数年前、両親と暮らしていた時の話。
「なんだか焦げっぽい?」
毎日飲んでいるコーヒーの味に違和感を感じたのはこの頃よりさらに遡った夏のこと。
舌に悪残りする苦味は虜になった香りとまるで別物だった。
我が家の味は主に和食だが、舌と鼻で感じられるのはひどくモヤのかかった醤油の味と香り。
さんざん食べてきたはずの味と比べては記憶が混乱している。
診察したところ味覚障害らしいが、なかなか治らない。
私の場合現れた変化は、塩分が強めに感じたり、かといえば旨味の濃いチキンはその旨味が鳴りを潜め、キムチ漬けきゅうりはキムチよりきゅうりの味が強く感じられたりする。味ってなに?香りってどこで感じていたの? 人生の分食べてきたくせ、すっかり味の迷子になってしまった。
心残りは父の料理が食べられなくなったことだ。
中華とも和食ともつかない無国籍オムレツ、冷蔵庫の一斉セール・なんだこれ具だくさんうどん。名前の定まらない料理は月一でテーブルに上がるが、昔ながらの濃い風味が舌を刺すような不快さに変わり、食べられず残してしまうようになったのだ。
「食べられないなら残していいよ。」という母。すっかり耳の遠くなった父は聞こえているのかいないのか、私の顔をゆっくり見上げた後、三口ほど食べたオムレツに目を落とす。
「そんなに食べれないんかなぁ…」
父は私よりも味の迷子のように声が沈んでいた。
私は材料を無駄にするからと理由をつけては作る回数が急に減り、会話も少なくなり嫌な感情が家に広がりつつあった。家族の味とはこんなにチクチクするものだろうか?
味が揺らいだだけで心の中の家族も揺れていく。
これまでの目分量で味覚頼りの料理が全く役に立たず途方に暮れて…
…分量?
そうだ。なぜ気づかなかったのだろう。
材料と分量さえ揃えばレシピ通りの料理が出来上がるはず。料理は相応に作ってきた。自分の手で作る感覚から味覚を思い出せるかもしれない。
希望を胸にレシピ本をめくり竹輪と春キャベツが家にあったことから、竹輪と水煮筍の醤油炒め・山椒風味、もう一品はあさりと春キャベツの水煮に決めた。
うなぎに付く小袋以外で使ったことのなかった山椒。香りに鈍い今、あえて感じてみたい。失敗しても安い常備材料と季節もの野菜だ。思いっきり食べたい。
ざくっ、クツクツ、シューシュー、ジャアッ。
耳に入る音も味になるのだろうか。
できた。
立ち上る湯気から香りは感じられない。水煮を口に入れる。
すると不思議とほのかなあさりの香りが立つ。一度だけ作った時の記憶と同じ香りがする。
醤油炒め、山椒の香りが抜群に鼻を抜けていく。筍のしゃくしゃくと変わらない歯応えに安心して竹輪と一緒にほおばった。
美味しい。
何より、父と母がにこにこと盛んに食べてくれて本当に嬉しかった。柔らかな味の記憶がふと重なった気がした。
まだまだ味覚はチグハグの手探りだけど、こんな風にこれからも記憶と繋ぎ合わせていくのだ。
欠けていても満たせることはある。