その子らしく生きていくために

〜幼稚園に入るまで〜

普通の幼稚園にいれるの?

それは、子どもが4歳になって、そろそろ幼稚園から入園のお知らせがくる頃のことでした。ある日、突然、何の前触れもなく、深刻そうな表情で、妹に言われました。

「お姉ちゃん、普通の幼稚園にいれるの?」


妹がこう言ったのには、もちろん理由がありました。妹は、以前から、なんでも好きなことをやらせる私の育て方では、幼稚園に入ったらどういうことになるんだろうと心配していたのです。


幼稚園に行ってから、誰かに「お宅のお子さんは・・・」と言われて傷つく前に、身内の自分が言うしかないと、悩みに悩んだ挙げ句に私に伝えたのです。


突きつけられた「普通の子」

妹から、「普通の幼稚園にいれるの?」と言われた時が、私の子育てにとっての大きな転機になりました。その言葉を聞いた時が、世の中の人は普通の子を求めてるんだなと突きつけられた一番最初の時でした。



私自身も、息子は明らかに他の子とは違うとは思っていました。同じくらいの年代の子とは全く遊びませんでした。公園に連れて行っても、一人で砂場で遊んでいるだけの子でした。一つのことを始めるとずっとやり続けて、帰ろうと言っても「嫌だ」と言って、やめようとしない子でした。


でも、私は、そのことを困ったことだとは感じてはいませんでした。ただ、他の子とは違うことには気づいていて、息子は何者なのかなと思っていました。



妹は、他の子とは違う息子を知っていたので、普通の幼稚園にいれると、普通には過ごさないだろうことが容易に想像できたのだと思います。朝はこれをしなくちゃいけない、次はこれをしなくちゃいけない、みんなで一緒に椅子に座らなくちゃいけない。そういうことが幼稚園で次々に息子に襲いかかってきたら、息子がすんなりとやることはないだろうと妹は思ったのです。そして、幼稚園で普通に過ごさないことを周りが許さないだろうとも思ったのでしょう。


他の子と違う息子が、普通の幼稚園では一日もたないかもしれないと妹が思ったのは、幼稚園は画一的に枠にはまって行動するところだと捉えていたからだと思います。幼稚園は枠にはまって行動するところという捉え方をすれば、そこで問題なく過ごせるように普通の子であってほしいという思いが導き出されるのだと思います。


妹は私よりも先に子どもを産み、二人の子どもを育てていました。そんな彼女から見た幼稚園の姿は、みんなと同じを求められ、それができないと排除される場所だったのかもしれません。そうであれば、普通の幼稚園にいれるのは普通の子じゃないとダメという考えになるのも無理はありません。


私の考え方は、妹とは違っていました。画一的な枠組みの中で育つような子にはしたくない、それぞれの子に好きなことさせてほしいと思っていました。好きなことをどんどんやれる普通じゃないことがスゴイと思っていました。


普通じゃないのがスゴイという目で息子を見れば、妹が心配してくれたように、幼稚園入園が危機的なことであるとは全く思えませんでした。もしも普通の幼稚園に入れてもらえなかったら、もしも入園した後で「この子は枠にはめられないから無理です」と言われたら、息子を受け入れてくれて、息子が息子らしく過ごせる場所を提供してくれる幼稚園を探そうというのが私の考えでした。幼稚園に必ずしも行く必要がないのであれば、幼稚園時代に学ばなきゃいけないものを私が教えればいい。そんな風にも思っていました。



私がこんな風に考えるようになったのは、息子が生まれてからの子育ての中で積み重ねてきたものがあったからです。これが虐待につながるのかもというギリギリの線までの経験も経て、息子がニコニコしてくれることをひたすらに追い求めてたどりついた私と息子との生活があったからです。


どうしてこんなに泣くの?

まだ話すこともできないし、ただ泣くだけだった6ヶ月くらいの頃だったと思います。子どもが寝ないことに私は困り果てていました。抱っこして肌が触れている時は安心しているようで、うとうととしてきます。それで、そうっと布団に置こうとすると、びえーっと泣き出す。そんなことの繰り返しでした。


ずっと抱っこしていると腕は疲れてくる。立っていると腰も疲れてくる。しかも、私はほとんど寝ていないことが続いていて、自分がどんどん壊れていきそうでした。


ある日、抱っこした子どもをベッドの上にポーンと投げてしまいたい衝動にかられました。ハッと我に返った時に浮かんできた「虐待」の文字。ヒヤッとしました。このままでは、私もこの子もまいってしまう。この状態がいつまで続くんだろうと、子どもを産んだことが辛くて辛くてという時期がありました。


もうママは抱っこできません

妊娠したのは38歳の時。お医者さんから言われました。「高齢出産ですね」と。妊娠6ヶ月くらいの時に前置胎盤らしいことがわかって、1ヶ月ほど入院しました。出産もなかなか大変でした。破水して入院したのに、陣痛が止まってしまう。入院してから1日半苦しんで、ようやく生まれてきました。


そうやって生まれてきた子どもは、入院中は順調に過ごし、母子ともに健康で退院の日を迎えました。退院してからの大変さは、妊娠時や出産時よりもはるかに大きいものでした。どうしてこんなに泣くんだろうという思いがいつも心を占めていました。泣いてばかりいる子でした。それでも、1ヶ月を過ぎた頃には、あやせば笑うようになりました。その時だけは大変さを忘れて、嬉しさでいっぱいになりました。


子どもが育ってくると、オムツを取り替えて、ミルクを飲んだら、起きていても機嫌のいい時間が増えてくるはず。その間に、母は家事をやったり、疲れたらごろっとしたりできるものだと思っていました。


実際には、息子が機嫌のいい時間はほんの少しでした。すぐに泣き出します。それも、ただ泣いているというより、何かが辛くて訴えて、本当に苦しそうに泣いているように私には思えました。だから、抱きかかえてよしよしとします。そうすると彼はニコニコします。理由はわかりませんが、母とくっついていると安心するのかニコニコするので、とにかく抱っこをしていました。


主婦は昼間は家事をしないといけません。手をあける時は、おんぶ紐でおぶって家事をします。それ以外の時は、ほぼ抱っこでした。抱っこでもおんぶでも、じっとしてるのはだめでした。揺らしたり、とんとんしたりを加えないといけませんでした。



子どもが3ヶ月になっても機嫌のいい時間は増えてきません。ここまで泣く?こんなに激しく泣く?そんなことを思う毎日でした。ある日、とうとう、激しく泣いている子どもを前にしても抱っこできずに、こんな言葉が出てきてしまいました。


「ママはすごくつらいです。ミルクもたっぷり飲んで、おむつもきれいよね。それでも泣いているんだから、抱っこすればいいのよね?でもママは限界です。一日中抱っこなんて無理です。ママは腰が痛くて立てません。もうママは抱っこできません。ごめんね」



そんな辛さを誰にも相談できませんでした。私の母や妹が訪ねてきた時に、

「こんなに大変で、こんなに泣くものなの?」

と聞いたことがありました。

「泣く泣く、子どもは泣くのよ」

と、それが当然という答えしか返ってきませんでした。


そうか、みんなはこんなに大変なんだ。母親はこれに耐えているんだ。そう思いながらも、なかなか腑に落ちませんでした。



夜には、徐々に4~5時間は寝るようになってはいきました。ただ、眠りにつくまでにずいぶんと泣きました。きっと、寝たいのに寝られない辛さで泣いていたのでしょう。それはどんな子どもにもあることです。けれども、泣き方があまりにも激しくて、なかなか私自身が受け止められません。そこに大変さを感じていました。


夜に眠る4~5時間も連続して寝るわけではありません。1、2回は起きてきました。起きたら、もう私が抱っこをしていないとダメな状況でした。抱っこしているうちに子どももだんだん眠くなってきます。完全に寝たと思って布団に置くと、置いた途端にびえーっと泣きます。彼は寝たいのに、寝られる環境ではない布団に置かれたことで、辛くて辛くて泣くんです。


しょうがないので、抱っこした状態で一緒に横になることをずっと続けていました。つぶしたらどうしようと思うのですが、息子と別には寝られません。常に一緒の布団で抱きかかえて寝ていました。



辛いと思うのは、私の我慢がなさすぎなだけなのかもしれない。母も妹もこんな大変なことをクリアしながら子育てをしてきているのだから、私も我慢しなくちゃと自分に言い聞かせました。


「どうしたら泣かないでくれるの?」

「どうしたらこの子が笑ってくれるの?」

「どうしたらすやすや眠ってくれるの?」

そのことばかりを考える日々でした。


何なら笑わせられる?

一歳を過ぎた頃、息子は数字に興味を持ち始めました。それには、あるきっかけがありました。今でもその時のことは鮮明に覚えています。


私が家事をしているそばで、息子は木の積み木をガチャガチャと出したり入れたりして遊んでいました。その積み木は、片面に五十音のひらがなと数字が、もう片面は絵が書かれているものでした。お料理をしている途中で振り向いた時に、積み木の塊にあれっと違和感を感じて、思わず近寄りました。その塊は、数字が書かれた積み木だけを完璧に取り出したものでした。


どうやって数字だけ分けたの?偶然かな、でも面白いなあと思いました。それが私と息子と数字との関わりの始まりでした。

こんなに好きなものがあるなら、これでいつでも笑わせられる

6~7ヶ月を過ぎて、はいはいをするようになってくると、運動することで夜は少しは寝るようになりました。それでも、何かおこると瞬間的に火がついたように泣くことは、相変わらず続いていました。


どうしたら泣かないでくれるんだろうと、色々な対応をしているうちに、ひとつひとつわかってきました。眩しいところが嫌なんだとか、できるだけ音がないのがいいんだとか、夜は電気を全部消した方がいいんだかとか。そうすると、息子もだんだん泣かなくなっていきました。

泣かなくなってきて気づいたんです。この子と関わるには、本当に好きなものを与えなきゃダメなんだと。そこから、何をしたらもっと笑わせられるかを探すようになりました。言葉はまだしゃべらなくても、何かを手に取るとか、与えたものに反応することがおこってきた時から、彼の好きなことを探し始めました。そうすると、おもちゃにしても離乳食にしても、何が好きで何が嫌いかがだんだん見えてきました。



そんな中で大好きな数字を見つけました。数字遊びは、それまでのおもちゃとは違い、飽きることなく息子を楽しませてくれる存在となりました。彼をいつでも笑顔に出来るおもちゃを私は手に入れたのです。


泣き続ける息子を前に途方にくれていた私が、時々、息子がわーっと泣き出しても、泣き止ませることができるようになりました。泣いている息子の目の前で、「1,2,3」と声をかける。そうすると、瞬間的に彼の心が好きな数字の音の方に向いて、気持ちを切り替えられるんです。笑い話みたいですけど。



数字に出会ってから、彼は世の中に存在するあらゆる数字に興味を示しました。例えば、マンションのエレベーターの前に止まったら、まずは全ての数字を指で触りながら、1階、2階、3階と確認します。それはそれはニコニコしながら。世の中のどこにでもある数字をおもちゃにできるなら、いくらでも楽しい世界を広げてあげられると思いました。


たとえば、移動できる範囲の駐車場は私と息子の遊び場でした。駐車している車のナンバープレートを0001から9999まで集めるゲームです。彼は常にノートを持ち歩いて、何番の数字を見つけたよとノートに記録していきました。自分で数字を書けるようになった2歳くらいから、小学校に入学してもその遊びは続いていたと思います。ただ単に数字を集めるだけの遊び。数字を見るだけの遊び。2人にしかその楽しさはわからないかもしれませんね。単純ですが奥の深い数字の世界が、その後、息子と私をつなぐ大切なコミュニケーション手段となっていきます。



3歳の誕生日に、「プレゼントは何がいい?」と聞いたら、「わからない」との答えでした。普段から欲しいものをねだったりすることのない子どもでしたが、それがどうしてなのか?少し違和感を感じていました。スーパーのお菓子コーナーへ行っても何も欲しがらない。おもちゃ売り場でも何も欲しがらない。


なのでその時は、電気屋さんに行って、ずらりと並んだ電卓の前で、「電卓、どれが好き?」と聞きました。文房具店や電気屋さんで電卓を見つけると必ず立ち止まり、うれしそうにいつも触っていたからです。3歳の息子は、「これね、◯◯ができて、△△ができるの。いろんなボタンがいっぱいついてて、すごいの」と言って、関数電卓を選びました。3歳のお誕生日プレゼントは関数電卓になりました。


当時は何かを計算しているのか、ただ押しているだけなのかはわかりませんでした。3歳の誕生日プレゼントはいつも息子の手元に置かれて、大人になるまで彼の大切なアイテムとなりました。