2年前に会社のTwitterを始めたとき、大学生と相互フォローした。その子は映画のあらすじの動画をYouTubeにアップしており、顔は出さなかったが声の印象は穏やかだった。


映画や動画の感想をコメントすると、そんな見方があるんですね!その表現とても好きです!と、タイトルやサムネイルに使ってくれた。


ある日、どうしたらそんな表現ができるんですか?と訊かれたので、大学生のとき影響を受けた一冊を紹介した。


井筒和幸『アメリカの活動写真が先生だった』


奈良で生まれ育った井筒少年の映画との出逢いから、監督になって刺激を受けた65作品に寄せたラブレター。1965年の『バルジ大作戦』から92年の『許されざる者』まで、アメリカン・ニューシネマが中心。


ただし、作品の解説はほとんど無く、当時どんな暮らしをしていた、なにを考えて生きていたかなど、大半が自分語り。プロの視点が学べると期待していたので、最初はガッカリした。


しかし『許されざる者』の短い一文、「作りたい映画がなく、心が真空だったとき、東京の夜は小雨だったが、傘なんかなくても平気で歩いて帰れた」という告白に胸を打たれた。京都で独り暮らしをしていた自分は、金閣寺前のレンタルビデオ屋に自転車を走らせた。


作品を語らず、映画を観た自分を語る。レビューを通して、他者に人生をおすそ分けする。それが「映像」ではなく「映画」を語ること。井筒監督から学んだ。


大学生はいつの間にかTwitterもYouTubeもやめ、映画俳優の半生をTikTokに投稿するようになっていた。そこには自身が画面に登場し、少し照れ臭そうに映画への想いや自分の人生を語る姿があった。


お久しぶりです、とコメントすると、未熟ですが、おすすめしてもらった本で勉強していますとリプをくれた。


未熟じゃないですよ。これまで何本観たかではなく、これから観る映画が何本あるか、それが映画ファンです。そう返した。