その教室を訪れた時のことはよく覚えている。
浅草橋の問屋街の小さなビルの一角に、草が谷ケーキ教室はあった。
都合4人くらいでいっぱいになる小さなスペース。教壇が在るような教室を想像していたから、少し拍子抜けした。
先生は柔らかな声とふくよかな笑顔で迎えてくれた。
看護婦さん二人組と私と先生。
少人数でのレッスンだ。
最初は、マドレーヌ。
溶かしバターの良い香りも、オーブンからおへそのポコンと出たマドレーヌを取り出す瞬間も、全部楽しかった。
紅茶を入れて、まだ温かいマドレーヌをみんなで食べた。
レッスンの復習とおしゃべり。
看護婦さんの普段聞けないリアルな愚痴が楽しい。
垣根のないフランクな先生の人柄がすぐ好きになった。
先生は優しいだけではなく、妥協のない厳しい人でもあることもだんだんわかってくる。
プライドは持っているけれど、プライドなんてくだらないとも思っている。
潔い。
簡潔でわかりやすいレシピは、名店のケーキを研究し何度も何度も試作を重ねたものだ。
参考にはするが、どんな名店の味も先生は信じていない。最終的には自分の感覚が全て。
作り上げるのは、気取りがなく、堂々としている、先生そのものの味。
それから10年通い続けた。
地元で、先生のレシピで作ったケーキを販売したい。次第にそんな思いが募っていった。
未熟な生徒の無謀な挑戦。
けれど先生は躊躇なく背中を押してくれた。
心強かった。
いざ仕事として始めてみると大変なことばかりで、何年経っても挫けそうになる。
でも作業場に立てば自然と身体が動いてくれる。
そんな日々の積み重ねだ。
開店祝いに先生から頂いた大きな銅鍋で、今日も私はカスタードクリームを炊く。