防大柔道部の究極不易の理念、
目標は、武を練り、身体を鍛え、志操を磨き、
国家存亡の危機に役に立つ人材を育成することにあります。
我々は、情熱の青年期において真の人間形成を目指し、
貴重な体験を経る事は何ものにも増して
有意義なことであると考えており
栄えある母校の歴史を汚すまいと日毎の猛練習に励んでいます。
「精力善用 自他共栄」
柔道の創始者である故嘉納治五郎先生は、
「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習によって身体 精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。さうして是に由って己を完成し世を補益 するのが、柔道修行の究極の目的である」
と説いている。
「寒稽古の趣旨」 嘉納治五郎(柔道創始者)師範
『凡そ人の世に立って事を為すに当たっては、一身一家の為にすると、他人又は国家の為に するとを問わず、心身を労せずして成ることなかるべし。而して寒暑に屈せず、苦痛を忍び労 働に耐えうるが如き力を有することは、成功に必要なる条件なり。又困難に遭遇して躊躇逡巡 せず、却って勇気を励まし、之に打ち勝つ方法を講じ、進まんとして止まらざるが如きは、成功 に必要な気象なり。されど、かくの如き力と気象とを有せんと欲せば、平素に之に必要なる鍛 錬を為さざるべからず。寒風に曝されて戸外にあるを厭わず、炎天に照りつけられて道路を歩 行するを辞せざるが如き習慣は、単独に之を養うことは甚だ難しとす。
柔道の修業の如く他に一種の目的ありて、之を遂行せんが為に自然に其の習慣を養うが如 きは、最も適当なる方法とす。苦痛労働に屈せざる力の如きも、元気を鼓舞して難事を仕遂げ んとする気象の如きも、寒稽古によって自然と養はるるなり。故に寒稽古を以て、単に人を投 げ、人を捕うる術を練習する修行と心得る勿れ。寒稽古は精神鍛錬、身体鍛錬の上に、最も 適当なる好機会を与うるものと考え、他日社会に立って諸般の事業を為す力は、此の機会を 利用して養うことを得るものなるを忘るべからず。』
(月刊「国士」(明治32年より)
「黄菊白菊そのほかの名はなくもがな」
「勉学」を「黄菊」にたとえるならば、「運動」は「白菊」にたとえられる。勉学と運動、 ただこの二筋道に精進努力して欲しい。あれもしたい、これもやりたいと目うつりするな。なくも がなのその他は未練を残さず捨て去れよ、という初代部長 田中 秀雄 先生の教えである。
(「勉学」は、当然、防衛大学校の修学目的を逸脱するものではなく、幹部自衛官となるため に必要な訓練や学生舎生活も包含している)
その教えを示す遺稿から引用して以下に記す。
「黄菊白菊」
田中 秀雄
どの道の修練過程に於いても、その技術の鍛練は必ずや人間形成の問題を伴うものであ って、両者は全く不可分一体的な関係にあるといってよいであろう。
かつて武道であって、柔道や剣道が終戦後一時禁止されていたが再びスポーツとして蘇っ た。あたかも不死鳥のように、しかしスポーツというと、何となく微温的、遊戯的な響きが伴い、 武道といえば封建的で人命を尊重しない時代遅れのもの、スポーツといえば近代的レクリエー ション的甘いものと考えたがる傾向がある。
しかしながら、ローマオリンピックの惨敗、更に昭和36年末の第3回柔道世界選手権大会の 敗北を機として、我が国スポーツのあり方についてようやく真剣に反省し、再出発を期する機 運が醸し出された。
我が防衛大学校は言うまでもなく国立で、運動部の力を強化しようと思ってもスカウトすること は勿論できない。それに理工系の頭脳を必要とするため、ここに入学するためには「狭き門」 をくぐらなくてはならない。従って常に三段位の実力のある新入生が入るとそれこそ笑いが止 まらない程の喜びである。しかしこういう人達に案外長続きせず、中途で落伍する者が多い。 高校三段といえば総じて技は器用で、中には天才的なひらめきを持つ者もある。けれども彼ら は部員としての稽古の苦しさや辛さに思いの外、耐えられない。いわゆる根性のない人達が多 い。彼らは部を去るに臨んで一様に次の如く言う。「柔道は高校時代でたいていやり終わっ た。1つのスポーツだけやってもつまらない。色々他のスポーツも体験してみたい。名士の講演 も聴きたい。疲れているときは軽い読み物でもあさって体を休めたい。」
稽古の苦難を回避して、いわゆるレクリエーション風なそれに逃げ込む口実です。柔道部 では毎年60名もらいますが、その内4年間、最後まで勤め上げうる者は10名を出ません。そ れとは反対に白帯で入り、毎日の稽古に立っている暇のない程投げられ続け、苦しみ通しの 者もおります。それに学校の特殊性より4年間カンズメ的な寄宿生活です。その上同じクラス の他の学生が楽しみにしている春休みもなく、夏休みも、稽古のために返上です。退部して安 きにつこうとしない彼らには頭が下がります。しかし恵まれない彼らも練習を積むに従い、3年 の秋頃からグッと重心も下がり、受けが強くなって、いわゆるシブトさが出てきます。レギュラー の選手も投げきれません。それにも増してこの苦しい体験を通して人間的に鍛練され、立派に 成長して、どんな人生の苦難にも耐え得る逞しい精神力を身につけます。
かつて旧制6高(岡山)が、高等専門学校柔道大会において8年連続優勝をしました。スカ ウトすることを許されない学校で、8年間の連続優勝は特記すべきことです。この輝かしい記録 こそは、それ以前7年間、宿敵旧制4高(金沢大学)に対して、文字通り臥薪嘗胆の思いで精 進した先輩の奮闘と、優勝してはじめて後、旧制松山高校(愛媛大学)の急迫に対し、並々な らぬ辛酸をなめた後進の努力とによって飾られた、栄えある歴史なのである。
日毎の猛練習に心血を注ぐ選手の、そして栄えある母校の歴史を汚すまいと奮闘する選 手の、あの涙ぐましい真剣さ、横溢した気迫は必ずや当時の全校生の志気を鼓舞し、精神的 な感応を与えたことであろう。全く「本職はだし」の猛稽古であった。
卒業部員より年賀や暑中見舞等をもらうことは、年老いた私どもには、この上ない喜びで あり、楽しみである。不思議なことに、こうした便りをくれる人々は、いずれも意義ある大試合に おいて、会心の勝負をした人々です。中には体力に恵まれず、レギュラーに選ばれなかった人 もありますが、いずれも思い出の道場に、苦しい血と汗を思うさま流した人達であって、「われ はなすべきをなした」という満足感と自信とを持って卒業した鉄の意志の人達である。
今や彼らは実社会に出て、道場で鍛え上げた体力を駆使して精力的な勤務ぶりを見せて くれているであろう。それよりも彼らの精神力・意志力は、なにものにも増して上司、否上司の みならず広く世間一般の尊敬と信頼を勝ち得ていると信ずる。
こういうと、私がいかにもスポーツ万能主義に傾いているような誤解を受けると思うが、私 はよく運動部の学生に服部嵐雪の
「黄菊白菊そのほかの名はなくもがな」
の句を示す。学生は学業にいそしむことが第一義である。学生が学業の修得という本領を 等閑視したのでは意味がない。しかし真実と情熱の青年期に於いて、真の人間形成のため、 貴重な体験を得ることはなにものにも増して有意義なことである。要するに
「勉学」を「黄菊」
にたとえるならば、
「運動」は「白菊」
にたとえられる。勉学と運動、ただこの二筋道に精進努力して欲しい。あれもしたい、これも やりたいと目うつりするな。なくもがなのその他は未練を残さず捨て去れよ。こう運動部の学生 に願っているのである。
大道場の敷居をまたぎ、威儀を正して正面に頭を垂れる。その頭上に如何にもどっしりと、重 量感のある表題の額が掲げてある。営々と積み重ねてきた猛稽古の幾星霜、汗と涙に肌を光 らす闘士を静かに見下ろしている。この筆太の書額について解説する。
この額は、2期の先輩諸兄の心尽くしによるもので、昭和33年3月卒業に当たり部員の志 気を鼓舞するためにと目録を残してゆかれた。そこで田中部長が心を砕かれ「百錬鉄石心」の 題字を決定、麓先生に揮毫を戴き、33年夏稽古の直前に道場に掲げられたものである。今で は過日の台風で雨漏りを受け、一部にしみを作っているが、これがかえって質実剛健の気風 を増し、見上げる者をして奮起せしめる効果を顕わしている。
次に文献によりこの題字の解説を附す。
(1) 百錬ということ五輪書 水の巻 巻尾の頁より
右書き付くる所一流劔術の大方此巻に記し置く事也 兵法太刀を取りて人に勝つことを覚 ゆるは先づ五の表を以て 五方の構を知り 太刀の道を覚えて惣体自由(やはらか)になり 心のきき(利き はたらき)出て道の拍子を知り、おのれと太刀も手冴へて 身も足も心の儘に ほどけたる時に随ひ一人に勝ち二人に勝ち 兵法の善悪を知る程になり 此一書の内を一ヶ 条一ヶ条と稽古して敵と戦ひ 次第次第と道の利を得て 不断心にかけいそぐ心なくして 折々 手に触れては徳を覚え何れの人とも打ち合い其心を知って千里の敵も一足づつ運ぶなり緩々 と思ひ 此の法を行う事武士の役なりと心得て今日は昨日の我に勝ちあすは下手に勝ち後は 上手に勝つと思ひ此書物の如くにして少しも脇の道へゆかざる様に思ふべし従い何程の敵に 打ち勝ちても 習ひに背く事にては実の道に有べからず此理にうかびては一身を以て数十人 にも勝心の弁へ有るべし千日の稽古を鍛とし万日の稽古を練とす能々吟味有るべきもの也
正保二年五月十三日 新免武蔵
寺尾孫之亟殿 寺尾夢世勝延
寛文七年二月五日
山本源介殿
「・・・・法身も足も心の儘にほどけ・・・・」教を守り、道に遵ひ身も心も欺かる自由なる境地に 達することが肝要である。それには急がず、焦らず千日万日の鍛練が必要である。の意
(2) 鉄石心ということ
西郷南洲遺訓より
獄中の翁
翁は文久3年36歳、再度遠島を命ぜられ、徳之島在ること2ヶ月余沖永良部島に移る。 其時の牢獄は2坪余にして、東西に戸なく、南北に壁なく、繞らずに粗大なる格子を以てし、其 片隅に厠あり。風雨は吹通し、殆ど人の住む処に非ず。翁は其中に在り、水を求めず、湯を 乞わず、喫煙を断ち、終日座臥黙想す、間切横目役なる土持政照、一日翁に拆(ひょうしぎ)を 与えて用事あらば之を打たんことを請ふ。翁其厚意を謝したるも、一度も之を打ちしことなし。 斯くて数月、翁の言動和気旧の如きも顔色憔椅して、此世に久しかるべくもあらず、政照之を 苦慮し、強いて在蕃の藩史に請ひ、私費にて新に屋舎を造り、其中に座敷牢を設けて翁を移 す。是より翁の健康旧に復す。翁其誼に感じ、政照と兄弟の約を結ぶ。翁は、三宅尚斎獄中 に作なる式の辞を牢壁に書して、日夕吟誦したり。
富貴寿天不弐心 只向面前養誠心
四十余年学何事 笑坐獄中鉄石心
註 三宅尚斎は、浅見?斎、佐藤直方と共に崎門三傑の一藩人主阿部候をいさめて退かず 罪を得て獄に在り、銕釘を以て自らの血を出し、小木片をくだいて筆として血書をつづる。狼裳録三巻、白雀録一巻はそれである。「鉄石心」はこれより採った。身を以てする修練は辛い。 困難を回避し、理想や信念を徹底し得ず、すぐ辟易する弱い吾人の心を鉄の意志をもって完遂せよという意を偶した。
関東学生柔道大会など、鍔ぜり合いの相手には先をとって勇猛果敢にゆけ、更に選抜され た全日本学生の一流強豪陣に対しては、負けるにしても堂々と仕合って、立派に死ねよという 戒めを以て標語とした。
(1) 油断大敵
実力、我に劣る相手と仕合う場合であって、「油断」自我感情が高揚して意気傲然、相手 校をナメて、その研究を怠り、よって思わざる不覚をとることを厳に戒めたもの。
(2) 勇猛果敢
彼我の実力伯仲する相手校と仕合う場合、いわゆる紙一重の勝負、鍔ぜり合いの試合に 際してであって、「勇猛果敢」先手先手と果敢に圧倒せよ。要は、「断」の一字で往けというので ある。柳生兵庫助利厳が加藤清正の客将として肥後に赴くに際し、祖父石舟斎は、切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれたんだ踏み込め神妙の劔の一首をはなむけとして贈ったという。その精神は「断」であり、先をとって果敢にゆけということである。
(3) 豪快淋漓
幸田露伴先生の書いたものに「狭霧晴れてゆく川中島において、謙信の大軍を目前に見 た信玄は思わぬ作戦のくい違いに、とっさには驚いたであろうが、直ちに十二段の陣構えに立 てる」とあったのから採った。淋漓は盛んな意味の形容である。実力我に勝る相手校と仕合 い、いかに悪戦死地に窮するとも臆せず、挺身敢闘して一歩も譲らない気迫を、立派に死ぬ 気を激励したものである。
1
橘薫る 小原台
西霊峰を 仰ぎつつ
南大瀛の 水沓か
天地の生気 粋然と
鐘る処 博撃の
音鼕々と 絶ゆるなし
2
桜花にたぐふ 古の
武士の道 尋ねつつ
炎熱身を灼く 夏の日も
朔風膚刺す 冬の夜も
同袍一つに 睦び合い
切磋琢磨す 柔の道
3
春秋めぐり 今日ここに
覇権争う 晴れ戦
百錬鉄の 心もて
いざ闘わん 友よ起て
電光一閃 春風を
いざ断ち斬らん 友よ起て
4
夫れ勝敗に 天命あり
悪戦死地に 窮すとも
挺身敢闘 揺るぎなき
防大陣の 気を見ずや
正気は国の 鎮めなり
世界を照らす 光なり
音声につきましては、陸上自衛隊第4師団第4音楽隊の
方々よりご提供いただきました。
第4音楽隊の皆様には柔道部一同、感謝申し上げます。
なお、試聴およびダウンロードにつきましてはこちらより
お願いいたします。