福田寺は古くは息長寺と称し、天武天皇の勅願により創建された湖北きっての古刹であるが、中世、浄土真宗に改め、寺地を現在値に移し、湖国真宗発祥の地として重きをなしてきた。延徳年間、蓮如上人の三年に及ぶ在住のこともあり、江戸時代中期には西本願寺の連枝地となって長澤御坊と呼ばれ、明治に別格別院とされ今日に至っている。境内の南西に後鳥羽上皇の供養塔とされる宝篋印塔があり、表門入口の衝立式の目隠し塀は、参拝されたゆかりで建てられたと伝わります。
※写真の説明文は、長澤御坊 福田寺由緒記より抜粋
境内の南西に後鳥羽上皇の供養塔とされる宝篋印塔
庭園は浅井長政公の居館であった小谷城から移したと伝える書院(県指定)の南庭で、主要部分約330平方メートルの枯山水である。昭和49年に国指定の名勝に指定された。
名将浅井長政公が寄進された浅井御殿(県文化財)が室町末期から徳川初期の特徴を今日に伝えています。
蓮如上人が手植えされたと伝えられる「蓮如松」と本堂左側の「大銀杏」
龍画の名僧釈自得禅師の全裸の大龍が内陣の天井に描かれています。(撮影は禁止されています)
表門入口の衝立式の目隠し塀は、参拝されたゆかりで建てられたと伝わります。
表門入口の衝立式の目隠し塀は、参拝されたゆかりで建てられたと伝わります。
元亀・天正の法難(織田信長との戦い)には、住職覚芸は、福田寺門徒四千五百余人と湖国十ケ寺の総統領として、愛山護法戦いを繰り広げられました。境内にある「殉教万人塚」は当時の遺徳を偲んだものです。
門の奥に見えるのが目隠し塀