解説(短刀)

          短刀 

     謙信景光

鎌倉時代の刀工・長船長光の子とされる長船景光により作られた刀である。長船景光は、備前国永船派の開祖として知られる長船光忠から3代目にあたる刀工であり、父・長光が生み出した刃文である”片落ち互の目”より洗練させて完成させた名手として知られる。謙信景光はよくつんだ地鉄に片落ち互の目の刃文を焼いた景光の代表作とされている。

謙信景光という名前の由来は、上杉謙信の差料であったことからきている。上杉家の腰物台帳では乾第十二号として所載されており「謙信公御差料乾十一号一文字ノ御刀ト御揃」と所載されていることから、謙信が常に用いていた「乾十一号一文字ノ御刀」こと姫鶴一文字の指添として用いられていたものとされる。

刀身に「秩父大菩薩」の5文字が彫られているが、本作同様に「秩父大菩薩」の文字を彫った太刀も作刀されており、現在は皇室御物として現存している。同太刀には長文の銘があり、1325年(正中2年)の年紀とともに、武蔵国秩父郡出身の武士である大河原時基と、その父とされる大河原入道沙弥蔵蓮が、移住先の播磨国宍粟郡三方西(現・兵庫県宍粟市)の地において、景光・景政の兄弟に作刀させた旨が記されている。同太刀の銘にある正中2年は、本作が作られた1323年(元亨3年)の2年後にあたるため、本作も大河原時基の注文によって景光が播磨の地で鍛刀したものとみられる。本作は元々は同太刀と同じ時期に武蔵国(現・埼玉県)の秩父神社に奉納されたものと考えられている。また、刀剣研究者である佐藤寒山は、著書『武将と名刀』にて太刀と比べて奉納銘が無いことから、時基の腰刀に故郷の秩父大菩薩の加護ぞあらんと本尊にするため彫り込んだ可能性もあると指摘している。

                    Wikipediaより