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長崎県大村市三城町に佇む「長崎県忠霊塔」は、1934年(昭和9年)9月に建立された、全国でも有数の歴史を持つ戦没者追悼施設です。
かつてキリシタン大名の大村純忠の居城であった三城城の本丸跡に建てられており、行政や軍、そして県民が一体となった「県忠霊塔建立委員会」の主導によって計画されました。建設にあたっては、県民の総意としての多額の寄付金が「浄財」として集められたほか、多くの地域住民が自発的に現場へ足を運び、工事を手伝う「勤労奉仕」によって完成に至りました。塔内には、戊辰戦争以降に命を落とした長崎県籍の英霊約6万7百余柱(のちに6万数千人)が合祀されています。
建築としても非常に特徴的で、神聖な本殿と伝統的な三重塔が融合した、全国的にも極めて珍しい独自の構造を持っています。敷地内には戦没者の遺骨を厳かに納める「納骨堂」や、旧陸軍歩兵第46連隊の将校たちの個人墓碑が今も静かに佇んでいます。
また、本殿の正面上部には1938年に奉納された「敵国降伏」の扁額が掲げられています。この言葉は一見すると軍国主義的な過激な印象を与えますが、本来の理念は武力による制圧ではありません。「我が国が優れた道徳や正義の力を磨くことで、敵国がその徳に感化され、自発的に戦う意志を収める」という、道義立国の高潔な理想と平和への祈りが込められています。
長崎県忠霊塔は、単なる公的な慰霊碑にとどまらず、郷土の結束と平和への強い願いが刻まれた歴史的記念碑であり、今も地域の人々の手によって大切に守り続けられています。
長崎県大村市の三城城跡にある長崎県忠霊塔の境内南部には、戦没者の追悼と遺骨の奉安を目的とした「戰爭事變戦没者合同碑(御霊殿)」が設置されています。
これらは、明治維新の戊辰戦争以降、日清・日露戦争や諸事変で命を落とした長崎県籍の戦没者6万7百余柱を祀る本塔の機能を補完する施設です。昭和9年(1934年)の忠霊塔建立へ至る過程において、この合同碑の前に花香台(献花台)および石灯籠を建設・設置する寄付事業が立ち上げられました。この計画に対し、当時の陸軍大臣であった林銑十郎(のちの第33代内閣総理大臣)が行政上の最終的な許認可(決裁)を行い、公的に許可を下したという明確な歴史的記録が遺されています。
敷地面積約1,010平方メートルにおよぶ霊苑内には、これら合同碑(御霊殿)のほかに、旧大村駐屯の歩兵第46連隊関係などを含む旧日本陸軍の個人墓(将校1基、下士4基、兵卒9基の計14基の墓碑)が今も残されており、一体的な追悼空間を構成しています。
本施設は、当時の軍部による公的な手続きと、県民の総意としての浄財・勤労奉仕が結びついて形作られた歴史的遺構です。現在も、戦没者の功績と戦争の記憶をそのままに留める厳格な遺骨奉安の場として、その構造と歴史がそのまま現地に守り伝えられています。
長崎県大村市の三城城跡に位置する長崎県忠霊塔の参道沿いには、参拝者が身を清めるための施設として「水盤舎(すいばんしゃ)」が設置されています。この建物は、忠霊塔が持つ厳粛な神域としての歴史を伝えるだけでなく、戦前の長崎県における社会的な繋がりや郷土の記憶を今に残す貴重な建造物です。 [1, 2]
この水盤舎は、かつて長崎県北松浦郡佐々町で「報国炭鉱」を経営していた炭鉱主、太田長市(おおた ちょういち)によって寄進(奉納)されたものです。長崎県小値賀町出身である太田は、故郷から多くの鉱員を呼び寄せ、社宅や厚生施設を整えるなどして鉱員とその家族の生活を深く支えながら炭鉱を経営した人物として知られています。彼が手掛けた報国炭鉱は昭和40年(1965年)に閉山を迎えましたが、佐々町には今も「報国」の地名が残り、大村市の忠霊塔には彼の生きた証としてこの水盤舎が残されています。 [1]
現地の配置において、水盤舎のすぐ裏手には、かつてこの地がキリシタン大名・大村純忠の居城であったことを示す歴史的な「三城々址」の石碑が佇んでいます。しかし、水盤舎の背後に位置しているため、来訪者が城跡碑の存在を容易に認識しにくい配置になっているという現地の特徴もあります。 [1]
現在も、長崎県忠霊塔の奉仕管理人らによって、水盤舎の水量確認や水盤の清掃、定期的な境内巡回といった環境維持活動が自主的に行われています。水盤舎は、激動の時代に地域を支えた一人の炭鉱経営者の足跡と、郷土の歴史を次の世代へと静かにつなぎ続ける重要な遺構として大切に守られています。 [1, 2]
長崎県忠霊塔の本殿正面上部には、「敵国降伏(てきこくこうふく)」と力強く刻まれた扁額(へんがく)が掲げられています。一見すると軍国主義的な過激な言葉に受け取られがちですが、この扁額の背景には、日本の歴史に深く根ざした精神的な意味と平和への祈りが込められています。
この扁額は、1938年(昭和13年)9月に九州日報社(現在の西日本新聞社)によって奉納されました。文字の原型となっているのは、福岡県にある筑前国一宮・筥崎宮の楼門に掲げられている高名な扁額です。その起源は鎌倉時代中期にまで遡り、蒙古襲来(元寇)という未曾有の国難に直面した際、亀山上皇が国家の安寧と一国の危機を救うことを祈願して筥崎宮に納めた宸翰(天皇直筆の書)がもとになっています。
「敵国降伏」という言葉の真の理念は、武力や暴力によって他国をねじ伏せ、強制的に降伏させることではありません。本来の意味は、「我が国が優れた道徳や正義の力を磨く(王道・徳を施す)ことで、敵国がその徳に感化され、自発的に戦う意志を収めて服従する」というものです。つまり、武力による勝利ではなく、道徳的な力によって戦争そのものをなくし、結果として平和をもたらすという極めて高潔な理想を表しています。
長崎県忠霊塔は、多くの県民の浄財と勤労奉仕という「郷土の絆」によって建立された歴史を持ちます。そして、この「敵国降伏」の扁額もまた、国を護るために命を捧げた英霊を祀る場において、力による支配ではなく「徳」によって平和を導くという、激動の時代を生きた人々の深い祈りを今に伝える象徴となっています。