2050年、世界は新たな開拓へと出航した。
生命の源であり、いまだ解明されていない人間を拒む聖域。
宇宙の謎と同じだけの謎を持つという海洋へ、人は足を踏み入れた。
太平洋上、中日本海上観光輸送115便。
「……」
水中翼船のコクピットから前を向き、キラキラした瞳を海上に向ける一人の少女が居た。
「おじいちゃん、まだ着かないの?」
少女の目的、それは近代科学の粋を集めた島『オリュンポス』へ行くこと。
そこには父と母が技術屋として働き、保育園に入る前から祖父の元へ預けられた少女にとって、両親と会う喜びと両 親の作った島へ向かう喜びとが入り混ざっていた。
普通なら年端もいかない娘を祖父にあずけ、それ以来一切顔も見せない両親に対して屈折もしそうなものであるが、 この年にして両親の仕事に誇りと尊敬を表し、健やかに育ったのは祖父とこの少女の性格のよさであろう。
「雅美は怖くないのかい?」
「へ?」
「不肖のせがれと雅子さんに会うのが、わしは怖い。自分の夢のためとはいえ、お前を置いていってしまった人間と雅美を会わせるのがな」
雅美は口を逆への字に曲げて特大の笑顔を見せた。
「ぜ~んぜん、だってお父さんとお母さんには本の中であえるし、それに~あたしも今年で13歳だもん」
Vサイン。
「思えば、お前はせがれと雅子さんの研究本ばっか読んでたものなぁ。小学生なのにこんな本ばっかよんでどうなることかとおもったが……」
「そんなのはどーでもいいから、おじいちゃん、オリポまであとどんくらいなの?」
「こら、今は仕事中だ。船長と呼びなさい」
「は~い船長、で、あとどんくらい?」
やれやれといった顔で……。
「あと30分位だろう、そろそろアナウンスを頼む」
「がってん、しょうちのすけ!」
ポーン♪
『大変長らくお待たせいたしました、本日は中日本海上観光輸送115便、中ノ鳥島発ロス=ジャルディン島行きに御乗船有り難うございました。当船はただいまよりブラウン滑走を終了し、通常滑走へ移行致します。滑走変更時に多少の揺れがりますのでお座席のベルトはそのまま装着してください。本日の船長は菱源三郎、副船長は菱雅美、客室乗務員主任は築根俊彦でございましたまたのご利用お待ち申し上げます』
「上出来だ」
源三郎は雅美の頭をなでた。
「毎日聞いてるんだからラクショ~よ」
「門前の小僧ってやつだな」
源三郎が大笑いをする、子供扱いされた雅美はちょっとむくれる。
「さて、雅美いくぞ。ブラウン運動抑制電流出力70%」
「出力70」
「通常エンジン起動」
「起動よろし」
「出力80まで上昇」
「出力80」
雅美が左手にあるスロットルを手前に引く。
「通常エンジンスタート」
「スタート異常なし」
「出力94」
「出力94、速度80km。維持完了」
「通常エンジンエンゲージ」
「通常エンジンエンゲージ完了」
船は揺れもなく静かに滑走を移行した。
「上出来だ、UNに接舷許可を申請宜候」
「え?」
「ご褒美だ、やっていいぞ」
接舷許可を求めるための交信は1級船舶免許保持者か国際航海士にしか認められていない。つまり接舷許可申請を出せるのは一人前の証でもある。本来ならば違法であるが、観光輸送者たちの慣習となっており比較的大目に見てもらえる。
「え・・あ、UN国際港へ、こちらNNK115便」
『こちらUNH、感度良好、識別ピンをBGへ、どうぞ』
「識別ピン発射完了、接舷許可をお願いします」
『識別ピン受領、NNK115便と確認、接舷許可します。おかえりなさいNNK115便』
「許可に感謝します」
『あら、源三郎さんじゃないのね?』
「今日は末孫の雅美にまかせたんだ」
『あら、あめでとう雅美ちゃん、これでいっぱしの翼船乗りね』
「えへへへ~」
『18番から入って15番に接舷、待機ドックは39でお願いします』
「ずいぶんと遠回りだな」
『なんか知らないけどお偉いさんの船がきててね、警備のためってやつね。そのかわり使用料は2割安』
「まぁ、別にかまわんけどな」
『それじゃあ、誘導ビーコン送るわね』
「NNK115了解しました、またねお姉さん」
雅美が回線を切ると、目の前に島影がみえた。
「あれが、お父さんとお母さんが作った島……」
ロス=ジャルディン島を囲む白い島、オリュンポス計画により日本とアメリカが共同で出資、開発した最新鋭の海上都市、そして海洋科学の聖地。
トライデントUN……。
ロス=ジャルディン島を囲む巨大な白い珊瑚礁がその姿を現した。
NNK115便、船名『大漁』はオリュンポスの大型船停留港を通り過ぎた。
「雅美、今回は特別だからな」
「分かってる、おじいちゃんがあたしに決めさせてくれるのは認めてくれてるってことだし」
「無理矢理大人になる必要もないぞ雅美、我慢しすぎるのも良くない」
「分かってる、ケドね」
『こちらUN海洋警備隊です、ようこそオリュンポスへ』
「こちらNKK115便、おつとめご苦労さんです」
『これから先は通常航行をお願い致します』
「了解」
源三郎が手元のスイッチを切ると、船は静かに胴体を水につける。
わずかな減速感を感じながら、水中翼船はスクリューによる移動を開始した。
オリュンポスには広大な港湾施設が用意されている、以前は物資を下ろしていた港だが基礎部分の工事が終了し、一部を除いて観光船の発着に主に使われるようになっていた。
1時間後
「はい、えっと菱雅美さんね。観光地へ行くなら環状モノレールで内回りを使ってくださいね、もしビジフォンもってるならRJI0021で案内が聞けるから参考にして」
入国管理官のおねさんが雅美のパスポートにスタンプを押す。スタンプが押されてもそれを見ることはできない、見るためにはブラックライトが必要だ。
「ありがとう」
「雅美、入国手続きは終わったか?それじゃあ合わせたい奴がおる」
源三郎の隣にはこれまた海の男といった男がいる。
「雅美、紹介しようワシの悪友『菱垣』だ」
「ほう、源三郎の遺伝子を4分の1もってるとは思えない可愛い娘じゃないか」
「やかましい。わしに鼻もとなんかそっくりだろう」
「まぁそんなことはほっといて。まずはこれを付けてくれ」
菱垣が雅美にプレートを渡す、そこにはHishigaki'sVIPの文字。
ほっとかれた源三郎は何か探している。
「今日から3日間、私がオリポを案内しよう。そのIDカードにはICチップが入ってる。それがないと研究施設はおろか君の両親にも会えないから無くさないようにな」
両親という言葉を聞いた雅美の表情が一瞬こわばる、しかしそれは誰も気が付かない程度の短い時間だった。
「源三郎さん?」
「お~マリー、暫くみないうちにまた綺麗になったな」
雅美は声であの通信のおねえさんだということに気が付いた。
「じゃあな、雅美。よく見てくるんだぞ、そしてしっかり考えろ」
「?」
菱垣が怪訝そうな顔をしたが、源三郎は意に介さずマリーと何か楽しそうに話している。
この半年後、二人が結婚したときは本気で驚いた。
さらにその1年後、雅美にもう一人叔父さんが産まれた時はジュースを吹き出した。
「さて、雅美ちゃん行こうか」
「あ、はい。よろしくお願い致します」
深々とお辞儀をする。
「そんなにかしこまらなくてもいいぞ、ワシが案内出来るのは海洋科学博物館まででな、あとは助手にお嬢ちゃんの案内をして貰う予定だ。すまんなワシもこうみえて忙しくてな」
菱垣はポケットから手ぬぐいを出すと肩に掛けた。
「じゃあ、早速0番ゲートからいこう。ああ、0番は研究者専用のシャトル便でな。時間じゃなくて乗ったら送って貰える便利な物だ」
「オリュンポスの中なのに船使うんですか?」
「ああ、ここは観光地のちょっと外れでな。モノレール使うとぐるっと回らなきゃならん。海の上なら信号機も人混みも無いし直線距離だから、職員はシャトル便の船を使うんだ」
「へぇ~」
「ああ、それと今夜は申し訳ないがワシの部下の家に泊まってくれ。ワシの家で面倒見ようと思ったらちょっとワケ有ってな」
菱垣が頭をポリポリ掻いている。
0番ゲートには回転ドアだけがあるだけで、係員は誰もいなかった。雅美が通過するとわずかな機械音がしただけである。誰でも使えるのかと菱垣にたずねると、胸に付けているIDカードを識別しているらしい。
シャトルは4人乗りの小型船……よりボートといった方が正解かもしれない。操縦者はいないので自動操縦らしい。菱垣がコンソールパネルに数字を入力するとアナウンスが流れる。
『こんにちは菱垣チーフ、この船は15秒後に出航、海洋博物館へ向かいます。到着予定時刻は35分後になります』
博物館に着くまで菱垣はオリュンポスについて説明してくれた。
時々出てくるオヤジギャグに雅美は愛想笑いをしながらも説明には真剣に聞き入っていた。
ロス=ジャルディン島、1529年スペインの探検家によってこの小さな島が発見された。それ以降再度の探索にも関わらず島がなかなか見つからなかった為、アメリカ海軍は地図より削除したが日本では1972年まであった。1999年に再発見されるまで『幻の島』として扱われていた。雅美が今済んでいる中ノ鳥島からさほど離れていない事を考えれば、なんで今まで発見されなかったのかも謎が多い。島は2つの山からなっており原住民はおらず鳥がその島の主人だった。渡り鳥の中継地となり、またその独立した島でしか見られないジャルディン鳥も発見されている。いまでは観光のシンボルでもある。
オリュンポスは地上資源枯渇に危惧した先進国5ヶ国と1機構が構想した海洋資源の開発・研究都市計画である。ロス=ジャルディン島を珊瑚礁のように囲む浮島。日本とアメリカの共同出資のトライデントUN(つまりココ)が一番完成度が高いと菱垣は自慢した。それでも本当の完成にはあと10年はかかるという。1500本の支柱と8000以上のフローティングエリアによってなる2つの白い三日月の島は、あらゆる環境事象を想定し設計され、波の影響を拡散するシステムなどは最新鋭の技術が導入されているという。観光施設などはすべて海面上にあるが、研究施設などの重要施設のほとんどが、トライデント専用の島にあり、一般の客の目には入らないようになっていると菱垣は小声で雅美に言った。海洋大学も海面上に教室などはあるが、研究施設は全部海面下である。なんでそうなっているのか雅美は聞かないことにした。
『お疲れさまでした、間もなく海洋博物館です』
アナウンスが流れるとボートは減速を始め、器用に後進しながら博物館のスタッフ専用口に着けた。
白く曲面が美しい3階建ての建物が目の前にあった。
フェイズシーケンス2:オリュンポス海洋博物館
「……というわけでオリュンポスは海面に浮いている事が出来るのです、わかったかなコタロークン」
海洋博物館に菱垣と共に入った雅美は、小学生の集団と白衣を着た小学生を見つけた。
「それでは、これからは皆さん自由に博物館の中を探検してくださいねー」
白衣の小学生がそう言ったとたん、小学生の一段は蜘蛛の子を散らすように館内へ走り去った。
「よぉ、コリーン。この子が昨日言った子だ」
眼鏡をかけた小学生がこちらを振り向いた。白衣を着た小学生はコリーンというらしい。
背は雅美よりちょっと低いが歳は雅美より上だった。
「はじめまして、菱雅美です」
雅美が深々とお辞儀をするとそれに合わせて。
「こちらこそ初めまして、コリーンです宜しくお願いしますね」
と、彼女も深々とお辞儀をした。
金髪に碧眼だから日本人ではないだろうが、日本語は流暢で外人とは思えない。
「コリーンは13カ国語を使えるから良くここで解説員をまかされるんだ。解説員といったらオリュンポスの顔だからな、彼女ほどの適任者はいないってわけだ」
雅美は納得した。彼女の性格と誰にでも受け入れられる容姿、それこそ若い人にはその目線で、小学生にはちょっぴりお姉さん、中年には娘、老人には可愛い孫。それぞれの年代の相手が受け入れやすいものをすべて兼ねそろえているのだ。
「菱さんっていうと、菱教授の娘さんですか?」
コリーンが訊ねると雅美の表情が、菱垣と会ったときのように少しこわばった。ほんの少しの時間だったがコリーンはその表情に気が付き、話題をそらした。
「えっと、私はこの博物館と学校の案内でいいんですよね、菱垣チーフ」
「ああ、紹介が終わったらワシの研究室に来て美月と替わってくれ」
コリーンは笑顔で答える。
「わかりました、じゃあ基本的な事から割と裏の話までしっかりレクチャーしてあげるね」
雅美はふと気が付いた。
両親に会いに来たのにもしかしたら菱垣達は何も聞いていないのかも知れない。
いや、コリーンが知らないのはいいとしても、源三郎は菱垣にさえ伝えていないのだ。
両親に会うのは自分の意志で……という源三郎の配慮かもしれないが……。
色々考えたあげく雅美はその考えを一時保留にした。
両親にだけ会いに来たわけではない、オリュンポスを見てみたいという好奇心もあった。滞在ビザは船員ビザだったから15日間ある。でも次に大漁号が出航するのにあと3日間しかない。両親に会いに来たのにいざ近くなると少々気後れするのも事実だし、まずはオリュンポス観光をしてから両親に会おうと決めた。
「これがオリュンポスの基本に使われる壁素材、穴ぼこだらけでしょ。その穴の空気で浮力を得てるんです、それとフローティングブロックっていわれる空気だけを含んだ岩を底に敷いて……」
それは軽石に似ていたが堅さは問題にならないほど堅かった。博物館の水槽にはその石が何個も浮いている。
「ここがオリュンポス建築に適していたのは台風が来ないことと、低気圧の墓場が遙か北の方だったっていうのもあるわね、年間降水量が少なかった事。ハリウッドみたいな理由ね」
飲み水は海水置換でまかなわれており、問題にはならないとコリーンは付け加えた。
「海水温度のせいで珊瑚礁も生えないし、とはいえ島には大きな砂浜もないし国定公園扱いだから観光も出来ないし……」
「なんで観光客よばなきゃいけないんですか?」
「ん~とね、トライデントコーポレーションっていう第三セクターが島を作ったんだけど、国が運営するには維持費が膨大なのよ、で多分説明されただろうけどまだ完成していないエリアもあるし、職員の給料から研究予算やら……観光地をつくって運営にまわすのと同時にトライデントUNについて理解を深めてもらって認知を促しつつ、海洋資源の利用について考えてもらうの」
「……」
「あああ、ゴメンなんか難しかったかな??」
コリーンの身長は雅美より低い、年齢は雅美の1つ上。雅美はコリーンが何故ここにいるのか疑問に感じていた。ここは海洋科学の最先端、スタッフもアメリカ・日本を代表する頭脳が集結した島……。コリーンが何故ここに来たのか雅美はたずねた。
「私は出来の悪い子でねぇ、前の大学の研究室クビになっていつの間にかここにきちゃってたわ」
恥ずかしそうに照れ笑いするコリーンだったが、雅美にはその笑顔の中にちょっとした影を見た。
雅美は聞いたことをちょっと後悔した。
「じゃーーん!」
雅美の目の前にイルカのぬいぐるみをコリーンが突きつけた。
ちょっと引いた雅美を見てコリーンが微笑む。
「かわいいでしょ、ここの海洋牧場のカウボーイ『ホーリット君』だよ」
どこの水族館にもあるお土産屋の店先で、特大のぬいぐるみをコリーンは持っていた。
「なんかつまらなかったかな?」
「へっ?」
「なんか、別のこと考えてる??」
「……」
「いいんだよ、つまらなかったらつまらないってちゃんと言ってね。大体、観光地の方が全然楽しいのに菱垣チーフもなんでこっちを案内したんだか」
コリーンが腕組みをする。
「い、いや楽しいよ。色々と考えることがあるのは確かなんだけど、私は海好きだし。でも、確かに楽しむ以上に悩みがあるのは確かなんだけど」
ふむ……とコリーンは色々考えた。
特大のヌイグルミを持ったコリーンは……というよりヌイグルミがコリーンの声色でしゃべっている様な状況だが。
「私が相談に乗れそうならいつでも言って、なんというか、久しぶりだから私も、同じ年ぐらいの人と話するの。ここで島の説明して終わりって言うのも味気ないじゃない?私も色々ききたいコトあるんだ、いま日本でなにが流行っているのかトカ・・・おしゃれの方法とか」
雅美は微笑んだ、サンスマイルというやつだ。音にすると『ニパッ』が近いだろうか。
「ゴメン、わたし中ノ鳥島在住だから内地のコトは良くわかんない」
「もしかして、菱さん等身大のネコ飼ってた?」
「なんというか、あたしってちょっと人見知り……あんのかなぁ、周りがおじいちゃんみたいな人ばっかで同い年の女の子っていなくて、学校もほとんど行ってないからさ」
「あ~菱さんもか」
コリーンが頬をぽりぽり掻く。
「私の所の研究室もね、大人の人が多くてね、同い年位の人って観光客の人しかいなくって普通に話せる友達っていなくってね、私に一番年の近い『姐さん』でも26歳だし」
「コリーンも兄弟いないの?」
「『も』ってことは菱さんも兄弟いないのね」
『業務連絡、業務連絡。2433の案内係の方、ゲート口までお戻り下さい』
「あ、菱さんちょっとまっててね。25分で戻るから」
コリーンはホーリット君を元の位置に戻して白衣の襟を直した。
「コリーンさん、あのねあたし菱さんよりも雅美って言ってくれた方がいいんだけど」
という雅美の声に手を振ってコリーンは走っていった。
雅美は土産物売り場を中心に、時間までいろんな展示物を見て回ることにした。
『トライデントUNを支えている支柱は全てフローティングエリアとは直接繋がれてはいません。潮の満ち引きに合わせてフローティングエリアが上下します。よってトライデントUNは海上建築物ではなく浮島といったほうが正しいと言えます』
説明板の下にスイッチがあり、そのスイッチを押すと水が水槽に流れ込み、水が増量されるとトライデントのミニチュア模型がゆっくりと浮かび上がる。実際に1500本の支柱があるわけではなく、おおよそのミニチュアであるが良くできていた。
「菱教授!」
「……?」
菱という名前に雅美は振り返った、名前を呼んだのはトライデントUN大のティーシャツを着た青年でその前を女の人が歩いている。
「……」
雅美はあまりの展開に神様を恨んだ。雅美は母親である雅子の顔は知っていた、2歳の時の写真に自分をだっこして写っていた女性が目の前を歩いてこっちに来る。
「……?」
雅子は雅美がこっちを見ているのに気がついた。
にっこり笑って近づいてくる。
雅美はがっちがちになっていた。
しかし、雅子の言葉は雅美の期待をあっさりと裏切った。
「ほらみんなロビーに集まってるわよ、はやくしないと取り残されちゃうから早く帰りなさい」
雅子の笑顔は雅美には残酷だった。
娘の顔を覚えていない母親、きっと見学の小学生の一人と思われたのであろう。
雅美の中には『早く帰りなさい』の言葉だけが繰り返し繰り返し響いていた。
もちろんそういう意味でないことは分かっている、分かっていたが……心の中では世界で一人しかいない娘に気がついてくれるという期待もあった。
「菱教授、たのみますから採用してくださいよ。マジ単位ギリギリなんですよ」
「期日厳守と言ったでしょ、1年やり直して時間の大切さを学びなさい」
「教授~~」
雅子は職員専用の通用口へ行ってしまった。
悲しかった。
お父さんお母さんがいなくても私は元気!と決して涙を流すことは今まで無かった。かわいがってた犬が死んだときも涙は我慢できた、おじいちゃんが『そう言うときは泣くもんだ』っていったけど、あたしは泣かなかった。
多分、初めて。
あたしはその場にしゃがみ込んで泣いた。
コリーンは見学の小学生達を見送ると、きびすを返して土産物屋に戻った。予定時間より2分早く到着しそうだったが、到着したときに雅美の姿は無かった。
コリーンは土産物屋で2分待ち、土産物屋を中心に展示物を見て回った。
海面上昇によるトライデントUNの浮遊構造を説明した展示品の前に雅美を見つける。
しゃがみ込んでいる、肩が小さく揺れているから寝ているわけではなさそうだ。
「菱さん、どうしたの?」
「……」
雅美は泣いていた、もちろんコリーンには事情は把握できない。
「なんかあった……?」
「菱さんって呼ばないで」
雅美は涙声で言った。
「判ったわ、呼ばない。これからは雅美さんでいい?」
コリーンの声かけに雅美はうなずいた。
「じゃあ、雅美さん。何があったのか教えてくれる?」
コリーンが小さな声で言ったとき、雅美はコリーンにしがみつき思いっきり泣いていた。
海洋博物館軽食喫茶店『ノーチラス』
内装は木造でガレオン級の木造船内を思わせる。
やや小さくせまっくるしいが、客は雅美とコリーン2人だけだ。
「ここならゆっくり話せるよ、雅美さんもミルクティーでいい?」
雅美は頷いた。
「あのね……」
コリーンが訊ねる前に雅美が口を開いた。
コリーンは聞き役に徹した。
「あたしねトライデントに決めに来たの」
「決める?」
「おじいちゃんがね、お父さんとお母さんから親権を自分に移すって。お父さんとお母さんは3歳の時に私をおじいちゃんの所に預けて、10年ずっとおじいちゃんと一緒で、おじいちゃんはお父さんとお母さんが親権喪失状態で不適格だからって裁判所に言ったの。あとは裁判所の人がそれを認めたら、あたしお父さんとお母さんの子供じゃなくなるから、あたし嫌だったから、お父さんとお母さん好きだから裁判所の人に言ったの」
コリーンは黙って聞いていた。コリーンは雅美にとってはアカの他人だ、こういったふかーい話をされても何もする事は出来ないが、雅美の言葉に一つ一つうなづきながらコリーンは雅美の言葉を受け止めた。
「裁判所の人は、あたしはまだ未成年だからあたしの意見は聞けないって、でもおじいちゃんは……自分で決めなさいって、だからあたしここに来てお父さんとお母さんと会って、ちゃんと決めるつもりだったの」
コリーンはこの時、さっき菱教授の子供かと訊ねたとき、雅美の表情が曇ったの原因が分かった。
自分で決めると言っても、両方とも大切な家族なのだ。雅美にとってその一方を決めることは困難に違いない。その雅美のおじいちゃんも雅美を一人の人間として認めているから出た言葉ではあるが、13歳の雅美にとってその判断は重い。
「さっき、お母さんに会ったの」
「待ち合わせしてたの?」
コリーンの言葉に雅美は首を横に振った。
「突然だった、お母さんこっちに来たの。だけど、気が付いてくれなかった」
泣きやんだ雅美のほほを再び涙が伝う。
「あたしね、おかあさんが気が付いてくれるって、10年も会ってないんだもん判るはずないのに、家族だから一人しかいないお母さんの子供だから気が付いてくれるって、思ってた。ずっと思ってた」
ミルクティーが運ばれてくる。
「つらかったんだね」
コリーンの言葉が雅美にとって何よりも慰めだった。雅美の育ってきた環境や経緯は判らない、しかし自分も似たり寄ったりの事があった。だからコリーンの一言にも雅美の心に染みこむものがあったのだ。
コリーンはじっと考えた。時間にすれば短いかも知れないがコリーンにとっては熟考した上での考えだった。
「雅美さん、あのね」
雅美が顔を上げる。
「私達、兄弟にならない?」
「へ?」
雅美は今まで悩んでいたことを一瞬忘れた。
「私たち一人っ子同士じゃない?私ねずっと年上の人ばかりの所にいてね年下の友達って一人もいなくて、兄弟欲しかったけど、そう言えるときには両親はいなかったし。だから私達が家族にならない?」
「……」
あっけに取られている雅美を見ながらコリーンは言葉を続ける。
「いつでも、どこででも兄弟ならなんでも話せるでしょ?いや雅美さんがいやならいいんだけど……別に法律上のどうのこうのというわけでなく、本当に兄弟になるわけでもないけど、二人の間だけの兄弟って事で……どうかな?」
コリーンは照れ笑いを浮かべた。
「じゃあ、あたしがお姉さんだね」
雅美が笑ってそう返したとき、コリーンは『う゛』という顔になる。
「私……14歳なんだけど」
「ええええ!!」
今度は雅美が驚いた。
コリーンと雅美が並ぶと7センチほど雅美の方が背が高い。そして雅美は童顔であるがコリーンはさらに輪をかけて童顔だ。コリーンが大人に見られるようにしているフレームの厚いダテ眼鏡も、本人の期待をよそに童顔に拍車をかけているのだ。雅美がコリーンを年下と思ってもダレが悪い訳でもない。
「ど~せ、私は背が小さいし童顔ですよ~だ」
コリーンがすねて見せる。
「ごめん、本気でごめんね」
雅美が手を合わせて謝る。
二人が顔を見合わせて微笑む。
「ふつつかな妹ですが、宜しくお願いいたしますコリーンお姉ちゃん」
「あ、ごめんね突然変な提案で・・・でもね、私、妹って夢だったのよ。宜しくね雅美さ……」
「あ、呼び捨てでいいからね、兄弟でさんづけなんて何かヤダし」
どちからとでも無く手を差し出し握手を交わす。
本来なら交差してはならない二人の道が、運命の女神の手をこぼれ交わった。
まさに、これがその瞬間だった。
コリーンと雅美が博物館を出たとき、すでに辺りは暗くなり始めていた。
二人は菱垣の指示通りに大学の研究室へ向かう。
「おねーちゃん、大学ってどこにあるの?」
「ココだよ」
コリーンは地面を指さす。
「ここが大学??」
今いる周りには定食屋だの文房具屋だの画材店だの書店だの、学校の近くにある店が多くならんではいるが学校の建物はちっともない。
「トライデントUN国際海洋大学って言ってもね、この街自体が大学なの」
雅美は返答に困っていた。
「うんとね、教室のほとんどは私たちが歩いている下にあって、上にあるのは事務局とか学生生協とかお店やさんとかでね、教室も上にあるものもあるけど講堂が1つと3教室だけなのよ。分かりやすく言うとここは大学の屋上になるわね」
雅美は納得した顔をした。
「氷山と同じ?」
「正解、下に建物を多くすることで浮力を維持してるわ。それに専門課程なんかでもいちいち港にいくよりも、気密室から直接海中へ行くことも出来るしね」
「でも人、少ないね」
「見た目はね。でも全生徒が集まると4000人くらいになるのかな。毎年の希望者も増加の一途だし。センター平均で得点率83.9%だから下手な医学部より高い数値ね。それと教授とか博士とか博士課程の人とか職員合わせると6000人にはなるかも」
コリーンが立ち止まると地面から円筒形の柱が出てくる。2メートルほど突き出た柱が2重のドアを開きコリーンはその中へ入っていった。エレベーターの様だ。
「学生の人はモノレール乗り場からエレウォークつかって学校にはいるんだけど、職員はエレベーターが普通ね。これだと目的地まで一直線で降りられるから」
「お姉ちゃんは学生じゃないんだ?」
雅美がコリーンのIDプレートをみると、そこにはプロフェッサーとドクターの文字が入っている。
「教授に博士??」
「っていっても、ペーペーのだけどね」
それでも14歳で取得できるのは恐るべき才能といったところか。
「ねね、おねーちゃん」
「?」
「あたしもこの大学に来れる??」
雅美は目をきらきらさせながらコリーンを見つめる。
「出来ないことはないけど、ちょっと難しいよ。まずスキップ試験うけて合格したらトライデントUN特別枠で試験を受けて、合格したら今度は一般学生と一緒に入学試験受けなきゃいけないし。それにここ2年はそんな生徒いないし……」
「え~、そんなに難しいの」
「18歳になれば1回本試験受ければいいだけだから、それまできっちり勉強したほうが良いと思う」
2048年現在、スキップ制度は普及していた。
しかし通常のスキップは付属初等科校での優秀者が、同じ大学付属高校へのスキップであり、普通高校から大学へのスキップもあるが雅美の年齢、つまるところ13歳が18歳と同じ位置までスキップするのは未だに例がない。
「そっか、そんなに難しいのか」
「雅美ちゃんは成績どのくらいなの」
「全然、今は初等科の7年生だけど学校行ってないし勉強も得意じゃないからなぁ」
「みんな勉強しに大学来るのよ」
コリーンはクスクスわらった。
「だって、あんな簡単な計算とか、歴史の4ケタの数字とか……なんでみんなあんなに一生懸命覚えるのかわかんないよ」
コリーンはその言葉がとんでもない内容であることに気がついた。
もしかしたらと考えたがその前にエレベーターが目的地に到着した。
エレベーターを降りるとそこは普通の校内だった。少し違うのは強化アクリルプラスチックの窓の外には海中が広がり、海洋牧場の中はライトで照らされ魚が群遊している所だ。
「ここが学校の地下6階、教室とかの下の階で研究室とかある所ね」
廊下は広くドアも大きい。バリアフリーという概念はすでにこの時代にはない、すでにそれが当たり前である為だ。階段は必要最低限に非常口などにある程度で、車椅子使用者などは非常用に専用の圧縮空気カタパルトが廊下の随所にある。
「ここには研究室が55あってさらに地下には同じ数の研究室、全部で350の研究室と教室や会議室とか休憩室とか娯楽室、散髪屋から美容室に図書館も。私もまだ全部行ったことないけどね」
「なんか、見た目より広いんだねぇ」
「上は小さいけど、下は横に広いし。さっきの博物館の下も教室があるんだよ」
「迷子になりそうな気がする……それにそんなに広いのにエレウォークもないんだね」
「研究者……だけじゃないけど、運動不足対策みたい、歩け歩けってね」
「車椅子の人とかどうするの?」
雅美がたずねるとコリーンは廊下の端に行きパネルを押すと壁から取っ手が出てくる。
「車椅子の人はこれを握ってボタンを押せば、取っ手が引っ張っていってくれるの。目の不自由な人もこれが目的地まで連れて行ってくれるってわけね」
海の中というのは健常者と障害者の差が出にくい世界といわれる。
海は全ての者を受け入れ、その幅は広くそして深い。
トライデントUNも基本設計の中に『海』の要素を幅広く受け入れ、海の一部になろうという理念が存在する。
「後は学生なんかは校則で禁止されているけどローラーブレードとか、ライトウォークとか。3年生の西梅田君はこの前トラックタイヤの一輪車だったわ」
コリーンは苦笑する。
「よぉ、コリーンこの前はサンキューな。また頼むわ」
「Hi、コリーン。たまにはウチの研究室に遊びに来なさいよ、ティントレットも会いたがってるわ」
ティントレットは鯉塚教室のジャンボハムスターの名前。
通り過ぎる人のほとんどがコリーンに声をかけていく、人気があるらしい。おじいちゃん教授なんかは飴玉をくれたりする。コリーンはその声をかけてくれた人たちに明るい笑顔で応対していた。
5分ほど歩くと目的の菱垣研究室へと到着する。
しかし、中からは喧噪怒号が聞こえて来る。
いつものコトだから、とコリーンは笑いながらドアを開けた。
『ばっかやろぃ!! おじゃましまーす』
菱垣とコリーンの声が丁度重なった。
「大陸棚設定を間違えたって、てめぇオレんとこ来て何年になる!!! そんな基礎の『き』もしらねぇと、間宮のジジィは何の講義してたんでぃ!!!」
実習に来ていた学生に向かって菱垣が怒鳴っている所だった。
「何年って、まだその子来て2ヶ月ですよ、菱垣チーフ」
「わかってらい、黙ってろ美月!」
菱垣は帽子をかぶり直すと自分の椅子に戻っていった。怒鳴られた学生は涙目になっている。
その学生のフォローをしているのは褐色の肌をした女性だった。
「雅美ちゃんは菱垣チーフはしってるでしょ、あそこにいるのがここのサブチーフの潮 美月さん。カッコイイでしょ、みんなからは『姐さん』って言われてるんだ」
コリーンは雅美に耳打ちした。
健康的な褐色の肌、後ろで縛られた濡れ烏羽色のロングヘアー、グラマラスなプロポーションに気風の良さ。もし彼女に合う役を与えるのなら海賊の女船長かもしれない。
「菱垣チーフ、雅美さんをお連れしました」
「あ、あああ。ずいぶん時間がかかったな、まぁ有り難うコリーン」
「いいえ、私も楽しかったですし」
その言葉が嘘でないことは笑顔を見れば分かる。
「雅美ちゃん、すまんが今夜は美月のトコに泊まってくれ」
「私も一緒に泊まりたいデース」
コリーンが手をあげる。
「美月~、1人増えたけど大丈夫か?」
学生フォローの終わった美月は振り向くとウィンクを一つする。
「いいそうだ。まぁ同世代同士だから話すことも沢山あるだろうしな」
菱垣は図面の一つを見つめると可の印を押した、さきほど怒鳴っていた学生の提出したレポートらしい。そしてアカペンで修正部分を添削して学生に渡しに行った。
「なんだかんだいっても、学生がかわいいのよ。でも厳しくしないと彼らが海へ出たときに甘やかしたせいで命を落としかねない、それが分かってる人なのよ。こんばんは始めましてね雅美ちゃんでいいかしら?」
美月が雅美に握手を求め、雅美は握り返す。
「コリーン、申し訳ないけど仕事が終わるのちょっと遅れそうなんだわ。ウチの部屋に先に行ってお米とお風呂の準備だけ先にやってて貰える? 雅美ちゃんにはここの説明と帰りがてら街の説明して行くから。冷蔵庫の中の物勝手に使ってエエからね」
「わかりましたー、雅美ちゃんまたあとでね」
コリーンは笑顔で手を振り出ていった。
「さてと、可愛いお客さんが来てるんやからとっととおわらせな」
美月は笑顔でコンパネに向かった。
雅美も色々とあった装置をいじっている。
「美月さんこれ何?」
雅美はヘッドフォンをかぶる。
「ああ、それはね海の中の音ひろってるんだわ。海洋牧場のカウボーイ達との連絡用なんだけどね、まだまだ彼らの言葉は未翻訳で、もっぱら高性能の海音調査機ってとこね」
「……」
海の中の音は結構騒々しい、魚の泳ぐ際の鱗の擦れる音や時々来る大音量の『コン!』という音は雅美も知ってる音紋であり、入港の際の合図である。水中翼船の滑走音、トライデントにぶつかる波の音。
「」
雅美はその音の中に奇妙な音を感じた。
小さい。
本当に小さい声で、唄が水の中に流れている。
その声に合わせるように、周りの音は小さくなりそして唄だけが耳の中に入ってくる。
静かに雅美が目を閉じると、雅美は海の中にいた。
海の中
あなただれ?
樹の船
アナタの船?
ただいま
おかえり?
唄
アナタの唄?
求めるもの
時?
わたしは
静かな世界
まだ
その時じゃない?
長くから
まっててね
我が友よ
「雅美ちゃん!?」
雅美に声をかけたのは美月だった、突然静かになり音に聞き入ってるのかと思っていた。そして疲れているのか寝ているのかと思ったが、唇はわずか動いていた。しかし呼吸をしてなかった為にチアノーゼ症状が出ていたのだ。時間にして10数秒。
「へ? あ、あれ~??」
気がついた雅美はさっぱりだった、記憶もさっぱりない。
美月は後日この現象を海の持つリズム、過1/α波による一時的な離脱症状。交感神経過抑制によるものと報告したが、憶測の域を出なかった。
デジタルはDNAとよく似ている。グアニンとシトシン、アデニンとチミンの2組の塩基しか無く0と1の2組しかないデジタルとDNAは似ている。
DNAの狂いは人間の設計図に変化をもたらす。
機械にとっての0と1の狂いはわずかであってもすぐに修正が効く。精密図形になればなるほどわずかなミスは見つかりにくいのに比べれば、単純なプログラムミスは発見されやすい。
機械が高度であり、また自らのミスをFIXし、修正する機能があると人間はそれを知覚する事が出来ない。そう言う風に作られたからだ。しかしその歪みは今現在は小さくとも……・。
「たっだいまー」
美月の部屋はトライデントUNの職員寮からはかなり離れた繁華街の中にあった。
「おかえりなさい」
コリーンが白い割烹着をつけて出てきた、ジャーからは湯気が出ており鍋がコトコト音を鳴らしている。畳敷きの6畳間が2つと台所といった平均的な部屋だ、最低限の物はそろっていた。居間にはちゃぶ台が置いてあり、木目調家具テレビがあった。雰囲気は1970年代の日本の一般家庭を思わせる、が隣室にあるPCだけは最新モデルでコリーンがもっぱら羨ましがった。
繁華街の中のため通りの人々の声や、居酒屋からの騒ぎ声など聞こえてくるが、元々にぎやかなミナミの街で育っただけあって、美月はその方が落ち着くといった。
「おねえちゃん、そのカッコなんか似合う」
雅美が嬉しそうに言うとコリーンが照れる。
「お姉ちゃんって?」
24時間営業のスーパーで買い物してきた美月達は荷物を下ろす。
トライデントでの生鮮食品の物価は高い、特に野菜類である。研究者を始めほとんどの人間がビタミンサプリメントでバランスを取ることを考えれば、生野菜等は特別な時に食べるくらいだ。菱垣達のような古参の人間は割とサプリメントの受け入れが悪く、肉だの野菜だの食べたがる。だからデブなんだと美月は笑った。
「で、さっきのお姉ちゃんって?」
作業服を脱ぎ黒のショートスパッツと菱垣研究所のティーシャツを来ているときに、コリーンと雅美に尋ねその話を聞いた。コンタクトを外しフレームレスのチタン眼鏡をかけた美月が話を聞きながら笑顔で頷いている。
「(チーフの狙いがこうもスパッとはまると、ちょっと考えちゃうわねぇ)」
美月は菱垣の考えをしってただけに、菱垣の人を見る目に改めて感心する。
菱垣はコリーンの心の隙間を知っていた、その隙間を埋める事は自分には出来ない。同世代の子供とは違う人生を送ってきたコリーンにとって、本当に心から話せる友人は皆無であったからだ。源三郎から連絡を受けたとき、菱垣の中では様々な考えが頭をよぎった。そして雅美とコリーンを会わせることにした、コリーンが雅美と共に美月の部屋に泊まりたいというのを、反対とか渋ることなく即決したのもこの考えによる。
「さて、夕飯にしよっか」
美月が膝をポンっと叩くと立ち上がる。
夕飯はご飯にコリーンの作った肉じゃがに、美月の作った水炊き。
普段の研究の話しだけになる食事と違い、にぎやかな笑いの多い食卓となった。
具の無くなった水炊きに美月がうどんを入れているところ、コリーンが立ち上がりあわててPCの前に座った。
「ごめん、美月さんPC借りるね。すぐ終わるから」
コリーンは海水温度データーを呼び出すと自分のPCへ転送した。横から雅美が覗いている。
衛星から入ってくる海水温度データーは衛星映像ではなく、数値データーとして画面を流れる。100平方メートル毎のデーターであるため数字だけがドカドカと流れていく。本来ならすぐにこれを映像に作り直し海水温度分布表を作るのだが、季節柄さほど海水温度の動きはないし同様の作業を行っている人間は学校内に20人はいる。急いで作図する必要もないが、データー転送自体は時間が決まっているためこれは今の時間でなければならない。
「おっしまい、ごめんね」
「あれがおねえちゃんの仕事?」
「仕事というか、私の研究の一つでね。ああ、ほら早く行かないと美月さんひとりでウドンたべちゃうよ」
「あ~、ホントだ」
「美味しい物は早いもんがちよ、それが兄弟ってものね」
8人兄弟の大家族の中で育った末娘の美月の言葉には重みがあった。
「たべたぁ~」
雅美は行儀悪く後ろに仰向けになる、源三郎のクセだ。
「ほんとうだね、3日分食べた気分」
コリーンもため息をつく。
その一方で美月はまだ食べていた。
「二人とも少食ねぇ」
といいながら美月はうどん2玉を鍋に入れた、まだ食べる気らしい。雅美とコリーンが食べた量も、同世代からすれば多めの量だったのにも関わらず、その3倍の量を美月は食べていた。
「食べられるときに食べる、寝られるときに寝る。研究者の初歩よ」
美月が食べ終わったのはそれから15分後の事だった。
食器を流しに並べ、洗い片づけると3人はちゃぶ台を囲んでお茶をすする。
「じゃあ、ウチは食後の運動してくるから二人先にお風呂はいっちゃって」
「食後の運動?」
「美月さんは毎日ロードワークしてるんだって」
そう言っている間に美月はティーシャツの上にパーカーを羽織ると玄関へ向かう。
「あんなに食べたのに、運動して大丈夫なんですか?」
雅美は唖然とした表情で見送る。
「食べたから運動してカロリー消費しなきゃ、じゃなきゃこの体型維持できなくてね」
美月はそういいながら、ジェルソールのスニーカーを履き込むと勢いよく部屋を飛び出していった。
「美月さんって、プロポーションいいよねぇ」
雅美がぽそりとつぶやく。
「そうだよね」
二人は自分の胸を見つめた。
「まぁ、人それぞれってことで」
「そうですわね、お姉さま」
しばらーくなんとも静かな空気が流れる。
『Hey lady! The coast is clear.』
「へ? なに??」
雅美が辺りを見渡す。
『Oh,you are bath seem to going to pot.』
「Stop,close your mouth.」
コリーンが壁に付けてある小型のインターホンに向けて命令すると、風呂のマークのついた赤色ダイオードが消える。
「ほとんどの家ってわけじゃないけど、簡単な事ならオートメーション化されてるの」
「すご~い、あたしのウチにはこんなのないよ~」
美月の部屋は畳敷き8畳が2間あるだけの、見た目普通の10階建てマンションだ。美月の部屋は元の内装を無許可にリフォームし、植物系の素材を多く取り入れている。内装に畳や木材を使うのが最近の人気。
「さっきのはお風呂のお湯が溜まったってお知らせ、もちろん使う人の設定でいろんなメッセージが出てくるの」
「へ~~」
雅美は立ち上がるとインターホンを見つめた。普通の壁掛け液晶電話にしか見えないが雅美は見るのが初めてだった。ちなみに日本全国で普及率は97%を越えている『普通の家電』だ。
「雅美ちゃんちってどんな家なの?」
「ふ、ふつうの家だよ」
雅美が焦っている。
「それじゃあわかんないじゃない、詳しく教えて」
雅美が渋々口を開く。
「茅葺き屋根ってしってる? 大黒柱ってのがあって……」
「もしかして……」
茅葺き屋根の家というのはこの時代の民家園にもない。
「あ~……やっぱ恥ずかしいよ」
「すごい! なんて素敵なところに住んでるの!? うらやまし~」
「へ?」
「すごいわよ、この時代に総植物性素材で出来た家なんて!!」
確かに。
森林伐採に厳しい規則が作られたこの時代、木材の家は高価で『畳』なんかは今主流の冷暖房フローリングに取って代わり若者に人気があるのは先ほどの通りだ。
「そうなの? 中ノ鳥島じゃあウチだけなもんだから、なんというか……」
「今度遊びに行ってもいい?」
コリーンの目は本気だ。
「お姉ちゃんならいつでもいいよ」
雅美はにっこり微笑んで答えた。
美月は歓楽街のビルの谷間を抜け、住宅街を走り抜けて開発中の近くの公園へ走り込んだ。
美月の家からの直線距離は7キロ少し、汗を流したまま自動販売機でミネラルウォーターを購入する。キャップを噛むと栓は外れ、それをペッっと吐き捨てる。辺りに人気の無い公園だった、ベンチに腰掛けて一気に水を飲み干す。口の端からこぼれた水が頬を伝い、運動によって紅潮した耳下から細く長い首を流れ、浮き出た鎖骨の窪に一旦足を止めて双丘目指して下る。
「わぎね?」
闇から浮かび出てくる人影。
「すぺあるなびしっちゃ、わんのうちかみってるちゃね」
「だれば、そうせいでんばいかんよ」
「ちゃ、それはあやまるっち。ゆんのはなしばせんね」
「とうとぁわぎあしたっちゃ、ばつぁぱふぇくわぎあしやねいけんな」
「なんでね」
「しょっつたぁむわぎあしちゃ、ぶれあんえれあと」
「わずなぁやぁ」
「ふぇあくてぃあんぬんよ」
「だれば、なんもないといっしょだがねっちょ」
「なぁ」
人影は煙草をくわえると火をつける、男のようだ。
「客って誰さ?」
「すぺしあるなびしっちゃ、ゆんのあんぬんひとじゃがねっちょ」
「研究所の人間か、まぁいいやオレの範囲じゃないしな」
男は振り返ると闇の中へ消えていく。
「たまには仕事抜きで、食事なんかどうだい?」
「やよ、前の男とまた寝る趣味はないの。生まれ変わって出直してらっしゃいな」
「相変わらずきっついなぁ」
男の気配が完全に消えると、美月は立ち上がりもと来た道を走り戻り始めた。
朝。
まず最初に起きたのはコリーンだった。見渡すと寝相の悪い雅美と美月がパジャマもはだけあられもない格好で寝ている。
そっとコリーンは雅美と美月の間をぬってパソコンの前に座る。
「おねーちゃんオハヨー」
雅美は目をこすりながら枕を抱いて起きあがる、頭にはピョコっと寝癖がついている。
「ごめん、起きちゃった?」
「大丈夫~、また昨日の?」
「ごめんね、この時間にもデーター来るのよ」
コリーンは大きな音を立てないように静かにキーボードを打ち始める。
昨日同様、100平方メートル毎のデーターが流れる。
雅美がコリーンの横に来る。
「ねぇ、おねーちゃん」
「ん?」
「こっちが座標で、こっちふぁ海水温度だよね」
寝起きで雅美の声がかすれる。
「うん」
数字はすさまじい勢いで流れている。
「海水温度が2度あがるってことある?」
「……!」
海水の温度は太陽光線にさらされても極端に変わることはない。それ故に海水温度が1度や2度あがるエルニーニョなどは恐ろしいまでの環境変化を生み出すのだ。
「えっとね、座標が5F85B3の04823Cのとこ、昨日おねえちゃんがみてた時の数字より温度が2度ちがったの」
雅美にはこの言葉のどこに問題があるか判らなかった。
「美月さん、起きて!!」
コリーンが大声をだすと、雅美が一歩引いた。
「電話、菱研!!」
コリーンの声に自動的に電話がかかる。
「どうしたの?」
美月がゆっくりと起き出す。
「DSかもしれない」
コリーンの声に美月の表情が変わる。
『はい、菱垣研究室の竹田です』
「竹田君? あさっぱらからゴメン。コリーンですけど、至急で座標5F85B3の04823Cの比較とデコイ射出急いで!」
『了解、菱垣先生いますけど替わりますか?』
「おねがい」
『なんじゃ、あさっぱらから』
「先生、美月です。先ほどの座標で海水温度の異常がありました。調査ブイの射出お願いします、もしかしたら死海現象がでるかもしれません。船の道からは外れてますが、潜水艦の道と交差しているかもしれませんので、至急でお願いします」
『判った、5L-Peeksでやらせる』
「お願いします、通話終了」
コリーンは昨日のデーターの呼び出しにかかった、図面にはしていないため数値データーのみだ。
「すごいわね、よくこんなのがわかったわねコリーン」
「私じゃなくて雅美ちゃんです」
「…………」
美月が後ろを向くと、雅美はきょとんとした顔をしている。
自分がどれだけすごいことをしたのか判っていない表情だ。
「(フラッシュ? 超短期記銘力? 違うわね、たぶんこの子はコリーンと同じかも)」
美月が雅美を見つめながらそう考えていたとき。
「雅美ちゃんビンゴ、美月さん、3度チェックしましたけど上がってます」
「完全な出し抜きね」
「出し抜き?」
コリーンはパジャマを脱いでキャミソールを頭からかぶりながら説明した。
活海底火山や新島発見の場合、最初に発見した人間が研究や調査の最優先権を得る。
「研究室へ急ぎましょう」
「雅美ちゃん、今日は観光施設の案内できそうにないわね。ゴメン一緒に来てくれる?」
美月は顔の前で手を合わせる。
「???????」
雅美はこの状況がちっとも判らない、判ったのは『なんか大変そうだ』くらいである。
海に生きる知恵はあっても海の科学という知識は全くない13歳の女の子なら当然だ。
研究室内はあわただしかった。
「映像はまだ入らないのか!?」
「エアプレーン、デコイ投下地点到達まであと3分」
「トライデントコーポレーションから契約完了通知来てます」
「海中気象レーダー範囲外、ドップラーも帰ってきません」
各自がコンソールパネルの前に座っている。
「おはようございます、状況報告よろしく」
美月は作業服の腕を腰に巻きしめると自分の椅子に座る。
「菱垣先生、私も混ざらせて頂いてよろしいですかー?」
コリーンが手を挙げる。
コリーンは正式には菱垣研究室の職員ではない。
彼女の年齢は研究所職員就業規約年齢の範囲外である、トライデントコーポレーションで働いてはいるものの、日本の法律での就業年齢に届いていない。勿論、彼女だけが特殊な例である為だが、どこの研究室にも呼び出さればお手伝いなどにも出かける。フリーランスもしくは便利使いされているだけであるが、コリーンは必要としてくれている人がいる事に充実を感じそして幸せだった。
「ああ、じゃあ4番を頼むコリーン」
「了解しましたー」
「データーの画像化が終了してます、気象衛星一個確保しました。場所はハワイ沖北北東83k、通常艦船航路ではありませんが、USマリーンの演習海域内です」
「うげ、奴らか」
美月が渋い顔をする、以前なにかあったようだ。
「しゃあない、USホノルル基地とオンライン」
「美月、やな顔するな。こういう時はお互いに協力しなきゃな」
菱垣の声に力のない返事が返ってくる。
「デコイ到着、国際研究標準ビーコン射出。衛星キャッチ、信号クリア」
「ねぇ、いまのなに?」
雅美はコリーンのそばにいる、コリーンは忙しそうに指を動かしながら笑顔で答える。
「場所が軍の演習地だったりすると、スパイとかと間違われちゃうでしょ? そうじゃなくて研究用なんだよって教えてるの。それが国際研究標準ってので、これを邪魔だからって壊すと法律で罰せられちゃうわけ、そんなのしりませんでしたーってしらを切らないように、国際衛星で受信して証拠をのこしてるとこ」
「データー来ます」
海水温度は表面+1.68、水深50mで+2.07。
「映像来ます」
「……」
菱垣がヒゲをいじる。
来た映像では、海面に薄い黄土色の絵の具がばらまかれた様になっている。
研究者全員がそのモニターに釘付けになる。
島が産まれる前駆症状、海底火山の予告、わずかながら地震も観測。
これだけ発見が早ければ様々な艦船に注意を促すことが出来る、少なくとも100キロ四方の範囲に艦船は入ってこない……はずだった。
「……なにこれ?」
研究員の一人がつぶやく。
コリーンと雅美がのぞき込み一つのレーダーを見つめる。
「船?」
雅美の声にマークが測定に入る。
竹田もその日その場所にいる可能性のある船を手早く調べる。
「チーフ!」
竹田が叫ぶ。
「海洋大学の実習船『にしかぜ』が付近に居ます!」
「なんで今まで気が付かなかった、バカヤロウ大至急呼び出せ!」
竹田が呼び出しをかけている間にマークが情報を集める。
「昨日夕刻にトライデントUNを出航、本日マーシャル諸島南東部で実習予定でしたが。正体不明の艦船と接触、ブラウン運動抑制電流系が破損、浸水修理後の漂流中でこれから4時間後に他の実習船とコンタクト、修理の予定でした」
夜間だと船同士の水流障害で危険が大きい、そしてどこかの島に座礁する危険性もなかったため日の上がった後に修理する手はずが裏目に出た。
「当該水面温度、50で+9.7度」
「このままですと、1時間で水温異常地域に入ります。噴火予測地点のぎりぎり北端をかすめます」
ブラウン運動型船は、自由に動き回る水分子を整列させ水の動きを後方へ一直線にすることで、水の上を滑るように走る。しかしブラウン運動自体を調整することは出来ず、それを阻害する電流を流すことで船の速度を調整する。重量の軽い水中翼船は常に抑制電流を流していないと、速度に強度が追いつかなくなる。大型船でも水中翼船同様のスピードが得られるが、船体強度が持たないためにブラウン運動板を小さくしている。それでも速度的には十分なスピードを得ることが出来る。
「通信繋がりました」
『こちら海洋大学実習船にしかぜです。データーは受け取りました、早速回避したいのですが……』
「抑制電流が出せないだけだろう?」
『はい、それと舵がききません』
菱垣は困ったという顔をして腕を組んだ。
ブラウン運動は水温によって活発さが違う、水温が高ければ高いほど激しくなっていく。通常ならば水温0度で通常運行可能な状態に設定されている。その船が熱湯の中に入ったとき、理論上なら水温22度まで船体は保つ様に造られているが、急激な加速に船体は耐えることがないだろう。
『現在、にしかぜは速度27ノット(約50キロ/時)で走行中、乗員26名です』
研究室に沈黙が流れる。
舵が効かなくなっても抑制電流を片方にかければ船の向きを変えることは可能だ。しかし、今回はその抑制電流も故障してしまっている。しかも速度27ノットでは救難艇を下ろすことも出来ない。
「研究報告書20340213推敲、ブラウン運動板劣化における船体移動実験」
その静寂を破ったのは雅美だった。
「海中浮遊物がブラウン運動に抑制をかけるのは可能であるものの、ブラウン運動自体が水の0度から100度以内の範囲を守っている限り、一定の物質がある一点の濃度に達したときその働きが抑制されるのは理論上あり得ることである、これは劣化の激しいブラウン運動板自体にダメージを与える物だけではなく、その理論自体に問題がある事も前出の通りである。今回行った実験では次の物質をそれぞれ対象比較し算出されたデーターである」
この理論が正しければ、もしかしたらとその場にいる誰もが考えた。しかし雅美は口をつぐんでしまう。
「どうした、先を続けないか」
菱垣が促す。
「ないの」
「?」
「それから先の紙がなかったの」
雅美が3歳の頃、両親が雅美のお絵描き用に不必要な書類の裏面を与えていた。その書類の表書きを覚えていたのだ。
「美月、菱博士に連絡を。大至急で来て貰ってくれ」
「……これらの活動を抑制する物質は海上環境には無いため、通常航行の妨げにはならないものの、ブラウン運動を抑制する物質があることは全ての可能性を否定できない海洋科学において考査するべきものである。今現在発見されているのは2系統あり、ブラウン運動自体を抑制する物質と、ブラウン運動板を損傷させる物質である」
菱垣の隣に一人の女性が立っている。
菱雅子、雅美の母親であった。
「あたしが学生の頃に発表した原稿、よく覚えてる人がいたもんね~」
「菱博士、運動板なら君の方が判るだろう。もちろん報酬も出す」
「今回は人命救助のボランティア。お互い独立研究室同士じゃない、こういうときはそう言う野暮言うのはナシ」
雅子は雅美の方へ一瞥して無言で菱垣のモニターをのぞき込む。その時、雅美は軽く会釈をしただけだった。
そして、こうしている間にも船は危険水域に近づきつつある。
「ブラウン運動は水分子の動きを均一化する機関であって、海の中の物質には作用しないわ。その為にマグネシウムとかカルシウムなんかは抗塩処理することで、運動板の劣化を防いでる」
「ブラウン運動板自体は劣化が激しいからな」
菱垣がなにやら考え始める。
「抗塩処理って確か、似非セルロース」
ブラウン運動板の働きを阻害せず、抗塩機能をもったVibrio parahaemolyticus(腸炎ビブリオ菌)が作り出す対塩防衛酵素を組織化したものだ。
「実習船にしかぜへ、実習に使ってる作業船は何機?」
『8機です』
「分解作業に入ってください、中に入ってる緩衝剤を抜いて貯めて置いて」
コリーンが指示を出す。
「ああそっか、緩衝剤は糖質コロイドでできてるんやから」
「はい、似非セルロースと糖質コロイドを合わせると似非セルロースが変質して脱落します」
コリーンが続ける。
「2038年の実習船『はくげい』号が海底作業船を外装にぶつけ、緩衝剤が海に流出。大学に帰ってきたときには新品の運動板に耐用年数を超えた劣化が認められた……」
雅子が拍手する。
「正解。ブラウン運動板は直進走行を安定させるために、後尾部分が3度外に向いてるわ。片方の運動板を劣化させて運動板の水分子整列機能が落ちれば」
戦車のキャタピラと理論は同じだ。
「船が曲がる訳か」
菱垣が唸る、問題は片方が0ノット、片方が27ノットになったときの遠心力だ。問題はそれだけではない、運動板の強化のプログラムはあっても劣化のプログラムというのは無い。だから、何リットルの糖質コロイドを流せばいいのか計算が出来ない。海の流れや潮の高さも一定であるわけでないし、糖質コロイドを流したとしても、片方だけに当たるわけでもない。
「誰でもいいから大至急計算しろ! それと竹田は船が水域にはいるまでの予測時間だしておけ! 美月、接触予定だった実習船に連絡して現状を報告しておけ」
それぞれが作業に取りかかった。
結果から行けば成功はした。
計算式が無いため、計算式の算出自体に大きな時間をさいてしまった。
危険区域まで18分を切り、このままでは助からないと誰もが考えたとき。
その現状を打破したのは雅美の一言だった。
「速度が落ちれば、救難艇で逃げられるんじゃないかな?」
実に子供的発想。
しかし、考えれば実に簡単なこと。
大人達は、片方だけを……と、執着したために大きく見ることが出来なかったのだ。
計画は即実行された。
実習船『にしかぜ』は、表面温度36度の地帯に飛び込んだときに、船体をきしませ船尾が食い込む形で圧壊し沈んだ。
救難艇を常にモニターし無事に数時間後、回収された時は菱垣教室に拍手が起きた。
昼食も取らず、働く菱垣達を見つめながら邪魔にならないように、こっそりと雅美は研究室を出た。
雅美はテラスに置かれているベンチに腰掛けた。
太陽はすでに傾き始め、決断の時間が迫っている事を知らせていた。
どちらかを選ばなければならない。
その為にここに来たからだ。
「あら、あなたもここにいたの?」
雅美は一瞬身体を緊張させた。
「隣、いいかしら?」
「……どうぞ」
雅子は雅美の隣に座ると、夕日を眺める。
「昨日も会ったわね、お名前きかせてもらってもいい?」
雅子は常に笑顔だった。
「ま……真美です」
「真美ちゃんか、いい名前ね。おばちゃんにも真美ちゃん位の娘いてね」
お互いの間にぎこちない空気が流れている。
「おばちゃんね、悪いお母さんでね。私の娘、雅美っていうんだけどね。3歳の時に旦那のお父さんに任せてここにきちゃったの、それ以来12年ほったらかしでね」
雅子は何か一言一言つむぎ出すように言葉をつづる。
雅美はそれを硬い表情で聞いている。
「昨日、突然娘に会ったの、すぐに分かったのよ雅美だって。でもそこからダメね、いつでもどこでも話せるって思ってたのに、実際会ったら娘との接し方が分からなくて……ひどいこと言っちゃったのよ……本当にダメな母親よね、実の娘とまともに話しも出来ないなんて」
雅子が苦笑する。
「あ……あのね」
雅美が言葉を振り絞る。
「あたしが雅美ちゃんだったら、そのとき、きっと苦しかったとおもう。けど、おばさんのその言葉聞けば雅美ちゃんも許してくれるよ。お父さんとお母さんが本当に嫌いな子供っていないとおもうよ、うん!」
雅美の笑顔につられて雅子も笑顔になる。
「2歳の時だったっけ、雅美がちっちゃい手で私の手握ったときにね、この子に何か残してあげたいって思ったの。おっきな物を未来に残してあげたいって、それでね……雅美も大きくなったら母親になるときが来ると思うの、そして子供達に『あの島はお前たちのおじいちゃんとおばあちゃんが造った島なんだよ』って、自慢させてあげたいって思ったの。胸を張って言える様にね。でも結局、自分勝手なんだよね、どんな綺麗な言葉にしても12年もの大切な時間を一緒にいてあげられなかった罰は受けなくちゃいけないんだよね」
日がじっくりと傾き始める。
「大丈夫だよ、おばさんの子供ならきっと元気で優しくて可愛い女の子に育ってるから。今みたいに心開いてちゃんと話せば絶対分かってくれるって」
「そうね、いつかきっと判ってくれる時が来るかもね」
それから数分間、沈黙の時間が流れる。
「あたしね」
口を開いたのは雅美だった。
「あたしね、ここに決めに来たの。もう決めなきゃいけない時間なんだけど答えが全然でてなかったの、でもねおばさんと話ししてる内に段々判ってきたの」
雅子の表情が曇る。
「きっと雅美ちゃん、今、こう思ってると思うよ」
潮風を受けながら一拍おいて雅美が言葉を風に乗せる。
「『産んでくれてありがとう、お母さん』って」
きっと日が落ちて暗くなるのが数分遅かったら、雅美の一杯の笑顔に雅子は泣いていただろう。
「じゃあ、あたしもう帰る時間だから。菱垣おじさんとかにも挨拶しなくちゃいけないし、また会えるといいね」
「……そうね、真美ちゃんも頑張ってね……」
「うん!」
母と娘の12年という溝は急速に縮まったが、無くなるまでには至らなかった。
最後までお互いを他人としてでしか話が出来なかった。
後悔だけが胸に残った。
静かな潮騒が響いていた。
「なんです、泣いてるんですか?」
きたのは雅子の夫で雅美の父親。
「雅美に会ったの」
「そうですか、ちゃんと話は出来ましたか?」
雅子は首を横に振る。
「珍しい、雅子さんらしくないですね」
「時間が、12年って本当に長いのね」
「そんな事、という訳ではないですけど、雅子さんの持ち味は即断即決即行動、思い立ったが吉日ではなかったんですか?」
優しい夫は雅子の髪に優しく触れる。
「歳を取ったのね、それだけ」
「枯れるにはまだ早いでしょう、こんなに魅力的なのに」
「世界で1番愛している娘よ、突然会ったのよ、初恋みたいな感じだったわ」
そっと後ろから雅子は抱きしめられる。
「他人になっちゃうのかな」
「私と雅子さんの娘です、あの子が決めたなら間違いはありません」
「私もそうやって信じてあげなきゃいけないんだよね、でもきっと自分に自信がないんだとおもう」
「それでいいんですか?」
「私は、旦那みたいに頭良くないし、物わかりも良くないけど。でもやんなきゃいけないことはわかってるんだとおもう」
「その通りにやればいいだけではないですか?」
「旦那、あの子ね、最後にお母さん有り難うって言ってくれたんだ」
「最高の言葉ですね」
「うん……」
見送りにはコリーンが来てくれた。
予定時間より少し早く源三郎との待ち合わせ場所に到着した。
「雅美ちゃん、決まったの?」
コリーンは小さな声でたずねる。
「うん……」
雅美はにっこり笑う。
「大体2つあるのに1つだけ選べっていうのが大人の勝手なのよ。だからあたし、両方取ることにしたの家族全員好きだから」
「へ??」
コリーンの目がまんまるになる。
「頑張れば2年で学校入れるんだよね? あたし絶対ここに来るから」
「よぉ、早かったな雅美!」
「あ、おじいちゃんだ、えっと紹介するね私のおじいちゃんで、こっちはおねえちゃん」
源三郎は分かったような分からないような表情をしていたが。
「雅美のお姉ちゃんなら、ワシの孫だな!」
源三郎が大笑いをする。
「家族が増えるのは大歓迎だ、こんど中ノ鳥島の家に遊びに来なさい」
コリーンの肩をポンっと叩く。
コリーンの表情は複雑だった。
「家族……家族なんて……」
コリーン自身の言葉ではあるが、心の湿った奥底から出されたようにつぶやくが、そのセリフは周りの雑踏に紛れ、その声は雅美達に届くことはなかった。
船員専用のゲートへ向かう雅美達の後ろ姿を、いつもと変わらない笑顔でコリーンは見送った。
わずか数日だったが、雅美がいなくなる喪失感がチクチクと胸に刺さった。
東京家庭裁判所
調停
菱雅美の親権者を菱勝、菱雅子とする。
菱雅美の満20歳までの監護権者を菱源三郎とする。
但し、菱勝、雅子両夫妻は最低でも1ヶ月に1度雅美と面会しなければならない。
これが果たされないときは親権者は菱源三郎になるものとする。
以上
西暦2050年8月24日水曜日
国際海洋大学合格発表
「美月さん見えますか?」
今時の合格発表はメールとかが普通なのに、古式ゆかしく掲示板で発表するのも海洋大学名物だ。
「コリーン、雅美ちゃんの番号何番だっけ?」
「えっと……」
背の高い人間に囲まれ、掲示板を見るどころか背中しか見えないコリーンは美月に確認を頼んでいた。
「EF1858です」
「……1851……1859」
美月はコリーンの肩を叩く。
「仕方ないわよ、まだ15歳だもの。また18歳になれば受けられるんだから」
「……」
コリーンはうつむき脱力しているようだ、手から雅美の受験番号をメモった紙がこぼれ落ちる。
「あの、紙おとしましたよ」
「もう、いらないんです」
声をかけた人は紙を拾ってその番号を見た。
「非道いなぁおねえちゃんったら、人の受験番号おっことすなんて」
「!?」
「どうしたのおねえちゃん」
しばらく沈黙、雅美は笑顔だった。
「……残念だったね、私、まってるからね」
「そうね、まだまだチャンスは沢山あるんだし……フ、フフ」
美月が笑い出すと、つられて雅美も笑い出す。
コリーンがいぶかしげな表情をする。
ひとしきり笑った後で雅美が涙を拭きながら。
「特待生の合格発表は1週間も前だよ」
コリーンの顔が段々と赤くなる。
「美月さん、知ってましたね!」
「うん、雅美ちゃんから電話もらって内緒にしてよーって」
「二人してだましたのね!」
「だましてないモン、黙ってただけだもん」
「同じ事よ、なによ2年ぶりに会ったのに雅美ちゃん身長伸びてないじゃん!」
「あ~言ってはならないことを、お姉ちゃんだって同じじゃない」
「私は……ちょっとだけど伸びたわよ」
「まぁまぁ、これから私の家でお祝いしない?」
国際海洋大学2050年度入学生722名、総勢約4000人の物語が始まる。