肌で感じたものを、大切にしている。

袖を通して、身体が心地よいと感じた服。首筋にまとわりつく空気の湿度。足の裏に張り付いた砂。サングラス無しでは居られない、刺すような日差し。いっしょに食べた焼きそばの味。


言葉を連ねるだけで、夏の海の思い出がよみがえる。

肌で感じたものは、じぶんの言葉で誰かに伝えられる気がする。

誰かに伝えたら、またじぶんに返ってくる。あの日の自分をまた、見つけられる。


2022年大晦日。もう二度と動かぬ母と向き合っていた。

ほんの1週間前まで温かかった、白くて冷たい手。重たい足。

触れたわたしの手に、「死」とは何なのかが、否応なしに刺さる。


母との温かな記憶が、頭の中をめぐった。

ぜんぜん寝ない娘を代わる代わるあやしながら、夜通し一緒に起きていた夏の日。

縫ってもらった浴衣を嬉しそうに着る娘と手をつないで、一緒に写真を撮った日。

東日本大震災で帰宅困難になったわたしに代わり、子どもたちを迎えに行ってもらった寒い日。


不思議だ。40年以上娘でいたはずなのに、思い出すのはわたしが母となってからのことばかりだった。当たり前にそばにいる母ちゃんに甘えられるありがたさが胸にしみたのは、わたしの娘がいてくれたから。母がいなくなることは、この世で一番心地よい温もりを失うことだったのだと、突き付けられた。


蝉の声を聞きながら、母の冷たくなった手がわたしに刻み込んだものをいま、見つめている。


肌で感じたものを、大切にしている。

いや、というより。

肌で感じたものが、わたしを抱きしめてくれているのかもしれない。