1stリアクション

波を渡って潮風がやってくる。

遮るものない純粋な気流の流れは、波をなで、そして最後にはここ――オリュンポスを柔らかく、時には厳しく撫でかすめ、そして天空へと帰っていく。

そんな風もなれてしまえばタダの海風で、生活の一部となってしまうのだが、先日入学したばかりの宵闇浮月(よいやみ・ふづき)にとっては「何か」を予感させるに十分なモノだった。

「よし!イルカと友達になるぞ!」

18才になったというのにまだまだ成長途上である小さな身体を、晴れ渡った大空に向かって精一杯のばしながら、浮月は笑った。

小柄で華奢な身体からは、とても格闘の達人にはみえない。

もっとも浮月自身、大伯母に格闘術を仕込まれはしたが、それを使うべき時と場所をわきまえている。

スニーカーのラバーソールの部分にかみそりだとか、袖口にワイヤーなどの「暗器」を隠しもってはいるが、それは浮月にしてみればキリスト教徒が十字架(ロザリオ)をもっているのと同じ事で、無くてもかまわないが、無いと落ち着かない。といった類のお守り(アミュレット)に過ぎない。

実際に使ったことはないし、これからも使いたくはない。

普通の女の子で十分だ。

とはいえ、普通の女の子が来るにはトライデントUNはずいぶんと変わった「学校」であるには違いない。

海といるかが好き。という事でこの大学を選んだのではあるが、明日がどうなるのか少し不安でもある。

しかし波を渡ってくる潮風は、それらの不安を打ち砕き、広い海と同じように、無限の可能性をもって広がる浮月の未来へ向かって吹き続けている。

「まずはどこにいるか探さないと、知り合わないと、友達もなにもないし」

と、いいつつ外周通路を眺め回す。

同室に割り当てられた同期の少女は、イルカより彼氏!とばかりに観光・居住ブロックという「異性に出会えて、しかも遊べる!」エリアへ行ってしまったのだ。

ぽてぽてと一人で外周通路を歩き、モノレールに乗る。

そして三日月の切れた部分にも見える場所、ロス=ジャルディン島への橋がかかる駅で降りる。

「あっ、そういえばイルカグッズもどこかで売ってるって聞いたし」

駅の売店を見て手を叩く。しかし残念ながら駅の売店に対したグッズがないのは、21世紀日本のキ○スク以来の伝統である。

「……島じゃないのかなぁ」

辺りを見渡しながら歩く。まだ新学期が始まってない為か人の行き来もまばらだ。

と、観光客らしい少年がもっていた「いるかの形をした」風船に眼をとられ、いいなぁ。と思った瞬間、浮月は柔らかい何かにぶつかった。

「おいおい、前みてあるけよ」

「わわわっ!ごめんなさい!」

頭一つ高い位置から言われ、相手の顔も見ずに慌てて頭を下げる。

「うん?あんた新入生か」

浮月の制服を眼にとめると、成功は癖のある黒髪を乱雑にかきまぜ、知性に光る黒曜石の様な瞳を盛んにまばたかせた。

「初次見面。俺、新入生の梅成功です。発音は「ばいせいこう」じゃなくて「めいちぇごん」だから、そこんとこ注意してな」

にっ、と首にかけた身分証明とモノレールのパスをかねるカードを、浮月の眼の前にひらめかせる。

年齢の所をみて、浮月が眼を見張る。

180センチ近い身長に、スポーツが得意そうな大柄な体つき。絶対に自分と同じ歳か年上と思っていただけに、15才――三つも年下なのは、ちょっとした衝撃だ。ついでにいえば、15才でこのオリュンポスUNに入学できるのだから、この少年(青年と言った方が似合っているのだが)は同年代よりズバ抜けた知識を持ってるに間違いはなかった。

「……今中国がえらい事態におかれているのは知ってるよな」

ロス=ジャルディン島に渡る橋を二人で歩きながら、成功は浮月に言った。

イルカと一緒にカウボーイ!イルカに乗った少年!をやりたくてこの大学に入ったのだ、と笑いながら言った成功に、私もイルカが好きでこの大学にはいった、と浮月が告げたことから意気投合し、一緒にイルカを見に行くことになったのだ。

「華北の砂漠化、南と北の戦争……俺の故郷の台湾もその煽りを喰らって大変なんだ。タダでさえ小さな島国なのに、戦乱を避けて多くの人たちが大陸から渡ってきて、住居や食料など様々な問題が紛糾してきてるんだよ」

指をおりながら、一つ一つ問題を数え上げる。複雑な家庭環境(大伯母に暗器をつかった格闘術を習った、というのは、少なくとも普通の少女時代ではないだろう。と思う)にあった浮月ではあるが、成功のような「国を取り囲む問題」に直面したことが無い以上、それはどこか遠い異国の物語、あるいは朝に読む新聞が与える程度の感慨しかない。

ただ、まだ幼さを残す黒い瞳の奥に、強い強い祈りにも似た光があるのだけは確かにわかった。

「そこで台湾島の四方を囲っている海を利用するためのプロジェクトが立ち上がったんだ。その一環として人材育成の為に俺がこの学校の水産資源科に留学してきたって事なんだけど」

そういうと長い腕を器用にあやつり、頭の後ろで組んで笑った。

「俺の本当の目的は、イルカ、ホーリット君達と仲良くなることなんだ」

年相応の稚気に満ちた表情に浮月がくすり、と笑いを漏らす。

引っ込み思案で異性は苦手なのだが、この梅成功という変わった名を持つ中国の少年には、その「苦手さ」を感じなかった。

まるで悪戯好きで元気がいい弟が出来たような、不思議な親近感を感じ始めていた。

と、笑われた事が子供っぽいと思われたと見抜いたのか、成功が少しだけ頬を紅潮させて、恥ずかしがるように青い澄み切った空をみあげた。しかし、今更隠してもしょうがないと思ったのか、すぐにバネのように、身体を大きく伸ばし、浮月の先に大きくジャンプして回り込むと、人差し指を突きつける。

「海洋牧場をすぐに見学させて貰えそうな研究室に殴り込みかけて、連れてってくれるように頼んだんだけどさ、全然ダメで。でも、親切な売店のおねーさんがこの時間ならロス=ジャルディン島でカウボーイ達が放泳してるのが見られるって教えてくれたんだ」

「売店?あ、まさかあなたも」

「おう!ばっちりホーリット君のぬいぐるみ買っちゃったぜ!ストラップもね!」

と、携帯電話についてる小さいイルカを見せる。トライデントUN・海洋牧場のアイドルであり人間の海中作業を補佐するイルカの代表、クラスSSのホーリットがデフォルメされたアクセサリが成功の動きにゆらりと揺れる。

「かわいい」

上手く言葉が紡げず、ぽつりとつぶやくと、成功が微苦笑をうかべた。

「ただイルカと遊ぶ為に行くわけじゃないんだぜ、ホーリット君たちに牧場内を案内して貰って、海洋牧場のファーストインプレッションを自分の五感で確認したいんだ。ただ説明を聞くより遙かにわかりやすいからな」

無機質なファイバープレートでつくられた白い桟橋の終わりに近い場所で、ちょっとした人だかりが出来ていた。

何だろう、と二人が身を乗り出して見ると、白い泡波の間に、流線型のすべらかな背鰭がみえた。

――イルカだ!

「うわぁ!イルカだ!!」

「かわいいー!!!!」

叫んで二人同時に駆け出す。大学生といっても、まだまだ子供だ、無邪気であることをとがめられる言われはない。

光を含み、水しぶきがあがる。そのたびに黒い背鰭が、美しい流線型の身体が波から浮かんでは消える。

透明度の高い海の下をながめると、つぶらで知性を感じさせる瞳がこっちをみている。

「あ~あの子もかわいい~」

イルカを指さしながら、成功が無邪気に叫ぶ。

「あ、あれがホーリット君だぁ!」

ひときわりゅう、と、まるで水の抵抗などないのだ、と言いたげに自由に力強く海の中を泳ぐ一匹をさし、誰かがさけんだ。

成功と、浮月もそちらを見ようとして……そして、浮月は妙な違和感に、ふと視線を止めた。

一人だけ騒ぎの輪から外れている少女が居た。

高く結い上げたポニーテールを海風になぶらせながら、唇をきつく引き締め、この心躍る風景を、まるで氷の壁ごしに見ているような冷たい視線で見つめる少女。

(イルカ、嫌いなのかな?)

浮月が思うや否や、違う、と気づいた。

少女がみているのはイルカではない、イルカをみて喜ぶ学生や観光客達だ。

騒ぎすぎと、言いたいのだろうか。だが、ここで、桟橋で騒いでも誰の迷惑でもないはずだ。

そう思い、意識をイルカに向けたその時、イルカをみていた青年の一人が、低い声で言った。

「おい、なんかあっちのイルカの数、多くないか。……群になってるみたいだけど」

「おかしいわね。カウボーイの放泳はストレスを与えないために数頭ごと、時間をずらして行う筈だけど」

「違うわ!あれ、カウボーイじゃない、野生のイルカよ!」

「でもカウボーイに誘われてきたにしては……様子が」

先ほどまでの陽気が嘘の様に飛び散り、重苦しい気配が桟橋をみたす。

波の中に黒々とした背鰭の群が見える。

「あの先はロス=ジャルディン島の浜辺じゃ!!」

浮月が気づいて叫んだ瞬間、成功がはっ、と息を呑み先を……数分後に訪れる事態を宣告した。

「大量座礁(マス・ストランド)だ!!」

イルカが、大量に砂浜に打ち上げられていく。

否、何かに引き寄せられるように砂の上へ、自らの居住地である海から逃れるように大地の上へとその身体をなげうっていく。

その先に待つのは死でしかないというのに!

水位上昇による地形変化、ウィルス性疫病、あるいは水温上昇によるセンサの不調。ドルフィンウォッチングの精神的負荷。

いろいろと言われ、知識として理解はしていたが、目前に展開する光景を理解できるわけではない。

座礁したイルカは、輝く太陽にてらされ、皮膚をやかれ、日々割らせ、乾燥し、体温を上昇させすぎ――そして死ぬ。

「どうして!」

身を乗り出して叫ぶ。と、先ほど冷ややかにイルカ・ウォッチャー達を眺めていた少女が首から提げられた不思議な形のペンダントを握りしめ、唇を一度だけ噛みしめたあと、吐き捨てた。

「オリュンポスの――いや、人間の性や」

宣告するように、声は辺りに響いた。

「自然と共存?笑わせるわ。ここの存在自体が生態系を歪めているのに。イルカと共存?それも笑わせるわ。だってオリュンポスは人間の為にイルカを都合良く使こうてるんやないの。ホーリットが自ら望んでカウボーイになったやって?100年前は「カウボーイ」なイルカなんていーひんかったわ」

「だけど、イルカが人間を救ったという話はあるわ」

浮月が珍しく声を高める。過去に遭難した漁師や、溺れた子供がイルカに助けられたという話が幾つもあった。しかし、それは少女の怒りをとどめるモノにはならない。

「助ける?そやな。そういう事があったかもしれへん。でも「助けるために訓練され」て喜ぶイルカはいーひんよ。自分たちが生活してるのをこうやって、みんなに監視されてるのもね」

「監視だなんて、そんな!」

「人より賢いから、人に近い社会性をもってるから?かわいいから?だから何やの?全部『人間の都合と価値観の押しつけ』やん」

断罪の言葉に逢わせて、少女の胸のペンダントを飾る青い宝石がきらきらと輝く。

「イルカの事も、このオリュンポスも、自然保護もただの人間の思い上がりと欺瞞やで」

そんな事は許さない、と言葉にせずとも、少女の瞳が語っていた。

「欺瞞だろうが何だろうが、今、俺はイルカを救いたい」

梅成功が顔を強ばらせ、少女をにらみながら毅然と言い放った。

それまで少女に気圧されていた他のイルカウォッチャーたちも、おどおどと、しかし、しっかりとうなずき、誰かの号令が元で、浜辺に救助に駆け出し始めた。

「俺は、自然をそっとしておくというのは、タダの放置と違うと思うぜ。――それが人間の欺瞞でも、俺はイルカを助けたい」

「――あんたらの名前は?」

興味を引かれたのか。少女が印象的な大きな瞳で成功と浮月を交互に見る。

「梅成功」

「わたしは、宵闇浮月……です」

「海藤瑠璃」

吐き捨てるように告げると、少女は先ほどの騒ぎなど知らない、と言った体で浜辺へと駆け出し始めていた。

イルカの救助は、まだ始まったばかりだった。