く終わり、先輩が気をきかせてくれ、もう帰れそうだ。ボクは車を走らせ、少しばかりアクセルを強く踏む。早く帰って彼女を喜ばせてあげたい、そんな気持ちが車を加速させる。
早いからか車通りもなく、まだ日が落ちていないことも相まって、道路はこの上なく走りやすい。
そうだ、今日はボクが彼女に夕飯を振る舞うなんてどうだろう。」
愁う人――――――――――――――砂丘 宙海
「身体がだるい。頭がぼーっとする、何か考えようとすると胸がドキドキする。野坂鏡子は、天井をみつめたまま、じっとしていた。今日はいつもより辛くて長い。このまま息が止まれば楽になるのに、と思う。
オートバイの大きな音が響いて来る。今は何時頃だろうと思うが、頭が働かない。カーテンの隙間から入る光はオレンジ色に傾いていた。起きなきゃいけないと思うけれど、身体が思うように動かない。」
冷蔵庫の中で温める――――――――堀田明日香
「砕いたソーダ水の瓶が撒き散らされているみたいに、光っている。真夏の真昼の真ん中。駅前のロータリーのアスファルトは、多分、裸足で歩けないほど熱くなっているに違いない。」
もくじ
公園に住む人たち ------- 天仁 叡
序章
夏の間膨張した空気に、秋の冷気が鋭角に差し込んで来た。
「今日から秋が始まる」
平成一〇年九月中旬の或る日の出勤時に、天竺雅夫はそう感じた。
今日もどこかでだれかが2 ------- 打田真愛
2.夢のような
ブレスレットだ。ガラスでできたカラフルな粒が連なっている。薄いピンク、若葉のような緑、うっすら雲がかかった空みたいな水色。細かい金色のチェーンが綺麗だ、と言いたいけれど、この炎天下で見ると少し鬱陶しい。
『終わりのマリアに花束を』 -------蒼季 夏火
六三四メートルの地上高を誇る旧電波塔、スカイツリー。その頂に座する悪神『デウス=エクス=マキナ』こそ、僕達の敵であった。
その巨大な神は夜の天幕を背にして、眼球のない虚ろな頭部で荒廃した東京の街を見下ろしていた。逆三角形の胴体は黒い蜂の巣を寄せ集めた外観の外骨格に覆われており、その両端からは翼と皮を剥がれたコウモリよろしく骨組みを露出させた長い二対の腕が伸びている。油にまみれた鋼鉄の触手状の多脚は、かつての日本のシンボルを取り込んで我が物としていた。
暗闇の中で目をつぶる -------若林明日香
暗闇カフェと呼ばれる場所がある。その名の通り店内は真っ暗で、ほとんど光がない。だからメニューは存在していないし、お客も店員も誰一人お互いの顔を知らない。そういう場所。日本全国にいくつか存在する暗闇カフェの一つ、カフェノアール。僕はそこの常連だ。
高いビルとビルの間の半地下へ続く階段を降りた所にそれはある。真っ黒な木製の扉には白い大きな丸が描かれ、その中に二段に分けてカフェノアールとある。僕は慣れた手つきでドアを押すと、中に入った。奥ゆかしい鐘の音とともにドアが閉まる。するとそこには暗闇だけが広がっている。
「いらっしゃい」とマスターが渋い声で言った。僕はこの人の顔を見たことが無い。なにせ暗闇の中だから。
シンデレラ・ボーイズ-------佐藤 慎祐
春の空はここ数日の雨が嘘のような快晴で、駅前の家電量販店は長蛇の列が取り囲んでいるようだった。ようだったというのは、俺自身が列に並ぶ一人だから。後ろを振り返ると銀色の口を開く地下鉄駅の入り口の向こうにも、整列した人が続き、角を曲がってさらに伸びている。
憂う人2-------砂丘宙海
どんよりした空が、未来を見通せない野坂安江に、漠然とした不安を抱かせる。
追い打ちをかけるように、朝、元気に自転車に乗って出かけていった娘の鏡子が、昼前に戻ってきた。
「どおしたの?気分が悪くなっちゃったの?」と声をかけたが、振り切るようにして自室に閉じこもってしまった。声をかけ続けるのがいいか、そっとしておいた方がいいか、迷う。
左顧右眄-------朝乃雨音
遺書には人生に疲れ果てた旨が記されていたらしいが、その元本を私は読んでいない。
ただ、葬式で彼の妻がそのような事を言っていたような気がする。
親友が死んだのに“気がする”とはどういう事かと思う人もいるかも知れないが、正直、私は彼の葬式に行くかどうかも悩んでいた。
卵を壊す-------米津雛
遼子は白くたたずむ冷蔵庫に向かって、軽い色合いの天然木でフローリングされたキッチンに足を踏み入れた。
東側に大きめに作った窓から差し込む朝の光は、数時間前まで三月だったというのに、紛れもなく四月の眩しさだった。
最後にこんな時間にキッチンに入ったのはいつだったろう。遼子の勤め先である市役所に「こどもひかり課」が新設されることが決まり、その準備チームの課長補佐の辞令が下りたのがちょうど二年前の今日。最年少の三十六歳で市長になった小室市長の肝煎りで、子どもに関係する全ての業務を一元化するプロジェクトだった。
薔薇園』/第0章『ないしょの手紙』第一文『忘れ得ぬ花-------野村典成
第一文
『忘れ得ぬひと花』 ~永く薔薇であったあの人へ捧げる
あなたがどこにいようとも、そして、あなたの考えがどこに咲こうとも、わたしの眼は時空を超えて、あなたを見つめる。あなたの捜し求めるものが、美しい薔薇の人であっても、わたしはそれを静かに俯瞰しよう。あなたの追い求めるものが、哀しみの薔薇の極限であっても、わたしはともにそれを求めよう…
やじろべえ-------堀田明日香
か細く硬い、真っ直ぐな道を歩いています。正確に言うと縁石の上で、私は両手をやじろべえみたいに広げていました。落っこちないように、バランスを取りながら、息を潜めていたのかもしれません。
遠くまで見渡せる田植え前の田んぼに人風はなく、ひとりきりで家に帰る前の太陽が名残惜しそうに、水面をオレンジ色に染めています。水面が揺れて、冷たい水分を含んだ風が、私のもとへとやってきます。落っこちないようにと、私は両手に力を入れ、まっすぐに進んでいきます。
もくじ
その感情に名前をつけろ------佐藤 慎祐
クラスで三番目にかわいい女の子は、僕を探しに来たと言った。
「ここいいね。隠れ家みたい」
そういって彼女は、左手に持つ緑のパックの豆乳飲料をすすりながら、長い指をパイプ椅子の背に滑らせた。
靴下を履いたネコ-------若林明日香
靴下を履いてるみたい。それが第一印象だった。
高校の帰り道。いつも通る道のその途中。お寺の駐車場にそれはいた。
ネコ。
全身真っ黒だというのに後ろ足の先っぽだけ真っ白。まるで靴下だ。
「ねえ」
思わず声をかける。車一台が通れるくらいの道をはさんで私はこっち、ネコはあっち。返事はない。
ハッピーデス法------立道比菜子
「非常に切ない決断ではあります。」
テレビの画面の中で総理は目を瞑り役者のような顔で長いまつげを震わせた。そして、顔をあげ、今度は決然と「しかし、『ハッピーデス法』、この法案が成立すれば解決することのできない苦しみを抱える多くの方が救われます。自分の意思により、死を選ぶことが法的に許可されるのです。これにより、よりよい状態で人生を全うすることができます。決して弱い立場の方を切り捨てることが目的ではありません。」
家に、子タヌキがやって来た。------寺田雛子
真夏のある晩のこと、
マンション一階の我家のベランダに、
何だか小さな生き物が
迷い込んだ。
救済のフレーズ------河邉真由香
奈美は嘆く。
「遊びたい!」
私は答えた。
「デケー風呂行こう」
かくして八月十日午前一時、その日の二十時に奈美と落ち合うことが決まった。
公園社会 後半 *「公園に住む人たち」より改題------天仁叡
五
川崎さんや安城さん、鴇田さんの住まうブロックには一〇人強のホームレスが住んでいた。
その中の隈本さんとも、雅夫は親しくなった。
愁う人3------砂丘宙海
ナースエイドリーダーの杉江優衣は、自分が、何か悪いことを言ったり、したりしただろうか、と朝からの言動を思い返した。心当たりがない。野坂鏡子はなぜ、シーツ交換をする患者を前にして、突然『この患者さんのお世話はできません』と言って、仕事を放り出して、帰宅してしまったのか、全く見当がつかない。
『薔薇園』/第0 章『ないしょの手紙』第一文『忘れ得ぬ花』3------michianri(ミチアンリ)
第一文
『忘れ得ぬ花』 ~永く薔薇であったあの人へ捧げる
あなたがどこにいようとも、そして、あなたの考えがどこに咲こうとも、わたしの眼は時空を超えて、あなたを見つめる。あなたの捜し求めるものが、美しい薔薇のであっても、わたしはそれを静かに俯瞰しよう。あなたの追い求めるものが、哀しみの薔薇の極限であっても、わたしはともにそれを求めよう…
わたしのかみさま1------堀田明日香
夏の昼間、外ではゆらゆらと日差しが舞っている。バスの中ではその熱気が閉じ込められ、まるで誰かがそこに一つの異なる世界を作り上げたかのように、お香のような匂いと空気が漂っていた。
「昨日の流れ星が夜のふちをなぞるように落ちたのは、それはね、私が手繰ってたからなの」
終点のバスターミナルまであと、二駅。
目次
いつか青空に届くーーーーーーーーーー若林明日香
「ねえ、火持ってない?」
長かった夏が去りかけた十月のある日、ベランダで洗濯物を干しているとどこからか声が聞こえた。男の声だ。年は二十代後半くらいだろうか。
思わず周りを見回して、部屋には僕しかいないことを確かめる。
「こっちこっち」
まるで僕の行動が見えていたかのように声の主がそう言うと、今度は隣の部屋のベランダとの間に立っている仕切りを叩く音がした。トントン、と乾いた音がする。
危ない人だ、と僕はとっさに思う。幸い残っている洗濯物はバスタオルだけ。これを干したら、窓を閉めてしまおう。
父ーーーーーーーーーーmichianr i
父はわたしを愛してくれたのか、わからない。その形のない答えはいまとなっては霧に包まれた森のようで、そこを切り開くことは勇気のいることのように思えた。しかし、想いと夢が重なって、夜のわたしの頭のなかを占有するようになると、このことを、つまりヴェールに包まれた森の端に立つことをわたしに強いたのだ。
ほんとうは鮮明に記憶していることでも、想い出の抽斗の鍵をどこかに置いてきてしまって、無理に捜そうとはしない心理ってあるけれど、誰かがそれに気付かせようと、どういう力かわからないが、わたしの過去と未来を繋げようとしていた。だから、ここに父のことを語らねばならなかった。
アンモナイトの上でーーーーーーーーーー立道比菜子
「お知らせの時間になりました Rokuさんとアンモナイトの上で 向日葵七本」
玄理のスマホが軽やかなアラーム音と共にもう果たされることのない約束を告げた。
待ち合わせの時刻は夜の七時。
初めて会った時と同じ時刻だ。昼も夜もない暮らしをしている玄理は起きて約束の時間までに目的地に着けるようにアラームをかけるのが癖になっている。地下鉄二駅先の身支度を入れて三十分で着けるあの場所に行くのに五時にアラームを設定したのは途中で花屋に行くことを計算に入れたのだろう。半年前の自分は。
そんなことをぼんやり考えながら長い手足を不器用に操ってベッドから抜け出し、パジャマ代わりの黒のスエットの上に黒いパーカーだけを身に付けてマンションの部屋を出た。駅に向かう途中で素足にサンダル履きの足が固く冷たくなっているのに気付いたが、そのまま改札口に続く階段を下りる。
再起ーーーーーーーーーー海岸再度
暖房の効いた東山線の満員電車は茹だるようだ。億劫にコートを脱がないまま乗り込んだからよけいに暑い。
でも、私の顔は不快感にゆがむことはなかった。今日の面接は手応えがあった。長い再就職活動がやっと終わる。そんな予感がするからだ。
前の職場は、ヒマワリを擬人化したようなマスコットキャラクターが可愛らしい不動産会社だった。私はそのキャラが気に入って履歴書を送ったんだっけ。
しかし、いざ入ってみれば怒号と嫌味が飛び交うパワハラのオンパレードだった。給料は悪くなかった。でもそれだけで続けるには環境が最悪すぎた。
故郷ーーーーーーーーーー寺田雛子
私の故郷は、名古屋地下鉄東山線だ。
小さな時から、
この地下鉄で、
様々な人に出会った。
名前は、はっきり解らなくても、
少しの間、
一緒にいれば、
素性は解る。
ある時は、
酔っぱらいのおじさんが乗っていて
怖かった。
ひまわりの戦士たちーーーーーーーーーー佐藤慎祐
「――なに、ここ?」
おびえるミカちゃんの言葉に、隣で倒れていた俺は我に返った。
どこからから現われた植え込みの、その隙間から覗く。
Mの看板が輝く無人のハンバーガーショップや、人の消えた観光案内所に目を配りながら、すぐに周囲の匂いを嗅ぐ。それがミカちゃんのママに、ボディガードを任された俺の仕事だった。尻尾が毛筋一本まで逆立つのを感じる。
人が消えた代わりに、辺りを突然おおった植物の、くすぐったいような匂いが鼻に刺さる。 吸い込みすぎて、俺はくしゃみをした。まったく、俺は香りの強い花は苦手だ。なんだって、こいつらは犬に優しくないんだろう。
「ようこそ、記憶の庭へ」
声をかけられて振り返る。そこには匂いのしない、ウサギの着ぐるみが、俺たちの後ろに立っていた。俺はふと、こんなことになったきっかけを思い出していた。
たまたまーーーーーーーーーー河あかね
二度と会えないなら初めから会わなかった方がいい。そうだろうか? 一度でも会えれば素敵な人生の一コマにならないのだろうか? そんなことはない、こんなに自分をイラつかせる存在なら、初めから存在しなければいいのに。
二〇××年、七月の終わりに柊は初めて、大手予備校の門をくぐった。最近建て直したばかりとあって、新しい建物である。どのようなシステムかの説明は一通り聞いたのだが、いざ実行となるとわからない。受講証があり、それを教室の扉近くのセンサーにピッとやれば、出席したことになる。簡単なことだが、緊張と元からの不器用さのせいか、容易にセンサーが反応しない。後からくる受講者に順番を譲っているうちにずいぶん時間がたってしまった。 もう一度試そうとしたときに、ふと通ったのがショートボブの左半分紫色と右半分黄色に近い金色に髪を染め分けた生徒らしき男子だった。
サンリッチの呼び声ーーーーーーーーーー長月州
沈みゆく夕陽の最後の光が消えた。伊吹おろしが名古屋の街を吹き抜け、木々をざわめかせながら狭い路地を駆け抜けていく。幹線道路に出た途端、吹きつける突風が宅配車を激しく揺さぶった。守屋一樹の握るハンドルがびりびりと震え、まるで巨大な幼児に掴まれ弄ばれているかのようだ。
一樹は心拍が跳ね上がるのを感じ、すっと息を吸い込んで気持ちを静めた。手首のアップルウォッチに眼をやると、百近くまで上がった心拍がみるみるうちに下がり、平常の六十に戻っていく。
月は東に日は西にーーーーーーーーーー朝乃雨音
「あれ、ショーくん?」
街灯が照らす薄暗い道ですれ違った女性が私の名前を呼んだ。
ショーくん。覚えのあるその呼び方に私は目を丸くしてそちらを見た。
切長の目に薄い唇、短い茶髪を掻き分ける細い指にはシルバーの指輪が三つ光っている。
「もしかして・・・・・・カナさん?」
私の知る様とは似つかない彼女の姿に戸惑いながら、私は白い息と共に彼女の名前を口にした。
「そうそう! 久しぶりだね。何年振りかな。私が街を出て以来だから10年とか?」
そう言って笑う彼女の顔には昔の面影が残っており、懐かしさに私の口元も自然と綻ぶ。
「10年。そうか、もう10 年くらい経つかも知れないっすね。」
「だよね、懐かしいなぁ。変わってないから直ぐに分かったよ」と、彼女は声を弾ませる。
「そう言うカナさんは雰囲気変わりましたね。一瞬誰だか分かりませんでしたよ」
「あー、まあ色々あったのよ」
彼女は苦笑いしながらそう言った。
青い瞳ーーーーーーーーーーー天仁 叡
2026年2月6日
1 コンサートプログラム
大ゴッホ展 関連企画
鶴丸靖司リサイタル
2026年2月6日(金)
開場 18;30 開園19;00
松島台フォリア101号室襲撃事件ーーーーーーーーーー寺田雛
プロローグ
真理の父の務める北都銀行では、父の役員級昇格をさせないため、銀行内の反対勢力のグループが、真理の家に深夜、襲撃する計画を綿密に立てていました。父は、銀行内のこの動きを察知していました。けれど、あくまでも表沙汰にはされていませんでしたので、この計画が、いつ、実行に移されるかは解りませんでした。
「おれは、もう駄目だ。」
父は、銀行内の反対勢力が何かの形で、自宅に襲撃してくると覚悟していました。しかし、実際、夜に恐ろしい襲撃をしてきたのは、同じマンションに住む305号室の某中小企業社長でした。彼が、そんなことをするようになってしまった理由は、ただ一つ。音楽大学入試直前の真理のピアノの練習の音が毎日聞こえてくるのが、うるさくてたまらなくなったからです。で、つい、かっとなって常軌を逸し、101号室への夜の襲撃の行動に及びました。音楽大学受験直前のピアノの練習の音といっても、真理の場合、あくまでも音楽理論科の受験生でした。副科実技の、バッハの三声のシンフォニアから出題された課題曲3曲を、毎日練習していただけでした。毎日、1時間の練習でした。けれど、大学受験用にぴしっと弾くピアノの音がたまらなくうるさくて、松島台フォリア305室に住むその人は、夜に、101号室を襲てしまったのです。
愁う人4ーーーーーーーーーー砂丘宙海
玄関を入ると、かすかな芳香剤の香りと、母親が持ち込む布類の無機質な匂いが出迎えてくれた。嗅ぎなれた台所の空気が安心を誘う。野坂鏡子は、たった2日間病院にいただけなのに、家がとても懐かしいと思った。病院のナースエイドの勤務途中に、辛い気持ちに耐えきれず、帰宅してしまったことが間違いだったのだろうか。頭の中を整理しようと思って部屋に閉じこもった。これまでのことは取り戻せない。今後のことを考えよう、と思うと頭痛がひどくなり、繰り返し鎮痛剤を飲んだことはよく覚えている。辞めたくない、と思いながらも、退職願を書き終えた。イヤだけどしょうがない、と心に決着をつけると、身体がとろけるように無くなっていく感じがして、そのまま深い眠りに落ちたのだと思う。
救急車で運ばれたらしい。
病院での辛い治療は、これまで周囲を困らせたかもしれないことへの、罪滅ぼしだったような気がする。
わたしのかみさま2ーーーーーーーーーー堀田明日香
真っ赤なサンダルに足を入れ、ドアを開ける。夜の匂いがした。綾音と娘の瑠璃と二人で、夜中にコンビニへ行くことが夏休みの習慣になっている。
ウォーキングを兼ねて、駅前のコンビニまで二十分ほどかかる。瑠璃は中学生になってから、容姿を気にするようになった。遠くのコンビニまで歩いて、結局いつもアイスを買う。バス停のベンチでアイスを食べて帰るのが、いつものコースだ。
「今日も星が見える」
綾音の隣で瑠璃が空を見上げていた。つられるように、綾音も顎をぐいっと上げて空を見る。
「いつもの星の名前、結局調べないよね」
東の空に明るい星が一つ、いつも光っている。
住宅街の路地を歩いていると、人よりも、星のほうが多いことに気づく。
「知らないから、ワクワクすることってない?」
瑠璃は綾音の隣でそう言った。
西濃幻影-----佐伯正人
一 廃港
木曽川、長良川、揖斐川の三川が並行して伊勢湾に注ぐあたりは、養老山系も迫り、独特の地形を形作っている。そこから車で少し上がると視界が開けてきて、田園の間に集落が点在する様子を見ることができる。私がそうして堤防を走って行く時に、川幅が広くなった所にある川岸を、港、というより船着き場の跡でないかと考えた。河川敷もそこだけ石垣が組まれ、錆びた鉄骨が残っていたりして、いろいろ手が加わった跡があった。
ある泥濘の風景-----朝乃雨音
どうやら雨が降り出したようだ。
エアコンの音と重なって、カーテンで閉ざされた窓の向こう側からはばたばたと雫が地面を叩く音が聞こえてくる。
俺は雨が嫌いだった。
湿気や雨の持つ陰鬱な雰囲気、それはまだいい、頭痛がする、それもまだいい、それ以上の何か、それは雨を見ると彼女が死んだ五年前の事故の夜を思い出してしまうという物である。それはまさしく最悪な思い出であって、頭痛と共に甦るのだ。
苦しみは愛情に比例する。
すききらい-----大島未海
その古い外国の映画女優が描かれた付箋は、私がこだわって使っていたもので「素敵ですね」と褒められたことは、嬉しかった。いや。違う。嬉しくなかった、全然嬉しくなかった、不快でしかなかった、と記憶を変えようと思ったら多分変えられる。だけど、そんなことしたら、その付箋が、素敵じゃないってことになってしまう。それは付箋に申し訳ないけれど、別にたかが付箋なのだし、いいじゃないか。
踏まれた花びらの汚れは落ちない-----若林明日香
季節にはにおいがある。夏は生えたばかりの青い葉とプールの塩素のにおい、秋は落ちた葉と土と雨が混じったにおい、冬はストーブの灯油のにおい。そして春は新しい教室とクレパスのにおい。クレパスだなんて、もう高二になる僕にはなじみのないものなのに僕は毎年春になるたびにそのにおいをかいでいる。どこからしているのかまるで見当もつかないけれど、きっと小学校の一年生になった時の記憶が春になるたびに思い起こされるのだと思う。
おひさまとヤドカリ-----さいさち
浅瀬の水面はおひさまを力いっぱい受け止めてきらきら輝いていました。ヤドカリはつややかな貝殻に万華鏡のような水滴をまとって、どうってことのない一日を過ごしていました。ヤドカリはおひさまからのあたたかな日差しに満ち足りていました。ヤドカリはおひさまが大好きでした。ヤドカリはただヤドカリでいるだけでもう充分でした。
半分のカロン-----佐藤慎佑
「こころが軽くなった」
これから死のうとする彼女は、はっきりそういった。
掃除の行き届いた部屋で、僕に報酬の二万円を渡して、笑う。「カロンさんがいてくれて良かった」。
僕はあなたにも、誰にも死んで欲しくはないんだよ。舌が縫い付けられたように、その言葉が出てこなかった。死ぬことに幸せを感じている人に、第三者が何を言えるのだろうか。
謎の商店街で-----立道比菜子
マズい。
読めん。
『円頓寺商店街』
樹里ちゃんが「あっ、ここ来てみたかったんだ」と指差した先には木の看板に謎の文字が打ち付けられていた。
「僕、生まれも育ちも愛知県だから名古屋、詳しいんだ。案内するよ」
三河人のクセにそう見栄をはった金曜日の自分を呪いたい。いや、でもデートに誘えた自分はほめてやりたい。
きぬさん-----広野すばる
春
周りを見渡すと、なだらかな山々が広がっている。小学校は低い丘の上にあり、学校から山へは近く、山は子供達の遊び場にもなっている。
学校の帰り道の坂道を降りると、水田があり、水田を過ぎると、きぬたちの住む町に入る。きぬがあぜ道を歩いていると、弟のアキラがいじめられているのに出会った。アキラは体が小さくて動作も鈍くノロノロしている。
『薔薇園』/第0章『ないしょの手紙』第一文『忘れ得ぬ』4-----michianri
第一文
『忘れ得ぬ』 〜永く薔薇であったあの人へ捧げる
あなたがどこにいようとも、そして、あなたの考えがどこに咲こうとも、わたしの眼は時空を超えて、あなたを見つめる。あなたの捜し求めるものが、美しい薔薇の人であっても、わたしはそれを静かに俯瞰しよう。あなたの追い求めるものが、哀しみの薔薇の極限であっても、わたしはともにそれを求めよう…
愁う人5-----砂丘宙海
「ただいまあー」
「早かったね、ディケアもう終わったの? コンビニ?」
「そんなもんだったかもね。ほしいものがないコンビニだったよォー」
鏡子は早く自室でまったりしたかったが、母親が仕事場から出てきて、立ちはだかった。
「ディケアに参加しなかったの? それとも中座してきたの?」
「今は喋りたくない気持ち」
わたしのかみさま3-----堀田明日香
スイカみっつ分くらいの間を空けて、ユウイチロウの隣を歩いている。なぜ自分が誘われたのかもわからなかったが、断ることのできない紫雲のような空気が流れていた。
中学で一緒になり、たまたま同じクラスになったくらいの知人以上友人未満だ。中学生になって初めての夏休みを明日に控えた今日、家に遊びに来るよう誘われたのだ。
カズマは深く考えるのをやめた。考えたってどうしようもない。もうここまで来てしまった。
壺の中-----立道比菜子
麻子の心の中に壺がある。
「あのこと」が入ったその壺は普段は存在さえも忘れているのに、ふとした拍子に蓋を開けてしまう。
後ろ暗さと若干の甘やかな感情に噎せ返るので、すぐに蓋をしてしまうけれど、しばらくはその残り香に悩まされる。
壺に守られたその感情は芽生えた時のまま生々しく保存され、そして遠くにいるあの人もその感情を抱えたまま大人になっている筈だ。
光を買う。宇宙をつくる。 ----- 若林明日香
それは突然訪れた。音もなく、僕は暗闇に包まれた。
電気が切れたのだと理解するのに少しばかり時間が必要だった。
弱ったな、と僕は思った。このアパートに住み始めて三年が経つ。寿命かもしれないが、なにしろ替えの電球がない。もうすっかり夜中でスーパーも閉まっているだろう。
僕は諦めて布団を敷くと、電気のなかった時代の人に思いを馳せながら目を閉じた。
八草峠 ----- 佐伯正人
峠は、しばしば国の堺となる。それはまた、この世と彼岸との堺ともなる。
八草峠は、国道三百三号線で、岐阜県坂内村川上と、滋賀県木之本町金居原の境に在る。私がこれを新聞記事で知ったのは、長浜市に移り住んでから五年程してからだった。岐阜県側と滋賀県側の住人が、古くからの交流を祝う催し物があった、と小さな記事にあった。それにとりわけ興味を引かれたのは、当時私がその地で感じていた何とも言えない閉塞感のためだった。
僕らは棍棒でリレーする----- 佐藤 慎祐
「席、どうぞ」
新型のアルミ車両の地下鉄で、僕――十時 秀一(ととき しゅういち)は席を立った。群青色の、ふっくらした座席シートを、近くにいた八十代に見えるおばあさんに譲ろうとする。
でも、僕の小さな声は線路を走る車輪の音にかき消されて、届かなかった。いや、相手の耳が遠かったからに違いない。まごまごしているうちに、おまえには必要ないだろってくらい健康そうなサラリーマンに、席に座られてしまった。
居場所をなくした僕は、扉の前に移動して、収縮を繰り返す心臓を落ち着け始めた。長方形の窓は地下の闇で暗く、僕の顔をどうしようもなく映し出す。どうして、こんな簡単なこともうまくいかないんだろう。
ヴァニタス----- 朝乃雨音
教室の中で私がいつも思い浮かべるのは彼のジャンプだった。
驚くほどに高く、見惚れるほどに美しい〝パ〟のステップ。
小さな劇団のゲストで登場した彼が魅せたそのグラン・ジュテは、私を一瞬でバレエの世界に引き込んだ。
そして今なお、彼の姿は私の脳裏を焦がしている。
私はバーに手を置きながら鏡を見る。はぁ。
自分の姿を見て出るのはため息だった。
年を取るにつれて女らしくなっていく身体。肉は付きやすく関節は内に曲がる。
『薔薇園』 第0章
『ないしょの手紙』第一文 『忘れ得ぬ花』5 ----- michianri
あなたがどこにいようとも、そして、あなたの考えがどこに咲こうとも、わたしの眼は時空を超えて、あなたを見つめる。あなたの捜し求めるものが、美しい薔薇の人であっても、わたしはそれを静かに俯瞰しよう。あなたの追い求めるものが、哀しみの薔薇の極限であっても、わたしはともにそれを求めよう…
思考は風に溶けている?
もうずいぶんと永いあいだ、風はやまない。風が吹き続けるということは、あなたが存在しているということだ。
老老楽園の人々 ----- 砂丘 宙海
「私のごはんはまだあ?早くしてよ!」
「順番にしていますから、ちょっと待っててくださいね」
「ちょっと、ちょっとと言っていつまで待たせるのよ。あっちの人はもう食べ終わってるじゃないの。私の方へ早く持って来なさいよ」
「もうちょっとね」
律子はウェイトレスを呼びつけるように、介護士を呼び、自分を優先せよと要求する。
介護老人保健施設の朝食前後は戦争のようだ。
わたしのかみさま4 ----- 堀田明日香
シンヤが果てたとき、眉間にしわを寄せてわざとらしく綾音は舌打ちをした。
「キミさあ、もうちょっと我慢できない?」
二十歳のシンヤよりたった三歳年上なだけなのに、綾音は子ども扱いをする。大学のサークルで初めて会った二年前からそうだった。
ツンデレはシンヤの大好物だ。たまに見せる綾音のデレにシンヤは否応無しに痺れてしまう。シンヤの首に両手を絡ませ、眉間に皺をよせてくちびるを噛みしめて上目遣いをする綾音の姿もたまらない。からだをよじるたびに、不意打ちのように湧き出る綾音の体液と香水が混じった匂いが、シンヤの鼻腔で踊りはじめると、下っ腹のあたりがじんじんと疼く。
八月のダンジョン-----大島未海
妹から着信があったのは、冷蔵庫の古くなった卵をゴミ箱に思わず放り投げたときだった。 それはガシャリという音を立てて、形を崩した。僕は身構えるタイミングを失ったまま、通話をタップした。
「あ、もしもし」
妹とは十年以上会っていないし、連絡も取り合っていない。
「お兄ちゃん、お願いがあるんだけど。乃亜を少しの間預かってほしいの」
妹は一気に早口でいった。
かたわもの-----寺田雛子
僕は
右足が上がらなくなった
動かない右足をずって
びっこで歩く
以前は
カッコよく走った
でも
今は
右足が動かなくなって
びっこで
歩かなければならない
家族ごっこの意味を知れ-----佐藤慎祐
「マコト、そいつはおまえの兄弟だよ」
スマートフォンの向こうで、親父が邪気のない顔で話す様子を想像した。無性に何かを殴りたくなる。あーそうですか、そんな気がしましたよバカヤロウ。
机の上に郵便で届いた住民票が広がっている。世帯主の欄に山口 真という自分の名前があった。その下に、知らない名前が載っている。
桐山 誠。生年月日によると年齢は俺よりも四つ上だ。
気に入らないことに、続柄は『兄』となっていた。
スプリーン-----佐伯正人
かの地、雪と霧に閉ざされた東欧の山あいに、いまや人も寄りつかぬ朽ちた石造りの古城がある。その地下の、石畳が凍る冷ややかな広間に、若き王ミハイル・レオントヴィチは呪われた病と共にいた。齢未だ三十に満たぬはずが、肉は痩せこけ、顔色は灰のごとく、伸びた髪にも白髪が混じり、まるで死を前にした老人が衣をまとって座しているかのようであった。
TRILOGY・THE SPRING OF LIFE-----若林明日香
take1 となりのパンダさん
僕が初めてその人を見たのは、大学一年生になったばかりの四月のことだった。親元を離れ、初めての一人暮らしに僕は形のはっきりしない不安とそのくせどこか浮足立つような感覚とを抱いていた。大学には一人の知り合いもおらず、周囲がめいめいのグループに固まっていく中、僕は強烈な孤独にさいなまれていた。友達ってどうやって作るんだっけなどという、くだらないようでいて誰にも正しい答えが分からない問いを心の中で呟き続けた。
日本の伝統的な家族関係を守るために-----立道比菜子
「私たちは日本の伝統的な家族関係を守らなければなりません。選択的夫婦別姓はそれを壊すもの。そう考えております」
大河総理の低く韻を含んだ声が衆議院本会議場に心地よく響いた。
「夫婦が同姓にならなければ婚姻できない、これは、憲法第十三条の自己決定権として保障される『婚姻の自由』を不当に制限するものです。希望しないのに様々な事情からやむなく改姓を受け入れる人、改姓により仕事などの社会生活に不便を来している人がいます。また、婚姻を望みながら、改姓が制約となり法律上の婚姻を断念する人もいる。何よりも性別による改姓の偏りが九五%という比率。これは男女平等を阻むものであります!」
『薔薇園』第0章『ないしょの手紙』----- michianri(ミチアンリ)
第二文『拘束』 〜永く囚われの天使であったあの人へ捧げる
わたしはひとりの女を愛した。名前はという。もちろん他人が呼ぶ名前だったが、本名は誰も知らなかった。知らないでも愛し続けることができた。『誰も』知らないということは、わたし以外にも彼女を知っていて、そして彼女を愛する者がいた。ただ、梔子が誰を好んでいるか誰も知らなかった。彼女のあだ名の『くちなし』というのは、口がないというわけではなかったが、ほとんど話さないのでいつしか皆がそう呼ぶようになった。それに彼女は笑わなかった。
老老楽園の人々2-----砂丘宙海
2.朗々楽苑で働く人
介護職の夜勤はきついけれど人気がある。
一晩で1万円ちかくの夜勤手当は魅力だし、一勤務で2日分の仕事が終わるので得した気分になる。巷の人が眠っている間に仕事をするのは癪だが、見方を変えると、無駄に過ごす時間が多い夜に稼ぐのに余得を感じるのだ。
キンモクセイの香り-----堀田明日香
1
時が去って、過ぎ去っていくのを待っている。みたいな。玄関のドアを開けて一歩、踏み出すとフリーズした。ヤツがいた。ヤツが横たわっていた。
ワタシは自分の胸の表面上にわずかに湧いた哀れみを含んだ可笑しさに、腹がたった。けれど、それだけだった。
干からび始めたばかりらしく、胴体からこぼれ出た体液はまだ艶めいており、夏の日差しに向かって生の残り香を振りまいている。深い緑色の羽と力強い後ろ足には、焦げ茶色の筋のような不吉な模様が浮かび上がっている。触覚は今にも動きそうだし、少しの風で揺れたとしたら、まだヤツが生きているんじゃないかと容易にむしろ好意的に、誤解しそうだった。