「強くぶつけて歯、抜けちゃった。また生えるよな」
「生え変わらないよ」
「えっ嘘、そんな」
額から血を垂らし、まさに満身創痍で恋人の元へと舞い戻ったスバルに突きつけられたのは、もしかしたら自分が一生歯抜けで過ごすかもしれないという過酷な未来だった。
「痛っ」
なにせ、怪我は額の大きな切り傷だけではない。歯だって抜けているのだ。正直会話するだけでも体を何かしらの痛みが襲う。
屋敷には先ほど帰宅したばかりで、まずはひと風呂浴びて身綺麗にするか一休みするか迷った結果、一旦座敷に行くことにした。体に付いた砂利、もはや元々何だったのかわからない謎の破片の数々(一応外で全身はたいてから上がったが)……を畳に落とさないよう気を配って、腰掛けるのに丁度いい場所を探していると、先ほど玄関でスバルを迎えたアリストがゆっくりした足取りで座敷に入って来た。手には救急箱を提げている。
「いやぁ……へへへ。すみませんねぇ、」
気まずい笑みを浮かべたスバルがアリストの近くに腰を下ろすと、アリストもそのまま隣に座り込んだ。
「無事に帰還できてよかった。それで? 結局建物が倒壊したって聞いたんだけど」
救急箱の中身を物色しながらアリストが問いかけた。スバルは一瞬ギクリと肩を振るわせたが、すぐに何でもなかったようにアリストに向けて笑みをつくった。
「う、うん。ありがとう。そうかも」
「そうかも? まあいいや……警察庁から顛末の報告依頼が届いてる。まさかとは思うけど、スバルがボムの力で壊したなんてことはないんだよね?」
詰問じみた口調で返され、スバルは答えに窮して視線を下に向けた。ここで対応を間違えたくない。
そう、確かに爆発沙汰にはなったが、それはスバルのコピー能力によるものではなかった。
警官から聞いた話によると、その日街の警官が巡回で訪れた場所が、偶然にも反連合系地下組織のちょっとした拠点だったらしい。拠点といっても実態は、十人も入れないような小さな倉庫に無理やり机を持ち込んだ粗末なものだったが……突然現れた警官の姿に過剰反応した構成員が発砲したため、双方本格的に銃火器を持ち出す騒ぎとなったらしい。
なぜスバルがそれを知ったのかというと、別の用事で近くを訪れていたからだ。昼さがりの間延びした空気を引き裂く破裂音を聞いた次の瞬間にはもう、スバルは弾かれたように音の鳴る方へ走り出していた。元々こうした騒ぎを見過ごせるタイプではない。現場に近づくにつれ地面に響く乾いた銃撃の音と、事件の断片的な情報が耳に入ってきて、スバルはますます素朴な怒りを募らせていった。繁華街でないとはいえ、それなりに人通りのある場所だ。民間人を平然と巻き込む横暴さ、到底許すことはできない。
スバルの登場は警察にとっても大変心強いものだったらしい。なにせ“逆L字”である。スバルの頬を見るなり、規制線を開けてすぐに中に入れてくれた。そのままとんとん拍子に話が進み、警察とライルル、組織の垣根を越えた現場同士のやり取りが行われ、最終的にスバルは警察からの支援要請を二つ返事で快諾した。
結局事件はスバルと警察の連携によって被害が周辺に拡大する前に鎮圧されたが、交戦中に相手の放った銃弾がスバルの真横をかすめて備品棚を吹き飛ばし、その破片をもろに顔面に受けて負傷したというわけだ。
ライルルと警察の連携によって街の平和が守られた。何とも英雄的な話で、きっと明日の新聞にだって載るだろう。しかし、この正規の承認ルートを経ていない突発的な行動が、今まさにスバルとアリストの間で問題を引き起こしていた。というのも、ライルル職員を管轄する立場のアリストにとって、職員自ら勝手に危険に晒されにいくのは大変、望ましくないものだったからである。(『ライルル最大の資産は設備でもなければ情報でもなく、異なる才能を持った職員の身体そのものである』というのは訓示でよく出てくるフレーズだ。) 身体のあちこちに傷をこさえて帰ってきた自分の姿を一目見るや否や、アリストが眉間を押さえて呻いた理由も、スバルにはまあ分かる話だった。
そうはいっても、自分の行動が間違っていたとも思えない。やるべきことをした。スバルは自分に言い聞かせながら、この気まずい雰囲気を乗り越えるための次の言葉を懸命に探していた。
ところが、である。真剣に考えようにも、先程玄関でぶち込まれた別の不安要素が、どうにも脳裏をチラついて離れない。
『強くぶつけて歯、抜けちゃった。また生えるよな』
『生え変わらないよ』
生え変わらないだって?
いや、でも、実家の兄貴は花火制作で前に暴発事故をやらかした時に数本失くしていた。兄貴、後日全部そろった歯を俺に見せつけながら生え変わったって得意げだったけど、あれはもしかして、差し歯か……? 兄貴じゃわからん。他に同僚で歯の抜けたやつはいなかったっけ……スバルは必死に、成人してから歯が抜けた知人のケースを思い返していたが、自分の記憶よりアリストの言葉の信憑性の方がずんと重かった。歯抜けの自分が笑いかけてくるイメージにスバルが言葉を失っていると、ようやくアリストがスバルの方を振り返った。手には消毒液が握られている。ごそごそやっていたのは、救急箱から消毒用品を取り出すためだったらしい。
「歯のことを気にしているの? さっきのはウソだよ」
スバルが固まったまま冷や汗を流しているのを見透かしたようにアリストが言った。
「ほ、ほんとに……?」
一瞬喜びの返事をしかけたスバルだったが、自分を見つめるアリストの目に未だ非難の色があるのに気づき、今度はその視線を避けるように大きな体を縮こませた。
「生えるよ。この星のカービィは置換歯だからね。さっきは驚かせて、ちょっと凝らしめたかっただけ」
アリストは少し背を伸ばしてスバルに身を寄せると、スバルの頬を両手で挟んで自分の方を向かせた。
「あ…………」
「こんなに無茶をするから」
消毒液を含んだガーゼで顔全体を包み込まれ、スバルは身動きが取れなくなってしまった。アリストの香りがふわっと漂ってきて、スバルは慌てて視線を下に向ける。そのとき、心配そうに自分を見つめる目と目が合ってしまった。
その表情を見たとたん、横っ面を張られたような衝撃がスバルに走った。直視しないようにしていたアリストの顔は、語気の割にとても……悲しげだった。
そんなに傷ついた顔をさせてしまうほど心配をかけているという発想が、自分の中にまるっきりなかったということを思い知らされ、スバルは茫然としてしまった。
考えてみれば、心配をかけているだけではない。これからアリストはライルル側の窓口としてこの件の対応に追われるだろう。迷惑をかけるのはアリストだけではないかもしれない。それでいて自分はいいことをした気になって、あげく責められる謂れはないつもりでいたのだから、とにかく周りが見えていなかったとしか言いようがない。
独善的、いつか言われた言葉がスバルの胸を刺した。
追い打ちのように消毒液が傷に沁みてきて、スバルの思考は現実に引き戻されたが、スバルにできるのはせめて、アリストの前で痛いと弱音を吐かずに、情けなさに耐えじっとしていることだけだった。
「心配かけて本当にごめん」
アリストの動きが落ち着くのを見計らって、スバルは切り出した。
「正直、その場では町の人のことで頭が一杯になっちゃって……それで……後のことを考えずに首を突っ込んじゃった。周りのことが見えてなかったよ。せめて……連絡の一つでも入れるべきだった」
「……順序はおかしかったけれど、人として立派な行動であったとは思うけどね」
「でも、迷惑かけてしまって。本当に申し訳ない。俺にできることがあったら、あればだけど、言ってね…………あと、歯。生えるって言いて安心した」
スバルの最後の一言に、アリストも思わず肩を震わせて笑みをこぼす。
「次無茶しそうになったら、今日のやりとりを思い出して……それで、早速だけど、落ち着いたら顛末書の第一報も早めに出して。上に上げる前に、確認するから」
どうやらスバルも反省したらしいと判断したアリストは、あまり重い語調にならないように注意しながら次の行動の指示を出した。スバルは一瞬ぽかんとした様子だったが、それがアリストなりの許しの言葉だとわかると、力強く頷いた。そして、ガーゼを押さえる彼女の手を上から握りしめ『ありがとう! なるはやで出す!』と、真正面から笑顔を返した。
自分からスバルに近づいたのに、こうして好いている者に至近距離で屈託のない笑みを向けられると、その眩さに面喰ってしまう。胸がすくような笑顔に自分があてられそうになっていると気づいたアリストは、やれやれと息を吐いた。
そして、今一度スバルにぐっと身を寄せると、スバルの唇に自分の唇を押し当てた。驚きの表情で硬直したスバル。そんな彼の額の傷口の下をちょんと突いて『寄り目になってる』と笑い、救急箱に手を伸ばしたアリストは、立ち上がり際『もっと反省しなきゃダメだよ。顛末書の誤字チェックもちゃんとしてね』という言葉を残し、みるみる赤くなっていくスバルを置いてその場を去っていった。
(なんだ、あれは……)
血流が良くなったせいか額の傷が疼く。火照った身体を畳の上に投げ出し、スバルは天井に向かって呻く羽目になった。
End.