ゆめは、いつか叶う。
きみは、そんなふうに思っている。
だが、違うんだよ。ゆめは、誰かが叶えてくれるものではなく、自分で叶えようとしないと、進んでいかない。オレも最近わかったことなんだけどさ。

 「夢」は眠っている最中にみるもので、将来に対する漠然とした期待は「ゆめ」と書いたほうがいい、と何かの本に書いてあったな。あれを記憶したのは、きみがその後に進む道を示していたとも言える。

 小学校の卒業文集で「将来のゆめ」をイラストで描かされたきみは、電気スタンドのある机に座る男の後ろ姿にした。父親が公務員で、引っ越しが定期的にあり、友だちと離れるのが嫌だったから、会社勤めとはそういうものなのだろうと、「家で仕事をするひと」になりたいと思った。つまり「転勤のない仕事」。そういう仕事を他に知らなくて「小説家」と文字を添えた。「作家」という便利な言葉もわからなかった。「ライター」なんて肩書きはまだこの世に存在していなかった。 

きみがその後、「小説」を書くことはないが、映画やドラマを「小説化」する「ノベライズ」には関わることになる。「ノベライズ」なんて、こっちでも最近生まれたばかりの言葉だ。とにかく、きみは「家でできる仕事」には就くことになる。

 だが、本当のゆめは、その後に生まれる。だいたい「家でできる仕事」なんて、ゆめのうちには入らない。きみも薄々気づいていただろ。

 「小説」ではないが、雑誌で映画についての記事を書くようになったきみは「いつか自分の本が出版されたらいいな」と考える。だが、行動には移さない。誰かが本にしてくれる、そんな他力本願野郎だからだ。 

去年、25年分の文章を一冊にまとめたよ。協力してくれた人はたくさんいるが、最終的には自分で決めたことだ。「誰かが」ではなく「自分で」にたどり着くまで時間がかかった。ただ、ゆめが叶わなかった人生も、それはそれで、その味さ。頑張る必要なんて、ない。なるようになるさ。あの頃と同じように生きて、たまたま、ゆめを抱き、たまたま、自分から行動を起こした。それだけのこと。

 なにが起こるか、わからない。確かなことはそれだけだ。別に素晴らしくはないが、まあまあ悪くない人生だから、そのままでいろ。まあ、別に心配なんかしてないんだろうけどさ。