2020年10月に学術変革領域研究(B)に採択され,中 寛史先生(領域代表:京都大学)や石元 孝佳先生(広島大学),前川 京子先生(同志社女子大学)と様々な議論を重ねることで,「重水素学」としての研究が本格的に稼働し始めたことを嬉しく思います.振り返ると丁度一年前,新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)が出始めた頃,細心の注意を払いながら対面でのミーティングを重ね,重水素学の未来について熱く語り合い申請書を作成したことを思い出します.残念ながら,採択以降はon lineという形でしか会えていません.しかし,virtual Deut-Switchシンポジウムやvirtual Deut-Switchセミナーを通して,重水素をキーワードに多くの研究者に出会うことができ,重水素学の魅力と奥深さを感じております.2017年に重医薬品であるデューテトラベナジンが新薬としてFDAに承認されて以来,様々な重医薬品候補による臨床試験・臨床研究が実施されています.しかし,世界的に見て重水素化物質の合成・計算科学的理論構築・代謝活性評価の技術は成熟しておらず,本領域研究の重要性を再認識しつつプレッシャーに負けない様に,本国が世界に誇る重水素に関わる研究スキルを磨き上げていきたいと思います.また,機器分析の性能向上に伴い重水素化物質の需要は増しており,重水素(D)と軽水素(H)の中性子散乱能の大きな差を利用した中性子小角散乱による同位体コントラスト法や,NanoSIMS(二次イオン質量分析)による同位体イメージング法などが複雑物質の構造・機能解明に活用されています.本研究では,医農薬品の重水素化による生物活性の向上ならびに理論的解明を主とした目的としていますが,将来的には電子材料などの機能性物質の創生にも役立つものと信じております.そのためには,多くの研究者が夢を語る分野横断型のコミュニティーを作ることが大切です.少しでも本研究領域に興味を持って頂けましたら,遠慮なくご参加頂き,新たな未来を共につくりましょう.また,後世に繋がる様に,学生の教育の場としても機能する様に努力します.皆が一堂に会して議論できる様に,COVID‑19の早期終息を祈るばかりです.このために,重水素学が何か貢献できないか.今はできなくても,将来は・・・.そんな日を夢見ながら,日々精進していきたいと思います.(岐阜薬科大学・澤間 善成)
2020年12月14日 (月) 14:00~18:00に,オンラインにて,第1回 Deut-Switchセミナーを開催いたしました(図1).公開セミナーとして研究班内外に周知した結果,開催日当日までに34名の参加登録があり,質疑応答では活発な議論がなされました.演者は,A01班,A02班,A03班からそれぞれ,山田 強先生(岐阜薬大),宇田川 太郎先生(岐阜大工),金尾 英佑先生(京大院薬・医薬基盤研)をお迎えし,これまでの研究成果をご紹介いただきました.簡単ではありますが,本セミナーの内容につきましてニュースレターでご紹介させていただきます.
図1
A01班 研究協力者の山田 強先生は,岐阜薬科大学薬品化学研究室を修了後(この間ミシシッピ大学訪問研究員としても従事),独国ハイデルベルク大学ポスドクを経て,現在は岐阜薬科大学 薬品化学研究室 助教としてご活躍されています(図2).本セミナーでは,1)金属触媒を使用した有機化合物の重水素標識,2)金属触媒を使用しない有機化合物の重水素標識,3)連続フロー式重水素標識法の開発,4)重水素標識有機化合物を利用する,の4つの内容でご発表いただきました(図3).
図2
図3
金属触媒を使用した有機化合物の重水素標識では,穏和な反応条件(中性,80-120 ℃)でカルボニル基やアルケンを保持したままD化できることが特徴です.2-PrOHを水素源とする重水素標識反応により,芳香族化合物やアルカン,脂肪族カルボン酸等の重水素化が可能であり,推定反応メカニズムとして反応系中での反応活性種が関与する場合と酸化的付加を経る反応経路が考えられます.アクリル酸類の重水素標識反応についてご紹介いただきました(Adv. Synth. Catal. 2018, 360, 2303-2307.).
金属触媒を使用しない有機化合物の重水素標識は,固体有機触媒(金属フリー)であり,重水素標識末端アルキンの合成や重水素標識やβ-ニトロアルコールの合成が可能です.ニトロメタンの重水素標識化後,これを用いたヘンリー反応へと展開でき,官能基変換性に優れた重水素標識ビルディングブロックが合成できることが特徴として挙げられます(Adv. Synth. Catal. 2018, 360, 637-641.).
連続フロー式重水素標識反応は,反応液からの触媒の除去操作が不要であり,触媒の空気との接触が回避され,基質が大過剰量の触媒と効率よく接触すること,送液時間(量)の延長(増量)により触媒回転数が増加する等の特徴があります.一方で,D2Oに溶解する基質が限定され,流路や触媒カートリッジ内で目詰まりが起こることもありますが,共溶媒を用いて基質溶解性の向上させることにより,これらの欠点を解決できることが示されました.連続フロー反応を用いた多くの適用例をご紹介いただきました(Bull. Chem. Soc. Jpn. 2020, 93, 1000-1006., Bull. Chem. Soc. Jpn. in press, DOI: 10.1246/bcsj.20200325).
最後に重水素化実験・重水素標識体の利用の今後の展望をお話しいただきました.
A02班 研究分担者の宇田川 太郎先生は,立教大学修士課程を修了後,横浜市立大学で博士を取得されました.現在は岐阜大学工学部の助教としてご活躍されております(図4).本セミナーでは,1)重水素を取り扱うための量子化学計算手法(多成分量子力学(MC_QM)法,2)MC_QM法を用いた応用計算例をご紹介いただきました.
図4
一般的なBorn-Oppenheimer近似に基づく分子軌道法では,系の特徴を指定するハミルトニアンに原子核の質量は含まれておらず,重水素のような同位体元素の取り扱いが困難です.多成分量子力学法(MC_QM法)は,分子軌道の概念を軽い原子核にまで拡張した理論計算手法であり,ハミルトニアンに量子原子核に関する項を含みます.その結果,MC_QM法では電子状態や構造に対する同位体効果を簡便に表現することが可能となります.例えば,1,3-pentadieneに対する重水素同位体効果は,MC_QM法で重水素置換による構造変化を表現したことによりkH/kD値が飛躍的に改善され,実験値に近い値を得ることが出来ました(図5,J. Phys. Chem. A 2007, 111, 261-267.).また,β-diketoneは,重水素置換によるketo比の増加が実験的に認められていますが,このketo-enol互変異性における重水素同位体効果を再現するためには,水素原子核の量子力学的取り扱いが必要であり,水素結合に対する量子効果が重要であることを明らかにされました(図6).また,MC_QM法を用いて,CH⋯O相互作用に対する重水素置換による立体選択性への影響について理論的解析を行った結果,CH⋯O相互作用に対する重水素置換は,立体選択性に殆ど影響を与えない可能性が示唆されました(図7,Org. Lett. 2020, 22, 9439-9443.).現在,様々な電子状態における重水素同位体効果の応用計算を手掛けておられます.
図5
図6
図7
A03班 研究協力者の金尾 英佑先生は,2020年7月に京都大学大学院工学研究科材料化学専攻博士課程を修了し,現在は,京都大学大学院薬学研究科創薬プロテオミクス分野 助教,及び(国研)医薬基盤研究所疾患解析化学プロジェクト 研究員としてご活躍されています(図8).本セミナーでは,液体クロマトグラフィーにおけるH/D同位体分離について,これまでの先生の成果をお話しいただきました.
図8
分離分析の分野において,疎水性相互作用を利用したH/D同位体分離に関する報告はいくつかあるものの,高効率な分離を得るためにどういった分子間相互作用が効果的なのか十分な議論がなされてきませんでした.(J. Am. Chem. Soc. 2003, 125, 13836-13849.).そこで,H/D同位体化合物の迅速かつ高分離能分析に向けた基礎検討として,種々の固定相構造を有するHPLC用カラムを合成し,H/D同位体の分離挙動を評価することで,H/D同位体分離に寄与する分子間相互作用について詳細な検討をすすめられました.まず,移動相に親水性溶媒を,固定相に疎水性官能基を利用した逆相液体クロマトグラフィー分析の結果,H体がD体よりも遅く溶出することを発見し,H体がD体よりも疎水性が高いことを明らかにしました(J. Phys. Chem. C 2018, 122, 15026-15032.).また,芳香族を固定相に利用することで,同位体の分離効率が向上することを見出し,H/D同位体分離におけるCH/CD–π相互作用の重要性を明らかにしました.さらに,固定相-溶質間の疎水性相互作用が抑制された順相液体クロマトグラフィー分析を行った結果,H/D同位体化合物の芳香環の電子密度差に起因するOH–π相互作用の強度差,幾何学的同位体効果に起因するCH/CD–π相互作用の強度差を発見し,それらの同位体効果を相補的に利用することで,フェナントレンH10/D10の高速・高分離能分析に成功しました(図9,Anal. Chem. 2019, 91, 2439-2446.).最後にリサイクルLCによる,H体とD体の完全分離をご紹介いただきました(図10).
図9
図10