大阪の中学に通うまで「世間知らず」は僕のためにあった。実家は三輪そうめんの自営業。製造工場のある敷地は広く、小学校の低学年なら野球ができる。子煩悩の父はたいていのオモチャを買ってくれ、遊び相手は双子の弟がいた。放課後は友達が集まり、バタバタ走り回って夕暮れに帰る。遊び場や仲間を求めて出掛ける必要がなく、家の外を知らないバカ殿様だった。
最も古い記憶は幼稚園の入園手続き。初めて触れる社会。教室をのぞくと上級生がピシッと並んで何かを合唱している。え?歌って好きに歌うものじゃないの?なんで背筋をピンと伸ばすの?自分がそこに放り込まれる未来に鳥肌がたった。笑顔で歌っている年長たちが不気味だった。
小学校4年の授業で「有名人しりとり」をしたときは志村けんと加藤茶、新庄剛志しか答えらず僕で負ける。漫画とアニメのキャラしか知らない。クラスの女子は全員SMAPの下敷きを持っていたが「キムタク」が食べ物の名前だと思っていたらクラスのみんなから笑われた。
そのとき初めて自分が変わり者だと痛感した。テレビドラマや歌番組を見ないと話が合わないことを思い知った。それでも流行を追う気持ちや、周りに合わせる気が1ミリも起きない。自分を曲げたくないわけではなく、ただ今の環境を変えるのが面倒くさかった。きっと僕はこの先、苦労するな。世の中とはうまくやっていけないなと予感した。
歳をとるほど幼児性は暴走し、30歳で上京してからはコンプライアンス無視の社員になり、社内から「純粋悪の魔人ブウ」なんて呼ばれた。それでも「戻ってきてよ」と言ってもらえるから、人に恵まれたらなんとかなんるもんだ。
いつまで泥棒を続けるのか訊かれたルパン三世は「オトナになるまでよ」と答えたが、このまま僕も大人への入学式を拒否し続けるのかもしれない。