沁みた
沁みた
当初、「メウロ(目から鱗が落ちた話)」を募集してましたが微妙な題目で広がりづらいかな思い「沁みた話」に切り替えました(これはこれで広げづらかったみたい)。最後の方にメウロもあるよ。投稿してくれた皆さんどもありがっと。それではどんぞ=
※は市場の感想
名前:いちば
・20代の頃、仕事の軽バンで花小金井辺りで信号待ちしておったら、ちっこくてか細い体でソラマメみたいな顔したジジイが歩道に立ち、目を閉じ、迫力のない右の小さいこぶしを天に何度も繰り出しながら「おまんこ~、みんな、おまんこばっかりしやがって~」とこれまたか細い声で叫んでいた。沁みた。
・三平ストアーの前を通りかかると、4,5才くらいの幼女がパンツ丸出しうんこ座りで駐輪された自転車のペダルを手で回しながら回転する車輪をじ~っと見つめておった。人生とは、これなのではないのか、と思うた。
・20代後半の頃、1年付き合った彼女が別れの電話で何故か「3回に2回はよくなかった」と言うた。当時は「じゃ、1回は良かったてことか」とポジティブにとらえていたが、のちのち沁みてきた。
・30代後半の頃、6年付き合い同棲もした彼女に男ができてフラれ、ボロ雑巾の心のまま経営しておった零細店でしょんぼり店番の毎日。寂しさ紛らわすため、昔ちょっとだけ関係のあった女子が近くの古着屋で一人きりで店番してたのでたまに話に行ったりした。で、ある日自分の店を抜け出して、また話でもしようと古着屋行ったらレジにその子と彼氏が並んで座っていた。声をかけるタイミングを失い、狭い店内(10畳くらい)を客を装いうろうろしてそそくさと逃げ帰った。彼女は俺に気づいて後を追ってきて何か言うた。古着屋の階段を降り、路地をとぼとぼ歩いてふと立ち止まると涙が出てきた。もう40にもなろうかというのに、路地で泣くなんて。
※年寄りになると涙もろくなる、というがここ数年泣くことがない。悲哀感情が枯れたのかも。映画観ても「作りもんだろ」てなるし。
名前:水子
高校を卒業してすぐにケーキ屋に勤めました。毎日毎日ケーキを運んだり、ケーキを詰めたり、口やかましいお客さまの對應をするのがほとほと厭になり、苦痛で、氣がつけば円形脱毛症になつて居りました。そんな私に喫茶部の主任は言ひました。仕事は趣味でやるものだよ、と。その主任には余裕があつたのかもしれません。私には余裕がありませんでした。あくる年の四月に私はケーキ屋を去りました。
※やっぱどうしても最後に書かれていない「夫は島根の人です」が浮き出てきます。
名前:森桂子
私は白シャツフェチです。
新卒の頃、会社に派遣されていた男子と付き合いました。
白いシャツがとても似合っていたのでサクッと好きになったのです。
やがて秋になり、冬になると彼は別珍素材のタートルネックなどを着るようになりました。
わたしは、服の趣味が合わないのであっさり好きじゃなくなりました。
「なんか寒くなったら好みの服じゃなくなった。服の趣味合わないし、友達の方が良さそうな気がする〜」と言って別れたのですが、その時に泣きながら彼に言われました。
「冬服は、高いんだよ!」
※なんか全体的に軽くねえか。バブル期の恋愛ドラマ?
名前:ひみつ
今日会ったお客さんは「世界一大好きな彼女ともうすぐ同棲するんだ。彼女は僕の●●をいつも飲んでくれていつも●●出しさせてくれる。彼女の事を本当に愛しているんだ…と彼女の話する度にちんちん硬くさせながら射精してました。本番も出来ないお店で。
それでもこの人の中には満たされない何かがあるのかと思うとなんとも言えない気持ちになりました。
毎日ロイヤルホストのご飯食べられるけどたまには松屋のご飯食べたいなって感覚なんですかね。もう考えるの止めよう…。
※例えが沁みる。ロイヤルホストて君…。
名前:もっぞ
先日、名寄ピヤシリでサマージャンプ大会開催されバイクで見に行った。レジェンド葛西選手は現役知れ渡るが、船木選手も現役だと知って沁みたなー!
※相変わらずローカル色無限大ですね。
名前:竹久 圏
私は小学4年生の時、リトルリーグ(川崎レッドソックス)でピッチャーでした。いわゆる野球少年だったわけです。甲子園を夢みて中学受験をし、東海大学附属相模中学の野球部に入部しました。附属中学なので卒業すればエスカレーター式に高校野球の名門、東海相模高校に入学できるコースでした。私は2年生までは1番セカンドでレギュラーでしたが、3年生になった春、入部して間もない1年生にレギュラーを奪われてしまいました。ショックでした。自分よりも身体が小さかったその後輩はセンス抜群で足も速く、なにしろ圧倒的に野球がうまかった。私はすっかり意気消沈して野球をあきらめ、東海相模高校では軽音学部へ。それは私にとっての人生の分岐点だったのかもなぁと、、そんな14才の春でした。
それから随分と時が経ち、私は42才、いわゆるザ・中年となっておりました。そんなある日のこと、職場の食堂に設置されたテレビで我が母校である東海大相模の試合が中継されておりました。しかも甲子園での決勝戦!昼休みを無断で延長し食堂のテレビにかじりつきました。結果は6-1の圧勝で母校は優勝!響き渡るサイレンの中、選手達はキラッキラの笑顔でグラウンドに集合、歓喜の輪を作り監督を胴上げするという例の最高のシーンが続きました。そしてアナウンサーの声が入り優勝インタビューで監督の顔が… !! 私は固まってしまいました。その男こそ、中学の時、私からレギュラーを奪った男だったからです。
私はジワジワと万感の思いが込みあげ、人目も気にせず泣きました。そして心の奥底の凍結は涙となって溶け去っていったのです。
沁みました、門馬監督!
ありがとね、門馬くん!
(門馬敬治 監督は2000年春、2011年春、2015年夏、2021年春に甲子園大会で東海大相模を4度の全国制覇に導き、今では"名将"と呼ばれる存在。現在は創志学園(岡山)の監督をしている。)
※これ大河ドラマじゃん。野球部からの軽音楽部てとこがまた運命だなあ。レギュラー続いてたら今頃圏が胴上げされてたかもね。
俺も若いころ4畳半で朝TVつけたらバイトの同僚だった子がバラエティ番組のアシスタントで出てきて驚いた。彼女は好きだった先輩の行方が分らなくなったのでTVに出れば見つけてくれるかも、てことで芸能界目指したらしい。田舎から出てきて朝は新聞配達、昼は店番しながら。一度二人で飲みに行ってレジのババアがその子の顔見て「あらぁ!親に感謝しなくちゃね」言うてたの思い出す。
名前:今煮えるかんと(イマニエルカントしみったれ)
しみたやつね、メウロでなくて。・・・突然なんだけれど6月に心筋梗塞にて入院した。で、カテーテル手術というのを2度受ける。幸い発見が早かったのもあり、苦しい状態は抜けて、現在は自宅にて養生しているという具合である。
後で知るが、この心筋梗塞、結構致死率が高いという。
思えばもお来年には80歳になる。崩壊道新幹線まっしぐらやね。バダ君と遭遇したのは40代だったと思う。あっという間だよね。何れ皆さんも崩壊してゆくよ。いよいよだよね。
思い返せば17〜8の頃から死ぬ事、死のイメージ、死への恐怖、そういうものが、ずっとへばりつき時々頭をもたげたり忘れ去ったり、考えたり・・・と。 当然ながら回答なんかない。そんな広大な空虚に対して、相変らずぼ〜っとしながら、この文章を打ったりしている。
もおすぐやってくる、最後の瞬間、それは何かと言えば、それは、それをイメージする、こころ、きもち、これを読み終えたそんなもので出来上がる何ものかだよね。
自分じゃまったくお手上げなので、ここでシェアさせてもらいました。
それが、いろんな人達の中で揉まれ放り投げられゥ゙ァイヴされ、変化を続けてゆくものが多分自分の行き着く先です。
しみたのかな。
2026年8月9日
※人生お手上げ感、分かります。でもそれを感ずるのが心地よか。
名前:くろきち
15年ほど前、借金を抱え風呂なし1kアパートで一人暮らししていた時の話。
クリスマスイブに予定も無く人恋しさもあって22時ごろから近所の銭湯へ。ガラガラで余計に寂しさを感じつつも風呂はのびのび入れた。上がって服を着て食堂兼用の休憩コーナーでチョコモナカか何かを購入し目の前の席につくと、吊り下げタイプのテレビがあり野生動物のドキュメンタリー番組が流されていた。
内容はコウテイペンギンの大移動で、大量のペンギンが綺麗に列となり繁殖行動するための場所へとひたすら命懸けで歩いて行くというもの。さまざまな危険にさらされながらも歩き続ける彼らに引き込まれ、真剣に見ていた俺だがその場に熱心な視聴者がもう一人いた。
さっきのびのびと使った浴槽だが隣りの区画では全身和彫のおそらく稼業の方が泡風呂に浸かり身体をほぐしていた。そしてその後、俺とテレビの中間ぐらいの席で彼は瓶ビールと何かアテのようなものをつまみながら、ペンギン番組をよそ見もせずに見ていた。
ペンギンはいよいよ移動のクライマックスとなる一本道に差し掛かっているのだがここがえぐかった。道の端を歩いていると時々アザラシがビョーー!っと飛び出して来てバクっとペンギンを咥えて無情にも海へ引き摺り込む。アザラシは特に対策もせず数で勝負と愚直に行進を続けている。列の左右のあっちこっちで惨劇が起こりまくっている。
そしてあるペンギンが同じようにアザラシに襲われたのだが、この子は間一髪身を躱し元通りに列に戻ったように見えた。が、実際には牙が刺さったようでその白い腹から腸が漏れでている。可哀想に。野生でこんな状態になって治る可能性はあるのだろうか、そんなことを考えていたらおもむろに稼業のおじさんが振り返った。二人しかいない休憩コーナーでびびりあがりながら、おいコラなに見とんねん的なやつを覚悟した俺に彼はこう言った。
「腸が出たらあかん。腸がでてもたら大概助からんのや。こいつはもう死んどる。」
咄嗟に「そうですか」しか返えせなかったが、沁みた。
※緊張と緩和が見事に調和した至極の逸品。「腸が出たらあかん」は今年の流行語大賞に決定。
名前:カサハラ
子供の頃、友達の家(大きな農家)で、ムクという雌犬が放し飼いにされていた。
非常に利口な犬で、地域の人気者だったのだが、発情期になると地域の野良の雄犬らが競ってムクと交尾をしに来た。
いつもムクは雄犬から逃げ回るのだが、その時期になると友人の親父さんは、ムクを無理矢理鎖に繋いで、雄犬と交尾をする様を、しゃがみ込んで熱心に間近で眺めつつ、毎日数時間、ズボンの上から自分の股間を弄っていた。
ちなみにその後産まれた子犬は、親父さんに発見され(ムクはいつも納屋や母屋の床下等に子犬を隠して育てようとしていた)すぐに段ボール箱に詰められて近くの川に投げ込まれた。
俺と友人は何度か子犬を助け出したが、結局すぐ親父さんに見つかり、再度川に沈められた。
擦り傷のように痛い記憶でもあるのだが、兎に角、沁みた。
※なんか変形した楢山節考を感ずる。
名前:ヒロコペ
「十年ぶりの再会」
両親が亡くなって、十年ほど経つ頃「せめて夢でいいから、もういちど会いたいな」と、何度か思っていた。でも、なかなか出てきてくれなかった。
そんなある年の暮れ。そろそろ大掃除をしなきゃ、と思っていた夜、夢に両親が二人そろって現れた。「わー!やっと会えた…」そう思って近づいてみると、二人で何やらコソコソしている。「何してるの?」と覗き込むと、、、掃除機のブラシを、せっせと手入れしていた。
感動も懐かしさも、全部吹き飛んだ。
ああ、そうだった。身の回りをきちんとすることにうるさい、昭和一桁生まれの両親だった。「私のだらしない暮らしぶりを、諌めに来たのかな」そう思った私は、目が覚めるとさっそく掃除をした。
死んでもなお、親は親だった。
「白いスーツのおじさん」
二十歳の頃、女友達と歌舞伎町のてあとろんという飲み放題カラオケで飲みすぎて気を失い、朝方にコマ劇場の階段でぐったりしていた。そこへ現れたのは、早朝の朝日に輝くパリっとした白いスーツに白い帽子、サングラス、パンチパーマ。足元は眩しいくらいピカピカの真っ白なクロコダイルの革靴。私たちは一瞬、身を縮めた。どう見てもカタギじゃない。
ところがその人は、缶コーヒーを差し出しながら「どうしたんだ? 大丈夫か?」と声をかけてくれた。見た目はどう見ても怖そうなのに、本当に心配してくれていた。
見た目的に戦後の混乱を生き抜いてきた親と同世代のようなおじさんだった。頭がグルグルしていて、まともに受け答えもできなかったけど、若い娘らを捕まえてどうこうするって感じじゃなくて、ただの優しい大人だった。何十年経った今でも忘れられない。
あの頃の私たちは、親だけじゃなく、そんな知らない大人たちにも育ててもらったんだと思う。
この場を借りて、伝えたい。「あのとき声をかけてくれて、ありがとう。真っ白い格好で素敵でした。私は今でもちゃんと覚えています。その後無事に一人で京王線に乗って帰りました。あれ以来飲み過ぎて気を失うことはありません。」
「日本の伝統」
全身麻酔で日帰り手術の日の朝、手術着に着替えて台に乗せられ、執刀医が居る手術室に入るまでの時間、麻酔担当の医師や看護師たちに囲まれて待機していた。
緊張と不安でガクガク震えているところに「寒くない?」「大丈夫?」等と皆さん親切に話しかけてくれる。その中の若い青年が「あなた日本人?僕日本に行ったことあるんだよ!次のバカンスでまた行くんだけど、今度は忍者に会いに行くんだ!」と私が乗る台をガラガラと運びながら興奮気味に言う。私は「え!?忍者?忍者に会うってどういう事!?」聞き返しそのまま手術室に。
言葉も文化も違う不安だらけの状況で、リラックスさせようとしてくれた事はありがたくて沁みるんだけど、その後忍者の事で頭がいっぱいになり「え??伊賀?甲賀?信楽の近く?え?何?えー?」と会話してるうちに「それじゃあ行くよ?」と麻酔打たれて白目剥いた瞬間手術終わってて別室で目が覚めた。
在外邦人って、こういう日本の伝統に助けられてる。しみじみ日本の伝統をありがたく思う。
※他人の無償の親切は忘れませんね。私は受けたことないですが。あ、去年飲み過ぎて道に倒れてたらおばさんが声かけてくれたっけ。日本の伝統の話、こじつけ感強くて好きです。
名前:匿名yy
「昭和101年の男」
なんだかんだで今の職場に30年近く勤めているのですが、いろいろと個人的な都合で休み取ったりしたいので頑なに契約社員を通している状態が続いております。
そんなこんなで長年勤めていますと当然去る者来る者との邂逅もあるわけですが、ここ2年で去る者の数が増えすぎてどうしても求人を募集しないといけない羽目になり、ひょんなことから私が面接を請け負うことになりました。
それで数日後、近隣に住む70歳の男性が面接に現れ、年齢の割には元気そうだし、受け答えも普通にできるし、履歴書の写真がどう見ても40代の頃に撮ったような代物で、そこだけが少し気になったのですが、結局は雇うことになりました。仮にNさんとしておきましょう。
初日の1時間くらいは大人しく低姿勢なNさんであったのですが数時間も過ぎるとちゃっかり馴れ馴れしくなり、出入り業者の人に初対面でありながらも、その会社がNさんの住まいの近所だとわかると、すぐ近くだなぁ、今度、火でもつけに行こうかなぁ、とまさかの非常識な発言。相手業者の方も下請け会社ということもあり、ただただ苦笑いをするばかり。それから1週間もしないうちに今度は若手の社員と、俺の台車を使ったとかどうかで喧嘩が勃発。ここで私であれば、多分、死ね糞爺!と暴言を吐いていたのですが、そこはさすがのゆとり世代の若手社員。暴言を吐くことなく淡々となぜそのような横暴な口の聞き方をするのですか?もう少し謙虚な態度で仕事に臨んではどうですか?と教え諭すように語ったところ、お前はまだ若い、人生の経験が浅い、だから俺が教えてるんだとのまさかの上から目線。入社して1週間も経ってないにも関わらずですよ。
そんなかんだでNさんの勤務態度を見ておりますと、自分より立場下であったり若そうな人材を見ると、やたらと横暴で上から目線でのもののいいようになるようでした。
Nさんに仕事を与えると、わからない、疲れた、覚えれないとの発言が増えてきました。どうやら人に支持されて仕事をするのがNさんのプライドが許さなくなってきたようです。おまけに台風が接近していることを知ると、台風来てるので明日休みます、そして夏は暑いので水曜日休みにしてください、との身勝手な言動が増えてきました。
あまりにも仕事をやらずに相変わらず他人に対して横暴な態度が目に余り始めたので、他の社員と話し合った結果、Nさんを解雇する方針で会社は決断を下しました。当然ながら、面接をして雇うことを許可した私は責任を感じてきたので、私が改善指導書を作成して提出することになりました。たとえアルバイトとはいえ簡単に解雇することは法律上許されないのでまずは改善要求をして、それでも従わなければ解雇という手順を踏まないといけないわけです。
書きましたよ。私は。盛りだくさん。他の社員の人に聞き取り調査をして事例を収集しました。それで作成した改善指導書をあらためて読んで思いました。
このジジイ、糞だなと。こいつはなんとしてでもこの会社から立ち去ってもらわないといけない。と私は肝に銘じたのです。他の問題的な行為としては、隣国に対してのヘイト発言。両親を彼らに殺されたのっていうくらいのヘイトでありながら、理由を聞くと、なんとなくという理由。目の前を女性が通ると、身体をのけ反らせてずっと凝視する始末。みっともないからやめてくだい!ってNさんにキレ気味に言うと、私は綺麗な女性が好きなんです!とのこと。
で、いろいろ思ったわけです。このNさん、昭和の時代で知性も言動も態度も止まってるなと。パワハラもモラハラもヘイトという言葉のなかった昭和という時代。Nさんは未だに昭和というセピアに色褪せた時代に生きているのだなと。
で、ここまで書いてきてこんなこと書くのもなんですが、改善指導書を提出したのが昨日でした。なのでNさんの行く末は今現在ではお伝えすることはできません。
私の推測では、
1.キレて仕事を辞める
2.本人に取って寝耳に水だと思いますので、全く指導書の意図が理解できずに途方に暮れて泣きを入れてくる。都合の悪い時だけ、か弱い老人のふりをしてきますし。
3.この場を適当にやり過ごし、このまま会社になんとか居座ろうとする。
多分この三択のうちのどれかだろうと思います。
で、思ったわけですよ、70歳にもなってようやく職につけて本来なら感謝しなければいけない立場でありながら、自信を顧みることなく、昭和の負の遺産を背負って生きているこの爺さんの宿命を。
私はこんなジジイにはなりたくない、自分自身でアップデートできずに時代に取り残されたような生き方はしたくないななぁと、しみじみ身に”沁みた”、という話でした。(続く)
平成37年8月
※このジジイもひどいですが投稿者の偏見もちらほら見えて沁みます。
名前:えすぞう
夫と自営業をやっていた頃、お客さんから「12日19時の予約をお願いします」とメールが来た(日付は適当に書いてます)。
そのメールが来た日が12日だったので、夫は「本日19時お待ちしております」と丁寧に返事をした。
すると相手から「12日の予約ですよ。間違えないでください」と怒りの返事が来た。
どう返事したらいいかわからなくなった夫は「お客様、12日は、本日です」と返した。
そしたら返事がなくなった。染みた。
お客様が来たかどうかはわからなかった。
※客商売はほんと「?」が突如おきるよね。人間に対する信頼を失ったとき、それは自分を失うとき。
名前:島田十万
この年末に70歳になる、予定。
こんな老人になってわざわざ自慢たらしく記すのもなんだが、朝起きて顔を洗わなくなって52年になる。
むかし『永六輔』という人がいた。名曲『上を向いて歩こう』の作詞者としても有名だが、タレント、司会者、作家なにをやっても大ヒットさせてしまう才能溢れる多才な人だった。2016年に83歳で亡くなったが、若い人は知らない人も多いかもしれない。
タイトルは覚えていないけれども、姉が買ってきた永六輔のエッセイ集を読んだのが52年前、高校二年生の時だった。
その本に『朝起きて、ボクは顔を洗わない』と書いてあった。それを見つけて茨城のド田舎でぼんやりと育った紅顔の美少年!は、びっくりした。ちっちゃいころから親にも兄姉にも、起きたらすぐ顔を洗え歯を磨けと教えられて、疑問に思うこともなかった。大人はみんなそうするものだと思っていた。だから、本に書いてあるとはいえすぐには信じられなかった。ウケを狙って大袈裟に書いてんじゃないか。または冗談なんじゃないの。
しかしその後すぐ、たしか日曜朝のラジオ番組だったと思うが、ラジオから永六輔と女性アシスタントの会話が聞こえてきた。
「ボクは朝顔を洗ったことがないの。目をこすって終わり」
「え〜〜〜〜!それじゃ目が覚めないじゃないですか?」女性が驚いている。
「だから洗わないんだよ!洗ったりしたら目が覚めちゃうじゃない!」永六輔が笑いながら言った。
本の話は本当だったのだ。それで、大人が仕事に行くのに顔を洗わないでもいいのだと、やっと確信が持てた。それ以来ワタシは朝顔を洗っていない。まあ2〜3度は洗ったこともあったかもしれないけどさ。でもそんなものだ。夜風呂に入った時にお湯で洗うだけだ。
子どものころからものぐさで、なにをするにも億劫なのだが、よく考えればやらずに済むことが、本当はもっとたくさんあったんじゃないかと、今は考えている。
※わたしは今まで心を洗ったことがない。
名前:しーぴん
着ぐるみアクターの事務所に所属して初めてのスタッフとしての仕事の時。役者の経験もなく将来も不安な私に有名キャラクターに入っている大先輩の方が、「うち(の事務所)にちょっと寄ってさ、ずっとここにいなくてもいいんだから」と言ってくださって、うちに寄るという気楽さに沁みた。
※「有名キャラクターに入っている大先輩の方」というフレーズが、沁みました。
名前:くにちろ ぶえの
父は、今も私の中にいる
父が膵臓がんと分かったとき、すでにステージ4でした。
医師から告げられた余命は、半年でした。
命には限りがあることは分かっていました。
それでも、余命半年と告げられた父を、母と姉と私でどう支え、どんな最期を迎え、どう父を送り出すのか。そのことを、ずっと考えていました。
そして、半年という時間が近づいてきた、ある土曜日の朝のことです。
私は父のベッドの横で寝ていました。
少し早く目が覚めたので、ほんの少し外へ散歩に出ました。
戻ってくると、父が寂しそうな顔で、
「なんで離れんねん。ずっとそばにいてくれやぁ」
と、ぽつりと口にしました。
余命の半年が近づいていることを、父も感じていたのかもしれません。
私は明るく、
「大丈夫、大丈夫」
と声をかけました。
そして、いつものように、父の体に自分の足の裏をくっつけて、そばで横になりました。
しばらくすると、朝8時ごろ、ケアマネジャーさんが見回りに来てくれました。
「お父さん、おむつ替えましょうね」
そう声をかけながら、おむつ交換が始まりました。
父は79歳でした。
病気になる前は80キロ近くあった大きな体でしたが、がんになってからは、日に日に痩せていきました。
それでも、おむつを替えるときには、ケアマネジャーさんと私の二人がかりでした。
そして、おむつを替えているその最中に、父は静かに息を引き取りました。
私は父の体を抱きかかえました。
その瞬間、父の口から、これまで嗅いだことのない、獣のような匂いが私の口の中に入ってきました。
不思議でした。
でも、なぜか私は、
「父が、私の中に入ってきた」
そう感じました。
ケアマネジャーさんが父の最期を確認してくれました。
私は親戚に電話をして、父が亡くなったことを伝えました。
父の妹である叔母に電話をすると、
「あら、お兄ちゃん、どうしたん?」
という声が返ってきました。
そのときは、何も気に留めませんでした。
ところが、後になって叔母から、
「電話の声、お兄ちゃんそのものやった」
と聞かされました。
その言葉を聞いたとき、私は、あの瞬間のことを思い出しました。
父が私の中に入ってきた。
そして、その父が、妹である叔母に話していたのだと思うと、不思議と納得できました。
父は、いなくなったのではない。
私の中にいる。
そう感じるようになりました。
今でも、何か困難にぶつかりそうになったとき、不思議と助けられることがあります。
そんなとき、私は父を感じます。
「父が守ってくれている」
そう思えるのです。
あの日、父が口にした、
「ずっとそばにいてくれやぁ」
という言葉を、今でも忘れることができません。
もしかすると、あれは父から私への最後のお願いではなかったのかもしれません。
「これからも、ずっとそばにいるよ」
父は、そう伝えていたのかもしれません。
父の命は終わりました。
でも、父とのつながりは終わっていません。
父は今も、私の中にいます。
そしてこれからも、私と一緒に生きていくのだと思います。
※俺のおやじも死ぬとき「がががが」と鼾みたいのしたから、緊張感がほどけて笑ったら、それっきり動かなくなった。
名前:沖冲.
山田五郎が亡くなりました。
この人を初めてテレビで観たのはたしか『タモリ倶楽部』だったか、キツそうなインテリ兄ちゃん、って感じの印象だったけど、次第にキューピーヘアも相まって、お茶の間の“カルチャー御意見番”のような位置に定着していったのを思い出します。
そんな彼が死ぬ間際まで携わっていた最後の仕事であるYoutube番組『山田五郎 オトナの教養講座』は、西洋美術史がスカスカにしか頭に入っていないにも関わらず絵描きをやっている自分にとっては、その語り口のわかりやすさのおかげで、めちゃくちゃ楽しく学びのある番組でした。
中でも“史上初の個展”について語られた【クールベ】と【バジール】(35、36回)の話が沁みました。今となっては当たり前の作品発表の形態となった“個展”ですが、自分も“常にこうありたい”と深く感じ入った講座でした、合掌。
※まじめか!
名前:カマキリ
納豆についてる、たれとからし。小分けのお菓子についてる、乾燥剤。これらを見るたび、早死にした父を思い出す。ありし日、納豆のたれの袋と格闘し、「どっからでも切れるって書いてあんのに切れへんやないか」とキレていた。饅頭を、くっついていた乾燥剤といっしょに口に入れて「うわ、くっついとった」と慌てていた。父のようにはなるまいと、納豆のたれとからしは口で切り開け、小分けのお菓子は裏を確かえめてから口にする。
※そう、どっから切っても切れないんだよねあれ。ちょと違うけど納豆のたれも切り間違えると細っそい水鉄砲みたいに出るときあるし。
名前:○あ
今日は父の命日なんですが、別な意味で沁みた一日でした。
職場の専務は自分第一主義で、こちらの都合などお構いなし。朝から晩まで息を合わせて作る仕事をやってるんですが、それぞれ持ち場もあるので、そっちに集中すれば良いものをわざわざ自分の仕事を放って、こちらの仕事に手を入れてくるのでとても不快です。もうわたくしも十年選手なのです。そんな専務は朝から晩までライバルの他社への批評批判、他社の商品のキャッチフレーズとか勝手に考えて悦に入ってるあり様。自分とこの商品のキャッチフレーズとか生産数あげることとか考えるならまだしも。あとどんだけマイルスが天才かとか、ラジオは掛け流しで毎日朝の女性ラジオパーソナリティの曲目紹介の英語のイントネーションが外国人を気取っていて変だとか、ある事ない事ケチをつけるので、そんなに嫌なら番組変えればいいのに変えないんですよね、ねちねちとしてて。
さて、そんな専務に今日驚いたのは、ラジオで掛かってた、ちあきなおみの『喝采』について。ぼくはあくまで順当に聴けば、男女間の恋の別れの歌だと思ってましたが、専務曰くこれは家族の歌じゃないのか論をぶち上げておりました。独自の解釈や思いつきは普段からお手のものですが、じゃあ歌の中の、あの駅に残してきたのがお母さんとかお父さんなのでしょうか?不良娘が家出して、あの黒い縁どりの報せが実家から送られてきたとでも言うんでしょうか?親不孝して今はステージで歌ってる歌手?ちゃんちゃらおかしくて涙が出ますね。とまあ、そんなわたくしは毎日専務ラジオのアシスタントを兼務しながら良い商品を作るために精進しているのでございます。
※なんか自分のこと言われてるみたい、耳が痛い。
名前:出禁あらため、干しガッパ
沁みる
とは
夕日だけではなく、
慕情ヲもたらす全てにおいて
50代に帰省するのは、自分の為じゃなく親の為。親の用事の内容は省くが、誠心誠意なのは誰しも同じことだろう。夏休みの10日間、中学時代の友人Sちゃんの一軒家で世話になったことヲ書こうと思います。今後も世話になるだろう。
Sとは中学時代から住宅の上下に偶然住んでいた。ワタシ達は姉妹ぐらいに近しい仲。帰省の宿泊代は要らないよと言ってきたが、ギリギリな友だち価格で1日いくらと決め日数分礼儀として渡している。
Sが夢のマイホームとして購入した一軒家はいい家だが、車じゃないとサッと帰れない。駅からバスやら乗り継いで、そこからまだまだ徒歩が長くあるので、Sにはデカい車が必需になり、ワタシは送迎してもらうことが当たり前になっていた。
ただ、泊まりの最終日に限ってSからLINE
「迎えに行けない。家の戻り方経験しといた方がいいから」と。
「こ、これは」
ガクガクブルブル(嫌われとるやないかい)
広くて文句ない綺麗で優雅で安心なS宅が脳裏に浮かぶ。朝から美味しい朝ごはんが当たり前に出て夜はSの車で帰るだけで快眠できる寝具の心地よさ。数日前にSからこの最終日あたり〆切があるみたいなこと、今、うわぁ、忘れてたよ。
Sは毎日6時起床でご子息ヲ送迎。フリーでデザインしている傍ら他2つバイトヲ掛け持ちし、ママ友付き合いに美容にヨガetc
そこに今回ワタシの宿泊まで〜試練か修行と乗り越えるしかないパワフルさ。
Sの車ならいつも15分以内で帰れていたが、初の種々の乗り継ぎのS宅の条件に、ワタシの最終日の疲労に2時間分ぐらい心理的な疲労が重なった。S宅に近づく間際にSにLINEして知らせるぐらいはしたが、本心ではもう帰りたくもないしSに頼りたくない気分に。(勝手)
Sは似た家が立ち並ぶ中、目印になるように立って待っていてくれた。手ヲ振っている。タクシーの人も「助かります。この住宅街は、いつも迷いに迷うんで」と漏らした。
金ヲ払いタクヲ降り、Sも仕事が一段落したのか普段通りで安心したが、ほんのり声ヲかけ合いながらもお互い本来じゃない雰囲気。世話になるってこんなもんだなと遠慮して本心ヲ明かさないワタシにも、嫌気が差す。
S宅の玄関扉がコチっと開く。クーラーがみなぎってくる。明るい。あー、空気まで眩しいや。帰りたい家ってこんな感じだよ、マジ。
「あー着いた。。ありがとね」
やっと出た、ワタシの本来。感謝の声。
フラフラで、すぐにある洗面所に、そそくさ手洗いとうがい。大きな鏡に映るワタシ。最終日に親に尽くしに尽くした帰り道+2時間交通によるショボい干しガッパのような姿ヲ見たり
友人は、どっか居なくなっていた。
リビングに向かうデカい戸ヲで開けると、どデカいソファに、いつも横になって耳にヘッドホンしてゲームしている物言わぬ高1(思春期)
ご子息がワタシの帰りに今気付いてビックリして、耳のヲ外し座り直した。
素の精悍な野球部のご子息ヲ前に、
ワタシは咄嗟に
「いやぁお世話になって、ほんと色々あるよね、
いつも本当申し訳ないわ」
と、抽象的にも自虐的にクッタクタで話しかけていた。
(ご子息)
「いいえ、母の仕事はいつも好きなことをやってるだけなんで気にしないでください。本当に好きなことをやっているだけなんです。
これからも何も気にすることなんかはないです。
ほんとにすきなことしかやっていません。
母のことはこれから何も気にしないでください」
(ワタシ)
「………。?………、…いやぁ、
そんなこと言ってもさ、ほんとうに今までありがとね。申し訳なかったよ」
(ご子息)
「これからも、ずっと母と友達でいてあげて下さい。母のことヲこれからもずっとよろしくお願いします」
2時間彷徨ったワタシに、この言葉は沁みた。
慕情
(沁みるとは夕日だけでなく)
終
オマケ
その後、ワタシはケータイヲ、タクに忘れたことに気付き、タクシー会社に連絡。この迷路のような住宅街に運転手は不機嫌に立ち戻った。
後ろのドアヲ開け、何も示さない。なんと、ケータイは忘れたそのまんまの後部座席の背もたれと座面の間に挟まっていた。
運転手に迷惑ヲかけるからと、帰省土産のクッキーヲ準備して渡すと、急に「すみません」声が明るくなった。「いやぁ、ありがとう。助かりました」とワタシ。
ブツ(ケータイ)ヲ嫌がらせのように取りにくい姿勢でやっと取り終えるワタシ。バタン、ドアヲ閉め、突き進み消えゆくタク。
S宅のリビングに入って、「うわぁ大人ってこわいよー、大人ってやっぱコエー」とホッとして2回ぐるぐる大きめに言葉ヲ漏らして回っていたら
ご子息は、まだまだヘッドホンしながらゲームヲしていた。
完
※君は何を言ってるんだ。
名前:ホンノムシ
ちょっと郊外にある実家から都心の学校に通っていたころ、よく、いろんな駅で途中下車して古本屋を巡った。線路沿いにあって車窓からも見えるその古本屋は、古びた文学や専門書中心でいい品揃えだけど、ずっと同じ本が並んでいるようなところだった。奥に店番が座るカウンターがあり、おそらくその背後が住居になっている、よくある作りをしていた。
その古本屋は、しばしば高齢なおばあさんが店番をしていることがあった。そのとき店に入って棚を眺めていると、ふっとおばあさんの姿が消える。そしてやがて、湯呑みに熱い日本茶を入れて戻ってきた。「こちら、どうぞ」。棚を見てるだけなのに、お茶を振る舞ってくれるのだ。お茶を持ちながら本を手にするのはなかなか難渋なので、ちょっと迷惑かもとか思いつつ、ありがたくいただいた。多くの場合、お茶だけいただいて店を出たように思うが、いい本との出会いもあった。多くの本に刺激を感じていた時代だ。
実家を離れてその古本屋に行くこともなくなって十年くらいの歳月が経ち、存在も忘れていた。巷の古本屋もだいぶなくなり、古本屋巡りをすることも少なくなった。
そんな暑い夏のある日、実家に帰る用事があって電車に乗っていると、車窓から、ふとあの古本屋が目に入ってきた。店先に本が並んでいて、まだやっているらしいことに少々感動し、寄ってみることにした。線路沿いの道は日陰がなく、ちょっと歩くだけでも汗が吹き出してくる。それに思い出した、あそこの店は冷房がなかった。案の定、入口の扉は開放されていて、手で汗を拭いながら店内に入った。
店の中の印象は、驚くことに十年前とほぼ変わっていなかった。同じような本がぎっしり棚に並んでいる。上の隅の棚を見れば、まさしく以前目にしたと思われる本がいくつか見つかった。変わったことといえば、カウンターに座っているのが、見たことのない中年の男だったことだろうか。それもそうだろう。あの頃高齢だったおばあさんがまだ店番をしているはずがない。昔ながらの棚を懐かしい思いでじっくり眺めたが、いまとなっては買いたいと思えるものはなく、汗も少し引いたので、手に取った本を棚に戻して店を出ようとした。
その時、奥から声がした。「どうぞ」。最初、自分に声をかけられているのかもわからなかった。本をきちんと棚に戻すと、もう一声がした。「こちら、どうぞ」。振り返ると、カウンターの上に湯呑みがあった。そしてカウンターの向こうに、小さくなったおばあさんの姿。あの頃の、熱いお茶だった。
ちょっと感激しつつ、もう帰りたいこともあって、息を吹きかけながら飲んだ。再び汗が吹き出して来た。急いで飲んだが、それなりに時間はかかったのだろう、湯呑みをカウンターに戻す頃には、おばあさんの姿はなかった。
汗が流れるまま、灼熱の道を駅に戻った。
本当にありがた迷惑なお茶だなと、少し笑った。
※ほのぼのとしたホラーです。
名前:肉甲冑
最寄駅からたまに行くスーパーの間に、車も歩行者もほとんど通らなくて、ほんの少し近道ができる小道がある。私は気遣い屋なので、道を歩く時もビンビンに周囲に気を配って歩いているため、知る人ぞ知るその小道を使って気遣い力をセーブすることがあった。手入れされてない朽ちた汚い家屋がある薄暗い一角があったけど、気にせずささっと通っていた。ある日、残業で帰宅が深夜になった日、クタクタだったのでその道を通ってスーパーに行くことにした。珍しく進行方向に人がいるのが遠くから見えた。道に落ちた枯れ枝を脇によけているらしい。近くの住民かな。せっかく気を遣わないで通れる道を選んだのになあと思いながら近づくと、ヨレヨレのベージュのパンツだけを身につけた70代ぐらいの白髪ザンバラ髪の爺さんがいた。長さ1メートルはあると思われる木の枝を持って、私の方にホイッ、ホイッと突きつけて煽ってきた。私は避けるように通り過ぎたが、奴はすれ違いざま「おまんこ」と私に向かって吐いた。ゾッとした。でも女性の私でもチョンと軽く押せば一発で尻餅付きそうなぐらい貧弱な体だったので、やられたらやり返そうと瞬時に思ったことを覚えている。奴はきっとあの汚い家屋の主なんだろうと思う。私が「キャ!」とか言えば奴は昇天したかもしれないが、私は無言だった。もう恐らく抱くこともない女性を見て何か思うことがあったのかと思うと、沁みた。以来、その道はもう使っていない。
※じじいのシンプルさに感動した。再レポート提出しなさい。
名前:ユシャ
高校を中退して通信制に転校したタイミングで始めた飲食店バイト。6年目になります。
新しく入ってきた子は15歳。私はもうお局。
洗い物は本来下っ端の仕事ですが、もう卒業予定の私は洗い場に積極的に入るようにしています。
無心で洗い物をしていると、色んな事が思い浮かびます。
将来を考えるタイミングの今、バイトを6年続けても、どれだけ洗い物が早くなったとしても、人生に活きることはあるのだろうか、、と。
洗浄機の蒸気と熱と汗で、化粧はドロドロ。
溶けたファンデーションで目がしみます。
6年続けたバイトで出来上がるのは化粧ドロドロ私だけでした。
※人生に活きることはなんもないと思います。一番いいのは「ただ生きる」ことです(きっぱり)。
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「メウロ」(目から鱗が落ちた話)
名前:市場
・30代の頃、私は自宅の訪問勧誘(主に新聞や電話での勧誘)に対してまともに対応しておりました。端っから新聞を取る気もなく商品を購入する気もないのですが、頑張って営業しておる相手の気持ちを汲むべくじっくり話を聞きつつ、やんわり断るという方式でやってました。時にはやり取りが長引き、相手がひつこくて険悪ムードになることもたまにあって。で、ある時相手がキレて(話長く聞く割に全然進展しないため)電話口で「そっち行って暴れてやるからな、住所分かってんだよこっちは!」みたいなこと言われました。で後日、その話を当時の彼女にしたところ「必要ないならすぐ切んなきゃだめだよ。相手はそんなの慣れてるし、長引かせるだけ向こうにとっても無駄な時間だしさ。切られたら次、切らてたら次、てやってるんだから。その方がお互いにいいでしょ」言われ”メウロ~”。今までの私は何をしておったのだろう、まったく逆の事をしておった。誰一人得しない糞みたいな時間を垂れ流しておったのです。それからの私は電話勧誘や訪問があると「必要ないんで(ガチャッ)※約2秒」と、相手の返しも聞かずシャットアウトする人生へと変貌を遂げたのでした(宗教の場合は帰ってる後ろ姿に「二度と来んな」を浴びせます)。ちなみにその彼女は私を思いっきりフッて出て行った。
※人はふとしたことで己のパンツが裏返しだったことを知る。
名前:森桂子
今の家には狭いながらも庭があるので自然いっぱいの庭にしようと、雑草を丁寧に取り、除草剤は使わずに過ごしています。
野草を植えたらほら、夏も涼しい。
庭には野鳥がくるようになり、朝は鳥の囀りで目が覚めるという暮らしをしています。
家の裏には鳥が運んできたらしき小さな木が生えてきました。これはシロダモかな。陽の光を浴び艶々と光っていました。
自然は私たちのそばにある…!これぞ共存。
そう思いながら過ごしていました。
しかし先日、ふと家の3階から窓の外を見ると、その木がいつの間にか巨木になっておりました。
慌てて見に行くと、シンボルツリー並みの大きさになっており、その高さ6メートル。しかも隣家のブロック塀を倒さんばかりにもたれて隣家に大きく張り出しており、自分の家の基礎にも根っこを深々とが刺しています。
木の上にはたくさんの野鳥。
自分でノコを入れてみましたがビクともしません。
毎夜、あの木がスクスク育つイメージが脳裏に浮かび眠れない日が続きました。
業者を呼ぶと66,000円と言われました。
とりあえず巨木を倒してもらいました。根は深すぎて掘れないので、根を殺すためにラウンドアップ(世界的にやばいと言われている除草剤)を撒いてもらいました。
私は気づきました。
巨木も雑草も同じ一つの命なんだと。
つまり巨木は雑草です。
雑草のくせに66,000円もかかりやがりました。
私は業者に頼んで他ののびのび育っていた木も殲滅してもらいました。
Amazonで電気バサミ(手首くらいの太さまでスパスパ切れるバッテリーで動くハサミ)も買いました。
その日はスッキリ眠れました。
巨木は雑草!
※そもそもの原因の小鳥を電気バサミでちょん切れば心の相殺出来るのでは。
名前:楢崎くるみ
とある写真の撮影で被写体をやっていた頃、「自我を無くし狂いきる」という事を最終目標として取り組んでいた。
それが人間の真理に辿り着ける一番手っ取り早い方法だと思って(今思うととても横着した考えだったと思う)
そして私は全裸になったり道で四つん這いになり声にならない声を出したり獣の様になったりもした。
とある夜そのままの精神状態で道を舐めた。私は地球にKissをしたのだ。コンクリートの地面の味は甘くてびっくりした事を覚えている。
その後直ぐ冷静になり周りの景色の確認をした後に「狂う」という事は私にとってずっと遠い事の様に思えた。
地面を舐めたら私が醜くなれば皆が喜んでくれるかなと思ったが(真理の追求よりも結局の所歪んだ自己愛が勝っていたのだ)意外とそんな事もなく寧ろ気持ち悪がられるんだと分かってからは今までよりも「狂う」という事に一歩引いて観る様になった。この経験は苦く貴重な経験になった。
「狂う」ではなくて「狂ってしまう」のがきっと健康な狂いなのだろう。
それはマズローの欲求段階説で言う所のピラミッドの一番上の部分だと私は考えている。
話は逸れたが、今は自分の好きな化粧をして好きな服を着て周りの目を余り気にしなくても好かれる時は好かれるし嫌われる時は嫌われるんだと知った。35才になってようやく知った。
それからは周りの事が少しどうでも良くなり今は自分が自分になる事だけを考える様に努めている。
※時々ふと、この世の中自体が狂気だと感ずる。
名前:しーぴん
19歳の頃、友人と住み込みのバイトをしていた時。
寝る前に友人と歯を磨いていた。
うがいをするときにコップがないので、いつも通り「片手」で水をすくってうがいをしていたら友人が「両手で掬えばいいのに」と言った。
いつも片手で水を掬ってうがいをしていた私。両手だと一度にたくさんの水を口に運べるのかと私の中でかなりの衝撃があった。
あれから8年経ったいまも両手で掬うと慣れない。いまだに片手でちまちま水を口に運んでうがいをしている。
※なんかこういう話すき。
名前:eye
幼少期ぶどうが好きでよく食べていた。
いちいち皮から出して食べるのが面倒だと思った。
そこで閃いた。
先に皮を全部剥いてお皿に盛ってスプーンで食べればよいではないか、と。
天才だと思った。
実践。
全然おいしくなかった。
目からウロコだった。
※良かれと思うてやったことが逆効果。人生これ多い。
名前:倉持政晴(区区往来)
昔、腰まで髪を伸ばしていた時期がありました。洗ったり乾かしたりするのが大変ですし、夏は暑いですし、毎日職質されますし、思い返すと何も良いことがなかったように思うのですが、ある日、大御所ノイズミュージシャンの方と打ち合わせだかお茶をしていた時に「ところで、なんで髪伸ばしてるん?」と尋ねられました。「はて、確かになんで伸ばしているんだろう」と自問しても思い当たる理由が特になく、翌日にすぐ髪を切りに行きました。
あと、僕は小6の頃から週刊少年ジャンプを買い続けていたのですが、つい最近、人気連載作品のカードが付録についた号が転売ヤーに買い占められるということがありました。「売れる作品だけが生き残る血も涙もない商業誌の世界だからこそ、資本主義社会の欲望があらわれやすく、翻って今の社会の状況が反映されやすい媒体なのではないか」などともっともらしい理由をつけて購読を続けてきましたが、本当は辛かった。ヒット作品のコピーやパターン化したジャンルのショーケースのようなジャンプを読むことは苦痛でした。やっと辞めることができたのは転売ヤーの皆さんのおかげです。ありがとうございました。
…と書いていて、これは自分は他者からのツッコミがない限り一つの物事をずっと続けてしまいがちな人間だ、という話でしかないことに気づきました。そうだったのか、自分。目から鱗です。以後、気をつけます。
※生きてると思わぬ角度でつっこまれて簡単に倒れる合気道みたいなとこある。
番外編:メウロとは「驚いた」という意味だと思うてた人の投稿
バンドマンの友達がローリングストーンズに曲をパクられて訴訟を起こすと言っているらしいです。
音楽詳しくないのでストーンズがまだ活動してることにメウロしつつ、本当に訴訟に勝ったら焼肉奢ってもらおうと下心で問題の曲を聴いてみたら、全く似ていませんでした。
彼曰く概念が同じらしく、私には意味がわからずメウロでした。
ちょっと焼肉を期待した自分が恥ずかしいです。
BADA