日本三大名工の一人「宮大工松井角平」を招き
全国の銘木を集めて釘類を一本も使わず
約三年半の歳月をかけて建てられた「椿寿荘」
その姿は枯山水の庭園とともに
春夏秋冬いつの日も重厚で華麗な趣きを見せます
①主庭・畳廊下
②玄関
③奥座敷
④五重塔・祠
⑤薬医門
⑥床の間・欄間
⑦主庭
⑧土掘
⑨売店
庇を支える丸桁は11間半(約20m)にも渡る天然絞の吉野杉。土縁の板は玄関の式台、腰板ともに樹齢800年以上を誇る会津欅からとったもの。
堂々とした佇まいを見せる大名玄関。造り木組の舟肘木を配した組入天井が、日本建築の古式を伝える。
庭から眺めた奥座敷次の間。清流が高床の下を流れる見立て。
仏道の理にのっとり、須弥山を表した石組みの五重塔。祠は松井角平の手による作。
安永7年(1778年)に山田の宮大工小出源兵衛が母屋の前にあったものを移築。
各間の床の間の床がまちは石川県能登の輪島塗り。欄間には京都本願寺御用彫刻師である前川三四郎の技法を伝える岩倉知正(理八)の作となる、一枚板に菊の透かし彫りの彫刻が施される。
ツツジの植え込みや鮮やかなモミジに彩られる枯山水の庭。
国道403号に面した土掘。かつてこの街道は見事な欅が連なる並木道だった。
竹炭、味噌、梅干しなど田上町の主な特産品を販売。
田上には田巻性の二家の豪農があった。それぞれ代々七郎兵衛、三郎兵衛を名乗り、地元では七郎兵衛家を原田巻、三郎兵衛を本田巻と呼びならわしていた。原田巻家は、下田の豪農・五十嵐氏の末流である本田巻家次男で、安永三年(1774)に没していた七郎兵衛を中興初代とする。四代目、五代目の幕末期には石高二千六百、面積で約千三百町歩の大地主に発展した。
椿寿荘はその原田巻家の広大な離れ座敷である。椿を長寿の霊木とした、中国の故事にならって名付けられたものという。建坪は約百四十坪で、約八百八十坪の敷地に立つ。明治三十年(1897)、当時日本三大名人の一人とうたわれた、富山県井波の宮大工松井角平を棟梁に招いて構想、資材調達にとりかかり、大正三年(1914)から七年(1918)の約三年半の歳月をかけて完成した。
材料は吉野杉、木曽檜、会津欅など全国から銘木を集める贅を凝らし、釘類を一本も使わず、寺院様式を取り入れたその姿は重厚な趣をかもし出している。特に畳敷二段廊下は豪快で、十一間あまりの打通しの露縁の庇を支える丸桁は吉野杉の一本物、無節・本末なしの銘木で、海路、信濃川を遡らせて運んだものである。
庭は、京都の庭師広瀬万次郎の手になるもので、京風の枯山水。三の間、二の間、上段の間と続く座敷に面して主庭が設けられ、仏道の理にかなった立派なものである。奥の五重塔の石組みは、須弥山を表したものと言われる。四季それぞれに趣を変えるが、秋、紅葉の梢越しに望まれる高床の奥次の間と庭とのコントラストは、陶然とするほどの美しさである。また、主庭と反対側にある泉水の中庭の石組も卓越しており、前庭のたたずまいとともに見事なものである。