第21回吾妻まつり開会宣言をする筆者

1. 吾妻まつりと共に22年

 水戸出身で現在66歳(2021年時点)の私ですが、縁あって第19回から22年間、ほぼ人生の3分の1に亘って吾妻まつりに関わってきました。

 新型コロナウイルスの影響で、昨年は吾妻まつり開始40年目にしてはじめての中止、今年は何とか「バーチャル吾妻まつり」として4月から第40回目の開催を目指して準備してきたわけですが、この機会にちょうど中間地点にあたる第20回前後の吾妻まつりの運営についての私の記憶を振り返ってみました。

2. 22年前の時代背景

 今回のバーチャル開催の吾妻まつりが第40回に相当しますが、私がはじめて吾妻まつりに関わったのは、吾妻に引っ越してすぐの1999年第19回吾妻まつりからでした。

 当時は、1991年に弾けたバブル景気から一転し、地価の下落や長銀や山一証券の破綻など、いわゆるバブル崩壊により経済の悪化が加速している時期でした。44歳だった私は、30歳の時から勤務していた日興證券の経済研究所を早期退職制度を利用して退職、かねて購入してあった吾妻に家を建てて引っ越してきました。

 当時、吾妻小は創立20年、吾妻中は創立8年、春日学園はまだありませんでした。2005年開業のTXもまだなく、中央公園の現在の駅側は、藤棚で閉ざされていました。

 まだ携帯電話は普及しておらず、固定電話も番号が今の029-856-xxxxが0298-56-xxxxで、FAXも多用されていました。インターネットは普及し始めたばかりで、吾妻まつりのメンバーと、吾妻中の天井にLANケーブルの敷設ボランティアをした思い出があります。

 1985年には科学万博が開催され、1987年には合併により市となったつくば市ですが、その後の「失われた20年」とも呼ばれるデフレ下の経済低迷の影響に加え、国の予算引き締めもあって、諸々の施設管理が市に移管されました。国立の研究所や筑波大学も独立行政法人として予算を減らされ、その後の公務員宿舎の廃止・売却へとつながる緊縮財政が始まっていました。                 

3. 22年前の吾妻まつり

 そんな不況色の強い時代でも、第20回前後の吾妻まつりは今と同じ7月末に1日だけ中央公園で開催していました。

 その規模も、来場者は今と同程度の延べ2000~3000人と盛況でしたし、小中の校長先生など外部からの評価も高いものでした。第19回の模擬店数はなんと30店もありました。

 まつりのテントは小学校から借りた本部テント以外は、実行委員総出で地面に鉄杭を打ち、柱を立てて、屋根はブルーシートで作っていました。前日に近隣の公民館を車で回って長テーブルを借りてまわったりもしました。

 オープニングパレードやいかだ大会が12時から、おばけの森、模擬店、アトラクション、お楽しみくじは午後4時からでしたが、プログラム項目は、現在とほぼ同じでした。

 アトラクションでは、カラオケ大会や吾妻幼稚園のおみこし、盆踊りなども行っていました。ちなみに「つく鼓」さんにはこの頃からずっと参加していただいています。お化けの森の入場者も第20回にはのべ千人以上でした。なお、パンフレットは、第26回まで手書きで自分たちで印刷していました。

第21回吾妻まつり本部テント

当時のブルーシート張りの模擬店

第19回パンフレット~いかだ大会は12時開始。カラオケ大会もあった。

アトラクションは藤棚の下。おばけも芝生の西の林。模擬店は30店。

4. 中止一歩手前だった吾妻まつり

 外からは順調に見える吾妻まつりでしたが、実行委員会の内実はいろいろな問題を抱えて、中止の声が出るほど運営上は存続さえ危うい状況にありました。

 当時から吾妻小中のPTAの応援はありましたし、一時的な大人のボランティアや小中高校生も会議に出席して企画から参加することもありましたが、継続的に参加する実行委員会の主要メンバーは6人程度しかおらず、その6人が4月からほぼ毎週集まって、すべての企画や準備をしていました。特に第20回の年には区切りの特別記念企画の検討もあり、2月から20回以上の会議が行われていました。

 6人の実行委員は、まつり創設者の一人高野正子さん、第20回実行委員長で吾妻中PTA会長だった吉田正典さん、第20回副委員長でアトラクション担当の長屋さん、第19回実行委員長で第20回では広報庶務の中村恵さん、いかだや設備の竹川さん、佐久間さんでした。

 この頃、子供会が減って参加が少なくなったことや、池の水が汚すぎるのでいかだ大会は中止すべきとの意見が大きくなったことなどから吾妻中の生徒にアンケート調査をした思い出もあります。

 第20回の反省会で、中村さんが私論と断りつつ、

 どんなに仕事や家族を犠牲にして、命がけで祭りの準備をしたとしても、誰もいちいち誉めてはくれない。逆に手抜きしたって、ミスったって、「安全」が確保されていれば誰も文句言わない(ちょっとは言われる)。

<中略>これらの現実を受け入れられなくて吾妻まつりに関われば関わるほど辛くなるのであればちょっと休んだ方がいい。精神衛生上、お互いに…。

<中略>でも、あの一日の爆発的な解放感、吾妻の子供たちにはどうしても必要なのです。心の中で悪魔か天使かが、「ヤメチャエ」とささやいているんですけどね。いつも。とにかく、実行委員は、なるべく体が少しでも楽なように、犠牲にするものを極力減らすように、が私の目標です。<後略>

 と述べています。当時は実行委員のみんなが同じような気持ちでいたと思います。高野さんも「無理なら規模を小さくすればいいし、大変ならいつでも止めていい」とおっしゃっていました。

5. 吾妻まつりとの出会い

 そんな状況の中、私はたまたま市報に出ていた実行委員募集を見て、19回の途中から参加したのです。シンクタンク時代に地域コミュニティのあり方に興味を持ち、吾妻への転居を機に何か地域の活動に参加したいというのが動機でした。

 最初の年は、自主的にメモを取って書記兼庶務的なお手伝いから始めました。様子がわかってからは、私なりに企業やお店も地域コミュニティの一員だという持論を展開して「三年間中断していた企業寄付を再開すべき」と提案し、企業回りをして20店ほどから寄付を集めたり、「一から全てを実行委員会で決めずに、いかだ、アトラクションなどワーキンググループ(WG)の権限を強め、自主的な議論をしてもらい、実行委員会は、全体のスケジュール調整や各WGで解決できない問題の検討、予算の配分などに集中すべき」などの提案をしました。

 2年目第20回の思い出は、記念にスタッフ用の「20th AZUMA FESTIVAL]のロゴ入りの黄色いスタッフTシャツを作ったこと、吾妻中PTA会長として「P(ぱっと)T(楽しく)A(あそぶ会)の店」を吾妻まつりに出店して焼き鳥や生ビールを売って、利益をパソコン購入などのため吾妻中に寄付したこと、主要メンバーの長屋さんと他のメンバーとの間でアトラクションやまつりについての考え方に齟齬が生じて議論が重くなったこと、などでしょうか。

 それでも、記念すべき第20回吾妻まつりは盛況のうちに無事終了しました。

第20回に出店した「吾妻中PTA有志の店」看板デザイン

芝生広場のブルーシート張りの模擬店(第21回吾妻まつり)

第20回パンフレットの1,4面/吾妻幼稚園のおみこしや盆踊りがあった

第20回パンフレットの2,3面

6. 実行委員長を引き受けて…

 2000年、2001年に吾妻中のPTA会長をお引き受けした私は、2001年には第21回吾妻まつり実行委員長を引き受けることになりました。この年から吾妻小PTA委員だった杉山さんが参加してくれて、議事録作成やメーリングリスト構築に力を尽くしてくれました。

 一方で、長屋さんが仕事の異動などもあって、実行委員から抜けました。

 PTA会長との兼務は、負担が大きすぎることから、本来は望ましくないことだとの意見が多かったのですが、実行委員不足で緊急避難的に「人的パワーを掛けられないこと(人員不足)を前提に、楽しく(=楽に)、省力化して(=手をかけずに)、前年並みの吾妻まつりを開催する」という方針でお引き受けすることにしたのです。

 実際には、

(1)企画を一から考えるのではなく、前年と同じメニューの繰り返しを基本として、どうしても改善が必要な部分だけ変更するようにした(改善を繰り返すことで少ない労力でブラッシュアップが図れ、年々企画の練度が上がることを期待した)。

(2)WGの自主性や権限を委譲し、その部門の企画立案だけでなく、場合によっては開催するしないの判断もWGに委ねた(代わりに安全対策やマニュアル作成などをきちんとすることと、WG長が実行委員を兼務して実行委員会に出席してWGでの決定内容の報告や予算要求を共有し議論できるようにした)。

(3)それまで例年でも10数回開催、前年には20回以上開催していた実行委員会を半分以下の6回に減らした。

(4)会議数を減らす代わりにメールでの情報発信や意見交換を多用するようにメーリングリストを整備した。

(5)杭打ち、柱建て、ブルーシート張りという模擬店用の手作りのテントを止めて、業者にレンタルテントを発注して立ててもらい、外部の公民館で調達していた不足分の長机も借りて賄うように変更した(片付けの労力も大幅に減らすことができた)。

(6)内部の負担軽減を図るために必要な外部委託のための資金を増やすためと、寄付の中心である自治会(区会)が公務員宿舎の売却などで減少することも見込んで、企業寄付を増やす努力をした(第16~18回自治会寄付約80万円企業ゼロ→第19回自治会87万円企業18万円→第21回自治会81万円企業20万円⇒第39回自治会40万円企業53万円)。

 こうした変更や改善などが奏功したのか、何とか吾妻まつりを中止したりせずに、次の世代へとバトンタッチすることが出来たと、振り返ってホッとしています。

第21回パンフレット1,4面/初の実行委員長あいさつ

第21回パンフレット2,3面/アトラクションは池側で開催

7. 次世代へのバトンタッチ

 結局、私は第26回まで6年間実行委員長をして、その間は吾妻まつりを絶やさないよう、実行委員の負担を極力増やさないよう努め、第27回で山海さんに、第28回からは現在の井上さんへと実行委員長を引き継いで、何とかバトンを次世代に繋ぐことができました。

 その後は顧問とか相談役とか言いながら、資金面で吾妻まつりを支えたいと企業寄付集めに注力したり、まつり当日はいかだ大会の審査委員長などのお手伝いをしながら今に至るというお話です。

 当時の実行委員の皆さんで残っているのは、私と高野さん、杉山さんの3人です。

 「いかだ」や「設備」の中心だった竹川さんの仕事は、山海さんや中西さん、天内さんや高林さんにバトンタッチ。中村さんが中心だった印刷や渉外、会計など「庶務的な仕事」は柴田さんや増川さん、倉谷さんなどが、高野さんが見ていた「模擬店」は矢沢さんが、長屋さんから引き継いだ亡くなった佐久間さんの「アトラクション」のは萩原さんがバトンタッチしてくれています。「「おばけ」や「くじ」にはPTAからボランティアとして参加していただいている真鍋さん、江口さん、小林さんなど、心強い面々が多数実行委員として力を貸してくれています。

 万全、と言いたいところですが、ここに挙げた皆さんも、そろそろ次の世代へのバトンタッチを真剣に考える時期に来ていると思います。何とか、若返りを図って、吾妻まつりのバトンを途切れさせないよう、気をつける時期に来ているのではないかと懸念しています。

8. さまざまな出会いと共に

 22年の間には不思議な出会いもありました。20年前に、吾妻まつり実行委員長兼、吾妻中学校PTA会長として、当時の吾妻小学校の飯村校長先生にご挨拶に伺った時に、先生から

「野本さんは水戸二中にいませんでしたか」と聞かれました。先生は教育実習の時に私のクラス担当だったと言われるのです。当時から更に33年も前のことで先生の記憶力の凄さに驚きました。後日、私たちが贈った色紙のコピーをいただきました。そのご縁から、吾妻小学校の学校評議員を今日まで20年以上お引き受けしています。

 また、2003年に私が都市建築家協会会員として開催した「閣議決定40周年記念つくばシンポジウム」の準備委員長だった時に行った吾妻中生徒へのアンケートに「残したいのは中央公園。吾妻まつりが行われる場所だから」という答えがあって、感激した思い出もあります。

 さらに、まつりに参加した子供たちからは「吾妻まつりは浴衣を着て友達と会えるから楽しい」「(吾妻中の先生方の店「松見屋」は、)吾妻中の同窓会場だ」と言った声が聞こえてきて嬉しくなるのです。

 当時、小中学生だった生徒たちの中には、結婚して子供が生まれ、子供連れで吾妻まつりに訪れる人もいます。当時の吾妻小中の先生が再度吾妻に赴任して、吾妻まつりを応援して下さったことも何度も経験しました。

9. 最後に

 「吾妻の子供たちにふるさとの思い出を」という素敵なコンセプトを絶やさぬよう、いろいろな人たちと出会い、力を合わせ、仲間もたくさんできました。たくさんの思い出も得ることができました。吾妻まつりと関わったすべての皆様に感謝感謝です。

 長く退屈な文章を最後までお読みいただいてありがとうございました。

 これからも、50回60回と吾妻まつりが続けられますよう、祈念して筆を置きます。 

2021年9月吉日

野本高志/昭和30年(1955年)水戸市生まれ/一級建築士

・1981-1985年 建築システム勤務(羽村市郷土博物館など設計)

・1985-1999年 日興リサーチセンター勤務(証券アナリスト、コンサルタント業務)

・2000-2015年 野本商事(調剤薬局)経営 ・2007-2019 つくばヘルスサービス㈱経営

・2000年-クリエイティブプランニング(一級建築士)事務所 代表

・吾妻中PTA会長(2000年/2001年)・吾妻まつり実行委員長(2001-2006年)

・吾妻小学校評議員(2001-2021年) ・水戸グリーンカントリークラブ理事長(2015年-)

・吾妻三丁目東区会区長(2015-2022年) ・つくば市の財政を学ぶ会代表(2017年-)