あの憂うつな自粛の頃、友人がわが家で音楽ライブ配信を観たいと言ってきた。いいよと軽い気持ちで引き受ける。当日、始まる前から画面の前で正座する友人、コーヒーを淹れて軽食をサーブする私。温度差に苦笑する。始まるとセットリストをメモしてあとはただ音に身を任せるだけ。隣で奇声とため息を吐き続ける友人の熱狂とはかけ離れた俯瞰。


演目の途中、そんな私が一変したのはとある曲のイントロ。知らない、聴いたことない、なんだこれ。冷静だった自分がひどくうろたえる。ヒットしたどの曲とも違うエッジ、頭のリストにはない独特の曲調。音にぎゅうぎゅうに詰まって押し寄せてくる言葉はそのまま理解できないのになにかにぐっとつかまれてしまって 1 ミリも動けない。なんだこれがリフレインしている頭は同時にこれを急いで特別な場所にドラッグ・アンド・ドロップする。のがすまい。ライブ後半はメモする手も止まってしまった。あの音が頭でずっと鳴り続けている。苦しくて幸せな感覚。


大げさではなく、こんなふうに私は好きなものと出会う。予定調和ではなく答え合わせでもない。普段着のサンダル履きのような時でも突然それはやってくる。出会ったとき、私はただ強く手繰り寄せてどこかに放り込む。そのくせ、どこに入れるのかすぐには決められない。ちょうどいい箱がありますよ、なんて整理整頓が上手な人に言われたくないし、入れ物を用意して臨むこともしたくないからいつもたいてい用意がない。


放り込まれたものはとても原始的なかけらになってふわふわと漂い、私をいっぱいに満たしていく。それは熱を帯びて形にならないまま膨らんでいく感じだ。しばらくはただそのまま。ふわふわのまま放っておく。


それがいつしか元々の自分となじみ、なにかに反応してなにかとつながって独特の熟成を迎えるとき、静かにそれは固定化される。どこかに収まる。それまでの時間も仕上がりもまちまちだけど、結局はこんなものをいくつもいくつも積み重ねて今の自分ができている。ああ、この感覚が好きだ。