■2026/10/18
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
「諸流ともに其極則(ごくそく)に及んでは一なり。流儀々々は其先覚の人の修練して、吾が入りよきと思ふ門戸より導くのみ。然れども其道すがらの風景を愛し、此(ここ)に住してみづから是とするもの多し。是を以て其末々の流儀多端にして、互いに是非を争ふと見えたり。其極則は是非の争ふべきことなし。其中途の風景は皆意識の間の見(けん)のみ。其大本は二つもなく三つもなし。別るる時は善悪あり邪正あり、剛柔あり長短あり、其末々に至っては論じ尽すべからず。」
以下、私見。
先生方のより、教えが様々に見えたりする。それは、経験が必然的にそれぞれであるため、教えも必然的にそれぞれにならざるを得ない。だが、様々に見えるものも、究極の原理原則は同一のものに収斂されているはずである。それは、翁先生が残されているものの中にあり、古からの教えの中にある。様々な先生方の教えから翁先生や古の教えを考察し、逆に、翁先生や古の教えから各先生の教えを考察するという多面的な考察によりその原理原則を探索する事が大切だと思う。先生方の教えを批判的に見る必要はない。原理原則に近づくための一つの試金石として、理解すれば良い。
■2026/9/22
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
同様に、天狗芸術論では、以下に心の持ち様が記載されている。
「私なきが故に心を累(わずら)はすことなく、終日事に労すれども、神を困しむることなし。命に委(ゆだ)ね、義に決して、うたがふことなく、惑うことなし。我心の誠を立て、一毫(いちごう)も志を曲ぐることなく、害を避けんが為に偽巧を用ひず、利を得んと欲して小知を事とせず、生は生に任せて其道をつくし、死は死に任せて其帰を安んず。天地変動すれども、此心をうばはるることなく、万物掩(おお)ひ来れども此心を乱さるることなく、思うて執滞(しったい)せず、為してたのむことなし。」
また、開祖は、合気道の修業の目的・目標を以下のように語っている。それを念頭に開祖の言われる「合気の使命・真の道」とは何かを探求するべく、上記の心の持ち様で以って、稽古に励みたいものである。
・合気神髄(植芝盛平翁 語録)より
「合気というものは、小戸の神業であって、禊である。禊そのものが武道で、これは誠をつくさなければならない。それだけに我々は、自分自身の身から清めていかなければならぬのである。そしてこの世を清めていく禊の段である。」
・・・ (中略)
「合気道の修業に志す人々は、心の眼を開いて合気によって神の至誠を実際に行うことである。この大なる合気の禊を感得して、実行して大宇宙にとどこおりなく動き、喜んで魂の鍛錬にかからなければならぬ。心ある人々は合気の声を聞いていただきたい。人を直すことではない。自己の心を直すことである。これが合気なのである。それはまた合気の使命であり、自己自身の使命でなければならぬ。」
・・・ (中略)
「合気道は、人に勝たんがためならず、争いに勝たんがためならず、闘わずして勝つにあらず。無抵抗主義にして、自己に与えられたる天の使命に、自己の使命が打ち勝つことである。その修業の初めにあたり、正勝、吾勝、勝速日の道程から、ありのままに天地の運化へ進むことである。自己の善、また、正しさを知り、善や正しさを知らんまで修業せねばならぬのである。」
・・・ (中略)
「この道に志し、この道を往く私たちは、天地の大愛を心とし、万有愛護を己れの使命となし、その使命をまっとうすることを真の道と心得て、修業せねばならないのであります。」
■2026/8/23
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
「勝負は応用の跡なり。我に此念(このねん)なければ形に此相(このそう)なし。相は念の影にして形にあらはるるものなり。形に相なければ向って敵すべきものなし。是を敵もなく我もなしといふ。我あれば敵あり。我なきが故に来る者の善悪邪正一念の微に至る迄、鑑(かがみ)にうつるが如し。我より是をうつすにはあらず。かれ来って移るのみ。成徳の人には邪を以って向ふことあたはざるがごとし。自然(じねん)の妙なり。若し我より是を移さんとせば、これ念なり。此念我を塞ぐが故に気滞って応用自在ならず。不測の妙用思はず為さずして、来往神のごとくなる者、是を剣術悟入(ごにゅう)の人といふ。」
以下、私見。
合気神髄(植芝盛平翁 語録)」にも以下の通り記載があり、そこには実際に生き死にの勝負の時代からの「武術(勝負)の心得」が脈々と引き継がれているのを確認する事ができる。戦中戦後の時代背景もあってか、開祖はそれを更に「世界人類の平和のため」にまで昇華して語られている。普段の稽古の中でそこまでは中々意識する事は難しいが、その精神性(※)を念頭に入れて、普段の稽古・鍛錬に取り組みたいものである。
※相手は敵ではない。対すれば相和す。相手は自分を磨く砥石である。生き死にに執着しない。(恐れない、逃げない、よけない、払わない)
・合気神髄(植芝盛平翁 語録)より
「植芝の合気道には敵がいないのだ。相手があり敵があって、それより強くなり、それを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いである。真の武道には相手もない。敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇通の中心に帰一することだ。合気道では強くなろう、相手を倒してやろうと練磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでももお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要なのである。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道なのである。私の武産の合気は宗教からでてきたのかというとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内である。私はいかなる時、どんなことを仕掛けられても平気である。生き死にの執着が全くない。このまま神様におまかせしているのです。剣をもって立つ時ばかりではなく、常に生きる死ぬの執着を絶ち、神様におまかせの心でなければならない。」
■2026/8/16
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
「生死の理はしりやすき所なれども、此(この)生にしばらくの名残のみ。これを迷心(めいしん)といふ。この迷心盲道(もうどう)する故に、神くるしんで常に大負(おおまけ)をとることをしらず。」
以下、私見。
上の一文は、合気神髄でも語られている「絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の『争う心』に打ち勝つことである。」に通じるものがあると理解している。生への捉われが、『争う心』のもとであり、よって、生死を二項対立(迷心の原因)したものでははく、一元的(アウフヘーベン)に捉えなおす必要があるかと認識している。その考えの土台(禅)には、「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。」(※1)があるのであろう。その実践として、「身心脱落(※2)、只管打座(※3)」があり、合気道の修行における心得として、前述したが、「合気道とは何か」で説明されているように、「自分も相手もなく、澄みきって全てが一体になっている状態」になるように、ただひたすら集中して稽古する事が重要と考える。
※1「一切衆生、悉有仏性」」:生も死も、有も無も、すべてに仏性(涅槃、悟り、迷いがない)がある。一元的(アウフヘーベン)に捉え直す糸口。
※2「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」:私の理解としては、あるがままの状態に委ねている状態。盛平翁視点だと、「天之叢雲九鬼サムハラ竜王」と精神的に一体となった状態と考える。(御心のままに委ねた状態。生きるのではなく、神に生かされてる。天命を知って天命(※4)に従っている状態。)
※3「得る所も、悟る所もなく、ただひたすら坐る」
※4 「合気神髄(植芝盛平翁 語録)」より:道歌「天地人和楽の道の合気道 大海原に生けるやまびこ」
この山彦の道がわかれば合気は卒業であります。(中略)この道を往く私たちは、天地の大愛を心とし、万有愛護を己れの使命となし、その使命をまっとうすることを真武の道と心得て、修行せねばならないのであります。
■2026/6/28
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
その「自得」について記載されているのが、以下の下りである。合気道稽古心得にある通り、「自己の不断の稽古に依り始めて体得し得る」という事である。
「彼多年此(この)芸術に志し、深く寝席(しんせき)を安んせず、気を練り事(わざ)を尽し、勝負の間において心猶(なお)いまだ開けず、憤懣(ふんまん)して年月を送る所へ、禅僧に逢うて生死(しょうじ)の理(り)を自得し、万法(ばんぽう)惟(ただ)心の所変(しょへん)なる所を聞いて、心たちまちに開け、神さだまり、たのむ所をはなれて此自在をなすものなり。これ多年気を修し事にこころみて、其器物(そのうつわもの)をなしたるものなり。一旦にして得るにはあらず。」
・・・ (中略)
「道は見るべからず、聞くべからず。其見るべく、聞くべきものは道の跡なり。其跡によって其跡無き所を悟る。是を自得といふ。学は自得にあらざれば用をなさず。」
■2026/6/27
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
前述と同じような事(自得)を語っている箇所は以下の通りである。
「彼の無心にして自然に応じ、往くに形なく、来るに跡なく、妙用不測(みょうようふそく)なる者は、身体の感通(かんつう)思ふて得べき所にあらず、聞いて知るべきものにあらず、師も伝ふることあらず、自修の功積みて自然に得るのみ。師はその道脈を伝ふるまでなり。容易に論ずべからず。」
■2026/6/21
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
「今人情薄く、志切(こころざしせつ)ならず。少壮(しょうそう)より労を厭(いと)い、簡を好み、小利(しょうり)を見て速やかにならんことを欲するの所へ、古法の如く教へば、修行するものあるべからず。今は師の方より途(みち)を啓(ひら)きて、初学の者にも其の極則(ごくそく)を説き聞かせ、其の帰着する所をしめし、猶(なお)手を執って是をひくのみ。かくの如くしてすら猶退屈して止む者多し。次第に理(り)は高上(こうじょう)に成りて古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。」
以下、私見。
こう言っては元も子もないが、武芸は結局は自得である。今の時代、師は、色々と説明・工夫もするが、自らの学ぶ意識、創意工夫する姿勢が大切である。また、師の説明を聞く際には、言葉には限界があることを認識しておく必要がある。例えば、「白い家」と表現したとしても、師の心に浮かぶ「白い家」と、教えを受けた側の「白い家」のイメージには、必然的に違いがあるように、技の説明には自ずと限界がある。技の習得は、不断の稽古による「技の醸成」が必要である。うまく行かなくても、うまく習得できたように見えても、脊髄反射のようにビビットに反応してはならない。
・合気道稽古心得より
「指導者の教導は僅かに其の一端を教ふるに過ぎず之が活用の妙は自己の不断の稽古に依り始めて体得し得るものとす。」
・道歌より
「合気とは筆や口にはつくされず 言ぶれせずに悟り行え」
「真の武は筆や口にはすべからず 言ぶれなせば神は許さず」
■2026/6/19
【天狗芸術論 著:佚斎 樗山(いっさい ちょざん) 】
久しぶりに「天狗芸術論」を読み返している。これから、読みながら気になる点を連載していくことにする。その前に鈴木大拙先生の「禅」に関する書を読んでいたが、そこから「武芸」を語るには少々飛躍があるので、まずは、「武芸」に関して語られている「天狗芸術論」を題材としたいと思う。だが、その根底には「禅」の教えが流れている。更に深く学びたい方は、「禅」に関する書を当たってみて下さい。
<天狗芸術論より>
「彼多年この芸術に志し、深く寝席(しんせき)を安んぜず、気を練り事(わざ)を尽し、勝負の間において心なお未だ開けず、憤懣(ふんまん)して年月を送る所へ、禅僧に逢うて生死の理を自得し、万法惟(ただ)心の所変なる所を開いて、心たちまちに開け、神さだまり、たのむ所をはなれて此自在なるをなすものなり。これ多年気を修し事(わざ)にこころみて、其器物(うつわもの)をなしたるものなり。一旦にして得るにはあらず。」
以下、私見。
この天狗芸術論や猫の妙術、不動智神妙録など、各種武芸関連の古典や、植芝翁の監修の書物や道歌など多々触れる事があるが、それを理解、習得にするのは並大抵のことではない。日々の絶え間ない稽古があって上でのことである。字面だけ追って分かった気になっても宜しくない。逆に今現在は理解できなくても、稽古を続けていけば、ふとした拍子にでその理解が深まる可能性があると理解している。
■2026/3/1
【ちょっと一息!!:合気道同志を繋ぐもの】
いつの時代も歌が時代/世代を超えて人々を繋ぐものになりうるか思う。最近は、歌う機会も減ってきたが、合気会を初め各諸派で歌われており合気道界の同志を繋ぐものとして、今後も歌われ続けるよう、下記の歌をここに記しておこうと思う。
『花の合気道』
一、合気の道は一筋に 己を磨く為にある
人の為なら身を捨てる 強い覚悟が和を招く
二、正義に薄い今の世は 我慢のならぬ事ばかり
ここに合気の真髄で 破れ時代のよこしまを
三、流れる水はただ清く 転がる石に草はない
これぞ合気と知るまでは 汗の試練を積むがよい
四、一たび内に備えれば、外には全て憂いなし
技と心の一体を こめた演武に花が咲く
※1967年にミノルホンからレコード発売。歌手は、十和田みどり。
■2026/1/4
【真の武術】(武道練習より)
昔剣法に皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る、という戦法があった。これは切りかかる剣の下に泰然として皮を切らして同時に敵の肉を切った戦術であったが、今日では皮を切らすさへ惜しむ。たとえ皮でも切らすことは、つまり自身を傷つけ又は危うくすることになるから、それではならぬ。自己の身を損なわぬようにして敵を倒さねばならぬ。即ち心で導けば肉体を傷つけずして敵を倒すことができる。導即倒という具合に武道を練り上げねばならぬ。皮を切らして肉を切る法は名人の法であるが、非常に危険な方法で、日本人の為すべき武術ではない。戦争の時、多少犠牲を払って敵を全滅させるのではあぶない。自分の軍は一人も損せずして、敵を倒すのが真の武術である。いつも安全な破れざる位置にあって敵を倒す、つまり、一兵も損せずして敵を服従させる。この覚悟が武術の稽古に最も必要である。
・・・・(中略) 真の武道は敵を殲滅するだけではなく、その敵対する所の精神を敵自ら喜んで無くさしめる様になさねばならぬ。和合の為にするのが真の武道である。地上に現れたものとその精神とが一如となって和合する様に日々の稽古を為すべし。
以下、私見。
この記載から、既に戦前においても、「心が身体を動かす」という観点で稽古をしていたという事が分かる。しかしながら、この記載は、敵の心の観点での記載であるが、「自らの心も自由に操れないのに、ましてや、敵の心を自由に操る事は途方もなく困難である」ことは、直ぐに想像できるはずである。この境地に達するよう目線を高くして日々の稽古に励む必要がある。また、自らの心の操作の稽古としては、稽古時間帯に限らず、行住坐臥、稽古に心掛けたいものである。
■2025/9/14
【合気道の技は円】(合気道新聞第2号より)
円の動きのめぐり合わせが、合気の技であります。技の動きが五体に感応して、おさまるのが円の魂であります。円は皆空で、皆空の中から生み出すのが心であります。皆空とは自由自在のことであります。皆空に中心が生ずるとき気を生み出します、皆空の中心より無量無限の宇宙に気産び、生産びするのが魂であります。魂は一切を生み出すものであり、不滅の生みの親であります。円を五体の魂におさめると、技を生み出す仕組の要素を生じます。生むは無限であります。すべてを豊かに満ちたる仕組みになすのが円の現われであります。円は宇宙にある一切の万物生物を、気産び生産びの形にて、生成化育し、守護の仕組を生じさせます。世の中の因縁も円い動きのめぐり合せであります。合気の武も円いのであります。
以下、私見。
円は、常に中心を保ち、偏る事はない。開祖は、「常に中心を保ち、偏る事の無い合気道の有り様」を円に例えたのかと考える。この事は、合気道に関わらず、三船十段も柔道を球を用いて、説明しており、柔術一般に共通したものかと思われる。開祖はそれをより徹底して説明されていると考える。円と言うと兎角、くるくる回ってしまいがちになるが、意識すべきは、「常に中心を保ち、偏りがない事」である。ありがちなのは、円で動いているつもりでも、「重心が偏る」、高度な話になると、「心が偏る」という事が往々にして生じる。よくよく留意すべきである。「重心の偏り」は、技(技術)の修行の話であるが、「心の偏り」については、心の修行として、禅の世界が登場するのである。その解説をしているのが、沢庵和尚が柳生但馬守に説いた「不動智神妙録」であり、その心の持ちようを開祖の言葉で表したのが、「愛は争わない」「武は愛なり」「万有愛護」「神人合一」であり、植芝家の守護神である「天之叢雲 九鬼サムハラ竜王」と同化し、真に「執着しない」「対立しない」心、つまり「偏りのない心」を獲得されたのだと考える。
※禅の話は、心の持ちようの教えであり、「不動智神妙録」と同様、改めて触れる事ができればと思う。
■2025/3/09
【武道と運動神経】(「武道とは何か」著書 南郷継正からの考察)
一般的に言って人間はすべてにわたって創られる存在である。武道そのものも人間的なものであってみれば、これもまた創られる存在なのであり、生まれつき武道に向いた人間というものがあるわけではない。武道をどれほどまで学びたいかどうかの<意欲=野心・気迫>で決まることである。以前記載したとおり、武技は人間技を否定して、人間の五体を武技化することである。この過程はそんなに単純でもなく、短期間でもない。この五体の武技化の場合、グズと秀才とで次のような傾向がある。グズは技化の設計図を大きく描き、秀才的であるほどにその設計図は小さい。秀才は己が能力に見合った自分に適合する形式で、スケールは小さいが、短期間で技化が果たてしまう。一方、グズは自分の無能ぶりを身に染みているからそれほど、<上達方法>には熱心であり、最高形態(見事な技)に挑みがちで、そのため技化するのが困難であり、時間が掛かる。このように、グズでも悲観する必要はなく、武道をどれほどまで学びたいかどうかの<意欲=野心・気迫>を以って、秀才には成しえない見事な技を目指す事ができる。秀才は、自らの自然成長的な能力以上の技を獲得するためには、以前記載したおり<負ける覚悟>を以って、最高形態の技を目指すことが必要なのである。
また、グズであるが故の特権として、初心者コースの立派な指導者になるうるという事がある。自らの経験として、どこで躓き、どこで迷ったかの道程が自らの<五体と意識>で十二分に経験しているので、他人を導くの自分の経験を活用できるのである。
■2025/1/18
【土台創り】(「武道とは何か」著書 南郷継正からの考察)
<土台>とは、技を支えるものであるが、<技を創るための土台>と<使うための土台>との二重構造で定義されている。先述したが、「単独動作」において、しっかり意識して稽古をする必要がある。これは、単に筋トレをすれば良いというものではない。筋力は齢と共に落ちていく。筋トレで鍛えてもいずれは衰える。土台作りで重要なのは、稽古を通じて意識を体に染み込ませていくことである。(神経体力の養成)
一教運動、船漕ぎ運動、二歩前進前後切りなど「単独動作」において、しっかり、足の裏に神経を集中し、動く/歩く事が大切である。その積み重ねが、潜在意識に入り込むことにより、演武などで自由に動いても、常に軸のしっかりした安定した動きができるようになる。「単独動作」を単なる運動としてやるのではなく、神経を張り巡らせて、認識を育てていくことで土台が作られていく。「単独動作」で作られた土台を以って、技の掛けられる間合いに上体を運ぶ事により相手に掛けることができる。歩幅、姿勢を崩してはならない。土台は動いても崩してはいけないし、動いても崩れない丈夫さが必要である。
※「昔の人は、移動は車もなく歩いてどこにでも行き、農作業が主な生業」であるが、一方、「移動は車/電車等、仕事はデスクワークである現代人」とは体力差は歴然としてあることを考慮し、技の出来栄えについては割り引いて考える必要がある。
■2025/1/13
【負ける覚悟(技の創出過程のおける上達の精神構造)】 (「武道とは何か」著書 南郷継正からの考察)
「負ける覚悟」という言葉は、柔道の創始者である加納治五郎先生が<乱取り>を行うことによって起こりうる困難を無事乗り切るために必要不可欠な<覚悟>について述べたものとして、著書で紹介されている。これは、勝つことを宿命とされている武道において、敢えて「負ける覚悟」をもって乱取りに取り組むことが重要だということである。「覚悟」と表現されているようによくよく心して掛かるべき重大な事と認識する必要がある。この乱取りは、技を創出する過程の稽古であって、まだ、完成されてない段階である。
その創出過程の途中の技を試す段階が乱取りであり、勝つことに執着して、本来の技の「形」ではない、奇策や技の形の変形で勝とうとしては、本来の「技の創出」には、良い影響を与えない。見事なる技であるほどに創出する事自体は困難である事を認識すべきである。自然成長的に育った<人間技>を否定して、目的意識的に<武道体・武技>を創出していく必要があるので、その「技の創出」はそう簡単では無いことは自明である。
合気道の練習形態は、二人での組稽古が主であるが、上記の弊害を心して、まずは、単独での「単独動作」を徹底的に行い、どんな状況においても体の崩れが発生しないようになるまで、体に染み込ませる事が重要である。その上で、二人稽古として、作りこんだ「単独動作」通りに自分の体を操作できるように相手との間合いを作りこんでいく。その際に、前述した「負ける覚悟」をもって二人稽古に取り組む事が重要である。安易に相手を倒そうとして、<人間技>に陥ってはならない。只管、技の変形が起こらぬように「単独動作(形)」通りに行い、合気道の極意である【絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。】を実践することに心掛けねばならない。
※<形>の本来の意義は、<見事なる技の創出>と、その創出した技の崩れをきたさないための<見事なる技の保持>とにある。
(「武道とは何か」著書 南郷継正より)
■2024/12/7
【私見:10/27記載の「合気道稽古心得」に関する追記】
座禅では、「只管打坐」「無所得、無所悟」という教えがある。これは、座禅の心得で、「得る所も、悟る所もなく、ただひたすら坐る」という教えである。これは、座禅の最中にあれこれ考えずに、ただひたすら呼吸に集中して座るというもので、「何かを悟ろうとか、ああしよう、こうしようなど考えない(心を何かに囚われない)」とう教えである。
これは、合気道稽古心得の「三」の2代道主の解説に通じるものがあるのではと思う。というよりも、古来の禅の教えがこの「三」の解説の中に包含されていると考えるのが、妥当であり、より意味深いものなってくると理解している。つまり、二代道主が解説されているのは、三代道主が「合気道とは何か」で説明されているように、「自分も相手もなく、澄みきって全てが一体になっている状態」になるように、ただひたすら集中して稽古するとういうことである。なので、ただ単に、技を掛けて相手を投げて満足するのではなく、前述の状態になっているかという目線で自分のやっている事をチェックする必要がある。大概は、自分と相手の二項対立に終始してしまうものである。その目線でチェックをしておかないと合気道の技としては、成長が止まったままとなる。実際には、修行に終わりが無いように、これは永遠の課題である。
この件については、後日改めて、「不動智神妙録」を参考に述べる機会もあるかと思う。この書物はご存じの方も当然多いのではなかろうか。ご存じない方も一度、目を通しておくことをお勧めする。名著である。理解の深度は、私も含めてそれぞれのその時のレベル感にも因るかと思うので、自分史において、タイミングを見て反芻されるのが良いかと思う。
■2024/11/17
【武道を学ぶ意義】(「武道とは何か」 著者 南郷継正より)
いつ何どきにでも<生命を賭>けられる、いつでも<生命賭け>で生きられることを学ぶのが武道の修行である。たった一度っきりでしかない人生を、せめて<主体的に>悔いなく生きるべきではないのか。あえてすべての人々に武道をすすめるゆえんである。
以下、私見
一般的に武道については生死に関わる修行となるので、真剣に取り組なければならない。
だからこそ、前述した「合気道稽古心得」を守り、稽古することが肝要である。
実際には、命を落とすことになるのは希で怪我をする事にとどまるだろうが、打ち所が悪いと生命に関わる事にもなる。
また、現代においては、怪我をしたら医者や保険で生活継続の担保を取ることができるが、昔は、そのような事もない中での修行であった事は、想像に難くない。生命賭けの稽古を安全に稽古するためにも「合気道稽古心得」をよく留意しておく必要がある。
■2024/11/2
合気道を学ばんとする者は、先ず、その心を学ぶべし。心正しからざれば、その道、亦、正しからず。
【合気道の極意】(合気道新聞第2号より)
合気道の極意は、己の邪気をはらい、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した 者は、宇宙がその腹中にあり「我は即ち宇宙」なのである。そこには速いとか、おそいとかいう、時間の長さが全々ないのである。
この時間を超越した速さを、正勝(まさか)吾勝(あがつ)勝速日(かつはやび)という。正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。では如何にしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することが出来るであろうか。それには、まず宇宙の心を、己の心とすることだ。宇宙の心とは何か?これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでに及ぶ偉大なる「愛」である。「愛」は争わない。「愛」には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。
宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。だから武技を争って勝ったり、負けたりするのは真の武ではない。真の武は、正勝、吾勝、勝速日であるから、如何なる場合にも絶対不敗である。すなわち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。己にあたえられた使命をなしとげることである。
■2024/10/27
【合気道稽古心得】
(「合気道」植芝吉祥丸著より)
一、 合気道は一撃克く死命を制するものなるを以って稽古に際しては指導者の教示を守り、徒に力を競うべからず。
二、 合気道は一を以って万に当たる道なれば常に前方のみならず四方八方に対せる心掛けを以って練磨することを要す。
三、 稽古は常に愉快に実施するを要す。
四、 指導者の教導は僅かに其の一端を教ふるに過ぎず之が活用の妙は自己の不断の稽古に依り始めて体得し得るものとす。
五、 日々の稽古に際しては先ず、身体の変化よりはじめ逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す。
然る時はいかなる老人といえども身体に故障を生ずることなく愉快に稽古を続け鍛錬の目的に達することを得べし。
六、 合気道は心身を鍛錬し至誠の人を作るを目的とし又技は悉く秘伝なるを以って徒に他人に公開し或いは市井無頼の徒の悪用を避けるべし。
※三の解説:同著より
こうした真剣な稽古を続けていくのは、なかなか骨の折れる苦しいことである。しかしながら、武道を通じての「行」は倦まず撓まずやっている中に、そこに実は楽しい境地が出てくるものである。武道の修行は、得てして苦痛を積み重ねるを以って第一とするように思い違いをしているむきもあるが、絶えず気持ちよく鍛錬してこそ真の修行であり、それは、苦痛を苦痛とも思わぬ精神三昧になれば常に愉快に実施することができるのである。
■2024/10/24
【道場の選び方】
(「武道とは何か」 著者 南郷継正より)
1.あまり会員の多くないところを選ぶ
2.「楽しく学べます」との道場は避ける
3.いきなり体力以上の苦しみを与えるところはやめた方が良い
4.基本技を大事にしないところはよす。
5.「二人練習」をいきなりやらせるところは遠慮する
6.服装のだらしないところはよす
■2024/10/20
令和6年10月より活動を開始しました。
初心者からの入門も歓迎しますので、見学・体験等ご希望の方は、お気兼ねなくお問い合わせください。