子供の頃向かいにあった精肉店は本当に小さな店で、私が物心ついた時にはすでにご主人は亡くなっていてその寡黙な奥さんがひとり切り盛りしていた。
冷蔵ショーケースなどはない。
大きな冷蔵庫が背後にあってそこから大きな肉を出してその都度切り出していた。
経木に包みちょっと紙にくるんで輪ゴムで留めて差し出してくれる。
インドカレーのカレー粉とウスターソースくらいが脇に並べられている。
祖父が興した魚屋を2人姉妹の長女である母が継いでいたので、料理は祖母の担当だった。
カレーライスのリクエストが孫達から入ると、斜め向かいの八百屋から野菜を買って向かいの肉屋で豚肉を調達する。
この精肉店には牛肉などは置いていなかった。カレーもすき焼きも全て豚肉。私は進学で上京するまで牛肉というものをほとんど食べた事がなかった。
東京の親類がステーキ屋さんに連れて行ってくれたけれど半生のお肉なんて食べたことがなく、でも残す事もできずに涙目で飲み込んだことは誰にも言えない。
祖母のカレーライスは黄色くてじゃがいももにんじんもごろごろ入った少しさらさらしたものだった。お肉もたくさん入っていた。
大人になってあの味を再現したくて何度か試してみたがうまくいかない。
のちに老いた祖母にコツを訊いてもそんなものはないとあっさり答えた。
トマトを入れたり残り野菜を入れたりたぶんコツとは言えないコツがあったはずだ。
そういうことを自覚せずに一生懸命家族のために作っていた祖母のひっつめ髪と着物姿が目に浮かぶ。
そう言えば私は母の作るカレーライスを食べたことがない。
母も料理をしないわけではなかったし、忙しい中、子供達に精一杯の愛情をかけてくれた。
魚屋をやめてからは料理本を見ながらおしゃれな料理を作ったり失われた普通の主婦の生活を満喫していた。
でもカレーライスだけは記憶にないのだ。
母にカレーライスを作ってよと頼んだらどうだったろう。
母にとっての母の味。素朴なカレーライス。
いろいろなスパイスを使って作る本格的なカレーライス。
どちらにしてももう叶わないことだ。
私たち兄弟は母のカレーライスを知らない。