デモに参加しないのは、これ以上、無力感にさいなまれたくないからだ。脱力ではない。気力をむしりとられる。自身の「防衛」のために、デモに参加しない。


じぶんが知る日本の分岐点となる総選挙の際、フェイスブックで投票を呼びかけた。政治的な投稿はしてこなかったが、そうせずにはいられなかった。支持政党を勝たせるためではない。投票率をあげるためだ。日本がこのまま違う方向に進んでいくのなら、せめてそれを支える大衆の存在を明確に可視化してほしかった。それなら諦めもつく。


多くのひとが望んでいることなら、どうしようもない。どうすることもできないし、どうするつもりもない。国は民のものだ。民が決断したのなら、国はどうなってもかまわない。国はわたしのものではない。国は民のものだ。


投票率はあがらなかった。それ以降、どんどん、さがりつづけている。あまりの投票率の低さは、不正選挙を疑わせることがないほどだ。政府がインチキをしているのではない。民は国に興味を持っていないのだ。いや、ひょっとしたら、民の半分は「選挙」の存在を知らないのかもしれない。これはSF的な世界の出来事だと思い込んだほうが、ずっとすっきりする。楽になる。だが、楽になってはいけないのだろう。


民は、もはや、わたしが考える民ではないのかもしれない。だが、民がいくら「選挙」を黙殺しようが、国というもののかたちは依然としてそこにある。国が、民を護りながら、同時に民を抑圧している事実はなにも変わらない。


日本がうらやましい。独裁国家に生まれ育った映画人に言われたことがある。ずいぶん前のことだ。日本はうつくしい。そのうつくしさがわかっているかい? このうつくしさをたいせつにしなきゃいけないよ。あの頃はよくわからなかった。実感がなかった。あれから大きく変貌したいまの日本でなら、彼が伝えたかったことがよくわかる。


国は民のものだ。もう「民」という概念が消滅してしまったのだとしても、「国」はのこりつづけている。わたしには実感がある。あの日の彼に、ごめんなさいの気持ちがある。


国は民のものだ。デモに参加しなくても、そう念じつづける。民の選択が見たい。たとえそれがどんなに間違った選択だとしても。民のひとりとして、この国のゆくえを直視する。


わたしは、民になりたい。