その子らしく生きていくために

中学生時代〜

病院とつながる

息子があと3ヶ月ほどで中学生になるというある日、私と息子は病院の診察室にいました。診察室で患者が座る椅子に座った息子に先生が質問しました。

「今日はどうしてここに来たのかな」
息子は何にも答えられずに固まってしまい、 その後、ポロポロポロポロと泣き出しました。


それを見て先生が言いました。

「ごめんね。君の気持ちはちゃんと分かったからね。難しい質問だったね。大丈夫だからね」

続けてこう言いました。

「ちょっとだけ廊下で気持ちが落ち着くまで待っててくれるかな?今、お母さんとおしゃべりするね」


息子が泣きながら診察室の外に出た後、先生は今度は私に向かって質問しました。

「さっき息子さんに『なんでここへ来たんですか』って聞いたら、まあ答えが出なかったけど、 お母さんとしてはどうしてここに来たんですか 」


私は答えました。

「私としては丁寧に育ててきたつもりだし、あの子を傷つけたくないと思って、できないことは私がカバーしてきました。さすがに中学生になって担任の先生以外にも関わる先生が増えると、この子がどういう子かを一人一人の先生に伝えるのは大変です。診断名がつくと、少しはこの子の特性をうまく伝えられるのかと思って」


先生はすぐさま、やさしくこう言いました。

「だったらその目的としては診断名は必要ないですね。お母さんが学校に発達障害なんですと言って解決する問題ではないですし。 それよりも、お母さん、ものすごく頑張って息子さんを育てましたね」


先生の最後の一言を聞いた時、堰を切ったように私は泣いてしまいました。自分では大変な子育てとは全く思っていなくて、この子が笑っててくれればいいなという思いだけでした。ただ、この育て方で良いのだろうかと、ずっと思ってたので、これで良かったんですよと免罪符を頂いたように思えたのです。その一言は、私が病院に来た目的になったようにも思えました。 

息子が相談できる場所をつくる

私は、息子が小学校の6年生の終わり頃に病院を受診しようと決めました。学年が変わるたびに、担任の先生に、うちの息子はこういうことがあるのでこんな風に関わっていただけると嬉しいという話をずっと伝え続けてきました。中学に上がると各教科ごとに先生が変わるので、息子に関わる先生すべてに説明すること自体が大変すぎました。それが受診してみようと思ったきっかけでした。


中学に行くためには診断をつけてもらおうと6年生の夏くらいに思い立って、スクールカウンセラーの方に、「もしもこの子に何かあったら診断してもらう時に病院に行くとしたら何科ですか」と聞きました。当時は、小児精神科という科がある病院へと教えてもらいました。多分、相当待ちますよとも言われました。


今にして思えば浅はかな考えでした。診断がついたからと言って、その診断書の中に彼の特性が全部書かれるわけではないわけです。例えば、発達障害ですねとか、自閉傾向がありますね、ぐらいのことが書かれるだけですから、診断書は全く役には立ちません。でも、その時は気づいていませんでした。とりあえず病院で診断を受ければ、息子のことを先生にすごく伝えやすいだろうと思って、病院に行くことを決めました。


電話で予約をとろうとしたら3ヶ月待ちでした。ギリギリ中学に間に合うかというタイミングで予約を入れて、6年生の12月か1月頃に受診ができました。


初診は、まず心理士さんが細かいエピソードも交えて1時間ちょっとの聞き取りをしてくれました。息子は私の横で画用紙を渡され「木を書いてみて。どんな木でもいいのよ。」そう指示され戸惑いながらも書いていました。その後、医師の診察になりました。


息子に

「受診しようと思うんだけどどうかな」

と言ったら、全然平気な感じで

「いいんじゃない」

と返答が返ってきました。

「嫌じゃない?」

と聞いたら、

「全然」

というので、一緒に病院に連れて行きました。


そうして、診察室での出来事がおこったのです。結局、詳しい発達検査をして診断名をつけることはしないことになりました。それでおしまいにならず、先生から思いがけない提案をいただいたのです。

「今後、2~ 3ヶ月に一度、お母さんが僕に会いに来ませんか。ここからはお母さんと僕の相談という形で進めていきませんか。息子さんは、夏休みや春休みの学校に全く支障がない時に、お母さんが来るのについてくるという形でいいんじゃないですか」


そこから、私は2~3ヶ月に一度、病院に通うようになりました。行って何かをするわけではなく、 

「最近どうですか。 なにか困りごと起きてますか」

「どんなことでパニック起こしてますか」

「今ちょうど思春期だから、反抗期とか出てきました?」

 などと聞かれて、それに答えるような会話をしていました。


「学校に楽しく行ってます」

「この間、体育祭でこんなことがあって」

「何かしら起こるので、そのためにやっぱりまだ私は出ていってます」 

「反抗期はまだなくて、べったりなんですけど」

というような話をしながら、受験のことを考えなきゃいけない中学2年の終わりぐらいまで、先生が伴走してくれました。


「いいんじゃないの。 だって笑ってるんでしょ?」

と言って、 とにかく私のやり方を支えてもらっていたんだと思います。今思うと、母のモチベーションをきちんと保ってくれる保護者支援でした。あの当時はよくわからなかったけれど。それまでは誰に聞いても答えが見えませんでした。お医者さんの言うことが答えだとは限らないけれど、病院に行ったことで、私は大丈夫だと確認できる場所、私にとって支えになる場所ができました。


支えになる場所を必要としている親も多いだろうし、最初からそこを見通して、

「僕は2年半はここにいられるから彼の受験まで見てあげられますよ」

と先生が言ってくれたことはとてもありがたいことでした。 


実は、受診しようと思った目的はもう一つありました。息子が大人に育っていく中で、自分自身がすごく困った時にちゃんと相談できる場所、ここに行けばお医者さんに相談ができてつながれる場所を作っておくべきだと思ってました。

「お母さんに内緒で来たいってこともおこるかもしれないし、外部に相談できる場所といういうのはいいよね」

と、その先生にも言ってもらえました。


診断は出ていないけれど、およそどういうカテゴリーのものかがわかったことで、彼の特性をきちんと言語化して伝えることや息子とのかかわり方を以前よりも具体的に伝えられるようになりました。決して彼がわがままでこういう行動に出るわけではないことを医師からのことばとして伝えることもできるようになったのです。なんとなくではない息子の特性の理解を私もしたのだと思います。そのことが、受診して一番よかったことでした。


小児精神科を受診することや、私が今関わっている療育の事業所に通うのは、親にとってはものすごくハードルが高いと思います。けれども、誰に聞いてもわからなかった当時の私は、ホイホイと病院に行きました。病院とつながったことで、自分が大丈夫だと確認でき場所ができ、息子が外部に相談できる場所ができ、息子のことを伝えやすくなりました。


きちんと子どものことを見てくれて、その関わり方をどうしたらいいのかを教えてくれる場所があることは、私にとって本当に素晴らしいことでした。

初音ミクと出会う

中学2年の終わりぐらいだったと思います。お誕生日のプレゼントも欲しがらない息子からの言葉に驚いたことを覚えています。

「お年玉でいただいたお金でボーカロイドのソフトを買ってもいいかな」


ボーカロイドが何かもよくわかっていなかった私と息子の会話が続きました。

私「音楽を作るソフトなの?」

息子「うん」

私「お誕生日がもうすぐだから買ってあげるよ」

息子「ちょっと高いので」


当時、それは2万円ぐらいしたので、さすがにそれを私に買わせるわけにはいかないと息子は思っていたようでした。結局、私と私の妹の2人からの誕生日プレゼントとして彼に買ってあげました。 


その後、彼がボーカロイドをどんな風に使っているのかは全く知らなかったのですが、ひょんなことから彼が作った曲がインターネットのサイトにアップされていることを知ることになりました。曲を作ったと同時に歌詞をつくり初音ミクに歌わせていたことには本当に驚きました。


これが彼の心の中にある気持ちなんだと知って衝撃を受けました。自分の気持ちを言葉で表現できるまでに成長したことに感慨深さを感じずにはいられませんでした。

自己表現としてのボーカロイド

ボーカロイドは、パソコン上で作曲と作詞をすればボーカルに歌わせることができるソフトウェアです。ボーカルはソフトウェアごとに違っています。


作曲については、何もないゼロからの創作ではないと息子は思っているみたいです。 彼はずっと吹奏楽をやってきたし、たくさんの楽器を使ってアンサンブルで演奏したりという経験があります。今まで聞いたり演奏したりしてきたものがバックグラウンドにあって、彼の中にあるものを形にして作曲したようです。


学問的にオーケストラの和音がどうなっているというような音楽に関する知識は学んでいて、音を重ねてつくる技術ももっていました。まだ中学生でしたが、作った曲はかなり完成度の高いものように私には感じられました。


作詞、つまり言葉で自己表現をするというのは、彼にとって初めてのことでした。小学校の授業の中での作文は一切書いていませんでしたから。唯一、卒業文集だけは私が手伝いながらなんとか書いた記憶があります。 


例えば、運動会についての作文を書きましょうとなった時に、息子は配られた原稿用紙をじーっと見つめているだけでした。 どの先生も「こう書いたら?」「こんなんでいいんじゃない」と言っても、「いやそれは僕の作文じゃない」と言って突っぱねました。「家に帰って書きたくなったら書こうね」と先生に言われて、「はーい」と言って机の中に原稿用紙をしまう。小学校の授業参観後に息子の机の中を見ると、必ず丸めた原稿用紙がいくつか出てきました。そんなことが6年生まで繰り返されました。


中学生になっても、自分が今どう感じてるのかという自己理解がまだ浅かったのか、自己表現はまだまだ難しかったようです。


そんな彼が作詞をしたのは、初音ミクの存在がすごく大きかったと思います。曲を作るだけであれば小学生の時から無料のソフトで作っていました。ですから、ボーカロイドを手に入れてみたいと思ったのは、あの初音ミクが自分の気持ちを声にしてくれることに惹かれたんだと思います。たぶん、息子は、容姿も含めて全てにおいて初音ミクのファンであり、彼女に歌ってほしかったのでしょう。当時、本人がそのことに気づいてたかどうかはわかりませんが。

言葉にしたいという気持ちが出てこなかったら、作曲ソフトだけで間に合っていたと思います。作曲ソフトは、本当にいくつもダウンロードして使っていました。 曲を作ることに関しては楽しんでいたけれど、それはあくまでも技術的なことや音を楽しむことでした。初音ミクに出会ったのが心の中の表現として言葉を出したくなったタイミングとちょうど重なった。だから、ボーカロイドを手に入れたいと思ったのでしょう。


ボーカロイドで歌を作ったことで、作文では気持ちを表現できなかったけれど、ボーカロイドという形であれば自己表現できるんだと彼も気づいたし、周りも気づくことができました。心の表現の点での育ちが遅いと思っていたけれども、それは確実に育っていたのです。


曲を作り、詩を書いてボーカロイドで表現する。誰かに自分の気持ちを伝えることが、少しづつできるようになり、学校生活での変化もおきました。道徳でのディスカッションにも自然と参加したり、話し合いの場で意見を言うことも増えました。さらに、腹立たしいことを言われたり、気持ちがざわざわした時に、「ちょっと廊下に出ます」と言えるようにもなりました。クールダウンの必要を自ら感じ、周りに伝えられるようになったことで集団生活がかなり楽になったのではないかと思います。

高校受験

受験する高校を決める時期になったある日、私と息子はこんな会話を交わしました。

息子「歩いていける一番近い高校でいいんじゃない?」

私 「今回だけはうんとは言えないわ」

息子「なんで?」

私 「あなたが本当になりたいものがあって、そのために大学受験が必要なければどこでもいいよ。でも、大学へ行くなら我が家の経済状況では国立。あなたが目指すなら東大にしてほしいの」

息子「東大行くなら、〇〇高校はダメなの?」

私 「そうね~。授業だけでは無理だから塾が必要だと思う」

息子「それは嫌だな」

私 「だったら、塾に行かなくても学校の勉強で完結できて大学に行けるところを選んでほしいな」


こうして、通える範囲で東大を目指せる高校の選択肢を3つに絞りました。1つは吹奏楽に力を入れていて特待生で行ける私立高校。1つは中高一貫校に高校受験で入る県立高校。1つは部活率が100%を超えるほどに部活動が盛んな県立の進学校。


最終的には、息子の肌感触で決めてもらうことにしました。ですから、学祭に行ってその学校の雰囲気を感じて決めることにしました。3つの高校の学祭に行った結果、「ここはいいね」という高校と「ここはないかな」という高校がわかって、受験する高校がすんなり決まりました。

運命的な塾と出会う

中学生になると、私がずっと中学校にいるとか、心配だから朝から中学校に行くようなことはなくなりました。何かあった時は担任の先生から連絡がきて、放課後に中学校に行って、担任の先生から事情を聞くということはありました。


中学校では教科ごとに先生が変わります。相性のいい先生とそうではない先生がありましたが、息子にとっては授業が楽しいので、どの授業もきちんと聞いていました。一年に何度もある定期試験も本当に楽しそうに受けていました。


部活動は、小学校からやっていた吹奏楽部に入りました。吹奏楽部は、朝練も午後練もありました。老人ホームなどへ慰問しての演奏、ららぽーとのイベントでの演奏、ディズニーランドの中のチームと一緒にイベントをやったりなど、とても忙しくしていました。また、毎夏のコンクールが近づくと、練習でよりいっそう忙しくなりました。


友達と何かを一緒に成し遂げる体育祭や合唱祭に参加することもとても楽しんでいました。中学校の思い出はとてもたくさんあって、高校よりも中学校の方が楽しい記憶として残っているようです。私も見ていて、中学校で色々な活動をする中で人と関わりながら成長をしていたなと思います。


中学校生活を十分に満喫してはいましたが、私には、ひとつだけ気がかりなことがありました。この中学校で勉強しているだけで、高校受験やその先の大学受験は本当に大丈夫なのかという不安です。 この中学校での成績が学年でトップだとしても、私が行かせたい高校に行ける実力があるのかは見えなかったからです。それで、息子にも「お勉強するために塾に行けとは言わないから、外部テストを受けるために塾に所属するっていうのはどうかな」ということを時おり伝えていました。


ある日、高校受験のための塾を探していた知り合いのお母さんから、「すごい塾を見つけた」という情報が舞い込んできました。教頭先生をやめて立ち上げた塾で、学校の中で面倒を見られない子どもたちをちゃんと支えてくれるという塾だと聞きました。ちょうど、市民活動団体の中で講演会をやろうという話があり、その塾の先生を招いて「学校の中での子ども達との関わり」を話してもらうことになりました。その時に、その先生と直接会う機会がありました。


お会いしてみたら、とても面白くていい先生で、なおかつ、子どもの発達の勉強もきちっとしていて、学校の中で関わるのが大変な子ども達にどう関わっていけばいいのかもわかってる先生でした。この先生なら息子もなんとかなるかなと感じました。ただし、その塾に通うには、バスに乗って行く必要がありました。息子は、一人でバスに乗ったこともまだありませんでしたが、「勉強するんじゃなくて、外部テストを受けさせてくださいという名目でその塾に行くのはどうかな」と息子に伝えて、一度、連れて行きました。


直感的に人を判断する鋭さをもっている息子は、会った瞬間にその先生を気に入ったようでした。先生と色んな話をして帰ってきた息子に「どうする?」と聞いたら、すんなり「行くよ」という返答が返ってきました。 それからすぐに入塾の手続きに行って、直接先生とも会って、私の思いを伝えました。

「勉強よりもソーシャルスキルをお願いします。それから東大に行かせるつもりです」

こうして運命的に出会った塾に、高校を受験するまでの7~8ヶ月の間、通うようになりました。その塾は彼が社会に出るまでに通った唯一の塾でした。


毎回、塾に行くたびに、息子には塾長から特別な課題プリントが配られました。とても難しい数学の問題のプリントを渡しながら、「この問題できるか」という形で関わってくれました。合間をみながら、「小学生の子にちょっと算数を教えてくれないか」と言って、塾に来ている子達との関わりもつくってくれました。


外部テストももちろん受けました。息子の実力も把握できて、どの高校を受験することになっても全く問題ないことがわかりました。こういう状況が整った中で、受験する高校選びについて息子と話ができて、それから受験する高校が決まりました。


中学校側は、高校受験では必ず滑り止めを受けることを大事にしていました。担任教師は必ずそれを校長先生に報告するくらいに。けれども、息子は滑り止めを受けることを頑として拒否しました。その理由はこうです。

「行きたいって決めたところ以外に、どうしてもう一つ受けなきゃならないの」

全員が必ず滑り止め校を受けるのに、息子だけが受けませんでしたから、息子の担任教師は本当にヒヤヒヤしたと思います。


受験校が決まってからも受験の特別な勉強はしなかったので、私は本当に大丈夫かなと少し心配でした。息子は私の心配をよそに、受ければ受かると思っていました。そう思う理由は「習わないことは出ないから」というものでした。習ったことは多分大丈夫だからというある程度の自信もあったのでしょう。受験の日が近づいて緊張感が高まるということもありませんでしたが、試験会場までたどりつけるかなという緊張はあったようです。


試験を受けた後は自己採点をして、何点取れているかを自分で把握できていました。ですから、受かったかな落ちたかなとドキドキしながら結果発表を見に行くようなこともありませんでした。息子からの合格を知らせるメールに「良かったね」と返信すると、「うん」と合格を喜ぶ返信が返ってきました。こうして、唯一受験した第一志望の高校に行くことになりました。