舌先は何のために在るのか。
「ア コテ パティスリー」の菓子「ポワトゥ シトロン」は問いかける。
綿帽子のようにふりかけられた繊細で力強い砂糖を舐めるため?
違う。
重さと軽さを同時に感じ、やがて己の歯が生地を噛み砕いていく、その官能的な戦慄の予兆におののくために在るのだ。
舌先は炭鉱夫である。いや炭鉱のなかのカナリアかもしれない。ときにはセンサーを働かせて地震探知機の役目も果たす。そう、舌先とはナマズでもあるのだ。
触覚とはつまり、予感に他ならない。掘っては感じる、掘っては感じる。その濃縮された繰り返し。
チーズはほとんど主張してこない。しかし単に口内にまとわりつかないというあっさり感に誇りを明け渡しているわけではなく、スフレならではの軟着陸には「喰らう」ことの手応えが、ぴーんと張り詰めた糸のように漲っている。
やおら顔をだすレモンの衝撃は、だからこそ効く。
トンネルを抜けたらそこは……眩暈のような酸味と閃光のような甘さが喉の奥まで到達したとき、放心と共に覚醒が訪れる。
わたしたちは距離を食べている。わたしたちの唇、その先には宇宙が拡がっている。