『エヴェレスト神々の山嶺』は自分の血だ。酷評を耳にすると、家族がバカにされたように感じてしまう。


あなたにだってあるだろう。他人事ではいられない、自分自身と呼べる一作が。


映画が公開された半年後の2016年9月、私はチベットの標高5900mで1ヶ月半のキャンプ生活を送った。


『神々の山嶺』を観るたび、眼の前で対峙したエヴェレストの生命力が蘇る。


そして「いつか自分も…」と、氷点下の衝動に駆られてしまう。


山岳カメラマンの深町誠(岡田准一)はクライマーの羽生丈二(阿部寛)を置いて下山したあと、命懸けで撮った写真を炎にくべる。


なぜ深町はカメラマンの命である写真を燃やしたのか?永遠の入り口へ向かう儀式のように。


なぜ登山家でもないのに単独・無酸素でデスゾーンに突っ込んでいくのか?「山に登る理由」など自ら拒否するように…。


エヴェレストに登る直前、ダルバート(ひよこ豆のカレー)を食べる羽生もスプーンを持ったままガタガタ震える。


超人と呼ばれた孤高のクライマーも人間。死が怖い。それでも絶頂を目指さずにいられない。


まるで”呪い”だ。山に行けば死ぬかもしれないが、山に登らねば死んだも同然。妻と子が家で帰りを待とうが、恋人がベースキャンプまで付いてこようが、背を向けて山に向かっていく。


羽生も深町も登山という死亡遊戯から逃れることができない。


「登魂とは死ぬことと見つけたり」


そう、たった一つしかない命を山に溶かすクライマーたちの『神々の山嶺』は、武士道に他ならない。エヴェレストは日本人にとっての武士道なのだ。


監督の平山秀幸は、高所恐怖症で高尾山にも登ったことがない。そんな素人がロケのできる限界ギリギリ標高5200mのヒマラヤに招かれてしまった。


これも山の呪いに他ならない。それは、とてつもなく自由奔放な呪いである。


『エヴェレスト 神々の山嶺』を観るたび、私はクライマーという血で繋がった本物の同志に出逢える。血は決して嘘をつかない。