2025 2.20 ホームページを開設
岩略城跡の見学ルートを紹介します。歩きにくい場所もあるので気をつけて見学してください。
動画を再生すると、岩略寺城跡の説明が始まります。ぜひ音声を聞きながら、それぞれの場所についてどのような場所か、当時の様子を想像しながら見学してください。
この動画は通し再生で音声が流れます。安全に配慮しながらお聞きください。なお、各場所それぞれで確認したい場合は以下の動画から再生してください。内容は通し再生動画と同じです。
堀切とは尾根伝いに侵入してくる敵を防御するために、尾根筋を断ち切った場所です。この駐車場も堀切として使われていました。ここは、宮路山方面から尾根筋を伝って侵入を試みる敵は、城内に入る前に、一旦、ここに留められます。すると、城内から一斉に矢が撃ち込まれ、敵は全滅です。
他にも堀切があるので探してみてください。
ここは南曲輪です。斜面を削ったり、土を盛ったりして平らにした場所のことです。曲輪には城内の兵士が待機し、攻めてくる敵を見下ろしながら攻撃を仕掛けることができます。兵士たちが待機する小屋や武器などを保管する倉庫があったと思われています。岩略寺城には、本曲輪をはじめ、大小20以上の曲輪が自然地形や高低差を生かしながら配置されています。
特に東海道を見下ろす北側を意識して曲輪を配置しているのが分かります。また、最後の砦である本曲輪には北側に向けてカーブを描くような曲輪がつけられていることが分かりますか。これは下から這い上がってくる敵に対して、左右から横矢をかけるための施設となっています。
ここは井戸です。岩略寺城には井戸が五箇所確認されています。山城に籠るには飲み水が必要です。岩略寺城の井戸は、水が湧き出ているようには見えないので、底に甕を置いて雨水などをためて使っていたと言われています。
ここは土塁です。曲輪や堀に付属して設けられた土手状の高まりで、侵入する敵を阻む目的で作られています。堀を掘った土を盛って作られることがあります。
本曲輪の北側には何段にも曲輪が配置されているので、手薄になっている南側にL字型の土塁が作られています。
この見事な切岸をご覧ください。曲輪の周囲を切り崩して作った人口の急斜面です。この急斜面とこの高さを敵が這い上がることはとてもできません。
これらは今から400年以上前の長沢の住民が人力で作ったんですよ。すごく大変な工事であったことが想像できますよね。
この崖の下は、武者隠しとなっています。尾根の先端の一部を堀で切り、先端部分に高まりを残すことで、下から上がってきた敵には堀の中に潜む兵士の姿は見えません。そして堀のすぐ近くまで登ってきた敵に対して、堀の中の兵士が横から槍や弓で攻撃を仕掛けます。
城の出入り口です。幅が狭く、門を構えて通行できる人数を制限し、敵の侵入を防ぎます。
ここに来るまでに、じぐざぐに上がってこなければならないような通路になっていることが分かりますか。敵が一挙に上がってこられないようにということと、側面から攻撃することができるように工夫されています。
いかがでしたか。長沢にはこの岩略寺城の他に、東海道を挟んだ北側に長沢城、もう少し岡崎寄りに登屋ヶ根城の3つの城跡があります。戦国時代には、一体として長沢の城と言われていたので、どの城のことを指しているのかは、当時の資料からは分かりません。
「誰のお城ですか。」と聞かれれば、おそらく、今川氏が西三河へ侵攻するために築き、それを松平氏が奪って、東三河への侵攻の足がかりとした城だといえます。その後、岩略寺城は、徳川家康が豊臣秀吉を 敵として意識して再整備したものの、家康が秀吉の家臣となったことで、長沢松平氏をはじめ、家康の家臣が関東に移ってしまい、そのまま忘れ去られてしまいました。しかし、そのおかげで、400年以上前の姿がほぼそのまま残っている貴重な城であるといえます
長沢小学校では、地域の人たちと協力してこの岩略寺城を多くの人に知ってもらうための活動を続けています。
指導・助言:豊川市教育委員会生涯学習課