神戸を歩く

神戸の歴史

かつて、神戸の海岸地域には京・大坂の外港・経由地として栄えた「兵庫津」と呼ばれた港があった。
遣隋使の時代には、すでに港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。

律令制では、畿内の西部、五畿内のひとつ摂津国に属していた。現在の須磨区と垂水区を境に西は播磨国であった。
兵庫津には戦国時代の短い期間、城が存在していたが、尼崎に城が築かれると摂津国の政治の中心は尼崎に移り、城跡には兵庫陣屋が置かれた。
港は北前船の出発地の一つで廻船問屋が軒を連ねていた。
兵庫津の北方に西国街道が通っており、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場があった。
兵庫津には自治組織として港町を担当する浜方と、宿場町を司る岡方とが存在した。
本陣は浜方と岡方の双方に存在したが、江戸時代中期以降は浜方の本陣の利用を希望する大名家が漸増した。

江戸幕府が欧米と締結した条約では兵庫港を外国船に開港することが規定されていたが、実際には3㎞東の神戸村が開港場となり、1868年に外国人居留地や港が造られ、1879年に勅令により「神戸港」となった。
その後、日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールと並ぶアジアの主要な貿易港として発展を続けた。
一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長した。
「兵庫」と「神戸」は元来別々の町村であったが、市域の拡大によって一つの都市として一体化していった。

太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標であった神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した(神戸大空襲)。

戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地より削り取った土砂を用いてポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備するとともに、埋立用土砂採取後の丘陵地を住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。
1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。

平成史に残る都市災害となった阪神・淡路大震災が1995年1月17日に発生した。
神戸市内は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの製造業の生産拠点の海外移転によって、国際貿易港としての相対的地位は低下した。
しかし、震災復興によるインフラの再整備により貿易額は回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして発展を続けている。

また、人口においても震災直後に7%余り減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2011年には154万9000人に達した。
しかしながらその後は、東京23区や大阪市への流出など人口減少が続き2015年に福岡市、2019年には川崎市を下回り、政令市で7位となっている。

2020年10月 参照wikipedia「神戸市」

神戸を代表する観光スポット

六甲山・摩耶山

ハーバーランド・メリケンパーク

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神戸北野