活動NEWS
◆会報第154号を発行致しました。
◆船橋市前原、薬円台の石仏見学会を4月26日(土)に開催しました。
(当日の様子を 過去の見学会記録から に掲載しています。)
◆佐倉市先崎、青菅周辺の石仏見学会を3月22日(土)に開催しました。
(当日の様子を 過去の見学会記録から に掲載しています。)
会員の皆様へ ここをクリック
①「会報」第154号(令和7年7月1日付)を発行致しました。
会員の皆様宛、7月7日に郵便にて発送致しましたのでご覧下さい。
③令和7年度の本会総会を、2025年5月31日(土)13:00~15:00に、「ちばさぽ」会議室にて開催し致しました。当日ご欠席の方には、資料及び議事内容を会報第154号と共にお送り致しました。
総会に続き、早川会長より「館山市大嚴院四面石塔について」と題して講演が行われました。
早川会長が石造文化財に取り組む契機となった貴重な石塔(四面の名号塔)に関するお話でした。
④会誌「房総の石仏」第30号(記念号)に掲載する報告、論考、記念号に向けた随想、等を募集しています。
奮ってご投稿くださいますよう宜しくお願いします。
⑤令和7年度会費未納の方につきまして振込用紙をお送り致しました。宜しくお願いします。
「房総石造文化財研究会」は、昭和55年に県教育委員会より刊行された「千葉県石造文化財調査報告」のために、千葉県内の石造物調査に携わったメンバーが中心となって、調査終了後も、県内の石造文化財の調査、情報交換を行うことを目的とした同好会として、1981年(昭和56年)に発足しました。
2024年4月現在、千葉県内を中心に、全国に50名余の会員が居り、
石仏見学会や勉強会の開催、定期刊行物や書籍の作成・発行、といった活動を行っています。
会合は、主に千葉市中央区の千葉中央ツインビル 内にある千葉市民活動支援センター「ちばさぽ」を利用しています。
会報
会報は、活動の予告や実施内容の紹介、会員の研究活動の紹介、等の内容で、基本、年4回、発行しています。
会員の方に配布します。
会誌
会誌「房総の石仏」は、会員による調査や研究成果の報告、論考、等を掲載します。基本、年1回の発行です。
会員の方に配布するとともに、千葉県立図書館、等に寄贈しています。
残部があるものにつきましては、会員以外の方への販売も行っています。
刊行済みの「房総の石仏」の目次は下記をクリックしてご参照下さい。
「房総の石仏」発行済巻号目次 ここをクリック
会員に限らず、広く多くの方に「石仏(石造物)」を楽しんでいただくための講演会を年一回のペースで開催しています。
令和7年度の開催予定
2025年12月7日(日)
場 所:千葉市文化センター 会議室
千葉市中央区中央2丁目5−1千葉中央ツインビル2号館9階
時 間:13時30分~16時15分
テーマ、等、詳細は決まりましたら掲載します。
この一年の開催内容
2024年12月1日(日)
テーマ:「弁財天」 ―姿かたちや信仰から探る―
① 弁才天の来た道と姿、その変化 講師:玉井 ゆかり 氏
② 弁才天と弁財天 その信仰と伝承 講師:木原 律子 氏
③ 弁才天のさまざまな姿 講師:稲木 章宏 氏
場 所:千葉市文化センター 会議室Ⅴ
時 間:13時30分~16時15分
参加者:37名の皆様のご参加を戴きました。
下の写真は当日の会場の様子です
令和6年度 石仏ゼミナールから:ここをクリック
五年ぶりとなる公開での石仏ゼミナールが、12月1日、千葉市文化センター会議室で開催されました。会場の定員に対してほぼ満席での講演会となりました。テーマは「弁才天」。その由来や信仰そして石造物としての弁才天の色々な姿が紹介されました。
初めは、玉井ゆかり氏から「弁才天の来た道と姿、その変化」と題して、インド発祥のこの「神様」について、最初の姿から仏教に取り込まれていく過程が紹介されました。
次に、木原律子氏による「弁才天と弁財天 その信仰と伝承」として、弁才天の信仰、水の神が収穫をもたらすことから財にかかわるとともに、知恵や技芸の神としても信仰されたこと、日本では奈良時代から、その信仰が始まったことが示され、現在民間信仰に見られる弁才天が祀られる場所=池の中島や、その姿が、さらに弁才天と道祖神の伝承(道祖神が弁才天に懸想したがそれを嫌って道祖神が渡れないように中島には一本橋を掛けた)が紹介されました。
三番目には、稲木章宏氏から「弁才天のさまざまな姿」と題して、西上総地域に見られる弁才天像が紹介されました。
また、「弁才天のさまざまな姿の事例写真紹介」では、本会会員によって見つけられた君津市内の「宇賀神像」が紹介されました。
全体を通じて、以下のような質疑応答がありました。
・「弁天講中が有ったのか」に対して、「講中と刻まれた石造物が船橋で見られるが講は確認できない」「木更津では子安講が弁才天を祀っている例がある」「講の存在についての調査は承知していない」といったやり取りがありました。
・「厳島神社は弁才天に必ず付随しているのか」に対しては、「弁才天を祀る神社としては、厳島神社、天川神社、江ノ島神社、竹生島、等いろいろある」との回答でした。
・「厳島神社に見られる白蛇とサラスヴァティ―が乗る白鳥に関係があるのか」という質問があり、「そのような見方はわからない」とのことでした。
最後に、川戸顧問より、岩波新書の「インド文明の曙」を参照されながら、弁才天信仰は紀元前1500年頃にインドにアーリア人がやってきたころに遡れる、といったお話がなされ、締めくくりとなりました。
千葉県内で、見学する地域を決めて、半日程度をかけて行っています。
会員以外の方も、事前にご連絡戴ければ参加できます。
(尚、参加に際してましては資料代をご負担いただく場合があります。)
今後の開催予定
2025年10月4日(土)
見学会(現地バス研修(終日))「上総東部地域の石造物をめぐる」
集合時刻・場所:8時30分・千葉駅前 貸切・観光バス停車場(千葉駅前大通り京葉銀行の先)
見学予定地:東金市 願成就寺 八坂神社、九十九里町 善福寺、山武市 蓮光院、匝瑳市 龍頭寺、等
参加費(バス代、昼食代、保険料)予定額:6,000円
2025年11月
詳細が決まりましたら掲載します。
2026年3月
詳細が決まりましたら掲載します。
この一年の開催内容
2024年4月26日(金)
成田市 成田山周辺の石仏をめぐる 薬師堂、新勝寺周回道路石塔群、寺台の永興寺
2024年6月10日(月)【雨天のため中止しました】
鋸南町 鋸山・日本寺の石仏をめぐる
2024年10月12日(土)
見学会(現地バス研修)「茨城県取手周辺の石仏をめぐる」
見学先:取手市内7社寺(永蔵寺、駒場青龍神社、小泉鹿嶋神社、等)、
利根町1カ寺(徳満寺(柳田国男縁の子返しの絵馬で知られる))
2025年3月22日(土)
佐倉市北部、先崎(まっさき)・青菅の石仏
見学先:福蔵院、鷲神社、正覚寺廃寺、先崎地蔵尊、正福寺、等
2025年4月26日(土)
船橋市前原・薬円台周辺の石仏をめぐり、船橋市立郷土資料館を見学
見学先:道入庵、百庚申、高幢庵、神明神社、庚申塔群、等
過去の見学会記録から(4月26日の様子): ここをクリック
2025年4月26日(土)船橋市前原・薬円台周辺の石仏をめぐる
大型連休の初日、天気の急変が心配されましたが、あまり暑くなく日差しもなくて石造物の写真を撮るには好ましい日に、総勢12名の参加者で石仏見学会を実施しました。
新京成から名前の変わった京成松戸線の前原駅前に集合し、成田街道沿いの石造物を巡って船橋市郷土資料館をゴールとするコースです。ただし、成田街道は通行量が多く歩道も狭いので全行程を歩くことは諦め前原駅から薬園台駅の間はバス利用することにしました。
最初に訪れたのは前原駅近くの真言宗道入庵。境内には街道沿いらしく多くの馬頭観音石塔が集められ、十九夜塔、新田開発の由来を残す地蔵菩薩立像、筆子塔、等が整理された形で並んでいます。特に宝永二年(1605)銘の十九夜塔は頬に手の甲を当てる像で美しいものでした。
次に道入庵の裏手、京成線の線路を超えたところにある前原共同墓地を訪れます。ここの入り口近くに無縁佛之墓としてまとめられた石造物の中に、元禄十五年(1702)の紀年銘を持つ供養仏像(如意輪観音像)とその背後の地蔵菩薩立像(下部に「日□大師」と刻まれ宝暦五年(1755)の紀年銘が見られる)が目を引きます。如意輪観音は一面六臂とみられ頭上に線刻の天蓋を持つ像でした。
成田街道を渡って前原東郵便局の隣接地にある百庚申に向かいます。ここには享保十八年(1733)、享保十九年(1734)、延享四年(1747)銘の三基の大型の庚申塔(像塔)の前に80基程の「庚申塔」と奉納者と思われる方の名前が刻まれた高さ30cm程の石塔が並んでいます。この地域の調査を行われた会員のO氏によれば、かつてこの百庚申にトラックが突っ込んだことがあり散乱した石塔を地元の建築業の方が並べてコンクリートで固定したとのことで、今は草に覆われながらもきれいに並んでいます。歩道もないので道端にへばりついて見学です。
前原駅入口からバスに乗り薬円台駅入口に向かいます。
薬円台駅入口バス停近くの高幢庵は現在では墓地組合の方のための集会所のようですが、隣接する墓地内にある「木食僧観信の墓と木っぱ地蔵」「薬園台開発に携わった丹羽正伯の供養碑」の説明があります。これらの説明を見てから実物を見学します。周辺には大師堂や三山講碑、庚申塔、馬頭観音も見られました。隣接する薬円台共同墓地には個人の墓石ですが多くの供養者の名前が刻み込まれたものがあり筆子供養塔に相当するものであろうということです。
住宅地を抜けて神明神社へ。一段高く築かれたところに拝殿と社殿がありその周りは広く木々の茂る空間となっていて夏でも涼しそうです。ここで一休み。
この神明社は大正十五年の千葉郡誌によれば宝暦十九年(1769)に勧請されたもので祭神は天照大神。境内社として子安神社、八坂神社、愛宕神社、疱瘡神社、八幡神社が記されていますが、本殿脇の小社内にはこれらに加えて稲荷社、古峯社、金毘羅宮、の石祠が見られ、その横の富士塚らしき場所には小御嶽大権現と三仙元宮の石塔もありました。築山の下にある手水石には文化四年(1807)の銘がありその横には「御神井」と刻まれた石碑があってかつては井戸があったことが伺えます。
成田街道に戻って路傍の四基の庚申塔群を見ます。明和二年(1765)銘と寛延三年(1750)銘の像が目を引きます。また「御大典記念」と刻まれた文字塔の台座は明らかに時代の異なる石で三猿が浮き彫りされており、かつては青面金剛の像塔が有ったことを感じさせます。
次は不動堂に参ります。境内には大師堂もあり、「聖徳太子」と刻まれた大正六年(1917)に建てられた碑もあって太子講が行われていたことが知られます。
最後は船橋市郷土資料館へ。横にあるSL(D51125)の後方に建てられた「明治天皇駐蹕之處」碑の前で集合写真を撮影してから郷土資料館に入り、康永四年(1345)銘の巨大な板碑(高さ210.5cmで県内最大級とのこと)や弘安年間(1270年代後半)の板碑、その他の展示物を拝見しました。ここで本日の見学会は無事終了、散会となりました。
帰り道、地元の会員のO氏が、「この辺りに何かあったはず」というので行ってみると、郷土資料館の展示物に有ったものと同様な「陸軍用地」と刻まれた花崗岩製の境界石が民家の脇に残っていました。
過去の見学会記録から(3月22日の様子): ここをクリック
2025年3月22日土曜日 佐倉市北部、先崎(まっさき)・青菅の石仏
少々風が強いものの麗かな陽光に恵まれた春の日、石仏見学会で佐倉市北西部の先崎(まっさき)、青菅(あおすげ)と八千代市の下高野(しもこうや)の社寺と路傍の石仏を巡りました。ユーカリが丘駅に集合して、コミュニティバスで青菅に向かいます。この日の参加者は現地で合流した方も含めて11名となりました。
青菅バス停で下車、広い農地のひろがる谷地を抜けて先崎の集落へ、集落の入り口にはこちらを向いて口を開けた蛇の姿の「辻切」が迎えます。そのまま、上流方向にある下高野の福蔵院へ。
福蔵院には、古い墓地と、その横に整然と並べられた享保から令和までの十九夜講の子安観音像が並んでいます。260年余りにわたって続く信仰の証です。江戸中期までは観音像のみですが、その後は子供(赤子)を抱いた像になっていきます。中には、赤子と共に達磨が刻まれたものがあり、これは疱瘡除けの意味もあるとも言われています。
先崎に戻って、鷲神社を訪ねます。寛文十三年(1873)銘のある堂々とした鳥居をくぐって境内へ。この鳥居には、正覚寺の僧侶定宥が江戸深川の石屋五郎兵衛に作らせたという内容の銘が刻まれています。本殿には上り龍や下り龍、壁面の酒呑童子伝説の彫物が見られます。これらは上野国の彫師星野利三郎の作で、天保十五年に建立されたものとのこと。拝殿には文化十年(1813)の俳句の扁額が掲げられています。中には女性の句もあるそうです。
鷲神社の隣接地、先崎城址と言われる場所は、鷲神社の別当寺であった正覚寺廃寺の跡で、五輪塔や地蔵菩薩立像、出羽三山講碑、僧侶の墓塔、等が残されています。五輪塔には寛文九年(1632)の銘が見られます。
そこから200メートルほど離れた辻には、道標を兼ねた二十三夜塔、馬頭観音、道祖神の石塔が有りました。道標には、近隣の地名とともに「江戸」と刻まれているのが読み取れ、この道が江戸まで続く街道であったことが知られます。
鷲神社前を通り過ぎて戻り、先崎の地蔵堂を訪ねます。堂内に祀られた地蔵尊は、慶安三年(1650)の銘があるとされた堂々たる座像です。今でも土地の人々に信仰されているようで、地蔵尊は衣をまとい堂内には多くの奉納物が見られます。地蔵堂の前には七基の庚申塔がありました。割れて倒れているものもありますが立派なものばかりです。もっとも古い銘は正徳二年(1712)でした。
青菅の谷地の蓮田に面した細道を抜けていくと、どんど焼き(この付近では「ドンドレ」と呼ぶそうです)の跡という焼けたものが山になった場所がありました。更に進むと田圃の脇に水の枯れた池と弁才天の祠があります。このすぐ横が正福寺です。
正福寺には、寛文期から昭和に至る墓石や墓塔、供養仏が見られるとともに、享保期から昭和に至る十九夜塔が並んでいます。残念ながら、多くのものは倒れており、既に信仰がされていないように思われます。ここは、多くが「小島家」の墓地となっているようで、この地域の教育者として知られる「小島泰堂翁」の顕彰碑が目を引きます。
既に三時に近くなり、数少ないバスが来る時間ということで、約半数の方はここで帰途につかれました。
残ったメンバーで青菅分校跡へ。まだ桜には早かったようです。ここにはユーカリが丘を開発した業者によって昭和52年に移された複数の庚申塔や道標、馬頭観音等が集められています。寛延三年(1750)銘の庚申像塔、寛保四年(1744)銘の馬頭観音像塔等を見ることができました。
街道を少し戻ると、道端に花崗岩の道標が有りました。半分埋もれて言われないと分からず書かれている文字も読めませんが、昭和初期によく見られる花崗岩製のもので、ここが近隣を繋ぐ街道であることがわかります。そこから坂を登ったところにあるのが稲荷神社です。ユーカリが丘の開発地に隣接し新たに建て直された様子です。境内には星神社と記された境内社が有りました。ガラス張りの堂内には妙見様らしき像が安置されていました。
この境内で見学会は終了。青菅分校のバス停に戻りユーカリが丘駅に向いました。
過去の見学会記録から(10月12日の様子): ここをクリック
2024年10月12日 取手市周辺の石仏をめぐる
秋晴れに恵まれた土曜日、バス見学会が茨城県取手市周辺の社寺を見学先として実施されました。台風被害やコロナ過により実施できなかった見学会の五年ぶりのリベンジです。
マイクロバスを仕立て、取手駅東口に9:30に集合して出発、16名の団体となりました。
まずは、取手市西部戸頭の永蔵寺へ。ここで参加者の自己紹介。ここは平将門の守護仏であった薬師如来を祀る薬師堂がありますが、見学会のお目当ては堂後ろの石仏群。地蔵菩薩を刻んだ隔夜夏念仏塔(宝永元年(1704))、聖徳太子像塔(年紀無)、六十六部廻国塔(享保十八年(1733))、庚申塔、馬頭観音、などが、数カ所に分かれて集められています。また、薬師堂前の植え込みの中に、水受け部分が区切られたあまり見ない形の手水石が埋もれていました、このような形態は珍しいようです。
続いて寺原駅近く、駒場の青龍神社へ。ここの参道には、この地域の特色である、双体の疱瘡神塔(寛政十一年(1799)と嘉永七年(1854)の二基や、青麻権現の文字塔(年紀無)などが見られます。双体の疱瘡神には男女の像が刻まれており、男の方は幣束を女の方は瓢のようなものを持ちます。寛政の方は男が立像女が坐像、嘉永の方は男女とも坐像で上部に注連縄が表わされています。疱瘡神送りとして伝えられる姿のようにも見えます。
次は田んぼが広がる寺田の鷲神社。ここの鳥居の前に双体の疱瘡神塔(文政六年(1823))があり、こちらは男女とも坐像で女人講の文字が見えます。また待道大権現の石祠(天保四年(1833))、青面金剛の像がはっきりした庚申塔(享保二年(1717))があります。これらをみて、鳥居もくぐらずに社殿に拝礼して先に進みます。
地元で評判のロードサイドレストランで昼食。幹事苦心のメニューは好評のようでした。
昼食後、ほど近い田んぼの中にある小泉の鹿嶋神社に向かいます。ここの双体疱瘡神塔(文化十一年(1814))は男女とも坐像で上部の注連縄と幣束がくっきりと刻まれています。待道権現の像塔(大正二年(1913))は今のところここにしかないものとのことで、子供を抱いた姿で頭の被り物から神像と思われる姿です、待道権現が安産にかかわる信仰によるものであることを感じさせます。この他にも、子安地蔵の十七夜塔(明和三年(1766))、等、多くの石仏が本殿横に一列に並べられています。
利根川に近い長兵衛新田の浅間神社は、周囲から一段高くなった台地上に有ります。利根川の自然堤防の地形を利用し富士塚のような役割を持たせたのかもしれません。ここにも、双体の疱瘡神(享保四年(1719))と疱瘡神/三玉大明神(天保九年(1838))や、庚申塔(元禄九年(1696))、等が並べられています。
ここからは小貝川を超え、隣の利根町に足を延ばし、柳田国男が少年時代に見たという「子返しの絵馬」で知られる徳満寺に向かいます。本堂内に掲げられた「子返しの絵馬」(絵馬というよりは額です)は嬰児を殺す女の影が鬼になっているのが特徴です。嬰児の魂と思しきものが向かう先には仏が描かれていたようですが今は蓮台のみが見られるばかりで、あの蓮台に嬰児の魂が乗ったのかもしれません。境内には日本最古といわれる線刻の十九夜塔(万治元年(1658))が時念仏塔(文字塔)(元禄十四年(1701))と並べて建てられており説明版がその旨を示しています。本堂から降りる石段の下には、どこから集められたものか、複数の石仏が並べられています。中には顔が見えない向きに置かれたものもありました。
再び取手市内に戻り吉田の八幡神社へ。ここには玉垣をもつ待道大権現の石祠(文政四年(1821))があり、待道権現発祥の地(我孫子市の待道神社)と同様の形態とのこと。八幡神社の社殿の横には、尾鑿山や、富士浅間、石尊等の碑が立てられています。また、この神社境内にある複数の石祠では横に神社名を刻んだ小さな石碑が立てられており、整備の行き届いた神社であることが感じられます。
最後は、井野の普門院へ。ここの歴代方丈様の墓地に明暦二年(1656)の銘をもつ十三仏の像塔があります。事前にお願いしていたので方丈様に説明を受けながら見学。十三仏とは人が亡くなり、初七日から三十三回忌までの十三回の供養の際に祀られる仏様で、天台宗など密教系の宗派で祀られます。そんなところから、浄土真宗ではどうだとか、釈迦の涅槃には人だけでなく動物も集まったがキリストの死に際しては動物は来なかった、とか、猫が居たとかいないとか、そんな話で盛り上がり、楽しい見学会となりました。
出発地の取手駅東口に戻ったのは、ほぼ予定通りの16:10頃。ここで散会となりました。
過去の見学会記録から(4月26日の様子): ここをクリック
2024年4月26日 成田山周辺の石仏をめぐる
晴天で気温が上がるとの予報に反し曇り空で蒸し暑い日となったこの日、石仏見学会は、JR成田駅から成田山新勝寺とその先の寺台地区を目指しました。
まずは駅横の「権現山境内地」。ここは祭の際に使用されるそうで普段は立入禁止です。巨大な寄進碑や梵字の不動三尊石碑、社殿が見られます。その隣地には歌舞伎役者等から寄進された巨大な「宝物奉納記念碑」があり、新勝寺への寄進の多さを見せつけられます。石造物はいずれも明治以降に建てられたもののようです。
「権現山道」から「表参道」経て仲町にある「薬師堂」へ。この建物は明暦元年(1655)に成田山の本堂として建立された寺最古の建造物との説明版がありますが、周りはきれいに整備され古さは感じられません。古そうなものは堂後ろの石仏群ですが、柵があって立ち入ることができませんでした。すぐ脇の道路端には成田町の「道路元標」が見られます。
西参道を経て、発心院など三学院の建物を見つつ新勝寺境内に向かいます。発心院付近に新勝寺の境界を示す三つの石の内、西の結界石(境界石)があるとのことで探してみましたが見つけることはできませんでした。
出世稲荷にお参りして石段を下りると「釈迦堂」です。この建物も新勝寺の旧本堂。中からは読経の声が聞こえます。堂の周りには8枚の五百羅漢の半肉彫の彫り物や二十四孝の場面を描いた彫り物が見られます。風にさらされ、砂(黄砂?)が積もったように見えますが、細かな彫は一見に値します。作者は船橋出身の仏師松本良山。19世紀初頭の作品との英語の説明書きが掲示されていました。
釈迦堂から一段上がったところの「額堂」には寄進された多くの「額」が飾られ、庶民信仰の様々な祈願が感じられます。
額堂横から周回道路に出たところには「包丁塚」をはじめとする寄進の記念碑が多数集められています。その中に、かつては新勝寺境内に祀られていたと思われる石仏見られます。まずは青面金剛らしき像が刻まれた庚申塔。残念ながらお顔が欠損していますが、手の形や持ち物が分かる八本の腕が見られました。左側面に文字があり、ライトで照らして皆で覗き込みましたが紀年銘らしき文字は読み取れません。「庚子」という干支らしき文字がありました。
更に進むと、自然石板に浮き彫りされた馬頭観音の石塔があります。以前の記録では天明三年とのことですが現在は読み取れません。台石には文政元年の文字がありますがこれは別物であろうという事です。頭部の馬の周りには朱色の彩色が残っており、周囲をライトで照らしてよく見ると三面八臂の坐像であることが分かります。法輪や剣、斧、連珠、等の持物も見ることができました。本日一番の盛り上がりを見せた石造物でした。
ここから石段を下ると、新勝寺の境界を示す境界石(結界石とも)があります。境界石は東、北、西の三基があり南は総門がその役目を持っているとのこと。ここの境界石は北のものになります。東は成田公園の東端にあり、西は民地内にあるという事です。
新勝寺の境内を抜け田町の地蔵堂へ。ここには准胝観音像を刻んだ二十二夜塔、勢至菩薩像を刻んだ二十三夜塔などが見られます。准胝観音像は以前から上下に割れていて接合された状態でしたが、さらに悪い状態になったらしく接合部にコンクリートが上塗りされていて残念な姿となっていました。地蔵堂の上の斜面は墓地となっており六地蔵石幢なども見られました。
最後は、永興寺(ようこうじ)を訪ねます。門前には曹洞宗寺院に見られる「不許葷酒入山門」を刻んだ戒壇石があり、その脇に大日堂、地蔵堂と、多くの供養仏や供養塔が見られます。中には弘化四年(1847)銘の「髪結」講のものもあり、成田の町の賑わいが感じられます。
事前にお断りして墓地内に立ち入ると、傾いた二体の舟光背を持つ立像がありました。一つは寛文九年(1669)銘の十九夜塔で、もう一つは享保九年(1724)銘の十五夜塔でした。
見学を終え、永興寺前のバス停から予定した通りのバスに乗る事ができ、京成成田駅前で散会となりました。
テーマを決めて、石仏(石造物)についての講演、討論、情報交換、関連石造物の見学、等を行っています。
会員以外の方も、事前にご連絡戴ければ参加できます。
(尚、参加に際しましては資料代をご負担いただく場合があります。)
今後の開催予定
2025年9月15日(月・敬老の日)13時30分~16時30分
於.ちばさぽ 会議室
テーマ:上総東部地域の石造物をめぐる
10月4日に実施する見学会(バス研修)で訪ねる場所とその周辺の石造物、歴史的な背景についての学習会。
講師:早川正司氏
2026年2月
詳細が決まりましたら掲載します。
この一年の開催内容
2024年2月22日(木)
テーマ:「庚 申 塔」
(1) 庚申塔について : 三明 弘氏
(2) 船橋の日蓮宗系庚申塔について : 大塚武彦氏
(3) 珍しい百庚申の事例紹介 : 宮内欽一氏
2024年7月8日(月)
テーマ:「如意輪観音」
(1)如意輪観音の姿と形: 玉井ゆかり氏
(2)観音霊場の歴史と信仰: 植野英夫氏
(3)女人講の石仏―如意輪観音から子安さまへ:蕨 由美氏
2024年9月21日(土)
テーマ:「取手周辺の石仏」(10月見学会の事前学習) 木原 律子氏
2025年2月21日(金)
(1)市原市の六十六部廻国巡礼の諸相: 小松 廣和氏
(2)疱瘡神の姿と居所―千葉市緑区の事例から―:林 毅氏
石仏勉強会(2025年2月)の資料から:ここをクリック
2月21日(金)、講演者を含めて13名の会員が集まり、石仏勉強会を開催致しました。今回は、会員から次の2件の研究報告が行われました。
1件目は、小松氏から「市原市の六十六部廻国巡礼の諸相 市原市における六十六部廻国巡礼供養塔の展開と考察」と題して、氏がさきに発表された研究論文「千葉県の近世六十六部廻国の諸相」の内容をさらに深めたお話がありました。
2件目は、林氏から「疱瘡神の姿と居所―千葉市緑区の事例から―」として、現地調査に基づくお話がされました。
各々の講演に引き続き、質疑応答や意見交換が行われ、何れも活発な発言や情報の提供があり、内容の濃い勉強会となりました。
六十六部廻国供養塔に関しては、次のような質疑がなされました。
・巡礼者の地元で帰ってから建立するだけでなく他国の巡礼者の供養塔も建てられたのは、善根宿主や名主が廻国巡礼者を祀る事で功徳となると考えられていたことから行われた。
・日蓮宗の影響範囲では廻国塔が見られないのは、別に日蓮宗の寺を廻る千カ寺供養の供養塔が見られるためと考えられる。
・日蓮宗の影響範囲でも、街道沿いなどでは廻国巡礼者を泊めたことを示す供養塔(船橋の五千人供養、等)が見られる。
疱瘡神に関しては、次のような質疑がなされました。
・千葉市内の他の場所でも神社近くの山中に疱瘡神石塔が見られる。
・子安観音像の中には子供と共に達磨が刻まれたものがあり疱瘡除けを願ったものと考えられている。
・廻国塔では疱瘡流行との関連が見られたが、個々の疱瘡神塔に関してはその地域の疱瘡流行の状況が名主文書等のローカルな史料で分からないと比べにくい。
尚、小松氏講演の資料は16ページに及ぶもののため、以下にその目次を中心に、抜粋と主要な図版をピックアップして掲載します。林氏の講演内容についても、発表資料の抜粋を掲載します。
石仏勉強会(2024年9月「取手周辺の石仏」)の資料から:ここをクリック
9月21日(土)、秋の彼岸の日、10月の取手周辺の石仏見学会に向けて、事前の勉強会を開催しました。
利根川をはさんで千葉県に相対する取手付近には、元は下総国の一部でありながら、現在の千葉県内では見られない像容の疱瘡神像が見られるなどの特徴があり、以前より事前調査を行っていたところ。
今回は、その一部が紹介されました。当日の資料から抜粋して以下に示します。
石仏勉強会(2024年7月「如意輪観音」)の資料から:ここをクリック
7月8日、千葉県内に熱中症警戒が出されていた中、勉強会には21名の皆様にお集まり戴きました。講演者の軽妙かつ内容の濃い話と、活発な質疑が行われ、盛況のうちに進行し、猛暑が一息ついた17時前に散会となりました。以下、講演者にご準備戴いた資料から抜粋して掲載いたします。
1.如意輪観音の姿と形
心覚の著した『諸尊圖像』に示された如意輪観音の姿形を、日本最古と言われる石山寺如意輪観音像(部分)や、日本三大如意輪観音像、等の現存する仏像を見て、どのように表現されているか、そのバリュエーションが解説されました。
2.観音霊場の歴史と信仰
坂東三十三観音霊場の中から、千葉県内にある七か所の縁起をもとに伝承や信仰の歴史を辿りました。西国や四国霊場には如意輪観音を本尊とするところがありますが、坂東霊場には無いそうです。しかし、西国三十三観音霊場の「写し」が県内に複数あるそうです。また、講演者は、成田の滑川観音の「船に乗る観音の御影」に触れ、同様な船に乗る仏や菩薩の図像に興味を持たれているとのこと。ご存じのものがありましたらお知らせ下さい。
(千葉県内の坂東三十三観音霊場については、例えば、https://bandou.gr.jp/area/tiba/ より参照できます。)
3.女人講の石仏―如意輪観音から子安さまへ
講演者が持つ北総地域の膨大な女人講の石造物資料から、如意輪観音像と子安観音像の変遷を辿りました。17世紀後半から19世紀前半には如意輪観音像が供養塔や女人講(十九夜講)の講塔として製作されていたが、20世紀には作られなくなったこと、当初は石祠により祀られていた子安様が、19世紀後半になると赤子を抱く子安観音像の形で製作され祀られるようになって、現代にも続いている状況が紹介されました。
石仏勉強会(2024年2月「庚申塔」)の資料から:ここをクリック
2月22日の勉強会には20名弱の皆様にお集まり頂きました。講演者の熱のこもったお話に加え、質疑・懇談も活発に行われました。以下、講演者にご準備戴いた資料、懇談時に取り上げられた資料から抜粋して掲載いたします。
◆日光東照宮
現在の社殿群は、そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永13年(1636)に建て替えられたもの。神馬厩舎の梁に猿の一生を彫り(馬の医者は猿)馬の安泰を願う。庚申塔の三猿はこの年以後庶民は家康を崇拝し石塔に三猿を彫ったと言い訳した。幕府は庚申塔を破壊できなかった。
◆庚申講
庚申講は信仰の集まりとして庄屋の許可を得て集まり、初期は薬師・釈迦・地蔵などを祀ったが、いろんな宗派が集まりやすくするために青面金剛を祀った。庚申講の集まりは講費を集め、庚申塔を作り庄屋に集会は信仰のためと証明した。
◆庚申待祭祀縁起 奈良県大和郡山市小泉金輪院
一ノ上尸ハ頭ニ住ム鬼ナリ。捗瑞卜云。黒色ノ虫ナリ。形ハ人ノ如クニシテ、長サ三寸ナリ。庚申ノ日鬼卜成リテ人ノ命尾ヲ送り出シテ、将ニ短成ントス。或ハ人ノ物ヲ欲シ、物ヲ妬ミ、常ニ物忘レ令メ、俄二心細ク成リ、繁怒ル夢ヲ見セ令メ、亡人ヲ夢見セシメ、喧嘩闘静ヲ起シ、時ナラズ腹ヲ立、老ズシテ歯落、眼闇ク、白髪卜成ルハ、此虫ノ所作ナリ。
一ノ中尸ハ腹ニ居ル虫也。影質卜云。青色ノ虫ナリ。形ハ人ノ如クニシテ、庚申ノ日馬ノ形卜成テ人ノ気ヲ弱クス。物忘レヲ成シ、悪事ヲ好ミ、殺生ヲ好ミ、思ノ外ニ龍栄ニ遇ヒ、命ヲ失ハシメ、高キ人ヲ賤シメ、我ニ善キ人ヲ疎セ令メ、親シミヲ軽ンジ、子ヲ矜レマズ、魚鳥麹蒜茸ヲ好ミ、腹ノ毒卜成ス、此時三カヲ得テ人ヲ殺ント欲ス。今夜悪キ夢ヲ見レバ物狂卜成ル。又口ヨリ白キ血ヲ出シ、早ク気力ヲ損ス。
一ノ下尸ハ髪卜云フ。形白鶏ノ如シ。足ニ居ル虫也。庚申ノ日鬼卜成ツテ障碍ヲ人ニ成ス。大学匠善知識モ此鬼ノ崇ハ遁レズ。年二六度ノ庚申ノ日ヲ知ラズシテハ、二世ノ大願成就シ難シ
本会では、これまでに「房総の石仏百選」「続 房総の石仏百選」の二冊を、たけしま出版より刊行しています。
現在、三冊目となる「房総の石仏 新百選」の刊行に向けて、掲載物の選定、検討を行っています。
房総の石仏百選
続 房総の石仏百選
本会では、継続的に会員を募集しています(千葉県内外は問いません)。
石仏見学会、勉強会、等の本会イベントに参加されたり、出版物をご覧になって、興味を持たれた方は、お問合せ下さい。
2025年4月時点での年会費は¥3,000です。
#お問合せ情報の扱いについて#
お問合せ戴いた方の、メールアドレス・氏名(ニックネーム含む)・お問合せ内容、等の情報につきましては、お問合せへの回答・本会からのご案内に使用、およびお問合せ戴いた記録として本会事務局内で保管させて戴きます。これ以外の目的では使用いたしません。
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# 試行版 更新履歴 #
2023年7月15日 試行版公開
2023年7月25日 更新履歴追加、会誌INDEXをPDFファイルから画像に変更(Googleへのログインを不要とするため)
2023年8月12日 「はじめに」「定期刊行物」「会員募集」の文言を修正。会誌29号発行に伴い当該号の目次を追加。「会員の皆様へ」を追加。「過去の見学会記録から」を追加。
2023年8月31日 「お問合せ情報の扱いについて」を追加。
# 正式版 更新履歴 #
2023年10月1日 正式版公開
2023年10月29日 勉強会の予定を更新。検索結果を考慮しヘッダーを変更。
2023年11月17日、24日 「会員の皆様へ」の内容を更新。
2023年12月20日 「はじめに」の文言を修正。「房総の石仏」目次、更新履歴をクリック表示に変更。石仏勉強会、石仏見学会、石仏見学会の記録から、「会員の皆様へ」の内容を更新
2024年1月20日 「会員の皆様へ」の内容を更新
2024年2月18日 石仏勉強会、石仏見学会、の内容を更新
2024年2月23日 「会員の皆様へ」、石仏勉強会、の内容を更新。「石仏勉強会の資料から」を追加
2024年3月15日 表紙に 活動NEWS 欄を追加、「会員の皆様へ」、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。
2024年3月18日 「会員の皆様へ」、石仏見学会、石仏勉強会、会員募集、の内容を更新。
2024年3月25日 活動NEWS 、石仏見学会、過去の見学会記録から(3月24日分に置換)、の内容を更新。
2024年4月27日 「はじめに」の文言を修正。活動NEWS 、石仏見学会、過去の見学会記録から(4月26日分を追加)、の内容を更新。
2024年5月21日 石仏ゼミナール欄を追加。「会員の皆様へ」、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。
2024年6月10日 石仏見学会:6月10日実施予定分を中止に変更。
2024年6月25日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏勉強会、の内容を更新。
2024年7月 9日 活動NEWS 、石仏勉強会、の内容を更新。「石仏勉強会の資料から(7月8日分)」を追加。
2024年9月27日 タイトルバックの写真を変更、活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏勉強会、の内容を更新。「石仏勉強会の資料から(9月21日分)」を追加。
2024年10月14日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。「過去の見学会記録から(10月12日分)」を追加。
2024年11月11日 活動NEWS 、石仏ゼミナール、の内容を更新。
2024年12月3日 活動NEWS 、石仏ゼミナール、の内容を更新。
2024年12月24日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏ゼミナール、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。「令和6年度石仏ゼミナールから」 を追加。
2025年1月20日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」の内容を更新。
2025年2月22日 活動NEWS 、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。「石仏勉強会の資料から(2月21日分)」 を追加。
2025年3月17日 石仏見学会、の内容を更新。
2025年3月25日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏ゼミナール、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。「過去の見学会記録から(3月22日分)」 を追加。
2025年4月7日 石仏見学会、の内容を更新。
2025年4月28日 活動NEWS 、石仏見学会、会員募集、の内容を更新。「過去の見学会記録から(4月26日分)」 を追加、「過去の見学会記録から(3月24日分)」 を削除。
2025年6月3日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。
2025年6月30日 「会員の皆様へ」、石仏勉強会、の内容を更新。
2025年7月8日 活動NEWS 、「会員の皆様へ」、石仏見学会、石仏勉強会、の内容を更新。