5月に入り、過ごしやすく、少し風が吹いて、太陽の光が柔らかな朝。

どこからかコーヒーの香りが漂ってくる。


20何年も前、プロヴァンスのムスティエ サント マリーに家族で宿泊したことがある。

フランス料理の巨匠、アラン・デュカスが営むオーベルジュ。

オリーブの樹、菜園、家畜小屋、ラベンダーに囲まれたその宿は、料理も何もかもが完璧な中に、どんなゲストも受け入れる温かさがあった。お茶目な笑顔と共にサーブされる、繊細だけれど肩肘はらないフルコース。

小さな図書室のような部屋での贅沢な朝食、プチデジュネ。

近くの湖にピクニックに行き、ランチを持たせてくれるサービスを利用したのは大正解。

手作りのロースハムに、パンドカンパーニュ。オーベルジュの畑の野菜で作った具沢山のサラダ、何種類もの焼き菓子。名前だけは知っている「カヌレ」を食べたのはこの時。

カフェオレやフレッシュジュースもたっぷり。知っているはずの食べ物も、初めて食べる美味しさだった。


出発前、名残惜しくてオーベルジュの庭を散歩していると厨房の裏口が開け放たれていた。

こんなかわいらしい、おとぎ話のお家みたいなところでお料理してたんだ。

その頃お菓子の教室に通っていた私と妹が興味津々で見ていると、こっちに来なさい、と手招き。

私達?と身振りで。

そう、こっちに来てこれを手伝って。

はい、ここでね。

この付け合わせの野菜を茹でるから、こういうふうに紐で一括りにしてね、次はこの型で生地を抜いて型に敷いて。うずらの卵の殻はペティナイフでこの部分だけ切り取って。

フランス語は殆どわからないし、英語もカタコトしか話せない。ただ、フランス菓子を習っているので単語は理解できる。

ほら、醤油もあるよ。

包丁は日本製だ。

と、教えてくれる。

これ以上ないくらいの緊張の中、1時間くらいだろうか。

そろそろここを発つ時間だと伝えると、シェフ達は、残念だ、次はどこに行くの?良い旅を。と送ってくれた。

メルシーボクゥ、と何度も伝えて厨房を離れた。

手伝った内容は、フランス料理の基礎を含むもので、何故私達にそれができると思ったのか、何も思わずに手伝わせたのか、全く分からないけれど、二十代の日本人姉妹はとにかく特別貴重な体験をした。


5月の風にコーヒーの香りがするとあの土地の空気を思い出す。

深煎りのコーヒーとミルクで淹れたカフェオレをムスティエで買ったカップに注いで、近所のブーランジェリーのパンにハムや野菜を添えてランチにする。


日々、好奇心を失っていないか。

まだまだ新しいことができるんじゃないか。

宝物が、私に問いかける。