2020年10月,ちょうど学術変革領域研究(B)に採択された同じ月,劇場版「鬼滅の刃」無限列車編が公開され,日本歴代最高の興行収入を挙げました.そんな映画のお話です.皆さんは,「チーム・バチスタFINALケルベロスの肖像」という映画をご存じでしょうか.2014年に公開されたこの映画では,重水に変えられていたペットボトルの水が事件を解く大きなカギを握ります.また,1934年に出版されたカシノ殺人事件(ヴァン・ダイン著)では,重水が殺害に使用されています.これらに共通するのは重水の持つ毒性です.事実,重水を大量に摂取することで死に至ることはよく知られています.体重の約60%を占めるといわれている水が重水に置き換わることで,たんぱく質の構造や相互作用に影響を与え,正常な代謝機能を失う可能性は否定できません.ところが,今回我々の着目した点は,重水素を含む化合物の毒性ではなく,医薬品としての効果です.なぜ重水は毒性を示すのか,も興味深い研究テーマですが,やはり,重水素医薬品の機能理解やより望ましい医薬品の設計,といった視点は研究としてのモチベーションも上がります.私達,A02班の計算グループは『重水素のことをよくわかる』ため,実験グループとの共同研究を積極的に進めています.本プロジェクトでは,重水素に関する新たな概念の創出を目指して全集中で取り組んでいきます.(広島大学・石元 孝佳)
2021年3月2日(火)15:00から,オンラインにて,第2回 Deut-Switchセミナーを開催いたしました(図1).公開セミナーとして研究班内外に周知した結果,開催日当日までに29名の参加登録があり,質疑応答では活発な議論がなされました.演者は,A02班,及びA04班からそれぞれ,兼松 佑典先生(広島大),及び高橋 知里先生(同志社女子大)をお迎えし,これまでの研究成果をご紹介いただきました.簡単ではありますが,本セミナーの内容につきましてニュースレターでご紹介させていただきます.
図1
A04班 研究協力者の高橋 知里先生は,京都大学大学院薬学研究科博士後期課程に進学され,2021年に,博士号を取得されております(図2).2018年より,同志社女子大学助手としてご活躍されています.本セミナーでは,1)CYP2C9.2によるロサルタン代謝の個体差‐遺伝子多型の影響‐,2)X線結晶構造解析,3)LC/MSによる活性測定,4)ITCによる結合親和性測定,の4つの内容でご発表いただきました.
図2
シトクロムP450(P450)は薬物の酸化的代謝に関与する酵素の総称であり,ヒトに投与された医薬品の多くが,CYP3A4,CYP2D6,CYP2C9により代謝されます.また,P450には多くの遺伝子多型が報告されており,薬物血中濃度の個人差を引き起こす原因の一つとなっています.例えば,CYP2C9には60種のアリルが報告されており,これらのアリルのうちいくつかはin vivo,及びin vitro において,CYP2C9の基質医薬品に対する代謝活性の減弱に関与することが明らかになっています.CYP2C9野生型(CYP2C9.1)と抗高血圧薬ロサルタンとのX線結晶構造解析はすでに報告されており,1分子のCYP2C9.1あたり,3分子のロサルタンが,①末梢,②活性中心,③アクセスチャネルに,1分子ずつ結合することが報告されています(PDB ID: 5XXI).高橋先生らは,活性減弱アリルであるCYP2C9*2(R144C)の構造活性相関を明らかにする目的で,CYP2C9.2を大腸菌に発現し,ロサルタンとのX線結晶構造解析を行いました(図3).その結果,CYP2C9.2にはロサルタンが活性中心に1個のみ結合しており,ロサルタンの方向性,ヘムからの距離がCY2C9.1とは異なっていることを示しました.さらに,LC/MSによる活性測定,及び等温滴定型カロリメトリー(ITC)による結合親和性測定についてもご紹介いただきました(図4).これらの手法は,重水素化医薬品がもたらす速度論的同位体効果KIEによるP450の反応制御機序の解明に応用できると考えられます.
図3
図4
A02班 研究分担者の兼松 佑典先生は,名古屋大学情報科学研究科博士前期課程を修了後,横浜市立大学で博士を取得されました(図5).現在は広島大学大学院先進理工系科学研究科の助教として,情報科学・計算化学的手法の開発・応用に取り組んでおられます.本セミナーでは,1)分光のH/D同位体効果,2)反応経路探索,3)ヘムの構造機能相関,をご紹介いただきました.
図5
多成分量子力学法(MC_QM法)は,電⼦と原⼦核の量⼦状態を同時に解くことにより,エネルギー極⼩化(構造最適化)のみで振動平均構造を評価可能です.よって核座標依存の分光物性値の振動平均の⼆次摂動展開において,構造分散由来の項を無視して,平衡構造における値と,平均構造変位に由来する項のみを考慮すればよいことになります.その結果,タンパク質等⼤規模系においても,真空紫外吸光,NMR化学シフト,UV/Vis,CDスペクトルに与えるH/D同位体効果の理論計算が可能になります.兼松先生らは,Photoactive Yellow Protein (PYP) に現れるH/D同位体効果をMC_QM法で検証しました(J. Chem. Phys. 2014, 141, 185101).PYPは,H. halophilaが示す青色光に対する負の⾛光性に関わるタンパク質です.PYPの中性子結晶構造解析では,活性部位のArg52が脱プロトン化し低障壁⽔素結合(LBHB)が存在することが示されており,これをMC_QM法で検証する研究に着手されました(図6).その結果,分光物性値の実験結果を最もよく反映するモデルと結晶構造に最も近いモデルが異なる結果を得ました(図7).これは,PYPのpHセンサーとしての機能を⽀持し,かつそれがArg52のプロトン脱着を介した⽔素結合強度の変動によって成⽴していることを⽰唆しています.
図6
図7
続いて,2つのFアクチン高解像度X線結晶構造に基づくATPase反応機構の理論的解明に関してご紹介いただきました.QM/MM法を用いて,ポテンシャルエネルギーを計算することにより,アクチンによるATP加⽔分解反応は4段回(⽔素結合再配向,P-O結合開裂,プロトン移動,⽔素結合再配向)で反応進⾏し,プロトン移動が律速であることを示しました.
最後に,ヘムの構造機能相関に関する研究として,⼀酸化窒素の還元を⾏う酵素P450norを対象にNO結合体,中間体の結晶構造解析や⾚外分光の実験結果の解釈・意味づけをQM/MM計算により行った結果をご紹介いただきました.