徳地人形浄瑠璃

十冊目「尼崎の段」

旅人に扮して尼崎に泊まりにやってきた真柴(ましば)久吉(ひさよし)【羽柴秀吉】を暗殺しようと、主人公の武智光秀(たけちみつひで)【明智光秀】が登場。武知光秀は、真柴久吉が、きっとこの風呂場で風呂を浴びているに違いないと思い、先を鋭く切った「猪突ししつきやり」をもって、抜き足、差し足で、風呂場に近づく。

武智光秀は、真柴秀吉を刺し、天下をとろうと風呂場の人影に向けて、思い切り猪突きやりを刺した。

すると、思いがけない女の悲鳴。納得がいかない武智光秀は、風呂場に駆け込むと、そこには、実の母親、皐月(さつき)が血を流して七転八倒 苦しんでいた。

光秀は、「なんだ、これは。我が母ではないか。死なせてしまうとは、残念だ。」と、驚きのあまり、ただ、呆然と立ちすくんでしまった。

悲鳴を聞きつけて、駆け寄ってきたのは、光秀の妻、操(みさお)と、その娘の初菊(はつぎく)であった。

操は、「母上様ではないですか。これは、どういうことですか。」と,操にすがって泣き叫んだ。

大けがをしている母親皐月は、「悲しんではなりません。悲しんでは、なりません。我が殿様である内大臣【春長はるなが】(織田信長)を討った武智家の私が、このように実の息子に討たれてしまったのは、道理から見て当たり前のこと。自分の息子が、主君に背いて謀反を起こし、人の道から外れたと家名を汚してしまった。人の道を踏み外して得た地位や富などは、浮雲のようにはかないものです。主君を討って、手柄を立てた得意顔のようだけど、そのようにして、たとえ将軍様になったとしても、野の果てをあてもなく歩き回る罪人にも劣る罪だとは、気づかないのですか。君主に逆らわず、親孝行するという、仁義忠孝の道さえ守っていれば、たとえ、少ない俸禄米の身分であっても、百万石の大名よりも、まさっているのですよ。息子よ。自分のことだけを考えているから、こんなことになってしまったのです。証拠である目の前の私を見なさい。武士の命を討つ刀はたくさんあるというのに、こんな猪を突き刺すような切り落とした竹槍で、自分の息子に刺されてしまったではありませんか。君主を殺した天罰の結果は、親でもある私にも、この通り返ってきているのです。」

母の皐月は、自分に刺さった槍の穂先に手をかけて傷を負いながらも、息子の光秀に言い聞かせた。

それを聞いていた妻の操は、大粒の涙を流しながら、夫の光秀に「それ見てご覧なさい、光秀殿。刺した相手が母親だったと知らなかったと言え、実の母親を刺すとは何事ですか。せめて、母親が亡くなる前に、心を入れ替えて善良な人間になると、たった一言でもいいので、聞かせてください。この通り、お願い申し上げます。」

と、手を合わせていさめたり、泣いたりしてひたむきに夫を思って恨み、泣いた。

操の心は、曇りのない鏡のように澄んでいて、流す涙は、操の本心から出てくる物であった。





武智光秀(たけち みつひで)=明智光秀

「尼崎の段」以前に、主君内大臣「春長」(織田信長)を討ち、天下を取るために、春長直属の家来 真柴久吉(ましばひさよし)をたおそうと狙っている。

皐月(さつき)=光秀の母

自分の息子「光秀」が、仁義忠孝の道をはずれて主君である「春長」を討ったことを大変嘆いている。先祖代々君主に仕えてきた武智家の誇りを大切にしている母。

操(みさお)=光秀の妻

武智家に嫁入りし、武智家のために尽くしてきた妻。光秀が戦に出るたびに、励まし、活躍を願う。義母と力を合わせて家の繁栄を願っている。

初菊(はつぎく)=光秀

智家で育ち、十次郎と婚約している。