百物語

前口上

 このコンテンツは令和元年、当神社のブログにアップしたものの再掲です。基本的にはそのままコピー、ペーストしましたが多少、手直ししたところもあります。

 当初は下記の通り100日間アップしつづけ「百物語」を完成させたのですが、実際に奇怪なことが起きても、ということで百話目はすぐに公開中止しました。それで、ここでも99話で止めています。

 当時、アクセス数が多かったのは順に、第70夜「霊を呼ぶことば」 第6夜「怪しい老婆」 第69夜「とうまん」 第34夜「彗星飛ぶ」  第10夜「廊下のつきあたりの黒い影」。

 皆さんタイトルに興味をひかれてのアクセスで、内容の「怖さ」「面白さ」とは必ずしも一致しないと思うのですが、ご参考まで。

 私が今も印象深いと感じているのは、第25夜「竹の束」 第72夜「奇岩」でしょうか。80話代後半も、個性豊かな話し手がたまたま続いたようで、読んでいるうち怪しい気分になってきます。

 前置き(の前置き)はこれくらいにして、不思議な話を楽しんでいただければと思います。

 まずは以下、最初にブログにアップしたときの「前口上」です。

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 まだ真夏までには日数がありますが、納涼企画として一日一話、百日間、怪談をアップして参ります。つまりは「百物語」の形式です。

 百物語の会は江戸時代、さかんに催され、特に武士の間では肝を練るための一法として、はやったそうです。

 百本の蠟燭をともし、怪談を語り終えるたびに一本ずつ消していき、最後の蠟燭が消えたときに奇怪なことが起きる。怪談を話す部屋とは離れたところに、燈台と鏡を用意することもありました。話し終えた人がそこへいき、燈台から糸状になった芯を抜く。もちろんこれは、初めに百本垂らすのです。その後、鏡で自分の顔を見てから帰ってくる。

 江戸時代以降、「百物語」と銘をうつ書物がたくさん刊行されてきました。しかし、ひどいものになると三十話ほどしか載っていないものさえあり、大事をとって、最高でも九十九話で止めるのが慣例となっています。

 私は神職ですので、年齢、性別、職業その他いろいろな立場の人とお話しする機会があります。お話ししていて、ふとしたときに、これから百日間、当ブログにあげるような話を耳にすることもあります。

 ただ、聞いたままだと、話をしていただいた方に迷惑がかかりますすので、設定を変えたり、話のキモの部分を意図的に逆にしたりしています。江戸時代を中心とした随筆に似たものがあれば、それを取り入れもしています。

 したがいまして、会話調ではあっても、聞いたままではありません。

 怪談を聞くことじたい昔から好きでしたから、かなり前に聞いた話もあります。いまでは連絡がとれなくなった人や、亡くなられた人もいますので、こんなに長い間、怖い話を聞いてきたんだなあと改めて思うしだいであります。

 なお、こうしたものを読む際のお約束として、当ブログの百物語中の一連の話を読んで何か奇怪なことが起き、読んだ人に何らかの不利益なことがあっても、私には責任はとれません。

 予防線はいくつか張ってあるので、そのひとつを申しましょう。

 6月15日より公開を始めますので、100日後は当神社の例祭日の期間中になります。大祭式で斎行いたしますし、宵宮祭では大祓詞を奏上します。例祭は当神社でもっとも大きなお祭りですので、神様のお力もいつも以上に強くなっております。

 これはそのまま書いて人に読ませたらまずいだろう、という、いわばキモの部分は職業柄、わかっていますので、気をつけてはいるつもりです。それでも何かありまして、どうしてもお祓いを希望したいという方はご連絡ください。

 ただし、当神社でのご社殿でのお祓いになりますので、あしからずご了承ください。

 恐怖を感じさせるよりも、不思議な話がほとんどです。

 では、どうぞご覧ください。

第1話~第10話

   第一夜 膝下の幽霊

 私が小学校三年生のときですから、七、八歳の頃のことです。

 ある冬の日、給食中あたりから急に吹雪になりましてね、集団下校することになったんです。

 午前中は曇り空だったけれども、雪は降っていなかった。今よりも、天気予報がおおざっぱでしたからね。雪の予報だったとしても、どれくらい降るかまでは分からなかったんです、その頃は。先生方だって、そんなに降るとは予想していなかったんでしょう。

 町内会単位に分かれて、下校したんです。一年生から六年生まで、みんないっしょ。

 もちろん、先生に引率されてね。

 田舎町ですから、みんな顔見知りですよ。

 吹雪の中を歩いたこと、ありますか? 雪自体は軽いんですがね、強風時に顔へ吹きつけてくると、かなり痛いんですよ。

 かといって、足元だけ見て歩いていると前方不注意になってね。何かにぶつかる恐れがある。顔をあげると、雪が当たって痛い。自然に、前の子の背中から足をちらちら見ながら、歩いていくことになる。

 先生が先頭で、そのあとはまあ学年順に一年生、最後尾は六年生、二列になって進んでいきました。

 確か当時、通学路ってのが決まっていて、この町内はこのルートって、きっちり決められていたんじゃなかったかな。そのときも通学路として、決まっていたルートを歩いていたんだと思います。

 校門を出て、ちょっと進んだときのことです。

 左手の視界の端に、着物の裾が見えたんです。

 初めはビニール袋か何かと思ったんですが、その下に、明らかに人間の脛も見えたんです。

 すごく細い脛でした。血色が悪くなっていたのか、青筋が浮かんでいましてね。

 冬のさなか、素足を出して外に立っている人なんて、あまりいませんよね。

 まして、吹雪の日でしたから。

 着物の裾や脛から上は、見ていないんですよ。前を歩いている子から遅れちゃいけないので、そんなものがちらっと見えただけで通り過ぎたんです。先生を呼び止めて、訴えもしませんでした。寒いし痛いしで、早く家に帰りたかった。

 一行は、病院の横を通って、跨線橋を通過して、商店街に入っていって、大通とぶつかったところで左折しました。

 そのあたりで、また細い脛を見たんです。

 白い着物の裾が、はたはたと風にひるがえっていました。

 二度目に見たとき気づいたのは、履物をはいていないことでした。

 そして裾からすぐ上、三十センチメートルあたりから上がない、ということでした。

 いわば膝下の幽霊、でしょうかね。

 はいはい、逆ですよね。よく幽霊には足がないなんていいますが……。

 今から思い起こすと変ですが、そのときの私はね、ああ、これは人間じゃないんだ、と妙に納得しただけだったんです。いえ、何でもないときでしたら驚きのあまり、奇声をあげたり、飛びあがったりしたかもしれません。

 吹雪の日で、集団下校……。

 家に帰ったら、もう外に出ることはできません。私は外で遊ぶのが好きな方でしたけれども、つまんなかったかといえば、そうではないのです。

 ふだんは仲のよい友達数人と下校していたのが、先生に引率され、他の学年の子供といっしょに、隊列を組んで下校する。

 こんな非日常的な状況が、かえって楽しかったんです。何ともいえない昂揚感がありましてね。

 そんな心の動きが膝下だけの幽霊を、見せたものかもしれません。

 あなたはどう思われますか? 少なくとも、私にとっては真偽はどうでもよいのです。錯覚だろうが何だろうがね。

 なにせ、この細い脛、美しかったんです。

 溜息をつくほどに、美しかった。

 今、思い出しても身震いするくらいにね。


   第二夜 猿の王

 わしがまだ若くて、猟師をしとった頃の話じゃ。

 うん、まあおいおい話す……やめたわけはな。まず聞いてもらわんとならんのは、猿の話じゃ。

 わしらはよく猿真似だの、エテ公だのいうて莫迦にするがの、ご存知の通り猿というやつ、なかなかの知恵を持っとる。よく見てみると、人間のようなこともする。温泉に行って湯船につかっている先客に声をかけたら猿だった、なんて笑い話もあるよのう。

 昔の難しい本には猿猴と書いてあることもある。そう、エンコウ。エンコウというと河童を指すこともあるが、本来は猿のことじゃ。 

 清国の百科事典、淵鑑類函にこんな記述がある。

爪哇国、山に猴多し。人を畏れず。授くるに果実を以てすれば、すなはちその二大猴先づ至る。土人これを猴王と謂ふ。それ、人食し畢ふれば群猴その余を食す。

 ジャワの山には猿が多く住んでいて人を恐れない。果実を与えると、すぐに猿の群れの中から二匹、大きい猿が現れて寄ってくる。土地の人はこれを猿の王と呼んでいる。人が食べ終わると猿の群れがその余りを食う。

 ――とまあ、こういうわけじゃ。

 この百科事典、清の聖祖・康熙帝のときにできたというから江戸時代の中頃、ずいぶん前じゃのう。人から見れば王のように振る舞う猿がいて、他の猿は猿の王に遠慮しておったと。猿にも人間のような社会があるというのはこんにちの常識じゃが、そんなに昔から知られていたんじゃな。

 ご存じのように本邦にもむろん、猿がおる。

 昔、加賀国(石川県)の山中にいた猿はいつも丸いものを持ち歩いておって、付近の猟師たちは皆、ありゃなんだろうと訝しがっておった。ひとりが鳥銃で撃ったところ……うん、チョウジュウというのは先に弾を込めて撃つ銃じゃ、その鳥銃をぶっ放したら、わけもなくその猿は死んだ。

 近寄って、何を持っているんだろうと丸いものを見てみると、これが木の葉でくるんである。思いのほか大きい。一枚剥いてみても中身は出てこない。つぎを剥ぐ。また木の葉。つぎも、またそのつぎも……といった具合、こりゃあただ木の葉を丸めたもんじゃないのかと、その猟師が思っていたところ、とうとう中身が出てきた。

 それは……なんてこたない、銃の弾丸だったそうじゃ。

 猿にしてみれば珍しいものだったんじゃろうて。だから宝物のようにして、大事に木の葉でつつんで持ち歩いていた。そういうことらしいな。

 わしが猟師をしていた頃の話というのも、これに似ておる。

 わしは当時、会津の黒沢というところに住んでおった。山奥も山奥……峠ひとつ越えれば新潟県、会津若松よりも魚沼の方が近い。そんな場所じゃ。

 うんにゃ、腕の方はたいしたこたない。下手でもなければ上手くもなかったよ。若いときは誰でも短気なんじゃろうが、わしは他の若者より気が短い方でな、獲物を見つけたらすぐにでも撃ちたい。そのうえ、じぶんでは冷静なつもりでも、どこか抜けとる。いつの間にか風上にまわっていたり、込めようとした弾を落としたりもする。じゃによって、ずいぶん獲物を逃がしたもんじゃ。

 さてある日、近くの山に猟に出かけたところ、大きい猿を見つけたんじゃ。清国の辞書どおり……これが猴王、そうそう。猿の王でな、家来の猿をぎょうさん従えていた。じぶんは木のてっぺんにおって、家来はその下の枝にワラワラおった。決して猿の王より上には登らない。食い物をとってきて王に献上しておるもんもおるが、渡したらすぐに下方の枝へと移る。

 この猿がまた偉く大きくてのう、他の猿の二倍ほどにも見える。

 そのうえ、これがまた珍しそうなもんを持っとって、それを手で弄んでいる。加賀におった猿と同様じゃが、丸いもんで、黒く大きい。

 むろん、猿の群れの中でもひときわ目立つわなあ……うん、そうじゃ。こりゃまた加賀の話と同じ。わしはすぐに弾を込めてぶっ放した。

 猿の王は、あっけなく落下した。

 おったのは楓の木で、ばさばさ赤い葉が舞い落ちたのを憶えとる。

 すると猿の王のすぐ下の枝に留まっておった猿が、奇声をあげつつ一気に木を降りてきた……そして、猿の王のもとに駈け寄ったと見るや、すぐさま黒い玉を奪って三、四十メートルも走り去る。

 家来の猿はあらかた逃げてしまったが、憐れよのう、木の葉をとって弾丸の穴をふさごうとしている猿もおれば、血の流れるのを恐れているのか嘆き悲しんでおるのか、聞いたことのない奇妙な声を発しておるもんもいる。

 わしはその間にまた弾を込めて、黒い玉を持っとる猿を撃った。

 これも見事に命中した。

 猿の王のまわりにいた猿も音に驚いて、算を乱して逃げまどった。

 そこでわしは、猿の王が持っとった黒い玉をとうとう手にしたわけじゃ。

 これも葉で何重にもくるまれておって、黒く見えたのは葉が腐っていたものらしい。ご丁寧にも、山葡萄の蔓をぐるぐる巻いとった。

 中を開いてみるとな、短刀じゃった。

 いやいや、そうたいしたもんじゃない。柄は腐っとったし、刃は火箸のように曲がっておった。見てすぐに、とうてい使いものにならんと分かるシロモノじゃった。

 柄を握って刃を裏返したり、元通りにしたりして見ていると、刃の部分がグラグラしているのに気づいた……と、つぎの瞬間にはそう強く握っとらんのに、柄の部分が割れた。いや、割れたというより分解したというか、粉々になったというべきか……。

 刃を指先でつまんで、もう一度検分してみると、その下の方に何やら字が彫ってあった。何の字だろうと、くっついとった木端をこれも指先で取り除けてみた。この部分はあまり錆びとらんかったんじゃが、読めんかった。

 村に帰ってからこれをよく洗い、学のある爺さんに読んでもらった。

 するとその短刀、わしの父御が何十年も前に、山でなくしたもんじゃったとわかった。

 いやいや、違うちがう。正宗や国光なんてそんな立派なもんじゃない。刀工の銘なんかじゃあない。そこに彫ってあったのは、わしの父御の名前だったんじゃな。

 父御はやはり猟師だったんじゃが、熊にやられて死んだ。わしはその頃、二歳にもなっとらんかった。

 わしと違って、腕はよかったらしいよ。

 じゃがのう、仲間とふたりで山に入り、獲物を背負っての帰るさ、熊に襲われたという。

 仲間が気づいたときにはもう、わしの父御は背後から熊に一撃をくらっておった。獣の気配を察知できんかったとは、油断したのか増長しとったのか。猟師をやっとりゃ、いや、どんな仕事でもそうかの、魔が差す瞬間があるんじゃろうなあ。

 熊を殺して父御の短刀を取り返したというんなら、仇討を果たしたことになるがのう。いま話したとおり、現実にはそんなもんじゃなかったわけじゃ。

 じゃあ猿の王は、どうして短刀を手に入れたのか。そりゃあ分からん。

 中で朽ちとったとはいえ、大事にしとったことはいうまでもあるまい。ただ、その宝によって己が身を滅ぼすことになった。そう考えると含蓄ある話ではあろうよ。

 じゃがわしはな、偶然……この下手な鉄砲撃ちのわしが猿の王を撃って、たまたま父御の短刀を手に入れた。この一件で、何だかやりきれない気持ちになった。それで猟師をやめ、東京に出たというわけじゃ。

 理由はもうひとつある。刃の下の方にあった父御の名前の左に、こんな文字も彫ってあったんじゃ。

 コフジ、と。

 うん、そうそう……むろん女の名前じゃ。いや、わしの母御の名前じゃないし、親族にもそんな名前の女はおらん。同じ村にも、コフジなんておらんかった。

 誰なのかは結局分からん。いまとなっては、知りたいとも思わん。どうせろくでもない理由で、女の名前を彫ったんじゃろう。

 ああ、その短刀の所在か……いやいや、手元にはない。東京に出る直前に、山に行って捨ててきたよ。だから、このことを知っているのは、わしだけじゃろうな。当時を知る人はみんな鬼籍に入っとろうて。

 ずいぶん長いこと喋ったから、咽喉がかわいたわい。うん、お茶をおくれ。熱いのがいい……。


   第三夜 青池

 私の祖先は明石の西にある大久保というところの出です。

 祖先がいたのは大久保のうち、当時は森田村と呼ばれていたところで、明石よりは半里といっていましたから約二キロほどの距離、地図を見ますと山陽本線の西明石駅と大久保駅の中間あたりになります。山陽道ぞいですから、当時としても開けた村だったんじゃないかなと思います。

 この森田村に〈青池〉という池があります。大きい池ではないものの、涸れたことがないといいます。もっとも、この付近にはたくさん池がありますから、水が干上がりにくい地形なのかもしれません。

 東京に出てきたのは私の高祖父で、その祖父の話ですから私から数えれば六代前ということになります。ずいぶん前のことですので話ばかりで名前は伝わっていないのですが、仮に曽祖父の名前をとって栄助としておきましょうか。

 江戸時代中頃の話です。栄助は百姓をしておりました。

 ある日、野良仕事から帰る途中この青池に立ち寄って鍬を洗っていたところ、三十センチほどの蛇を見つけました。この蛇、奇妙なことに蛇とは思えないほどのすばやさで、見つけたつぎの瞬間には栄助の鍬の柄に巻きついていたんです。

 これはちょっと気持ちが悪い。

 栄助は鍬を振って払い落としました。

 まだ鍬の刃先が汚れていたので池の水につけると、いつのまにか蛇がスルスルと這いのぼってきて柄の絡みついてきています。

 栄助はもう一度、鍬を振って蛇を振り落としたのですが……そうです、気づいたときにはもう、蛇が柄に巻きついている。

 すっかり業を煮やしてしまった栄助は再び蛇を振るい落とすと、柄をさかさまに持ち替えて、蛇の頭目がけて打ちおろしました。

 ところが蛇はやっぱりすばしこくて、身をかわして……跳びあがったんです。

 栄助はびっくりして尻餅をついた。

 ポチャンと音がしたので上半身を起こしてこわごわあたりを窺うと、蛇は池に入っておりました。身をくねらせて池の中心の方へと泳いでゆく。

 ええ、もちろん蛇はけっこう泳ぎのうまい生き物ですけれども、あまりにすばやい動き、蛇が跳んだなんて見たことも聞いたこともありません。殺し損ねたのも、手ひどい失敗に思えた。復讐されるんじゃないかと恐れもした。蛇憑きが広く信じられていた時代ですしね。

 何ともいえず嫌な気持ちになって、栄助は急いで家に帰りました。

 その日はカンカン照りの陽気だったそうですが、ちょうど家に着く頃、急に空が真っ暗になり、それとほぼ同時に雷が鳴り……一発落ちてすぐ、ザアーッと雨が降りだしました。車軸を流すような大雨が夕方、突然降りだしたんですから夏のことだったんでしょう。

 栄助が家に駈け込んで、妻がお帰りといったつぎの瞬間に……もう一度、雷が落ちました。

 しかも、家の近くに落ちた。

 栄助も妻も、ひっくり返った。

 しばらくあたりに響きわたっていた轟音がおさまったところで、周辺に異状がないかどうか、栄助は窓から顔を出して外のようすを窺いました。

 すると、家のすぐ裏の松の木の姿が一変しています。青々と茂っていた枝葉は見る影もなく枯木のようになっており、煙は出ているし、ぶすぶすと嫌な音をたててもいる。焦げたにおいもしている。激しい雨が降りつづいておりましたから、火の心配はありませんけれども、そのかわり……そのかわりというのも何ですが、妻が卒倒していました。

 慌てて揺り動かしたり、水を口に含ませたりして息を吹き返したんですけれども、意識が戻ったのは二、三日後だったそうです。

 ところが、どうもそれから栄助との会話が噛み合わない。受け答えが他人行儀だ。話しているうちに、気づいた。記憶を失って、夫婦であることも忘れてしまっているんだと。

 栄助は甲斐甲斐しく世話をしたそうですが、それ以来死ぬまで、とうとう妻が正気に戻ることはなかったそうです。

 もうひとつ、変わったことがありまして、雷が落ちて弱った松の木に、茸が生えるようになったそうです。傘の部分に鱗のような模様があって……そう、蛇のような模様がありまして……全体に濃い赤色。とても食えそうには見えないのに、味はなかなかのものだったそうです。栄助から話を聞いた村の人が、蛇茸と名前をつけて、雷除けなんてこじつけて旅人に売っていたこともあるらしい。

 この松の木は枯木のような姿のまま長い間もっていましたが、幕末から明治の初め頃に、とうとう朽ち果てて、颱風に倒されてしまったそうです。

 この話のへんなところは……この話には、栄助夫婦の子供が出てこないんです。たまたま話の筋に関係なかったから登場しないんでしょうか。この正気を失った妻がその後、何年生きたのかは伝わっておりません。ある時点で死別して、後妻を迎えたのか。離縁したけれども、世話をつづけたのか。私と直接血のつながりのある者が養子に入って、子供をつくったのか。ああ、これはどうでもいいことかもしれませんね、失礼しました。

 血のつながりがどうであろうが、とにかくこんなわけでして……私の家では茸を食ってはならんことになっているんです。


   第四夜 群来

 ――いま話したように俺は漁師だったんだが、海の上じゃときどきシャレになんねえことが起きる。凪で風もなくてこれ以上ないって漁日和なのに、そういうときに限って自分が海に落ちる。仲間が海に落ちる。点検したはずなのに、海ん出てみたら魚群探知機の調子が悪くて、ありもしないもんを写す。しかもそれが、どう見ても最近死んだ近所のジジの顔ってこともあった。

 何十年も船に乗ってりゃ、そんな話のひとつやふたつ、あるべや。

 俺が若い頃……っつっても、いまでも若いんだけどさ。ああ、ガキの頃。ガキの頃だ。そういうことにしとく。昭和四十年頃かな、海ん出てて群来を見た。

 群来ったら、アレだ。鰊ニシン。オスが放精して海面が白くなる。いや、群来なんて俺はそれまで、話には聞いてたが見たことはなかった。昔たくさんとりすぎたから、しばらく鰊はこないって聞かされてた。

 それがさ、海水が牛乳になっちまったんじゃないかってくらい、船のまわり一面が真っ白になっていたんだよ。ああ、漢字でグンライって書くくらいだから、そこにゃもちろん魚群があるわけだ。網をいれりゃ、大漁間違いなしだと……まあ、こう考えるわな。

 でもなあ、俺が乗ってた船はもうアブラがギリギリだったし、魚をあげてもいた。うん、もう引き上げるとこだったのさ。獲ったもんを捨てて、漂流する危険を冒してまで鰊に行くか、行かないか。もっとも、そう港から離れていたわけじゃないし、無線もある。まあアブラ切れでも何とかなったんじゃないかな。

 親方は決めかねていた様子だったから、俺は歯ぎしりして地団駄踏んでたんだが、同じ船に乗ってた爺様がさ、群来にしては何か変だっていうんだ。俺らは話に聞いてただけで群来だ群来だって騒いでたんだけれども、爺様はじっさいに見たことがある。何度も何度も……で、みんな耳を傾けた。

 爺様はいった。

「わしが見た群来は、もっと白かった。こいつはどこか違う、何だか汚らしい気がする」ってな。もっとこう……群来のときの海面の白さは、もっと鮮やかなんだと。でもこれはクリーム色だった。灰色に近い部分さえある。

 へえ、そうなのかと思いながらも、俺にはやっぱり、ちょい疑う気持ちもあった。この白い海面の下に、どんだけ鰊がいるんだってなったらな。ああ、欲目だ。全くの欲目だ。いやあ、そんときは雇われてたから大漁も不漁も関係なかった。ちょっとボーナスに色がつくくらいのもんだったろう。だがな、海の上にいると、ときたまそんな瞬間があるんだ。こいつをどうしても獲らねばなんねえってな。

 そうこうしているうちに、船はもう白い海面の上にいた……というより、白い海面が船の下にすべりこんできていた。相変わらず親方は立ち往生している。どうするどうすると一同、親方の顔を覗きこんでいた。

 そのときだった。バタバタバタってったかと思うと、船の上に飛び込んできやがったんだ、それが。

 いやいやいや……それが、鰊じゃなかったんだ。

 得体のしれん生き物。パッと見たら鰊に似ているんだが、違った。腹の方が灰色っぽい色をしていて、恐らくそれを見て爺様は変だと思ったんだろう。

 いちばん奇妙なのは頭だ。これが鼠そっくりだったんだな……そうそう、鼠。そのへんで見るドブネズミと変わらんかった。ヒゲはどうだったかな……たぶんなかった。ああ……歯は鼠っぽくなかったな。前歯が出てたわけでもない。でも、鋭かった。ありゃ噛まれたら血が出たはずだ。上の方には、耳がふたつついてた。うん、それも鼠そのものだ。つまり、身体は魚で頭は鼠。そんなもんがバラバラバラっと海面を跳ねあがって、船にはいってきたんだ。そんなもんが甲板の上でぴちぴちしているのを見て、俺はぞっとした。親方も爺様も、いや、みんな固まってたな。そんなもん、誰も見たことなかったし、どうしていいか分からん。ただ突っ立ったまんま、ボーっとしてた。

 亀の甲より年の功っていうべさ……やっぱり爺様が初めに正気に戻ったんだ。親方の腕を摑んで、逃げるべって。

 それで帰ることになった。なったんだが、まだどこかみんな、可笑しかったんだな。突然叫びだして、その得体のしれん魚だか鼠だか分からんもんを必死に踏みつぶしているやつもいれば、ぶつぶつひとりごとをいってるもんもいた。

 船はしばらくの間、ずいぶん南寄りに進んでった。別に潮目も風も関係ない。むしろ海じたいは穏やかなもんだった。それで親方が舵取りに、おいどこにいくんだって怒鳴ったら、いやこっちで間違いないっていう。そんなバカなことあるかって殴りつけたら、舵取りが服を脱ぎだしてさ。どういうわけか知らんが、海に飛び込むっていい始める。俺はもちろんそのときのやりとりを見てたんだが、舵取りの目が据わっててな。ぞっとしたよ。

 港に着いたら、みんなぐったり疲れてた。他の船のヤツがからかい半分でいろいろいってきたけれども、いい返す気力もなかったよ。

 甲板には踏みつぶされたソレの死骸があちこちにこびりついていて、掃除してもなかなか落ちんかった。港に帰ったときには早くも腐ったにおいがしてたしな。踏みつぶした方の靴もダメになった。うん、においがなあ……船もそうだったんだが、ションベンみたいな臭さだった。洗剤だの漂白剤だのいろいろやっても全然落ちんかったんで、みんな捨てちまった。船はさすがに捨てられんかったけれども。

 結局これ、何だったんだろうな……今でも思う。

 いや、人に話すのは初めてだ。新種の魚? そうだろうか。

 ああ、あのな……このとき船に乗ってた人間はみんな、まもなく死んでるんだよな。

 爺様が最初にあの世に行った。そりゃ寿命かもしれんて思うが、それでもあのとき六十ちょっとくらいだった。今の俺より若いじゃねえか……亡くなってまもなくの頃は、何も疑わなかった。

 それから親方も舵取りも、俺と同じ時期に船に乗ったやつもバタバタと死んでった。心臓とか肝臓とか脳とか……まあ、死因はいろいろだ。五年もしないうちに死んだ。みんな……そう、みんなだ。

 俺だけが今日まで生き残っている理由は不明だけれども、ひょっとしたらこの話を人にしなかったからだと思うこともある。一方ではそれと同じくらいに、そんなことありゃせん、偶然だとも思う自分もいる。

 ん……? いやいや。この歳まで生きてきたんだからなあ、この話をしたから死んだってことになってもなあ……。

 え? 聞いた方はどうかって?……いやあ、だいじょうぶじゃないか、たぶん。

 少なくとも俺のまわりには、この話を聞いたから死んだなんてやつは、ひとりもいなかった。人間ってな、ハタから見ればくだらん理由であっけなく死んじまうもんなんだ。要するに、死ぬときゃ死ぬってこった。


   第五夜 寂しいんだ

 私は北海道のAというところの出身でして、中学生の頃まで住んでいました。数年前まで祖母がAに住んでいたんですが、今は亡くなったので、家だけが残っています。

 町を縦断するように川が流れていて、橋がいくつかかかっておりまして……そのうちのひとつ、土腐橋のたもとに立っている電柱の下に、奇妙なおばさんがいたんですね。

 しばらくの間……そうですね、だいたい一年くらいでしたか。宵の口になると、おばさんが電柱の下に現れる、ということがあったんです。

 土腐橋は祖母の家から、歩いてほんの二、三分ほどの場所でしてね。祖母も私も、たびたび見かけたものです。なぜか、私の両親や妹、祖父はとうとう、おばさんを見ないままで終わりました。

 そのおばさん、見える人には妙にくっきり見えるし、見えない人にはまったく見えない。見える人はみんな、電柱に向かってうずくまっているのを目撃していたんですよね。ちょうど、かくれんぼの鬼がするように。そんな体勢ですから、顔を見た人はおりません。

 ああ、そうですね。おばさんではなく、おじさんではないのかとおっしゃる。

 確かに、何となくそんな雰囲気だから、あれはおばさんだ、となっていただけです。ひょっとしたら、おじさんだったのかもしれませんね。顔を見てみたら……案外、ね。

 まあおばさんだったとして、話をつづけましょう。

 おばさんは、ぽっちゃりした体型で、頭には赤いスカーフのようなものをつけていました。

 田舎ですから、知り合いじゃないにしても、たいていの人とは面識があります。でも、私も祖母もこんなおばさんは知らない。

 ご近所の噂話にのぼり、やっぱり見た人もいれば見ていない人もいたんです。あれは誰なんだろうということになりました。でも、知っている人はただの一人もおりません。

 夜のまだ早い時分から立っているので、夕食の買い物帰りの人が通りがかって、目撃したこともあったそうです。

 そうして誰だろう、気持ちが悪いといいつつもしばらくたって、これは祖母から聞かされたんですが、おばさんに話しかけた人がいたっていうんです。

 その人というのは当時の国鉄か営林署か、どこかから転勤してきた家の主婦で、祖母とはそれほど仲がよいわけではなかったようですから、要はまた聞きですね。

 具合が悪いのかと思って、声をかけたらしい。

 するとおばさん、ただひとこと、

「寂しいんだ」

 といいます。

 何が寂しいのさ……と聞いてもただ、寂しいんだ、とまったく同じ口調で答えるのみ。

 それで、ああ、この世のものではないんだ、と気づいて、慌てて逃げたそうです。

 このおばさん、何となくですが、水産加工場に勤めていた人ではないかなと思うんです。その頃、同じような身なりをした人が、たくさん働いていましたから。でも、どこの加工場の人も、おばさんを知らなかったというのは不思議です。

 Aにはまだ、けっこう幼なじみがいて、この話を憶えているやつもいると思いますよ。よければ、連絡してみましょうか?

 土腐橋は架けかわっていませんし、電柱も当時のまんまのはずです。

 ああ、おばさんは最初に申しましたが、一年くらいたった頃、いつのまにか現れなくなったんですよ。残念ながらAに行ってももう、おばさんに会うことはできないでしょうね。

 この手にあるような恨みやら、因縁やらなさそうなものなのに、なんでそのおばさんは出てきたんでしょう。

 おばさんの言っていたように、本当に寂しかっただけかもしれませんね。誰もおばさんを知らない、という状況……。

 今はどうしているんでしょうね。

 もう現れないということは、寂しくなくなったのかもしれません。

 死んだのちも人間、寂しさからは逃れられないんでしょうかね。


   第六夜 怪しい老婆

 オフクロから聞いた話だ。

 オフクロがちっちゃい頃は、子供が生まれるときにはふつう、産婆がきたもんだってな。

 当時、オフクロが住んでいた家のお隣りさんで、いよいよ産気づいたカミさんがいて、産婆を呼んだそうだ。

 ところが、これまできていた婆さんとは、またべつの婆さんがきた。うん、そうだ。産婆ってのは出産時に赤ん坊を取り上げるだけじゃないそうだ。胎内できちんと育っているかどうか、母体に異状がないかどうか確かめもする。医者にかかるにしても出産まで定期的に健診を受けるわな。

 そのべつな婆さん、特に変なようすはない。どこにでもいそうな婆さんだった。

「あんた誰だ」と聞くと、

「婆さんに急用ができて頼まれたからきた」という。

 腕は確かだといい張るし、カミさんはいまにも生まれるようなことを叫んでいるので家にあげた。

 それで、無事出産したんだが……その婆さん、赤ん坊に産湯をつかわせていたかと思うと突然立ち上がり、ドタドタいって家を出ていった。ああ、生まれたばかりの赤ん坊を抱えてな。

 慌てて旦那があとを追った。集まっていた親族家族があとにつづいてくるような気配を背中で感じたものの、それも初めのうち、旦那以外の者は家の周囲をうろうろしていただけだったそうだ。

 婆さんは、滅法足が速かった。年寄りとは思えない身のこなしで通りを駈け抜ける。路地を曲がる。

 そして、脇にある家の中へと消えていった。旦那は、まだ婆さんが赤ん坊を抱えているのは見ていた。

 旦那がつづいて入るとそこは空き家のようで、床や壁が傷んでいるし、埃っぽい。蜘蛛の巣がかかっている。

 あちこち見回ってみたが、婆さんの姿はない……なかったんだが、フッと遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 声を便りに探した。婆さんが赤ん坊を黙らせるべく手にかけでもしたならと、気が気でない。そのうえカラクリ屋敷でもあるまいに、この部屋だと思って入ると、べつなところから声が聞こえる。確かにここから聞こえると思って入った部屋にも、人っこひとりいない。一度廊下に出て耳を澄ませると、やっぱりいま出てきた部屋から聞こえてくるような気がする。

 そんな次第でずいぶん捜し回り、とうとう見つけた。

 ああ、聞いてみれば何てこたねえ、最初に入った部屋の床の間にちょこんと置かれていた。

 婆さんの姿はなかった。

 まあ、ひとまず赤ん坊が無事ならいいってんで、旦那は家に帰った。

 戻ったところ、玄関の外で父母舅姑から兄弟姉妹、雁首揃えて何やら大騒ぎしていた。

 無事見つかったと報せて赤ん坊を見せるとみな喜んだんだが、ふと旦那が見ると……家族親族の輪の中に、ちっちゃい婆さんがいる。荒縄でぐるぐる巻きにされ、後ろ手に縛られていた。縛られているんだが、いっしょになってよかったよかったといっている。

 これがな、いつもきてもらってた産婆だったんだよ。

「この婆さん、いつもの産婆だ」 というと、父と母とが口々に違う、さっき赤ん坊を抱えて逃げた産婆じゃないか、という。

 いや、さっき追ってって……と説明しても、聞かない。まあ、旦那が追った方は結局、どこに消えたか分かりゃしないわけだからな。分が悪い。一方、舅姑の方は旦那に味方した。いわれてみれば、似ているようでもちょっと違うと。

 こうして大騒ぎしているうちに、おれのオフクロの家で見つけたんだ。うちの爺さんだったかな……見つけたのは。便所の窓から煙が出ている、火事だってな。

 それでみんな慌てて産後まもなくのカミさんを引っ張りだし、消防を呼ぶ、警察を呼ぶってまたひと騒ぎしたんだが、火の手の回るのが異様に早くて、とうとう全焼してしまったという。

 オフクロの実家にも火が飛んで、植え込みがほとんどやられちまったんだが、これは本題と関係ないやな。

 それにしても、赤ん坊を抱えて出ていった婆さん、何者だったんだろうな。カミさんに聞いてみれば、やっぱりその日きた婆さんはいつもの産婆とは違う人物だったという。

 いつもきていた婆さんも、べつに急用なんかなかったし、そんな婆さんに頼みなどしなかったと証言した。

 警察にも届けたんだが結局、分からんかった。

 近所の人に、こんな背格好の婆さんが……と聞いて回っても、知ってるもんはおらん。

 産婆であるかさえ分かりゃせんが、とにかく赤ん坊を無事に取り上げはした。いやいや……産ませる。確かに赤ん坊を持って逃げたけれども、取り上げるってそういう意味じゃない。産ませるってこった。

 まあ、そういう心得はあったのかもしれんな。逆に当時のことだから婆さんが若い頃、出産の経験があって、それをもとに見様見真似でやったって疑いも捨てきれんが。

 それに、この騒ぎのおかげで、すなわちこの怪しげな婆さんのおかげで、誰も火事で怪我しなかった……と、こういえなくもない。

 こんなわけで、いまに至るまで婆さんの正体は知れずじまいなんだが……あんたはどう思う?


   第七夜 A神社秘話

 伊勢神宮は別格としても、神社には格付けがあるそうですね。

 何でも延喜式という平安時代の法律にも載っている神社が、かなり格の高い神社とか。

 その延喜式にも記載されている、由緒ある神社のお話です。

 名前はちょっと……差し障りがあるといけませんので、かんべんしてください。近畿地方のとある神社に伝わる話です。

 仮に名前をそう、A神社としておきましょう。

 私の祖父がA神社の氏子総代を長年していたそうで、その間にあったことといいますから大正年間か昭和の初めか、とにかくその頃の話です。

 ある年、日照りつづきで一村誰もが困り果ててA神社に請雨をお願いしたそうです。

 はい、雨乞いですね。祝詞をあげてもらった。

 すると翌朝早く、火事だといって半鐘が鳴った。

 みな慌てて起きだしてきて、誰ともなく指さす方を見ると、A神社の背後の山に煙があがっている。すわ山火事かと、若い衆が三々五々駈けつけてみたところ火の煙ではなく、靄か霞か、水蒸気状のモヤモヤしたものが山いちめんを覆っていました。

 若い衆はもちろん火事じゃないぞと村中に知らせに戻ったわけですが、その間にモヤモヤしたものが山を下りてきて、雨が降りだしたそうです。

 山を下りる若い衆を追い越していったわけですが、なぜか若い衆はだれも濡れなかった。

 雨に濡れるのもかまわず、よかったよかった、これで秋は大丈夫だとみな胸を撫でおろしました。

 ところが奇妙なことに、雨が降ったのはA神社の氏子区域のみだったんです。

 ちょうど隣村との境に立つと、こっちの畑は潤っているというのに向こうはカラカラ、気の毒なくらいだったと祖父はいっておりました。

 またあるとき、台風で境内の木が数十本、倒れたということがあったそうです。

 寄り合いにて、倒れたもんはしかたない、いつまでも放置しておくわけにもいかんし、売ろうということに決まったのですが、次の日の朝、木がなくなっている……いいえ、みんな起き直って元通りになっていたというんです。

 確かに幹が折れていたはずなのに倒れた事実などまるでなかったようで、枝や葉が地面に落ちているのみだった。

 そして、これは偶然なのかどうなのか、木を売ろうと提案した人がまもなく急死したそうです。

 木といえば、A神社の境内には椿の大木があって、梢でちょうどほぼ半分に枝分かれしていました。

 この椿、常に枝分かれした一方が枯れ、一方が茂っている状態だったそうです。

 これがある年には枯れ、ある年には茂る。

 いえいえ、代わりばんこではなく、数年つづけて茂る年もあれば枯れる年もあったといいます。

 そして枝が茂った年には、この枝の方向にある地区が豊作。

 枯れた年には実りがよくない。

 すべて枯れんときには、われこの社にあらじ……そんな託宣があったようなのですが、これは祖父が生まれる前の話で確かではありません。

 はい、この椿の木は現存しています。私も数年前に見ました。

 いまはこのA神社、延喜式にも載っている古い神社だというのに、お宮はあっても神主さんは住んでおりません。

 それでも、きっと神様がいらっしゃるんでしょうね。

 すると……いえね、こんな恐ろしい神様はありませんよね。

 なんせ、雨を氏子区域だけに降らせたり、倒木を元通りにしたりするんですから……ちゃんとお祭りされていることを、祈るばかりです。


   第八夜 窓硝子の横顔

 まあ昔話ですから、そのつもりで聞いてください。

 東京都内の、とある高校でのできごとです。

 ある生徒、名前を仮に細川としましょうか。

 朝、ホームルームが始まる少し前くらいに、生活指導の先生が細川のクラスに現れましてね、「おい、細川。お前の生徒手帳を出せ」という。生活指導を受けた記録が生徒手帳に書かれることになってたんですね、その高校では。

 細川は非行歴……今はそんな言い方、しないんですかね。まあ、問題児ではあった。ふだんから教師に反抗的な態度をとる生徒だった。

 けれども、急にそんなことをいわれても、理由がわからない。

「生活指導を受けるようなことなんかしてない」

 細川はそういったんです。

 すると先生は「昨日おまえは、どこそこのクラスの女子生徒と手をつないで歩いてたじゃないか」という。

 今ではちょっと理解に苦しむところですが、当時のことですから実に他愛もない話で。それで生活指導だ、ってんです。

 細川は、誤解だといって抗議したんですよ。

 すると先生、いきなり細川を殴りつけた。

 手をつないでいたかどうか、真相は今でもわかりません。でもね、細川だって血気盛んな年ごろですからね。同級生が見ている前だし、やられたままじゃ、ってんで、反撃したんですね。

 殴られた先生も、鼻を骨折しましてね。

 それが原因となって、細川は退学処分になったんです。

 一度細川は停学処分を受けていましてね。細かいところはもう忘れましたが、タバコかカツアゲか、そんなところでしょうね。

 そのとき、何とかチャンスを与えて欲しいと懇願した先生がいまして、まもなく進級したときのクラス替えでは、担任になったんです。

 かりに、嶋津先生としておきましょうか。

 細川の退学前後、嶋津先生は相当苦労されたんです。

 細川の親が衆議院議員とコネを持っていましてね、そっちの方から何とか退学は撤回してくれと申し入れてくる。校長の方は一度下した決定だと、にべもない。それを覆すことは沽券にかかわる、というわけなんでしょう。

 その一方で、校長は職員会議で嶋津先生の指導法を頭から否定するようなことをいうようになり、そのうえ職員室内の席をなくして物理地学講義室に移動させたりした。

 嶋津先生は生徒思いでしたからね。やっぱり細川の退学は不本意だったでしょうし、どちらかといえば、管理職を目指すよりも生徒に向き合って定年を迎えたい、そんな先生だった。

 悪くいえば……いや、悪いのかな。どうなんだろう。純粋だったんでしょうね。

 残念なことに、それからまもなく嶋津先生は電車に飛びこんで、死んでしまったんです。

 これは今でもはっきり憶えておりますが、飛びこんだのは西武新宿線のとある駅で、時間は午後12時36分でした。

 ところがまさにその時間にですね、校庭をふらふら歩いている嶋津先生の姿を見た人がいたんです。

 その日の放課後、生徒数人が物理地学準備室を通りがかったところ、ああでもない、こうでもないと呟いている嶋津先生を見たともいいます。

 これだけなら錯覚で片づけられるんでしょうが、嶋津先生が亡くなってからの混乱がおさまって……だいたい一週間ほどあとでしょうか。校舎の窓のひとつに、嶋津先生の横顔が浮かびあがった。

 いえ、これがどう見ても、嶋津先生なんです。

 本人を知っている人みんな、あれは嶋津先生だって口を揃えていうくらい、生前そのままの横顔なんです。

 鼻の高い人でしたから、その鼻筋がすーっと通っているところもそうですし、顎のあたりの輪郭や、ちょっと癖のある髪の毛のぐあいまで、本当に瓜二つだったんです。

 ええ。苦しんでいる顔だという生徒もいれば、笑っている表情だという者もいまして、そのあたりは両極端でしたね。

 これが、掃除しても消えなかったんですよ。

 いえ、ラッカーなどではないですね。油絵具の類でもない。

 あえていうなら、煤のようなもの。色とりどりの煤のようなものが窓ガラスにべったり貼りついていて、何度掃除しても、強力な洗剤をつけてこすっても、全く落ちませんでした。

 嶋津先生の四十九日過ぎますとね、いつのまにか消えてしまったんですがね。

 生徒のいたずらだったんでしょうか。

 嶋津先生は、慕われていましたから……。校長から今でいうパワハラを受けていると聞いた生徒が、義憤にかられて何か行動に移さなければと考えて、その結果が……。

 特殊な顔料かなんかで書いて、書いた本人だけがどうすればすぐ消せるか知っていた……。

 ただ、あの横顔は……横顔自体は、煤のようなもので描かれていたといっても、ほとんど写真に近かったんです。それくらい、リアルだった。

 外から見たら、周囲とは縮尺のあわない嶋津先生の生首が、窓の内側に浮かんでいるように見えていた。いや……これはご本人に失礼ですが。

 美術部の生徒の連中には、とてもあんなにリアルには描けなかったはずです。

 細川……ですか?

 細川はその後、よその高校に転入したって聞きましたが、そのあとのことはわかりません。

 ええ、そうなんですよ。私はこの話の中の、生徒指導の教師です。

 わかりますよね、すぐに。隠していたつもりはなかったんですが、今日は自分を客観的な立場においてみたかったもので。

 私は確かに、細川が女子生徒と手をつないで歩いていた、と聞きました。その件について細川に真偽を問いただし、生徒手帳にそのもようを書くつもりだった。

 手をつないでいたかどうかなんて、どうでもよかったんです。ただ、そんな噂を聞いたから本人と話をした旨、記入する。それだけの話だったんです。

 いやあ……。細川を刺激しないように、当たり障りなく接するなんてことはあの当時、できませんでした。

 暴力。うん、そうですね。

 体罰、というより、暴力ですよ。

 当たり前のように生徒を叩いたり、蹴ったりしていた。

 私もそのころ、よく生徒から叩かれたり、蹴られたりしていたもんです。

「そういう時代でした」で片づけたいんですがね。そういうわけには、いかんのです。

 細川は退学処分にしない方が、よかったんじゃないか。校長の横暴に対して、他の教師といっしょに立ち向かうべきだったんじゃないか。そうすれば、嶋津先生のようないい先生が、あんなことにならずに済んだんじゃないか。

 あれこれ考えると、もう、たまらんのです。

 悔いることばかりです。

 今でもね、この話をすると鼻がうずくんです。

 はい。細川に折られたところが、です。

 もちろん今こうして話していても、うずいていますよ。

 細川、元気にやっとればいいんですが。


   第九夜 箱の中

 こりゃあ前から温めてたんだが、誰にも話しちゃいない。これが初めてだ。ああ、俺じしんの話。

 去年の秋口、犬を散歩させるってんで、浜を歩いてたんだな。

 ああ、大きい方だ。小さい方はガキに散歩させてる。大きい方はタロー、小さい方はノラクロ。ガキにゃ力が足らんから、タローは俺が散歩させてるんだ。まあそんなこた、どっちでもいいや。この話にゃ関係ねえ……。

 で、タローがあっちこっち、フラフラしながら例のごとく砂や流木なんかを臭ってたんだが、急に吠えだしたんだな。

 いやあ、ガラはでかいがおとなしい犬なんだ。

 だいたい、タローたって雌だ。生まれてすぐにもらってきたんだが、確かに雄って話だったんだがな。雌だと気づいたときにゃ、もう遅い。タローって呼ばんきゃ返事もせん。だからいまでもタローのままだ。

 そのタローの鼻先を見ると、これくらいの……五寸角くらいの箱があった。彫りも塗りもなにもない、全くの素木。表面に蓋があってツマミがついてる。それを引っ張ったら、開きそうなもんだろう? だが開かん。

 押しても、ひねっても駄目。

 その周囲に小さい木の板があって、それを正しく動かせば開くらしい。箱根細工の……秘密箱だったか。そんなもんだ。

 振ってみると、なにか入っているらしくカサカサ音がする。まあ気にも留めないで家に持って帰ったんだが、玄関脇の靴箱の棚の上に置いたんま、忘れちまった。

 ああ、タローはワンワンいってたんだが、全然これも気にならんかったんだが、こいつ、やっぱり賢い犬だったんだなあ。

 それから二、三日たった晩にな、ガキが突然ギャアギャア泣きだした。

 小学校五年生だ、ふだんから泣きたくっても我慢しろっていってんのに、なにをうるさくわめいてるんだって叱りつけるつもりで声のする方に行ってみたんだが、これが、いねえんだよ。

 仏間にいると思って入ってみたら、茶の間の方から声がする。茶の間に入ったら、玄関で泣いているのが聞こえる。玄関に行ってみたら、こんどは寝間だ。

 腹も立ったし、うるさくてたまらん。この騒ぎを聞きつけてかノラクロが吠えだして、タローまでワンワンやりはじめた。

 いやあ、自慢じゃないが六畳ふた間と四畳半ふた間の狭い家だ、どこに隠れていやがる、妙な悪戯しやがって、って捜しまわったんだな。いやあ、まだそのときゃ飲んじゃいない。シラフもシラフ、大素面だ。晩めし前だったしな。

 しばらくそうやってウロウロしてたら小便したくなって、便所の戸を開けたんだが……いや、たまたまには違いないが、それがよかったんだ。そこに、ガキがいやがった。

 まずギャアギャア泣き叫んでるのを二、三度ひっぱたいて黙らせた。それで小便してから茶の間に引っ張ってって、聞いたんだ。ずっと便所にいたのかってな。

 そしたら、いたっていう。

 便所に閉じ込められて、出られんかったんだ、と。

 小便して、こう振り返って、戸を開ける。そしたら、向こうも便所だった。いったん戸を閉めて、もう一度開けてみても、やっぱり便所。どうやっても便所。

 小窓がひとつついてるんだが、そこから出ようとは考えんかったらしい。そこで八方塞がり、ただ泣きわめいてたってところは、まだガキだなあ。

 そんなことあるもんかって、また引っぱたいたんだが、俺だって怖かった。そりゃあガキが見つかってよかったし、文字通りの雪隠詰めなんてかわいそうだ。だがなあ、ガキの声はあちこちから聞こえてきてたし、便所だって何度も戸を開けて見てる。見逃すはずがないんだ。

 そこでふと気づいた。ガキのズボンのポケットが妙に膨らんでる。

 おい、なんだそれはって手を突っ込んで引っ張りだしてみたら、これが件の箱よ。

 蓋が開いていて、中にボロボロの紙が入っているのが見える。

 開けたのかって聞いたら、開いたって返事。どこをどうやったのか、触っているうちに開いたっていうんだ。

 たまたま開いたんだろうが、こいつはブルブルきた。俺がどうやっても開けられなかったもんが、なんでガキにできたんだ。こいつ、魅入られたんじゃないかってな。

 嘘つけって怒鳴ったんだが、なぜ嘘つけなんだかじぶんでも分かりゃせん。

 こうしてゴタゴタやっているうちに、嬶が帰ってきてな。まあ、近所で茶飲み話でもしていたらしいんだが、ガキが安心しやがったのか、また火のついたみたいに泣きだして、仕方なくこの騒ぎの顚末を話したんだ。

 すると、嬶はその箱が原因だという。若い頃から妙に迷信深いんだよ、嬶は。

 じゃあもとあった場所に捨ててくるっていったんだが、駄目だという。

 捨てる、駄目だで押し問答、ガキは泣き止んだかと思うとまたビービーやりだす。犬が吠える。とうとう俺の方が折れて、捨てに行くのは止めにした。

 さらに嬶いわく、お寺さんで供養してもらえって。

 うん、おとなしくいうことを聞いたよ。つぎの日に持って行くことにして、箱は玄関脇に置いておいた。それから、また閉じ込められちゃいかんてことで、便所の戸は開けっ放しにしておけっていう。臭くてたまらんかったが、まあ仕方ない。ガキがいなくなって捜しまわるよりましだ。

 だが夜泣きして、それがギャンギャンとひでえもんだから俺は眠れんかった。嬶はイビキかいて寝てやがるし……犬はおとなしくなっていたが……全くあれは、たまったもんじゃなかったな。

 つぎの日、朝めしを食ってすぐに金剛寺へ持って行った。うん、爺さんも婆さんもくたばったときに世話になった……そうそう、それ。菩提寺。菩提寺の金剛寺。坊さんは朝のお勤めの最中ってんで待たされそうになったんだがな、カミさんに無理やり箱とお布施を渡してサヨナラした。

 帰り道、ホッとして鼻歌うたいながら歩いてたら、うしろからオウイオウイと声がする。振り返ったら、これが坊さんなのさ。箱を小脇に抱えてるのが遠目にも分かったんで、俺は駈けだした。返品は困る。嬶にゃ怒られる。ガキの夜鳴きはごめんだ。

 一町ばかり走って、もう一度振り返ってみた。坊さんをどれだけ引き離したかってな。ところが、なんと近づいてきてる。衣に袈裟、雪駄ばきだぜ、俺なんか息をきらしてるってのに。慌ててまた走りだしたんだが、とうとううちの玄関前でつかまっちまった。

「おまえさん、これをどこで手に入れた」

 さすがにゼイゼイいいながら坊さんが聞いてきたんで、

「なんでか知らんが、いつのまにかうちにあった」 と適当に答えた。

 すると右手を俺の肩にかけて息を整えながら、中に入っているのはマリシテンの御札だっていう。マリシテンがなんだか知らんかったが、ありがたい仏様なんだってな。

 俺はあんまり坊さんの足が速いもんだから、イダテンじゃねえのかって聞いたら、違う、マリシテンだと答えた。マリシテンの術に身を隠すってのがあって、それが悪用されてる、開けたらただじゃすまない、変わったことはなかったかと聞く。真剣な顔だったよ。

 その権幕にどう答えたものか迷って、俺がムニャムニャことばを濁していると、封印すれば後難はないっていうもんだから、ついに本当のことを話さなんだ。預けちまえば終わりだって分かったからな。坊さんも胸を撫でおろした様子で、それならいいっていい残して帰っていった。

 ただの生臭坊主だと思ってたんだが、俺は坊さんを見直したね。

 いや、それから変わったことはなかった。封印もキッチリしてある。うん、今年の春の彼岸にお寺参りしたとき、御本尊のうしろにその箱があるのを見たんだが、何重にも縄で縛ってあってなにか御札が貼ってあった。

 ただなあ、いまだに便所の戸は開けっぱなしよ。冬はともかく、いま時分なんか臭くてかなわん。ボットン便所だからな、便器に蓋してても臭ってくる。それでもまあ……ガキが雪隠詰めになるよりはましだろうよ。


   第十夜 廊下のつきあたりの黒い影

 こういっては何ですが、私の実家はそこそこの旧家です。

 火事にあったり白蟻にやられたりして何度か建て替えたり、建て増ししたりしてはいますものの、家屋のうち、いちばん古い部分は幕末の頃にできたと聞いております。いいえ、自慢するつもりはなく……田舎におりました頃にいい記憶はあまりございませんし、いずれ故郷に帰ろうとも思っておりません。いまはお盆と年末年始に帰省するくらいでございます。数日過ごしただけで何だか気がめいってくるようで、そう長くはおりませんけれども。古い家ですから薄暗い場所が多くて、それで鬱々としてしまうのでしょう。実家には生まれてから高校卒業まで住んでいたというのに、いちど離れてしまったからでしょうか、その陰気さがもう、耐えられないのです。

 今年のお盆に帰省したときのことです。

 その日、私は居間で昼食を終え、かつて使っていた自分の部屋に戻ろうとしておりました。

 通常は縁側に面した廊下を通っていきますので、そのときもまずは廊下に出ました。

 そうして歩きだしてすぐ、前方、廊下のつきあたりに何やら黒い人影が見えたのです。

 弟か、と思いました。弟はあまり家族といっしょに食事することがなく、そのときも「後で食べる」といって、じぶんの部屋で何かしておりましたので。昼食をとる気になったので、居間に向かうところなんだと思ったわけです。

 でも、弟にしてはその人影、ずいぶん小さい。弟の身長は百八十くらいです。夏ですから左手の縁側は開け放っていましたし、南に向いていて差し込む光も強いため、私の眼の加減で小さく見えているのか……そう思いました。

 立ち止まって見ると、その人影は廊下の突き当たりに立っており、右手でしきりに頭をかいているようなしぐさをしています。

 弟がそんなしぐさをするときとは、どこか違う。やっぱり弟じゃない。じゃあ、いまそこにいるのは誰なのって、私は身構えました。

 泥棒だとは思いませんでした。何だかのんびりしているような印象でしたし。近所の人が勝手にあがり込んできているんだろうと。田舎ですし、そう珍しいことではありません。

 それにしても暗い廊下のつきあたりで、なぜ頭をかいているんだろう。

 こちらに向かってくる気配こそございませんでしたが、そこを通らなければ、じぶんの部屋に戻ることができません。いえ、いちど居間に戻ってから、じぶんの部屋に向かうこともできるのですが、遠回りになります。

 遠回りすべきか。あくまでこのまま進み、黒い影の脇を通り抜けるか。

 私はその影を廊下のつきあたりに見据えながら、迷っていました。

 あいかわらず、黒い影は右手で頭を……そう、頭をかいていたのでございますが、そのうち私は変なことに気づきました。

 右手が動くにつれ、その下の方で何かが揺れ動いている。目をこらすと、どうやらそれは着物の袖らしい。黒い影は、黒い着物を着ているようなのです。そのうえ、袖には白く家紋が染まっていて……それはうちの家紋だったんです。

 はい、そうです。それで近所の方でもないんだと、はっきり分かりました。

 私は一度気が遠くなりかけたんですけれども……ハッと急に意識がはっきりしたので、慌てて回れ右をして、居間に逃げ込みました。

 居間には祖父と弟がいました。弟は昼食中、祖父は煙草をふかしながら、ボーッとテレビを見ています。居間につづく台所では、母が流し台に向かって皿を洗っているようでした。

「あら、あんたごはん食べてたの?」と弟に聞くと、ああ、とぶっきらぼうな返事をして、そのままごはんを食べつづけています。

 それ以上聞いたらうるさがると思いましたので、

「ねえ、いま誰かきてるの?」と、これは誰にともなく尋ねると、みんな、誰もきてないと口々にいいます。

「いまね、そこの廊下の突き当たりに黒い影が……頭をかいてる」

 私がいうと、祖父がおいっと叫んで、さえぎりました。

「黒いやつか、着物を着た」

 そうだと答えると、祖父は煙草の火を灰皿に押しつけるように消して、こう尋ねました。

「どっちの手だ?」

「え……手って、何? おじいちゃん……」

「頭をかいてた手。かいてたのは、どっちの手だ」

 祖父がそんなに怖い顔をしているのは、初めて見ました。

 右手、と答えると、祖父はハアーッとひとつ、長い溜息をついて、

「ああ……よかった、右手だったか」といいました。

 ふと気づくと、母がいつのまにか台所と居間の間に立っていて、私を見ています。弟はと見ると、これも箸を止めたまま、かたまっています。

「えっ、いったい何なの……あの黒いのが何だっていうの?」

 すると、祖父が座りなさいと私を促したので、私は祖父と向かい合ってソファーに腰かけました。

 祖父がいいました。

 この家には、たびたびそんな黒い影が現れる。

 いつも着物姿の女性で、頭をかくようなしぐさをしている。右手で頭をかいているのを見たならよいが、左手で頭をかいていたなら見た者はまもなく死ぬ。この家の者が死ぬときにはみな、必ずその女性を見ているんだと。

 初めは弟かと思ったと私がいうと、弟はやめてくれよと叫んで憮然としておりましたけれども、これは単純に私の印象によるもので、これまで見た人はみな女性だったといっていたそうです。

 しかしながら、その黒い影……死期を知らせるときだけ現れて、左手で頭をかけばいいんじゃないのと思いますのに、なぜわざわざ右手で頭をかく姿を見せに現れるのでしょう。祖父もそこまでは知らないとのことでした。

「どうしていままで教えてくれなかったの?」と聞くと、いや話した、と祖父はいいます。

 私がまだ実家に住んでいた頃に……ですが、どう考えてみても聞いた記憶がありません。

 そのうえ、母と弟は、確かに祖父がその黒い影のことを私に話していた記憶があると、口々にいいます。

 聞いた、聞かないで、それ以上もめたくありませんでしたので、結局私が折れることにしました。ええ、それから? それからは……部屋にはもどらず、一時間ほど居間でダラダラすごしてから廊下に出たら、その黒い影はもう消えておりましたよ。

 お盆が明けると私は実家をあとにし、東京にもどったのですが……それから何となく体調がすぐれないのです。

 寝ても眠りは浅いし、疲れは取れないし……もともと持病があるわけでもなく、身体のどこが痛いのでもありません。何となく具合が悪い。いまも、重い睡眠不足のようにボーっとしているんです。はい、お医者さんに参りまして、いくつか検査を受けました。でも、悪いところは見つからなかったんです。

 祖父には、少し認知症が出ております。

 ふだんいっしょに暮していないので、どの程度なのかはこの目で見てはいませんけれども……。ひょっとしたら祖父は、左右をまちがえているのではないでしょうか。そうだとすれば、私は死んでしまうのではないか。

 近頃、そう疑っております。

第11話~第20話

   第十一夜 薩摩焼の土瓶

 昔、吉原に洲崎卍という妓楼がありました。

 この妓楼に所属する、ある遊女についていたカムロが、誤って土瓶の蓋のつまみを壊してしまった、ということがありましてね。

 ええ、カムロは遊女の世話をする女の子ですな。漢字で禿と書きます。

 その土瓶は遊女がとあるなじみの客から贈られたもので、値の張るもの。薩摩焼だったそうです。

 遊女は大いに怒り、かつ罵って、ついには煙管を取って、カムロをビシッと打ちつけたのです。

 するとカムロは、よほど打ちどころが悪かったのか、そのまま死んでしまいました。

 以後、その妓楼では土瓶を買うたびに、蓋のつまみがみな一夜のうちに失くなってしまうようになったそうです。


   第十二夜 湖上にて

 わたくしにもひとつやふたつ、怖い目にあったことがございます……ないようで、あるもんでございますな……今日はそのうちのひとつをお話ししたいと存じますので、どうか御静聴願います。

 舞台はわたくしの田舎、この間、釣りに行ったときの話をしましょう。ええ、わたくし、釣りが好きでして……ああ、御存じですよね。いやア、笑っちゃ怪談になりませんよ……いや、いや、……釣りの話は最低限にとどめますから。

 では気を取り直して……わたくし、仕事が休みになるたび、あちこちに出かけては釣糸を垂れとります。朝早くから出かけて日が暮れる頃まで家に帰らないこともございますし、たまには夜釣りにも参ります。わたくしが留守していると、女房が喜ぶもんで……。

 場所は……節操のないことながら、どこでもよいのです。渓流を登っていったり、海でも湖でも舟を浮かべたり……わたくしの田舎のいいところは、海もあれば湖も川もあるから多彩な釣りが楽しめる。太公望にはよいところです。釣れても釣れなくてもいい……いいえ、ほんとです。本当ですよ。

 人によるんでしょうが、わたくしの場合、釣りの醍醐味をこんな風に考えとります。

 ひとりでぼうっと魚がかかるのを待つ……待っていると、何だかじぶんというものがだんだん曖昧になって、周囲の空気の中に溶け込んでゆく……このままいけば、じぶんがなくなってしまうんじゃないか。錯覚に過ぎんのですが、そんなことがたびたびあるんです。これが醍醐味……。

 いえいえ、寝てない、寝てない。眠りに落ちるのとはちょっとちがいます。意識はわりとハッキリしてるんです。まわりで何が起きているかも、ちゃんと分かっています。気づいたら魚になっていて、釣り上げられたとたん、はッと目を覚ました……なんてことがあったら、何やら『荘子』の一篇じみて参りますけれども、幸か不幸かまだそんな経験はございません。

 いやいや、不快なことは決してなく、むしろ心地よいくらいのものです。春の終わりや秋の初めの天気がよい日、そこに微風が加われば最高です。

 それで……この春のことです。五月の初め、十日頃でしたか……やっぱりその日もよく晴れて暖かく、そよ風が吹いていました。絶好の釣り日和です。

 わたくしは当別湖の大沼の方にボートを浮かべて、釣りをしておりました。大沼と小沼とあって、小沼の方にはよくクマが出るんでいきません。

 女房に弁当をつくらせて、日の出と同時に出かけたんですが……いやア、肝心の釣果の方はサッパリでした。ヒメマスが二尾か三尾……そんなの、釣りのうちに入りやしません。

 だいたい、釣果第一の人ならば同じように出かけていったら、もっと釣っていたでしょう。トロいからだ? はい、全くそのとおりでして……そのときも、やっぱりボオーッとしとりまして、竿をあげると餌が食われている、でもいつ喰われたかはわからない……とまあ、こんな体たらくでして。

 そのうち腹が減ってきたので、舟縁に竿を固定しておき、弁当をつかいました。時計を見るとちょうど昼頃、お日様はほぼ真上にあって、風はあっても湖面に全く波が立たない程度。ぬるま湯にじっと浸かっているかのように、非常に心地よい。

 弁当を平らげてからは、お茶を飲みつつまた竿を取ったんですが、しばらくたつとまた、だんだん……ともすれば、じぶんが周囲のさわやかな空気に溶け込んでしまうんじゃないかって境地になってきました。

 ああ、こりゃ極楽だ。気持ちがいい。じぶんが、溶けてゆく……こんな夢うつつの状態がずっとつづけばいいのに……そう思いますけれども、うまくいかないもので、やがてハッと我に返る瞬間がきます。いいえ、毎度のことです。残念ながら……身体がビクッとして、ああもうちょっとで、じぶんというものが周囲の空気の中に、完全に溶け込むところだったのにと、残念になります。

 おそらくは、その一歩手前のところだったと思います。

 バンと音がして、同時にわたくしは弾かれたようになって現実に引き戻されました。初めは魚がかかったかと思って釣糸を見ましたが、力なく揺れているのみ、何の異状もありません。何かぶつかったんじゃないか……じぶんの膝の前に何気なく目をやったところ、思わず叫んでしまいました。

 白い手がふたつ……舟縁をつかんでいたんです。

 いえ、もう身をかたくして、そのまま見守るしかありません……どうしてよいものか全く分からない。はい、はい……確かに手袋と見間違えたのかと。

 でも、動いているし、関節をこう曲げて、力を込めている。船縁をガッチリつかんでいました。小さいし、指も細いし、こりゃあ女性の手です。指輪? 指輪はそうですね……はめていなかったと思いますが……いや、よく分かりません。はめていたかもしれません。

 どれくらいたってからか、じぶんが荒い息をしているのにふと気づいて、それと同時に身体が動かせるようになりました。余裕が出てきたからでしょうかね、こんな考えが浮かんだんです。

 溺れた女がたまたまわたくしの舟のそばで息を吹き返して……慌てて船縁をつかんだのかもしれない。もしそうなら助けてやらねば、と。そこで恐る恐る船縁の向こう、水面下を覗き込んだところ……。

 あったのは、腕だけだったのです。白い腕が二本。いや……綺麗なもんでしたよ、水は。当別湖は、最深部で二メートルくらいでしたっけ。底の藻がゆらゆら揺れていたり、小魚が泳いでいたりするのがハッキリ見えましたよ。

 腕だけ、とは……肘から先の部分です。指の方では舟縁をガッチリつかんで、下の方はパタパタと不規則な動きで、もがいている様子……こいつ、這いのぼろうとしてる! そう思った瞬間……いやはや、お恥ずかしい話ですが、たぶん絶叫したと思うんですよ。何度も何度も……。

 そのとき、誰かが遠くで呼んでいるのが耳に入ってきました。振り返ると、見たことがあるようなないようなお年寄りが、手を振っています。

「だいじょうぶか」「おうい、どうした」などと叫んでいる。

 えっ、と思いました。そこ、川だったんです。苦茶路川……はい、はい……そうです。苦茶路川は当別湖につながっていて……ええ、釣りをしていたのは、確かに当別湖でございます。はしけから舟を出して、湖の中央までこいで、そこで白い手が舟縁をつかんで、と、これまでの記憶を思い起こしてみましたけれども、とうてい川に入り込むとは考えられない。晴天つづきでしたし、苦茶路川の水流はそう速くありません。流されたにしても、ほどがあります。

 白い手はと見ると……もう消えていました。

 それから舟を岸に寄せて、お年寄り……伊藤さんの御隠居に、だいじょうぶだ、ありがとうと声をかけました。御隠居は畑仕事をしていて、わたくしの絶叫を聞いたとのこと。

 いやア、いいませんでしたよ、なにも……適当にごまかしただけです。竿を流されたとか何とか。家の近くで変なことがあったと怖がらせてもいけませんし、夢を見ていたんじゃないかと疑う気持ちもありました。

 礼をいって湖の方へ戻りはじめると、そこでまた……気づいたんです。時間が全然たっていない。湖の真ん中から伊藤さんの畑まで、五キロくらいですか、ゆるい水流に乗ってフラフラしていたというのに、まだ太陽が真上にあるし時計を見ると、正午過ぎ。針が戻っている。

 でも魚籠の中のヒメマスを見ると、腐りかけて変な臭いがしている。いくら好きとはいえ、こうなるとさすがにもう釣りどころじゃありません。ヒメマスは捨ててしまって、ひたすら舟をこぎ進めて、はしけが見えるところまできました。

 すると、そこに誰かが立っていて……近づいてみると、女房だったんです。迎えにきたことなんて一度もなかったものですから、何かあったのかと不安になりました。

 腕全体をつかって、おいでおいでしている女房を見ると不安がいや増しに増して、わたくしも懸命にこぎました。こうして声が届くところまでくると、女房は身を乗り出して、旭川に行ってくる、と叫びました。今急げば、午後一時の汽車に間に合うから来た……さっき知らせがきて、などと言っています。

 姪が……けさ、川で溺れ死んだ。

 わたくしからすれば、女房の妹の子。誰かに言伝でもすればよかったのにと思ったのですが、気が動転したものらしい。気づいたらここまできていたという。

 ……白い手が舟縁をつかんだのが、ちょうど姪の死んだ頃だっていうんなら平仄はあいますけれども、実際どうなのかは分かりません。何しろ、時間のたち方がおかしかったので……とにかく、女房がまず旭川に行って姪と対面、わたくしも翌日追っかけて、お弔いして参りました。いやいや、綺麗なものでしたよ。姪の身体に何か異状があったわけでもございません。

 手はしっかりついてた。

 春にこんなことがあって、釣りはよしていたんですが……でも先月の初めから、また始めました。これだけが道楽、好きなもんは好きで、こりゃあしかたない。四十九日も済んでないのにって、女房はぶつぶついいますけどね。

 舟は流される、時間はなぜだか戻ってる、そして白い手が舟縁をつかむ。そりゃあ確かに怖かったんですが、そんなことはめったにないと、たかをくくってるんで。

 ただ、フッと意識が途切れて、じぶんが周囲に溶け込みそうになる瞬間、これがちょっとだけ怖くなりました。ええ、ちょっとだけです……ほんのちょっとだけ。


   第十三夜 あかずのま

 おれの田舎に、荒木田さんて店がある。

 本とかCDとか文房具とか、そんなもので商売している。

 これは以前、べつな場所で呉服をあつかってたんだが、昭和十五年の大火で店を焼かれちまってなあ、それからいまの場所に移った。

 うん、町じゅう火事でやられたってことがあったんだ。子供の頃、爺様婆様からそのときのことをよく聞いたよ。田舎だからな、戦争より大事件だったってもんも多かったんじゃなかろうか。

 荒木田さんにしても話に聞くだけなんだが、前の店は浜寄りにござって、こりゃでっかくてなあ、建坪だけで百はあったんじゃないかっていう。使用人なんかがいっぱいいたことだろうし、部屋数も相当あったろうな。

 そしてその中のひとつに……開かずの間があった。

 開かずの間ってのは、開けることができない部屋ってんじゃない。おいおい話すが、怪しいことが起きる。だからその部屋をつかわない、開けない。それで〈開かずの間〉さ。

 町で大火があったその前だから、昭和十年くらいか……荒木田さんで新しく雇い入れた女中がな、ひどくいじめられたってことがあった。

 ああ、いまは女中と言っちゃいけないのか。お手伝い? うん……まあ女中でよかろう。

 いじめられてたわけは知らん。きっと、わけなんかないよ。そのときいじめた方に聞いてまわったとしても、ろくな返事しかできんだろう。

 このいじめ、そりゃあまアひどいもんだった。飯を少量しかやらない。番頭から聞いたことを伝えない。里からの手紙を捨てる。服に泥をつける。ハバカリに入っているときにシンバリ棒をかける……。

 いやア、主人は見てみぬフリだろうさ。

 へたに口出ししようもんなら、陰でこそこそと、しかも嵩にかかっていじめるに決まってる。孤立無援……それでも新米の女中はしょっちゅう泣きながらも、耐えていたそうだ。

 あるとき、この新米の女中が開かずの間に閉じ込められた……みんなこの部屋をおっかながっていたから、もちろんこれもいじめのひとつだった。

 新米の女中にとっては幸いなことに、きたばかりで開かずの間ってことを知らんかった。窓がないから暗いし、外の様子もわからないけれども、怖がりもせず、いつか開けてくれるだろうとひとり部屋の真ん中で待っていたんだ。

 しばらくするとなにか煮炊きするにおいがしてきて、晩飯の時間が近いと知った。

 アア今晩は飯抜きかもしれないと、新米女中はただでさえひもじい腹を撫でた。

 それと同時に、なんとなく部屋の中がざわざわしだした。

 耳を澄ますと、たくさん人がおり、話をしているようだ……なにをいっているのか注意してみたが、どうしても聞き取れない。気配があるだけ。両手で周囲を掻いてみても、空を切るばかりだ。

 それで一気に恐ろしくなった新米の女中は、身うごきひとつできなくなった。

 ただ……目をこらして暗闇をじっと見ているうちに、だんだん女の姿がぼうっと浮かびあがってきて……もっといっぱいいたはずなんだが、そこにいたのは三人。

 髪に長い笄をさしていたり、打掛を着ていたりと、ずいぶん昔風の女ばかりだった。

 そのうちの一人が新米の女中に、

「そなた、なぜここに入った」と聞いてきた。

 新米女中はもう、怖ろしくてたまらない。震えつつもわけを話した。

 するとその女が、「じゃあここから出してやろう。だが、われらがここにいたこと、ゆめゆめ語るなかれ」

 と、こう誡めつつ襖に手をかけると、スッと開いた。

 とたんに全身が弾かれたようになって、女中は自由に身うごきできるようになった。

 這って逃れてとなりの座敷に入ったとき、後ろでバンとものすごい音がした。

 思わず振り返って見ると、襖はもう閉められていた……。

 まあ、こういう話だ。

 それからいろんな人に、何度も聞かれた……どうやって開かずの間から出たんだ、と。

 でも、新米女中は決して口を割らなかった。

 何せ、話すなっていわれたんだからな。わけをいっちまったらあとが怖い。それでいじめがますます酷くなったんだが、いじめよりもモノノケの方が怖い。

 こうしてしばらくは我慢したけれども、開かずの間は怖い、いじめは嫌だで、とうとう耐え切れなくなってお暇を頂戴することとなった。

 いいや……うん、まだあるんだ、つづきが。

 この女中、実家に帰ってほどなく、嫁入りしたんだな……近くの農家だ。

 あくる年には子供も生まれて、幸せいっぱい。もちろん荒木田さんでの御奉公のことなんざ、忘れとった。祝言の前にはそりゃあ、荒木田って呉服店にいて、なんて話も出ただろうが、いっしょになってからは女中改め嬶も、昔話なんてせんかった。つらいことばっかりだったんだからな。

 ところがあるとき、旦那がふと聞いちまった。

 前にいた呉服屋って、どんなところだったんだって。

 うん……べつに深い意味なんてなかったろうさ。もちろん、終わったことを詮索する気もなかったんじゃないか。

 嬶はな、そうそう、そのとおり……ついつい開かずの間でのできごとを話してしまったんだ。

 開かずの間に閉じ込められて、そこには女が三人いて……ってな。

 それでなあ……話が終わった瞬間。

 嬶が上半身を突っ伏すような恰好で、倒れっちまった。

 慌てて旦那が駆け寄ってみたら、口から泡をふいてる。

 救急車を呼んだんだが、助からなかった。急な心臓発作だったんでしょう、で終わり。

 だが、弔いのときに旦那が気づいたんだけれども、嬶の首筋に、針金で締めたような細い筋が一本あった。夫婦で話をしていたときに、部屋には誰もいやしなかった。医者は藪だったのかどうかは知らんが、針金みたもんで締められ、息ができなくて死んだとは見立てなかった。

 じゃあ、首に残っていたこの赤い筋は何なんだ……旦那は、開かずの間の話を聞いちまったからな。

 話すなっていわれていたのを話しちまったから死んだんだと……そう疑った。

 それで……この旦那……この旦那ってのは、おれの伯父なんだが……伯父が、この話をおれにした。

 ああ、この間、御歳九十三で亡くなったんだが、頭ははっきりしてたよ。おれよりまだ頭がいいじゃないかってくらいだった。その伯父がなあ、ポックリ逝く前の日になぜかこの話を聞かせた……とまあ、こういうわけだ。

 いや……違うちがう。こないだ死んだのは、また別な伯父だ。

 じゃあ赤い筋が首にできたかというと、それが、やっぱり現れたんだ。いやいや……まもなく消えて、跡は残らんかった。

 それで今日、この話をして首に赤い筋が……針金で締めたような跡ができるかどうか、ひとつ試してみたいと思ってな。

 いやいやいや……そりゃない。死にゃせんだろうよ。

 ん? うん、安請け合いじゃないったら……だいたい、その開かずの間、すでになくなっちまってるんだからな。

 開かずの間にいたとかいうモノノケも、どっかに行っちまったんじゃねえか。

 ああ、そうさ。いったじゃないか。

 昭和十五年の大火で、焼けちまったんだよ。荒木田さんの前の店は……。

 死にゃせんだろうが、最後にいっておく。

 おれにもやっぱり、首に赤い筋ができた。うん、そんな馬鹿な話ねえと思ってな、オッカアにしゃべっちまったんだよ。

 ただなあ、おかしいんだ。

 伯父んときは消えたんだが、おれのは消えねえんだよ。

 もう半年くらい前に話したってのに、薄くなりもしない……ああ、オッカアは誰にも話してないらしい。話す気もないってさ。

 いやいや、大丈夫だろう。

 おれ、話してすぐに死なんかったからなあ。


   第十四夜 幽霊アパート

 以前、私は個人経営の塾をしていまして、教え子のひとりに、家がお寺って子がいました。

 その子から聞いたんですが、お寺の向かいに建っているアパートで、幽霊が出ると。

 高校生の話ですから、最初はふんふん聞いていたんですよ。築十年ほどだし、外観も今風でね。だいたい、お寺の向かいなのに成仏してない霊がさまよっていていいのかって、笑っていったんですよ。

 それでも「出るもんは出るんだ」なんていうんです。

 夜、顔が血まみれの女が壁からぬっと現れて、部屋をつっきって向かいの壁へと消えていく。つまりは、その部屋を通り道にしているわけですね。

 このアパートには、表通りに面して駐車場がありましてね。なぜかはわかりませんが、そこをぐるぐる回っている女の姿を、見た者もいるっていうんです。ああ、それは顔が血まみれじゃなく、また別の女性なんですがね。

 ざっとこんな噂話が、教え子の周辺で話題になっていたそうです。恐らく虚実ないまぜになって、尾ひれもついているんでしょうけどね。

 教え子の父、つまりご住職がいうには、かつてアパートのあった場所には馬頭観音が祀られていた。でも、よそに移転してしまい、その鎮めがなくなったから現われたものだろう…そういっていたと。

 なぜかこの町のお寺はかたまっていましてね、どれも大きいお寺でもないんですが、宗派の違うのが南北に四軒、並んでいるんです。ちょうど件のアパートが、四つのお寺の真中にあるんで、その位置もよくないのかなと思うことがあります。

 それで、よせばいいのにその話を聞いた日に私、見に行ったんですよ。もちろん、その教え子に、何もいなかったじゃないか、といいたいためにね。

 授業が終わって宿題の丸つけなんかが終わってからなので、もう真夜中でした。

 向かい側、つまりお寺の門を出たところのすぐ横に車を停めましてね、運転席から駐車場の方を見ていました。まさか、アパートの部屋をのぞくわけにはいきませんからね。

 壁がクリーム色で、屋根は紺色、部屋は六つあって、明かりがふたつ、ついていました。カーテンの有無からして一部屋が不在か寝てしまったか。他の三部屋はあいているらしい。

 駐車場には、一台も車がありませんでした。

 消えかかった白線が引いてあって、駐車場の敷地じたいに若干、傾斜があるようです。

 すぐそばに街灯が立っていて明るいし、陰気な感じもしなかったしで、十分もしないうちに飽きてきました。それで、エンジンキーを回そうとした瞬間ですよ。

 ブウウーーン……

 蜂の羽音のようなのが聞こえてきました。いえ、実際、ドアを開け閉めしたときに蜂が入り込んだのかな、って思ったんですよ、最初は。

 刺されるのは嫌ですから、ゆっくり助手席の方へ身体を向けて、探したんですよ。後部座席の方へ首をむけて、どこかに隠れていないか見てみた。するとまた、蜂が飛ぶような音がしました。

 ブウウーーン……ブウウーーン

 心なしか、最初に聞いたのより音が大きくなったなって思ったら、

 ブウウウーーーン

 と、すぐ耳元で聞こえて、びっくりしたんですよ。

 それで、ハッとして駐車場の方を向いたら、そこにいたんです。

 女がいて、めちゃくちゃに手を振りまわしながら、でたらめに歩き回っている。

 私、それまで幽霊とかオバケとか、見たことはありませんでしたけど、すぐにわかりました。ああ、これはこの世のものじゃないな、って。ええ、すぐに気づきますよ、あれは。

 だって、二メートルくらいの腕の人なんて、いますか?

 腕全体を鞭のようにしならせて、振りまわしながら、うろうろしてるんですよ。

 蜂の羽音だと思ってたのは、女が腕を振ったときの音だったんです。

 それでもまだ、車の中にいるって安心感がありましたね。今、こうやってお話できるのも、どこか車から出なければ大丈夫だって思ってたから、平静を保てたんでしょう。

 それでも、あんな禍々しいものは長い間、見たくはありません。手は震えていましたけどエンジンキーを何とか回して、車を出しました。

 家に帰ったら、すぐ強い酒を飲んで寝ましてね。

 翌朝、起きてから何だか違和感があるなって、心のどこかに引っかかるものがあるなって、落ち着かなかったんです。

 顔洗ったり、飯食ったりしているうち、レースのカーテン越しに見えている車、ああ、もちろん私の車ですよ。どうも車のことが気になってならない。

 それで、カーテンを開いて見てみたんです。

 フロントガラスがなくなっていました。

 慌てて着替えまして、行ってみたんです。車のところへ。

 フロントガラスどころか、ウィンドウ全部が割られていました。

 それからはもう、警察呼んだり、保険屋に連絡したりで大騒ぎしたんですが……。

 警官がいうにはね、この割れ方は外から衝撃を受けたもんじゃないよ、って。交通課にいたから、何度も事故の処理をしてるからわかるんだけど、ってね。

「鍵はちゃんとかけましたか?」

 そう聞かれたけど、確かに鍵はかけたはずなんだな。

 結局、事件にはできそうにないし、ウィンドウ全部を入れ直すとかなり金もかかるんで、廃車にしました。

 いや、違うな……廃車にしたのは、ガラスが中から割られていたからです。

 私はね、てっきりその女の腕を回す衝撃波か何かで、割れたと思った。でも、あれは……姿は見えないまでも、車の中に入り込んでいたのかもしれない。

 そう考えるとね、これはもう廃車にするしか、ないじゃないですか。


   第十五夜 燈籠崩し

 わしが幼い頃のこと、養子に入った家の話じゃ。

 その家には二十坪くらいの庭があった。石を置いて池をつくったり、木を植えたりして、なかなか風流なもんだったんじゃが、たいていそんな庭には、燈籠がありそうなもんじゃろう。

 確かに客の中にも、庭を見て、燈籠のないのが何だか寂しいという者もあった。

 するとそのたびにな、わしの養父がいうんじゃ。

「この家では、庭に燈籠を立てないことになっとる」とな。

 理由はよく分からん。とにかく代々、禁忌になっとるんじゃと。

 それでおさまらん者がおって、ああ……筋骨隆々の若い男。神さんも仏さんも信じとらん罰当たりじゃったな。そんなの迷信だの何だのいって聞かない。

 こういう話でこういう手合いが出てきたら、痛い目に遭うに決まっとろうな。

 まあ、つづけよう。

 その若い男、養父の許しを得てなあ……翌日、どこから運んできたのか、石燈籠を立てたんじゃ。

 そうさなあ、その石燈籠の丈は、わしと同じくらいじゃったかの。一メートル三、四十くらいか。

 男は設置してからしばらくいたが、何にもないわ、やっぱり迷信じゃとはき捨てて、帰っていった。

 ところが翌朝になってわしがふと庭を見るとな、燈籠の宝珠、傘、竿が分解されて、立てたところに行儀よく並べられとった。

 むろん、誰がやったわけもない。うん、夜中に外から人が入ってくることはできたろうよ。それで、分解して、きれいに並べていったと。酔狂であってもまあ、ありえなくはない。

 養父が男に連絡すると、すぐにまたやってきた。

 別な燈籠を調達して……知り合いだか何だか、二、三人連れてきて、分解した燈籠を組みなおして、さらに新しい燈籠をその横に置いてなあ。養父には、あんたがやったんだろうなどと食ってかかる。

 売り言葉に買い言葉、養父は、じゃあ一晩中見張ってみやがれという。男の方はむろん引くことなど思いもよらぬ。寝ずの番をすることになった。

 わしもな、日付が変わる頃まで頑張って、眠い目をこすりつつ庭を見ていたが、何も起こりゃあせん。我慢できずに、まもなく眠ってしまった。

 さて翌朝になると、やっぱり宝珠、笠、竿……分解されて、きちんと置かれていた。そうじゃ。二基とも……どっちもじゃ。

 男によれば、目を離しはしたが、ほんの一瞬だったという。

 その一瞬のうちに、石燈籠がばらばらになっていたんだと。そのときはもう、初めの威勢はどこへやら、青い顔して震えとったな。まあ徹夜したせいもあるんじゃろうが。

 それで男は、もう諦めることにしたという。

 いやいや、それだけ。それだけで、後難なんてもんはなかったよ。

 燈籠を置いたらばらばらにされる、ただそれだけの話じゃ。それ以降も、わしが家で生活していく上で何の支障もなかった。

 ただ、わしは二十歳のときに養子関係を解消することになって、その家を出たからのう……あとのことは知らん。

 ああ、その家の場所な……神田じゃ。

 古本屋街まで歩いて五分くらいのところに、いまもある。


   第十六夜 大祓

 神社、ね……。

 そうは見えないけど、あなた神主さんだったのね。

 奇遇ですけど、私の旦那がある神社の役員をしていたんですね。

 病気になってからお役に立てないようになったんで、今は辞めちゃったんだけど、十年くらいかな。けっこう長いことやってたわよ。

 一回だけ、私も神社のお詣りをしたことがあります。

 ううん。厄祓とか車のお祓いとかで何回かお邪魔したことはあったんだけど、そういうのじゃなくて……役員や総代がたくさん集まってね。あれは確か、大祓といったかな。

 あら、そうなの。年に二回あるんだ。それは知らなかった。六月か十二月か? 大晦日なんて、とても行けないわよ。だいたい、大晦日の夫婦って忙しいのよ。六月よ、六月。

 どうして参列することになったのかしらね。もう忘れちゃったけど、たいした理由じゃなかったんだと思う。

 いちおう正装して、旦那といっしょに出かけたんです。

 神社について、拝殿の席についたらね、旦那がいうんですよ。

「ここの神様はな、ちゃんとしとらんとバチあてるぞ」って。

 子供にいい聞かせるみたいだって、ハイハイって聞いてたんです。

 それから神主さんが入ってきて、いろいろして祝詞が始まるくらいには、やっぱり厳粛な雰囲気になってね、私も子供の入学式や卒業式のときくらいには、はかしこまっていました。

 バカなことしたなあ、と今でも思うのはね、神主さんが祝詞をあげているとき、風邪が治りますように、って心の中でお願いしたことなんです。

 いえいえ、ちょっと風邪ぎみだったんです。微熱があったくらい。もちろん大祓とは直接関係ないわね。ほんの軽い気持ちだったの。神社から帰ってきたときにはもう、忘れていたくらいね。

 風邪はそのあとすぐ治りましたけど、これってやっぱり、願をかけたことになるのよね。すっかり忘れていたんだけど……。

 私が急に倒れたのは、それから二、三日してからかな。

 晩御飯のしたくをしているときに、突然ひどい目まいがしてね。すぐに立っていられなくなりました。

 もう御飯のしたくなんて無理で、ベッドにむかっているところで力尽きたのね。

 意識を失っているあいだに、こんな夢を見ました。

 真っ暗な空間の中でね、狛犬が二頭、ぐるぐる走り回っているんです。いや、それが違うんです。その神社の狛犬とは違っていて、ドーベルマンのようにほっそりとした体つきだったの。顔は狛犬そのものだったんだけどね。

 え? あら、そうなの……一匹は獅子なんだ。獅子と狛犬ね。

 とにかくその獅子と狛犬が、どっちもね、しきりに私を威嚇してくるんですよ。

 うなり声は聞こえないんだけど、目が怖くてね。明らかに、怒っているようだった。

 噛みつかれそうになって、思わず許してって叫んだとき、意識がもどったの。旦那に起こされたらしいんだけど、ボーッとしていて、よく憶えていません。

 救急車だ、病院だ、と大騒ぎになったらしいんだけど、かつぎこまれた先の病院の先生は、過労のところへ風邪をひいただけ、っていうんですね。それくらいで救急車を呼ぶな、って感じでしたよ。

 うん。おかしいと思いませんか? 私さっき、風邪は治っていたっていいましたよね。お医者さんから見たら違うのかもしれないけれど、その日は一日、ピンピンしてたんだから。少なくとも私は、元気なつもりだった。

 納得いかないまま入院しまして、次の日帰ってきたんです。

 車の中で旦那がいいました。

「よかったな、何てことなくて」

「風邪じゃないはずなんだけど……何だったのかしら」

 私がそう答えると、たまたま信号待ちになって、夫がこっちを見てきたんですよ。怪訝そうな表情をしていました。

「おまえ、覚えてないのか……? うわごとで、いってたじゃないか。神様ごめんなさい、お礼に行きますって」

 どうも私はね、願いが聞き届けられたのにお礼参りしていないことを、しきりに謝っていたらしいんです。忘れていたはずなのにね。自分では、助けてと叫んだつもりだったんだけど……。

 病院に一泊している間に、旦那が代わりにお詣りしたそうです。

 もちろん、お詫びも兼ねてね。


  第十七夜 女性不信

 実家が運送屋なもんでね。大学生の頃は毎年、春休みになると駆り出されたんすよ。

 その頃、ウチみたいな零細は大きい引っ越しはあまりなくて、ひとり暮らしの学生とか、若いサラリーマンとかばっかで。

 軽トラがけっこうあったんすけど割と安い料金設定なもんすから、それなりに忙しかったんすよ。バイト代はたいした貰えんかったけど。

 最初の年はずっとサブでね、ふたり一組で行ってたんすけど、三月の終わり頃になって、いよいよ忙しくなってきたら、オレひとりってことも、けっこうあったんすよ。

 そうす。最初の年からっす。

 オヤジが見積もりの内容見て、割り振りを決めるんすよ。それでひとりでも行けるってなったら、無理だろ、これはってとこでも行かされたんすよね。

 免許とりたてだし、ホロついてるから後ろは見えないしで、たまに電柱にコスって怒られたりしてね。

 何とかひとりでもやれるようになって、そんなんで四年やってね。

 大学卒業する春だったな。ひとりで行けるってとこに、やっぱ軽トラで行かされたんすよね。

 女性のひとり暮らしで、ワンルームだったからそんなに荷物なかったんすけど、最後にどうしても積み込めないダンボールが残っちゃったんすよね。

 いや、もう五回目すから、積み方は悪くなかったはずなんす。

 見積以上に荷物増えちゃうってことは、よくあるんすよね。お客さんが自分で荷造りしてる場合なんて、特にそうす。

 でも即日引き渡し、転居先に運んで終わりって聞いてたんで、これくらいなら助手席に乗せますよって、いっちゃったんす。いえ、料金はそのままでってね。

 初対面だってのに愛想のいい人だったし、何だかんだ気をつかってもらってね。ペットボトルのお茶ももらったし、まあそのくらいはね。

 ただ、ダンボールには何も書いてないけど、壊れものだったら取り扱い注意すから、いちおう聞いたんす。

「これ、中は何すか?」

 その人がね、一瞬オレを睨んだんすよ。

 そうす。ホントに一瞬だけ。それまでニコニコしてたんすけどね。

「あ、壊れるようなものでは、ないです」

 よくわかんねえなって思いながら、そういうならいいかってダンボールを助手席のシートに置いて、車に乗りこんだんす。

 引っ越し先にむかってたら、何かね、車のどこかで、がさごそいいだしたんすよね。

 車に何かあって使えないってなったら、その分、売り上げが落ち込むんで、オヤジがうるさい。オレもけっこう神経質になってたんす。

 気にしすぎかなって思いながら運転してたんすけど、エンジンや電気系統じゃないだろう。

 じゃあどこだって、信号待ちのときに耳を澄ませてみたんす。

 そしたら、すぐ横のダンボールがごそごそいってた。

 生き物かなって思ったんすよね、初めは。最後に積もうとした段ボールだったし。それにしてもペットを積荷にするなんて、なんてやつだって腹が立ちました。

 どういうつもりだ、ってね。でも、開けてみるわけにはいかないじゃないすか。

 だからほっといて、そのまま運転したんすよ。

 そのうちね、何か車の中が臭くなってきたんす。

 何だろうな、トカゲかヘビか……。いや、こんな臭うのって、イヌとかネコじゃねえんか。

 無意識にオレ、ひとりごといっちゃったんす。

「まいったな―― そういってくれりゃよかったのに」てね。

 そしたら妙にハッキリした声で、

「だから、いった、じゃないか」

 そうそう。そうす。段ボールの中のものが、反応したんす。ひとことずつ区切るみたいにね。

 男の声だったけど耳に障るかんじで、もう嫌になっちゃってね。できるだけ早く着きたいって、飛ばして。

 引っ越し先についたら、例の女はもう着いてて、にこにこしながら待ちかまえてたんす。

 次の日筋肉痛になってもいいやって、急いで荷物を運んでね。うん、助手席の段ボールはもう、最初に運び込んでね。

 全部済んで料金受け取ったときに、

「ご苦労をおかけしました」

 深々と頭をさげて、またペットボトルのお茶をいただいたんすけど……。

 一瞬、オレを睨んだときの顔は何だったんだ。

 それより、段ボールの中身はいったい何だったんだ。

 それからどうも女の人って、苦手なんすよ。女って、オレにはどうやっても理解できないんだなあ、きっと。いやいや、もともと男に興味があったってわけじゃなくて。

 結婚なんてとても無理っす。

 たぶん、一生このまま独身すね。


   第十八夜 床屋幽霊

 歳とったからもうよしてしまったけど、わたしは旦那とふたりで床屋をしてたんですよ。結婚する少し前にわたしも資格取らなきゃって学校に通いだしてね。そのとき旦那は、学校出てからすぐに働きだした店で修業中でした。

 それでわたしが免状をもらったのをしおに結婚、旦那が独立したって流れです。港区にいい場所があるってんで移り住むことになりました。前に住んでた人も床屋で、道具から内装からそのまんま、すぐにでも商売ができるって。

 いえね……おかしいでしょ? そんなうまい話、あるわけがない。あっても裏があるとすぐに気づかなきゃ。若かったからったってほどがあるんですけど、まあ騙されたんですね。

 引っ越した日の夜です。

 旦那は寝床でゴロゴロして週刊誌か何かを読んでいたんですが、もう日付が変わりそうだから寝ようって、わたし、いったんです。いくらすぐにでも商売が始められる状態だからって、引っ越しの荷物はまだ残ってるし、掃除もしなきゃならないしって。

 それで旦那はああ、と生返事したけれども、本を閉じて蒲団をかぶったので、じゃあ電気消しますよって、枕元の蛍光スタンドのスイッチをポンと押しました。

 すると、その瞬間なんです。

 旦那の足元に男が立っているのが見えたんですね。

 はい、そうです。暗くなってすぐですから、ほとんど何も見えないはずですよねえ。でも、その男の姿はハッキリしていました。浴衣姿で、三尺をしめてね、なぜか手拭いで頬かむりしてた。

 とっさに泥棒かと思って、旦那をひっぱたいて、

「誰かいる! 誰かいる!」

 叫んだら、旦那もそっちを見た気配があって、そうしてすぐアッとかウオッとかいって、蛍光スタンドの明かりをつけました。

 ところが、誰もいない。

 それから旦那が蒲団を出て、得物を手に家中見回ってみたんですけど、これといってヘンなことはなかったっていうんです。

 その日は明かりをつけたまんま寝て。でも、またそんなの見たらって思うと気味が悪くてね、すぐにつぎの家を見つけて引っ越しましたよ。

 きたばかりですが出ることにしましてと、数日前に挨拶まわりしたばかりですよ、それでもあんなのまた見るよりましって、あきらめてね。あの家で前に何かありませんでしたかって、ついでにそれとなく聞いてまわったんですけれども、そんなことはないって口々にいう。

 ハハア何か隠してるなって雰囲気でしたよ。

 ただ、こっちも出ていくんですから、根掘り葉掘り聞くこともできなくてね。結局そのままです。何にも分からなかった。

 それでもね、あのまま我慢して住みつづけたら、どうだったんだろうと思うこともあります。

 客商売をしている場所では、幽霊が出るのはかえっていいことなんだって。例え幽霊でも、いないよりマシ。だいぶ後になってから、そんなことを聞きました。

 いえ、それにわたしも旦那も、結局あまり商売ッ気がなかったんですね。貧乏でもなく、金持ちでもなく……それから平々凡々と暮らしてきた、とまあ……こういうわけです。


   第十九夜 天狗火

 僕の生まれ故郷、静岡の田舎で……現にいま住んでる場所でのことなんですがね、以前は夜に火が出たことがあったんです。

 天狗火、といわれていました。秋葉さんが近いからでしょうか。はい、そうです。秋葉権現。

 火っていっても、もちろん火事じゃありません。火事だったらたいへんですよ。

 天狗火は、一見するとふつうの火と同じようなんですけれども、温度が低いからかフチが青いんですね。真ん中は赤いけれども、何も燃やしはしません。

 少なくとも僕の知る限りでは、その火のせいで火事が起きたことがあるなんて、聞いたことがありません。

 ちょっと調べたことがあるんですが、よそではこんな火を狐火と呼ぶことが多いらしいですね。死んだ動物の骨から出たリンが自然発火するって聞いたこともあります。

 僕が見たことのある狐火は夜、山の方を見ていると、その火がぼうっと灯っている。

 一か所にじっとしているわけではなく、動いて回ります……と、これだけ。

 ですから怖くはありませんでした。

 小学校六年生になる年の春休みですかね、最後に見たのは……。いえ、大人になったら見えないというもんじゃなく、子供も大人も、その頃から見かけなくなったんです、天狗火を。

 昭和の終わりか平成の初めか、はっきりしませんけれども……平成二年か。平成二年の夏休み中……うん、小学五年だったからそうだ。平成二年の夏の話です。

 天狗火は夜、雨が降っているとき川に出て、水上をフラフラしていることがありました。

 そんなとき、天狗が川狩りに出かけたといって、家に閉じこもって外出してはいけないことになっていたんです。

 ええ、古くからのならわしで……大人も子供も関係ありません。

 夜ですから、たいてい子供は家にいますけれども。川狩りだぞーと誰かが叫んでいるのを聞いたら、何かしててもパッと家に入っちゃう。

 ところが同級生の……仮にA君としましょう、そのA君が外に出て川に向かったんです。

 そのとき、お父さんは出張中で留守、お母さんは風呂に入っており、弟は寝ていた……と聞いています。

「天ぐ火の正体をつきとめにいきます」

 そんな書き置きを残してね。風呂からあがったお母さんが書き置きを見つけて、それから大騒ぎになって……。

 僕はその日の昼、A君とその他の友達数人で遊んでいたんです。クラスは違いましたけれども、仲はいい方だった。

 その仲間のあいだで、はやってたんですよ。

 怖い話をしたり、妖怪の本を貸しあったりね。

 昼間にテレビで〈あなたの知らない世界〉を見て、さっきのあれ怖かったっていいあったり。

 だから当然といっていいのかどうか、天狗火の話もたびたび出てたんです。僕たちの住んでいる町には、いまも天狗火が出るって。それで、いつか正体をつきとめようぜって話してたんですよね。

 A君は特に活発な方なんかじゃなかった。

 むしろおとなしい方……いや、違うか。

 そう目立ちはしないけれども、おとなしくもなかったか……とにかく、A君じしんの口から天狗火の正体をつきとめてやる、なんて台詞は聞いたことがなかったんです。

 だから、A君がいなくなったって母親から聞かされたときは意外でした。つぎの日、友達に会ったときも、まさかあいつがっていいあった記憶があります。

 じつはその頃……友達とAがいなくなったって噂していたときにはもう、Aは見つかっていたんです。

 立山で保護されたんです。

 ええ、富山の立山です。

 いくらなんでも、ちょっと無理ですよね。子供ひとりで一晩で移動するのは。誰かが車なんかで連れ去ったのか……。

 このあたりは母親から聞いたんではっきりしませんが、A君は保護されたとき、なぜじぶんが立山にいるのかわからなかったそうです。

 これといって外見に変わったようすはなく、腹も空かせていないし眠そうでもなかった。

 ぼんやりしていて、じぶんの名前と住所をいうのがせいぜいだったと。

 それからA君は、人が変わってしまって……数日たって、A君が歩いているのを見かけました。

 ああもう何ともないんだと肩を叩いたところ、A君が振り返って……でもボーッとしていて、反応がまるでない。

 そんなふうにボーッとしているのがふつうの状態だったようですが、突然暴れだしたり、奇声を発したりするようになったんです。

 それで僕も友達もA君に近づけなくなりまして……しかも、めっぽう力が強くなっていて、殴られて骨を折ったやつも出たくらいでした。

 こんな状態ですから、はたしてA君が天狗火の正体をつきとめることはできたのか、そしてなぜ立山まで行くことになったのかは当然、聞けずじまいでした。

 八月の終わりに、A君はどこかに引っ越しました。

 気づいたときにはもう、住んでいた家がもぬけの殻になっていて……A君の両親と親しかった人には知らせたのかもしれませんが、少なくとも僕のまわりには、どこに行ったのか知る人はおりませんでした。

 新学期になってからA君の担任の先生にも聞いたんですが、先生も知らされていなかったんです。

 さっき話したように、それから数か月後の春休みにいちど天狗火を見て……ああ、あれは遠くから見ている分にはいいけれども、怖いものなんだって思って……それ以来、いまに至るまで見たことはありません。

 ことしの夏の同窓会のときに、その頃に妖怪だ幽霊だって騒いでた仲間とA君の話になりました。

 でも、もう憶えている人の方が少なかった。

 僕はまだ、気になっているんですけれどもね。

 A君はそのとき、何を見聞きしたのか。そしていま、どうしてるのか。


   第二十夜 路側帯の少女

 怪談、ですか。

 私は別に好きじゃないんだけど、何人かで集まってるときに、いつのまにかそんな話になってるってことが、あるのね。

 あとで考えてみても、だれがそういう話をしはじめたか、どうしてもわからないなんてときは、ああ、魔が差したんだな、なんて思うのね。

 そうそう。たまに、幽霊が見たいって物好きな人がいるのね。

 好奇心、何とやらで、そんな人は本物を一回見たらいいのよって思うから、私が知っている場所を教えたことが何度かあります。

 知りたい? ええ、いいわよ。教えてあげますよ。

 うん。絶対に幽霊に会える場所があるのね。

 ここ(札幌)から道央道をしばらく走ってね、まあ二時間くらいしたらA市を越えるわね。そこから、もうちょっと行ったところ。

 交通量が少ないから、このあたりは一車線よね。

 走ったことある? 高速だから、きついカーブなんてないし、道もまあ走りやすいよね。

 飛ばしやすい道だけど、百キロも出しちゃダメよ。

 百で走ってしばらくしたら慣れちゃうけど、あっという間に通り過ぎちゃうからね、そこを。だいたい、このあたりは七十制限だから。

 幽霊を見たかったら、スピードを押さえた方がいいわよ。

 どんな幽霊かって?

 子供。小学校低学年くらいの、女の子。

 赤いランドセルを背負ってて、髪をツインテールにしてるから、すぐわかるわよ。

 Tインターを過ぎて十キロくらい走ると……その子が、中央の路側帯に立っているのね。

 そう、必ずね。

 霊感とか霊能力とか、それに時間も関係なし。

 絶対に、見える。

 実家が向こうの方だから、よく通った道なんだけど、毎回見てるわよ。

 さっきもいったけど、たまに物好きな人に教えることがあってね、みんな見たっていうのね。

 最初は、ああ私だけじゃないんだって思ったんだけど、もう五人も六人も見てるからね。今のところ、百パーセントよ。

 その子……迷子になって、親を捜し回っているうちに、くたびれちゃったって感じなのね。

 そんな寂しい雰囲気で、かわいそうなんだけど……私にはどうすることもできないからね。いつか親元に帰れたらいいなって思うくらいで。

 ううん。道へ飛び出してきたり、車に乗ってきたりはしないのね。ただそこに立ってるだけ……。

 ああ、そう……疑ってるのね。

 百聞は一見に如かず。見に行けばいいじゃない。

 くれぐれも飛ばさないように。スピード出してたら、すぐに通り過ぎちゃうからね。

第21話~第30話

   第二十一夜 臭い男

 わしの姪なんじゃが、めっぽう気が強うてなあ。子供の頃はそんなことなかったんじゃけども。

 その姪が大学を出て、会社に就職してまもなくの頃の話じゃ。そこそこ知られていて、名前を出せばたいていの人が聞いたことのある会社で……仮にX食品としようか。

 いやいや、姪はさして優秀な方でもなかったと思う。

 バブルの頃じゃったから、かんたんに就職できたようだしのう……ああ、もうとっくに辞めて結婚してる。子供もおる。

 X食品は全国に何か所か支社があってな、姪は実家の近くの支社に採用されたんじゃが、少なくとも一年は本社に勤めるって決まりがあった。

 姪もむろん初めは東京暮らし、独身者用の寮があってそこに入った。場所は確か……経堂だったか。確か、最寄駅が経堂じゃったな。

 部屋は、独身者用だからよくあるようなワンルーム、バスとトイレが別になっているのがまだましという程度。

 備え付けのベッドがドーンと部屋の中央に鎮座ましまして、それ以外のスペースといったら、ほとんどない。

 姪は、そんな部屋でも親元からは離れる、しかも東京でって、浮かれとったようじゃな。まあ、全然気にならなかった。

 だんだん仕事に慣れてきて、連休すぎても五月病にもならず元気に勤めていたんじゃがな、六月の初めのある日……その日は仕事が休みじゃってんで、ベッドで寝転がって雑誌かなんかを読んでたら、頭のてっぺんの方、枕元の方に気配がしたんじゃ。

 だれかが雑誌をのぞいているような感じがする。

 すうすうと、息遣いまで聞こえる。

 姪は全く気にせんというより以前に、そういうのを信じとらん。平気で雑誌を読みつづけた。

 おかしいよのう。頭の方からのぞいてるんじゃから、雑誌はそいつにとって逆向きになっとる。

 でも、なにが気になるのか、のぞくのを止めようとしない。

 そのうちだんだん気配が濃くなっていき、それにつれてひどいにおいが漂いだした。

 ページをめくると、はあーと溜息さえもらす。

 あたかも、まだそのページを見てるのにと抗議するような雰囲気じゃった。

 少なくとも姪はそうとったから、もう我慢できなくなって、

「なによ、もう!」と叫んで起き上がって見回してみたが、だれもいない。

 においは残っていた。

 残り香なんて雅なもんじゃなく、夏場に放置した生ごみに似ている。

「ちょっと、臭いんだけど!」

 と、だれにともなく腹を立てていると、しゃがれた声がしたんじゃ。

「……俺の部屋」

「臭い」

「ここは……俺の、部屋」

「臭い」

「俺の……部屋、なんだ……」

 こんなふうに、そこはじぶんの部屋だとそいつが主張して、姪は臭いくさいとくりかえして、噛み合わない会話が数分。

 フッとにおいが消えて、声もしなくなった。

 それから姪は、また雑誌を読みつづけたというんじゃな。

 また数日後のある日のことじゃ。

 仕事から帰ってきた姪が、さっさと着替えてシャワーでも浴びようとしたところ、祭り囃子が聞こえてきた。

 ああお祭りの日か、おみこしが通るのかもと窓辺に寄ってみて……ハッ、と気づいた。

 終電近い電車で帰ってきたのに、とな。

 夜のお祭りというのは、あるにはあるじゃろうが、それにしても深夜じゃ。いくらなんでも遅すぎる。

 カーテンをめくってみても案の定、往来に人の気配はない。ポツリと街灯がともっているだけじゃった。

 じゃがのう、祭り囃子は依然として聞こえよる。

 篠笛がぴーひゃら、ぴーひゃら、ヨイサホイサと景気よい声まで聞こえてくる。

 テレビかなにかじゃろうか……隣の部屋かと思って壁に耳をあててみたが、なにも物音はしない。反対の部屋かとそっちに耳をあててみても、やっぱりなにも聞こえない。

 疲れておったからって、姪はそこでもう放っておくことにした。騒がしいのを除けば支障はないってな。

 それでシャワーを浴びて、寝巻に着替えてベッドに転がり込んだ。

 するとな、そこでまた臭気がただよい始めて、だんだん頭が痛くなるくらいになってったんじゃ。

 そして、声がした。

「ここは……俺の部屋」とな。

「あんたねえ」と、姪は立腹して叫んだ。「ここはわたしの部屋よ。部屋代だってタダじゃないんだから。給料から天引きされてるの!」

 いやいや、実際どうだったか……まあ名目上、給与から天引きされてたのかもしらんが、別にアパートだのマンションだの借りたら、そんなもんじゃすまんじゃろうて。

 とにかく、こんなふうにあれやこれやまくし立てていると、そのうちにおいは消えて声もしなくなった。祭囃子も聞こえなくなった。

 翌日、姪は先輩に聞いてみたんじゃ。

 これまで二度こうこうこういうことがあったんですけど、わたしの住んでるところって、なにか変な噂がありませんかって。

 そうしたら先輩はなにも知らないという。じゃが、それとなく他の人に聞いてみるといってくれた。

 その先輩はずっと本社勤めで、姪のお目付け役……あれ、ああ……教育係? ああ、そういうのか。

 姪のように会社の寮に入って一年くらい修業するのを、何人も見てきている。でも、寮に関してそんな話は聞いたことがないってな。

 数日後、休みの日に姪は家でゴロゴロしてたんじゃが、昼頃になあ、呼鈴がなったんじゃ。

 ドアスコープをのぞくと、ごくふつうの背広姿、サラリーマン風の男じゃった。

 怪しい印象は受けなかったんでドアを開けた。

 すると男は、首にかけた社員証を見せて、

「X食品、人事課の者ですが」っていう。

 それは確かにX食品の社員証で、見慣れたものじゃった。

 男の顔に見覚えはなかったが、社員はたくさんおるからのう。その点、怪しみはしなかった。

 じゃが、それにしてもなぜ休日に会社から、と姪は思った。

 火急の用件か。きのう、なにか失敗してしまったのか……と、あれこれ考えた。

 男はつづけた。

「突然ですが、あなたには辞職してもらわなければなりません」

「はあ、辞職? どうして」

「採用試験の選考の際に手違いがありまして……。あなたのような人物は採用してはいけないという内規があったんです」

「どういうことでしょうか」

「詳細は申しわけございませんが、お話しできません」

「なぜきのう会社にいるときに、そういったお話がなかったんでしょう」

「急いでおりまして……それもお答えできません」

「納得できません」

「納得できなくても、きょうは少なくともこの場で辞表を提出していただかなければ、法律に触れることになります」

「どんな法律ですか?」

「労働基準法と労働関係衛生法です」

 こんなふうに、だんだん不毛なやりとりになっていってのう、全くその男のいうことが理解できんので、姪は男を待たせてな、部屋の中にもどって電話をかけたんじゃ……うん、会社にな。

 ああ、もちろんその頃、まだ携帯電話なんてもんはなかった。その部屋に代々つたわってきた固定電話じゃ。

 会社の自分の部署には、たまたま上司がおった。

 社員証の名前を憶えとったから、人事課の○○という人がきてるんだけれども、と聞いて見たところ、ちょっと待たされて……しばらくして、そんなもんはいないとの返事があった。

「いま、玄関にその男がいるのか? あげてないよな」

 どちらの質問にもはい、はいと答えると、上司は、

「いいか、落ち着いて……落ち着いてな、できるだけ穏便に帰ってもらえ。それから受話器は置くな。かかった状態にしておけ」

 はい、と答えて、姪は玄関に戻ったんじゃが……もう、男の姿はなかった。

 じゃがのう、例の生ごみのようなにおいが残っとった。

 男がいたときにはそんなにおいなんか、しなかったのに……。

 それからすぐに姪は、その寮を出て引っ越したんじゃな。都内じゃないが、じゅうぶん通える距離にある、やっぱりX食品の寮に。

 本人は至って平気だったんじゃが、上司がな、なにかあったら大変だと強く勧めたらしい。

 もっとも、上司はその男が変質者かなにかだと思っとったようじゃが。

 それから先輩の方は……まわりに聞いてみても、やっぱりその寮で変なことがあったという噂はないとの回答じゃった。

 オバケも幽霊も、金縛りもない。

 たまたま姪だけが、つづけてそんな目にあったということらしいな。

 うん……引っ越した先でも、変なことはなかったそうじゃ。

 姪を追いだすのに、まんまと成功して……そいつ、いまでもその部屋のあるじでいる気なんじゃろうて。


   第二十二夜 南山

 南山、というと私には懐かしいのですが、聞いてる人にはさっぱりですよね。

 里山に毛の生えた程度ですから高い山でもないし、山の姿が美しいわけでもない。ただ小さい頃、毎日眺めていたから懐かしいという、それだけの話です。

 南山という名前にしても、村の南にあるからそう呼んだんでしょう。つまり、これといった特徴がないんです。

 そうそう、これを先にいわなきゃ。

 私の故郷は群馬でして、南山は利根郡と吾妻郡のちょうど境目にあります。

 昔は秋になると茸や栗がたくさんなったそうで、村人みんな競って採りに行ったそうですけれども、私が子供の頃にはもうそんなこともありませんでした。採りすぎたんでしょうね。

 この南山の近くに、地獄谷と呼びならわされている場所があります。

 名前の通り一種の魔所で、だれも足を踏み入れません。

 私の祖父が若い頃に迷い込みましてね、気づいたら地獄谷にいた。

 ええ……話に聞くばかりなんですが、そこはガレ場。

 岩だらけで、その一帯だけ全く草や木が生えていないそうなんです。

 谷というぐらいですから両側は山でね……その地獄谷で祖父は、東京を見たそうです。

 はい、もちろん距離からいって、見えるわけがない。

 見えるわけがないんですけれども、山と山の間に見下ろせる遥か向こうに、びっしりと家やなんかが建ち並んでいた。

 そんなにたくさん建物があるのは東京しかない……だから東京だと思ったって。

 狐に化かされたんじゃないかって何度も目をこすったり、眉毛に唾をつけたりした。でも、まちがいなくそこに街並がある。

 このまま東京、東京って考えてたら、どうなることか分からない。

 崖から落とされるかもしれないし、同じところをぐるぐる回らされるかもしれない。

 命だって危うい……それで東京のことは忘れることにし、とにかく南山の方へと向かうことに集中して、帰ってきたそうです。

 他にも、この地獄谷で葬列の一行を見たという人もいたようです。

 どうみても野辺送り、葬列の順番もこの地方の慣わしのとおりだったと。

 神隠しにあった子供が遊んでいた。天狗がいた。立派な屋敷があったと、他にもいろいろな話があります。

 とにかく思いがけないものをこの地獄谷で見る。

 そして、昔は山に入って帰らない人が出ると、いったそうです。

 地獄谷に入っちゃったんだろうって。


   第二十三夜 黒焦げの友

 はた迷惑な話なんですけれども。いえいえ、聞いたら呪われるって話じゃなくて、今から話そうとしている人が、はた迷惑だって話なんですよ。

 その人は中学のときに同じクラスだったんですけど、話したことはないの。

 だいたい、私はその中学校自体に思い入れがなくて、中三の春に転校して一年しか通ってなかったから、慣れる前に卒業してしまったんです。

 同じ学年の生徒は三百人以上だったから、卒業アルバムを開いても、こんな人いたんだ、ってね。ほとんど知らない人ばかり。

 そのとき開校して十年くらいでね。市内で一、二を争う進学校だったんですよ。道路をはさんで医大があったから、親がお医者さんていう生徒が多かったからかな。

 そのはた迷惑な人も、勉強ができたんですよね。通信簿はほぼオール5、テストは毎回、全教科ほとんど満点近い点数。

 はっきりいって、宇宙人よね。

 高校は市内で一番、北海道内でも五本の指に入るってところに入りました。

 でもね、そこで宇宙人が普通人になっちゃったんですよね。

 入学直後に、参考書や問題集を選ぶのにどうこう……そんなきっかけで、本屋に勤めている女性と知り合って、すぐつきあうことになり、あっという間にのめり込んでしまったんです。

 秋風が吹く頃には、それが悲劇となりまして……居酒屋にふたりでいるところを補導されたんです。相手ははたち過ぎの女性だけど、本人は当時十五、六だからね。

 それからは……学校にばれるわ、親に知られるわ、停学になるわ、別れさせられるわで、まあさんざんよね。

 ちょこちょこ学校をサボってたから、成績ももう下から数えた方がはやいくらいになってたし。

 プライドが高い人だったんだろうけど、それがもろくも崩れて……精神的にあまり強くはなかったようよ。停学中に、灯油を頭からかぶって火をつけてね、自殺しちゃったんです。

 私は同じクラスだったっていっても、話したことがないくらいなので、お葬式には行かなかったけど、行った人に聞いたら、やっぱりご両親の姿が見ていられなかったってね。挫折をひどく深刻にとらえちゃうのって、若さゆえのことで……特権、なのかな、若さの……死ぬことないじゃない、って思うけど、本人にいわせたら、何もわからないくせにっていわれちゃうかもね。

 何をいってるんだろう、私。

 話をもとにもどして、だんだん寒くなってきて雪がちらつくくらいの頃です。

 その人が、あちこち挨拶して回ってる、って噂が聞こえてきたのね。

「この話を聞いたら、やつが挨拶しにくるからな!」

 こっちは知りたくもないのに、からから笑いながらいう人がいて。

 高校生ですからね。後先をよく考えずに感情をぶつけあったり、ささいなことで人を憎んだりできる……そんな年頃でしたから。

 彼は黒焦げの姿で現れ、ごーっ、ひゅーって、空気が洩れるような音を立てているっていうんです。

 何かいいたいらしいけど、よくわからない。

 ここがはた迷惑なところなんですけど、場所を選ばないんですよね。

 自分の部屋で寝転がってテレビを観ているときに、画面をさえぎるように現れる。

 風呂に入ろうと扉を開けると、湯ぶねにつかっている。

 カーテンを開けたら、窓にはりついている。

 教室に入ってきた先生の背後に、ついてくる。なぜか、どの高校でも。

 ほんとに迷惑ですよ。

 ただ、現われるのは一回きりだっていうんですよね。やっぱり、ただ挨拶をしたいだけだったのかもしれません。

 そのうち噂に尾ひれがつきまして……高速道路で長距離トラックと同じスピードで走ってたり、メインストリートの上空十メートルほどを定期的に飛んだりしたらしいんですが、このあたりで止めておきましょう。

 その人とつきあっていた女性が、後を追ったという噂もあったんです。

 私も同級生から聞いて、その女性を遠目に見たことがあったんです。三条八丁目の本屋で。確かにその後、見かけなくはなったんですけど、はっきりした理由はわかりません。ですから真偽不明の噂です。

 根雪になる頃に、また新たな噂が流れまして……。

 性交渉が済んだ人のところに、現れるって。いかにも高校生の男子が考えそうなことですよね。

 もともと、そのはた迷惑な人も、つきあってた女性に性的な意味でも溺れてたって話ですよ。ひとり暮らしだったそうなので、アパートにいりびたってしまって……何も手につかなくなっちゃって当然ですよね。

 私のところに現れたかどうか……。それはごくプライベートなことなので、秘密にしておきましょう。

 黒焦げのその人、現れなければいいですね。

 いえいえ、冗談ですよ。冗談……最初にいったじゃないですか。別に「この話を聞いたら、呪われる」っていうんじゃないんですから。


   第二十四夜 鏡に映るもの

 去年の春先のことです。

 その頃、仕事がうまくいってなかったんです。

 お局様に目をつけられたのが、発端だったような気がします。

 化粧のしかたがどうこうから始まって、制服の着方がだらしない、ホチキスを閉じる位置が違う、連絡が遅い、相談しない……細かいことまで突然、ネチネチやられるようになったんです。

 パワハラ、モラハラといわれたときに、いい逃れできる程度のいじめでしたね。

 いいえ、別にわたしに目をかけてるわけじゃないし、お局様は上司でも何でもありませんから。ただ私よりも先に、ずいぶん先に入社しただけの人です。

 それから、ちょうど年度替わりの時期で新人の教育係にさせられたんですが、この子がもう、とてもわたしなんかの手には負えない。

 ことばづかいは直しようのないほどだし、自分勝手だし。

 業務中に会社の固定電話をつかって、だれか友達と大声で話していたり、おとなしいなと思ったら頼んでおいた仕事をほったらかして、ネトゲをしていたり。ええ、もちろん会社のパソコンで、です。

 その子のミスはもちろん、教育係のわたしのせいですから、社内だけじゃなく取引先にも、何回も頭をさげにいって。

 無理やり頭をさげさせて。でも、その子は悪いと思ってないし、なんでわたしが謝らなきゃならないんですかと食ってかかってくる。

 ことばを選んで注意しつづけていたら、要点をまとめて携帯の方にメールくださいって。

 だいたいこれが三月末から四月の終わりくらいで……ゴールデンウィークでどうにか一息つけるって頑張ったんですけれども、体力を回復できただけ。

 連休が明けても状況は変わりませんし、気力はまるでなし。もう辞めてしまおうかと考え始めました。

 それでもなんとか梅雨の時期までもって、五キロ痩せたからいいかと空元気を出しながら頑張っていたある日のことです。

 トイレに入ったところでたまたまお局様とあったんですね。

 向こうは出るところ、こっちは入るところ。

 わたしが道を譲ろうと左によけて、お局様をやりすごそうとしました。

 入口近くですから洗面所があって、鏡の前をお局様が通過してゆく……と、そこでわたし、えっ? って思ったんです。

 鏡に写っているお局様の像が、まるでちがう。

 お局様は団子鼻で目は小さい方ですが、鏡の中では鼻が異様に高いし、目がつりあがってもいる。

 一瞬のことでしたから、お局様が出ていったあと、鏡の前に立ってみました。でも、異状はないので見まちがいということにしました。

 ところが、またしばらくして……こんどはいま話したつかえない子とトイレで出くわしたときに、やっぱり同じ、その子が鏡に写る姿が本人じゃなくなっていたんです。

 やっぱり目が吊りあがって鼻が西洋人以上に高く盛りあがっていて……なんというか、ものすごい形相をしている。

 そのときも確かめてみましたが、わたしの姿はやっぱりふつうに写っていました。

 こうなると、他の人はどうなんだろうって思いまして……トイレにだれかが入ったら、ちょうどその人が出てくるタイミングでわたしが入って、鏡にどう写るのか確かめてみたんです。

 ううん、五、六回はやってみたんじゃないかな。

 結果は、他の人の場合なにもない。まったくふつうに鏡に写る。

 それで、いまわたしを悩ませているふたりがおかしい、ということになりました。

 でもね……だからなんなの? っていう話なんです。

 ふたりがおかしいのはもう、じゅうぶんすぎるほど分かってたじゃないか。

 それでお局様が心を入れ替えるでもなし、新人の子が社会人の自覚をもつわけでもなし。

 仕事の方でなんとかしなければならないわけで。

 ですから、鏡に写った変なモノについては、それ以上深く考えることもなく、忘れてしまいました。

 一方、仕事の方では、わたしが上司と不倫してるとか、毎晩男をとっかえひっかえ遊び回ってるとか、だれかがそんな根も葉もない噂を流したらしくて……もう、限界を迎えていました。

 お盆休みまでは持たない。ボーナスが出たら辞めようかって。辞表も書きました。

 ちょうどその頃、たまたま大学時代の親友と飲みに行く機会がありました。

 居酒屋で腹ごしらえして、それから新宿のバーに行きまして。わたしがグチを聞かせてばっかりだったんですけど。

 カウンターでそうやって話してたら、ママがやってきまして遊びで占いをしてる、見てみようかっていうんです。

 わたしも親友もけっこう酔っていましたし、馬鹿みたいにはしゃいで、お願いしますと返事しました。

 ママがわたしの顔をじっと見て、

「あなたいま、仕事の話でグチってたけれども、結局はあなたの方がむしろ問題なのよ」

 最初にそういうので、わたしは身構えました。

 なにか違う。

 悪いことが起きるかもしれないから注意しろ、気をつけろって話じゃない。

 頑張れば道が開けると結ぶのでもないって。

「いま迷惑に思ってる人が、あなたには鬼に見えるでしょう。それって、その人たちが悪い念を出しているからっていうのも確かにそうなんだけどね、受け取るあなたがもう、その人たちに『合っちゃってる』のよ」

 一気に酔いのさめるのが分かりました。

 それまで酔ってはいたものの、さすがにどんな話をしたかは憶えています。

 というより、そのとき、鏡に写ったヘンなもののことは忘れていましたから、親友に話してなどいません。

「そのふたり、どうやってあなたをひどい目にあわせてやろうかって、いっつもそればかり考えてるわよ。だから鬼の姿が鏡に写る」

 わたしは、仕事を辞めることにしました。


   第二十五夜 竹の束

「戦後まもなくのどさくさ」って、たまに聞きます。

 戦争を止めることになった、終わった、それで混乱して……その混乱状態を「どさくさ」というんでしょうか。

 もともとは、博打をしていたところに手入れが入る、逃げる、捕まえるっていうんでグチャグチャになっているのを「どさくさ」といったらしい。まあある意味、戦争も博打かもしれませんね。

 その戦後まもなくのどさくさ、治安が悪化しています。それをいいことに各所で泥棒を働いていた一団があった。

 五、六人くらいでみんな十代前半、いえ、その子たちも被害者ではあるんですよ。戦争孤児ってね、お父さん、お母さんから兄弟、親戚、みんな空襲やなにかで死んじゃった。身寄りがない。そんな子供たちが集まって、いつのまにか悪いことをしていた。

 東京周辺に始まって……まあ近郊をあてもなく泥棒行脚ですよ。川崎とか千葉とか。

 盗むのはまず食い物。つぎに食い物と交換できるもの。着物や貴金属類。腹がふくれればそれだけで満足なんです。悪いったって、強盗はしない。人を殺してまで物を奪うことはしない。なにか歯止めがかかってたんでしょうね。

 ……こうしてその日暮らしをしているうちに、だんだん寒くなってきたんです。新聞やラジオではことしの冬は大量に餓死者が出る、なんていってる。

 現状では、飯はなんとかなってるけれども、そろそろ冬着を調達して、どこかに保管しておいた方がいいんじゃないかって話になりました。

 そこでね、ひとりが思い出したんです。確かどこそこに被服廠がある……と。

 被服廠。服をつくる、工場ですね。

 焼け残った被服廠が……これは、埼玉のとある町にあるという話でした。

 東京の人は焼け出されて着のみ着のまま、焼け残った着物も、東京近郊の農家まで出かけて食料と交換する人がほとんどだった時代です。

 このまま東京を回ってたんじゃ、いずれ凍えてしまう。じゃあその埼玉の被服廠に行こうってことになって、途中やっぱり食い物を泥棒しつつ、向かったそうです。

 東京は焼け野原でしたけれども、荒川を渡ってだんだん奥地に入ってゆくと、戦争などなかったんじゃないかという、のんびりした様子で……でも、泥棒するにも農家ばかりになって、家と家との間が離れているし稲刈の終わった田んぼばかりで隠れるところがない。

 極力、見つからないように気をつけながら進んだそうです。

 あすは目的の被服廠に着くだろうって日の夜のことです。

 その一団、とある農家に忍び込んだ。

 農家の人って夜寝るのが早いけど、朝起きるのも早いからね。寝静まったのを見計らって、なにか食い物がないかと入っていった。

 ひとりは土間を物色、ひとりは納屋を、鶏小屋を……と、慣れたものですから、みごとなチームワークで、ことばも交わさず各所に散らばる。

 でもね……魔が刺したというのか、ヤキがまわったというべきか。

 ガタン、とものすごい音がした。

 馬か牛か、それとも豚か……いや、鶏しかいなかったはずだ。じゃあ、いったいなんの音だ。

 ええ、みんな、かたまりましたよ。そりゃ……誰か起き出してきたって瞬間には、もう走りだしていなけりゃならないんですから。

 しかし、耳を澄ませてみても、そんな気配はない。

 じっとしていると、土間の方からハアハアと荒い息遣いが聞こえてきた。

 異変を感じて、外にいた連中も集まってくる。こっちはほとんど音をたてない。でも気配で分かる。

 土間の近くに集まり、固唾をのんでうかがっているうち、ほんの一瞬、小さな声が聞こえてきた。

「女だ」

 仲間の声でした。ふたつの影がうごめいている。ひとりは手足をもがいていて、もうひとりはそれを、どうやら縄で縛ろうとしているらしい。

 ああそうかって、手分けして口のあたりを手で押さえつけたり、縄で縛っている方を手伝ったりして身動きできなくしてから、外に無理やり連れだした。

 月光のもとで見ると、じつに美しい女性でした。

 それで、どうする? と、なったんです。

 このまま縛ったまま置いておき、物色しつづけるか。

 だれかに見つかったのはゲンが悪い。すぐにでも逃げるか。

 異性に興味のある年頃ですから当然ながら、この女性を欲しがる者もいる。

 でも、迷ってる時間はないんです。日が昇る前には決めなければならない。

 そのうえ、その女性は嗚咽をもらしていて、猿ぐつわをしていても声が聞こえている。

 泥棒してパーッと逃げるのが専門ですから、こんな場面に慣れていない。

 まあ、慣れるってのも、どうかと思うんですけれども。

 あれこれ話し合ってても無駄だ、よし、みんなじぶんの考えをひとつに決めろ……となって、それぞれが小声で意見を述べあったところ、とにかくその女性を移動させて、慰みものにしようという者がほとんど。

 ひとりだけです。そんなことはするもんじゃない、俺たちゃいままで、そんなことはしなかったじゃねえかっていったのは。

 ああ、分かった、じゃあこれまでだ、おまえとはおさらばだっていうことになりまして……いや、仲間意識っていっても、きちんと……きちんとというのもおかしいけれども、きちんと泥棒業をやってゆくための仲間意識でしたから。

 それで、そのひとりが立ち去ろうとした瞬間です。

 なんだ、おまえら! って、野太い男の声がした。

 それとほぼ同時に、わらわらとどこに隠れていたのか、人が集まりだした。

 鋤、鍬、鎌、竹刀……手に手に得物を持っているのが夜目にもはっきり分かる。

 待ち伏せだったんでしょうか。

 その一団がくる前にも泥棒が入っていて、それで警戒していたのかもしれません。

 ともあれ、いっせいに逃げだした。

 逃げるときは、かたまらないのが鉄則です。

 これもどういう呼吸か、逃げだしたときにはみな別方向に駈けだした。

 でも、相手が多すぎた。

 すぐに、ひとり、またひとりとつかまっていったんです。

 最後に……女性に手を出すことに反対して、立ち去ろうとしたやつが残った。

 はい、はい。

 ううん、どうなんでしょう。

 そんな道徳的な話でもないんですが……。

 そいつは、土間に入って大きな桶の中にもぐりこみ、騒ぎが収まるのを待とうとしたそうなんですよ……ええ、どさくさ。本当にどさくさですね。

 そこへ、あとひとりだ、ここに逃げ込んだやつがいたはずだって、数人が入ってきた。

 身を小さくするといっても限りがある。

 桶の中を見られたら、一巻の終わりです。

 覚悟を決めたところで、入ってきたひとりがいいました。

「この中か」

 ああ、駄目だ。見つかった。

 ところが、そいつのいる上に、二、三人が覆いかぶさるように覗き込むと、口々に……こういい合ったんです。

「なんだよ、竹の束じゃねえかよ」

「生垣でもつくるのか……こんなに」

 そこへまた土間へと入ってくる物音があって、

「いや、こりゃあずいぶん古いぜ。役には立たんだろう」

 なにかでそいつを突きだしたんですが、どうやら、本当に竹をまとめたものだと思っている。

 そのうち、他の場所を捜そうってことになって、ガヤガヤいいながら出てゆき……人の気配がなくなったのを見計らって、そいつは脱出したそうなんです。

 ああ……これで終わりです。

 いや、いや……。

 ああ、終わり……ようやく、終わりです。

 死ぬ前に話せてよかった。

 本当に、よかった。

 ええ、そうです。そのとおり……。

 このとき、竹の束にまちがえられたのは、わたしなんです。

 わたしだけ、捕まらなかった。

 ずーっと、心のどこかでひっかかってたんです。なんでこのとき、捕まらなかったんだろうって。

 いやいや、理由なんて……。

 もうすぐくたばるっていう、この期に及んでも、わたしには分かりません。

 ただ、だれかに話せてよかった。本当に、話せてよかった。

 それだけです。


   第二十六夜 小人の関ヶ原

 昔のことを調べるのが趣味でね。歴史の教科書っていったら偉い人がゴシック体で書かれて、何とかいう戦争や事件があって……なんて感じだったけど、それだけが歴史じゃないからね。

 一般の人たちがどんなふうに生きていたか、随筆やら日記やら読んでいると、それがわかって面白いんだよ。

 好きこそものの何とやらで、いや、へたの横好きっていうこともあるけど、独学で古文書もある程度、読めるようになったんでね。

 江戸時代の古文書だったら、ちょっと勉強すれば読めるようになるよ。手書きだから字のうまい、へたはあるし、墨のぐあいで判読しづらいのもあるけど、古文たって日本語だしね。

 去年の春先だったな。神田の古書街で和綴の本を手に入れたんだ。

 嘉永年間、松前伊豆守の家来が書いた日記だっていうことでな。

 全体でも半年ほどしか書いていないし、しかも日にちがとびとびだしで、史料としては全然価値はない。三、四十ページくらいしかなかったし。

 ちょっとその頃、新撰組に興味がむいててさ、幹部格に永倉新八って人がいるだろう……知ってる? うん、その永倉はね、江戸の松前藩邸の中にある、長屋にいたんだよ。

 ちょうど時期が合うから、ひょっとしたら永倉のことが書いてあるんじゃないかなって思ってさ。うん、その日記の作者も常時、江戸詰めだったから。

 でもさ、いざ、うねうねした字を読み取ってったら全く載ってなかったんだよね、これが。

 神田といえば昔さ、小説を一本書くのにトラック一台分の史料を買いあさった白髪おやじがいたらしんだけど、俺はちょっと新撰組に興味あったってだけだし、ハズレを引いたからって他の古文書を探そうとは思わなかった。

 衝動買いでもなかったんだけど、立ち読みして「永倉」って字をその中から探すほど高い値段がついてなかったからね……まあ、後悔先に立たずさ。

 それでも、松前藩の江戸詰めの藩士が過去のある一日、どう過ごしたんだろうって興味はあったからね。読み進めていったら、こんなことが書いてあった。

 嘉永六年七月。前の月に、ペリーが浦賀にきていた。そんな時分の話。

 ええとな。「この怪談、近頃市井にて噂せりとて、かつを売より聞きたり」って具合に始まって。

 夜、横になっていると、どこからともなく多数の侍が現れたんだと。それがみんな小人で、一寸にも足りないくらい。

 小人なりに、鎧兜の装いで、旗指物や火縄銃を持ったものもいる。

 布団の左脇にそいつらが、わらわら集まってきてな。あきれて見ているうちに、二手に分かれていく。

 似たような色合いの者どうしでかたまって、あちこちに散らばって……何だか、陣取りをしているようだ。大きな一団もあれば、ほんの数人ほどの一団もある。

 それが喊声をあげたかと思うと……いくさを開始したんだ。

 一寸くらいの小人っていっても、いっせいに大騒ぎを始めたから、うるさいことこの上ない。

 はっと気づいて家人を呼んだんだが、誰も答えなかった。そもそも小身の藩士だから、家族しかいない。

 ああ、ほんとうにいくさをしていてね、倒れるやつもいれば、これもごく小さいんだが……馬に踏まれるやつもいる。馬を槍で刺す者もいる。大砲の準備をしている者もいるし、一列に並んで下知を待つ鉄砲隊もいる。

 そのまましばらくの間、戦闘がつづいたんだが、主将の采配が互角らしく、かんたんには勝負がつかないようだ。

 両軍いずれも死屍累々で、悲惨な光景……でも、見ている方はまぶたが重くなってきた。この怪異を最後まで見届けねばと、意識を集中するけれども、昼間の疲れでそれも怪しくなってきた。

 うとうとしては、はっと目をさます。

 目の前では、小人が刀や槍をふるって奮戦中。

 火縄銃の部隊が、突然発砲する。

 うるさいんだけれども、なぜかまた……眠りこんでしまう。

 次に目をさましたときには騎馬隊が、あろうことか藩士の二の腕から駆けくだって、突撃を開始したところだった。

 これで勝負あったか……だが、いくさの行方を見届けようと意識をむけたはずが、次の瞬間には寝てしまう。

 大体こんなことを払暁までくりかえし、いくさの帰趨がわからないまま朝を迎えた。

 当然、睡眠不足でね。

「ねずみの仕業といふ者あるも、まこと修羅の極みならん」

 なんて、日記の作者はすましてるんだけどさ……鰹売りから聞いた噂話がね、怪談に化けた。この作者、そう記した晩から三日連続、同じ目にあったんだね。

 正体を突き止めようと、飼い猫を寝間にはべらせたり、濃い茶をいっぱい飲んでみたんだが、噂話どおりだった。

 三日目になって、どうやら関ヶ原の一戦を再現したものらしいと気づいたくらいでね。

 別の人から、作者が聞いたことには……。

「この怪、話を聞きし者のもとに現ると。誰かに話さば、すなはち止むとなむ」

 話を聞いたら、その怪異が起きる。誰かに話せば止むってさ。

 今もよくあるパターンだよね。この話を聞いたら……っての。それが、二百年近く前にもあったっていうのが、面白いじゃないか。かえって斬新でね。

 ああ、俺のところには出なかったよ。この話を、ただ字面をなぞって読んだだけだからかもしれないね。あんたはどうかな……俺から話を聞いたわけだから。

 いいんじゃないの、ちょっと寝不足になるくらいだし。小人の関ヶ原合戦、見てみたら?


   第二十七夜 ならない畑

 明治五年か六年か、尾道……うん、広島県の尾道。

 その、尾道でのできごとじゃ。

 とある豪農の家に強盗が入っての、無慚にも一家皆殺しの目に遭った。

 みんな死んじゃったから財産を受け継ぐ者はなかったんだが、親族だ遠縁だなんだとたくさん現れて、何人かに分けて相続したんじゃな。

 それで、大豆やってたからまず畑に大豆まこうってことになってな、まいたんだが……これが、いつまでたっても芽が出ない。おかしいっていって掘り返してみたらば、みんな腐れとる。

 もう時季を外れとろうが、少しでもならそうってんで、まき直してみた。

 じゃが、やっぱり芽が出んのんじゃ。

 畑がただで手に入ったんだし、まあいいやって、その年はあきらめることにした。

 あくる年、大豆は駄目だったから麦にしてみようって、まいてみた。

 すると芽が出てのう、十センチばかりは育ったんじゃが、それ以上には伸びん。

 土が悪いのかって掘り返したらのう、みんな根が腐れはじめておった。

 なぜか、どれも三日月の形になっとる。そういえば、去年大豆をまいたときも、こんなふうに……三日月のようになって枯れとった。

「今年はどうじゃ、あんたの畑」

 隣の人に聞いたらな、

「去年と変わらん」という返事。

「うちのはまた枯れとる。去年も駄目じゃった。どうもこうもならん……もしかして、こういう病気なんじゃろうか」

「どないなっとん」

「大豆と麦をまいたんじゃが、土ん中で腐れるんじゃ。三日月の形に」

 そしたら隣の住人の顔が、みるみるうちに蒼ざめてゆく。

「あんたんとこの畑、なにやっても無駄じゃで」

「なんでじゃ」

「あのなあ、あんたの畑って前持っとったのが、賊に殺されとろうが」

 うなずくと、

「それがなあ、三日月の晩だったんじゃ。もう、あんたんとこの畑、まともなもんは、ならんで」


   第二十八夜 上品すぎる奥さん

 六十五になったら仕事やめて、田舎でのんびり暮らそうと思ってたんだ。

 そうはいっても六十五歳になってすぐにハイやめます、あんたに会社譲りますっていうわけにもいかない。

 会計上のことやら登記やら、得意先へのあいさつまわりだってある……んで、五年くらい前から計画立ててな。

 俺じしんは少しずつ現場から離れるようにして、たいていの仕事は部下に任せていって。

 そしたら、思っているより早く……そうさな、予定よりも一年半くらい早かったかな、もういつ引退してもいいだろうって状況になった。

 もちろんやり残したこともあってさ。ああ、俺は田舎暮らししたかったんだって、思い出した。

 女房はずいぶん前に亡くなってるし、子供はみんな独立してるから身軽っちゃ身軽なんだが、かといってあんまり田舎でも困る。

 借家でいいが、景色がよくて木々に囲まれてるところがいい。

 将来を考えると病院が近くにあった方がいいし、電車がとおっててなにかあったら都心に出られるところがいい。

 ……ぜいたくいうなって叱られそうだが、終のすみかだ。ちょっとくらい贅沢いったって罰はあたるめえ。

 とにかくそんなんで、つてをたどって物件を見繕ってもらっては、暇を見つけて現地に飛ぶってことをくりかえした。

 運のいいことに、青梅の近くでぴったりの場所が見つかったんだよ。

 里山を切り開いたような印象で、家は坂道のてっぺんにある。

 途中は畑ばっかり。

 ぽつりぽつりと、最近建った風の家がある。

 目当ての物件は平屋建ての4LDK……ああ、こんなん広すぎるくらいだ。

 だいたい二階なんて年寄りにゃ、いらんからな。あんたも憶えとくといいよ。

 バルコニーからは眼下の農村地帯が見渡せて、家の背後には雑木林。庭は雑草でぼうぼうだが、境界を確認したら趣味の園芸にはじゅうぶんな広さ、いやいや、むしろ草木だの野菜だの果物だのってやるなら、へとへとになるんじゃないかってくらいだった。

 うん、探してたのとぴったり合ってるって、喜んださ。

 借家なんだが、敷金礼金不要、家賃もただ同然でいいっていう。

 こういっちゃなんだが、都内から見ればドのつく田舎だけれども、安すぎる。なんか裏があるんじゃないかと疑うわな。

 もちろん理由を聞いた。やばい事情があるんじゃないだろうなって。

 そしたら、仲介者が名前を出した大家というのが俺も間接的に知ってる……まあ同業者で、っつっても向こうの会社の方がどでかいんだけれども、いまはちょっと潮目が悪くてな、週刊誌やスポーツ新聞で叩かれたってことがあって、おとなしくしてる。

 で、向こうは俺がそろそろ引退するってことも知ってて、まるっきり知らない人間に貸すんじゃないんだからといってるって。

 ああ、大家はいちども住んでないんだ。数度泊まっただけらしい。

 別荘として建てるには建てたけど、行く暇がとれずに持てあましているし、当然ながら住むもんがいないと、家はすぐに傷む。

 じぶんと同じ年代の男のひとり暮らしなら、住んだところでそうあちこち傷つけはせんだろう。

 すぐに俺は契約することにした。

 年甲斐もなくウキウキしちまってな、ちょっと暇ができるたびに出かけてった。

 本格的に住む前の、予行演習みたいなもんだ。

 どうもこの家にゃ合わないとなったら、謝って別な物件を探すまでだ。懐もそんなに痛まないしな。

 ああ、仕事の方は立つ鳥なんとやらで、濁ったのをできるだけ澄んだ状態に持ってくようにするだけだからな。

 時間はかんたんに作れた。

 これまで一生懸命、頑張ってきたんだ……接待だなんだって連日連夜飲み回ることもよくあったし、忙しい時期は徹夜もしばしば、ずいぶん身体に悪いことをしてきた。

 ここらでもう休んでもいいだろうってな。

 こうして何度か出かけるうちに、お隣さんと……といっても、いちばん近くて三、四十メートルはあるんだが、仲良くなってな。

 坂道の両側にある家の人とは、あいさつして世間話するくらいになった。

 中でも、坂道のちょうど真ん中に、わが家と同じような平屋の一軒家があってな、そこの奥さんと親しくなったんだ。

 見た目は俺よりずっと若くて、何度か話すうち、旦那も子供もいないことが分かった。

 ……なんだよ、なにニヤニヤしてんだ。

 ああ、そうそう、そうだろうよ。

 こんなんならよう、俺だってまんざらじゃないんじゃねえかって思ったわな。

 もともとここに住んでたのか。

 引っ越してきたんなら、なんでこんなとこにしたのか。

 結婚したことはあるのか。

 うん、いやいや……そうじゃない。バツイチでもバツニでもいいんだが、ある程度の年齢になったらな、結婚したことがないってのは、やっぱりなんかがあるもんなんだよ。

 男と話して金稼いでる女相手ならスラスラ質問が出てくるんだけれども、なかなか俺は突っ込んだことが聞けなかった。

 いちばん気になったのは、その奥さん、上品すぎるんだよ……ああ、過ぎたるは及ばざるとかなんとか。

 ちょっといまどきないくらいにな。なんかしているときの動作は柔らかいし、ラフなかっこうをしてても、全然くだけていない感じ。笑顔に邪気はないし、つくったようでもない。

 そういうのはまあ訓練しだいである程度まで、ごまかせる。だがな、ことばってのはなかなか、ごまかせんわな。

 庭で植え込みやなんかに水やってるときに会ったとしたら、こうだ。

「ああ、本日はたいへんお日柄もよろしゅうございますね。どうぞお気をつけて行ってらっしゃいまし」

 酒のアテを持ってきたときは、こうだ。

「お口に合いますかどうか、はなはだ心もとないのでございますけれども、お召し上がりくださいますれば幸いでございます」

 ……ああ、舌噛みそうになるな。

 そのまんまじゃないかもしれんが、まあこんな具合だ。育ちがいいったって、いくらなんでも度がすぎてるだろう。

 ああ……笑え。笑ってろよ。

 俺の鼻ん下は伸びてたろうさ。

 老いらくの恋、か。

 そこまでいかんでも、何ともいえない淡い心の動きはあった。

 ときどき、お酒のおつまみにどうぞって持ってきてもらったんだが、これが実に美味い。

 全然所帯じみてなんかないのに、料理の腕も相当らしい。

 いやいや、気があるとかないとかじゃないんだ。

 他意ってのが、全く感じられん。

 持ってくるようになった少し前に、あんまり料理はしないって俺がいったからだよ。そんな雰囲気だった。

 もらってばかりじゃ悪いからって、俺もさあ、会社で女の子に聞いて。

 いま人気だとか流行ってるとか、本当に美味いもんとか。

 それでケーキやら和菓子やら持ってったりな。

 それを口実にちょっとだけ立ち話したりして。

 こうしているうち秋になって、めっきり涼しくなったある日のことだ。

 奥さんがつまみになるようなものを持ってきた。たぶん俺の家に灯りがついたのを見つけて、つくってきたんだろう。

 それで俺、とうとういっちまったんだ。

「もしよければ、話し相手になってもらえませんか」ってな。

 奥さん、にっこりしていったもんだ。

「わたくしなどでよろしければ、拝聴いたします」

 ハイチョウ、だぞ。ハイチョウ。

 うちの社員に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだったね。

 ああ……まあ、それはいい。とにかくこうして奥さんを招じ入れたと思いねえ。

 いやあ、そのときの酒の美味かったこと。秋の夜長にひとりだけじゃ、やっぱり寂しかったんだなあ。

 いろいろ話したってより、俺が一方的にまくしたててたんだが、奥さん、嫌な顔もせずに、うんうんってニコニコしながら聞いててな。

 この人と男女の関係になったりなんだり、なんてことまで望まん。

 たまにこうして酒の相手をしてもらえたら……それだけでいいと。

 気づいたら、俺は布団の中で寝てた。

 いやいや、そりゃない。

 うっすらとながら、奥さんが帰ったのを見届けた記憶がある。

 俺しかいないのに少しバツの悪い思いをしながらリビングに入ると、なんか食いもんのにおいがした。

 キッチンに行ったらな、そこに朝めしがあってさ。

〈大変差出がましゅうございますが、朝食の準備を致しました〉って書き置きがあって。

 またその字が、かわいらしいんだ。

 ああ、実はあるんだ。これこれ、これだよ……まだ持ってるんだ、そのときの……。

 ひさしぶりに二日酔いだったんだけど、気分は最高だった。

 その日は、いったん東京に出て用事すまして、また手土産用意して奥さんのところに持ってったんだよ。

 でもな、呼鈴押しても出てこない。

 留守かなと思って、坂道のぼって俺ん家にいちど行ってさ。

 日が暮れてきて、電気つかんかなって奥さんの家を見てたんだけど、暗いまんまだった。

 なにもいってなかったけど、泊まりがけで旅行にでも出かけたのか……奥さんが好きだっていってた店のケーキだったから、早く持ってってやりたかったんだけど、しょうがない。

 冷蔵庫に入れておいて、ひとり酒。

 見るともなく見ないともなくテレビを眺めつつ、ときどき奥さんの家をうかがっていた。

 しかし、やっぱり電気がつかない。

 なんかあったのか。健康そうではあったけれども、万一、家の中で倒れでもしてたら。

 一杯やってるからな。そう思い出したらもう止まらない。

 どんどん悪い方に考えちまう。

 もう寝巻に着替えてたけど、上にジャンパーはおって奥さんのうちまで行ってみた。

 そしたらさあ、さっき訪ねたときとまるで雰囲気が違う。

 奥さんが丹精して育ててたバラなんてどこにもないし、ミニトマトもキュウリもない。

 庭いちめん、草ぼうぼう。建物は荒れ果てている……窓ガラスが割れてる。

 リビングに月光が差し込んでいて、床のあちこちに穴が開いているのが見える。

 壁の塗装が剥げていて、記憶にある色、落ち着いた感じの焦茶色がぼんやり淡くなっている。

 腐った木のにおいが、濃厚にただよっている。

 ああ、駄目だ……嫌だな、もう。

 ああ……うん、話すさ。最後まで。

 はっきりしていたのは、奥さんはそこにいないということだった。

 うん、そのとおり……それから会えてない。今日に至るまで、いちども。

 近所の人に聞いたら、どいつもこいつも……その家はじぶんがくる前から空き家で、荒れ果ててたっていう。

 そういえばな、だれも見てなかったのに気づいたんだ。

 俺と奥さんが話しているところに、だれかがいた試しがないってな。

 ああ、そうそう。否定せんよ……俺はバカなことに、どこかでそれを都合がいいように思っていたんだ。

 近くの図書館に行って、古い住宅地図を見てみた。

 でも、名前が載ってなくてな。

 こんど土地の登記を見てこようと思うんだが、はたしてそれでいいのか、分かってしまったらかえってよくないんじゃないかってのもあってな。迷ってる。

 いつかまた会えるって、思ってるさ。

 ああ、奥さんが例えもう死んでる人間だったっていいさ。

 会いたい。もういちどだけでも。


   第二十九夜 入院中に

 たいした話じゃないんですけどね。中学一年生のとき、一か月ほど入院していたことがあるんです。そのときの話をいくつかしましょう。

 数十年前のことですから、その病院も建て替わっています。別に誰かに迷惑がかかることもないでしょう。

 私は市立病院の小児科に、入院しておりました。

 小児科を出て、すぐ右手にある風呂場。入院患者用なんですけれども、ここにはお婆さんが出ました。

 紫色の着物姿だそうで、目撃者は多数……しかし私は、ついぞお目にかかることはできなかった。

 私が入院する前に亡くなった子がおりましてね、何で亡くなったかは聞いてませんが、子供でも死ぬという事実だけでも、当時の私には恐怖でしたよ。実は私の病気も、原因がはっきりしてはいませんでしたから。

 この子が、死後もときどきトイレに現われるっていうんですよ。病院ですからね、毎度検査のために尿をとらなきゃならない子もいます。小便器に向かいあって尿を集めておく棚がありましてね、死んだ子はその前に立っている。

 亡くなる間際まで、きちんと尿を採っておくような子だったと聞いています。ただね、最期の方はトイレにむかうのも辛い状態だったそうで……今から思い起こしても、かわいそうでね。生きていれば、もう五十近いんですが。

 当時の第一外科の病棟には「死人部屋」があるって、もっぱらの噂でした。

 これは、重篤な患者を入れる部屋だから、亡くなることが多いというだけの話なんです。危急の事態に備えるため、ナースステーションのすぐ前の部屋でした。ですから勝手にそう呼んでいただけでして。だいいち、患者にしてみたらたまったもんじゃないですよね。

 あるとき、この部屋にいた人が、ぶつぶつ何かいっていた。

 検温に来た看護士が、あら、ひとりごとなんて言って……どうしたんですか? って聞くと、その人は怪訝な表情になった。

「ひとりごとじゃないよ。今、○○さんと話してたんだよ!」

 ○○さんは、その人が入院する前に、同じベッドで亡くなっていたそうです。

 私もこの部屋をのぞいたことがありましたが、ドアが閉まっていまして「面会謝絶」の札がかかっていました。

 そもそもこんな話、同室の水野君からよく聞いたんですよね。

 話の後で、じゃあ確かめてみよう……となるわけです。消灯時間が過ぎても病室を抜け出して遊びまわる。まあ年端もいかないガキのやることです。

 呼吸器科でしたかね、診療室の入口付近に男の顔が大きく浮かび上がると水野君から聞いて、さっそく二人で行ってみたことがあります。

 長椅子にふたり腰かけて、しばらく天井付近を眺めていたところ……。

 ううぁぁーーあああっ……と、声がした。

 二人、顔を見合わせました。すると、

 うわぁああーああっ……と、今度ははっきり聞こえました。

 さすがにシャレにならないんで、すぐに走って逃げ出しました。

 階段の踊り場まできて、そこで息を整えたんですが、なぜか笑いがこみあげてきましてね。お互いに何がおもしろいのか、ずいぶん長いこと笑いあっていました。夜だし、見つかっちゃいけないんで、息を殺してね。

 他愛もない話です。

 その後まもなくして、私の退院が決まりました。

「おまえはいいよな……。おれは、ずっといなきゃならんから……」

 水野君がそういいました。

 私は子供だったんですね。そのとき初めて、水野君の長い入院生活を思ったわけなんです。

 それはそれで、恐怖であるかもしれない。

 水野君は遺伝性の糖尿病でした。やっぱり今、五十歳くらいのはずです。元気にしてるといいんですが。


   第三十夜 応報

 明治の初め、北海道であったことです。

 場所は万一にも差しさわりがあるといけないんで、石狩川の上流のある村落、とだけ申しておきましょう。

 札幌や小樽よりは少し開拓が遅かったところです。

 まだ道路ができていないので、その頃は人の移動や物資の運搬など、川を舟でいくのがふつうでした。

 石狩川はいま長さでいうと日本で第三位ですか、それでも旭川あたりより上流になると、ずっと川幅がせまくなります。

 そのせまくなってる流域で、ある日、舟がぶつかってしまったんですね。

 おまえがよけろ、おまえこそよけろっていってるうちに、衝突してしまった。

 岩の多い場所だったんでしょう、衝突した勢いでさらに舟が岩にぶつかって破損し、それでまたおまえが悪い、おまえこそって、喧嘩になりました。

 いまなんか比べものにならないくらい、みんな気が荒かった時代です。

 なにせ、ヒグマは我がもの顔で出没するし、冬は雪が積もるわ寒いわで、大自然の中で暮らすっていっても、ゆるくありませんからね。生き伸びるのに必死だった。

 そのふたりをAとB、とします。

 Aが、Bをドンと押した。

 するとBはそのはずみにひっくり返って、運が悪いことに頭を打ったんですね。

 血がどんどん出てきたのでさすがに慌てたAは、Bの額にきつく鉢巻をしまして出血を防ぎ、それからより破損の少なかったじぶんの舟でもって、急いでじぶんの住む村落まで行って女房にBを介抱させました。

 この顛末は、すぐ村落中に広まりました。Bの住む村落からはまもなく、年老いた母親がBの幼い子供をつれて、やってきた。女房は北海道にきてまもなく、体調を崩して死んでしまっていた。

 喧嘩両成敗というが、AはなんともないのにBは大怪我をしている。

 Aはなんらかの形で償うべきだろうと、みな口々にいいあっていたところ、数日後に憐れBは死んでしまったそうです。

 今はの際にBは、Aの謝罪を受け入れ、

「俺はもう駄目かもしらんが、そうだとしたって、あんたの命で償ってもらったっても仕方ない。俺が悪かったことにするから、その代わりに婆さんと子供の面倒をしっかり見てほしい。それでいっさい恨まんよ」

 筆硯を持ってこさせてその旨をしたためると、まもなく死にました。

 しばらくの間、Aは神妙にしておりました。

 Bの遺族にはまとまった金を払い、ことあるごとに顔を出して食べ物を与え、病気になったとなれば薬を渡し、医者を呼んで……と、しっかり約束を守っていました。

 ですが、一年もたつとだんだん疎かになってきて、まる二年が過ぎてからは、全くBの家を訪れることが絶えてなくなりました。

 Bの老母には生活力がありませんでしたから日に日に困窮してきて、Aになんとかしてほしいと何度も頼んだのですが、Aはもうじゅうぶん償ったじゃないかといって取り合いません。

 思い余って郡役所に訴えると、Aが呼び出されることになりました。

 でも、老母の期待とはうらはらに、Aが提出したBの遺書が決め手となって扶養の義務はいっさいないとの裁定がくだりました。

 そうです。Bみずから非を認めているので、無罪のAに賠償責任はない……と、こうなってしまったわけです。

 絶望したBの老母が子供に手をかけ、みずからも頸をくくったのは、それからまもなくのことでした。

 Aが死んだのは、さらに数年後のことです。

 酒を飲んで、家人が危ないからやめろというのも聞かずに舟で移動中、死んでしまったんです。

 はい。岩に頭をぶつけて死んだんです。

 ちょうど、喧嘩になったときにBが頭をぶつけた岩でした。

 翌朝、通りかかった同村の者が見つけたのですが、Aの遺骸にはなぜか手足がなかったそうです。

第31話~第40話

   第三十一夜 追尾する幣束

 明治の中頃、新潟県の魚沼であった話です。

 当時の魚沼郡にあった大浦村と浦佐村との間に柳原という場所がありまして、これは現在、魚沼市柳原になっています。

 市内を流れる魚野川に面した一角で、名前のとおり柳がいっぱい生えていたんでしょう。ちなみにこの魚野川は北西へと流れてまもなく信濃川と合流します。

 ある秋の夕暮れどき、この柳原を大浦のお百姓さんが歩いていると、前方に奇妙なものを見つけました。

 幣束……はい、ヘイソクです。お祭りのときに見るあれです。いろいろ種類があるみたいですが、これは紙を折ったものを木ではさんだタイプだったそうです。 

 いまお祭りのときに、といいましたけれども、別に近くの鎮守様でお祭りがある時期ではないし、臨時でなにか神事のたぐいがあるとは聞いていない。

 なんで幣束がこんなところに……と、訝しく思いながらも歩きつづけてゆくうちに、その幣束が大きくなってきた。

 幣束が移動している。しかも、こっちに近づいてくる。

 お百姓さん、立ち止まって目をこすってみましたが、なんど見ても確かにこっちへ向かってきている。

 一歩ずつ、ひょこひょこと。

 こりゃなにかまずいものなんじゃないか。

 慌ててきびすを返して駈けだそうとすると、そっちにも同じような幣束があって……これもじぶんの方に向かってくるようだ。

 柳の生えた野原ですから、左右に逃れられないこともない。

 お百姓さんは道を外れて、枯草の茂みに足を踏み入れました。

 しかし、少しゆくとやっぱり前方に幣束がある。こっちに向かってきている。

 背を向けて、草を掻き分け掻き分け進んでゆくと、こっちにも幣束。

 ぐるっと見回してみると、あっちにもこっちにも幣束があって、じぶんを取り囲んでいる。

 しかも、包囲の輪を徐々に狭めている。

 お百姓さん、もう生きた心地もしない。

 いちかばちか……叫び声をあげて手をばたばた振りながら、なんとか包囲を突破して、逃げ帰りました。

 じぶんの家に着くとすぐに寝込んでしまい、三日後に死んだそうです。


   第三十二夜 追尾する紐

 祖母ちゃんからね、こないだこんな話聞いたよ。

 ひいじいちゃんがね、うん、祖母ちゃんのお父さん。ええと……その、ひいじいちゃんが若い頃にあった話。

 朝、まだ暗いうちに目を覚まして、顔洗って服着て、神社にお参りに行ったんだって。

 ひいじいちゃんは東京に住んでて、神社は離れたところにあったんだって。それで朝早くに出かけないと、お参りできないみたい。

 玄関を出て歩いているとね、うしろでカサカサするから振り返ってみたら、紐みたいなニョロニョロしたのがあったんだって。

 蛇かもしれないって、ひいじいちゃんが思ってスピードあげてしばらく歩いて、振り返ったらまだ紐みたいなのがうしろにあったんだって。

 ゆっくり歩いても、走ってもそうやってついてくるから、すっかり気持ち悪くなったんだって。まだ暗かったし。

 もしかしたら、じぶんの着物から糸かなんかが出てるのかって調べてみたけど、なにもなかったんだ。

 あわててあっち行ったり、こっち行ったりしてみたけどやっぱりついてくるから、どうしようってなっちゃった。

 そしたら灯りが見えて、走って行ったらもうやってる店だったんだって。

 こんな朝早くからやってる店なんて、おかしいって思ったんだけど、それでもいいって逃げ込んだんだよ。

 でも店の人は別にお化けじゃなくて、ふつうのお婆ちゃんでした。

 そこは駄菓子屋で、明るくなってないのにどうしてって聞いたら、これから品物が届くからっていったんだって。

 ひいじいちゃんは走ってきて、のどがかわいてたから、お水ちょうだい、ちょっと休ませてっていったんだ。

 お婆ちゃんはいいよっていって水持ってきたから、それを飲みながら外を見たら、店の外にやっぱり紐のようなものがあって、ニョロニョロしてるんだって。

 お婆ちゃんに、あれなんだろう? って聞いたら、ああ気味が悪いって、戸を閉めちゃったんだって。

 ここにくるまで追っかけられてたっていうと、それはきっとよくないもんだから、しばらくここにいなさいって。 

 だからそこで休ませてもらうことにして、店にあったイスに座ってまたお水もらって飲んでいるうちに、明るくなってきたんだ。

 それで元気が出てきて、ひいおじいちゃんは立ちあがってお店の戸を開けました。

 すると、もう紐はありませんでした。

 じゃあ出発しようと思って、奥の方にいたお婆ちゃんに、ありがとう、もう行くよって声をかけようとしたら、突然外が騒がしくなりました。

 外に出てみると、向かいにある家の前でガヤガヤしています。人がたくさんいました。

 なになに、どうしたのって聞いてみたら、そこの家の人がさっき首をつったんだって。

 いまお医者さんを呼んでるけど、もうダメだろうって。

 するとうしろから現れたお婆ちゃんがね、おじいちゃんにこういいました。

 さっきの紐みたいなもののせいだって。

 あれにくっつかれたら、首くくって死にたくなるんだよって。


   第三十三夜 Doppelgänger

 ふだんは残業ってあまりないんですけど、決算の頃は毎日、終電まぎわまで仕事なんです。うちの決算は三月末で、まだちょっと肌寒いくらいの時季ですね。

 そうして忙しくしているある晩のことです。

 やっぱり帰りが遅くなりまして、乗ったのは終電でした。

 自分のうちの最寄駅についたら、早く帰りたいから改札を駆け足で抜けまして、アパートに向かったんです。

 住宅街に入ったら、もうその時間には歩いている人はいないんですよね。いつもは。

 でもそのときは、ふっと気づくと背後に人の気配があったんです。

 小走りに歩きながらふりむくと、十メートルくらいでしょうか、女の人が背をむけて立っていたんです。

 その人を見て、なぜか無性に腹が立ちました。

 ボブカットの髪で、クリーム色のスーツを着ていました。それって、私のそのときの格好にそっくりだったんです。

 背の高さも、ほぼ同じでした。こっちに背中を向けていますから、私とは進行方向が逆ですけれども、そんな人とはすれ違っていません。

 連日の終電帰りで疲れているからっていっても、睡眠時間は削らないようにしていましたし、もう何年も勤めている会社です。決算期に忙しいといっても、ある程度は慣れています。

 だいたい、いくら夜道でも、街灯の光で気づくはずです。

 もしかすると、あの人はここまで私を追いかけてきて、私がが振り返ると同時に、背中を向けたんだろうか……。

 そこでもう、考えるのをやめました。

 また五十メートルほど小走りに走って、足を止めないまま振り向いてみると――

 やっぱり十メートルほどの距離を保って、その人が背を向けて立っていました。

 気持ち悪い、嫌だ。

 もう夢中で走ったんです。アパートに戻って、鍵をさしこむのももどかしくノブをまわして、扉を開けると――

 そこに、あの女が背をむけて立っていたんです。

 私、気絶しちゃったんですね。目の前が暗くなって、意識がなくなる寸前に聞いたのは、こんな言葉でした。

「遅かったわね――」

 その声も、私そっくりでした。

 気づいたらあたりが明るくなっていて、私は玄関で倒れていました。いえいえ、まずしたことは時間を確認。まだ出勤するまで余裕があるって判断して、シャワーを浴びて着替えて……もういちど化粧しまして。

 バタバタしながら部屋の中を確認したんですが、これといって変なところはありませんでした。荒らされてもいませんでした。

 ええ、出勤しましたよ。ふだんどおり。

 肌はボロボロだし、玄関で気絶してましたから、身体のあちこちが痛かったんですが、そんなこともいっていられなくて。

 その日の夜、また仕事が終わって帰ってくるときには、その人は現れませんでした。

 あんなに似ているんだから、私の代わりに仕事をしてくれればいいのにって思ったんですけどね。

 それくらい、私とそっくりなでした。


   第三十四夜 彗星飛ぶ

 私の友人に、軍事オタクがいましてね。本人はそこまで詳しいわけじゃない、ただ、ちょっと好きな程度なんていうんですが、なかなかのもんなんですよ。

 守備範囲は旧日本軍で、軍用機が中心です。機種をあげたら、だいたい要目をあげることができるんです。全長とか高さとか、翼の幅や兵装なんかですね。

 戦時中に鹵獲されたゼロ戦……当時はふつうレイ戦と呼んでたんですけど、それが修理されて飛べる状態になったというんで、当時の他の戦闘機なんかといっしょに飛ばすショーがあったんです。そのときには彼、借金してまで行きましたね。ええ、アメリカでそんなのがあったんですよ。

 私も貸したんですが、まだ返してもらってませんけれど。

 その彼がね、行きつけの図書館でやっぱり軍関係の書物を読んでたときに。

 ぶうううん……。

 と、音がしたっていうんです。

 私らなんかにしたら蝿の飛ぶ音にしか思えなくても、やつにはそれが、艦上爆撃機の轟音に聞こえたんですね。

 耳をすますと、もうまちがいない――

 確信しました。このあたり、直感だっていうんですね。やつときたら、プロペラの音からどこのエンジンを使っているのか、ぱっと頭に浮かぶ。

 それが、海軍機の「彗星」だったらしい。

 同じ「彗星」でも、いくつか型があります。やつは、そのうちのどれなんだろうと考えながら音の出所をさぐりました。

 その音が、書架のどこかから聞こえるっていうんです。しばらく探し回って、やつが突き止めたのは、とある参謀長が書いた日記でした。

 戦時中の記事が多いし、重職についていた人の日記ですから史料としての価値が高いといわれているものです。

 音は、確かにその本から聞こえている。もしくは、その本が、音をたてている。

 やつは本を書架から引っ張り出し、手が汗ばむのを感じつつ開いた――でも、その瞬間にはもう音が止んでいたんです。

 その参謀長は終戦の日に、沖縄にむけて特攻して、殉職したんですね。ええ、そのときの乗機が「彗星」なんです。

 軍事オタクだからこそ、聞こえたんでしょうね。

 やつはいってましたよ。

「眼福」って言葉があるけど、そいつは「耳福」だったよ。

 私にも似たような体験がありまして、子供の頃、ゼロ戦が飛んでいるのを見たことがあるんですよ。

 やつからこの話を聞いて、ゼロ戦の音はこうだったんだが―― とゼロ戦の型を訊ねたところ、陸軍機じゃないのか、それ? って、笑われましてね。

 私は記憶を頼りに、いや、こんな感じだったかな、と口でプロペラ音を再現しまして。

 それから小一時間ほど、いい年した大人がふたりで、プロペラ音の口真似をしてました。


   第三十五夜 鮭の頭

 僕はもともと田舎もんだからね。

 秋田の山の中で生まれ育ったんですよ。昔話みたいなもんなんだけど、子供の頃にこんな経験をしました。

 十二月の初めだったかな。山ひとつ越えてね、婆さんの家に塩引きの鮭を二本、持っていけっていわれてね。鮭といえば冬の保存食って意味合いが、まだ強い頃だった。

 今みたいな防寒着はなくて、蓑だよ、蓑。君は実際に使ったことなんて、ないだろう。それをつけてさ。藁沓に唐辛子いれて。

 婆さんの家は、当時の私の実家よりも山深いところにあるんだ。だからよけいに鮭は貴重だよね。今じゃ車でちょっと町まで出て、買えばいいけど。

 出がけに親父がいうわけさ。

「途中に出る狐は化かすから、気をつけろよ」って。

 私はそのとき、小学五年生だったかな。そんなわけないだろう、からかってるんだろうって思うくらいの分別はあった。そしたら親父がつづけて、

「化かされてるって気づいたらその場で腰を下ろして、二、三回深く息を吸ってな、眉にツバをつけろ」

 なんていう。

 今思い起こしてみると、案外真顔だったかもしれない。

 でも、当時はそれを話半分に聞いてね。

 まあ、婆さんのところに行けば、何かごちそうしてくれるし、小遣いをもらえることもあったから、道中がたいへんなくらいで、嫌な気はしなかった。

 その日は、いい天気だった。うん、さすがに雪もようの日に、子供をそんなお使いにはやらないさ。

 雪が少ない年ではあったんだが、だんだん山場にさしかかってくると、やっぱり雪が多くなってきてね。鮭二本、荒縄で縛ったのを肩にかけていたのが、心持ち重くなってきた。

 そのうえ、雪がとけかかっているところがたびたび現れて、足をとられる。道端の木の枝に積もった雪がバサバサいって、落ちる。

 こういうとき、絶対休憩しない方がいいんだよ。動かないでいると汗がすぐに冷たくなるし、もう歩きたくないってなりがちだからね。

 それにしても、この鮭の重さはどうしたことだろう。

 峠を越えて、婆さんのうちのある集落が見える頃には、十本も二十本も背負っているように感じた。

 見れば、確かに鮭二本。当り前だけどね。

 背負うのを左肩から右肩に変えて、ちょっと歩いたんだけど、やっぱり重い。すごく重い。

 疲れたからじゃない、もう本当にたえきれない。

 そこで気づいた。もしかして、これは狐のしわざなんじゃないか、って。

 だけど私はね、親父のいうことを聞かなかったんだ。

 鮭をいちどおろして、一本ずつ両脇に抱えることにしたんだよ。そうすると、案外重くなかった。それからは、ずんずん歩いていけた。

 ところが、峠をおりきって集落の入口まできたらさ、犬が寝そべっていたんだよ。

 秋田犬みたいな風貌なんだが、これが秋田のゆうに二、三倍くらいはあってね。巨大な狐の襟巻みたいな尻尾を、バタバタ振っていたんだ。

 まるで熊みたいな、そんな巨大な犬が通せんぼをしていた。迂回することもできるが、雪の中をこいでいかなきゃならない。

 私は意を決してね、おそるおそる脇を通り抜けようとしたんだ。

 でも、どうしたはずみか、そのバタバタ振る尻尾を踏んずけてしまったんだよ。

 そんなでかい犬でも痛かったと見えて、急にけたたましく吠えて、飛び起きてね。

 私の方はもう、生きた心地がしない。何やら叫びつつ逃げようとしたんだけれども、足がもつれてしまって、転んだんだよね、その場で。

 いやいや……。それがね、次の瞬間には、犬の姿が消えてたんだよ。

 鮭? ああ、放り出していたさ。

 なぜかどっちも、頭の部分がなくてね。おおかた、私を化かした狐が取っていったんだろうさ。

 この話、疲れてたから幻覚を見たんだとか何とか、理由は何とでもつけられるよ。それでも私自身は、狐に化かされたと思ってるからね。きょうび、なかなかいないよ、そんな経験をした人間は。

 婆さんの家に着いてから、狐に化かされて、鮭の頭をとられたって正直に話したら、笑ってたな。

 あんたの父さんも子供の頃に、化かされたことがあるって。

 してみると、気をつけろって親父がいったのは、自分が経験したからだったみたいだね。


   第三十六夜 さまざまなる怪異

 怪談て、昔の話でもいいのか? ああ、そうか。いいの。

 別に家柄を誇るわけじゃないんだけど、俺のうちは武士の家系でね。新潟の長岡藩に仕えていたんだ。

 それで、ご先祖様は長岡に住んでたし、今でも俺の実家は長岡にある。場所は江戸時代とは変わっちまったんだが、昔いた場所のとなりに千本木さんて人がいたんだだな。

 その、千本木さんの体験談さ。ただし、ちょっと尻切れトンボな話なんだけどね。

 夕立が降った夏の夜に、所要を済まして千本木さんが帰ってくる途中、橋を渡ろうとしたら様子がおかしい。

 提灯をかざして前方をうかがってみると、橋の上いっぱいに雪が積もっている。そんな馬鹿な、と近づいたら、どうも綿らしい。

 その綿のようなものを踏みながら、橋を渡りきって振り返ると、もう消えてしまっている。

 狐狸のたぐいだろう、と気にせずにそのまま行くと、巨大な松があった。いや、その松自体はもともとあったんだが、梢の方から何やら変な声がする。

 夜目の聞く鳥でもとまっているのかと近づいてみると、夜目にも赤ら顔とわかる子供が二人いて、木の上で相撲をとっている。

 千本木さんは無視してそこを通り過ぎ、路地に入っていった。

 すると今度は、女の足が二本、道端に落ちていた。どこからともなく、

「細脛なれど折れはしません、細脛なれど折れはしません」

 と歌う声が聞こえる。

 やっぱりそれも無視して、しばらく歩くと後方から呼びかける声がする。若い女の声だった。

「一本木様はいずこぞ」

 と訊ねてくる。千本木さんは足を止め、

「知らん」

 と答えて、また歩きだした。

 すると、女はついてきたものと見えて、

「二本木様はいずこぞ」と訊いてくる。

 また、知らんと答えたんだが、女はその後も「三本木様は、四本木様は」と続けて訊いてきたんだ。

 そうさな、いい加減、うるさいわな。まあでき過ぎた話だけど、九百九十九本木様はいずこぞ、と訊かれたのが、ちょうど千本木さんの家の前だったわけさ。

 そのとき振り返ってみると、いつのまにか女は白髪の老婆に変わっていた。

 千本木さんが門をくぐると同時に、老婆がいった。

「千本木様はいずこぞ」

 千本木さんは慌てず騒がず門を閉ざしてから、ここだ、と答えた。

 老婆は「あら口惜し」といって扉をガリガリと掻きむしったという。その傷は明治維新の後まで、残っていたそうだ。

 ここらで話は終わりそうなもんだが、まだつづきがあってな、千本木さんが敷石を踏んで玄関まできてみたら、妻と子が出迎えていた。

 その顔がさ、どっちも馬だったんだよ。 

 家に上がって着替えているとき、何となく畳の上を見ると、一寸ほどの騎馬武者がいてな、畳のへりの上で戦っている。

 それも気にせず厠に入ったところ、頭を触ってくるものがある。手で捕まえようとするが、何もない。しばらくすると尻に触れるものがあるので、これも捕まえようとするが、手が宙をかくばかり。

 そこで千本木さん、尻に何かが触れた瞬間、腕を頭上の方へ伸ばした。感触があったのですぐさま抜き打ちに斬り払うと、ドンと家じゅうに響き渡るような音がして、気配が消えた。

 千本木さんの手には、針金のような銀髪が残っていた。

 厠を出て母屋にもどろうとすると、庭の踏石のひとつひとつに、人間の目がある。千本木さんは何度も瞬きをしてみたが、明らかに人間の目だった。その目を踏んで行ったが、特に変わったことはなかった。

 これで、この話は終わりなんだ。

 結局こんなことはその夜だけのできごとで、翌日以降は何も起きなかった。

 うちのご先祖様が千本木さんから聞いて、日記に書いた。それで俺もこの話を知ったってわけさ。

 千本木さんは戊辰戦争のとき、会津まで戦ったそうだよ。自分の隊の副総督を助けようとして戦死したんだって。

 ご先祖様は、長岡で降伏したんだけどね。


   第三十七夜 悪路神の火

 ガキの頃、日本最後の秘境だなんだって嘘くさいテレビ番組を見たことがあったが、こりゃまあ実話だろうってことで。昔話さ。

 伊勢の国紀州御領内、田丸領間弓村ってところ。うん、よく憶えたろう。

 昔、和歌山の徳川家が、いまの三重県まで領地を持ってて、その家来の田丸ってのが預ってた間弓村……ってまあ、こんなところだろうよ。

 これがどこかって調べてみたことがあるんだ。

 三重県の度会郡玉城町に田丸って地名がある。その近くだろうな、いまなんと呼んでるのかは分からんかったんだが、唐子谷ってところがあった。

 さらにまたそこに猪草が淵ってのがあって、これが秘境もいいところでな。

 全くいま地図を見ても想像できん。幅二十メートルくらいの川があって、杉の丸太を橋として渡してある。

 ああ、ただ木をボンと横倒しにしてある。丸木橋。そのうえ、この橋から下の川までこれも二十メートルあってな。むろん命懸けで渡らにゃなんねえ。

 橋を渡って山の方に入るとな、パラパラと音がする。

 雨でもきたかと思って、ひょいっと上を見ても雲ひとつない。

 またしばらく歩いていると、パラパラ、パラパラっと音がする。立ち止まって周囲を見回すが、異状はない。

 で……なんかあちこちかゆいなって見てみると、全身いたるところに山蛭が血を吸ったあとがある。

 それでああ、あのパラパラってのは山蛭が落ちてきた音だったんだと初めて気づくって次第。

 そんなふうなもんで、橋の向こうにゃあまり人がおらん。行き来もない。

 あるとき、主人の命令で調査しろっていうんで侍がひとり、丸木橋を渡った。

 ポツリポツリと山中に人がおった。それが、男だと思ったら女だった、女かと見れば男……と、着てるものから容貌から男女変わらん。

 顔役だって人物の家を探しだして、ここに落ち着いてな、侍はおあしよりも食いもんの方が嬉しかろうと、ひとつよしなにと青物だの乾物だの差し出した。

 すると顔役が首をひねって、これこれ、これは分かるけれども、この粉はなんだ、と聞く……侍が見てみると、それがなんと米だった。

 これは煮炊きして食うもんだと教え、じゃあひとつ食ってみようとなって米を炊いてな、晩飯になったところ、こんなうまいもんは食ったことがないって涙ぼろぼろ流して喜んだんだと。

 あっけにとられたんだが、こんなこともあって侍は主命を果たすべくあちこち状況を見て回った。

 米を食わせたおかげで、みんな好意的だった。数日たつと、これくらい調べればいいだろうってところまで進んだんで、侍はあした帰るって顔役に伝えた。

 じゃあお別れの宴をってことにもならんで、酒はないし、侍の方は肉を食わんしな。

 でも助かった、ありがとうっていってたところ、侍がふと小窓の外を見ると、ぼんやり明るくなっている。

 灯りが移動してると見えて、ときどき窓の外がポッと明るくなる。

 だんだん増えてきているようで、ほとんど日中のように明るくなることもある。

 夜のお祭りでもあるのかって、侍は立ち上がって窓辺に寄ってみた。

 すると顔役がやめろやめろ、と叫びだした。

「なにゆえじゃ」と侍が聞くが、

「見ちゃいけん、見ちゃいけん」と、くりかえすばかり、興奮している。

 顔役がいうのだからともとの座にもどり、顔役を落ち着かせてな、そのうえでもういちど聞いてみた。あれはなんだ、と。すると顔役は、

「悪路神の火だ」という。

 雨の日はことに多く燃える。

 火に近づいて死んだ者がもう幾人も出ている。

 避けるには、その場にうつぶせに寝てやり過ごすしかない。

 火に触れられた者はすぐに病気にかかって、命が助かったとしても長患いになる。

「だから、悪いこたいわん。見ない方がいい」


   第三十八夜 生祠

 江戸時代の中頃だったかな、じぶんの魂を祭るってことが一部の間で行われていた。

 祭ってある建物を、生祠という。

 ああ、祭られる人は死んじゃいない。生きてる。

 もうちょっと分かりやすくいうとだな、生きているじぶんの魂を祭るわけだ。

 ああ、魂ってもんは、いくつにも分けることができるんだ。

 そうそう……分霊ってやつだな。

 そして、同時にふたつ存在することができる。肉体と違って、どれかひとつだけってことはない。

 全国に神社があって、同じ名前の神様がいっぱい祭られているってのは、そういう理由によるんだな。

 生きている人を祭るって、そんなに変か?

 確かに、今はそんな話はまず聞かないな。生前立派だった人を死んだあとに祭るってなら、あるけれども。

 だが、ずいぶん前に、野球のピッチャーを大明神とかなんとかって祭ってたことがあったぞ。

 神社とはちょっといえないようなもんだったけどなあ。その大明神がどんなふうに祭られてたかは知らんけれども、俺のいま話してる生祠ではまあ、他の神社と同じだろう。お供えをあげたり、祝詞を読んだりしてたようだ。

 それで……石河さんて代官がいた。ふだん江戸に住んでるんだが、一時期、大坂の近くに任されている土地があったという。

 石河さん、めっぽう賢かったらしい。

 そのうえ領民のためにいろいろと心をくだいたっていうんで、そこの名主がつくったんだ……生祠を。まあ、ふだんあまりその土地には顔を出さんからな。

 ある日、石河さんが登城してみると……ああ、こりゃ江戸城。江戸城に出勤。

 そうするとな、なんだかまわりがジロジロと見る。

 手で顔を撫でてみたが特に変わりないようだ。たまたま心安い茶坊主が通りかかったんで、つかまえた。

「みどもの顔になにか異変がござろうか」

「お顔が赤うございます……お酒を召したように」 

 鏡を借りてみると、確かに赤い。

 石河さんは酒を一滴も飲めない体質だったんだが、顔が赤いのを確かめると酔っ払ったようになって、倒れちまった。

 当然その日は、仕事にならんかった。

 それから数日間、似たようなことがつづいた。

 全く酒を飲んでいないのに顔に赤みがさし、酔っぱらってしまう。

 外聞が悪いというので病気と称して自宅に引きこもり、その一方で医者を呼んで薬を飲んでみたが効果がない。

 せがれはまだ幼いから、隠居するわけにもいかん。

 さて困ったといってるところへ、大坂の領地から書状が届いた。そこには、

 常日頃よりの御仁政に深く感謝いたしまして、名主初め村役人一同協議の結果、石河様の生祠を設け備えることで一致、勝手ながら普請の儀起こし申し、先日無事落成いたしました。さっそく日々酒肴を献じて、御健勝を祈願しているところでございます。

 ……とこんなことが書かれてあって、ああ、これだと。

 生祠など建ててほしくはなかったが、いまさら壊すのもどうかと思うので追認する。

 でも、じぶんは酒が全く飲めないので、どうか酒を供えることだけは止めてもらいたい。

 そんなふうに返事を送って数日後、酒を供えるのをやめたと見えて、石河さんの顔が赤くなったり、酔っぱらったりすることはなくなったそうだ。


   第三十九夜 合宿所の怪異

 大学二年生の兄から聞いた話です。

 兄の大学はたいへん辺鄙な場所にあるんですが、開学からそうたっていないので、講義棟や教職員棟、講堂、体育館などの建物はみんな新しいし、立派なんです。

 ただ、野球部の合宿所は、古いアパートを買い取って流用したものなんです。きっと、そこまで予算が回らなかったでしょうね。

 他の運動系のサークルも、古い合宿所ばかりらしいのですが、野球部ほどではないそうです。

 その古い合宿所は、建物自体はそう傷んでいないし、全体に明るい雰囲気なんですが、一階の十畳の部屋で寝ると必ず金縛りにあうんです。

 それで、部員の間では「不思議の間」と呼ばれているそうです。

 ある晩、不思議の間で四人が寝ていたところ、ひとりがふと目覚めてトイレに立ったんです。

 寝ぼけたまま廊下を歩いていますと、何か庭の様子がおかしいのに気づきました。どこか、違和感がある。

 目をこすりこすり見てみると、数本立っている庭の木のうち檜の梢に、黒い人型の影が浮かんでいました。

 暗くてはっきりとはしないけれど、どうも女性のようだ。

 ――と思った瞬間、その女性が声を発しました。

 つづけて、何かをしきりにいっているけれども、ガラス戸越しだし、距離からいっても、とても聞こえるはずがありません。

 いえ、ちょっとは聞こえたんです。

 ボソボソと、かろうじて聞こえる程度に。

 その人は、何をいっているのか気になったんですね。少しだけ聞こえるけど意味をとれない状態って、よけいにそうなりますよね。人間、好奇心がありますから。

 ガラス戸の鍵をパチンとあけ、カラカラと戸を引いていくと、ようやく何をいっているのかが、わかりました。どうも女は、

「どうして、そんなひどいことを。子供を落としてなんて」

 と、しきりにくりかえしているらしい。

 茫然と見ていると、檜の梢の上から黒い影がするすると降りてきて、あっという間に彼の腕をとらえました。

 叫び声をあげたはずが、のどの奥がつまって声になりません。

 なにせ体力がありますし女の力とあなどって、渾身の力をふるって引き離そうとしたんですが、全く敵わない。無我夢中で手足を振るうものの、女の手はますます彼の腕にくいこんでくる。

 そればかりか、ズルズルと引っ張られて庭へおりさせられたかと思うと、瞬く間に洞穴のような暗い場所へと引きずりこまれました。

 女はその入口を、戸板のようなもので塞ごうとします。ですが、彼の腕をつかみながらなので、なかなかうまくいきません。

 すべて入口が覆われようとしたとき、その隙間に、ちょうど誰か通り過ぎるのが見えました。

 彼は意を決して、再び渾身の力をこめて戸板に体当たりしましてね、戸板がむこうに倒れるやいなや、通りかかった人の腰のあたりへと飛びつきました。

 その飛びついた人というのがですね、同じ部屋で寝ていた野球部員だったのです。

 いいえ、彼がいなくなったからと捜していたわけではありません。

 彼と同様に、トイレに行っただけ……というか、ここが不思議なところですけれども、彼が体当たりした戸板は、トイレの扉だったんです。

 ちょっと下品な話ですが、彼はちょうど用便中のチームメイトの腰にすがりついたと、まあこういうわけなんです。

 どっちもびっくり仰天、大声をあげたので、建物のあちこちで明かりがつき、やがてつぎつぎに部員たちが集まってきました。

 彼は懸命に今起きたことを説明したんですが、誰も信じませんでした。説明するにも混乱していたし、話の順番は間違えるしで、夢でも見たんだろうということで片づけられました。

 翌朝になって、食事の際に彼はからかわれたんですね、その一件で。肝っ玉の小さいやつだ、臆病にもほどがあるって。便所の戸を壊しましたから、弁償するなり自分で直すなりしろよ、なんて声もありました。

 そうやって、わいわい笑い合っていると、奥から賄いのおばさんが出てきましてね、こういうんです。

「ここはもともと、いわくのある家だからね。変なことが起きてもおかしくないよ。いったい何があったの?」

 彼がぽつりぽつりと、あまり要領を得ない様子で語り始めたところで、おばさんがその話をさえぎりました。

「ここでベビーシッターをしていた女の人がね、まちがって赤んぼに怪我させたっていうんで、クビになっちゃったのね」

 エプロンの前掛けで手を拭きつつ、部員一同の前に出てきました。

「それから精神的におかしくなっちゃってさ、あんたが見た場所―― 檜の枝に縄かけて、ぶらさがっちゃったのさ」

 一同、押し黙っていると――

「あんたたちが『不思議の間』っていっているところ。あそこで赤んぼを落っことしちゃったみたいよ」

 ひとりが聞いたんです。そんな怖いことが起きるなら何で今まで言わなかったんだ、ってね。するとおばさん、

「一日に十杯も二十杯もごはんを食べる、あんたらの方が怖いよ」

 そういって笑ったそうです。


   第四十夜 蚊帳

 これは、ずっと誰にも話さなかったんだけど……何だか、頭がおかしくなりそうでね。でも、もうずいぶん昔の話だし、そろそろ人に話した方が、かえっていいかな、って思って。

 中学二年の夏休みに、新潟のおじいちゃんの家に行ったのね。

 すごーく田舎で、夜寝るときには蚊帳を吊るの。

 私は小さいときから夏は毎年おじいちゃんの家にいってて、慣れっこになってたけど、おじいちゃんたちと一緒に住んでるいとこは、蚊帳が好きじゃないのよ。蒸し暑いっていってね。

 確かに蚊帳の外よりは暑いかもしれないけれど、がまんできないほどじゃないし、東京よりはずっと涼しいのに。

 そんなわけで、子供の頃は、いとこと一緒に寝ることもあったんだけど、そのときはひとり。蚊帳の中で寝てたんです。

 ときどき田んぼを渡ってくる風が入ってきて、蛙のにぎやかな声が聞こえてくる。

 気持ちよく、心地よく、うつらうつらしてたんです。

 ところが……ああ、もうだめだ、寝そう。眠っちゃうってところでね、ふと気づいたんです。

 私からしたら右側、足元のあたりに、誰かが座っていたのね。

 うつむいて、しょんぼりした様子なんだけど正座してるし、背筋をなぜかぴんと伸ばしてる。

「誰なの、顔をあげなさいよ」

 っていったら、我ながらすごく寝ぼけた声だった。それでも通じたと見えて、その人が顔をあげたのね。

 前の年の春に転校していった、同級生のK子でした。

 K子とは仲がよかったし、転校したあとしばらくの間は連絡をとっていたんです。でも、何となく疎遠になって、いつのまにかSNSでもメールでも、やりとりをしなくなっていました。

 そういえばK子は新潟県に転校したんだった、って夢うつつに思いました。

 うん、夢なんじゃないの、これはと思っていたんですよ。

 だって、K子の顔の右半分に、びっしり貝のようなものがついているし、髪は綺麗だったのにボサボサになってたし、顔中血だらけでしたし……。

 それでも、なぜか私はその人が、K子だって思ったんですね。K子が夢に出てきたんだって。

「K子、ひさしぶり」っていったら、K子は泣きだしました。嗚咽をもらして、しゃくりあげるように。

 起きていたら、まずK子の悲しみの理由を聞こうとしたでしょう。でも、そのときの私はどうしたことか、

「どうしたの、その顔」

 って尋ねたんです。するとK子は、

「どうしたも、こうしたもないわよ」

 と気色ばんで……あ、怒らせちゃったと思いつつ、私は寝てしまったんです。

 翌朝、アブラゼミのやかましい声で起きてすぐ、顔も洗わずにスマホに飛びつきました。

 K子に電話をしてみましたが……出ません。

 SNSのK子の画面を開くと、もう半年くらいもやりとりをしていないことに気づきました。

 そこで私は、長い間連絡をとらなかったことを謝り、K子の夢を見たと打ち込みました。

 K子から連絡があったのは、その日の昼過ぎでした。

 でも、おかしいのは……K子はなぜ電話番号を知っているんだ、私のことなんか知らないっていうんです。

 中学校で去年の春まで同じクラスだった、というと、そんなわけはない、私は新潟生まれの新潟育ちで、一度も転校なんてしたことがない、っていうんです。

 私は混乱してきて、他に仲のよかった子やK子の憧れていた先輩の名前をあげたり、私の知っているK子自身のことを矢継ぎ早に話したんですが……かえって不気味に思われたようで、まもなく電話を切られてしまいました。

 私はSNSで知り合い全員にむけて、K子って子が去年まで同じ中学校にいたよね、って聞いたんです。

 でも、誰もK子を知らなかった。

 私の家族も同様でした。親はPTAの役員をしていましたが、K子という子に心あたりはないし、私がK子のことを話していた記憶もないっていうんです。けっこうK子の話題を家でしていたはずなんですが……。

 これって、どういうことなんでしょう? 私の記憶では確かにK子は同級生で、中学校へあがるときに転校していった。

 電話でも、SNSでもやりとりをしている。その記録も残っている。

 それからもう一度、K子に連絡をしてみたんです。きちんと順序よく説明できるようにしてね。

 ところが、やっぱりK子はずっと新潟にいたっていうし、そのSNSはやっていないっていうんです。

 こうなると、私がおかしいとしか考えられませんよね。

 え? ああ、そうですか。それは……ありがとうございます。

 はい、はい……K子が私のもとに現れた晩のことですが、私のことを知らないK子は、ちょっと前に海水浴に行って、頭を岩にぶつけちゃって怪我をしたようなんです。

 顔の右半分が血だらけになったって、いってましたね。そう聞いたんですけれども。

 そこだけ私の体験したことと、合っているんです。

 何なんでしょうかね。

 そういえば、その子の名前って、加耶子、なのね。

 もしかしたら、たまたま蚊帳の中に私がいたから何かが通じて……いや、そんなことないかな。

 いえ、だからといって、いとこみたいに蚊帳が嫌いになったわけじゃないんですよ。

 でも、おじいちゃんの家ではもう蚊帳を吊っていません。夜は全部、戸を閉め切って寝るからです。ええ、物騒ですからね、最近は。

第41話~第50話

   第四十一夜 かしきゆ

 父が亡くなったのは平成十五年の夏です。わたしはまだ大学生で、東京に住んでおりました。

 春先に入院したのですが、わたしが夏休みに帰省したときには、三か月くらいだろうと余命宣告を受けたと家族から聞きました。

 ああ、これが父を見る最後になるのかもしれないって、お見舞いに何度も通いまして……休みの終わるぎりぎりまで実家にいて、東京に帰りました。

 その日、電車に乗ろうとして駅ビルの中を歩いていますと、ふとお菓子屋さんの一角が目に入りました。

 お土産を持って行く人はいないんですが、なぜか気になって気になってしかたなくなってしまい、とうとう買ってしまったんです。

 菓子折りをひとつ……。

 電車に乗ってからまた不意に、あれ、わたしなんでこんな菓子折り買っちゃったんだろう……なんて思ったりしているうちに、東京のじぶんの住むアパートに着きましてね。

 それで、そんな菓子折りを買っても別に食べたいわけでもないからって、テーブルの上にポンと置いて、荷物を整理して、シャワーを浴びました。

 ああ疲れたってボーッとして、しばらくテレビをなんとなく見ているうちに、また菓子折りが気になりだしたんです。

 おかしいよなあ、なんで買っちゃったんだろうって。

 こんなの好きな人まわりにいないから、だれかに渡すわけにもいかない……それで包みを開けてみたんですけれども、びっくりした。

 十個入りだったはずが、七個しかないんです。

 当然、その三個分のスペースがスカスカになってました。

 すでに包装されたものを買ったので、つくるときに工場の方でなにかまちがえたんだろうって、ひとつ食べて。

 電話して文句いってもなあ、三個足りないなんて変だし、頭おかしいクレーマーだと思われるんじゃないかなあ、なんてあれこれ考えていると……携帯に、連絡が入ったんです。

 父がたった今亡くなった、という知らせでした。

 実家にとんぼ返りしまして、すでに家に戻ってきていた父と対面しました。

 そこへ伯母さんが……父の姉がやってきまして、

「亡くなる直前にね、あなたのところへ行ったっていってたのよ。なんかなかった?」

「いえ、なにも……」

「そう……会いたいあまり夢でも見てたのかしらね。もなかをあなたに勧められて、三つも食べたって話してたんだけど」

 わたしが買った菓子折りは、もなかでした。

 でも、わたしは父に勧めてなんかいないし、別に生前、父がもなかを好んで食べたってこともありません。

 だいたい、包装をひらいてみて初めてみっつなくなっているって気づいたんですし。

 ぜんぶ葬儀に関するあれこれが終わって、また東京にもどったところ、もなかは腐れていました。

 いいえ、変なことはないですよ……まだ暑い時期ですし、冷蔵庫にもいれず、テーブルの上に置いたまんまでしたから。

 それに、数も合っていました。

 だれが父にもなかを勧めたのか。

 謎は、それだけです。


   第四十二夜 川上の亡魂火

 僕のじいちゃんが小学生だった頃のことなんで、大正の終わりか昭和の初めくらいの話です。

 当時、じいちゃんは近所に住む漁師を手伝ってたそうなんです。

 いいえ、海じゃありません。もともと僕の実家は茨城の方にありまして、漁をするのは利根川。

 利根川なんですけれども、住んでたのは玉川ってところで……ああ、混乱させちゃいますね。これは忘れてください。

 ある年の秋、夜のことです。

 じいちゃんとその漁師さんが舟に乗りまして、川に漕ぎだしていった。

 ちょっと流れを見ようってことで、舟の上で仮眠をとることにしてしばらくたつと、なにかシャンシャンいう音がする。

 薄い金属の板がこすれあうような音だったといいます。

 それでじいちゃんが目を覚まして上半身を起こすと、川の上に火の玉がいくつも浮かんでいる。

 ウワッと声をあげると、漁師さんも身体を起こして、水面を見た。

「火の玉……火の玉」じいちゃんがかろうじていうと、

「ああ……ありゃ、溺れ死んだもんの亡霊だ。あれが出ると、大漁まちがいなしっていわれとる……おお、なんだおめえ、震えとんのか。めったなことじゃ、なにもしてこんから心配するな」

 そうはいわれても、やっぱり怖い。

 近づいてきて舟の周囲をグルグル回っている火の玉もある。

「珍しいな、こんないい天気なのに……雨もよいの日によく出るもんなんだが」

 その瞬間ドーン、と……火の玉が舟の上に入ってきて、グラグラ揺れた。

 漁師さん、まずいっと叫び、慌てたようすでオールをとって飛び込んできた火の玉を叩いた。

 すると火の玉が分裂して、あろうことかそれぞれが舟の上をピョンピョン跳ねまわりだしたんです。

 漁師さんは獣じみた奇ッ怪な声をあげつつオールを振り回して、火の玉をつぎつぎに舟の外へと叩きだす。

 じいちゃんはもう怖くてたまらないので、漁師さんにぴったり身体をくっつけ、固唾をのんでその様子を見守った。

 ずいぶん空振りしたし、火の玉からすすんでオールに当ってくるようなこともあって、そんな格闘を三十分ほどもつづけて、ようやくすべて川の上に追い出したそうです。

 それで……じいちゃんはともかく、漁師さんはもう疲れきってしまいましてね、今晩はもうやめだって帰ることにしました。

 お駄賃はやるから心配するなって、じいちゃんを安心させましてね。

 しかし、とうとうお駄賃はもらえずじまいに終わった。

 ええ、そうです。漁師さん、翌朝ぶったおれて、そのまま死んでしまったそうなんです。

 一方、じいちゃんの身にはなにごともなく、それから成人して戦争にも行ったけれども、無事帰ってきています。

 それでいまでも「守ってくれたから」って、その漁師さんの墓参りに行くんですよね。

 もう足下なんかヨッタヨッタしてるしじぶんじゃほとんど歩けないんですけど、命日になったら行くっていってきかない。

 ええ、そうそう。利根川の玉川にね。

 ああ、ひとついい忘れてました。

 漁師さんが亡くなった日に、じいちゃんはそのときに乗った舟のようすを見に行ったんですね。

 すると、なんだか小さな骨らしきものが散らばっていました。

 近づいてみると、ノドボトケらしい。

 どうやって見ても、みんなノドボトケだと分かった。

 それが、十も二十も散らばっている。

 幻覚じゃない、まして魚の骨なんかじゃないって、じいちゃんはいい張ってるんですけどね。

 かりに、その火の玉の本体だとしても……なぜ、ノドボトケなんでしょうかね。


   第四十三夜 生首

 今は全然なんだけど、一時期、わりと生首を見たのね。

「生首」っていうけど「生」じゃない……って、当り前か。

 だいたい「首」って、ネックレスをかける部分のことをいう場合もあれば、首から上を指す場合もあるよね。

 私が見ていたのは首から上の方。よくあるパターンよね。

 時代劇じゃあるまいし、昔の方が怨念いっぱいの表情を浮かべて、あたりを飛んでるのを見た、何というのはないの。

 見た感じじゃ、最近の人ばっかりね。

 もう一年前くらいになるけど、休みの日だからって、ちょっと近くの町まで行ってランチにしようって車を走らせていたらさ、ボンネットに生首が乗ったんですよね。

 いきなりですよ、ドン、と。

 すごい衝撃でね、上から何か落っこってきたかと思って、ブレーキを踏んだの。

 でも、違った。

 次の瞬間、助手席前のフロントガラスに貼りつくようにして、生首がいたのね。

 ボブカットの女性で、血を流していました。

 それが強烈でね、鼻から下は刃物か何かで、えぐられたようになっているし、口の中が丸見えで、血で真っ赤だったし。たぶんそれで、歯が妙に白く見えた。

 完全に停車したわけじゃなかったから、そのままするするとスピードをあげて、何とか運転しつづけたのね。

 いや、もう完全に無視。無視よ。おどかされて腹が立ったしね。

 七十か八十か、それくらいで走ったんだけど、落ちもしないし、それどころか動きもしない。

 これって、変よね。ボンネットに衝撃があったってことは、物質なわけでしょ? 物質だったら、こんなにスピード出してるんだから、走ってる車から落ちて当然じゃない。まさか血のりが乾いて、車体に固定されたわけでもないし、って。

 理屈っぽいかな? ただ、都合のいいときは物質で、都合の悪いときは物質じゃなくなるって、ずいぶん身勝手じゃない。そういいたいだけ。

 そのままずっと無視して、いないものとして運転していたらね、隣町に入る頃にはいなくなっていた。

 視線を感じてたから、ずっとこっちを見てたみたいね。

 意地でも見てやるか、って思ったんだけど。

 着いてから車に異常がないか確かめてみたら、全く問題なくてね。へこんでもいないし、血もついていなかったの。だから、何か落ちてきたのを、生首と見間違えたわけじゃないようよ。

 さすがに、あんなものを一瞬でも見たあとだから、食欲があまりなくなってた。それも腹が立ったんだけどね。

 ううん。そんなことない。生首が落っこってきたのは交通事故があった場所でもないし、それ以外でも人が亡くなったところってわけじゃない。

 生首なんて、どこにいても落っこってくるわよ。

 運転中は、特に気をつけてね。


   第四十四夜 くまちらら、はけほか

 こういう怪談のパターンでさ、よくあるだろう。ひとことで最後をしめくくるってのがさ。

 その最後の言葉を大声で叫んで、他の人をおどかす。あんたもよく怖い話を聞いてるっていうんなら、すぐに思いつくよな。

「死ねばよかったのに」とか「どうして事故らなかった」とか。

 決めゼリフみたいに「お経唱えたって、無駄だよ」とか「じゃあ、いっしょに死にましょう」とか、いうこともあるわな。

 そういう話が好きなやつばっかり集まってたんなら、うまくいけば全体がひきしまるし、それなりの効果があって面白いんだろうけどな。ただ脅かすために叫ばれるのは興醒めだが。

 何か言葉のようなものを耳にしたとき、人間て勝手に「意味」をとろうとするらしいぜ。特に母国語の場合はな。逆に、自分の知らない言語は他の音と同じように聞き流しちまう。

「わからない」ってのは、怖いことなんだよ。

 意味がわからないってのは、怖いよ。

 もう八年くらい前になるかな。ホラージャンルのゲームをしていたんだ。

 サウンドノベルな。画面に出る文字を読んでいく。読んだらページをめくるみたいにボタンを押すと、次の文字が出てくる。たいていはBGMが流れていて、ときどき背後の映像が切り替わる。当時はけっこう、そんなゲームが流行っていた。

 何話か読み進めていくうちに、外が暗くなってきてな。そう腹が減ったわけでもないから、それまでゲームを続けようって思ってたんだ。

 すると突然、女の声がした。

「くまちらら、はけほか……」

 それを、何度もくりかえしはじめた。よく憶えてるって? これがなあ……耳障りなわりに、頭から離れない声だったんだよ。気持ち悪いんだが、今でも耳にこびりついてて離れない。

 夏の終わりの頃でな、窓を開けてたんだ。

 いちおう外を見まわしてみても、田舎町の夜更けで道行く人はいない。車も走っていない。

 ちょうどそのとき、テレビ画面には、人形の顔がアップで映しだされていたんだ。学校に住みついた人形が、毎年生贄を求めているって話だった。

 こいつだろうか……。

 いや、まさか、な……。

 そしたら、また外で女の声がしたんだ。

「じゃかもくたか、さんたん?」

 やっぱり、何回もくりかえしている。語尾があがっている。何か訊ねているんだろうか? 意味はわからないものの、日本語のアクセントのようだった。

 ぞっとしたね。背中に寒気が走ったよ。

 ゲームをやめちまおうって、ゲーム機本体に腕を伸ばしたらさ、

「にんぎょう」

 俺がそう聞き取った瞬間。

 ぴしゃん、と窓が閉まったんだ。


   第四十五夜 安産告知

 うちは初めての子が流産していましてね。

 妊娠がわかったときは私らももちろん喜んだんですが、それ以上に、親族中がたまたまひさしぶりの妊娠、出産だって大騒ぎしてね。その分、流産しちゃったときには落胆もひどかったんです。

 妻はそれから、ことあるごとに泣いてばかりで、だんだん精神が不安定になっていったんですね。あのときああしていれば、こうしていればって常時、思い詰めましてね。

 その頃は本当に大変だったんですが、微力ながら私も様々フォローしまして、多少曲折はあっても何とか明るさを取り戻していったんです。

 五年くらいたつと、再び子供を授かったんです。

 でも、やっぱり初めのようには手放しで喜べない……というと子供にはかわいそうですが、妻はそこまで慎重にしなくても、というほど慎重になりましたし、何かのたびに、まただめかもしれないと口にするようになったんです。

 そんなことを妻がいうたびに、なだめるように努めたのですが、だんだん疲れてきましてね。おまけに仕事が忙しい時期に入りまして、毎日ベッドについたら朝まで全く起きない、なんて日が続きました。

 それで、目をさましてみると、妻が一晩中眠れなかった、などという日がたびたびあって。何だか寝たのがすごく悪いような気分になったものです。

 私も精神的に不安定になっていたからでしょうかね。ある夜のころです。

 夢枕に、ふたりの男の子が立ったんです。

 ひとりはやや背が高くて、三歳くらい。もうひとりは歩ける……というより、ようやく立てるようになったくらい、という印象でした。

 背の高い方が、まるで大人のような口調で話しかけてきました。

「今度の子を、つれてきました」

「もしかして、君は……」

 何となく予感めいたものがあって、そう問いかけると、

「はい、ごめんなさい」と、ゆっくり頭を下げて私が、

「いや、こっちの方こそ」というのを遮りました。

「お父さんお母さんは何も悪くありません。こうなるしかなかったのです」

 そうしてその子は、ちょっと寂しそうに笑ったんです。

「でも、次は大丈夫です。僕が守りますから……」

「そうか……。しかし、いったい……」

「いいえ、心配いりません。必ず、僕が守りますから」

 そこで、目が覚めたんです。私は涙を流していました。

 ベッドを出て顔を洗っていると、寝室の方で物音がしたかと思うと、妻がやってきました。

「ちょっと聞いて、不思議な夢を見たの」というんです。

 はい、そのとおりなんです……妻も、全く同じ夢を見たんです。

 それを機に、妻も私も落ち着きを取り戻しました。ええ、もちろん無事に出産しまして。

 来年の春、その子は小学校にあがります。


   第四十六夜 水の音

 ずいぶん昔の話で、元祖ウォークマンが発売されてまもなくの頃のことです。

 ラジオの深夜番組をカセットテープに録音して、編集するのが趣味という男がいたんですね。勤め人なので、ふだんはタイマーで録音して、休日にそこからピックアップして、好きな曲だけを一本のテープにまとめる。

 カセットテープがどんどん増えていきまして、ゆうに千は越えていたそうです。

 ところが、ある日の出勤中、ウォークマンで編集したテープを聴いていると、奇妙な音に気づいたんです。

 曲の背後に……かぶさるようにして、水の音がするんです。

 小川のせせらぎのような静かなものではなくて、ゴゴーッと、増水した川の流れを思わせる音でした。

 洋楽で、当時よく聴かれていたグループ。制作サイドの演出とは考えにくい内容でした。

 その人は、当然、ノイズを疑いましたね。でも、ステレオにも金をかけているし、好きなものですから機器の相性も熟考して組んでいます。調子も、すこぶるいい。カセットテープの方だって、もちろん重ね録りなんてしていません。

 試しに電源を切ってみたところ、ゴゴーッという洪水のような音は消えました。

 耳がおかしいのか、それとも気づいていないだけで、どこかでノイズが入ったのか。

 その晩、帰宅してすぐに、曲を流していた番組にあたってみました。そのカセットテープに録音するときも、いつものように番組をまるごと入れてたんですね。

 その洋楽が紹介される、ちょっと前でした。

 パーソナリティが、こういっていました。

「今年の夏は、海難事故が多いですね。先月はM県で、今月に入ってすぐK県で……」

 そのあたりで、ゴォーッという音がしはじめました。

「まだ小さい子供だっていうのに、いたましいですね……」

 そこで数度、ぶちっ、ぶちっ――と、電源を落としたときのようなノイズが入りました。

 それでも依然として、ゴォーッという音はつづいています。

「本当にみなさん、気をつけてくださいね」

 そのとき、一瞬だけ、声が聞こえたんです。

「おかあさん!」

 その人ははっとして、テープをとめました。

 巻き戻して、ふたたび再生しました。

 でも、その声らしきものは、二度と聞けませんでした。

 その人って、実は私の父の同僚だったんです。子供の頃に一緒に遊んでくれたり、お菓子をもらったりしているうちに、こんな話を聞かされたんです。何かの話のついでにね。

 今もそのカセットテープがあるかどうかは、わかりません。確かめてみたくはありますね。

 残念ながら私が中学にあがる頃に転勤してしまって、今はもう連絡先がわからないんですけれども。


   第四十七夜 素直な子

 小説の舞台にもなったところだから、イニシャルにしてもすぐにわかってしまうかもしれないわよ。

 A市の北にあるS峠での話ね。昔はどうだったか知らないけど、今は道路もよいし、きついカーブもなくて走りやすい道よ。事故が起きたって話も全然聞かないわね。

 五年前に車を運転していて、南の方から、つまりA市の市街地から北へ向けて走っていて、S峠を通ったの。

 最初に、道を歩いている女の後姿を見かけたんだけど、これがね、まだ秋に入ったばかりだっていうのに、冬物のコートを着てたのよ。クリーム色のね。

 変な人だなって思ったけど、夜で、しかもかなり遅い時間……日付がもう変わってた頃だし、私ひとりだったしね、錯覚か何かだろうってそう気にせずに追い抜いたのね。

 ところがね、それからしばらく走ったら……。そのクリーム色のコート姿の女が、また歩いてる。やっぱり、こっちに背をむけてね。

 まあ、偶然だろうって通りすぎて、ちょっと行ったところで、バックミラーをのぞいてみたら……いつまでたっても、そこに映りこんでこないの。

 いやあ、怖いっていうのはなかったなあ……何ともベタだなあ、とは思ったけど。

 それから次の市街地、W町に着くまでに、五、六回はその女を見たのね。

 後姿だからいいけど、こっちに向かってきてるのを何回も見るんなら、ちょっと嫌だな……って思ってたらさ、W町を抜けてしばらくすると……。

 うん、そうなの、そのクリーム色のコートを着た女が、こっちに向かって歩いてきたのね。

 いやあ、血みどろだったり、青白かったりはしなくて、ごくふつうの若い子って感じだったなあ。怖いっていうより素直な子だな、と思った。

 それ以上のことは、何もなかったしね。


   第四十八夜 名字を呼ばれて

 さすがにそれは……仮名にしてください。最近、個人情報にうるさいじゃないですか。私、人事部にいますんで、けっこう神経質になっちゃってるんです。

 そうですか。じゃあ「佐藤さん」ということで。

 佐藤さんは、私が勤めている会社の受付をしている女性でして、外部から派遣されてきています。

 こんなこというと最近うるさいかもしれませんが、容姿端麗である上に、はきはきした言葉づかいで、話しぶりが実に心地よいのです。話しているうちにこっちも楽しくなってくるようでね。

 仕事が仕事なもんですから、たまに話をする機会がありまして、何かのついでで、こんな話を聞かせてくれました。

 最近、金縛りにあった、といいます。

 佐藤さん、どうも寝床でものを考える癖があるらしい。それで、なかなか寝つけない。

 たまに、ありますよね。うとうとして、ああもう寝落ちしそうだってたびに、はっと意識が戻ってしまう。

 佐藤さんは、そのはっと戻った瞬間に、全身が動かなくなったというんですよ。

 それまでにも何度か似た経験はありましたが、全く身体が動かないのは初めてだったといいます。

 必死に手足をもがくんですが、全く動かない。そうしているうちに、ポーン、と何かが落ちるような音がしました。

 同時に、部屋全体が激しく揺れたんです。その衝撃たるや、まるで隕石が屋根を突き破ったんじゃないかってくらいだった。

 でもね、それは隕石よりもタチの悪いものだったっていうんです。

 ふと気づくと、スーツ姿の女がベッドの横に立っていたんですよね。そいつが、佐藤さんの顔を覗きこむようにしているんです。

 垂れさがった長い髪が、今にも頬を撫でそうで……と、そこで気づいた。自分じゃないか、って。鏡を見てるんじゃないかって疑うくらい、自分にそっくりなものが、いる。

 ばっちりメイクを決めていて、出勤前か、まるで彼氏に会う前あうときか……こんなことをいうと、また怒られそうだな。はは。

 そいつはやっぱり、鏡に映った姿ではなかったんです。その証拠に、そいつが首をかしげたかと思うと、叫んだんです。

「さとーーうっ」

 姿はほとんど自分でしたが、声は似ても似つかない……年配の男性のものでした。

 佐藤さんはそこで意識を失ってしまったんですが、次の瞬間、いえ、実際にどれくらいの時間がたってるのかは、わかりませんが……またハッと目が覚めたんです。

 ほぼ同時にドーン、とものすごい衝撃があって、自分そっくりなものが顔を覗きこんできて……年配の男性の声で名前を呼ばれ、意識を失う。

 朝まで、何十度となく同じことをくりかえしたそうです。

 ふと時計を見るといつもの起床時間を過ぎていたので、慌てて身支度を整えて出勤したんですが、職場についてすぐ、同僚に声をかけられて、あいさつしたとき……。

 声が、がらがらになっていたんです。

 佐藤さんがいうには、金縛りにあっていたときに聞いたような、年配の男性の声みたいだった、と。

 受付ですから、その日は仕事にならないってことで休んだそうです。

 あの日はそんなことがあったの、って私が尋ねましたら佐藤さん、口に手をあてて、くすくす笑いながら、こういってました。

 でも、なんで私の名字を呼んだんでしょうね。名前でもいいのに、って。


   第四十九夜 わらすでるべさ

 座敷童が出る、って有名な旅館が東北地方にあるわな。

 座敷童を見たら運が開けるっていうんで、予約が二年も三年も先まで埋まっているんだ、ってさ。周囲に観光スポットがたくさんあるわけじゃないし、一流ホテルのような設備もないけど繁昌してるみたいだな。

 実はさ、こんな有名なところじゃなくても座敷童が現れる旅館てのは、あるもんなんだ。仕事の関係でたまたま知り合った人が教えてくれてさ。そいつの会社が危ないときに、ちょっと助けてやったことがあったんだが、その見返りのつもり、だったんだろうね。

 じゃあ、何で倒産の危機に瀕してるときに泊ってこなかったんだ、って思うよな。そうさ、半信半疑さ。いや、むしろ全然信じちゃいなかったな。信じてたら家族旅行で泊まったさ。

 うん、出張でたまたまそっちの方に行くことになったからさ、仕事のついでに泊まったようなもんよ。

 用事済まして旅館に入ってから、一風呂浴びてさ、ちょっと一杯ってくりだしたんだが、飲み屋が全然なくてな。あることはあるんだが、ここだと思ってドアを開けようとしたら潰れてたり、見るからに汚そうなところだったりでな、なんとか最近できたらしい居酒屋を見つけた。

 港町だから刺身は美味かったけど、客はおれだけだし、おかみさんは陰気な感じがするしで、何だか気が滅入っちまってな。ほろ酔いにもならんうちに切り上げて旅館に戻った。

 それで、寝たと。座敷童なんて、出なかった。影も形もありゃしない。

 ああ、そこまではただの笑い話の種さ。

 ところがな、帰ってみたらすぐに実家から電話があってさ。

 最近連絡をとってないから電話した、とオフクロがいうんだ。

 あれこれ訊いてくるんだが、要はちゃんとやっているのか、ってことで、たいした用事じゃない。こちとら仕事中だから、生返事をしてたんだ。いつのまにか近所の人の噂話に変わっていくしな。

 そうやってしばらく、うん、うんいってたんだが、急にハッとするようなことを、いいだしたんだな。

「昨日、変な夢を見たのよ……。子供がね……」

 それがさあ、聞いてみたら……絣の着物姿の子供と遊ぶ夢だっていうんだよ。

 気持ち悪いがオフクロも子供に戻ってて、お手玉やら、おはじきやら、かくれんぼなんかをして、遊んだんだと。

 夢の中で夕方になると、その子は突然家に帰るといって走り去った。とたんに寂しくなった。それで、その背中を見送っているところで、目が覚めたんだそうだ。

 ああ、まさか、そっちに出たんじゃないだろうな、って内心、つぶやいたよ。出張で座敷童の出る旅館に泊まった、ってこともいわなかった。

 だいたい、夢に出てくるじゃないだろうって思ったしな。

 ところがよ、それからオフクロの金回りが突然よくなったんだよ。

 実家で持ってた二束三文のはずの土地が、再開発とかで高く売れたし、この前も宝くじで百万、当ててた。今じゃブランド物の服を買ったり、海外旅行したりと大忙しさ。

 最初に聞いてた話と違うだろう、って思うと、何となく悔しくてさ。

 まだいっていないよ。おれが座敷童の現われる旅館に泊まったからだ、ってな。

 その旅館? ああ、教えてもいいけど、おれが話したようなことになるんじゃないか。

 全然知られていないのも、そのへんに理由があるのかもな。


   第五十夜 因果

 何十年も昔の話ですがね。

 小学校にあがったばかりの男の子ふたりが、廃屋で遊んでいた、と、このようにお思いください。

 壁に落書きしたり、土足でソファーに乗っかって飛び跳ねたり、手当たりしだいに物を壊したり。大人の目の届かないところで、その年頃のやんちゃ坊主がやるようなことばかり、していました。

 ふたりが探検気分であちこち歩き回って、物置の扉を開けたときのことです。

 そこには、背をむけて、宙に浮かぶ男がいました。

 ふたりはそれが何を意味するのか、まだわかりませんでした。

「おじさん、何やってるの?」

 声をかけても返事はありません。

「ねえ……! おじさん!」

 ひとりが足に抱きついて揺らしました。

「変だよね!」

「おじさん!」

「ねえ!」

 子供が足を揺らすたびに、男の死後も首をいましめて離さない荒縄が、音を立てました。

 梁とこすれあって、きちっきちっと鳴く……。

 もちろん反応はありませんから、ふたりはすぐにつまらなくなって、その場を離れ……その、変なおじさんのことを忘れてしまいました。

 いいだけ遊んで家に帰ったあと、足を揺らした少年は、服の汚れをとがめられまして、それをきっかけに、廃屋で遊んだのがばれてしまいました。

 しかし、両親がかんかんになって怒ったのは、廃屋に無断で入ったことではなく、そこで何人もの人間が首を吊っていたからでした。

 泣きじゃくる少年の言葉は要領を得ませんでしたが、何とか断片をつなぎあわせてみると、両親は青ざめてしまいました。

 次の日、少年の両親からの通報で、首を吊った男は遺族の元に帰ることができました。

 いいえ、まだ話は終わっていないのです。

 それから数十年たち、ふたりが老いの坂を下りだした頃に、足を揺らした方が、入院することになりました。

 両膝の関節に腫瘍ができたためで、やがてそれを取り除く手術をしたのですが、失敗に終わりました。神経を傷つけられ、自力歩行ができなくなってしまったのです。

 主治医からあらかじめその可能性を知らされていましたので、医療ミスとして訴えることも、もちろんできませんでした。

 もうひとりの方が、彼の病気を人づてに聞き、見舞いにやってきました。

 足を揺らした方がいいます。

「こうやってずっと寝てると、昔のことばっかり思い出すんだよなあ……」

「ああ、そうかもしれんよな……」

 ふたりは高校まで同じ学校でしたから、昔話はなかなか尽きず、いつしか廃屋での出来事にも話が及びました。

 だんだんと記憶が鮮明になっていったのですが、人生経験をじゅうぶん積み重ねてきたふたりには、重すぎる記憶でした。

 だんだん押し黙りがちになっていき、最後にはただ手をあげて互いに別れを告げるしかありませんでした。

 ……このとき見舞いに行った方が、私なんですよ。

 おととしの夏、足腰を悪くしていた私は、階段で足を踏み外しましてね。転落したんですが打ちどころが悪くて、亡くなったんです。

 え? そうですよ。何をそんなに驚いて……あなただって、うすうす気づいてたんじゃないんですか?

 私はもう死んでるんです。

51話~第60話

   第五十一夜 妻を刺せば

 久しぶりにあったかと思えば、怖い話あるかって……おまえさんも、物好きだなあ。

 昔、このへんにいた漁師で……当時はその噂で持ち切りだったけど、いちおう名前は教えないでおくよ。

 町のはずれに住んでて、毎晩のように飲みに出かけてたんだと。ちょっと酒乱の気味があって、たびたび飲み過ぎるんで、財布を落としたり、どぶに落ちたりしてたんだ。

 それでカミサンに、よく嫌味をいわれていた。

 飲みに行くといったらうるさい、ってんで毎度、何かと口実を作って出かけてたんだな。ああ、飲みに行くとはいわないで、他の用事で行くふりをしていたわけだが、あらかた嘘だってバレてたんじゃなかろうか。

 あるとき、刺身包丁が古くなったから代わりを買いに行くといって、出かけたんだな。

 包丁を買ったらすぐ居酒屋に入って、しこたま飲んだのはいうまでもないね。

 その帰り道、次の角を曲がれば家が見える、というところまできたとき、街灯に照らされて、妻が立っているのが見えた。

 男は、ぎょっとして足を止めたんだよね。

 夜も更けているし、こういうときカミサンが迎えに出てきたことはないから。

 それどころか、カミサンの腰から下が透けていたんだ。そのむこうにある塀の色が、ぼんやり見えている。

 男は一気に酔いをさまし、恐怖のあまり買ったばかりの包丁をとりだし、気合もろとも刺した……。

 ところがカミサンは、刺した瞬間に消えてしまったのさ。

 男はそのまま包丁を捨てて、走って逃げた。

 息せききって家に着くと、ただならぬ気配を察してかカミサンが寝ぼけまなこで起きだしてきた。

「ああ、よかった」とカミサンがいう。「今、怖い夢を見てたから、起こしてもらって助かった」

 何でも、夢の中でカミサンは家の近くを散歩していて、突然包丁で切りつけられんだ、と。

 それを聞いた男は、冷水を浴びるような心地だった。

 翌日、男は確かめてみたんだ。ゆうべ妻が立っていた場所をな。

 そこにはまだ、男が放り出した包丁が落ちていた。

 なぜか、先端が欠けていた。


   第五十二夜 桔梗の先触れ

 桔梗の花じたいは綺麗だと思うんだけどね……。

 夏の朝なんかに、薄い紫色の花を見かけただけで、少し憂鬱な気分になる。

 ときどき、夢で桔梗が咲いているのを見ることがあるのね。

 実家の墓の前に咲いているのを見るんだけど、この夢のあとに必ず誰かが死ぬのよ。

 最初に夢で見たときは、おじいちゃんが亡くなった。寒い日がつづいてた頃で、肺炎になってね。

 桔梗は一輪だけ咲いていて。ふつう見かけるよりも、ちょっと背丈が低かった。

 おばあちゃんが亡くなったときにはね、墓のうしろにびっしり生えてた。長いこと寝たきりで、苦しんでたから見ていられなかった。

 家族じゃなくても見るんですよ。

 勤めている会社の役員が亡くなったときは、七輪か八輪か……。風に揺れてたのね。小さい会社だけど、役員さんと親しいわけじゃなかったんだけど、なぜか見た。

 たまにエレベーターで会うと声をかけられる程度だったし、亡くなったときのことは、詳しくは聞いていません。

 息子の友達が亡くなったときは、桔梗は一輪だけで、なぜか墓の真上に咲いてた。墓から生えてるみたいに。これは真夏のことで、かわいそうに川で溺れたと聞きました。

 夢の中で桔梗がどう咲くのか、何本生えているのかが、亡くなる人とどうかかわってくるのかは、全然わからないの。

 ただ、桔梗の夢を見ると、人が亡くなるってだけなんです。

 不吉なんだけど心の準備はできる、かな。

 たぶん、自分の気持ちにどの程度影響するのか……ってことだと思ってるんですけれども。


   第五十三夜 ハーモニカ

 小学生の頃、原爆の史料が私の住んでいた田舎町にきましてね。熱で溶けたビール瓶とか、ボロボロになった制服とか、そんなのが一、二週間、公民館に展示されたんです。それを校外学習で見学に行きまして、帰ってきて感想文を書いて提出。

 ああ……あなたも見ましたか。そんなふうにして。

 広島、長崎まではなかなか行けませんからね。そうやって、全国を回っていたのかもしれません。今はどうかわかりませんが。

 ちょうどその日のことなんです。放課後、図書室に行って本を借りまして、家に帰ってからそれを読んでいましたら、原爆にまつわる話があったんですね。

 広島では、夕方になるとハーモニカを吹きながら現れる被爆者の霊が現れる、と。

 話としてはそれだけなんですけど、そのくだりを読み終えた瞬間、もう涙があふれて止まらなくなりましてね。日暮れどきのもの寂しい時分に、ハーモニカを吹いている被爆者の霊。幼心に、何とも切なくてね。

 原爆の史料展に行った日、たまたま借りた本に、原爆にまつわる話が書かれていた……。これだけなら、ただの偶然なんでしょうけどね。

 それからしばらくの間、夕方になるとハーモニカの音が聞こえるようになったんです。

 うちは晩飯の時間が早めだったんですが、茶碗を持とうとすると、かすかに外でハーモニカの音がする。

 日が短くなってきたら下校後、習字に行く途中でも聞こえました。そろばんを弾いているときにも聞こえて、集中できなかったこともあります。

 私の知っている曲はひとつもなくて……いいえ、むしろ音合わせのような、試しに吹いているような感じで、一曲まるまる吹いていたことは、なかったような気がします。

 この霊の話が実話だったとして、失礼かなとは思うんですが……原爆にあってしまった人がハーモニカを吹いていると思うと、やっぱり怖かったんです。

 でも、幸か不幸か……この言い方が的を射ているかどうかはわかりませんが、音だけだったんです。ハーモニカの音だけ。原爆にあった人の姿が、目の前に現れたということは一度もありませんでした。

 だいいち、それからまもなくハーモニカの音も、聞こえなくなったんです。子供は子供なりにいろいろ忙しくしているうちに、ふと気づくと夕方になっても聞かなくなっていた。そして、そのまま忘れてしまったんです。

 何十年もたちまして、最近調べものをしていて……そう、仕事がらみです。図書館に行きましてね、マイクロフィルムで昔の新聞を見ていたんです。

 それで、ハッとさせられた。

 これも、たまたまなんですが……原爆にまつわる話で、ハーモニカを吹きながら現れる霊が広島で現れた、という記事を見つけたんです。子供の頃に読んだ本の元ネタ、元ネタじゃなくてもそのうちのひとつ、だったんでしょう。

「ぞーっとする夏の夜話」のうちのひとつの「ハーモニカ吹く亡霊」という小見出しの中で、書かれていました。

 内外タイムスの……昭和29年7月28日付の記事でした。

 ちょっと違っていたのは、夜寝ているときにハーモニカの音がするということです。

 初めは遠くからかすかに聞こえ、だんだん近づいてくる。

 音がひときわ高く鳴りだすと同時に、縁先にだれかが自転車で乗りつけるような気配がありました。

 見れば、被爆した姿の男で……誰だ、と声を掛けるとスーッと消えてしまったそうです。

 借家でしたから翌日、大家さんに事情を説明したところ、以前住んでいた男が原爆にあって死んだといいます。ハーモニカ好きで、被爆当日は買ったばかりの自転車に乗っていったんだと。

 何ともいえない気分になりましてね。一気に子供の頃の記憶がよみがえるようでした。人目もはばからず、号泣してしまいまして。不審に思った人から知らされたんでしょう、司書さんに声をかけられるまでね。

 はい、そのせいか……その日の夕方からまた、ハーモニカの音がかすかに聞こえだしたんですよ。

 記憶の中にある、小学生の頃に聞いた音と同じでした。

 被爆した人というのは、やっぱり見ていないんです。ただ、ハーモニカの音がするだけです。

 そろそろ日が暮れてきましたね。

 もうちょっとしたら、聞こえると思います。

 あなたにも聞こえますかね。物悲しい、ハーモニカの音。


   第五十四夜 拾ったMD

 一時期、ジャズにハマってたんだけどさ、今は全然なんだよね。もう一切、家じゃ音楽を聴かないことにしてるんだ。店で流れてたり、車のラジオなんかでたまたま何か音楽がかかっているっていうんなら、いいんだけど。

 俺なんかとてもコレクターなんて、いえるもんじゃなかったけど、いわゆる名盤ていわれるレコードもけっこう持ってたし、全部で千枚くらいはあったかな。処分したら、結構な額になったよ。人にもやったけど……。

 ああ、話そうとしたのは、その理由なんだ。

 なぜ、音楽を聴かなくなったか。

 あれは何年前だったかな……四年か、五年前。仕事帰りに家に帰ってくる途中、MDが落ちているのを見つけたんだよね。

 表面に、何かでこすれたような傷跡が少しあるだけでさ。赤っぽい色で、メーカーはおなじみの会社だった。

 それをだな、何が入ってるんだろう、面白い曲でも入ってるかもな、って思って、拾って帰ったんだ。

 よせばいいのにね。でも、その日はそのまま忘れてしまった。

 何日かたって、やっぱりこれも仕事から帰って服を着替えてるときなんだが、思い出したんだ。そういえば、こないだMDを拾ったな、って。

 それでシャワー浴びてからさ、冷蔵庫から缶ビール出してきて、ちょこちょこ何かつまみながら、聴いてみたんだ。深夜だったから、音量を絞ってな。俺んちのMDプレーヤーは、たいしたスピーカーにつなげてなかったし。

 音楽ではなかった。

 最初は雑音が入っていて、よく聞き取れなかった。

 何分かたつと、だんだんその雑音が消えていった。誰かがしゃべっている。

 年配の男性が、何かあいさつをしているみたいだった。

 俺は缶ビールをテーブルに置いて、耳をすませてみた。

 そしたらさ、次の瞬間なんだよ。急に音量があがって、はっきり聞こえたんだ。

「故人も、さぞ喜んでいると思います」

 いや、これにはびっくりしたね。

「世間一般でいうなら、必ずしも幸せな亡くなり方ではありませんでしたが……」

 もう、慌てて消したさ。

 何だろう、これはと思った。葬儀屋が録音したものだろうか……。それにしても気持ち悪いじゃないか。すぐにゴミ箱に投げ入れて、お気に入りの曲を集めたMDを、かわりに入れたんだよ。

 変なMDの出した音を、ちゃんとしたMDの音で上書きするような……何いってるか、わかんないよね。でも、とにかくそうしなきゃ、機械の方がいかれるんじゃないかって気がしてたんだ。

 でもなあ、聞こえてきたのはこれが……。

 くぐもったような読経の声でさ、それどころか、合間にすすり泣きの声すら入ってるんだよ。

 しばらく呆然としてたんだけど、また年配の男性のあいさつが始まってね。それでハッとして、電源を切ったんだ。

 慌ててMDを取りだして調べてみたけど、まぎれもなくおれが編集したものだった。

 こんなことがあってから今に至るまで、そう、今までずっと。ずっとだ。家じゃ、まともに音楽が聴けなくなったんだ。

 レコードでも、CDでも、みんな葬式の実況になっちゃうんだ。

 買ったばかりのCDでも、そうだったよ。レンタルもダメ。

 それ以上に俺が参ったのはね、少しずつ葬儀の様子が変わってることだったんだ。

 司会役の葬儀屋さんが、まあ最初のあいさつをするわな……そんな場面を何回か聞いてる。

 そこで読み上げれる故人の名前が、毎回違ってる。

 お経も、そのときによって違うようだ。

 ああ、MDは他のゴミと一緒に出したよ。きちんとゴミ収集車が持ってったと思う。

 それで、たいしたコレクションでもないけど、全部売り払ったってわけさ……。

 ああ、ひとつつけ加えるとすればさ、俺は確かめていないんだ。

 俺だけがそう聞こえるのか、他の人にも同じように聞こえるのか。

 もしかしたら、俺が売ったものにはさ、そんなものが聞こえるレコードやCDなんかがあるかもしれない。

 俺の幻聴だったら、いいんだけどね。


   第五十五夜 水子供養

 ふだんから写経したり、座禅を組んでみたりしていて、まとまった休みがとれたら修験道の聖地で峰入りに参加したり、四国八十八か所巡りをしておりましてね。

 そんなことしてるって聞いた人から、水子供養を頼まれたことがあります。それで、お坊さんの真似をしたときの話です。ええ、そのときだけ、一回限りね。

 菩提寺の坊さんはどうもちゃんとやっていないようだから信用できない、お経を読んで欲しい、っいうんですが、もちろん断ったんですよ。だいたい、本職じゃありませんし。私なんか仏教マニア程度ですから。

 でも、あまりしつこいので、根負けしまして。とうとう、うん、といっちゃったんです。夫婦かわるがわる毎日、連絡があるし、そのうち会社にまで電話をかけてきましたんでね。

 それで本人が納得するなら、って軽い気持ちで承諾したんですが、やっぱり素人ですからね。止めておけばよかったって、今でも思います。

 当日は早くすませたいもんですから、挨拶もそこそこに仏間へ入っていきましたらば、子供が好きそうなお菓子やジュースなんかを、たくさんあげているし、花も飾っていました。

 平成の初めに流産でふたり、と何度も聞かされていました。

 さっそく読経を始めました。ご本尊の脇にお地蔵さんをまつっていましたから、ああ、お地蔵さんにお願いしようと考えながらね。

 まずは開経偈。それから三帰依文、懺悔文などなど。本職の方がされているように読んでいきました。これはまあ、食事でいえば、いただきますという段階ですね。

 つまりまだ本題に入っていない段階だったんですが、このときにはもう、私の周囲の空気が非常に嫌なものに変わっていまして。

 何となくですが、子供がいうことを聞かず、際限なくわがままをくりかえしているような……。そんな雰囲気でも、ありました。

 うしろには私に依頼したご夫婦と、最近、中学校にあがったばかりだという、お子さんもいました。

 怖かったです。怖かったんですが、動揺してはいけない、恐怖に襲われてしまえば、それが波紋のように後方へと広がって、収拾がつかなくなると考えましてね。

 そもそも子供ふたり分だからか、気配が濃厚だったんです。私なんか、その場にいない者とされているかのような疎外感がありまして、人の話を全然聞かないような、かたくなさも感じていました。

 これはもう、お地蔵さんに話を通すどころじゃないな、と。そう感じたので、後方の三人に向けてお経を聞かせるように気持ちを切り替えました。供養のためというより、まずは生きている人に、ということですね。

 ええ、それから読経のあいだじゅう、耳を引っ張られたり鼻をつままれたり、かなりうるさかった。

 でも、それを除けば特に問題なく、本職のお坊さんの作法どおりに終えることができました。

 この夫婦はジュースやお菓子を毎日欠かさず、あげていました。

 二十年くらいずっと、ですよ。

 親心でしょう。当然のことです。でも、この人たちの場合は、親の思いがかえって手枷足枷になって、行くべきところに行けていなかったのかもしれない、と思います。

 このご夫婦は、子供たちの死を割り切れていなかった、その割にいつまでも小さな子供の扱いをしていた……。

 生きていれば……生きていればというのも、このご夫婦には酷ないい方かもしれません。しかし、ふたりとも生きていれば二十歳近い年齢になるのを、小さな子供扱いしていた。

 もしかすると、私がそのとき感じていたものは、水子の霊じゃなかったかもしれません。

 私は霊能者でも何でもありませんけれど、二十年近く両親の積みあげてきた想念の塊のようなもの……そんなものだったんじゃないか、と思うこともあります。

 読経をしてくれと頼んだのは他ならぬご両親なわけですが、必ずしも魂が浮かばれるのを望んでいなかった、というのか……相反する感情があって本人も気づいていない、というのか……。

 そのあとのことは、実はわからないのです。

 というのも、このご夫婦からの連絡がパッタリ途絶えて、一年ほどたってからこちらから連絡したんですが、どうも携帯を解約したらしい。家に行ってみると、引っ越ししたようで売家のビラが貼られていました。

 私のせいで、いちだんと悪い方向へ進んだんじゃなければいいな、と願うばかりです。

 ええ、もう二度とお坊さんの真似をする、なんてことはしません。

 そのご夫婦、死者と生者は住む世界が違う、ということを理解したんなら、いいんですがね。


   第五十六夜 ニュースサイト

 こないだ布団の中でスマホいじっててさあ、何気なくニュースサイトを開いたのね。

 ああ、どこだったかな。とにかく、有名じゃないとこ。あまり見たことのないサイト。いや、特におかしいことなんかなくて、天気とか、政治とか経済とか上の方にタブがあって、他のとたいした変わんない。

 で、そこでね、殺人事件があったって、見たんだよね。

 どこそこ勤務の誰それさん、何歳がこうこう、こうやって殺されましたって書いてあって……

 でもね、眠いもんだから、字を読んでも頭に頭に入ってこないのよ。

 いつのまにか寝落ちしちゃってね。

 次に気づいたときには、まだ三時くらいだったんだ。スマホを握ったまま寝ちゃって、ベットの下に落としたのね。それでゴトン、と音がして目が覚めたみたい。

 目覚まし時計で時間を確認して、スマホはまあいいか、って思ってそのままにして、また寝ちゃったのよ。

 そしたら夢を見てさあ、夢の中でもやっぱり、スマホでそのニュースを読んでるのよ。

 容疑者が友達の家に匿われていたけど、見つかって逮捕された。

 だいたい犯行を認めている、って書いてあるの。

 それを見て私は何となく安心してる……そんな夢ね。

 朝になって、ごはん食べながらテレビ観てたらね、その事件についてやってたのね。

 コメンテーターが、まだ犯人は捕まっていない、警察の対応が悪いなんていってる。

 あれ? もう捕まってるじゃないの、って思ったのよ。でもすぐに、ああ、そういえば夢でこの事件のニュースを見たんだったって、思い出してね。

 実際に犯人が捕まったのは、その日の昼くらいだったらしいよ。

 容疑者の潜伏先って、友達のアパートだったわけだけど、その場所がね、夢で見たニュースと同じだったのよ。

 ○○市〇〇町、ってね。夢で見た記事に書いてあったのと同じだった。

 この事件の被害者も容疑者も、知り合いなわけじゃないし、〇〇市なんて、一度も行ったことないんだけどね。


   第五十七夜 恐妻家

 わしの甥の話なんじゃがな、これがひどい恐妻家なんだ。厳密にいえば違うかな……本来、恐妻家というのは、夫が妻を怖がっているというもんじゃ。単に妻の気が強いという意味じゃなくてな。

 わしの甥がはの、妻を怖がっているというより、頭があがらんのじゃ。

 本人がいうには、結婚前はそうでもなかったらしいが……今はまったく、いわれるがまま。

 何でも甥はのう、決まった夢をくりかえし見ていたんだと。

 夢の中では、甥は侍の姿をしとって、毎回、急ぎ足で誰かを追っとる。

 野原を駆けて、林に入ってゆく。

 そこで、その誰か、つまり目的の人物の背中が見えるんだと。

 色がついた夢でのう、木洩れ日がその人の背中に当たっておって、ゆらゆら揺れてるんじゃ。

 その背中を、甥は袈裟斬りにするんじゃ。音を立てないよう、静かに抜刀して。

 するとまあ、そいつは叫び声をあげるんじゃが、夢を見るたびに違うんじゃな。

 断末魔の叫びのこともあれば、ある程度まとまった言葉を発することもある。

「あなた! 何やってるの!」

「ちょっとどういうこと!」

「ふざけんじゃないわよ!」

 そう、そのとおり。カミサンの声なんじゃな。

 甥のやつはな、小さな頃に見たチャンバラ映画の影響があるかもしれない、なんていっとる。

 奇妙なのはのう、この夢を独身の頃からくりかえし、見つづけているということじゃ。なんでカミサンと初めて会ったときに、声で気づかなかったのか。本人はその点、何もいわんかったが、結婚して初めて気づいたのかもしれん。ボヤボヤした男じゃからのう。

 まさか実際に見たわけでもないから、真偽のほどは保証できんが、カミサンの背中にはの、右肩から斜めに赤いアザが走っているんじゃ。

 ところがカミサンの方も、ときどき同じ夢を見るんじゃな。背中を斬られる夢を、な。

「前世の記憶なのかもね」

 と笑っているそうじゃ。

 甥の方は、自分の夢について話してはおらんのじゃと。


   第五十八夜 ハイヒールの音

 残業で遅くなった日の夜のことです。

 帰宅しようと地下鉄に乗りましてね、いちど乗り換えるんですが、連絡が悪くて結構歩くんです。

 同じ駅で降りる人もあまりいなかったくらいで、連絡通路に出たときには、あたりには誰もいませんでした。

 早く帰りたかったので、急ぎ足で歩いていると、誰かの足音がこちらへ向かってきているのに気づきました。

 カツン、カツン、カツン……と。

 ハイヒールのようでした。

 私の進む道は、つきあたってから左手へと曲がるものですから、当然、角を曲がったときには女の人が歩いているのを予想しました。

 向こうも足早に歩いているようです。

 遠ざかっているのか、近づいているのかは、よくわかりません。ですが、足音の様子から、何となく二十代かなと思いました。

 その間にも、ハイヒールの踵や爪先が立てる音が、続いていました。

 カツン、カツン、カツン……。

 だんだん音が大きくなってきました。

 こっちにくるのかと思いつつ角を曲がっても、予想していた女の人の姿はありませんでした。

 しかし、なおも音がしています。

 カツン、カツン、カツン……と。

 私は思わず、立ち止まりました。

 ヒールの音はそのまま私と行き違って、それからしだいに遠くなっていきました。


   第五十九夜 文字を読むと

 じゃあ聞いてくださいよ、俺、本当にヤバいと思ってるんですから……。こないだ九州の小さい島に行ったときのことなんですけど、もしかお祓いとか、したほうがいいかなって思って。

 そこへは彼女と行ったんですけど、着いてからあちこち見て回ったもんで、ホテルに戻ったらもう夕方だったんですよね。いやあ、いちどチェックインして荷物は置いて、ちょっと外に行ってみようかって軽い気持ちだったんだけど。

 もう飯も食う気にならないくらい疲れちゃってて、足もパンパンだし、なんであんな歩き回ったか不思議なんですけど。

 それでね、交替でシャワーを浴びてベッドに横になったら、すぐに寝ちゃったんですよ。

 そこで夢を見て。やっぱり彼女と歩いてるんですよね。石畳の道を。

 あんま勾配のきつくない坂をあがってって、上まで行ったら、両側は芝生が広がってて、公園みたいになってたんです。あちこちに、子供が遊ぶもんがあってね。

 道は続いてて、しばらく歩いてったら、十字路にぶつかったんです。そこで、なぜか彼女が、怖いっていうんです。

 何が怖いんだよって聞いても、ただ怖いとしかいわないし、まわりを見回してみても特に変わったところはないんです。

 そこからたぶん、まっすぐ道なりに進んでったんですが、あんま憶えていません。

 次の場面に切り替わったら、目の前に石碑が立ってて、俺たちはその前にいました。石碑には文字が二行になって彫られて、それを読もうとするんですけど、これもよく憶えていません。

 夢の話はここまでです。

 それから夜中に起きて、腹減ったから飯食ったくらいなんで中間は省略します。

 話は飛んで次の日も、何だか疲れてるってことで、昼までホテルでだらだらしてしたんですよね。

 でも、せっかく旅行にきたんだしって、ちょっとまだ疲れてたけど外に出ようってなった。

 前の日のくりかえしなんですけどね。あてもなく歩き回って、土産物屋をひやかしてみたり、昼飯何を食おうかって何軒も探したりね。

 そのうち、だらだらした坂に出たんですよ。はい。夢と同じです。石畳だったし。

 何か嫌な感じがしてきたけど、そのまま歩いてったら急に視界が開けて、道の両側が芝生になりました。

 やっぱりそこは公園で……もう、嫌だな。本当に嫌だ。

 十字路まできたら彼女が怖いっていうんですけど、夢とは違ってそう感じるのは当り前だったんです。

 そこから先は、墓場だったんです。

 俺はもう、ほんとに今、後悔してるんですけど、そこで石碑のことを思い出しちゃったんですよ。

 いや、石碑じゃなくて、現実では墓なんだろうなって、予想はついたんです。それでも何という字が彫られるのか、確かめたくてたまらなくなったんです。

 彼女をなだめながら道なりに進んだんですから、結局夢と同じになっちゃってるんですよね。

 墓地の敷地の向こうは海でね。木立のあいまにコバルトブルーの海が見えてて、つきあたったところの石碑が……いや、やっぱり墓だったんですけど、よけいに引き立つような印象でした。

 そこに彫られていた字は何かといいますとね、俺の名前だったんです。

 うん。全く、同姓同名でした。

 彼女も気づいて泣きだしちゃうし、俺は背筋が寒くなって。それからもう、当り前だけど楽しい気分にはなれませんでした。

 帰ってからもずっとね。何だか気分が落ち込むんです。ふと何かの拍子に、ああ俺は今、こんなに落ち込んでるんだ、って気づくんです。もう、ほんと楽しくない。

 やっぱり、お祓いしてもらった方がいいですよね。彼女とはまだ何とか続いてるけど、そのうちダメになりそうですし。

 こんなの、偶然にしたってほどがあるでしょう……。


   第六十夜 プレ初夢

 俺が大学一年のときのことなんですけどね、年末だからって実家に帰りまして、毎日、遊んでたんです。

 けっこうみんな田舎に戻ってきてたし、高校卒業して以来、初めて会うってやつもいまして、もう毎日ですよ。夜遅くまでダラダラ遊んで、たまに実家に帰るくらいでね。

 だいたい実家っていっても、うちは団地ですから部屋が狭いんです。それを理由にして出かけてくんですが、親は「よく飽きないもんだ」って、いってる本人の方が飽きれるくらいでしたね。

 そんなことしてるうちに、大晦日になったんです。

 その日は最初、カラオケに行って歌ってから、仲のいいやつの家に行ったんです。

 大晦日ですからね。何だか家族の人たちは忙しそうなんですが、迷惑も顧みず、テレビゲームをずっとしてたんです。コンビニで弁当とか飲物とか買って、持ち込んでたんですけど、年越しそばを御馳走になって。それから友人と一緒に初詣に出て、それから別れて家に帰ったんですよね。

 うちは三階ですから、団地の階段をあがっていきますとね、上の階で何やら騒いでいました。

 でも、初詣にでも行くんだろうなって気にせずに家に入ると、両親は寝ているようでした。起こさないようにって昔の自分の部屋にそっと入って、ベッドの上で横になりましたら急に眠くなりまして、すぐ寝ちゃったんです。

 それで、夢を見たんですよね。

 なぜか、友人の家から帰ってくる途中なんです。さっき戻ってきたばかりなのに。ちょっと違ったのは、真夜中に帰ってきたはずが、空が真っ赤だったことです。

 はい。夢の中の私は、これは夢だと気づいていました。その反面、帰ってきたのって夕方だったかな、と疑ってもいまして、ちょっと混乱していました。そうして、次の角を曲がるとうちの団地が見える――というところまできたとき、奇妙なものに気づいたんです。

 両側の民家の塀に筆書きの紙が、規則正しく貼られていたんです。まるで書道展みたいでした。さっきはこんなの貼ってなかったんだけどなあ、って不思議に思いながら見てみると、

「ひとりで悩まないで相談を」

「借金を一本にまとめよう」

「今からでも遅くない」

「ご両親が泣きます」

 なんて、かなりうまい字だったんです。

 うわあ、変な夢だなあと思いつつ角を曲がりました。団地の建物が目の前に見えるはず……と、そこで、

「ちょっと! 起きなさい! 早く!」

 と、どやしつけられたんです。

 慌てて起きて、身体を起こしたら、目の前に母親が立っていまして、憤怒のご様子。

「ここで寝たらだめ! ほら、早く!」

 寝ぼけ眼をこすりながら居間に入って、ソファーに座りましてね、わけがわからないから、どうしたんだって聞いたんですよ。そしたら、

「上の階の人が亡くなったのよ。あんたの部屋の上に今、仏さんがいるから!」

 そこへ父親が現れましてね、

「……自殺だってよ。借金あったらしいな」



61話~第70話

  第六十一夜 葬儀の花嫁

 おじいちゃんが亡くなったときのことなんだけどね、お通夜のとき親戚みんなで、お寺に泊ったのよ。

 でも、何だか泊まる部屋が古くさいし、みんな真夜中まで飲んで騒ぐのがわかってたから、実家に一度、戻ることにしたのね。 

 お式が終わったあと、ちゃんと寝たいから帰るっていって支度してたら、伯父さんが近づいてきて、こういうわけ。

「一人で行ったら、引っ張られるぞ」って。

 お葬式の間は単独行動をするな、亡くなった人が道連れにするからって。昔から私の実家のあたりでは、よくいうんだけどね。

 そう、昔から、なのよ。いいつたえ。でも私は、そんなの迷信じゃないって、取り合わなかった。

「疲れていて判断が鈍るから、二人以上で行動しろってことだよ。私はだいじょうぶ!」

 伯父さんにそういったら、確かにそうかもなっていってた。

 荷物なんかはないからすぐ車に乗りこんだのよ。そこへお母さんが走ってきてね、持っていきなさい、って何かを渡してきたの。

 受け取ってみたら、人形だったのね。

 和服姿の女の人形……博多人形みたいに、すらっとした感じのね。

 寺のどこかにあったものを、勝手に持ってきたみたいなんだけど……二人で行動することになるから、おまじないだから、とか何とかお母さんがいうのへ、「わかったから、わかったから」って振り切って、帰ったのよ。

 でも着いたときには、人形のことなんか忘れてたし、助手席に置きっぱなしにしちゃったのね。

 化粧を落としたり、シャワーを浴びたりして自分の部屋に戻ったら、やっぱりちょっと疲れてはいたのよね。親戚っていっても、けっこういっぱいいたし、それなりに気をつかってね。

 ベッドの上に横になったら、すぐ寝ちゃったみたいで。

 でも一回、目を覚ましたの。時計を見たら、ちょうど日付が変わる頃だし、まだ早すぎるって、もう一度寝ようとしたのね。それで布団をかけ直した瞬間にね、バチン! て、大きな音がした。

 鞭のようなもので。布か何かを叩いたみたいだった。

 びっくりして跳ね起きるたらさあ……足下の壁の方にね、出たのよ。花嫁姿の女が、ぬうーっと。

 ウェディングドレスを着てるんだけど全身、真っ黒に見えた。

 おかしいのはね、メンデルスゾーンの結婚行進曲が流れているのよ。おあつらえむきでしょう?

 低音が響くところで、部屋全体が震えるくらい、それがかなりうるさくてね。

 何だこれはって思ったんだけど、そのとき私、上半身を起こした状態でしょう? ベッドから出ようとしたら、急に金縛りになってね。ほんとに突然……雷が落ちたみたいだった。それでベッドの上に仰向けに倒れちゃって。

 その私の上を、女が踏みつけて歩きだしたのよ。

 まるで、私の身体の上を通り道みたいにしてね。踏まれている感触があったし、ドレスの裾が、布団をかすめているのも見えた。

 女は一歩ずつ、歩きにくそうに足元から進んできてさあ……痛いし、苦しかった。

 おなか、胸とのぼってきて、顔が踏まれそうになったとき、そいつがね、ほっぺたで足をすべらせたのよ。

 あっ、転ぶ! って思ったの。

 でも女は、体勢を崩した瞬間に消えちゃったのね。

 それで私も寝たんだけど、朝になって、少し寝坊したからって、ちょっと慌てて支度して車に乗り込んだところでね、そういえば人形があったな、って思い出したのよ。

 でも、助手席にはなかったのね。

 確かに置いたはずなのに変だなって、ちょっと気になってね。後ろ見たり、下を見たり……あちこち探しているうち、ダッシュボードを開けてみたらさあ、そこに首だけ、あったのよ。

 首から下は、なぜかトランクの中にあった。

 首のとれた跡は、鋭利な刃物でスッパリ切ったようだった。

 お葬式がぜんぶ済んだあとに、お母さんに話したら、だからいわんこっちゃないって。

 でも「死んだ人に引っ張られるって話じゃなかったっけ?」っていったら、理屈をいうなで終わっちゃった。

 まあ、ウェディングドレス姿の女だったから、おじいちゃんにはたぶん、関係ないとは思う。

 ああ、そいつが出てきたのも、そのときだけ。一回だけね。


   第六十二夜 花嫁の葬儀

 八月十五日といえば終戦の日として、よく知られていますよね。でも、その日の夜……正確にいうと、十四日の真夜中から十五日の未明まで空襲があって相当、人が死んでるんです。にわかには信じられないかもしれませんが。

 私がそのころ住んでいた町はほとんど焼野原になったし、全人口の三割ほどが亡くなっています。

 その中のひとりに、私の叔母がいました。

 十八歳で、結婚したばかりでした。

 八月十四日に婚礼を……結婚式というより婚礼、ですね。床の間の前に新郎新婦が座って、その前に両家の親族が並ぶようなかたちで、時代劇の祝言をあげるシーンのようなものでした。当時のことですから、酒はないし、料理もない。でも、あちこちから各人が持ち寄った食材で、何とか祝宴をととのえたようです。

 ようです、というのは、私はまだ子供で……国民学校の四年生でしたから、大人の苦労なんていうものは、よくわからなかった。兄弟が男ばっかりだったため、姉のように慕っていた叔母が結婚するという事態も、よくのみこめていなかった。

 姉の相手の方は、近隣の村にある農家の後継ぎで、本家筋でしたから将来は当主を約束されているというので、嫁ぎ先として悪くはなかったようです。ただ、結婚式だというのに、その相手は入営中の身ですぐ部隊に帰らなければならなかったそうです。その後すぐ戦争は終わったわけですが、私どもにはそんなこと、わかりません。叔母の両親を初め関係者はみな、出征して戦死する可能性も考えたはずです。そんなこともあって、幼心にも私は何だか釈然としなかったのを憶えています。

 当時、空襲予告のビラが相当数、米軍の飛行機からまかれていたんですよ。拾って読んじゃいけないってことになってたし、厳しく取り締まられてもいたんですが、噂は相当、ひろまっていたらしい。その一方で、ポツダム宣言を受諾したことも知られていて、だから戦争はもう終わる、空襲はないという噂もかなりあったようです。

 叔母の婚礼の日、昭和二十年八月十四日という日は、ざっとこんな状況でした。

 叔母の家と私の家は隣りあっておりますから、その日の朝早く、花嫁衣裳に身を包んだ叔母に対面しました。

 戦時中ということもあって着物の柄は地味でしたが、それでも叔母は美しかった。本当に、ほれぼれするくらい美しかった。ただ、叔母の様子はいつもとはちょっと変わっていました。今までありがとう、しっかりお勉強なさい、と私にいっていたときは笑顔だったのに、そのあと急に泣き出したりしましてね。

 まず叔母やその一家が先方にゆき、私の家ではまず母親が手伝いに出発、ついで日が高くなってから父に連れられ、叔母の嫁ぎ先へと向かいました。

 結びの盃が汲み交わされ、叔母のお相手の親戚だったのでしょう、誰か知らない人が謡をうたい、私の伯父が祝いの口上を述べ……とそんな断片を記憶しておりますが、父におとなしくしているよう厳しくいいつけられておりましたので、緊張のせいかあまり憶えていません。祝いの御膳に、わずかでしたが赤飯があって、とても美味しかった。その味を今でも思い出すことがあります。

 無事に婚礼の儀が済み、私どもの一家は帰宅して、よそいきの着物を普段着に変え……そこから戦時中ではあっても、ふつうの生活に戻るはずでした。隣の家に住んでいて、私には非常に優しかった叔母が、いなくなった。それだけのはずでした。

 しかし、さいぜんも申しましたように、その夜、空襲がありまして叔母が殺された。

 焼夷弾が直撃して、火だるまになって、死んでしまった。

 いったい、叔母はアメリカに何をしたというのでしょうか。

 あのきれいで、優しかった、かわいらしい声で話していた叔母は、アメリカ人をひとりも殺していない、というのに……。

 いや、これは失敬しました。

 本題に戻りましょう。

 私の家族、叔母の家族が避難すべき防空壕は、家からはあいにく離れておりまして、夜の間は家の方がどうなっているか、うかがい知ることはできませんでした。

 八月ですから、まだ夜が明けるのは早い。夜が白みはじめた頃、防空壕から戻ってみると、運よく私の家は、母屋の壁が一部、焦げて、物置が全焼したくらいで済んだのですが、叔母の実家は跡形もなくなっていました。叔母の家族がみな揃って、門のあったあたりで茫然と立ちすくんでいたのを、よく憶えています。

 ひとまず叔母一家は、私の家で休むことになったのですが、そこへ叔母が亡くなったという報せが入ったのです。

 叔母の両親も、兄弟姉妹たちもみな、泣かなかった。嘘だと叫ぶこともなかったし、騒ぎもしませんでした。一夜のうちに、生活の拠点を失ってしまった事実に、疲れ果ててしまっていたのでしょう。

 あるいはどう反応したものか、わからなかったのかもしれません。町方から村方へ嫁に行けば、空襲にあう可能性が少ない……恐らくは、そういう計算も叔母の両親にはあったのでしょう。それが裏目に出てしまった。もっとも、戦闘機の機銃にやられ、田んぼや畑で亡くなっている人もずいぶんいましたから、どっちが危険かは一概にはいえなかったようですが……。

 たった一日、いえ、半日ほどではあっても嫁いできた、嫁にきたと考えるのが当時の感覚だったでしょうし、叔母の家は空襲で焼かれたということで、葬儀は先方で行うことになりました。

 取るもとりあえず両親と弔問に訪れると、その前日には晴れやかな場に、お人形さんのような姿でいた叔母のなきがらが、早くも棺におさめられ……手配がうまくいかなかったのか、物資不足だったのか、白木とはいえ日に焼けたような古びた棺の中に、叔母はいました。

 それが本当に叔母なのか、私にはとても信じられなかった。火傷だらけでふびんだからと、入棺のあとも美しかった顔には布が掛けられていて、両親といっしょに手を合わせるときも、その布は取りませんでした。

 葬儀じたいは、特に何事もなく過ぎました。

 いいえ、葬儀以来ずっと、多少の波風が立つことはあっても、叔母の家族も私の家族も、おおむね平穏に過ごしてたように思えるのです。戦争が終わり、国全体が復興に力を注ぐ中で、私の係累たちは仕事をしはじめる、結婚して家を出る、子供が生まれる、入学する、卒業する、ほぼ年齢の順に亡くなってゆく……と、平凡に、本当に平々凡々にやって参りました。

 今、私はこうしてこの施設におりますが、別に不自由なことはないし、この建物の中に仲良くなった人は何人もおります。習字をしてみたり、将棋をしてみたり、毎日楽しく過ごしています。身体のあちこちが老いてゆくのはしかたないとして、まだ自分の足で何とか歩けますし、人の名前が出てこなかったり、最近あったことは忘れがちですが、まあ年齢相応だと専門の方にいわれています。

 結婚しなかったし、子供はおりませんが、その分、仕事に打ち込んで一時はある程度の地位を得ましたから、まあまあ満足のゆく人生でした。

 ただ、私の人生の中でひとつだけ、ただひとつだけ……どうしようもない不幸というのは、今お話ししました昭和二十年八月十四日の夜にあった、熊谷空襲です。

 私は今でもアメリカという国が好きになれない。

 叔母を殺した人間に復讐してやりたい、そんな気持ちですよ。今でも。

 爆撃機から焼夷弾を落として叔母を殺したアメリカ人は、国のために、家族を守るためにやったんだと、理性ではわかります。

 でも、私には今なお割り切れない。

 割り切れていないんです。

 叔母のおとむらいが済んで以来、初七日、二七日、三七日……四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と、そのつど法要が行われてきました。私はそのすべてに参列したわけではありませんが、八月十五日がくるたびに改めて叔母のことを思っていたのです。

 平成十七年の八月十五日のことです。

 叔母の墓参りをしようとしましてね、熊谷駅で電車を降りて、何かお供えでも買おうかと歩きだしたところで、私、気づいたんです。

 みずほ銀行前の交差点の角に、叔母が立っているのを。

 はい、叔母です。まちがいなく、叔母でした。

 婚礼の日の……そう、花嫁の姿そのままでした。

 顔だけ真っ黒でしたが、見間違えるはずはありません。

 怖いことなんてありません。もう……お恥ずかしいが、号泣してしまって、通り過ぎてゆく人からは変な目で見られましたが、むしろ私は、叔母と会えたことが嬉しくてたまりませんでした。

 駆け寄ろうとしたんですが、信号に停められて待っているあいだに、いなくなってしまいました。

 このまま話が終わるなら後悔してもしきれないのですが、叔母はこれ以降、ずっと私のそばにいるのです。

 会社で書類を読んでいたときも、取引先の社員と酒を飲んでいたときも、家で昔の映画を見たり、書きものをしたりしていても……常時、私のすぐ近くにいてくれている。

 あの日から六十年たって、ようやく姿を見せてくれるようになった。私はその後、仕事をやめたり、ある会社の相談役をやったりして、この施設に入ることになりましたが、その間もずっといっしょです。

 残念ながら、話しかけてはこないし、こちらから声をかけても聞こえていないようです。それでも……私の近くにいてくれるだけでも、ありがたいことです。相変わらず花嫁姿で、顔は真っ黒のままですが、美人であることに変わりはありません。

 こんな話、気味悪がるから、ここの人たちにはしていないのですが、私と話したり、何かしたりしているときに、気配を感じる人はいるみたいです。

 あなたはどうでしょうか。

 何か気配のようなもの、感じますか?

 鏡にはわりあい、よく映るみたいです。顔を洗ったり、ヒゲを剃ったりしていて、ふと鏡を見ると、そこに叔母の姿がうつっていることがある。

 ここに手鏡がありますから、見てみてください。

 どうです? 見えますか。

 これが私の叔母です。

 最愛の、叔母です。


   第六十三夜 びいだまのおと

 ちょっと変わったことがあった、ってだけの話なんですけどね。

 もうずいぶん前になるわね。店が終わって帰ってきたときのことなんだけど、階段をのぼってたら、音がするのよ。

 からん、からん、からん……とね。

 夜だから音が響くのかな。何の音だろうって足を止めてね、あちこちを見回してみたんだけど、どこから聞こえるのかはわからなかったの。

 まあいいや、って階段をあがりだしてすぐに、また音がした。

 からん、からん、からん……てね。

 初めは自分の足音かなって思ったんだけど、そこで明らかに違うって気づいたのね。何かが転がっているような音なのよ。

 階段はスチールだったけど、金属製の音じゃなかった。ビー玉がガラスとふれあって――と、そこで思い当たったのね。

 これは、ラムネのびんに入っているビー玉じゃないの、って。

 そこでバアーッと、昔のことがよみがえってね。

 高校生の頃のことなんだけど、仲良くしていた子が文芸部に入っててね、その子が書いたものをよく読んでたのよ。

 それで、ラムネびんのビー玉がどうこう……なんて書いた詩があったのを思い出したの。

 自分の部屋に入ってからも、落ち着かなかった。あの音はどこから聞こえてきたのか、どうして昔の友達のことを思い出したのか――

 メイクを落としたり、お風呂に入ったりしながら、何となく気持ち悪かったんだけど、布団に入って目を閉じてすぐに、気づいたのね。

 ああ、あの子、亡くなってたんだ、って。

 高校を出てからずっと、あまりいいことがなくて、まだ若いのに死んじゃった。卒業してからだいぶたってたから、風の噂に聞いたんだけどね。

 たぶん、その日が命日だったんじゃないかな、なんて思った。結局その子を思い出したってだけで、その後どうこうしたわけじゃないんだけど……。

 当り前なんだけど年を重ねていくとね、だんだん増えていくの。亡くなった昔の知り合い、というのが。

 昔のことを考えていて、そういえばあの人、死んだんだっけ――なんていうのも、増えてくる。

 布団の中で、そんなことを考えていたらね、またビー玉の音がしたの。

 からん、からん、からん……とね。


   第六十四夜 焦げた人

 妻が先日、バイト先でこんな話を聞いてきました。

 そのバイト先の建物は一階が店舗部分、二階には従業員の更衣室や調理場なんかがあって、もともと雑居ビルだったらしく、その他には閉鎖したバーの看板がそのまま残っていたり、カラオケボックスの一室のような部屋があったりするらしいんです。要するに二階の一部を少し改装して、使ってるんですね。

 そのせいか、普通ならそこにはつけないだろうって場所にドアがあったり、畳半畳ほどのスペースの三方がドアになっていたりと、とにかく変わった造りの部屋が多い。

 従業員はたいてい休憩のとき、今いったカラオケボックスの一室みたいな部屋で食事をとります。その扉を開けると、正面はもとバーのあった場所。入口の両側の壁が、鏡張りになっているんですね。

 あるバイトの男の子がおりまして、休憩を終えて戻ろうとドアを開けたとき、バーの入口のあたりに人が立っているのに気づきました。

 従業員はみんな、その元バーにあるトイレを使っていましたので、初めは誰かが用を足して出てきたのかなと思ったそうです。

 でも、次の瞬間すぐに、違うことに気づきました。

 その人、真っ黒なんです。

 人の形をしてはいても、全身が真っ黒。『名探偵コナン』の中で、犯人がまだハッキリしていないとき、影のようなもんが出てくるでしょ? あんな感じで、影法師みたいだった。

 その子、慌てて調理場に駈けこんだそうです。それ以来、もう元カラオケルームには行きたくないって、調理場で休憩するようになった。

 でも、調理場ですから何もしない人がいると邪魔になりますよね。それで理由を聞かれて、彼は今の話をしたわけです。

 私の妻は、ただ見ただけで何もされてないんだから、塩でも振ればじゅうぶん、といったそうです。

 帰ってきた妻から聞きましてね、そのバイト先のビル、どうも場所が悪いんじゃないかって調べてみたんです。

 すると、関東大震災でも東京大空襲でも人が亡くなっていますし、さかのぼると安政の大地震のときも、明暦の大火でも被災しているってことがわかったんですよね。

 全身真っ黒だった、というのは、火に焼かれたからなんでしょうか。

 そうそう、影法師のようなものを見た彼は、そいつを見ただけだったら、まだ怖くはなかった、といってたそうです。

 その姿が、自分にそっくりだった。

 もしかすると、何か不吉なことが自分の身に起きるんじゃいかって、それ以来、気にしてるんです。ずっと。


   第六十五夜 祓戸爺さん

 神職資格をとるっていって、大学に通ってたころの話ね。

 とある兼務社で助勤をしたわけよ。ふだんは神主がいなくて、お祭りなんかがあるときだけ、開けているような神社でね。

 現地に着いたらまず神様にご挨拶。まあ当然だわね。拝殿に入ったら、氏子さんだと思うんだけど、もう掃除もしてあったし、祭具類の準備もできていた。

 拝礼をすませて控室に戻ったら、もうすることはない。時間まで待って、そこからはご祈祷するだけだった。

 その神社って、あんまり大きい造りじゃなくてさ、正面の御扉のすぐ前に案、つまり神饌などを載せる台を置いてあるわな。そこが二段になってて、下の段の端に大麻があった。

 この大麻は、紙垂を束ねて結わえたタイプじゃなくて、榊の枝タイプだった。

 つまりは、最初に修祓だっていって祓詞を読む場所と、ご祈祷で祝詞を読む場所とが同じになるわけだ。

 案の向こうは御扉なんだが、木じゃなくてガラス戸だったから、中が見える。

 内陣の御扉は木だったのが見えたし、おみこしも奉安されていた。そこにも大麻があって、こっちは紙垂を束ねて結わえつけたタイプだった。

 時間になって、何件がご祈祷を勤めたんだけど、そのうちにガラス戸の向こうが気になりだしたんだ。どうも、何かの気配がある。

 祝詞を奏上し終わって立ち上がったときに、それとなく見たんだ。

 そしたらな、長髪のじいさんが、寝そべっていたんだよ。

 声をあげそうになったよ。ホームレスが入り込んだんじゃないかって格好だったから見間違えたんだけど、すぐに気づいた。そうじゃないって。

 じいさんの姿はぼんやりとしていて、向こうが透けて見えてたんだ。

 そうだとしても、こういっちゃなんだが神様関係ではない、一般人の霊的なもんが入り込んでたら、困るわな。いちおう、そういうときのための祝詞は用意してた。

 しかしな、そのじいさん、いや、こんな呼び方をすると失礼な存在だったんだな。

 祓詞を詠んでいると、明らかに耳を傾けている様子だし、たまに頷いてもいる。

 ぼろぼろの服を着ているようであっても、雰囲気は清々しいというのか、さっぱりしているというのか、綺麗な空気に包まれているのが、ありありとわかる。

 何よりも、「祓戸大神たち」というところで、耳がぴくっとしててさ、あれは怖かった。「たち」と申すんだから複数だろう、じいさんはひとり。だから祓戸大神ではないだろうとは思うけれども。

 そのあたり、人智の及ばないところかもしれん。

 俺たち神主って、たいていまず修祓するっていって、祓詞を奏上するよな。祓戸大神の御名は、非常になじみ深いわけだ。

 かといってここで、じいさん、じいさんなんていって、怒られないだろうな。

 そのせいで罪穢を祓えなくなったら、怖いよ。


   第六十六夜 稲荷社

 このじじいが五、六歳の頃だから、まあ何十年も前、昭和の初めの話よ。

 北海道の片田舎におったからなあ。その頃、住んでいた家のすぐ近くには牧場があって、それを取り囲むように深い森があったんじゃ。

 家の脇には、どぶ川が流れとって、森の中へとつづいていた。

 このどぶ川ぞいに遊びに出かけてな、学校が終わったら日が暮れるまで帰らん。そんなことがよくあった。

 しばらく行くと、小さな空地が開けてな、そこには赤い鳥居が立っとって、奥には赤いトタン屋根の小さな神社があった。まあお稲荷さんじゃろうな。夏の終わりから秋にかけて、あたり一面にススキが生えとった。わしの背丈くらいもあるススキがのう。

 遊ぶのに飽きると、お宮の前で寝転がって、青空を眺める。そうしているのが好きだったんじゃが、あるとき、そうして寝そべってて、ぼうっと晴れた空を見ていると急に動悸が激しくなりはじめてな。目の前が真っ暗になるし、きれいな青空が白黒写真のようになってゆく。

 そんなことは初めてじゃったな。大げさかもしれんが、このまま死ぬんじゃないのかと思った。

 わしは慌てて起きあがって、とにかく家に帰らなければと歩きだした。母親に助けを求めようと思ったんじゃな。でも、ふらふらと二、三歩進んだところで、心臓の動悸はおさまって、あたりの風景もだんだん色がついていった。

 今から考えると、そのとき寝ていたのは鳥居の内側だったんじゃな。すなわち、神社の境内にな。バチが当たったのかもしれん。

 それまで寝っ転がって空を見上げるのは、たぶん鳥居の外側だった……まあ、昔の話ゆえ断言はできんが。だいたい、元に戻ったら動悸が激しくなったことも、目の前が真っ暗になったことも、すっかり忘れてしまったとはずなんじゃな。日が暮れるまで別なところで遊んでたと。

 それから数年たってな、何かの話のついでにこのお稲荷さんについて、母親に話したことがある。

 ところが、母親は「そんなところに神社はない」という。

 子供のことだから遊ぶ場所は気まぐれで、ころころ変わる。そのときにはわしもな、どぶ川にそって森の中へと行くことは絶えてなくなっていたんじゃ。そこで、まだ日も高かったことだし確かめてみようと思って、行ってみたんじゃ。

 するとな、母親の方が正しかったんじゃよ。

 わしがお稲荷さんがあったと思った場所には、高さ五十センチほどの石碑だけがあった。

 その前に、誰かがお供えものをしたのか、ワンカップの容器があった。

 いったい、これは何だったのか。

 記憶違いじゃろうか。別なところのお稲荷さんが、そこにあると勘違いしたんじゃろうか。

 あるいは目がおかしくなっていて、この石碑がお稲荷さんに見えたとでもいうんじゃろうか。

 確かに憶えているのはのう、その石碑の周囲にはススキが生えていたことじゃ。

 わしの背丈ほどもある、背の高いススキがのう。


   第六十七夜 クミちゃんの声

 幻聴ではないんです。

 決して幻聴では……精神疾患といわれればそうかもしれないし、病院に行ったらそれなりの病名をつけられて、薬を出されるんでしょう。

 でも、その声は私以外の人も聞こえることがあるんです。それって幻聴とはいわないでしょう?

 声の主は、小学校の頃の同級生です。クミちゃんといって、五年生にあがるとき同じクラスになったんです。いつのまにか仲良くなって、それから六年生の卒業間際まで、いつもいっしょにいたんです。

 目がくりくりしていて、ちょっと縮れてはいましたが、きれいな髪をしていました。優等生で、ずっと学級委員長でしたから、私とはぜんぜん違うタイプなのですが、なぜか仲良くなったんです。

 子供のことですから仲良くなったり、仲違いしたりはよくあることで、あんなことがなければ私だって、もしかしたらクミちゃんとも何かのきっかけで、疎遠になったかもしれません。あくまで仮定の話で、今となってはわかりませんが……。

 忘れもしない、二月の二十日のことです。

 放課後、いつものようにいっしょに下校中、クミちゃんは急に立ち止まって、

「あたし、忘れ物したから取りに帰る」といいました。

 裁縫セットを忘れたのです。つぎの家庭科の授業までにエプロンを仕上げることになっていましたが、確かまだ二、三日は余裕があったはずです。それに、おうちにも針や糸があるのに、使い慣れているからといって聞きませんでした。

 珍しいこともあるもんだ、クミちゃんが忘れものをするなんて……とそのときは思ったのですが、実は裁縫セットを忘れたのは、わざとだったのです。

 私は結局そこで別れて帰宅しましたが、クミちゃんはその後、行方不明になりました。

 警察の人に、何度も話を聞かれました。クミちゃんのお父さん、お母さんが私のうちまできて、知ってることを教えて、と泣きそうな顔でお願いされました。でも私には、いまいったくらいのことしか、わかりませんでしたので、そのとおり答えるしかなかったのです。

 クミちゃんは学校に、確かにもどっていました。職員室にいた先生に忘れ物をしたと伝えてから、校舎に入っているのがわかっています。

 それ以上、手がかりのないまま一週間ほどたって、卒業式で歌う合唱の練習を何度もしたり、卒業文集の原稿を書いたりと忙しくしていた頃、手紙がきました。

 ええ、クミちゃんからの手紙でした。

 差出人は書いていませんでしたが、確かに、クミちゃんの字でした。いつも宿題を見せてもらったり、漢字テストの採点をしあったりしていたんですから、見間違えるはずはありません。

 笑わないで聞いて欲しいんですが、クミちゃんはあの日、二月二十日の午後四時四十四分に、階段の踊り場にかかっている大鏡で合わせ鏡をして、鏡の世界に閉じ込められたというのです。

 そして、鏡の中の世界で、この手紙を書いているんだ、お父さんやお母さんに手紙を何回も書いたが、届かずにもどってきた。もし届いたなら、何とかして助けてほしい……。

 でも、小学校六年生の私には結局、何もできなかったんです。

 さすがに十二歳ともなれば、鏡の中に閉じ込められたなんて信じられませんでした。いまでこそ、クミちゃんは誘拐されてどこかに監禁されていた、「鏡の中」は何かの暗号で、監禁された場所のことじゃないかって思いますが、当時はそこまでの知恵は働きませんでした。

 逆に、私が誘拐されていて同じ内容の手紙を書いたなら、クミちゃんはきっと私を救う手立てを思いついたはず……そう考えると、後悔はします。後悔はしますけれども、私はクミちゃんじゃないのだから、とどこか冷めた自分がいることも、否定できないのです。

 手紙はまず両親に見せたのですけれど、同級生の誰かの悪質ないたずら、と思われたようです。内容からいっても、無理はないでしょう。

 それから、クミちゃんのご両親に見せようと家まで何度も行ったのですが、どちらも働きながら、クミちゃんの行方を追うのに必死になっていたようで、会うことができませんでした。電話をしても、いつも留守でしたし、留守電にいちおう用件を録音したのですが、向こうからかかってくることはありませんでした。

 そうこうしているうちに、私は小学校を卒業し、中学校に入学。子供なりに忙しくしているうちに、手紙のことも、クミちゃんのことも、しだいに忘れていきました。

 次にクミちゃんのことを思い出したのは、中学二年の夏休みの近づいたある日のことです。

 たまたま友達と放課後、部下中に怪談をしていて、三面鏡が怖い、合わせ鏡が怖い……という話を聞いたんです。

 その場では、ふとクミちゃんのことが頭に浮かんだのですが、それもわずかの間のことで、よくあるような怖い話をしたり、聞いたりしているうちに、薄情なことに忘れてしまいました。

 でも、またすぐにクミちゃんを思い出すことになったのです。部活が終わって下校中に、友達と別れて歩きだしたところで、

「あたし、忘れ物したから取りに帰る」という声がしました。

 はい。そうです。クミちゃんの声でした。

 あたりをキョロキョロ見回してみましたが、声の主はいません。

「まだ鏡の中にいるの。助けて」

 私はほとんど半狂乱になりながら走って家に帰り、部屋に閉じこもりました。

 その間も、クミちゃんの声が私を責めたてました。

「どうして何もしてくれないの?」

「寒い。怖い」

「ここには誰もいない。寂しい」

 その日はもう、ごはんを食べる気にもなれず、お風呂にも入らず、布団をかぶって震えていました。お父さんやお母さんは、ずいぶん心配したようでした。

 翌日、眠かったけど何とか学校に行ったんです。

 見るからに具合の悪そうな顔をしていたんでしょう、友達に理由を聞かれたのですが、私にはぜんぶ話すことなんて、とてもできませんでした。人の声が一晩中聞こえて寝られなかった、ともいえませんでした。

 授業中にも、休み時間や給食の間も、部活をしていてもクミちゃんの声は聞こえてきました。私はグッタリしてしまい、ただ聞き流すままの状態でした。それでもクミちゃんの声を無視しつづけて、ふだんどおりの一日を過ごすことで聞こえなくなるかもしれない、と思ったので、早退しろと友達や先生に勧められても聞きませんでした。

 でも、これがもしずっと続くなら耐えられません。その日の夜、お母さんには打ち明けたんです。

 クミちゃんの声が聞こえて、怖いと。

 私はクミちゃんの声がするたび、ぜんぶではありませんがスマホで録音してたんです。

 それをお母さんに聞かせたところ、確かにクミちゃんの声みたいだ、といいました。

 これって、幻聴じゃないですよね?

 病院に行ったら精神疾患てことになるんでしょうけど、私だけならともかく、お母さんにも聞こえたんですよ。

 集団催眠のようなもの……確かに、そうかもしれませんね。お母さんはクミちゃんを知っているし、行方不明になったのももちろん憶えている。そういう予断があるから、私がそういったときの雰囲気でそう聞こえてしまった、とか何とか……。

 他に、まちがいなくクミちゃんの声だ、という音源があるなら、専門の機関か何かに比較、分析してもらったらいいと思うんですけど。

 いまも私にはクミちゃんの声が、聞こえていますけど、あなたはどうですか?

 聞こえますか? ずっとクミちゃん、しゃべっていたじゃないですか。ほら、いまも。

「トラツグミが鳴いてる。トラツグミが鳴いてる」って。どうですか?

 そう……そうだったんですか。それは残念。じゃあ、こっちの方。

 スマホの方。音を大きくしたら、よく聞こえるんです。

 どうですか?

 クミちゃんの声、聞こえますか?


   第六十八夜 「あれ」

 最近は足が弱ってきたから、もう止めちまったんだが、俺は大学で山岳部だったからさ、最近までよく山に登ってたんだよ。家庭を持ってからは、年に一度がいいところで、無理なこともしなくなっちまったがね。冬山なんて若い頃しか登ったことないし、せいぜい土日にハイキング程度に楽しむ程度さ。あとは、ネットで登山した人の体験記を読んだり、山の写真見て懐かしがったり、そんな程度だな。

 で、若い頃ひとりで……黒岳から北海岳経由で、白雲岳まで登ってきたことがあった。

 いっとくが、これはぜんぜん難しいコースじゃない。黒岳の七合目まではロープウェーを使えるし、黒岳頂上までは観光客がたくさんいるくらいで、それこそハイキングみたいなもんだ。そこから北海岳に行くのも、高低がきついわけじゃないし、道中困難なところもほとんどない。ただ、白雲岳への登り下りはガレ場がちょっときついかな。

 紅葉のシーズンで黒岳までは人がたくさんいたが、黒岳から北海岳に向かうときには、前後を歩いている人は誰もいなくなっていた。

 ところがな、誰もいないはずなんだけど、おうい、おうい、たなかーっと、背後から俺を呼ぶ声がしはじめたんだ。

 ひとりで山歩きしてると、たまにこういうことがある。魔が差すっていうのかな。疲れてもいないし、空腹でもなかったんだがな。

 俺は無視して歩きつづけた。秋晴れの日だったが、若干風があって、じきに見えてきた山頂付近の雲が、ずいぶん速く動いていた。周囲の山はところどころ紅葉していた。

 北海岳の山頂付近には、ちらほら人がいて、腰をおろして休憩したり、写真を撮ったりしていた。ここらへんは見晴らしもいいし、畑でもやれるんじゃないかってくらい、だだっぴろいんだがな、そのせいか風が吹き抜けるんで、ちょっと辛い。

 ここで飯にしようかと思ってたんだが、白雲岳に向かう途中で食うことにして、山頂をあとにした。

 それでやっぱり腹が減って、疲れてきたからだろうか。また声が聞こえだしたんだ。おうい、おういと、偉い間延びした声で呼ぶ。ときどき、たなかー、たなかーと俺を呼ぶ。

 やっぱり前後に人はいない……はずが、急に百メートルほど前に人影が現れた。それがな、俺にそっくりな格好をしてるんだよ。身長も体型も同じくらいだし、帽子からリュックサック、登山靴までみな真似したんじゃないか、っていうくらいだった。

 いや、そこまでしばらくの間、直線だったし、草も木も道をさえぎるくらいの背丈じゃなかったんだ。どうして気づかなかったんだろう。それにしても、俺にこうまでよく似たやつがいたもんだ……。

 やっぱり疲れてるのかと思って、俺はそこで休憩することにした。

 握り飯を食って、熱いお茶を飲んでいるうち、なぜか前方の人影もこっちに向かって腰をおろして、何か食っている。どうやら、おにぎりを食っている。何か飲んでいる。遠目に見ると水筒も同じようだ。

 やつの動きは、鏡を映すようだった。俺のおにぎりを持つ手は右、やつは左。水筒を俺が左手で持てば、やつは右手でとる。

 ああ、そこで気味悪くなっちまってな。

 いや、こういうことは、ままあるんだ。さっきもいったが、魔が差すってやつな。

 もう、百メートル先にいるそいつの顔は、俺と同じように見えてならない。

 梅干しをかじったが、全然すっぱくない。お茶をもう一度飲んだが、ぜんぜん味がしない。落ち着こうとするが、かえって無理なんだな。手が震えて、おにぎりが落ちた。

 向こうも、おにぎりを落とした。

 おれは右手で石を拾って、そいつに向かって投げた。するとそいつも、左手で石をほぼ同時に拾って、投げた。

 おれとやつの中間くらいで石がぶつかって、落ちた。

 そんなことって、あるかよ。

 人間わざじゃない。

 おれがやつに背中を向けて歩きだしたら、どうなるか。今までやつは俺の前方を歩いていたから、今度は追いかけてくることになるかもしれない。

 さっきから背後で俺を呼んでいたのも、こいつか。俗に山中の化け物は同じことばを二度くりかえさない、というが、こいつは確かに、おうい、おういと叫んでいた。じゃあ、こいつは何なんだ。

 狸や狐に化かされてるんなら、ここで一服するところだが、俺はあいにく煙草はやらない。

 こうやって口にすると冷静なようだが、だいたいこんなことを考えてたってだけだ。実際そのときは、もっと頭の中がこんがらかっていた。

 とにかく、まず握り飯をぜんぶ食っちまおうと思って、拾った。向こうも拾ったようだった。

 ……そこで、突然肩を叩かれたんだ。

「だいじょうぶか」ってな。

 はっとして振り返ると、爺さんが立っていた。

 いやあ、ふつうの登山スタイルだったよ。まちがいなく人間だ。

 握り飯を手にしたまま、ぼーっとしているから声をかけた、という。

 俺が事情を説明すると、爺さんは俺にそっくりなやつを指さして、あれか、と聞く。

 そうだ、と俺は答えた。

「あれは山の中を歩いていると、ときどき出てくるもんだ。おまえさんは名前を呼ばれたとき、返事はしとらんといったよな? 返事せなんだら、だいじょうぶ」

 あれは結局、何なんですか、と聞くと、

「あれは『あれ』。こっちから名前をつけるのも、はばかられる。だから誰も名前をつけない。ただ『あれ』と呼んどる」

「返事をしていたら、どうなっていたんですか」

「頭がおかしくなるか、身体の方がおかしくなるか。両方おかしくなるか」

 俺は立ちあがってな、きちんと頭を下げて礼をしたんだ。

「ありがとうございました。下山したら改めてお礼をしたいのですが、あなたは……」

「わしは『あれ』のせいで、おかしくなったもんのひとりじゃ。おかげで、ずっとこのあたりをウロウロしとる」


   第六十九夜 とうまん

 おばあちゃんが亡くなったときは、いろいろなことがあったよ。

 妹の夢枕に立ってね。お別れをいいにきたって。なぜか妹のところだけ。あたし、寝ぼけてたんじゃないのっていったんだけどね。

 おばあちゃんちの畑に、ぶどう棚があったのね。私の子供のころからやってて、おいしいぶどうがなるのよ。おばあちゃんがぜんぶやってて、みんなおいしいっていうから、おばあちゃん、がんばって世話してた。

 亡くなってからしばらくしてね、誰もぶどうの世話ができないってことになって、じゃあ残念だけど、もう片づけようってことになったの。それで、伯父さんが棚から蔓をとっているときなんだけど、足元からビューンと何か丸いものが飛びあがったんだって。

 ううん。鳥なんかじゃなかったって。ほんと一瞬、ビューン、と。その丸いものが、アッと思った次の瞬間には伯父さんの頬をかすめて、一直線に飛びあがった。空を見上げたんだけど、そのときにはもう米粒くらいになってて、すぐに見えなくなってしまった。

 魂って、そんなものなのかもしれない。

 おばあちゃん、ぶどう棚を片づけてほしくなかったのかなって思う。

 このおばあちゃん、私から見たらお父さんのお母さんなんだけど、お父さんの夢にも出てきてね、身体に気をつけなさい、健診をちゃんと受けなさいっていうから、いつもより詳しく診てもらったらガンが見つかったの。うん。早期だったからね、今はもう元気すぎるくらい。

 ……こうやってね、親戚中いろいろな人のところにきたみたいなんだけど、なぜか私のところには、おばあちゃん、こなかったのね。

 孫の中では私だけ仲間外れよ。みんな、何らかの方法で出てきた、おばあちゃんと関わりあってる。別に私だけ嫌われてたわけじゃないと思うんだけどね。

 親戚が集まったとき、それをネタにいじられたこともあったの。

 私も特別、おばあちゃん子だったわけでもないし、そんなこと、気にしなかったんだ。おばあちゃんが、って話を聞いても、よかったね、おもしろかったね、で済ましてた。

 ところが……とうとう私のところにも、おばあちゃんがきたのね。

 夢枕に立ったの。

 私は夢の中で、おすしを食べてたの。いや、回転ずしとか、回らないおすし屋さんとかじゃなくて、スーパーなんかで買ってきたやつね。

 場所は今住んでいるアパートで、仕事から帰ってきたあとのような感じ。おばあちゃんは、ベッドのある部屋から出てきてね、私がおすしを食べてるのを見て、

「あんただけ、おいしいもの食べて」

 っていうのよ。

 はあ? って感じでしょ。そんな、すごーくおいしいもんでも、ないでしょうに。でもね、あたし聞いたのよ。

「おばあちゃん、何か食べたいものあるの?」

 そしたら、おばあちゃん、満面の笑みで、

「とうまん」

 とうまん、知ってる? 小さい大判焼みたいなので、中に白あんが入ってるやつ。札幌あたりではよく知られてるけど、どっちかというと庶民的なおやつよね。なぜか、そのとうまんが食べたいって。

 それから仏壇にも、お墓参りのときも、とうまんを買ってお供えすることにしたのね。

 おばあちゃんが出てきたって夢の話をしたら、寝ぼけてたんじゃないのって妹にいわれたんだけど。

 おばあちゃん、若いころ札幌にいたから、思い出の味だったのかもね。

 お供えしてほしいって私だけに頼むのは、どういうことかなって、たまに思うんだけどね。

 それ以来、おばあちゃんは私のところにはきていないし、親戚のところにも現れていないみたい。

 とうまんで、満足したのかな。


   第七十夜 霊を呼ぶことば【閲覧注意】

 怖い話をひとつ、ってか。あんたも物好きだね……じゃあ、こういう話はどうだ。

 言霊って、たまにいうよな。

 いいことをいえば、いいことが起きる。悪いことをいえば、悪いことが起きる、ってな。

 でもさ、ふつうの人間が、ふつうにことばを発したって、そのままの結果が出るわけなかろう。そんな単純なもんじゃないんだが、一般にはそう信じられている。

 ときに、霊を呼ぶことばってのが、ある。

 そのことばを発するだけで、霊が周囲によってくるという。

 一時期、インターネットでズバリそのもののことばが出ていて、俺なんかびっくりしちまったんだが、まあ今は紹介したサイトはなくなってるし、それをコピーして転載したのが残ってるが、手打ちでコピーしたらしく、まちがっている。だから、ぜんぜん霊なんかは呼べない。

 言霊ってのは神霊の力を通じて、初めて発動するわけだが、その神霊に通じるためのことばの部分が、まちがっているんだ。だから問題ない。

 怖いものみたさってのは、どの人間にもあるから、霊を呼びだしたくなっちゃう人ってのも、けっこう、いるもんだね。霊は怖いものとは限らないんだがな。

 終わり。俺の話はこれでぜんぶだ。

 いや、いや。俺は怖い話をしたぞ。

 要するに霊がよってくれば、いいんじゃないのか?

 今の話の中にちゃんと、織り込んでおいたじゃないか。

 霊を呼ぶことばを。

 あんたは呪文みたいなもんを想像してたんだろうが、霊を呼ぶことばってのは、思想みたいなもんだから。一連のあることばでもって霊を呼ぶなんて、それこそ神霊の力を借りなきゃ無理な話だ……。

 おいでなすったようだな……あんた、顔色悪いが、だいじょうぶか?

 ああ、こいつはまた……。

71話~第80話

   第七十一夜 死因開陳

 これは僕の一生を……たぶん決めることになったエピソードです。

 当時、僕は中学二年生でした。

 十月終わりか十一月初めのある日。放課後、部活が終わって友達ふたりと下校中のことです。

 もう西の空が夕焼けていて、疲れたな、とか、腹減ったな、とかいいあいながらダラダラ歩いていました。

 友達ふたりの名前……A、Bとしましょう。僕たちは野球部で、Aのポジションはショート、Bはファーストでした。

 三年生の引退後、ふたりともレギュラーになったばかりだったのですが、僕は補欠。僕が守るのはセカンドでした。

 はい、みんな内野ですね。連係プレーの練習をする機会も多く、しぜんに仲良くなっていったというところでしょうか。

 三人で下校してるっていっても、いつも僕とAがしゃべって……Bはもっぱら聞き役です。

 Bの方からなにか話しはじめることなんて、めったにありませんでした。

 ええ、Bのポジションはファーストですから、ホントそのまんまですね。ご存知のとおりファーストというのは、いちばん球がきますから。

 ああ、もちろんピッチャーとキャッチャーを除いて……敵の打った球を僕やAが捕って、Bに投げる。それと同じです。僕やAが話して、Bがうんとかそうだなとかいう。

 しかし……しかしですよ、そのとき突然Bが、僕たちに聞いてきたんです。

「死んだらどうなると思う?」って。

 ――僕は一瞬、Bってこんな声してたっけ、と感じた。

 いつも聞き役で、無口な方であるといっても、授業中に先生の質問に答えることもありますし、練習中だって声をしっかり出してないと顧問に殴られる。

 でも、そんなときのBの声とはあきらかに違う。トーンがずーっと低いし、ちょっとかすれたようになっている。

 Aも驚きの表情を隠さず、立ち止まって僕とBの顔をかわるがわる見ている。

 再び歩きだして……かんじんの回答の方ですが……そんなこと聞かれても、どう答えたもんか分かりませんよね。

 いまでもそうですけど、当然ながら死んだことなんてないから答えようがない。

 適当に、じぶんがこうって思ってることをいうしかない。僕は、

「いいことしたら天国に行って、悪いことしたら地獄に行くんだろ」

 Aはバカかおまえ、と僕に毒づいて、

「キリスト教の信者じゃないんなら、天国なんかに行かんだろうが。坊さんがきてお経読んだら、極楽に行くんだよ」

「じゃあ、悪いことしても地獄に行かんのか?」

「そりゃあ、地獄行きだ」

 それから〈悪いこと〉をめぐって僕とAがあれこれ意見を述べているあいだ、Bはひとことも口をはさみませんでした。

 僕とAがお茶を濁している格好ですが、僕は気になりませんでしたし、Aも同様だったでしょう。

 もちろん結論なんて出ませんから、一段落ついたんじゃないかってところでAが、

「ああ……腹減ったな。イシイフードに寄ってくか」

 そう提案し、僕は賛成しました。

 イシイフードは帰る途中にあるスーパーなんです。よく学校帰りに惣菜を買って、歩きながら食っていたんです。

 ええ、そうです。つまりその話は終わりそうになってたんです。

 聞いてきたBがなにもいわなかったんですから、仕方ないですよね。これくらいでいいだろうという雰囲気になってたというか……。

 するとBが立ち止まった。

 なんだ? って、僕とAも足を止めた。

「俺が死んだらさ、絶対おまえらんとこに行って、なんかするから。おれがきたって分かるようなこと」

 こいつ、ちょっとおかしいと感じました。いつものBじゃない。

 Aはよっぽど腹を空かせてたんでしょうか、まともに返事をしませんでした。

 わかったわかったといって足早に歩きだして、それにつられる格好で僕とBが足を進めて……それきりになったんです。

 うーん……いやいや、違うんですよ。

 ええ、ええ。仰るとおり。

 確かに、その直後にBが死んで、なにかあったっていうんなら話としてはツジツマが合いますよね。

 でも、べつにそんなことはありませんでした。

 無事三年になり、いろいろあっていっしょに下校しなくなったり、またつるんで遊ぶようになったりをくりかえしているうちに、卒業して……僕とAは近くの高校に進学。Bは親元を離れて下宿しながら高校に通った。

 Aはそれから町役場に勤めて、僕は大学に行って……それからはAと僕はたまに連絡を取り合う程度、もうBの消息を聞くことはありませんでした。

 あのときのBは思いつめたような表情をしていて、眉間に皺は寄っているし、目は据わっているし、口元はぎゅっと結んでいて……なにか重大な秘密を、僕なんかじゃとうてい対応できない秘密を打ち明けられるんじゃないかって雰囲気。

 なによりも、全く見たことのないようすってのが、怖かった。

 じぶんではこのときのBのようすが深く印象に残っていたんですが……それが怪しくなってきたのは、ことしの春のことです。

 僕は大学を卒業後、地元にもどらずそのまま現地で就職して、十年ほどになっています。

 実家にはお盆か正月、たまにまとまった休みがとれたら顔を出す程度です。当然、A、Bだけじゃなくかつての仲間とは疎遠になっています。

 それがある日、仕事が終わってアパートにもどると、ドアの前にBが立っていたんです。

 久しぶり、といって手をあげ、笑っている。

 背が高くなってるし、それなりに年もとっていますから最初はだれか分からなかったけれども、ちょっと話したらBと分かった……いえいえ、違います。

 Aじゃない。Bだったんです。

 中学のとき、怖いなと僕が感じた方ね。

 中学を卒業して以来、会っていなかったBが訪ねてきたんです。

 僕の実家に連絡して、住所を聞いてきたってね。

 どっかで飲みに行こうかとも思ったけれども、いまさら出かけるのもおっくうだし、Bがここまできてしまっている以上、あがってくかってことになりました。男のひとり暮らしで汚いけれどもって。

 それでBを部屋にいれて、缶ビールで乾杯して懐かしいなあといいあった。

 高校に入って以降、どこかで変わったのか、Bはずいぶんおしゃべりになっていて、またその話がおもしろい。

 しかし、気になったこともありました。

 たまたま僕を思い出したBが実家に連絡、近くに住んでいるのが分かって訪ねてきた……そんなところだろうと思っていたところ、聞けば全然そうじゃない。

 わざわざ新幹線で四時間くらいかけてきている。

 出張なんかではなく、僕に会うのが目的だったという。

 変、ですよねえ? ただ会いにきたんじゃないだろう、それなら普通、まずは連絡してくるのが先だって。

 Bの話術に、僕はときどき涙を流しながら笑い転げてたんですけれども、さすがに本題が気になりだした。

 ええ、聞いてみたんです。

 なにしにきたんだ、ただ懐かしいからきたんじゃないだろうって。

 場が一瞬で凍りつきました。

 Bはしばらく黙り込んでいて……僕はBの顔をうかがうことしかできない。

 もう幼さ、あどけなさの消えてしまったBの顔を。

 ややあって、Bが缶を握りつぶし、こう聞いてきました。

「中二の頃なんだけど、憶えてるかな……死んだらどうなるかって、俺が聞いた」

「ああ、憶えてる」

 僕の声は、情けないくらい震えていました。

 目の前にいるこいつは、死んだんだ。

〈死んだら、おまえらのところに行って、おれだって分かるようなことをなにかする〉っていったのをいま、忠実に履行しているんだ。

「あのときのA、あきらかにおかしかったよな」

 えっ、と思った。おかしかったのは、おまえの方じゃないか。

「Aがな……死んだんだよ。自殺だって」

 そういうなり、Bは声をあげて泣きだしました。

 僕は茫然としていました。僕もBも、せいぜい缶ビールを二、三本空けただけ、ほろ酔い程度です。

 幻覚なんかじゃないよな、と考えながら、Bをなだめました。

 するとBは声を荒らげて、

「おまえ、Aがかわいそうなんて思ってないよな」

 わけが分からなかった。

 仲間……チームメイトでもあったやつが死んだ。それがかわいそうでなくて、なんだというのか。

 そこで、中二の頃にもどるわけなんです。

 死んだらどうなるかとBが聞き、僕とAがお茶を濁す。

 死んだらなにか分かるようなことをする、とBが怖い顔をしていう……これが僕の記憶です。

 しかし、Bは違う、つづきがあったというんです。

 この直後、Aが叫んだという。

「おれが死んだら、おまえらもすぐに死ぬ」と。

 Aもまた、見たことのない顔をしていた。

 目を吊り上げて、口が裂けていて……月並みですが、悪魔が乗り移ったようだったとBはいいます。さらには、

「おまえは火だ」Bを指していい、

「おまえは金だ」と僕を指していったと……。

 悪い冗談はやめろよ、といったんですけどね。Bは真剣な顔をしていました。

 もう懐かしいどころじゃありません。

 おれは煙草を止めたし、家じゃガスはつかっていない。ガソリンスタンドを見つけたらすぐに離れるようにしている。

 おまえも金に気をつけろ……Bはそう早口にまくしたてて、帰っていきました。僕が止めるのも聞かずに。

 すぐ実家に連絡しました。

 夜遅かったためか携帯には出なかったんで、固定電話にかけ直して……母が出るとすぐに、Aが死んだって聞いたんだけどと尋ねました。

 寝ているところを起されて不機嫌そうでしたが、母はそうだ、つい最近、と答えました。

 パチンコにはまって借金をしまくって、どういう理由かは分かりませんが自己破産もできず、それで首をくくったと……。

 それから母はなにか聞いてきたようですが、憶えていません。

 気づいたときにはもう電話は切れていました。

 うん……どうなんでしょうか。

 Bはまだ無事だと思いますよ。

 連絡先も聞いてませんのでハッキリそうだとはいえませんが、ずいぶん気をつけているようですし……仮に亡くなってるんだとしたら、なにかしらその印を見せてくれるって思ってます。

 ええ、Bのことばを信じて……僕にも分かるような方法で知らせてくるだろうと。

 いやあ、それは……だって、Bはともかく、僕の方では気をつけようがないでしょう?

 キンに気をつけろっていわれても純金に注意していればいいわけでもないでしょう。

 恐らく金属って意味だと思いますし、それならそれで、身のまわりにザラにありますから……カネに気をつけるべきだってことかもしれませんし。

 だから、僕はふだんどおりの生活をしています。

 それにしても、じぶんの記憶力を恨む気持ちはあります。

 それと、他ならぬAについても。

 ギャンブルで借金つくって死んだって、そんなの自爆じゃないか、人を巻き込むなよって。

 これからあとどれくらいで死ぬのかは分かりません。

 ただ、やり残したことがないよう……後悔しないよう毎日を過ごす。

 それだけですね。


   第七十二夜 奇岩

 あんたいくつだっけ? ああ、そうか。おれより五つ下か。

 じゃあ知らないかもなあ……ま、おれが小学生だった頃の話なんだけどさ。変な話っていったってこれくらいしかないんで。

 こりゃはっきり日時を憶えてるんだ。一学期の終業式の日。おれは小学三年生だった。

 朝、あすから夏休みだってウキウキしながら登校してる途中、岩を見つけたんだな……道のど真ん中に。

 しかもこれがけっこうでかい。直径一メートルくらい、高さは二メートルくらいか。

 指サック型の形状だったんだが、ところどころ出っ張りがあってゴツゴツしている。海から持ってきたんじゃないかって気がした。

 あんたもよく知ってるだろうが、田舎町だからな。さしあたって支障はない。

 ほら、戸出だよ。戸出、戸出。憶えてないか? 小学校のすぐ近くで、当時ちらほら家が建ち始めてたところ……うん。

 おれがこりゃなんだろうって撫でたり叩いたり、周囲をぐるぐる回ったりしている間、車は一台も通らなかった。

 先生方はほとんど車で出勤してたが、通るのはその道の一本浜側だ。通学路の……アレだ。アレアレ。そうそう、それ。メインストリート。

 学校のすぐ前に出る道だからな。そっちの方は当然、ランドセルしょって行くやつがいっぱいいたさ。

 だがおれのいる場所はまだ空地のが多い、絶賛宅地造成中ってとこだ。友達も誰も通りゃせん。

 庭石か……? 確かにその岩、おあつらむきではあった。

 でも、そんな建坪の広くとってある区画はなかったし、おれはそれからもずっとそこを通ってたからなあ。そんな立派な庭があるうちなんて、できちゃいない。こりゃ確実だ。

 なにかの手違いで、業者が置き忘れたんだろうか?

 そうだとしたら、わざわざ道の真ん中に置いたってことになる。うん、落としたんじゃないんだ。

 荷台からドンといったんだったらそれくらいの岩だ、アスファルトにヒビが入るはずだ。だが、道の方に異状は全くなかったんだ。

 じゃあ、手間ひまかけるのをいとわん愉快犯か? だが、こう考えるならもうお手上げだな。材料がなさすぎる。

 ……と、いまでこそこんなふうに、あれこれ考えるわけだが、そのときのおれは岩の上に登って、ぼうっと往来を眺めているだけだった。

 目の前の少し先を、登校中の児童が通りすぎてゆく。

 知っている顔がゆき、知らない顔がゆく。

 道端の草やなんかをひっこぬいたり、虫をつかまえているやつもいれば、どこから持ってきたんだか棒っきれを振り回しているやつもいる。

 終業式だからランドセルの中身は軽い。みんな、跳ねまわっているように見える。

 その児童の列を、ときどき先生の車が追いこしてゆく。毎朝のように脇を通ってゆくんだから、どの車も見慣れたものだ。

 こんな光景が目の前にありはしても、現実感がないというのか……おれが現にここにいる、岩の上に座っているって感覚があまりなかったんだ。

 ああ、なんともいえず心地よかった。なぜか、な。

 尻は多少痛いんだけれども、フワフワしたものの上で揺られているような感覚。でも、じっさいにはおれの身体は揺れていない。

 しばらくすると、そのフワフワしたものが徐々に下の方から、おれを包みこんでいるんじゃないかって気がしてきた。

 それがまた、なんともいえず気持ちがいい。寝る前の、うん、ああ意識がとぎれそうってときの感じ。アレがな、ずうーっと続いている。そんな感じ。

 そこへ、おれを見つけた友達がふたりきた。

 その頃、遊ぶってなると、なにするんでもいっしょだったやつらだ。ああ……はたから見りゃ、おれの様子はかなり変だったんだと思う。

 だから心配してきたんだろう。岩の下まできて、

「おい、なにやってるんだ」

「具合悪いのか?」

「おーい、だいじょぶか」

「学校に遅れるぞ」

 ……こんなことをいう。ひとりは吉田屋。

 そうそう、金物屋の息子な。いまホームセンターなんてつくって、人つかってうまくやってるよ。まあ、その頃から情に厚いというか、面倒見がよかったんだな。

 吉田屋は下でおいおいと声をかけてくる。

 もうひとりは鉄道の息子で、こりゃ国鉄が民営化してJRになったときに、転校してったんだが……こいつは石をよじのぼって、頂上部に腹ばいになった体勢でおれの背中や太股を叩いてきた。

 おれの方はといえば、こいつらの声がくぐもって聞こえていた。

 テレビを見てたら、匿名の人間の音声を替えるってことがあるだろう? あんな感じ。

 鉄道がずいぶん力を入れて叩いているのは分かっていたんだが、バンバンやられてもかゆいような、くすぐられてるような感覚だった。

 要するに、おれはふつうの反応ができなかったんだ。

 岩を見つけた、それで登ってみたと、これだけのことがどうしても口にできない。

 いや、ンッ、ンッと、声は出てた。

 口をふさがれているような声だな。身体の方はうごかそうとしたとたんに、どうしようもなく億劫になる。ジッとしてたら、また気持ちよくなってくる。それで動けない。

 五分か、十分か……それくらいだろう。しばらくそうしているうち、チャイムが鳴った。

 学校のチャイム。予鈴ってやつだな。

 あと五分以内に着かなければ、遅刻になる。学校に向かう道の方を視線を移すと、だれもいなくなっていた。まるで急に消えてしまったようだった。

 チャイムが鳴り終わると同時に国鉄が地面に降り、それから火のついたように泣きだした。

 ああ、あれは本当にことばどおり……火がつくと同時にボウッと燃えあがったときのようだったな。

 ふだんならおれも吉田屋もなだめるんだが、おれはご覧のとおり。感情が鈍くなっていて、なんとも不吉そうな泣き声で嫌だなと思っただけだった。

 吉田屋はかたまっていた。小学生にはとうてい処理できない容易ならん事態に、どうしていいか分からなくなっていたんだろう。

 おれを置いて行けば見捨てることになるが、このままいれば遅刻してしまう。もう先生は通りかからないだろう。

 じゃあ、周囲の住宅内にだれか大人がいるだろうか。みんな仕事に出かけてるんじゃないのか。だれかこないか。できれば大人がいい……。そんなところだろうか。

 さっきの通学路の騒がしさが嘘のように、あたりは静まり返っている。音といえば、とんでもないことが起きていると訴えるには十分過ぎるくらいの、鉄道の泣き声だけだ。

 おれはやっぱり、泣き声が嫌だなと思っただけだった。べつに見捨てていいから早く学校に行けよとも思っていた。

 すると、本鈴が鳴りだして……鳴り終わった。

 ひときわ鉄道の泣き声が大きくなった。

 吉田屋が鉄道の腕を引っ張るようにして学校に向かっていった。いちどおれを振り返って、

「ごめんな、終わったらまたくるからな」

 おれは、おうといおうとした。

 でも声はあいかわらず……ンッ、ンッだった。ああ……こりゃなんだか情けなかった。

 それでな、ここから急に記憶が飛ぶんだ。おれはまる一日後に、そこで発見された。

 当然学校にも行かず、家にも帰らずさ。

 両親初め大人はみんなどこに行ってたって聞いてくるが、ここにいたって答えるか、分からないっていうしかない。

 ああ、これがさあ……岩なんてもんはなかった。なかったんだよ。ただ道路の上に倒れてただけ。

 それを車でたまたま通りかかった人が見つけたわけだ。もう少しでひくところだったってな。

 岩の上に登って、それから吉田屋と鉄道がきて……と話したんだが、信じてもらえんでなあ。

 吉田屋と鉄道にも事情聴取したらしくて、あとで聞いたらやっぱり岩の上におれがいたっていったんだけど、それでも口裏合わせてるんじゃないかって疑われたみたい。

 そうそう、確かにおれは岩の上に登ったんだし、吉田屋も鉄道もおれを……その岩を見てるんだ。

 ああ、岩がどこに行ったんか。そんなの分かりゃしない。

 おれは二日入院させられて、なんともないってことで家に帰った。

 オヤジもオフクロもべつに監視してどうこうってわけじゃなかったんだがな、吉田屋も鉄道もしばらくのあいだ、なんとなくおれを避けるというか、あまり近づかないようにしてるというか。

 また変な目にあったらどうしようって思ったんだろうな。

 鉄道は前にもいったように中学入ってから転校して旭川に行っちまって、その後まもなくして、音信が途絶えた。だからいまなにをしてるのか知らん。

 吉田屋とは何度か話した。あそこに絶対岩があったよなって。

 そのたびに、吉田屋はいう。

「うん、本当にあった。あれはなんだったんだろうな」ってな。

 だいたい一日ほどの間、おれがどうしてたのかは全く分からん。

 いわゆる神隠しだっていうんで調べてみたこともあるんだが、似たような話はないみたいなんだ。

 もしだれか似たような体験をしてたり、そういう話を知ってる人がいたら、教えてくれ。

 絶対だぞ。


   第七十三夜 タカミさん

 前のカミさんとまだいっしょに住んでた頃の話なんだけど、家事手伝い。ヘルパーっていうの? きてもらってたことがあるんだよね。

  朝九時から五時まできてもらって、金は斡旋所? 仲介してるところに払う。

 なんぼだったか正確なところは忘れたけど、そんな高くなかったな。

 名前はタカミさん。

 いやあ、苗字か名前か……どっちだったかな。うん、名前ではないと思う。そんなに長くは、きてなかったから忘れちゃった。

 タカミさんは、どこにでもいそうなオバサンだった。

 いま思い出してみても、特徴がないなあ……なんだか顔の部品がみな小さくて、ノッペリしてたってことくらいしか。

 冗談いっても笑わなかったけど、かといって陰気だってわけでもないし……いや、仕事はソツがなかった。

 洗濯物はいつでもピシッと畳んであるし、家じゅうピカピカ、もちろん料理も上手い。

 子供もすっかり懐いてたな。ああ、保育園の送り迎えをしてもらってたしな。

 その頃にゃもう、カミさんがかなり具合悪くなってて、オレひとりじゃなんもできんってことで頼んだんだけどさ、家事の方はそんなんで大助かりだった。

 でもって、結局代えてもらうことになったきっかけ……これが本題なんだ。

 あるとき、入院中のカミサンのお見舞いに行ったら、聞かれたんだ。

「きのう、タカミさんきた?」

 タカミさんには着替えの交換なんかに行ってもらってたから、カミさんと面識がある。

 洗濯は病院のコインランドリーをつかって、じぶんでやってたんだが、もったいないなんていいだしてな。

 人に洗ってもらうのもどうかなって思ってたらしいけれど、入院が長くなってたから気をつかったんだろうな。

 カミさん、さらにこういった。

「夜中、寝てるときにわたしのベッドの下、ゴソゴソしてて……でも、起きてから見てみたけど、洗濯物はそのままだし」

「確かなのか? ゆうべはふだんどおり五時に帰ったぞ」

「わざわざ寄ってくれたのかな」

 しかしな、家に帰って本人に聞いてみたんだが、タカミさんは行っていないという。

 洗濯物を取りに行くくらいしか用事がなくて、それが残っていたんだから、ああ、カミさんが看護師かなんかと勘違いしたんだろうっていうことで、この一件は忘れてしまった。

 また一週間くらいたってからかな……カミさんのお見舞いに行ったときのことだ。

「タカミさん……あの人、絶対変よ」

 どうして、と聞いた。

 この間、タカミさんがカミさんのとこに行ったのは、一、二回だろう。洗濯物の分量からいって。

「きのうの晩にきて、部屋の入口にボーッと立ってたの。それでね……絶対笑わないで聞いてくれる?」

「ああ、笑わない……どうしたんだ」

「そのあたりに立ったまんま……」部屋の入口を指さす。「わたしのベッドの下まで手をニューッと伸ばして、なにか探るのよ」

 薬の副作用で幻覚でも見たんじゃないかって思った。

 だいたい、カミさんのベッドは窓際だったんだ。

 四人部屋で、入口から五メートル以上は離れてる。

 カミさんの頭は壁の方、入口を見ようとしても見えないじゃないか。夜はとなりの人が、じぶんのベッドをカーテンを覆ってるんだし。

 だがなあ、カミさんは真剣な表情でいうんだ。

「しばらくゴソゴソしている音が聞こえてた。だから、夢を見てたんじゃないの。意識ははっきりしてた」

「どんな格好してた?」 

「上はね……襟が三角になってる、黒っぽいブラウス。下は膝丈くらいのタイトスカート」

 タカミさんの服装なんて、注意して見てなかった。それでも、前日にタカミさんが着ていたものくらいは分かる。

 まちがいない。前の日にタカミさんが着ていたものだ。

 洗濯物は、そのままだった。

 つまり、わざわざ時間外にきたのではない。いや、そんなことはどうでもいい、手が伸びてっていうのは……。

 いやいや、べつにカミさんがタカミさんを嫌ってたってこたあない。

 むしろ誉めてたし、感謝してた。

 タカミさんはたいてい無表情なんだけれども、カミさんにありがとうといわれて、はにかんでいたこともあった。

 そして、カミさんは裏表のない方だった。十年くらい連れ添ったんだ、いくらおれが鈍いったって、それくらいは分かる。

 ツクリゴトをこさえたんじゃないだろうよ。

 先生にも、聞いてみた。

 だが、いまのんでる薬の副作用で幻覚を起こすことはまずない、という。

 薬が原因じゃないんなら、例えばずっと入院してることでなにか精神面での悪影響があって、そのせいなんじゃないか……。

 いろいろ考えたんだが、わけが分からない。まさか本人に、あんた手が伸びるんですかって聞くわけにもいかない。

 先にいったとおりタカミさんは本当によくやってくれたんだが、カミさんが気味悪がってるから仕方ない。

 病気に障りでもしたら、ことだ。

 それで斡旋所に連絡してな、代わってもらったんだ。

 しかしなあ……カミさんがいうんだよ。

 相変わらず……タカミさんがくるって。やめてもらったってのに。

 幻覚だっておれは思った。やめたのに、くるはずがないっていった。

 それでもカミさんは聞かなかった。

 夜、ふと目がさめたら部屋の入口にボーッと突っ立ってる。

 で、手を伸ばしてくる。カミさんのベッドの下へ……。

 家の中の方に目を移したんなら、代わってもらったのは失敗だったんだけれども……新しくきたのは、タカミさんとはレヴェルが違いすぎてた。

 比べちまうんだなあ……どうしても。

 服を畳むのが遅いし、畳み方が雑。ごはんの味つけがピンとこない。部屋とか廊下とか、たまに掃除し忘れることがある。

 タカミさんは完璧だったんだなあって、思い知らされたよ。

 最低限、子供になにか危険なことがなければいいって大目に見てたんだが。

 それはいい。本題にゃ関係ない。

 関係ないんだが……ああ、多少はあるんだなあ……。

 新しくきた子といろいろ話していて、タカミさんが亡くなったってきいたんだ。

 今の感覚じゃ、そんなプライベートなことを話していいものかって思うが、その子、もともと口が軽い方だったから。

 それで、いつだって聞いたら、もう何か月も前……その子がきはじめてまもなくっていうから、つまりはタカミさんがウチにこなくなって、そんなにたたないうちに死んだってことになる。

 死後も、カミさんのところにきてたのか……。

 そのカミさんも、タカミさんが死んだって聞かされた直後に亡くなったんだ。

 うん、正確には何日か……一週間もたってなかったと思う。

 遺体を引き取るとき、看護師さんに聞いたんだけれども、たまに夜、カミさんが騒いだってことがあったそうだ。

 うん……部屋の入口にタカミさんが立ってるって。

 その看護師さん、おれと仲がよかったんだよね。親切だったし。

 で、なにか心当たりはないかって聞かれたけれども、おれはないって嘘ついた。幽霊がきてたなんていってもなあ……どうしようもない。

 それにしてもタカミさん、なんでカミさんのベッドの下に手を伸ばしてたんだか……気になるよなあ?

 でも、ベッドの下を見てみても、それらしいもんは見つからなかった。私物なんて、ほとんど持ち込んでなかったんだがな。

 うんにゃ、おれの家の方にはタカミさん、出なかったよ。まったく。病院の方は知らんけど。

 それにしてもタカミさん、なにに執着してたんだろうな。

 女どうしの間でしか通じないなんかだろうか……。


   第七十四夜 マツリノマネ

 あなたは、お祭りに行ったことがありますか?

 当然、ありますよね。行ったことがない、なんて人は、聞いたことがありません。

 夜なのに大人から子供までたくさん集まって、わいわい、がやがやと……。オレンジ色の明かりのもと、金魚すくい、スマートボール、輪投げ、射的……どれかひとつは、やったことがあるでしょう。

 わたあめを買って、おめんをかぶって……楽しいですよね。

 でも、実はそれ、お祭りじゃないんです。

 お祭りじゃない、というと誤解を招きますか。では、お祭りのほんの一部といい換えておきましょう。

 じゃあ、本当のお祭りは……というと、神社の中で神主さんが行う神事のことなんです。

 ですから露店やらなんやらは、おまけみたいなものです。

 今は○○祭、なんていって、ただのバーゲンセールを初め、神社と関係ないところでもやっていますが、それは本来のお祭りじゃあありません。むしろ、真っ赤な偽物といえるでしょう。

「秋の感謝祭」といったら、かつては神様に秋の恵みを感謝するお祭りだったのが、今ではお店がお客さんに感謝の気持ちを込めて安く物を売る、そんな使い方をしています。

 僕がこんな話をするのはなぜかというと、他ならぬ僕自身も、最近になって初めてこのことを知ったからなんです。

 それで今日は、警告の意味を込めてこの話をしようと思ったのです。

 昨年、僕が住む町の商工会で、この○○祭というのを企画したんです。

 ○○の部分は、ご想像にお任せします。

 大通りの商店街を二キロばかり通行止めにして歩行者天国にし、テントをいっぱい並べましてね、地元の特産品を安く売ったり、調理したものを出して。

 駅前の特設ステージでは、ゆるキャラや、戦隊ヒーローのショーも行いました。

 要は、地元のPR。観光客をできるだけ呼び込もうという狙いなんです。

 ええ、そうです。これは、神様のいないお祭りでした。本来のお祭りでない、お祭り。

 いえいえ、僕は何も批判しているんじゃないのです。

 きょうび、過疎化していない地方なんて、ほとんどないでしょう。

 限界集落、なんて言葉を聞いたこともあります。子供を生める年齢の女性がおらず、お年寄りしかいない。

 人口が増える要素が全くない。

 あとは徐々に人口が減ってゆく……でも、そんな極端な例をあげなくたって、どの地方も早いか遅いかだけで、みんな似たような経過をたどる恐れがあるというではありませんか。

 そんな状況の中、知恵をしぼって、なにか人を呼べるような企画を立てることは大事でしょう。

 ただ、無知からだとはいえ、お祭りと名前をつけてしまったことで、こんな悲劇が起きてしまった、ということをいいたいんです。

 最悪だったのは、この商工会独自のお神輿をつくって、みんなでかつごうという試み。

 これがなければ、ちょっとは違っていたかもしれません。

 そのお神輿というのは、かたちこそ神社のようではありましたけれど、角材にベニヤ板を貼って色をつけただけ。

 それを商工会の若い人が中心になって、かついでまわる。

 僕もその様子を見ていました。みなお揃いのハッピをつけて、頭には鉢巻、足には地下足袋。

 格好だけは神社のお祭りとそう変わりません。

 それに、子供たちもその行列に加わって、とてもにぎやかでした。

 ですが、彼らがかつぐお神輿ときたら……ハリボテもいいところでした。

 そんなハリボテじゃなく、本物のお神輿の中って、どうなってると思いますか?

 中は、空洞になっているんですよ。

 そこに神社の御神体を移して、練り歩くわけです。

 じゃあ、急ごしらえのハリボテのお神輿には……なにが入っていたんでしょうか。

 ええ、僕は知ってるんです。恥ずかしながら、父が商工会のその企画に関わっていたものですから。

 さすがに、ご神体を貸してくださいと神主さんに頼むことなんてできませんよね。

 商工会の若い人が神社の前に敷いてある砂利の中から、石を持ってきて……それを、中に入れてご神体の代わりとしたそうなんです。

 よくは分かりませんが、神社のお祭りではご神体を移すとき、専門の儀式をするといいます。

 でも、これは商工会の○○祭。

 そんな儀式なんてしませんでしたし、儀式が必要なんてだれも思わなかったんでしょう。

 ただ、商工会のメンバーのひとりが神社の境内に行って、石を持ってきてハリボテのお神輿に入れた。

 それだけです。

 神社に行ったときも、きっと、お参りなんかしなかったんじゃないでしょうか。

 その日、お神輿をかついでまわったときには、なにも問題ありませんでした。

 怪我人もおらず、小さい子は喜んでいたし、表面上は大成功でした。

 でも翌日から、このお神輿をかついでいた人がつぎつぎに、病気になったんです。

 下痢、嘔吐、腹痛、発熱……みんな同じ症状でした。

 ああ、そうですね……そうなんです。食中毒に似ていますよね。

 僕の住む町の人々も、そう疑った。

 僕の町のとある特産品……これは、当日だれもがいちどは口に入れています。

 そのせいで食中毒ってことにでもなったら、町興しどころか売上がガクンと落ちてしまっていたことでしょう。

 お医者さんもそう思ったそうです。ひとり、またひとりとかつぎ込まれてくる患者を診て、食中毒を疑った。

 でも、そうじゃなかったんです。

 調べてみても、食中毒の症状を引き起こすような菌が、見つからなかったんです。

 車で二時間ほどの場所にある医大まで行った人にしても、食中毒のようだがちがう、といわれてそのまま入院させられました。

 あとは毎日、検査、検査、検査……新種の菌かもしれないということで調べられ、たいへんだったそうです。

 そして、ほとんどの人は一か月ばかり入院して……原因が特定できないまま、体調がもとにもどったということで退院してきたそうなんです。

 ええ、死んだ人はいません。

 幸いにも、といっていいものか、どうか。その幸いは、不幸中の幸いというべきものでしょう。

 ただ、お神輿を……ハリボテのお神輿をかついだ人たちがみんな具合を悪くして、しかも同じ症状だってことに気づくまで、そう長い時間はかからなかった、とだけ、いっておきましょう。

 うん、偶然そんなことになった、ということもできます。

 偶然に偶然が重なって、そんなことになった。

 あるいは、それこそ未知の菌で……あはは。そっちの方が恐ろしいかもしれません。

 お神輿をかついだことなんて関係ない、という人も現にいたんです。

 とはいえ、お神輿をかつぐ真似なんてしたからだという声が圧倒的に多かったのも確かです。

 この話は……終わってはいないのかもしれませんが、これで終わりです。

 今話せるのはここまでです。

 ああ、そうですね。

 そうです、そうです。現在進行中の話。

 少なくとも来年はもう、偽物のお神輿なんて出ないでしょう。

 商工会の若い人たちって個人事業主がほとんどですから、店の方をしばらく休まなければならなかった。

 いま、みんな資金繰りやらなんやらで、たいへんだそうです。

 もしかすると、店を閉めなければならないところも出てくるかもしれません。

 それにしても気になるのは、ご神体の代わりにした石がどうなったのか。

 気になりませんか? 気になりますよね。

 でも、残念ながら、僕も知らないんです。

 父に聞いても、分からないといいます。

 神社に行って石を拾ってきた人は、今も入院中なんですよ。

 ○○祭の翌日に倒れて、入院したんです。

 症状は先にいったように、食中毒のようだがちがう、といいます。

 倒れた直後に意識を失ってしまって、今も目をさましていないそうです。


   第七十五夜 寺で遊ぶ

 わたしには兄がいたんですけれど、四歳のときに死んじゃったんです。

 その頃、わたしは生まれてすぐだったんで、後になって母から聞いた話なんですけれども。

 当時、お葬式がたまたま続いて葬儀屋さんの手配ができなかったんです。

 しかたないので、じぶんの家で全部やろうってことになったそうです。

 ああ、田舎なんです。

 わたしの実家があるのは。

 葬儀屋さん……町にひとつしかなくて。

 それで、伯父がお寺に連絡をとろうって電話したら、

「ああ、○○さんですか……お子さん、どうかなさいましたか」

「え……どうしてですか」

「さっきまで、本堂の前で遊んでたんですよ。ひとりで……まだ小さいし、ひとりでくるなんて変だって思ってたんです」

 死んだっていったら、電話口の相手もびっくりしてたって。


   第七十六夜 潔斎

 最近、東北のとある山に登ったときのことじゃ。

 ……ん? うん、もうあまり長くはないからのう、死ぬ前に行って置きたかったってこっちゃ。

 ああ、ただの登山じゃないわい。

 古来篤く信仰されてきた山の上に神社があってな、そこにお参りしたかった。

 標高は千メートル以上あって、夏でもむろん寒い。若いのふたりに荷物持ってもらってな。

 わがままにつきあわせて……体力からいって、ふもとからじゃとても登れんので、途中まではバスで行った。

 バスの終点にも神社があって、斎舘がある。うん、サイカン……こりゃあまあ、わしみたいな参拝者のための宿泊施設。レジャー目的では泊めないところだ。

 その斎館で一泊して、いよいよお山に向かうこととなった。

 ところが出発して三十分ほど、まだほとんど平坦な道でな、若いもんのひとりが突然足を止めたんじゃ。

「どうした」と聞いたら、

「分からない、なぜか身体が動かないんだ」という。

 前の日の朝からいっしょじゃが、原因になるようなことは思いあたらん。本人に尋ねても、

「調子は悪くない、むしろすがすがしい気分です」なんていっとる。能天気なもんじゃ。

 もうひとりの若いもんが、ふざけてるだけなんじゃないのかってな、背中を強く押した。

 じゃがのう……つんのめって倒れてな、手をついたんだが、足の方はガンとして動かない。

 ぴったり地面にくっついておる。

 わしとふたりがかりで足を持ちあげようとすると、本人、ひどく痛がる。

 そうして困っとったところへ、人が通りかかったんじゃ。

 山伏姿でな。額にゃ黒い頭巾、鈴懸を首にかけて、錫杖シャンシャンいわせてな。目鼻口が大きくてまるで天狗じゃ。

「どうしましたか」とかける声はふつうじゃった。

 事情を説明すると、

「ああ、たまにそういうことはあります」顔色を曇らせてな、「お山に登られるのは、止めた方がいいかもしれませんよ」

「ですが、この歳ですのでね。こうしてくることはたぶん二度とできませんので、なんとか登っておきたいんです」

 山伏はそうですかと答えた。首をひねって考える風じゃった。

「罰当たりな話ですけど、昔このあたりで首をくくった者がおったんです。そのせいかもしれない」

 そばに岩があって、その上に張り出している枝を指さす。

 ハアそうですかと間抜けな返事をすると、これでなんとかなるかもしれないって、若いもんの足のあたりで指をスウーッと何度か上下させた。

「どうですか」

 すると若いもん、

「ああ、動くようになった」

 これも間抜けな返事じゃな。それにしても驚いた。さっきはテコでも動かんかったのが、自由に足を上下させている。

 ピョンピョン跳ねたり足をかわるがわる上げ下げしたりしていると、山伏は、

「よかった。それでは」といいのこして、去っていった。

 それがまたたいそうな早足でのう、わしらもそのあとについていったわけだが、あっという間に見えんくなった。

 真夏のことで、天気がよかった。

 まだそう標高のある場所ではないからか、天候が急変する恐れはなさそうじゃった……と、いうのが甘かったんじゃな。

 なんだか曇ってきたなと思ってからすぐじゃ。

 霧雨がサアーッと周囲に現れ、視界がほとんどきかなくなった。

 当たり前じゃが周囲にあるのは木々や草、あとは自分の前後に道あるのみ。

 つれは頼りない若いのがふたり。

 その時点では斎館を出発して一時間少々だったか、足が地面にひっつく騒ぎもあって全行程の二割程度しか進んどらんはずじゃった。

 ……そこへのう、シャン、シャン、シャン……と、音が聞こえてきてのう。

 うんにゃ、背後からじゃ。

 わしらは、山伏がひとり、またきたんじゃないかっていい合った。

 ところが、だんだん霧の粒子の中に現れてきたその姿を見ると、さっき追いこしてった山伏じゃった。

 でっかい目鼻口、天狗みた風貌。まちがいない。

 三人で顔を見合わせたけれども、とにかく向こうの方が足の速いことは確か。

 わしらの歩いているのは、けもの道に毛の生えたような程度。もちろん、道を譲ろうとして脇に寄って足を止めたんじゃ。

 距離は二、三メートルくらいか。

 山伏がこっちへ向かって……こない。

 錫杖をシャンシャンいわせて歩いているらしいんだが、いつまでたっても追いつかん。

 しかも、さっきわしらを追いこしてった山伏が、だぞ。

 この状況にたまりかねたのか、若いのがいった。

「なんだよ、あれ……」

 そうはいわれても、わしにも分からん。

 狐かなんかじゃないかと笑って、また歩きはじめた。追いついたらその時点で道を譲ればいい。

 こうしてしばらくの間、うしろでシャンシャンいってたんだが、いつのまにか音がしなくなった。

 すると、ひとりがオオッと叫んだ。

「あれ、あれ……」

 あれじゃ分からんと指さす方を見れば、やっぱり山伏は二、三メートル後方を歩いている。

 錫杖の輪っかが揺れている。

 でも、音が聞こえない。

 まあ山ん中じゃから音がどっかに吸いこまれとるんじゃろうって、若いもんに適当なことをいってな、また歩きだした。

 こうしてるうちに、山頂のお宮に到着した。

 念願かなってわしは心おきなく参拝しての、鳥居の上にうまく小石が乗っかればいいことあるって聞いて、乗っかるまで投げつづけてから、御朱印とお守りをいただいて下山することにした。

 いくらこれが目的だったといっても、頂上全体に強風が吹き荒れとったし、霧だか雨だか分からないもんが四方八方からぶつかってくるし、雲のきれっぱしがあちこちを流れてるしで、さすがに年寄りにはきつかった……それどころか、若いもんの顔を見ると、これもかなり疲れとるようじゃった。

 山に登るときには、登りより下りに気をつけよというのう。

 どうしても勢いがつく場所が多いから……それで、のんびり下るぞといって歩きだしたんじゃが……若いもんのひとりが突然、怖い、行きたくないといいはじめた。

 理由を聞いても、なんとなく怖い、このまま進みたくない気がすると、なんだかシャキッとしない返事をする。

 なだめたり、すかしたりしつつ、しばらくのあいだは歩いておったんじゃ……ああ。違うちがう、下りる道は登ってきたのとは違うんじゃ。

 下りてった先にも神社があってな、そこで一泊の予定じゃった。

 じゃから、そいつはべつに、山伏が現れた道をもういちど通るから怖がっていたわけじゃない。

 ……とはいえ、そいつの予感は正しかったのかもしれん。

 また後方からシャンシャン聞こえだしてのう、若いのふたりの顔を見ると、強張っておった。

 振り返りはしないが、そっちに意識が向いておるのがありありと分かる。

 わしは足をゆるめて、肩ごしに見た……うん、これが、例の山伏じゃった。

 いやあ……山伏が危害を加えてきたりな、山の中を迷わされたりしてるんならともかくなあ、なにも問題はなかったからわしは平気じゃった。

 生身の人間といわれても信じそうなほど、ハッキリ、クッキリした姿じゃったしなあ。

 山伏は前方に回り込むことなく、ずっと背後をつけてきて……そんな状況がだいたい二時間。わしがビビったのはそれからじゃ。

 もう、目指す神社が見えてくるじゃろうってとこまできとった。

 目の前に、突然白いもんが現れたんじゃな。

 初めはケモノかなんかかと身構えたら、これが子供……女の子で、いっちょまえにこれも山伏の格好をしとった。

 目がくりくりしとっての、こりゃまたかわいらしい子じゃった。

「なななんだ、どうした」

 わしが動揺してそんなことを叫んだらのう、

「おじいちゃんたち、うしろに気づいてないの?」

 いい終わらないうちに若いもんがあいついで、奇声をあげつつ駈けだした。

「べつに悪いことはせんじゃろう」

「ううん。するよ。おじいちゃんにはしないけど、あの人はお肉を食べたのに、お山に登ったから罰を当てにきたの」

「あれ……やっぱり人間じゃないのか?」

「うん、山伏さんの霊なの。死んでからもずっと修行しなきゃならないんだって」

「おまえさんは……?」

 すると、知らない、といい残したきりその子は背中を向けて、茂みの中に入ってしもうた。

 草の搔き分けてみたが、もう姿が見えんくなっとった。

 いやはや……この子も変よのう。変、変。どう考えてもおかしい。

 わしはまた歩きはじめた。

 するとな、山伏が……ここで追いついたんじゃよ。ああ、例の山伏。天狗みたいな男な。

「やっと追いついた……残りのおふたりは」息を切らしていた。

「先に行ってしまいました」

「ああ……遅かったか。いま、小さな女の子がいましたよね」

 ええ、と答えるしかない。

「じゃあ、先に行った人を追いかけます。失礼します」

 そういって山伏は駈けだしていった。若いのふたりと違って、その足取りの見事なこと、ほれぼれするくらいじゃった。

 狸や狐じゃなかったのか。女の子は山伏の霊ともいっとったが……と、わしはなにがなんだかさっぱり分からんかった。

 山を下りきって神社の前までくると、若いもんが倒れとったが、意識ははっきりしとった。

「山伏がこんかったか」

 すると、ふたりとも、

「やめてくださいよ」と泣きそうな顔でいった。

 どうやら山伏はふたりに追いついていないらしい……むろん、わしが山伏を追いこしたとは考えにくい。

「おまえさん、きのう肉を食わんかったろうな」

「食べてませんよう。食うなっていわれたから、我慢したんだから……カップ麺で我慢したんで」

「あのなあ、カップ麺にも肉が入っとろうが」

「ああ、そういえばそうですね」

 わしは、ガックリきちゃった。

 もうそいつには参拝させんで鳥居前で待たせておいて、わしともうひとりの若いのとでお参りをすました。

 その後、おかしいことはなんもなかった。

 このお山には、肉を食ったつぎの日に登っちゃいけん。そういう教訓じみた話じゃ。


   第七十七夜 三四郎狸

 あんまり田舎すぎるんじゃねえかって話だけども。

 つい最近よう――狸に化かされたって話で町中もちきりになったんだ。

 おれが住んでる町ってのは、人口がどんどん減って今じゃ三千くらい、まあ過疎化が進んでるわけだ。

 若いのは全然いない。子供はなあ、そこそこいるよ。朝と晩、ジャージ着てぽつりぽつりと歩いてるのを見かける。

 ただ、高校がないから……ああ、ないんだ、高校が。だから中学卒業したらみんな外に出て、そのまんま。帰ってくるのはわずか。残るのは爺さん婆さんばかりだ。

 で、その爺さん婆さんの中には信仰心の篤いのがいる。寺参りをする。毎日通ってるのもいる。

 なぜか町営墓地があんまり人気なくてな、寺の境内に墓があるってうちが、けっこうあるんだ。死んだらよろしくってのもあるんだろうが、じぶんでお経を唱えてる爺さんも、こないだ見たなあ。

 寺はふたつあってな、小さい道をはさんで、並んでるんだ。うん……ああ、ふたつしかないんだよ。ふたつだけ。いやあ、十分でしょ? ふたつで。なんせ三千人くらいしかいなんだから。ひとつは禅宗で……もうひとつは浄土宗だったかな。自信ないけど。

 さて、事件はそのふたつある寺の間の道で起こった。

 べつにおたがいの寺を見ないようにしてるわけでもなかろうが、道の両側は塀で、その向こうにゃけっこう背の高い木が並んでる。

 夏場なんかは下にいると涼しいわな。日中でもちょっと暗くて、陰気なところだ。人はあまり通らず……って、他の道にしたって人がいっぱい歩いてるわけじゃないから、たいした変わりないかもしれん。

 寺帰りの爺さん婆さんの夫婦が、仏さんにお供えしたものをな……この道で失くしたんだ。

 パッと消えた。うん……パッと、だ。少なくとも本人たちはそういってた。スーパーで買った饅頭と落雁のパックが計三つ。

 レジ袋に入れてたのが急に軽くなったので見たら、影もかたちもなくなってる。もちろん、レジ袋にゃ穴なんざ開いちゃいない。

 落したんじゃないかって、引き返した。ゆっくり、ゆっくり……ヨチヨチ歩いて。寺の塀の角を曲がって、門まで。境内に入って、墓の前まで……探してみたが、とうとう見つからなかった。

 うん。お盆のときだっていうから、ちらほらいるよ、人は。でも、お供えしたもんを拾って持ってくって人はいないしょ? 饅頭と落雁だから、すぐお供えって分かるんだから。

 いやね、昔は食べたもんさ。おれの町じゃ……お供えは墓に置いていくのがふつうだったんだな。それに、よその墓にあがってるものを食うのは、むしろいいことだった。供養になるってな。おれの子供の頃はそうだった。

 だがいつの頃からかカラスが食うから持ち帰りましょうってことになって、今に至るわけだ。

 昔はそうだったんだから、年寄りの中には、道に落ちてるのを、あるいは墓に供えてあるのを見て、持ってくもんもあるか分からん。

 そうじゃないなら寺に届けたのかもしれん。届けられても困ると思うんだがな、いちどお供えしたものなんて……うん、お寺さんには聞かなかったそうだ。忙しいだろうからってな。

 でもな、話はもとに戻るが、パッと消えてるんだな。

 手に持ってるのが急に軽くなったから、饅頭と落雁がなくなってるのに気づいたわけだ。

 どこ行ったんだろうって探し回ったのは、そんなことなど起りようがないって、やっぱり疑ってたんだろうよ。それが、見つからなかった。

 結局、爺さん婆さんはあきらめて帰った。財布落としたわけじゃないからな。饅頭と落雁だから、あきらめもつくってもんで。

 ……ところがその数時間後だと思うんだが、こんどはまた別のグループの供えたもんがなくなった。やっぱり寺と寺の間の道で。

 爺さん婆さんと、その子供夫婦、孫と五、六人だったかな。歩いてるうちにいつのまにか消えた。これは確か、ぶどうやら和菓子やらのパックだったって聞いた。

 うん、全部だ。全部なくなった。落としたんじゃないかって探したのも、見つからなかったのも同じ。

 ついでまた別のご一行が、それからまた別なのが同じように……と、つづいたんだな。

 で、これが噂になった。

 寺の脇の道を歩いたらお供えをとられる、ってな。

 うん、〈とられる〉なんだ。〈なくす〉とか〈なくなる〉とかじゃないんだ。ひとりでに消えるわけがないんだから、お供えをとったもんがあるってこった。

 いや、動物はいない。いくら田舎っていっても市街地の中だし、今日び、野良犬、野良猫がそうそう歩いてもいない。

 お盆が明けた頃にはな、こりゃあ〈三四郎狸〉が帰ってきたんだ、そいつのしわざに違いないっていうやつが現れた。

〈三四郎狸〉ってのはな、このあたりに出没して、弁当の中身やなんかを奪ったっていう狸さ。最初に奪われたのが三四郎って人だったから、そんな通り名がついた……と、これは受け売りなんだけれども、まあこの一帯の言い伝えさ。

 でも、おれが聞いたところじゃ、〈三四郎狸〉ってのは明治の頃の話だ。町史の伝説を書いたページにも載ってるっていうんだが。

 それにしてもまた、えらい古いもんが再登場したもんだ。だいたい、明治時代の狸が食いもんを奪うなんて、そんな馬鹿な話があるかって……うん、そう思うよなあ? おれもそうだった。

 面白いことに、これをいいだしたのも同調したのも、三十、四十くらいのやつらだったんだな。

 爺さん婆さんの方は、そんなことあるかって、馬鹿にするもんが多かった。普通、逆じゃねえかって思うんだけれども。まあ、最近の爺さん婆さんの中には、いい歳して昔のしきたりや常識を知らんのもいるからなあ……。

 ああ、駄目だね。少なくともおれの周りじゃそうだ。人のこといえんけど、戦後まもなくの生まれなんて全然ダメだね。

 話がそれちまった。さてこの騒動、しばらくつづいたんだが、お彼岸のときまでにゃ解決しなきゃならないって、三十、四十くらいのやつら数人がカメラ何台かしかけたり、交替で見張ったりしたんだな。

 まず〈三四郎狸〉かどうかはともかく、どうしてお供えが消えるのか探ろうってことでな。猟銃免許持ってるやつがいるんだが、さすがに街中じゃぶっ放せない、罠仕掛けるにしても人間がかかっちまうかもしれんていうんで、捕獲はひとまず諦めた。

 仕事もあるし、女房も子供もいるってのにご苦労なこったって、爺さん婆さん連中は笑ってたな。

 こっちの方がよっぽど暇のはずなんだが、みんな放っとけばいいっていう意見だった。

 若いやつは頑張ってたな。炎天下の中、ひとりがエサの入ったレジ袋とビデオカメラを持って寺の間の道を行きつ戻りつする。

 もうひとりは近くに車を停めておいて、パソコンの画面になにか映らないかチェックする。時間を決めておいて交替する……なんて具合に。

 カメラは両側の塀の上に四台、道に二台。ある程度、距離をとって設置してあった。

 こうして張り込みをつづけていくうちにも、お供え消失事件はたびたび起きている。にも関わらず、若い連中のは奪わない。お供えしなきゃダメなんかって、一回わざわざ墓にお供えしてから持ち歩いたんだが、異変もなにもない。

 その頃にゃ爺さん婆さんたち、墓参りからの帰りは、寺の間の道を通らず、遠回りするようになっていた。

 そして……九月十日の朝っていったな。とうとうシッポをつかんだ。

 若い連中、落雁のパックにな、紐を巻きつけておいたんだ。キッチリとな。

 落雁のパックは消えちまった。でも、紐はある。見ると、寺の塀の角まで伸びている。

 紐の先端をとり、慌てて追いかけた。カメラは回したまんまだ。車の中からモニターを監視してたやつも出てきて、そのあとにつく。

 紐は伸びて伸びて……川の方へとゆく。

 土手を登って、おりて……おりたところの茂みの中へと、落雁パックが入っていくのを見つけた。

 そこへモニター監視してた方が追いついて、茂みを回りこむように移動する。

 ガサッと音がしたかと思うと……一声、ギャン。

 それがあんまり大きいんで思わずひるんだんだが、カメラを持った方が茂みをかきわけて入った……だが、それはもういなかった。

 しばらくじっとしてカメラを回してたんだが、再び現れることはなかった。

 落雁のパックは……開けた形跡はないってのに、落雁だけがなくなっていた。

 仕方ない、車まで戻ろうってんで、ふたり並んで歩きだした。ああ、寺の近くに停めてあるからな。

 いまのはなんだったんだ、やっぱり狸っぽいな、つぎの作戦は……なんてことを話しつつ寺までくると、車の脇にモニターを監視してたやつが立っている。

 エサを持ってたやつの方に近づいてきて、

「どうしたんだよ、急に駆けだしたりして……なんかあったのかよ」

 なんて聞いてくる。

 エサを持ってた方は、えっ、となった。

 いままで話してたやつは……脇を見ると、だれもいない。

 事情を説明すると、こりゃあ一杯食わされたんじゃねえかってことになった。

 それで車に入ってな、カメラで撮ったのを見てみることにした。

 ところがなにも……全く映ってなかったんだな。真っ黒。モニター監視してた方は、さっきまで異状なかったんだがなあと首を傾げる。

 ただ、ギャンと一声あげているのだけは入ってた。

 こりゃあ本物かもしれんなあ、やられたか……それにしても頭が痛くなるくらいの音量だ、なんていい合った。

 それにしても疲れたな、ひさしぶりにあんなに走ったってジュースを飲んで一息ついていると、車の外にだれかがきた。

 そこでまた、えっ、となった。

 モニター監視してたやつが、いつのまにか外にいて怒鳴ってる。

「なにやってんだ、開けろ、開けろ」

 知らないうちに、カギがかかってたんだな。それでロックを外すと、そいつ、死ぬかと思ったっていいながら入ってきた。

 いままで一緒にいたやつは……いなくなってる。

 もう一回、エサを持ってたやつが経緯を説明したらな、モニターを監視してた方は、嘘つくなって怒りだした。

 一緒に追いかけてった、川原に茂みのところで、おれがまだ探しまわってるってのに、おまえはブツブツいいながら勝手に帰ったんじゃねえかって。

 じゃあ、あのときつれだって車まで戻ったのはだれなんだ。

 車の脇に立ってて、録画したのを一緒に見たのはだれなんだ。

 いや……おまえって……本当におまえだよな?

 ――幸い、そいつは本物だった。

 それ以上の怪しいことはもうなかったんだ。家族構成やら、ふたりだけしか知らないことやらを、長い時間かけて確認しなきゃならなかったんだがな。

 そして、落雁はキッチリ奪われちまってる。これ……やっぱり化かされたってことだよなあ。

 残ったのは、ギャンと一声だけ大音量で入ってる録画……ただし画面は真っ黒けってやつと、落雁だけ抜き取られてるパック。

 ああ、おれも見てみたんだ。でも、証拠にもなんにもなりゃしないだろう。声にしたって、専門家に聞いてみたらなんの声だって分かりそうなもんだし、パックにしたって、落雁だけ取ってラップを包み直すなんてこともできそうだしな。

 ああ、今でも相変わらず寺の間の道じゃ、お供えがとられてるな。とられても別にさしあたって困りゃしないってんで、その道を通るのもいるし、家に持って帰って食うべえって避けて帰るのもいる。

 若いやつらの間じゃ〈三四郎狸〉のしわざってことに、やっぱりなってる。正体をつきとめようって試みは中断したんだけれども、またそのうちやろうっていってるな。

 で、爺さん婆さんはそれを否定してる。

 ああ、おれもな……実は取られてるんだよ。パッと消えた。本当に、パッと消えたとしかいいようがないんだ。ええと……温泉饅頭の十二個入りのやつと、月餅三個と、二回、な。

 いやいや、絶対落としちゃいないんだ……墓に供えたまんま忘れてきたってのもない。

 本当にパッ消えるんだから。あっと思ったつぎの瞬間には、なくなってる。すさまじいもんだぜ……ありゃあ。人智を超えてる。

 あんたも試してみるかい?

 いっぺん体験してみなよ。


   第七十八夜 死の鳥

 五歳のときです。

 ある夜、表が騒がしいのでふと目をさましたんです。

 夜中で、両隣には両親が寝ていました。

 聞いたことのない音がしていて、それが近づいてくる。

 わたしはどうにも気になってしまいまして、布団を離れて窓辺にゆき、カーテンをめくってみました。

 すると、向かいの家のおばちゃんが立っていて、首を伸ばしてなにかを見ている。

 おじちゃんも腕を組んで、同じ方を見ている。

 そればかりか三々五々、近所の人が集まってきました。

 みなその場に立って、わたしから見て右手に顔を向けています。

 まもなく、近くで飼われている犬がいっせいに吠えだし……ソレが、現れました。

 男。いや、男だと思うんですが、定かではありません。ぜんたいの様子からは男のように見えますが、男装した女だったといわれれば、そんな気もします。

 なにしろ背が低いし……ええ、百六十センチほどの父より低いな、とそのとき思いました……それに、ひどく華奢な感じがしたんです。

 そいつはフェルト地のつばつきの帽子を目深にかぶっていて、顔の下半分には包帯を巻いています。

 そして、肩にはなにかをかついでいる。

 それが、こっちに向かって歩いてくる。

 音が大きくなってくる。

 父と母が起きだしてきて、わたしの後ろに立って往来のようすを見渡しました。

「なんなの?」

「なんだろう」

 ふだん深夜にそう人が集まることなんてありませんでしたし、両親が困惑気味だったのを憶えています。

 そして、そいつがちょうど家の前を通りかかったときです。

 コラ! と、だれかが叫びました。

 いやあ、そこまでは……分かりかねます。

 とにかく、その場にいただれかが叫んだ。

 するとそいつがですね、急に走りだしたんです。

 その場に立ってた人がそのあとを追いかけて……瞬く間に、だれもいなくなってしまいました。

「なんなの?」

「なんだろう」

 またそんなことを両親がいって。

 でも結局分からないから、寝ようってことになったんです。

 ところが翌朝、そいつの置き土産があったんですよね。

 鴨とか、鶏とか……よく見ませんでしたが、とにかく鳥ばっかりです。

 なぜか、みんな羽と足を縛られていて、身動きできず鳴きわめくばかり。

 それが家の前に……うるさくてわたしも両親も眼をさましたんです。

 どうやら夜、騒がしかったのはこの鳥のせいで、そいつが肩にかついでたのは袋かなにか、おそらく袋に鳥を入れてたんだろうと。

 そいつを追いかけてって、捕まえたのかどうか。

 ちょっとそのあたりはあいまいなのですが、きっと捕まえられなかったんでしょう。

 ただ、そいつはべつに鳥泥棒なんかじゃなかった。

 近所で盗みに入られたって通報する人はいなかった。

 だれかがコラと叫んだ。するとそいつが走りだし、みんな理由が分からないまま追いかけた……それだけなんです。

 まあ、あからさまに怪しい姿ではありました。もしかすると変質者かなんかだったんでしょうか。

 それにしても、きっと未遂でしょうよ。いやあ……よく分かりませんが、性犯罪者でもないでしょう。

 あんな大きな袋に鳥を抱えて……不自然にすぎます。

 さて、だんだん日が昇ってくるにつれて、また近所の人たちが集まってきました。

 目の前には、ガアガア、コケコーと騒ぐ鳥が多数。

 この鳥どうする? となって……結局、駐在所に届けることになったんです。

 おまわりさんも困ったと思うんですよね。

 生き物ですからエサをやらなきゃならない、逃がしちゃいけない。勝手に処分してしまうわけにもいかない。

 田舎なもんで養鶏やってる農家が多いから、使ってない檻をいっぱい借りてきて駐在所の脇でしばらく飼ってました。

 でも、つぎの日から一羽、また一羽と……バタバタッと死んじゃったんですね。

 それとほぼ同時期に、あちこちで亡くなる人が出始めまして……死因はバラバラです。

 自殺した人もいましたけれど、たいてい病死です。

 五、六件目になったところで、いくらなんでも短期間にこんなにオトムライが出るのはおかしい、と噂しあうようになりまして……気づいた人が、いたんです。 

 あの晩、道に立ってあいつがくるのを見送った人が死んでるんじゃないか、って。

 これはもう、防ぎようがないですよね。それでも鳥の数は有限、まもなく全滅してしまいまして……ええ、同時にパタッとお葬式も止まって。

 もちろん、こんな噂も立ち消えになりました。

 ううん、どうでしたかね……二十羽は確実にいました。三十羽まで行くかどうか。

 いえいえ、これは、わたしの記憶に、母からあとで聞いたことを加えてお話ししているんです。

 五歳ですから、近所の人がひそひそなにか話してて、なんとなく不吉な感じがするってのは認識できていても、内容まではよく分かりませんから。

 おかしなことに、父はこの間の事情をまったく憶えていない……ええ、まったくです。

 コレについて父母が話をすると、険悪な雰囲気になって終わるんですけれども。

 父は、そんなことあったかと、いまでもいっております。

 確かにわたしの後ろに立って、往来のようすを眺めて、母となんだろう、なにかしらといい合ってたはずなのに。

 知り合いもけっこういたので、何度も葬儀に参列しているはずなんですが。

 もう引っ越してその町を離れてしまいましたので……確かめるとなると、なかなかたいへんです。

 近所の人で、当時のことを憶えている人が絶対いるはずなので、もちろん聞いてみたいとは思うんですけれども。


   第七十九夜 小豆洗い

 最近、引っ越したんですよ。わたし、実家住まいなんで、わたしももちろんいっしょに引っ越しました。

 子供の頃から父が転勤ばかりしてるんで、もう慣れっこになっておりまして……母なんて、引っ越し先の部屋をいちどパパッと見て回っただけで、家具の配置が頭に浮ぶっていいますしね。

 他の家に比べれば、家具も荷物もそんなにないんじゃないでしょうか。一年たたずにまた引っ越すこともありますから、しらずしらずのうちに物を増やさないようにしているんでしょう。

 ふだんから、心の準備をしてる。ふつうの人はそれじゃ落ち着かないんでしょうけれども、わたしは全然気にしてません。

 ええ、子供の頃……特に中学生の頃は、転校、転校って嫌でした。

 わたし、人からドライだっていわれることがよくあるんですけれども、こんな子供時代を過ごしてたらね、ドライにもなりますよ。

 いま話してる相手が、数か月後には疎遠になってしまうかもしれない。いま、こうやってくだらないことを数人で笑いあっていても、そのうちみんなバラバラになるんだろうな……どうしても、こう考えちゃう。べたべたすることなんて、とてもできませんよ。

 こんど引っ越した家はもちろん借家なんですが、リフォームした直後で、わたしたちが初めて入る家族ってことでした。

 外観はともかく、中は新築と変わりません。床も壁も、見た目は新築。

 父が、これならしばらくいてもいいなあなんていってましたけれども、どうせまたすぐに転勤になるわよって、母に決めつけられてましたね。

 ただ、一階にいるとなんとなく圧迫感があるというのか……天井がちょっと低いんですよね。

 正確に測ったわけじゃないですけれど、二階の方があきらかに天井が高い。

 変わってますよね? でも、父も母も気にしすぎだ、まだ慣れてないからだっていうんで、そうかもしれないって、じぶんにいい聞かせたんです。

 わたしも父も翌日から仕事なので、引っ越し作業は母がやってって感じで、三日くらいでほとんど終了しました。

 なにかこの家、ちがう……って感じたのは、それからまもなくでした。

 そのとき、わたしは晩ごはんをすませたばかりで、じぶんの部屋にいました。

 音楽をかけ、ベッドの上に寝転がってボーッとしてて……うとうとしはじめたんです。食事後だし、繁忙期で疲れていたこともあったんでしょう。

 ああ、お風呂入らないと。

 父さんはまだ帰ってきてない。

 母さんは洗い物終わって洗濯物畳んでるかな、手伝わないと。アイロンがけするやつ、あったっけ……?

 そんなことをぼんやり思いながら、意識がとぎれとぎれになった状態に入って……すると、波の音が聞こえだしたんです。

 もちろん、かけていた音楽とは違います。

 かけてたのはヘビィメタ。音は絞ってましたが、好きじゃない人からすればほとんど騒音でしょう。

 それが……波の音に替わってるんですよ? 「睡眠導入」「才能を呼び醒ます」なんてCDに入ってるような波の音。

 波が押し寄せたり引いたりするたびに大きくなったり小さくなったりする。

 ヘヴィメタの方に意識を集中したら、遠くで聞こえているくらいの音量まではいくけれども、気を抜くと一気に波の音になる。

 えっ? いえいえ、それだけでした。その程度のこと……なんです。

 だから、何? っていわれると、それ以上話しようがなくなっちゃう。

 それから……時間でいうと、三十分くらいでしょうか。

 どんな目覚ましよりも効果のある母の声がして……風呂に入りなさいって、階段の下でね。

 ああ……もう。先回りしないでくださいよ。

 うん、そうそう。そうです。

 そのとおりなんですけれども。

 はい。それから毎晩、波の音が聞こえだすようになったんです。

 なにか音楽を聞いてても、それ以上の音量でかぶせてきますし、べつにうとうとしてなくても波の音がする。

 ええ、それは……どうなんでしょうかね。

 意識しちゃったら、それ以来ずっと聞こえてしまうってものなんでしょうかね。

 それで睡眠不足になったってことはありませんし、むしろ心地よいくらいで。

 まったく害はないんですが、それでも、気にはなったんです。なんでこんな音がするんだ……って。

 それでこの前の休みの日に、音がしだしてから探索を始めたんです。

 まずとなりの部屋。タンスや母のミシンがあって、だれもじぶんの部屋にしてません。でも、音源になるようなものはありません。

 わたしの部屋の前までもどって、廊下に立ったままじっとしていると、音がかすかに聞こえます。

 ドアを開けると、けっこう大きく聞こえる。当り前です。

 じゃあ、向かいの部屋は、とドアを開けると……こっちじゃまったく聞こえません。

 あちこちの壁に耳をつけてもみましたが、よく分からない。とにかく、わたしの部屋に音源がある。

 ベッドの上に立って、天井をうかがってみる……心なしか音が弱まったような気がする。

 じゃあ、床は……寝そべって耳をつけてみました。

 すると、急にザザーッと波が押し寄せてくるような音がして、わたしは慌ててその場に起き上がりました。

 ええ、床の下だったんです。音は床下からだった。

 その下がリビングとキッチンの中間あたりにくるんですが、一階にいても波の音がしたことなんていちどもありませんでした。

 母がなにかしていたり、テレビがついていたりするから気がつかなかったのか……じゃあ、ヘヴィメタ以上に聞こえたってのは、なんなんだろう?

 まもなく帰ってきた父に、嘘をつきまして。

 部屋の床下から、変な音がする……と、これは嘘じゃない。

 もしかしたら、だれかが入りこんでるかもしれない、怖い……と、これは嘘です。

 そしたら父が予想以上に真剣になってしまいまして……服を着替えて早々、調査開始となったんです。

 まず、外に出てぐるっと家を一周してみました。

 どこか目につきにくいところに侵入口があるんじゃないかって。父はけっこうじっくり見てたんですが、そんなものはなかった。

 明るくなったらもういちど見てみようってことで、家の中へ。

 その間も、波の音はしていました。

 わたしの部屋に入ったとたん、父もその音に気づいて、わたしがしたのと同様、音源を探しはじめました。

 まもなく、やっぱり床下だろうってことになったものの、あいにく絨毯を敷いています。

 それを剥がして探ってみるのはたいへんだってことで、一階に降りました。

 父はキッチンとリビングの間に立って、しばらくのあいだ耳をすませていました。

 あれを開けて見てみよう……と、キッチンの隅の天井を指さすのを見ると、そこには正方形の板がはめこまれています。

 横につまみがある、取り外せるようだ、懐中電灯持ってこい……となりまして。

 リビングから椅子を持ってきて、父はその上にのぼり、板をあげて首を突っ込みました。

 ……なんじゃ、こりゃ、というのが父の第一声でした。

 わたしと母はようすを見守っていましたが、なんなの? と聞くしかありません。

 部屋がある……というのが、父の返事。

 せまいけれども、椅子とか机とか……学校でつかっているような椅子や机がたくさんあって、黒板や教卓まである……いえいえ、それが、ごく小さいものなんです。

 父につづいて、わたしも見てみたんですよ。

 あんな机と椅子なら、身長三十センチくらいじゃないとつかいものになんないんじゃないかな……。

 小人の学校? やめてくださいよ……小人がたくさんいて勉強してるなんて、怖いじゃないですか。

 だいたい、なんで小人の学校があったっていうのに、波の音がするんですか? わけが分かりません。

 その後……不動産屋さんや大家さんに連絡したり、会ったりって、父はしばらく面倒だったようですけれども、結局そのままなんです。

 べつになにか謂れがあるわけでもありませんし、住むのに支障ありませんから、どうしようもない。ただ、夜に波の音がするだけ。

 かといって、あんなもの、触るのはイヤだし、動かしてなにかあるのはもっとイヤだ。

 ああ、そうそう……外部から人間が入ったような形跡はありませんでした。

 侵入口はないし、空気孔なんかはありますけれど、ふつうの人間が出入りするのは無理なサイズです。

 うん、ふつうの人間にはね。あくまでも。

 ええ、いまもしてるんですよ、波の音。

 もしよければ聞きにきてもかまいませんよ。

 わたしの部屋、物があんまりないし、いまはただ寝る場所になってしまって。

 いつも綺麗ですから。


   第八十夜 真説・小豆洗い

 このあいだAちゃんから聞いたと思うんですけど……ほら、部屋の中で海の音がするって。

 で、調べてみたら床下に小さい教室があったって話。聞きました? うん、Aちゃんがいってましたよ。うちの話したんだって。

 わたし、Aちゃんのうちに泊まりに行ったんですよ。

 ええ、もちろんその話を聞いてからです。怖いことなんてないない。泊まりに行くまでは……。

 話聞いたのいつでしたか? ん? 三月……じゃあそのすぐあとだ。

 わたしもAちゃんから話聞いて、じゃあ泊まりに行っていい? ってことになったんですよ。

 ふたりの休みがなかなか合わなくて、結局五月の連休になっちゃったんですけど。

 そうですね……家は本当にきれいで、注文住宅じゃないのって疑うくらいでした。

 リフォームの業者さんが完璧に仕上げたんでしょうね。

 一階の天井が低いっていってましたけど、わたしはそんなに気になりませんでした。

 昔の家だからかなって思ったくらいです。

 はい、一階と二階にスペースをつくった分、一階が低くなってるわけですよね……なんで二階の方を低くしなかったんでしょうね。

 そんなこと、考えても仕方ありませんけれども。

 おじゃましてすぐに見せてもらいましたよ。

 その不気味なスペース……確かに、ありました。

 机とか椅子とか、黒板とか教卓とか……いつ小人が現れてここで授業が始まってもおかしくないって感じでした。

 ううん、違うか……そのスペース、明かりがまったく入らないんです。

 昼間でも真暗。

 だから、生徒がみんな引き上げていったあとの、夜の学校の雰囲気に近かったかなあ。

 高さは二メートル……いや、一メートルと少しくらいでしょうか。

 大人なら、這う方が動きやすいくらいでした。

 日中は聞こえないってことなんで、おしゃべりしまして……ああ、高校がいっしょだったんですよ、Aちゃんとは。

 っていっても、高一の秋にAちゃんの方が引っ越しちゃったんですけどね。

 高校の頃、どちらかといえばAちゃんはおとなしい方でしたけど、わたしはこのとおりよくしゃべるし、よく食べるし……あっ、それはいいか。

 とにかく、ウマが合ったんでしょう。それで、いまもたまに会って遊んでるわけです。

 ええ、もちろん女ふたりですから、くだらない話ばかりなんですけど、楽しいことに変わりありませんから……あっという間に夜になりまして、晩ごはんをごちそうになって、少しお酒も飲んで、シャワー浴びさせてもらって……布団はもちろんAちゃんの部屋にひきまして。

 もちろん、海の音が聞こえやすいようにと思ったからですよ。

 それから布団に入りまして、十時過ぎくらいでしたか……ザザーッといいはじめました。

 思わずわたし、キャーッて叫んで、初めての心霊現象だあーって興奮してたんです。

 Aちゃんはそんなわたしを制して、シーッと……なになに? って聞いたら、

「声を小さく」っていいます。

「きたね」ささやき声で返すと、

「いつもよりちょっと早いかな……これなの。ちょっと静かにしてて」

 そんなわけで、ふたりともおしゃべりを止めて、耳を澄ましていたんです。

 ザザーッ、サアーッと波が寄せたり引いたりする音がしている。

 でも、だんだんわたし、黙っているのに耐えられなくなって、聞いたんですよね。

「ずうっと、このまま?」

 Aちゃんは首を振りました。

「最近は、ちょっと芸が増えたみたいなの」

 その瞬間でした。いきなり、ドドドーッときて……わたしは思わず布団を跳ねとばして、起き上がってしまいました。

 Aちゃんの方を見ると、顔が青ざめています。

「こんな大きい音、初めて……」

 Aちゃんが落ち着いてたから、わたしもはしゃぐことができてたんですよね……でも、Aちゃんがそんなふうに動揺してるところって見たことがなかったから、一気に怖くなりました。

 するとそこへまた、ドドーンと……そのたびに、窓ガラスが震えるんですよ。

 もう、BGMどころではない音量なんですけれども、Aちゃんのお父さんやお母さんが階段を昇ってくる気配はありませんでした。

 本当に波が入ってくるんじゃないかって、立ち上がってカーテンと窓を開けたんですが、なにも異状はありません。

 だってね、波そのものなんですよ、音が……海が時化てるときの砂浜にいるのと全然変わりないんです。

 これじゃ、とっても寝られませんよね。

 それで、わたしもAちゃんも隣の部屋に引っ越して、しばらくまたおしゃべりしました。

 その間もずーっと波の音がしてたんですよね。

 隣の部屋に移ったら、音は小さくなりましたが……いやいや、もうわたしは波のことなんて触れたくないし、Aちゃんにしても同じだったんでしょう、どっちもできるだけバカっぽい話をするようにして、笑い合ってたんです。

 ときどきドーンというたび、Aちゃんは口をつぐんだり、笑っているのを止めたりしました。

 わたしもそう。

 それでもお互いに触れないようにして、日付が変わる頃にそろそろ寝ようってことになりました。

 うーん……いえ……それはなかったですね。

 怖いっていっても、帰るほどじゃなかった。

 じっさいに窓ガラスが割れて海水がなだれ込んできたっていうんなら、別ですけど。それに、Aちゃんが心配だったし。

 電気を消しても、波の音は止みません。

 わたしはAちゃんがまだ眠っていないって分かっていました。

 しばらくして、いちどわたしがトイレに行って、それからAちゃんも部屋を出て行きました。

 わたしはその帰りを待ちながら、これってわたしのせいかもな、あすからはまた波の音が静かになるかな、などと考えていました。

 どれくらいたったのか……三十分くらいかな。

 でも暗い中、布団の中でじっとしていましたから、もっと短かったかもしれません。

 なかなか帰ってこないけど、どうしたんだろうと思っていると、ああっーて声がしたんです。

 とっさに起き上がって廊下に出てキョロキョロすると、となりの部屋の……Aちゃんの部屋のドアが開いていました。

 Aちゃん、と名前を呼びながら入ってみると……部屋の真ん中で、Aちゃんが倒れていました。うつぶせでした。

 慌ててわたしは駆け寄って、ちょっと、とか、だいじょうぶ、とか声をかけたんです。

 Aちゃんは意識を失っているようでした。

 わたしはひざまずいてAちゃんの頬を叩きながら、声をかけていると……目を覚まして……でも、寝起きのような感じで、ボーッとしている。

「急に、ふらふらして……」

 ろれつが回っていませんでした。

 これはお父さん、お母さんを呼ばなきゃどうしようもない……立ち上がりかけたところで、Aちゃんがいいました。

「あずきあらい……って、いうんだって」

 わたしには、そう聞こえました。〈小豆洗い〉と。そんな名前の妖怪、いますよね?

 あとで調べてみたんですが、ちょっとあれは……あの音は小豆を洗ってる音じゃないような気がするんですが……それに、一階と二階の間にある、小人の学校。

 あんな気持ち悪いものがあるわけですけど、小豆洗いとは全然関係ないものなんじゃないかなと。

 いえいえ、わたしにはサッパリ分かりません。なにがなんなんだか。

 Aちゃんの方はですね、その後、やっぱりお父さんとお母さんに話して、救急車を呼んでもらって。

 うん、朦朧としてましたので、そのまま運ばれていって……入院しちゃったんです。

 翌日、お見舞いに行ったときに聞いたら、悪性貧血なんだそうです。知ってますか? 悪性貧血。

 ビタミンB12をとってれば一か月くらいで治るそうなんです。

 でも、いまだに入院中なんですよ。

 いま八月でしょ? だから、もう三か月くらいになります。

 かわいそうに最近じゃかなり痩せちゃって、本人は入院ダイエットだ、なんて笑ってますけれども。

 ええ……聞いてないんです。ご両親には。

 違う病気が見つかって、その治療が必要なんでしょうかね。

 ちょっとわたしもお見舞いに行きづらいんですけど……ええ、わたしのせいじゃないかなってのもありますから……。

 Aちゃんの病気とは直接関係がないのかもしれないけれども、わたしがきっかけを作ったのかもしれないって。

 それでもAちゃんが寂しがるっていうのを真に受けて、週一、二回行ってます。

 どうもありがとうございます……そういっていただけると……でも、いいんです。

 こんどいっしょに行きますか? Aちゃんのお見舞いに。

 喜びますよ、きっと。

81話~第90話

   第八十一夜 祖母現る

 お祖母ちゃんが亡くなって、十日くらいたった頃のことです。

 わたしは定期テストが近かったので、勉強していたんです。

 夜遅くまで……深夜、二時くらいだったかな。

 教科書の内容をノートをまとめてたら後ろで、ギイーッと、ドアの開く音がしたんです。

 わたしの部屋、二階なんです。ふだん、夜はわたししかいません。

 だれかが階段を昇ってきたら、足音で分かります。

 集中してたから気づかなかったのかな、だれだろうって振り返ってみたら、死んだはずのお祖母ちゃんが立っていたんです。

 生きていた頃よりも、かえって元気そうで、和服姿でした。

 いえ、死に装束ではありませんでした。ちょっと改まったときに着るような……はい、じぶんの着物でした。

 わたし、びっくりして……でも、疲れてるからかな、って、いちどノートの方を見たんです。

 幻覚かもしれないって。

 それで、もういちどふりかえってみたら、もうお祖母ちゃんはいませんでした。

 ただ、ドアが開いてた。

 古い家だから、とうとうガタがきちゃって勝手に開くようになったのかなって立ち上がり、閉めに行ったんです。

 すると、玄関の方で物音がしました。

 戸を開けて……だれかが出ていく音。

 そして、わたしはもう気づいていました。

 お祖母ちゃんのにおい……好きだったお香のにおいが、あたりに漂っているのを。

 階段をおりて玄関に行ったところ、鍵がかかっていました。

 両親の寝室をのぞいてみると、ふたりともぐっすり眠っていました。

 兄弟姉妹はいません。

 やっぱり、お祖母ちゃんだったんだ。

 なぜ声をかけなかったんだろう……今でも、ちょっと後悔しています。お祖母ちゃん子だったので。

 その後、お祖母ちゃんが現れたことはなかったので、なおさらです。


   第八十二夜 呪いが雨

 こないだお祖父ちゃんが亡くなったのよ。

 お葬式も無事すんでね、お祖父ちゃんの家にみんなで行って整理しようってことになったの。

 秋晴れのすがすがしい日で、わたしの家族だけじゃなくて、おじさん、おばさんの家族もいたし、いとこもいっぱいきて……十五、六人くらいはいたかなあ。

 業者さんを呼んで片づけてもらえば、お金を払うだけですむのよね。

 でも、それじゃあ何か必要なものがあっても、みんな捨てられちゃうってことになって。

 みんな貧乏性よね。わたしも人のこといえないけど……。

 お祖母ちゃんはもう十年以上前かな……ずいぶん前に亡くなって、それからお祖父ちゃん、ずっとひとり暮らしだったの。

 けっこう綺麗好きだったし、頭もしっかりしてたから家の中は片づいてました。

 入院中のチリやホコリはあったけれど、いつでも戻ってくることができるんじゃないかなってくらい。

 うん、そうね……お祖父ちゃん、自覚があって、できるだけ掃除しておこうって思ったのかもしれない。

 でもね、そんなに広い家でもないのに多いときで五人、何十年も住んでいたら、やっぱり訳の分からないものがあるものなのよ。

 これ、一回も使ってないんじゃないの? ってものが、いっぱいあった。

 使い古して、なぜか捨てられずに残ったものもね。

 基本的には、お祖父ちゃんの子供……つまり、わたしのお父さん、おじさん、おばさんの三人が、いる、いらないを決める。

 若手の男が、いらないものは庭の奥の方に持っていく。いるのは庭の手前の方。

 そんな感じで作業を進めていきました。

 女は台所やお風呂を片づける。それと、荷物が全部出た部屋の掃除など。

 こうしているうちにお昼になって、ごはんを食べているとき、ちょっと遅れてるから急ごうかってことになったの。

 せっかちなのは、だれの遺伝なのかなあ? みんな、あんまりのんびりしてなかったわね。

 ごはんを食べた人から、どんどん作業にもどったの。

 午後一番で、いとこのひとりがトラックを持ってきました。

 廃棄処分するものを、みんなどんどん詰めこみだして。

 いるものの方は、もうだれが持って行くかほぼ決まってるから、すぐに片づきました。

 三時過ぎくらいだったかな……家の中がガランとしたなあって頃に、おじさんが叫んだです。

「おうい。これ、どうすんだあ」

 わたしは台所で片づけしたり掃除したりしてたんですけど、その声ははっきり聞こえました。

 おじさんは庭に出ているようです。

 なんだかんだと声を掛けながら、二、三人が近づいていく様子。

 ……ところが、集まったきり、押し黙ってるようなのね。

 どうしたんだろう? って行ってみたら、おじさんが桐の箱を抱えているのが見えました。

 うーん……パッと見た瞬間にね、なんだか怪しげだなあって思いました。

 ううん。箱自体はまだ白くて、綺麗なもんよ。

 それが縦に長くて……一メートル以上はゆうにあったの。

 茶色い紐でぐるぐる巻かれてるんだけれど、これがちゃんと巻かれていない。

 ところどころ隙間があってね、いかにも適当な感じ。

 慌てて巻いたのかもしれない。

 しかも、びっしりとささくれていて、素手で触ったら刺さってきそうな感じ。

「刀かもしれない」

「いや、脇差じゃないの」

「それにしては軽すぎる」

 おじさんが、わたしのお父さんに箱を渡しました。

「うん、こりゃあ刀じゃないな」

「じゃあ、掛軸かな」

「とりあえず開けてみようか」

 いとこのひとりが、わたしのお父さんから箱を受け取って敷石の上に置きました。

 それからナイフでごりごりすると、すぐに切り終えることができて、縄もかんたんに箱から取り除けました。

 いよいよ箱のふたを開けると……その瞬間。

 ドバーッと、水が降ってきたの。

 うわあーってみんな叫んで、つぎつぎと家に入ってって。雑巾だタオルだって、しばらく大騒ぎしました。

 うん、雨、雨。

 雨だったの。土砂降り。ゲリラ豪雨……さっきまで晴れてて、動き回ってたら汗ばむくらいだったのに。

 秋の天気は変わりやすいっていうけど、あんまりよね。

 その一瞬のうちに、みんなけっこう濡れたんだけど、庭には家の中から持ちだしたものがまだたくさんある。

 当然濡れてもいます。

 雨の方はといえば、全然止む気配がない。

 これ、どうしようってことになったの。雨具なんて、だれも持ってきてないしね。

 すると、いとこがふたり、ここまで濡れたんならもういいや、って庭に出ました。

 それでひとりがね、さっきの桐の箱をごそごそして、

「中にあったの、これだった」

 いとこの手には、真っ黒な傘がありました。

 わたしも気になったので、バスタオルで髪をふきながら縁側に出てみました。

 女性用の傘だって、思いました。

 しっかりしたつくりのようだけれど、柄が小ぶりだし、ちょっと通常サイズより小さいようでしたから。

 あ、あと、デザインやかたちからすると、なんだか年代物のようでした。

 いとこは、その傘を開こうとしたんだけれど、なぜかこれが、開けない。

 なにかがひっかかってるっていうんじゃなくて、うんともすんともいわないっていうんです。

 壊れてるっていって、その傘を箱にもどして、ふたを閉めたのね。

 その瞬間……サアーッと雨があがったの。

 ほんとにね、ピタッと止んじゃった。

 みんなで空を見上げたんだけど、ほとんど雲のない青空。

 抜けるように高い空で、すがすがしい。

 なんなんだよ……って、またふたを開けて傘を取りだしたら……。

 ええ、そうなんです。雨がドドーッと。

 慌てて傘を箱の中にいれてふたを閉めたら、ぴたりと止む。

「この傘のせいで雨が降るんじゃないのか」

 いとこがいいました。

 でも、わたしは半信半疑だった。

 そんなことあるわけないでしょ、って庭に出て、ふたを開けて傘を出してみたのね。

 すると、やっぱりゲリラ豪雨並の雨が……もう、身体中あちこち叩かれてるみたいに痛いの。

 まさかそんな、なんていいながらも傘を閉まったら、やっぱり雨が止んで……。

 職人さんが一本、一本手づくりで、なんて感じもしなくて、むしろ大量生産の、どこにでもある傘だっていうのに。

 はあ、不思議なこともあるもんだ、でも雨は嫌だから閉まっておこうってことになりました。

 こうして騒いでいるところに、昼食後によそに出かけてたいとこが、帰ってきました。

 わたしたちを見て、ひとこと。

「あれ? なんでここだけ雨が降ってるんだ」

 お祖父ちゃんの家の敷地内しか濡れていない、っていうんです。

 そんな馬鹿な、って、いとこたちと門を出てみました。

 うん、そのまま。びしょ濡れのまんまよ。

 すると、家の前の道路は全く濡れていないし、向かいの家の木もカラカラに乾いています。

 そのまま一周したんだけれども……やっぱり雨があがったばかりって家はなかった。

 いとこのいったとおり、お祖父ちゃんの家だけが雨に襲われたようだったの。

 だれかが手に持つと、土砂降りになる傘……。

 お祖父ちゃんの可能性がいちばん高いけれども、今となってはだれが封印したのか分かりません。

 みんな、見たことがないっていうし……。

 それで最終的にこの傘は、おじさんが引き取っていきました。

「なんかつかい道があるだろうよ」って。

 全く、貧乏性なんだから。

 もっと広い範囲が雨になるんなら、マラソン大会とか球技大会とか、嫌な行事があるときにつかえそうだけどさあ……。

 昔話みたいに、そうそう日照りがつづいて飢饉になるなんてこともないんだし。

 じぶんの家だけに降るんだから、そうそうつかう機会なんてないんじゃないかな。

 うーん……どうだろう。

 いちどやってみますか? だれが持ってみても雨が降るかどうか。

 おじさんに話しておきますよ。おじさんの家、遠くないですし。

 案外、わたしの親族だけだったりして。

 ……って、そんな特殊能力、いらないんですけどね。


   第八十三夜 ニホヒノフシギ

 コウドウって知ってるか?

 香道……カオリのミチ、と書く。

 お香をたいて、それを嗅ぐ……ああ、嗅ぐなんてホントはいっちゃいけないんだ。

 お香は「聞く」もの。

 おれのおばさんが熱心でな。嗅ぐなんていっちゃ怒られるんだ。

 その、お香を「聞く」……これが大きく分けてふたつに分かれる。

 お香を聞いて「ああ、いいですね」と鑑賞する。つまり、ただ聞くだけだな。

 もうひとつは、そのにおいを聞いて、なんのにおいか当てるというもの。

 たくものはカオリのキと書いて、香木という。

 たまにおばさんがたくのをおれも聞くがな、なんともすばらしいにおいなんだぜ。

 鼻ですうーっと吸い込むと、えもいわれぬ……なんともいいがたいにおいが、身体の中へ中へと少しずつ広がってゆく。

 日頃のストレスなんてブッ飛んじまって、だんだん気持ちよくなるんだ。

 いちど、機会があったらやってみろよ。

 薬物じゃないからよ、変なことはないし……って、こんなこというとまたおばさんに叱られるか。

 チッ……なんだよ、そんな顔して。

 おれがいうことばにゃ、説得力がないって?

 ま、信じないでもいいさ。いっぺんお香を聞いてみたら分かるんだから。

 おばさんていうのは、オフクロの姉だ。

 バアサンも……オフクロの母親の方な、このバアサンもちょっとは齧ったらしい。

 どうもおれの母系の方に、代々香道をやってる人がつづいてるようなんだ。

 バアサンの母、これはつまり、おれにとってはひいバアサンだな。

 ひいバアサンの母、これは高祖母。

 母、母の母、母の母の母と……こんがらかってくるが、とにかく女の方に香道やる人が出る。

 いや、香道ってのは、べつに女性に限るんじゃない。

 男子禁制ってわけじゃないんだ。

 よいにおいを聞く、聞いてなんの香木かを当てるっていうのは、あまり男性的とはいえないかもしれないけどな。

 おばさんがついているお師匠さんのところへも、けっこう男が通ってるって話だ。

 とはいえ、お師匠さんていうのも、おばあちゃんらしいんだけどな……。

 それで、つい先日のことだ。

 稽古中に、お師匠さんがいったんだ。

 珍しい香木を手に入れたから聞いてみましょう、ってな。

 ああ、おばさんもそこにいた。

 ふつう香木ったら、伽羅、沈香、白檀……。

 ま、これが御三家だ。

 上物の伽羅なんて、聞いた瞬間にブッ飛びそうになるんだぜ……いやいや、こりゃいかんな。

 こんないい方。おばさんに叱られる……伽羅の上物なら、一グラムで軽く五万くらいはする。

 沈香や白檀ならうんと安いけれども、週にいちど集まって、においを聞く連中だぜ、もう鼻が慣れてしまってる。

 おばさんはな、てっきりこれは伽羅の上物だって思ったそうなんだ。

 お師匠さんがその香木とおぼしきものを懐から出して、

「貴重なものだから、心してお聞きなさい」

 そう注意して、香炉の中に香木をおいた。

 えっ? なんだって?

 おいおいおい、かんべんしてくれよ。

 線香じゃないんだから、直接火をつけるんじゃないんだ。

 いくつか方法があるが、基本はあらかじめ炭をおこしておいて、それを埋めるんだ。

 炭っていっても、タドンのことだからな……念のため、いっとくと。

 で、その上に銀葉っていうもんを乗せる。こりゃあ、雲母でできてるそうだ。

 こんな下準備をしてから、初めてその上に香木を乗っけるんだ。

 ああ、香木ってのは……ウッドチップってあるよな? あれくらいの大きさに切ってある。

 刻んでもっと細かくしたもんもあるけどな。

 さて、お師匠さんがみずから香木を灰の上にのっけた。

 なんともいえぬ芳香が、ほんのりと立ちのぼるはずが……。

 おばさんには、全然いいにおいじゃなかったんだ。

 ああ、むしろ変なにおいだった。

 てっきり伽羅の上物だと思ってたんだからな、その落差たるや推して知るべし、さ。

 苔がくさったような、古い家のカビやホコリが混じったようなにおいって、いってたっけ。

 おばさんが周囲を見ると、みんなうっとりしている……どれもよく知ってる顔だったからな、「ああ、これって本当はいいにおいなんだろう」ってことは分かった。

 さすがに、お師匠さんが貴重なものっていうくらいだからな。

 うん……おばさんは、じぶんの鼻がどうかしたって思ったんだ。

 回りはなんともないんだからな。そう思うのもわけはない。

 ただ、香木をたいた香炉がな……まわってくるんだよ。

 ふつう香を聞くときは、そうなんだよ。茶道の茶碗のように、香炉が順ぐりにくるんだ。

 で、ひとりずつ香を聞く。

 どうしよう、と思った。

 ひとり目の弟子が聞き始めると、香炉が近づいたからだろう……いっそうひどいにおいに感じられる。

 直接聞いたら、吐いてしまうかもしれない。その前に中座するべきだろうか。

 いや、そんなことはできない。お師匠さんがさっき、心して聞くよう申し渡したばかりではないか。

 そうこう思い悩んでいるうちに、となりの人が香炉を受け取って二度まわし、持ち上げた。

 おばさん、絶体絶命なわけだが……どうしたと思う?

 あんたなら、くさいにおいがするときって、どうするよ?

 ああ……そうさな。それが妥当なとこだろう。

 常識的なセンだ。

 おばさんも、現にそうした。

 香炉がじぶんの膝の前にまわってきたところで、口でおおきく息を吸い込んだ。

 それで、息を止めたんだ。

 ……こうしてなんとかやり過ごして、香炉がお師匠さんとところへと無事もどった。

 この日のお稽古が終わってからも、みんな興奮さめやらぬ様子で、ああやっぱり違いますね、分かりますかなんていってた。

 おばさんも、そうですね、本当によい香りでしたこと、なんて話を合わせてた。

 おばさん、ずいぶん打ち込んでたからなあ、ショックだったけれども、鼻がどうかなったに違いないって。

 今晩は早く休んで、まだ変なようなら病院に行かなきゃならない……。

 帰り支度をしてたらな、引き上げたお師匠さんがもどってきたんだ。

 で、おばさんにちょっと残って、といった。

 ああ、やっぱりバレたかあ……なにいわれるんだろうって心配になった。

 みんな帰ったあとで、お師匠さんと向かい合って正座。

 叱られる覚悟をしていたんだけれども、お師匠さんがこんなことをいったんだ。

 変なことを聞くけれども、と前置きして、

「あなたのご家族の中に、サイパンで亡くなった方がいないかしら?」

 うん、確かにいるんだ。

 昭和十九年かな。サイパンが玉砕したのは。

 そのとき、バアサンの妹が亡くなってるんだ。

 この人、やっぱり香道をしててさ。おばさんのように、ずいぶん入れ込んでたそうだな。

「ええ、おりますが、それがなにか……」

 すると、お師匠さん、

「さっきの香木はね、サイパンに住んでる人から送られてきたものなのよ」

 おばさんは、はあ、としかいいようがない。

「その人、浜辺でこの香木を見つけたそうなのね。もちろん、サイパンの……ひょっとしたら、その亡くなられた方が、お持ちになってたものじゃないかしら」

「それはどうでしょう……分かりません」

 するとお師匠さんは笑って、

「さっきのあなたの反応を見てれば、すぐ分かるわよ」

 そういって、くだんの香木を渡されたそうだ。ああ、全部。全部さ。

 香木が見つかった浜辺で、バアサンの妹が死んだとなれば、ツジツマはあうけれども……実際のところ、本当かどうなのかは分からない。

 お師匠さんは、サイパンにいたおれのバアサンの妹が、香道を習ってたなんてことは知らなかったようだけれどな。

 ああ、おばさんはな……せっかく受け取ったっていうのに、たいたことがない。

 仮に親族の手に渡ったとしたんなら、いいにおいがしてもよさそうなもんだけどな、いまだにくさいっていってるんだ。

 おれも聞いたことが……いや、香炉でたいたわけじゃないから、ちょっと嗅がせてもらったってとこか。

 うん、そんなにすばらしいもんでもないけど、まあまあいいにおいだったよ。

 おばさんだけなんだ、くさいっていうのは。

 ん?……ああ、もちろん病院に行ったようだぜ。

 異状なんて、どこもなかったとさ。


   第八十四夜 部屋探しの兄妹

 わたしの兄貴がこの春、大学に進学したのね。

 東京の大学。

 それで、アパートを借りることになったの。

 通おうと思えば通えるんだけど、パパ、ママにムリいってね。

 でも、わたしの兄貴って、どっか抜けてるのよね。

 引っ越しもするんだし、早く部屋を見つけた方がいいんじゃない? 

 ……って、ママは何度もいったんだけど、兄貴はハア……って感じで、ぜんぜん聞いてない。

 忙しくもないのに……むしろヒマを持て余してるくらいで、毎日ダラダラしてたってのに。

 うん、ネトゲを夜遅くまでして、たまにわたしと顔を合わせててもスマホをいじってるとこしか、見たことなかったよ。

 探し始めたのはね、三月も終わりになってからよ。

 それで、なにがそんなに怖いのか、なぜかわたしに、いっしょに探してくれっていう。

 貴重な春休みが最低半日はつぶれる、いやだっていったの。

 でも、ママに説得されてしまって。

 しかたないから朝早くに兄貴を叩き起こしてね、東京に行ったの。

 乗り換えなしで行けるから大江戸線がいい。

 江戸情緒の残ってるところがいい。

 ……なんてね、着いてからいうのよ。

 アホ、いうのが遅いわ!

 わたし、腹立ったから帰るっていったんだ。

 でも、ひとりで探せばいいってのに、なぜか帰らないでくれっていう。

 しばらく駅のホームでやり合ったんだけど、結局わたしが折れてね。

 ママにお小遣いもらっちゃったし。

 ベンチに座って、兄貴のスマホ奪ってあれこれ検索してるうちに、森下ってとこがいいなって思ったの。

 なによりもまず、兄貴の大学に近い。

 あと、昔わたしが密かに憧れてた先輩の苗字と同じだったってのもあるんだけどね。

 さて森下に着きました。

 さあ、不動産屋さんに行こうって歩きだしたら、そこで兄貴がまた……。

 ちょっと、どんな街か歩いてみる……といいだしたの。

 そんなの、部屋紹介してもらって、下見に行くときでもじゅうぶんできるでしょ?

 そういっても、聞かなかった。

 勝手にスタスタ歩いてくんだもん。しかたないから、あとについてったの。

 兄貴、歩きながら、フンフンいいな、うん、いい……なんて、ひとりごといいつづけてるから、ちょっと離れてたんだけどね。

 で、ほんとに小さい路地の入口で、突然立ち止まってね、ああ、この雰囲気いいねえっていう。

 わたしが追いついて見たところ、ちょっと暗い雰囲気。

 なんだか陰気だなあって感じたんだけど、本人が気にいったんなら問題ない。

 それに、早く駅前にもどって不動産屋さんに行きたい。

 いったん駅に戻ろうよ、もういいでしょ?

 わたし、そういったんだ。

 そしたら兄貴がね、おい、あれ見ろよ、という。

 左手のボロアパートの窓に貼紙があって、入居者募集、大家って書いてる。

 電話番号もある。

 ああ、ここがいいの、ここが決めなよっていったの。

 そしたら兄貴は、うんと答えて電話をかけた。

 話はほんの数分で終わって……大家さん、このアパートに住んでたのね。

 さっそく訪ねて部屋の鍵借りて、下見することになったのよ。

 建付の悪いドアをゴリゴリ開けて、中を覗いてみたら……暗くてよく分からない。

 なんだかジメジメして、カビくさい。

 わたしだったら絶対願い下げだよ、こんな部屋。

 それでも、中に入ってみた。

 わたしからすれば、ここで即決してもらえるとありがたいからね。

 玄関にはスリッパなんてなかったけど、土足で上がるわけにもいかない。

 ああ、靴下汚れちゃう、なんて思いながらね。

 顔を見たら兄貴、なんだか渋い顔になってる!

 無理やりその背中を押して……入った瞬間。

 悲鳴があがったの。うん、そうよ。悲鳴をあげたのは、兄貴。

 キャーッて、女の子みたいな悲鳴だった。まったく、情けないったら、ありゃしない。

 で、そのままかたまってるから、わたしも橫から中の方をのぞいてみたの。

 なになに、なんなのよ……。

 そしたら、いたのね。部屋のほぼ中央に、婆ちゃんがちんまりと座ってた。

 わたし、大家さんの関係者かと思ったのね。たまたま掃除しに入ってきただけかなって。

 でもさ、鍵はかかってたんだし……いや、建付悪かったから、本当はかかってなかったかもしれないけど。

 でもでも。掃除したっていうんなら、汚すぎる。

 これから掃除するにしても、なんで正座してじっとしてるの? どう考えても変でしょ?

 それに……婆ちゃんのうしろには、鏡台があったの。古い、古い鏡台。

 鏡なんかうっすらと膜がかかってるし、引出にはってある板がペラペラめくれてる感じの、古い鏡台。

 昼間ってのに、部屋の中は暗くて……婆ちゃんも鏡台も、まるで闇の中から浮び出てきた感じだった。

 その鏡に写ってたのは、婆ちゃんなんだけれども……ニマッと笑ってるの。

 ううん。婆ちゃんは、わたしと兄貴の方に身体が向いてるのよ。

 本来、写ってなきゃならないのは、婆ちゃんの頭のうしろなのよ。

 なのに、鏡にあるのは婆ちゃんのとびきりの笑顔。

 ん? ああ……とびきりの笑顔って、変かな。

 わたしはそんなの見ちゃったから、もうダメだって回れ右して外に出たの。

 兄貴……ううん。知らない。どうやって出たのかな。

 気づいたときには、わたしの足下に転がってて、目が、目が……って叫んでた。

 目がどうしたのよ、ちょっと! しっかりして!

 そしたら、まぶしいって……暗いところから急に明るいところに飛び出したんだから当たり前よ。

 おおげさだっつうの、まったく。アホよね。

 そこそこ兄貴の眼が回復するのを待ってから、大家さんのとこにまた行ってね、変な婆さんが出るから止めます! っていったの。

 そしたら大家さんが、

「へえ……昼間でも出ますか」って。

 いやいや、そういう問題じゃないよね?

 今思い出してみても、なんだかズレた人だったなあ……。そう思いませんか?

 でも、これ以上、関わり合いになりたくないから、なんにもいわず、なんにも聞かずに帰りました。

 結局、鍵返すの忘れちゃったんだけど……あの部屋のドアにささったまんまだろうから、そのうち気づくでしょって、逃げてきたの。

 兄貴の部屋はその後、パパの知り合いの不動産屋さんに見つくろってもらって、無事に決まりました。

 それがまた、森下の駅近くのアパートなのよね。

 江戸情緒の残ってるところがいいって、やっぱり兄貴がいったらしいんだけど……他に、いっぱいあるでしょうに。

 浅草でも根津でも、巣鴨でも……。

 なのに、なぜかよりによって森下。ま、偶然でしょうけど……。

 あ、そうそう……その婆ちゃん、けっこう大家さんに似てたような気がするの。

 きっと、母親か、おばさんか、祖母か……血のつながりがあるんじゃないかな。

 そんな気がする。


   第八十五夜 盤面を覗くもの

 少し前に囲碁を題材にした漫画が流行して、アニメにもなりましたね。

 その頃、僕の家は地獄だったんですよ。

 ああ、いえいえ……そうあんまり質問しないで。順番に話しますから、落ち着いてください。

 囲碁のせいなんです、これは。囲碁のせいで、まるで地獄のようだったと。

 我が家にある古くからのいい伝えで、決して囲碁をしてはならぬというものがありましてね。

 こうして口に出すのはまあいいとしても、碁盤や石はもちろん、囲碁のことが書かれた本などを家の中に持ち込むと、きっと悪いことが起きるって。

 両親から、何度もそう聞かされたんですよ。

 絶対ダメ、囲碁に関するものは、いっさい触れちゃいかん、て。

 囲碁を題材にしたその漫画が流行った頃は、友達の中にも、コミックを持ってる人がけっこういました。

 でも、僕には読むことができませんでした。

 いえ、学校でいちどだけ読ませてもらったことがあるんですけど、それだけで家に帰ってすぐに僕、倒れちゃいましてね。

 高熱は出るし、腹の具合は最悪になるし、意識がとぎれとぎれになるしで、救急車で運ばれました。

 それで結局、入院することになったんです。

 お医者さんの診立てでは風邪をこじらせただけってことでした……ただ、これが囲碁に関わったせいだって、両親にはバレましたよ、すぐに。

 症状を見たら分かるっていうんです。

 父も母も、いちどは同じ目に合ってるわけです。そのとき初めて聞いたんですが。

 正直、それまでは半信半疑……いえ、むしろ全く信じてませんでした。

 あなたも信じてないでしょう? 僕じしん、今なお信じてないのかもしれません。

 ただ、少なくともあんな目にあうのは二度とゴメンです。

 だから、それ以来、僕は囲碁に関わるものから極力、離れることにしています。

 前置きが長くなりました。

 じゃあ、古いいい伝えってなんだ? っていうのが、僕の話そうと思ってたことです。

 僕の実家はもともと山梨にありました。

 ご先祖様というのは旗本で、江戸と甲府を往復していた……今でいうと転勤ですね。

 それで、明治維新のときたまたま山梨にいて、そのまま住みついたと聞いています。

 甲斐国は将軍のお膝元に近いですから、江戸時代の半分くらいは天領……直轄地の扱いです。

 だれか大名が入るにしても、将軍の親族ばかりです。

 直轄地のときには、僕の先祖のように旗本が派遣されるわけですが、派遣される方にとっては栄転ではなかったようです。「山流し」なっていってね、できれば遠慮したい役柄だったそうです。

 あまり素行のよくない者が自然に集まってたんです。たぶん、僕のご先祖様というのも、博打にハマッてたり、酒乱だったりなにか問題を起したのかもしれませんね。

 幕末、国内の情勢が不穏になってきた頃のことです。

 万一、このあたり一帯が戦場になったときのために地勢を調査する……と、ご先祖様の上役が取り決めました。

 おれは甲府の町内を調べる、じゃあおれは近隣の里をまわる、釜無川の流れの具合と水深を見てくる……と、みんなで手分けしました。

 そのときご先祖様は、郡部の山々の調査を押しつけられましてね。

 各地をめぐって、山の姿を絵にしたり、土地の人にその山の特徴を聞いたりしたそうです。

 山梨という名前の逆で、周囲みな山ですからね。調査が長期にわたったのは、いうまでもありません。

 あるとき、雨畑山という……南巨摩郡に今もある山ですが、これに登ろうとした。

 でも、中腹までたどりついたところで、雨が降りだしたんです。

 足元が悪くなりまして、これは危険だっていうことで、中止して降りてきた。

 それでふもとの寺で、休憩させてもらった。

 お茶を飲んでからこれまでに描いた絵図をまとめはじめ……それが終わっても、いっこうに雨の止む気配はありません。

 他に、これといってやることはない。

 ご先祖様のそんなようすを見て、和尚さんがいったんです。

「拙僧、御仏に仕える身でありながら最近碁に夢中でして……もしおやりになるんでしたら、どうですか、一局」

 ご先祖様、ちょうど暇を持てあましてたところですから、否も応もありません。

 さっそく碁盤が出てくる、碁笥が運ばれてくる、石を持って、ペチペチ打ち始める。  

 実力の程は、両者ほぼ互角だったようです。勝ったり負けたりをくりかえして、もう一番、もう一番とつづけてゆくうちに雨があがって夜になったんですけれども、おもしろくて止められない。

 食事を、食事をと小僧さんになんどもいわれて、しかたなく中断、夕食をとったあと勝負を再開しました。

 なにかに憑かれてるようですよね。夢中になってるときって、ひょっとしたら、なにかに憑依されてることが多いのかもしれません。

 こうして深夜に及び、盤上で一進一退の攻防がくりひろげているうち、ご先祖様がふと気づきました。

 背後にだれかが立っている、と。

 そのだれか、盤上に石が置かれるたびに、フン、フウ……と息を吐く。

 草いきれに似たにおいがする。

 和尚さんが石を置いて、いいました。

「気になさることほどのものではござらん。そのうち消えようほどに」

「ほう。さようなもんですかな」

 ご先祖様が石を置く。うしろのなにかが、フウーッと息を吐く。

 それが耳にかかって気持ち悪かったけれども、とにかく盤面に集中することにして一局を終えました。

 一息入れて、この勝負はここがよかった、あそこは悪かったといい合っていると、いつのまにか背後の気配がなくなっている。

「あれは、なんだったのですかな」

「囲碁を打ってると、たまに出てくるのです。なんでも武田信玄の時代に、朋輩に妬まれて失脚させられた武将だと聞いております」

「そんな昔の人が……」

「この近辺に引き籠もって、寂しく晩年を終えたそうです。まだ迷ってるんでしょうな」

「お経を読んでも……」

「いっこうに効き申さず。拙僧がこんなに碁にのめり込んだのも、やつのせいかもしれません」

 和尚さん、そういって笑ったそうです。

「だいたい、碁が好きなら、いたいだけいればいいと思っとりますからな……ときに、貴殿ももしや、朋輩に妬まれてることはござりますまいな」

 ご先祖様が黙っていると、

「あれはそうそう頻繁に現れるもんじゃないので……石を持っていたとしても、年に一、二度。公用とはいえ、こんな辺鄙なところにいらっしゃるんですからな、察しがつくというもんですわい。貴殿がお呼びになったのかもしれぬ」

 相変わらず両者の星はほぼ互角だったのですが、もうふたりが打つことはありませんでした。

 それが出たらグッと弱くなってしまうから……というのが和尚さんの言い分でした。

 翌日、ご先祖様は無事に雨畑山の調査を終えて、つぎの土地に向かいました。

 そこでやっぱり土地の人と囲碁を打つ機会があったのですが、また背後に例のなにかが現れて……こんどは全く盤面に集中できず、惨敗しました。

 ハンデをつけてもらって……これは、じぶんの石を最初に置くんですね。囲碁は陣取りゲームですから、最初にある石が多いほど有利なわけです。

 でも、やっぱり惨敗しまして。ちっともおもしろくないから、止めることにしました。

 その晩……高熱が出て腹の具合も悪くしたっていって、ご先祖様は布団の中でウンウン唸ったそうです。

 ええ、それからなんです……囲碁をするたび、それが現れて、体調を崩すようになったのは。

 それでも好きですからね、だれかと実力を競うことはとうとうあきらめることにしたんだけれども、詰碁、定石、棋譜などの本を読んで我慢することにしたんです。

 ところが、本を読むだけでもダメだった。熱が出てうなされることには変わりがない。

 結局、ご先祖様は囲碁に関係するものをすべて処分しました。

 ええ、お察しのとおりです。そのご先祖様ばかりでなく、その子、孫……と遺伝してしまって、いま僕がここにいるってわけです。

 そうそう、ご先祖様は囲碁が好きだったわけですから、そもそもの原因となった寺にまた行ってみたんですよ。

 なにかもとの状態にもどす手がかりがないかって、ね。

 しかし、どうしてもその寺にたどりつけなかったという話です。

 もしかすると、背後に立っていたそれと、この話の和尚さん、実は同一人物だったのかもしれませんね。

 憶測に過ぎませんけれども。

 ああ、ありがとうございます……心配してくださって。

 この話をするくらいなら、だいじょうぶですよ、たぶん。これまで、なにもありませんでしたから。

 人間、できないとなったら、してみたいってなるじゃないですか。

 ですから、ちょっと囲碁をしてみたいって気持ちも、いまだにあるんですけれどもね。


   第八十六夜 四百年ぶりの男の子

 うちの実家はちょっと変わっておりまして、本家では絶対に男が生まれなかったんです。

 分家や親戚筋から婿養子を入れて、それで代々やってきました。たいした家じゃないのですが、家系図は江戸時代初めからのものになっています。つまり四百年くらいずっと、男の子が生まれなかったんです。

 正徳年間、本家の奥さんが……といっても、私の先祖のひとりですが……妊娠中に精をつけるといって、牛肉を食べたことがあったんです。すると、頭に牛の角の生えた女の子が生まれた。

 おかしいでしょう? 江戸時代のことですから、仏教の影響もあって獣の肉はまず食べませんけれども牛の角が生えるなんて、まるでおとぎ話です。私は頭蓋骨が変形した子だったんじゃないか、と思っているのですが、その女の子は人として育たないだろう、ということで、かわいそうなことに殺されてしまったといいます。

 それ以来、男の子が生まれることがないんだ……という言い伝えなんですが、どれくらい信憑性があるのか。とにかく私の実家では、男の子がこんなに長期間、生まれなかったことの説明として、こんなことを申しております。

 それに、江戸時代初め、家系図にのっている初代は確か延宝二年に亡くなっているんですが、そこから牛の角のある女の子が生まれるまで約三十年です。その間に男の子が生まれなかったことの説明には、なっていません。当時はその三十年、偶然で片づけられていたのかもしれませんが……。

 最初に「絶対に男の子が生まれなかった」と申しました。「生まれなかった」は完了ではなく、過去の意味です。つまり、最近になって……四百年ぶり、そう、四百年ぶりに、本家で男の子が生まれたんです。

 はい、はい……仰るとおり、みんな耳を疑いましたよ。

 だいたい、エコー検査でも女の子ってことになっていましたし、母親の顔も優しくなったから子供は女の子だろうって、いっていましたから。もちろん、誰もいいませんが心の中では「男の子が生まれるはずがない」と思っていたんでしょう。

 幸いなことに、その子は元気で生まれてきたし、牛の角を生やしてもいませんでした。

 しかし、私は思うのです。

 もしかしたら、この家はもう終わりなんじゃないだろうか、って。

 この子には本当に悪いのですが、何といっても四百年ぶりに生まれてきた男の子です。絶対に何かよくないことが起きるのではないかと……。

 そう危ぶんでいたところ、この子がことばを発するようになりました。

 アア、アア、とか、ダー、ダーとか、まあ喃語ですね。

 そしてつい先日のことなんですが、この子が急に大人のような口調で、叫んだんです。

「××だから、逃げろ」と。

 さすがに勘弁してください。××の部分は……災害の一般的な名称だと思ってください。

 はい……そうですよ。××とは、アレです。そのとおりなんです。

 そして、その××が次の日に起きた、というわけなんです。

 ……とても信じられないでしょうね、こんな話。はい、信じてもらおうと思って、うちあけたのではないですし、知っているとおりに話しただけで。

 またこんな予言めいたことを、いうのではないかと思うと気が気じゃないのですが……。

 ただ、これだけはいっておきます。私がその子を産んだんですから、まちがいはありません。

 その子の母親なんですから。


   第八十七夜 鬼籍の歌声

 インディーズバンドが流行った時期にさあ、ちょうど音楽を聴くようになったっていったら、それで歳がバレるね。

 俺は音楽の才能がなかったから聴く専門だったけど、高校生の頃って、バンドを組んでライブするってよくあったわな。うまいのもへたなのもいたけどさ、俺の同級生でひとり、とんでもないのがいたんだ。

 やつの才能は、声さ。

 テレビやラジオなんかで聴くプロのミュージシャンの、誰にも似ていなかった。甘い感じの声でもないし、高音がすごく伸びるわけでもない。うまい歌手の声を「天使の泣き声」とか「百年に一人の美声」とか、よくいうだろう? そういうのではなかった。

 だいたい、ふだんしゃべってても、いい声だとは思わなかった。べつに教科書を読めっていわれて読むときは、ごくふつう、われわれ凡人と同じ。

 でも、これがステージで歌いだすとさ、オーラを出すというのか、圧倒的な雰囲気を醸しだすというのか、プロ顔負けなんじゃないかってくらいだったんだ。今の若いやつなら「ヤバイ」で済んじまうだろうけどな。

 高一の秋に、一回飛び入りでライブで歌ったときにはさ、あまりの存在感にみんなシーンとしちゃって。歌が終わっても、誰も拍手しなかった。

 それくらいのやつだから、こいつをヴォーカルにしたいってやつはたくさんいたんだが、やつは首を振らなかった。

 表向きは謙虚なこと、いったんだよ。俺の歌なんてとても、とか。音程とれないから、とか。

 かえってイヤミに聞こえたがな。

 まあ、学校祭を境にして、だんだんバンド組んでどうこうってのは下火になったから、高二のときまでは、やつはそんなことをいって何とか断っていたんだ。

 そして高三の学校祭。最後の年だからって、やつを誘おうとしたのが、やっぱたくさんいたんだよ。

 で、やつは「条件つきで歌う」って、あるグループにいった。

 あるグループって、同じクラスのやつらさ。別に技術がすごいやつらじゃない。ギターはFがちょっとでないときがあったし、ベースはそこそこなんだが弾いてる姿はまるで耳なし芳一だったし、まあイロモノみたいなもんでね。

 なんでそんなバンドで、っていうやつはいたけど、同じクラスだからってんで、あきらめてたな。高校生だから、こんなんで済んじまうんだな。社会人ならこうはいかんだろう。

 それはともかく、やつの条件てのは「この曲をしょっぱなにやる。これを完璧にマスターしたら、持ち時間いっぱい、最後まで歌う」ってもんだったんだ。

 じぶんで作曲したらしいぜ。

 おっかしな曲だったんだ、これが。練習してるのを聴いたら、ど素人がつくった曲だって、すぐにわかるような。

 前奏があって、Aメロがあって、Bメロが、サビが……なんてもんじゃない。そんな区別がまるでない。ワーグナーとか、YMOみたいに無限旋律でだんだん盛り上げていくって感じでもない。

 とにかく変なんだ。不協和音はないのに、聴いてるうちに頭が痛くなってくるような曲だった。そこへきて、ヘボいメンバーだろう? 本番のとき、どんなふうになるんだろうって心配するくらいだった。

 おまけに、やつは当日まで、ほとんど練習に参加しなかったようだ。バンド仲間はとにかくいっしょにやってほしかったわけだから、別に文句もいわんかったってさ。ふらっと現れて、練習してるようすを見て、すぐに帰る。

「しっかり演奏してくれよ。譜面には歌詞がないけど、おれがちゃんと歌うから」とか何とか、いって。

 ああ……やっぱ、最後まで話さなきゃならんよね。

 学校祭当日……平成二年七月八日。日曜日で、一般公開の日だった。

 ステージに現れたやつは、さすがに違った。いや、制服で現れたんだよ、これが。初めはまさか、と思った。でも、これから歌を歌うって雰囲気からして、もう全然ふだんとは違う。

 芸能人の持っている雰囲気に近いんだけど、またちょっと違う。いったい、これからどうなっちまうんだ、というような落ち着かない何かがあったんだ。

 やつはステージ中央に進み出ると、バンド名とメンバーの紹介をしてから、こういった。

「それじゃあ一曲目、『トミノの地獄』をやります」

 演奏はまあ……高校生がそれなりに頑張ったな、という感じだったような気がする。最初の曲で緊張していたかもしれない。いや、実は演奏の方なんて、ほとんど憶えていない。

 やつのつくったステージの雰囲気にな……もう、圧倒されちまって……まるで、タイトルどおり、地獄に迷いこんだみたいになってたんだ。

 俺の周りにいるやつら、実は亡者なんじゃないかって疑うくらいだったし、死臭がただよってくるようだった。

 やつの歌う声じたい、ひさしぶりに聴いたんだけど……何かにとり憑かれてるんじゃないか、ってくらい禍々しさ、いまいましさ全開の声だった。なのに、なぜかずっと聴いていたいような気がした。逆に耐えきれなくなったのか、気分が悪くなったやつもいたようで、途中でどこかへいっちまうのも、けっこういた。

 それに比べれば、二曲目以降はまともだった。あろうことかドラムがメロディーから取り残されたり、シンセの音がときどき変だったりしたけど、ふつうに聴けた。

 だいたい他のメンバーのやつら、よくあんな変な曲を熱心に練習したな、やつの声で、よくおかしくならなかったな、って感心したよ……って、これもあとになって思うことで、二曲目以降もあまり記憶に残っていないんだ。なんせ一曲目のインパクトが強すぎた。

 ああ……青春の時期のある一瞬の輝き、そんなもんだったのかな。やつにとっては。その輝きが強すぎた。輝きすぎた。

 うん。やつはね、もうこの世にはいないんだ。

 学校祭の次の日、自殺しちまった。

 あんな曲を作ったから……いや、どうかな。あんた、知ってたか?

『トミノの地獄』を音読した人間は死ぬ、って。西條八十の詩さ。調べてみたらすぐわかるよ。

 いやあ、そんなの偶然かもしれないと思うけどさ、おれも。

 やつは『トミノの地獄』を歌詞として曲を作り、歌った。朗読とは違うが、そのあたり、どうなんだろう。とにかく声に出したらだめなんだろうか。

 結局やつは、遺書も何も残さなかったし、なんで死ななきゃならなかったのか、わからない。

 今となっては、体育館のような音響のよくない場所で歌った、やつの才能を惜しみたい気持ちはあるんだよね。そう、今でも。

「啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく」

 ここんとこの、やつの声がさ、三十年たった今でも耳から離れないんだ。

 今でもその声を思い出すとさ、絶望して泣けてくるんだ。


   第八十八夜 記憶

 今日は平成二十八年十月三日です。

 カレンダーを見ても、スマホでも、今日は十月三日です。

 でも私には、信じられないんです。今日はええと……八月三十日のはずなんです。

 どうしたらいいんでしょうか?

 出勤するんで歩いている途中、急に立ちくらみがして、気づいたらじぶんの部屋のベッドの中にいて……その日は八月二十一日だったはずなのに、起きてみたら九月二十四日だった。

 それから九日たつんですが、違和感がぬぐえません。いいえ、違和感どころか色々なものがおかしくなっていたんです。一か月くらい寝てたんではないんです。会社に行ってみても無断欠勤なんていわれなかったし、いつもどおり出勤してきた、という感じで、同僚が仕事のわりふりをしてきたり、資料づくりを頼まれたりしました。

 でも、会社は食品系で私は事務職だったのに、変わってしまっていたんです。会社が予備校になっていて、私はそこで働いていることになっていた。

 働いている人の姿や格好は変わりないのに、やってる仕事がぜんぜん別なものになっていました。倉庫だったところが、パーテーションでくぎられて教室になっていたくらいで、書類棚や複合機の位置や、机の配置は同じでした。ただ若干、私の記憶と違うところもありました。偉そうにしていた人が腰を低くしていたり、知らない人がひとりだけいたりしました。

 当然、その会社の仕事のことなんて、ぜんぜんわかりませんから、ミスはするし、人に聞きまくるしで、その日のうちにみんなの見る目が厳しくなっていました。これまでしてきたことなのに、なんで新入社員みたいなことばっかり、してるんだ……そう、顔に書いてありました。

 翌日から仕事は休んでいますが、もうだめでしょう。近いうちに退職するつもりです。

 ところで、赤飯に紅ショウガが入っているのって、ずっとですか?

 たくあん漬けが入っていることが、圧倒的に多いと思っていたんですが……。

 あと、十月の十五夜って、お雑煮を食べるんじゃないんですか?

 十月に入るころからスーパーやコンビニで、お雑煮用の食材の売り出しをするはずなんですが……。

 そうですか……いえ、そうだとしたら、私がおかしいんですね……。

 これまで生きてきて、記憶してきたことが今、ぜんぜん通用していないんです。ほんとに、どうしていいのか……。

 だいじょうぶです。じぶんの名前や家族や、親しい人なんかは私の思っている通りでした。

 ただ、私の記憶の中では父はもう少し老けていて、母はもっと若々しかった、というのはあります。友人のひとりの学歴とか、また別な人の住所が違っていたり、というのもあります。そういう細かいところは異なっていますが、だいたい私の記憶と同じです。

 私、ただの記憶障害なんでしょうか……脳に、記憶中枢なんかに、疾患があるのかも。

 それにしたって、本人の習慣にかかわるものまで、認識を変えてしまうくらい影響が出るんでしょうかね。現にこうやって、ふつうに人と話をして、座っていられるし、立って歩いてここまできたんだし……。

 出勤途中で立ちくらみがした、あの日の朝にもどりたい。

 切実にそう願っていますよ。ほんとに。

 ところで、日本は昭和二十年、戦争に負けたっていうのは本当なんでしょうか?

 私は勝ったと学校で教わったんですが……。


   第八十八夜 いわくつきの掛軸

 うちは旧家なんてもんじゃないんだがな、ひいじいさんの代まで金持ちだったらしくて書画骨董がまだなんぼか、残ってるんだ。

 たいしたもんはないと思う。おやじが確かに古伊万里だって聞いていたのを鑑定してもらったら、偽物だったしな。酒のつまみがわりに、血を吸った刀だとか、家康が着たよろいだとか、そんなのがあるってヨタ話をしてるくらいなもんで、みんな無造作に蔵の中に放り込んであるよ。

 でもな、ただひとつ、まちがいなく本物だってのがあるんだ。作者がどうとか、時代がどうとかじゃない。

 まちがいなく、いわくつきの掛軸。

 寒山と拾得って知ってるか?

 昔、大陸にいた坊さんだな。寒山、拾得という、ふたりの坊さん。こいつらアホみたいなことばっかりしてたんだが、その行動がいちいち悟りに近い、菩薩の化身だろうってことになった。

 そのふたりを描いた掛軸ってわけさ。

 いやいや、そもそも寒山と拾得を描いたもんなんて、たくさんある。いろんな人が描いてるし、有名な画題だから印刷されたものも数えきれんだろう。

 うちのは確かに手書きだが、落款がない。ああ、ハンコを押しとらんのだ。署名もないから、まんいち、有名な絵師が描いたとしたって証明もできん。市場価値はゼロさ。

 それでもわが家にとっちゃ、かけがえのないもんなんだ。浅野内匠頭が切腹したときにつかった短刀とか、信長が吸ったキセルとか、そんなホラ話のネタにするようなもんじゃなくて、この掛け軸だけは大事にされてるんだ。

 ほら、見てみろよ……ちょっと暗いか。電気をつけよう。

 床の間に掛けてあるだろう、ちゃんと。お供えも毎日してある。花も飾ってな。

 気持ち悪いって? 失礼なやつだなあ……おい、指でさすなって。

 右が寒山で、左が拾得。寒山は巻物、拾得は箒を持ってることが多いんだ。ひとつ、勉強になったろう?

 茶色っぽいところは、血を混ぜてるらしいぜ……いろんな描かれ方をしてるから、こんなのもいいだろう。

 どうした? 冗談だって。絵師に、ちょっとでも信仰心があったら、そんなことするわけないって。

 そうか、じゃあここまでにしとくか……。

 まずな、寒山と拾得を並んで掛けてあったろう? これを逆にすると、身内に不幸が起きる。大掃除なんかのときには注意を払わねばならん。

 寒山の右目と、拾得の左目がまれに閉じていることがある。そうなってから一週間以内に、身内に不幸が起きる。

 寒山の左目と、拾得の右目が閉じていることがある。そうなってから一週間以内に、身内に不幸が起きる。

 不幸ばかりだって? そうだよ。ただ……いや、違う。おいおい、そうじゃない。そんなわけない。別に年がら年じゅう不幸に見舞われてるわけ、ないだろう。何をいってるんだ、おまえは。うちだって、だいたい年齢順に亡くなってるよ。

 ただ、不幸がある前に知らせてくれるってこった。

 最近は医療の方が追いついてきたけどな、医者が余命三か月とかいっても「必ず一週間以内」には負ける。

 ずいぶん昔には坊さんを呼んで、お経をあげてもらってたんだけどな、そのうち坊さんが気味悪がってこなくなった。その坊さんももう死んでるけど。いや、掛軸とは関係ない。ありゃあ寿命だろうな。

 いや、わかるよ。ニヤニヤした顔つきとか、目つきとか、確かに気持ち悪いかも。現に小さい子が見るたび、必ず泣いてるもん。

 この家って古いばかりで、部屋はたくさんあっても実際のところあまりいい部屋ってのは、ないんだ。

 それで寒山と拾得の掛け軸の掛けてある部屋で、誰かが寝ることもある。親戚が集まったときや、お祭りの当番にあたって会議を開いたときなんかにな。

 でも、あまり寝られないらしいな。小さい子供がふたり、布団のまわりを走りまわる。枕を突然、抜かれる。身体の上に乗っかってくる。起きたときには畳の上にいて、布団は畳まれていたってこともあったな。

 座敷わらしが掛軸に憑いてる、なんてやつもいたが、ありゃ家に憑くもんだろう。掛軸には憑かんのじゃないのか? じゃあなんだ、水子の霊か? どっかの子供の霊か? そんなの考えたって結論は出ないんだし、結論めいたもんが出たって、ただそれで納得できるってだけの話だろう。

 ずいぶん遅くなってきたな。酒なしで、こんな時間までよく話したもんだ。

 あんた、どこに泊ってるの? ……ああ、そりゃまたずいぶん遠くに宿をとったもんだ。バスはもうねえな。車で送ってくか、タクシーを呼ぶか。

 どうせ晩飯食ったんだし、遠慮することないさ。

 なんなら、泊まってくか? ちょっとこれから、晩酌につきあってもらってさ。

 寒山拾得の間、あいてるぜ。


   第九十夜 うずくまるもの

 あなた、雨は好きかしら?

 ……そう、嫌いなの。それは残念ね。わたしは雨が好きなの。

 細かい粒が糸のように降る、春先の雨。

 夕立のざんざ降り。

 しとしとと紅葉に降り注ぐ、時雨。

 手の指先やつまさきまで凍えてしまうような夜の氷雨。

 わたしは、どれも好きだわ。晴れの日よりも、季節が感じられるから。

 雨が嫌いだというんならあなた、雨の夜はなるべく外に出ない方がいいわね。

 これからお話しするのを聞いたら、そう思うでしょう……ええ、これは雨の夜にあったお話。

 その日は昼間からもう曇り空で、ときどきパラパラと降ってはいたの。

 季節はちょうど今くらいの時期……秋の中頃よ。晴れてたら、さぞかしお月様が綺麗だったでしょうよ。

 でも、その日はあいにくの雨。日暮れ頃から雨が本降りになったの。

 ときどきザザーッと降ったり、勢いが弱まったりするけれど、止むことはなかった。

 わたしは学校が終わってから、友達といっしょに塾へ行ったの。

 その帰り道でのできごとよ……ソレに遭遇したのは。

 傘をさしてね、他愛のないおしゃべりをしながら、並んで歩いてたの。

 そうしていつもふたりで帰るのは、もちろん家が近くにあるからなんだけれども、途中でその子がちょっと本屋さんに寄っていきたいっていうからつきあって、それでいつも通るのとは別の道を歩いてたのね。

 だから、帰り道っていっても、ふだん歩いてる道じゃなかった。

 ソレは、電柱に向かいあって……わたしたちに背を向けて、しゃがんでた。

 夜目にも鮮やかな、着物姿でね。赤い色調で、花模様……とても綺麗だったわ。振袖じゃなさそうだけど、晴着なのはまちがいない。飲み屋さんなんかの、お仕事で着てる人じゃない。

 だいたい、格子柄の黄色の帯を文庫にしめてて……ああ、そうね。いちばんよく見るのはお太鼓ってしめ方だけど、そうじゃなかったの。文庫ってのは、まず年配の人はしない。若い人がする。

 よく知ってるって? そうでもないよ……おばあちゃんが着付の先生だから、くわしいだけ。ほんのちょっとだけ、ね。

 それに、髪だってちゃんと結ってた。下の方で結うと落ち着いた感じに、上の方で結うとあでやかな感じにっていって、ソレは高めに結ってた。

 つまりね、改まった席には向いていないのよ……もっとも、最近は着物着ても髪を結わない人さえいるくらいだから、割といい加減だけれども。

 なぜこんな説明をグダグダとしたかというとね……明らかにおかしいからよ。

 雨の夜だっていうのに傘もささず、電柱に向かって、うずくまってるなんて。着物も濡れるし、クリーニングするにしたって、とっても高いのよ。

 絶対、ヘンでしょ?

 なにかあったにちがいない、って思うじゃない。

 あなたがその場にいたら、どうするかな?

 関わりあわない方がいいって思うかしら……それとも、心配して話しかけようとするかしら?

 わたしはね、話しかけようと思ってた。でも、友達に止められたの。

「どうしたのかな?」っていった瞬間、やめて! って。

 えっ、て友達の顔を見たら、怖い顔をしてる。

「このまま行くよ」

「どうして?」

 でも、あとでいうからって教えてくれない。

 小走りになるし……しかたないから、そのままソレの横を通りすぎたのよ。

 ちょっと行った先で、友達がこういったの。

「ねえ、遠回りになるけど、あっちから帰らない?」

 指さした方の道は、わたしの家にはかえって近くなるんだけど、友達の家からは遠くなる。いつもは友達の家まで行って、バイバイしてからじぶんの家に帰ってたの。

 表通りから入ったら、友達の家の方が近かったからね。

 わたしは深く考えずに、いいよって答えた。

 そのままわたしの家の方に向かって、ちょっとしたらね……いたのよ、また。ソレが。

 ううん、ちがうの。最初に見たときとは、別な場所よ。いつも通る場所だから、まちがいない。

 でもね、そう思ってたのはわたしだけだったのよ。

「ああ、これはまずいかも」って、友達がいってね、立ち止まった。

 見たら、顔色がもう真っ青になってて、唇を噛みしめてる。

 だいじょうぶって聞いたら、わたしはだいじょうぶだって返事。

「あれね……わたし、最近よく見るんだけど、話しかけたらひどい目にあうって。今までは、こんなことなかったのに……」

「こんなことって?」

「なんども現れるってこと。一回見たらその日は終わりだったのに……雨の晩によく現れるらしいんだけど、くわしいことはよくわからない」

「ひどい目って?」

 友達は答えなかった。さっさと歩きはじめて、ソレの横を通過して……またもうちょっと歩いた先にね、またソレがいた。

 わたしはそこで初めて背筋が寒くなったの。

 さっきは、なんとかわたしたちを先回りできるくらいの場所だった。

 でも、こんどは絶対に無理な距離だったから。

 ソレの脇をまた通過すると同時に友達の足がどんどん速まってって、ほとんど走ってるくらいになってね。

 わたしは鈍足だから、だんだん友達から遅れちゃって、待ってって声をかけても、友達はふりむきもしない。

 いちどだけね……わたし、振り返ってソレを見てみたんだ。走りながら。そしたら、やっぱりわたしたちに背中を向けてた。

 最初は電柱の方に向かっていたのに、ソレの右側に電柱があったの。もしかすると、顔を見られたくないのかもね……もっとも、そんなことしてるから友達に離されたんだっていわれれば、それまでだけれども。

 コースは変わらなかった。そうやって、わたしが友達を追いかけるかたちになっても。

 それからすぐよ、わたしの家の前に着いたのは。

 わたしは久しぶりに走ったから、ゼイゼイいって、肩で息をしてた。

 走ってる途中で鞄が当たってたんでしょう、身体のあちこちが痛かった。

 でもね、友達は足を止めなかったの。わたしの家の前を通過したまま、走っていっちゃった。

 そのときにはもう、友達は百メートル以上、離れてた。

 わたしはさっきいったように、もう限界……それでも、追いかけた方がよかった。

 今でもそう思うわ……鞄も傘も放りだして、追いかけるべきだった。そうしたら、身軽になって追いつけたかもしれない。

 たとえ追いつけなかったとしても、努力はすべきだったのよ。

 うん……そうよ。そうなのよ。わたしはね、そのまま家に入ったの。

 濡れてたからシャワー浴びて、ごはん食べて、そこに帰ってきたお父さんとちょっと話して……それでようやく友達に、連絡したの。

 でも、電話に出なかったし、かけ直してもこなかった。メールの返信もなかった。

 それきり。そう、それきりよ。友達は消えてしまったの。どこかへ……。

 どうしてかなんて、わからない。

 わかるわけがない。

 家には戻らなかった、とは聞いてる。

 でも、それだけ。

 警察の人にも事情を聞かれてね、話したのよ、このこと。

 でも、ソレが関係してるかどうかは調べてみようって程度でね。

 なにか事情を知る可能性のある、不審人物。そんなふうに思ってるんじゃないかな。

 わたしは、ソレが実体のある人間とは思えないんだけど……でも、そういっても信じてもらえなかった。

 まあ、当然よね……わたしはこうして、友達をひとり失った。

 そして、なにかできたんじゃないかと、今でも後悔してる。

 警察の人にはそんなこと、どうでもいいのよ……だいたい、なんども事情を聞かせてくれっていわれたらね、疑ってるなってさすがに気づくわよ。

 あなたは、どう?

 わたしのことば、信じられるかしら?

 それとも、わたしが友達をどうかしたって思ってるかな?

 こんなことがあっても、まだ雨が好きだっていう、わたしの神経を疑うかしら?

 まあ、どれでもいいわよ。

 とにかく雨の晩は気をつけた方がいい。

 怖い話が聞きたかったんでしょ?

 いいたいのは、そういうことなんだから。

91話~第99

   第九十一夜 角の生えた藁人形1

 初めは、そんなに気にしていなかったんですよね。これって、よくあることなんじゃないの、って。

 でも、それはほんの最初だけのことでした。

 そのとき四歳だった私の息子が、夜中に起きて、壁に向かって何かをしゃべっているのを見つけたんですよね。

 うん、そうね。そうです。ぜんぜん起きているときと変わらない感じで。私はたまたまトイレに行く途中で、息子の声を聞いたんです。戸をしめていたのに聞こえるくらいだから、かなり大きい声でした。

 私の部屋の方はドアをいつも開け放しにしていましたから、もしかしたら息子の声で目をさましたのかもしれません。

 息子の部屋に入ってみると、息子はベッドを下りているし、ときどき笑いながら会話してるようなんで、この子はまあ、寝ぼけちゃって……と思いながら、声をかけたんです。

 何やってるの? ってね。そしたら息子は、

「〇〇さんと話してる」っていうんです。

「〇〇さんって? 誰もいないじゃない」

 確かに、そんな人は見当たらない。夢でも見てるんじゃないかって、息子の顔をのぞきこむと、見上げるように壁を見ていて、まるで誰かがそこにいるように話している。

 今日も幼稚園に行ったよ、とか、お昼にウィンナーを食べたよ、とか……何か聞かれて、それに返事をしているようでした。

 というのも、息子はけっこうな頻度で「わかんない」というんです。誰かに何か尋ねられて、それがわからないとなると、あまり考えもせずに「わかんない」と答える。そんな傾向があったんです。

 そのときも「わかんない」を連発していたので、ああ、誰かに何か聞かれてるみたいだって思って、薄気味悪くなりました。こんなとき、夫がいればと思いました。あいにく単身赴任中だったんです。

「そんな人、いないよ。もう寝ようよ。寝なきゃダメよ」と、私は恐る恐る声をかけました。

 壁には本当に何もなかったんです。ポスターなんかも貼っていないし、本棚も家具もありません。

 何度いっても息子の耳には全く入っていないようだったので、両脇の下に手を入れて、抱えこむように無理やりベッドにもどしました。

 なぜか息子の身体は根を張ったように重くなっていて、いつもの二、三倍くらいに感じられました。

 私も怖くなってきていたので、手足をバタバタするのを押さえつけるようにして、何とか布団に入れたんです。

 でも、このままこの部屋に息子を置いておいてよいのだろうか、私の部屋で寝かせた方がいいんじゃないかってのは、ありました。

 いえ、しばらく見守ったんですよ、もちろん。

 息子は、すぐに寝入りました。

 さっきまでのは何だったんだってくらい、あどけない寝顔で。

 壁をもう一度、見ました。怖かったけれど、そばに近づいて、何かが人の顔に、人の姿に見えるんじゃないかって、角度を変えて見たり、息子の座っていたところから見上げてみました。

 でも、全く変わったところはありませんでした。

 一時間くらい、そうしていたでしょうか。

 安心してじぶんの部屋にもどったはずなのですが……やっぱり、となりの息子の部屋が気になって、何度か起きるのをくりかえしつつ翌朝を迎えました。

 いえ、聞きませんでしたよ。怖くて。息子が憶えていたかどうか、確かめませんでした。憶えていないなら夢を見ていた、寝ぼけていたで済んだわけですけれども、憶えていたとしたら……。

 翌日の晩も、息子は大声で壁に向かって何かを話しかけていました。

 私は寝入りばなだったのですが、すぐに起きて、息子をじぶんの部屋へと移動させました。

 その日はそれで済んだのですが、次の日の夜には、息子は私の部屋の寝床を抜け出して、また壁に向かっていました。

 四歳の子供が、ですよ? 平均よりも発育が遅くて、ちょっと背伸びしないとドアノブに手がかからないくらいなのに、何とかドアを開けて廊下に出て、今度は息子の部屋のドアノブを……。そこまで息子をかりたてる何かが、私には怖くてたまりませんでした。

 鍵はかかるようになっていないんです。どっちの部屋も。

 別な部屋で寝させてみたり、部屋の出入口に障害物を置いたりしましたが、全く無意味でした。

 私が眠りにつくと、しばらくしたら息子は起き出して、やっぱりじぶんの部屋に行き、壁に向かって誰かと話している……。

 そんな日が何日も続いて、私は参ってしまいました。

 息子の方は、それ以外はふだんと変わりなかったんです。ごはんもきちんと食べるし、幼稚園にも楽しく通っているようすでした。

 私は思い余って、家にあるいちばん大きいハンマーを持って息子の部屋へ行き、壁を壊しました。

 なかなか壊れませんでしたが、ときどき休み休みしつつハンマーを叩きつけているうちに、ようやくボロボロと壁面が落ちるようになりました。

 どうやら壁の向こうにちょっとした隙間があるようで、配線のたぐいが上の方にあるのが見えました。

 そこで私、見つけちゃったんですよね、これを。

 何かが打ちつけられてる、何だろうって、まわりの壁面をよけてみると、これがあったんです。

 これ、何なんでしょうね。

 ちょうど息子が見上げていたらしいところに、これがあったんです。

 やっぱり、これのせいですよね? これがなくなったら、息子は元に戻りますよね?

 見かけは藁人形みたいで不気味ですが……。よくいう藁人形とは、ちょっと違うような気もします。

 角の生えた藁人形って何か、いわれのあるものなのでしょうか……。知りたいとも思いませんけれども。

 いいえ、ハウスメーカーに聞いてみたんです。注文住宅で、こんなことがあるなんてって、クレームのひとつもいいたいくらいでしたから。そしたら、工事を担当した業者がつぶれてしまって、連絡先がわからないっていうんです。

 だから、何でこんなものが壁のうしろに打ちつけられていたのか、わからないんです。

 これ、お焚き上げっていうんですか?

 引き取ってもらえますよね?


   第九十二夜 角の生えた藁人形2

 そりゃあ、最初からヤバいもんだって、わかってましたよ。ほんとに。

 でも、仕事なんだし、しょうがないじゃないですか。

 私が勤めてるところって、お焚き上げもやってるんだから「これはまずいだろうって」ってもの、確かにきますよ。

 明らかに血を吸ってる掛軸とか、死臭を放っている着物とか。

 ただ、それって、まれなことなんです。

 長年勤めている人だって、何十年に一回あるかないかって言ってましたよ。

 私、受付を担当しただけなんですよ。

 ええ、その人、取り乱してる感じでしたよ。筋道は通ってたけど、わけのわからない話をまくしたてるし、申込書に名前を書いてもらったら、字は震えてるし。お金もらったら規定の料金以上だったけど、おつりはいらないって逃げるように……ほんとに、逃げるように帰ってしまった。

 そうして私は預ってしまった。

 角のある藁人形を預った。

 それだけなんですよ。ほんとに。

 いやいや、くりかえしますけど一度、見ただけで、まずいもんだって気づきましたよ。鈍い私でも。

 同じ部屋にいると息苦しくなるし、見てたら鳥肌がたってくるし。

 あずかったものを一時まとめておくスペースがあるんですが、そこには置きませんでした。そこ、同じ部屋ですし。

 ある程度まとまったら、別室に移動するんです。その別な部屋へすぐに持っていきましたよ。触るのもイヤだから軍手をはめてね。別な人が持ってきたのがダンボールに入ってたんで、藁人形を放り込んで。ついでに軍手も。

 それでもう、忘れてたんです。仕事が終わって、家に帰って、ごはんつくったり、掃除してたりしているうちに忘れてたんですよね。

 そんなもの、記憶から消去してしまいたかったのかもしれません。

 そのままお風呂に入って、あすの準備を済ませて布団に入って……と、ここまでは、いつもどおりだったんですが。

 夜中に、目が覚めたんですね。

 私は壁に向かって、何かを話しかけていました。

 いえ、壁には何もないんです。部屋の出入口のすぐ横で、家具も置いてないし、ポスターのたぐいを貼ってあるわけでもありません。

 その何もない壁が、ふと気づくと目の前にあった。

 そして……黒ずんだ藁人形が、壁にかかってたんです。

 いえ、釘で打ちつけられてたんじゃなくて、画びょうで刺されていました。

 よくあるタイプの画びょうではなく、針の部分が長かった。

 それが、顔、胸、腹に刺さっていた。

 まぎれもなく昼間、仕事中に引き取った藁人形でした。

 この時点でもう、私は私の正気というものに自信が持てなくなったんです。

 もしかすると、藁人形を一時保管する部屋に置いたつもりで、無意識にカバンにでも入れて、持ってきたのかもしれない。

 そして、画びょうで寝室の壁に刺しておいたのかもしれない。

 工事現場の事務所でつかうような大きい画びょうなんて、家にはないはずでした。

 私は仕事の帰り、それをどこかの専門店か何かで買い求めて、三本だけ藁人形に刺して、残りはどこかに捨てたんじゃないか。

 いや、誰か私を嫌ってる人が藁人形を嫌がらせのために持ってきて、うちに無断侵入して……。それにしても、鍵をかけていたし、窓も閉まっていたし……。でもいったい誰が……。

 色々なことが、つぎつぎに頭に浮かんできて、おかしくなりそうでした。

 とにかくあすも仕事なんだからと、リビングに布団を移動して何とか寝ました。

 深い眠りにはつけませんでしたが、ときどき意識を失って、ちょっとしたら目がさめて、壁の前にいるんじゃない、布団の中にいるのを確かめて安心する、というのをくりかえしているうち、朝になりました。

 寝室に行って、おそるおそる見てみると……やっぱり、それは壁にありました。

 夢じゃなかったんです。

 それだけ確認すると私は急いで支度をととのえて、出勤しました。

 会社について最初にしたのは、藁人形の所在の確認です。

 ええ……やっぱり、私の置いた場所に、藁人形はありませんでした。

 藁人形にふれるときにはめた軍手の方は、残っていたのに。

 ですから、これは勝手に私の家に移動してきたか、誰か私に悪意を持っている人が家に侵入して壁に……いや、どっちでもいいんです。とにかく、これが私に近づいてこないようにしたいんです。

 引き取ってもらえますよね? もちろんお布施は払いますから。

 ああ、この藁人形を持ち込んだ人の家に、行ってみたんです。連絡がとれないので。

 何とか返せるかもしれない、なんて甘いことを思ってたんですが。

 でも、家にもいなくて、鍵がかかっていました。いちおう携帯にかけてみたら、家の中で着信音らしい音がしていました。何度かかけるたびに、その音楽がけっこうなボリュームで聞こえる。玄関か、あがってすぐのところか、近くに携帯があったんでしょう。

 その音楽が『夢見るシャンソン人形』なんですよ。

 おあつらえむき、じゃないですか。

 そんなバカなって思って、何回もかけたんですよ。

 でも、やっぱり『夢見るシャンソン人形』だったんです。まちがいなく。フランス・ギャルの唄ってる、まあ原版ですよね。

 それが聴こえてきていた。

『夢見るシャンソン人形』って、原詞では蝋人形らしいんですが……。

 いや、いや。話しすぎました。もう、これくらいで。

 とにかく、これ……お布施です。ここに置いておきますので、どうかお願いします。

 それじゃあ、失礼します。


   第九十三夜 角の生えた藁人形3

 どうしてうちに持ってきたのか、わからないんですよね。

 檀家さんでもないし、うちは別に名前の通ったお寺ってわけでもないのに。

 一般の人には、檀家寺とか祈祷寺とかいっても、ピンとこないだろうし。まあ、近くの寺だからって、持ってきたんでしょうね。

 いやいや、ちゃんとお経は読みましたよ。儀軌にのっとってね、そう、次第がありますから。

 おたくの会社に持って帰って、すぐ火入れしてもらって大丈夫。

 だいたい、見るからに念のこもっているような、忌まわしいものですからね、これは。こっちに何かあっても嫌ですし。念入りに供養しました。

 ああ、箱は開けないでください。開けない方がいい。そのままお持ちください。

 まちがいなく、くだんの藁人形、入ってるから……振ったり、ゆすったりもしない方がいいね。

 よけいなお世話だけど、あなたまだ若いんだから、こういうことからはなるべく離れて、何も経験しない方がいい。そういう機会のない方がいい。やっぱり取り返しのつかないことって、ありますから。

 私も霊感があるわけじゃないんだけど、長年やってると、たまにはね、こういうことがある。

 人が亡くなったのを弔って生活させていただいてるわけですから、その人の思い、感情のようなものが伝わってくるようなことはありますよ。

 でも、これはね……ふつうに亡くなった方の気持ちが残っている、そんな生易しいもんじゃない。

 悪意を感じるんですよ。

 いつのものかは、わかりません。この角の生えた藁人形そのものは、もちろん物質なんですから、何百年も前のものではないでしょう。

 せいぜい数十年くらいでしょうが……それにしても、こんなふうに黒ずんでいて、かろうじて藁でできているってわかるくらいで……誰が見ても禍々しいもんだって、わかるくらいですよね。

 脅かすようで申し訳ないけど、正直なところ私の供養が、ちゃんとできているかはわからないんです。

 いやあ……くりかえすけれども、きちんとやりましたよ。

 きちんとね。

 でも、怒った人をなだめたのが、かえって怒らせた……。人間関係だって、そんなこともあるんだから。

 だからこうして、封印したんです。万一のことを考えてね。

 そういうものなので、この箱は絶対に開けないでください。

 直接、手に触れたり、見たりするのさえ、よくないはずですから。

 いちおうお話ししておくと、お経を読んでいる途中、確かに奇妙なことがあった。

 ほら、この壇の上に置いておいたんだけど、そこでね……何だか大きくなったり、小さくなったりするんだ。いや、そこまでじゃない。呼吸してるような感じで、ふくらんで、しぼんで、っていう方が近いかもしれない。

 それに合わせて、御本尊のろうそくが両方とも、一気に燃え上がったんですよね。うん、これくらい……床から二メートルくらいかな。このろうそく、五十センチくらいだから、けっこうな炎でしたよ。

 読経中にろうそくの炎が、って、けっこうあることなんですよ。でも、そこまで火があがったことなんてなかった。

 私はこのろうそくの炎、御仏からの働きかけ、お示しだと思ってるんですがね。

 今回は、どうとらえたらいいか……。「おまえの供養を確かに受けたぞ」というのとは、違っているかもしれない。

「これはまずいものだから、気をつけろ」と、お示しくださったのかもしれない。

 いやいや、おどかしてすみませんね……恐らくこれは、浄火で燃やせばそれで終わりでしょう。

 ただ、火ですからね。実際に火を扱う人には、くれぐれも気をつけて。


   第九十四夜 角の生えた藁人形4

 どうして、これがもどってきたのか……。

 本当にもう、まいっちゃってるんです……。

 いいえ、確かに私も、お焚き上げの業者にただこれを置いてっただけなんで、あとは逃げるように帰ってきたんで、ちょっと悪いなとは思ったんです。本当に、そう思ってたんです。

 それにしてもですよ、その業者、絶対に適当なことをしたに決まってます。

 え? もどってきたっていうのは、ありえないってじぶんではわかってるんですけど、これが、この人形が、壊した壁の中にあって。最初に見つけた壁のところに、箱に入った状態であって。

 いいえ、落ち着いています。落ち着いていますよ。

 箱の部分は接着剤か何かで、ベッタリくっついたようになっていました。

 はい、ふたは開いていました。下に落ちてました。

 この藁人形、こう……手を広げた状態で、壁、じっさいには箱の中ですけれども、背中をもたれるようにして立っていました。

 ああ、思い出させないでください。思い出せないで。本当に、思い出させないでください。

 無理は承知でお願いします。本当に、お願いします。

 このままだと私、どうにかなっちゃいそうで。いや、もうどうにかなってるかもしれません。

 人形が話しかけてくるような気がするんです。いまも。そうです、いまもです。話しかけているような気がする。箱の中で、何か言っているような気がする。

 フランス語のような気がするんです。

 いままで習ったことなんて、ないんですけれども……。なぜか、フランス語なんじゃないかって気がします。

 いまは、そんな気がするだけで済んでいます。でも、そのうち絶対に何を言ってるのかわかるようになりそうで、怖いんです。

 はい、私は子供をつれて、もう家を出ています。だって、またこの藁人形がもどってきたら、怖いじゃないですか。

 もどってくるとしたら、私の家に決まってるじゃないですか。

 ああ、ほら、いま……聞こえますか?

「ンダスケ、マイネ」って言ったような気がするんですけど、これ、私の気のせいですよね?

 何も聞こえてないですよね?

 どうして黙ってるんですか?

 さっきからそんな顔して……何とか、言ってください。

 まさか、本当にこの藁人形、しゃべってるんじゃないんでしょうね。

 いま、こうやって……これが何か言っているのが、あなたにも聞こえてるんだとしたら、これは本当にまずいものなんでしょうね。

 私だけが聞こえてるんだとしたら、ストレスで幻聴が聞こえだしてるとか何とか、そんなところですよね? もしかしたら統合失調症にかかっちゃったのかもしれませんけど。

 いいえ、私が病気だったとしても、そんなこともやっぱり、どうでもいいんです。

 とにかく、これをどうにかして欲しいだけなんです。

 あなた、陰陽師なんでしょう? 本物の。

 ネットであなたがそう言ってたから、ここにきたんです。

 何とか流の何代目宗家とか何とか……あれ、嘘なんですか?

 そうですか。本当なんですね。絶対に、本当なんですね。

 本物の陰陽師。それなら、この藁人形を置いていっても、きちんとしてくれますよね? 少なくとも、私や私の家族に何かが起きるようなことはもうありませんよね?

 お金なら、ここに用意してあります。ネットで調べて、これくらいが相場だって書いてあったもんですから。

 いやいやいや……そんなことどうでもいいんです。方法はどうでも。

 はいはい、祝詞でも式神でも、好きなようにしてください。

 とにかく、私のところに二度とこれが、もどってこなければいいんです。そうして欲しいんです。

 これがもし私のところに、またもどってきたとしたら、訴えますよ。

 偽物だって。

 詐欺だって。

 ネットでも、あちこちで言いふらしますよ。

 本当にもう……これのせいで、私はもうめちゃくちゃなんです。

 そろそろ子供を迎えに行かなきゃならないんで、このへんで……どうか、よろしくお願いします。

 本当に、お願いします。


   第九十五夜 角の生えた藁人形5

 くだんの藁人形が、これです。

 あまりじっくり見ない方がいいですよ。私だって、こんなに禍々しいもの、そうそう見るもんじゃありません。

 いいですか? もう、ふたを閉めますよ。

 いちどどこかのお寺さんが封印したらしいんですけど、それを破ったらしくてね。ええ、じぶんで。

 そして、最初に預けた人のところに戻ってきたっていう……。

 何でも、夜中にその人のお子さんが、壁に向かって話しかけてた、っていうんですね。それが毎晩つづいて、どうもお子さんの方も心身とも変調をきたしてきたっていうし、その人も壁に何かあるって、思い切って壁を壊した。

 そうして見てみたら、これが壁の隙間にあったと。

 その人、お焚き上げの業者さんに持っていったらしいんです。

 その業者の名前を聞いて、たずねてみたところが……その業者さんは、お寺さんに持って行った。やっぱり最初の人と似たようなことがあって、これはもう、じぶんの会社では処理できない、そんなことして何かあったら困るからってね。

 ところが、お寺さんの方では、きちんとやったのかどうか、どうも供養にも何にも、ならなかったらしい。その人が悪いんじゃなくて、この藁人形が悪すぎたんです。

 それで、最初の人のところに戻った、とまあ、こういう経緯のようですね。

 そうですか。これは結局何なのか、とおっしゃる。

 いえいえ、誰にでも好奇心て、ありますからね、いいんですよ。

 私の見立てでは、すでに亡くなった方の魂をとどめておいたもの。おそらくは、子供の魂、最愛の子供の魂を。

 はい、ずいぶん昔のものでしょうね。昔は子供のうちに亡くなってしまうのが、当り前とはいわないけれど、今よりもずっと多かった。

 その上に、「家」というものがありますからね。

 その家の後継ぎが欲しい。ひとりだと不安だから、二人目、三人目と子供をつくる。女の子しかいないなら、婿を迎える。子供がいないなら、養子をとる。子供ができないなら、離婚する。みんな「家」を続けるため、というのが大きな理由でしょう。

 この藁人形、亡くなった方の魂をよらせるために、これは角が生えたようにつくったんです。

 あくまで象徴的なもんなのですが、鬼には角が生えているでしょう? 日本の「鬼」というとそんなイメージがなくなってしまってますけれども、漢字の「鬼」はもともと幽霊という意味なんですよね。

 だから、大陸に由来する呪術がほどこされていた、そんな気がします。

 うん……いや、もう見ない方がいいでしょう。

 首の上の方に左右二ヶ所、切りそろえるときに飛び出させて、角のようにした……そんな形状をしている。ただ、それだけですよ。

 正直、私はこれをもう、もてあましてるんです。

 受け取るには受け取ったけど、これ……誰にも、どうにもできるもんじゃないですよ。

 どうにかできるって方がいるなら、教えてほしいくらいのもので……。

 ただひとつ私ができることは、これをできるだけひどいやりかたで処分する、ということです。

 われわれは神主さんと違って、ケガレにはとことん強く出られるよう修行してますからね。

 そのために、霊的に身を守る方法もずいぶん厳しくやっていますし、密教でも修験道でも、効くならなんでも使いますから。

 でも、これに関しては、できるだけひどい扱いをする。

 おまえなんか大事なもんじゃないんだ、ただのモノだ。だいたい、魂が入ってるなんて、たいそうなもんじゃない。古い稲藁がたまたま人の形になってるだけだってね。

 そんな侮辱にふさわしい処理の仕方をしますよ。

 ええ、近日中に。

 やっぱり夜中、何かしゃべってるようで、うるさいんですよ。今は静かですけど。

 たぶん、津軽弁か南部弁、青森のことばですけど、私、あいにくそっちの方言はわかりませんから。

 この場所よりも、もっといい場所にお移りを、なんてお願いしてる場合じゃないんで。

 そういうことをいって、聞いてくれるようなもんじゃないですね、これは。何たって、未熟な魂ですから。

 え? 聞かれてるようだけど、だいじょうぶかって……あなた、そんなこといって。

 これはただのモノ、ですよ。

 これがこっちの言うことを聞いてるなんて、あるわけないじゃないですか。

 ……とまあ、こんな感じで、しばらく取り扱います。

 そして、ちかぢかひどい処理をして、それで終わりですよ。


   第九十六夜 角の生えた藁人形6

 いや……お恥ずかしい。

 お恥ずかしい話ですが、失敗でした。

 全面的に、私のミスです。

 ただ、これに対してお経でも祝詞でも、式神にどこかへ連れ去るようにさせても……どうやったって無駄だと思ったのは、まちがいない……それが、いつわらざる心境というのか、最初にこれを見たときの私の第一感でした。

 これをできるだけ、ひどく扱って、ひどい処理の仕方をする……これが、戦略としてまちがっていた。

 ええ、認めます。認めざるをえませんよ、こうなってしまっては。

 私じしんはともかく、人様に迷惑をかける形になっちゃったんで……。

 最後にどうしたかというと、私はあれを、燃やせるゴミとして出したんです。ゴミ捨て場に。

 私の家から、ちょうど通りをはさんで向かい側にゴミ捨て場がありますから、収集にくるのを待って、見届けようとしたんですよね。

 先日あなたにお見せしたように、お寺さんが封印した桐の箱に入ってましたが、若干大きい木箱があったんで、それにおさめましてね、市指定のゴミ袋に入れて出したんですよ。

 はい、ひどい扱いをしてやるってことで、他のゴミもいっしょですよ。

 ところが、業者が収集にきたら……バッテンシールを貼って、置いていったんです。分別がまちがっています、っていう、あのシールです。

 モノとしては、木の箱に藁、ですよ。

 他のゴミにしたって、燃やせるゴミばかりです。

 私、業者のやつ、何を見てやがるって、ゴミ捨て場に行ってみたんです。

 私が出した袋は無事収集されたんであって、見間違えたんだ、他の人のゴミが残されたんだ……そんな期待もしてたんですけどね。

 でも、見てみたら私の出したゴミ袋だった。

 しかも、なぜかステンのパイプが入っている。

 いや、絶対私はそんなものを入れていません。私がその日の朝に出したんですから、出したとき、そんなのが入っていなかったのは断言できます。

 私がゴミ袋を置いてから、誰かがネットをとって、そのゴミ袋にパイプを入れたか。

 私の頭がおかしくなっていて、知らないうちにどのタイミングかでパイプを入れたか。

 この藁人形がパイプを引き寄せて、収集できないようにしたか……いや、あなたそれは……怪談の読みすぎでしょうよ。案外、そうなのかもしれませんが。

 それからパイプをとりましてね、次の燃やせるゴミの日に出したんですよ。あくまでこの方法でやるんだ、って、今から思えばやっぱり何かに憑かれてたのかもしれません。

 それで私は、家の窓から収集するのを見ていた。

 だいたいどのへんにじぶんのゴミを置いたか、わかりますから……ゴミ収集車がきて、作業の人が降りてきて、ネットをとり、ゴミをどんどん放り込んで……そんな様子を、いちぶしじゅう、見ていました。

 私が出したゴミ袋も、無事に収集車に放り込まれて……ああ、成功だ、よかった。

 こうするのがよかったんだって、思った瞬間ですよ……爆発したんです。

 ええ、爆発。パーン、と……。

 えってなって……収集車はもう動きだしていましたし、私はもう、窓から離れようとしていたんです。

 見ると、収集車の後部が燃えています。

 少し前に、ちょくちょく見かけましたよね。ガスを抜いていなかったスプレー缶が、ゴミとして収集されたときに、爆発することがあるって。テレビでね。

 ぱっと見たところは、そんな感じでした。

 でも、記憶は定かじゃないですが、スプレー缶の爆発とは、音が違っていたようなんです。

 私が聞いたのは、何かをアスファルトに叩きつけたような、乾いた音でした。

 よく、飛び降りした人が地面に叩きつけられたとき、そんな音がするっていうでしょう?

 そんな音でした。

 それから……うん、それからねえ……。

 まあ、あまり私の周辺も、いい状況じゃないんですよ。

 お恥ずかしい話なんですが、息子が心中未遂を起こしましてね。

 未遂は息子の方だったんですが、お相手が人妻でして、亡くなったんです。今日もこれから、その後始末に行ってこなきゃなりません。

 いや、まあ……そうなんでしょう。

 これは、子供に影響が出るもんなんでしょう。

 私はやっぱり、この藁人形をモノとして見ることができなかった……それが敗因です。修行不足だったんですね。

 ああ、藁人形はもう、物質としては存在しません。

 それがよかったのか、悪かったかはわかりませんが、もう他のゴミと一緒に処分されたか、爆発騒ぎのときに燃え尽きたかでしょう。その瞬間までは、さすがに見届けていませんけれども。


 でもね、ステンのパイプの方が残ってるんです。

 見たところ、新しいようだし、サビも汚れもないんですが……これを置いておくと、悪いような気がしてならないんです。

 五十センチくらいですかね。いったい、どこから来たんですかね……何の一部だったんですかね。

 燃やせないゴミで出すのはどうも……私には、これに藁人形の魂が移ったように思えますんで。

 同じ失敗はしたくないんです。

 じゃあそろそろ出かけますんで……今日はまず警察に行ってから、病院へお見舞いに行きます。はい、息子の後始末なんですよ。


   第九十七夜 角の生えた藁人形7

 どうして私が、こんな目にあわなきゃならないんですか。

 だって私は、被害者なんですよ。

 打ちどころが悪かったら、あやうく半身不随か全身不随かになるところですよ。

 ことの起こりは……といって、どこが「起こり」かちょっと分かりかねるんですが……。

 私の妻が、学生と心中事件を起こしたんです。

 許せない。

 絶対に、許せない。

 人としてどうかしてますよ。どっちも……相手の男はもうすぐ退院だっていうんですから……死ねばよかった。死ねばよかったんです。そんなクソみたいなことを平気でするやつは。

 いや、すみません……まだ心の整理が……許せない……どっちも……いや、これは本題ではないので……それは、じゅうぶんわかってるんですが……すみません。

 相手のそのクソの親が出てきましてね、補償を……失礼。ああ、腹が立ってきて……ムカついてムカついて……うちにまだ妻のクソの祭壇があるんです。葬式だけは、やってやった。

 妻の実家も、態度が悪いし、成人した娘のしたことだからってね。おまえの育て方が悪いからだろうが! 責任あるだろうが!

 ああ、すみません……何度も何度も……はい、ありがとうございます。

 これを飲んで……気分を少し……落ち着かせます。

 いや、相手の親は平身低頭で、お詫びする態度も、なかなか立派なもんでした。この親から、何でそんなクソみたいなのができるんだって感じでした。

 でもね、ことがことでしょう。

 学生のころから、結婚して子供がうまれて……十数年でしょう、その時間が全部無駄だったように思えまして。

 うすうす気づいてたんですよ、不倫してるなって。それで、私も目立たないように監視カメラを仕掛けたんですが、さすがにうちにまでは連れ込んでいないようでした。

 あいつ、色々ばれないように、うまくやっていたんでしょう。もともと地頭のよい方ではありましたから。

 その、うまくやっていたことにも腹が立つんですが、いちばんはね、やっぱり子供をないがしろにしてっていうことですよ。

 はいはい、話を戻します……それで、相手の親は、勤め人の私の月給の一年分くらいの額を言ってきまして、これでどうか和解をって、ね。

 私は突っぱねたんです。

 どうやったって、それで気の済むもんじゃないし、結局金で解決かって。

 相当ひどいことも言いましたよ、ええ。何でおまえの息子の方が、生き残ったんだ。

 おまえ、どうやって息子を育ててきたんだって。

 でもね、いちいち受け答えがよかったんです。私も人の親だから身につまされる部分もあって……それにしても、息子が起訴されるかどうかって瀬戸際ですから、私と何とか和解したいんだろう、って思いますとね、素直にうんとは言えなかった。

 いや、何回も何回も来ましたよ。そのたびに立派な菓子折り持って。並ばなきゃ買えないようなのも、持ってきましたよ。

 仏前にも手を合せましてね。長いこと、祈ってました。

 心中してから、忘れもしない十三日目、つまり二七日のことです。

 私は葬式だけのつもりでしたけど、坊さんを断るのを忘れてたんですよね。初七日を繰り上げたんで、つぎは二七日ってことで、坊さんが来ちゃったんです。

 帰ってもらうわけにもいかんだろうってことで、上がってもらいまして。私の親戚が一家族、たまたまいましたから慌ただしいながらも、座布団を出したり、お茶の用意、お布施の袋の用意なんかしまして、それから法要が始まったんですね。

 たぶん、最後のお経だったんでしょうが、チンチン鉦を鳴らしてもう終わりそうだなっていうときです。

 突然、後頭部を殴られたんですよね。

 痛いも痛くないも……もんどりうって、倒れました。

 誰がやったのかなんて、そのときは考えられない。ただ、痛みにたえていました。

 あとは、わけのわからない怒りのようなもの、でしょうか……。

 私はそこに寝転がってるし、親戚一家はあたふたしてるしで、そのうち坊さんは帰ってしまいまして、次の週も来ることになったんですが、それはまた別の話で……。

 親戚一家が口を揃えていうには、突然このステンのパイプが現れて後頭部にぶち当たった、っていうんです。

 はい、このパイプです……変な模様のようなものが入っていますが、何の変哲もない、どこにでもあるようなパイプですよね。

 いやあ、そんなこと、あるわけないって思うじゃないですか。あんたのうちの誰かが私を殴って、口裏を合わせてるんだろうって。

 そこで、気づいたんです。

 妻が死んでからバタバタしていて、監視カメラをそのままにしていたんだってことに、気づいたんです。

 さっそく見てみましたよ、その場で……いや、びっくりしました。

 確かに、突然パイプが空中に現れて、私の後頭部を殴っている。私の倒れる姿がぶざまで、笑っちゃいましたけど。

 いや、病院にいってもそんなことはもちろん、言いませんでしたよ。工事現場で派手に転んで後頭部を打った、ってことにして。

 警察にも届けられませんよね、こんなの。監視カメラを提出して証拠映像ですって、何の証拠にもなりゃしない。

 結局やられ損なんですけど……これ、何なんでしょうね。

 何だか、人型に見えるシミがついていて、気持ち悪いんですけど……。

 また急に現れて、後頭部を殴られるのも嫌ですし。

 ゴミとして捨てるのもなんですし……こういうの、どうしたらいいんですかね。

 まだ変なことがあって、子供がね……夜中に、壁に向かって話しかけてるんですよ。人と話してるみたいに。

 最初は妻が……あんなのでも母親が急にいなくなったから、って思ってたんですが、どうも違うらしいんです。

 同年輩の子供と話しているような感じでね。妻と話しているような感じじゃない。

 パイプがいつのまにか、ふだん寝てる部屋に移動しているってのも、気になりました。

 これで息子の身に何かあったら……口にするのも、嫌ですが……。

 早く処分しなければと、思っています。


   第九十八夜 角の生えた藁人形8

 いや、まさかね……人生には三つの坂があるってね。奇妙な話もたまにこの業界、ありますけれども、こんなのはさすがに初めて。人生初ですよ。

 まさかですよ、ほんとに。

 うちに持ち込まれるのは、遺影とか仏壇とか、仏像、位牌なんかで、預ってからある程度たまったら、お寺さんにきてもらって、お経読んでもらってから焼却処分するんですが、まあ燃えないものはゴミと同じで、分別しますよ。

 それで、この前持ち込まれたパイプ。五十センチくらいで、ちょっと汚れてるくらいで新しいんだけど、これを焚き上げして欲しいってね、きたんですよ。

 まあ気になる人は気になるんでね、何でも。

 受付のおねえちゃんは、ふつうに規定にしたがって受け取った。

 一時保管場所の倉庫に移動しておいた。重いものなら何人かで運びますけどね、彼女はそのまま片手で持っていった。

 私は何の気なしに、その様子を見ていた。

 ちょっとおかしい人、というとお客さんをつかまえて失礼かもしれないけれど、たまにいますからね。

 そういう人がパイプを置いていった、手続きをしてお金を払って帰っていった。

 いつもとちょっと変わっていたところは、その人がずーっと何かをぶつぶつ呟いていたってことです。

 たぶん、実家は青森なんでしょうね。津軽か南部か、よくは分かりませんけれど、たぶん津軽弁じゃないのかな。私ももともと、東北の方にいたことがあるんで。

 受付のおねえちゃんとは、会話が成り立っていないようでしたけど、とにかく手続きと金を払う、ものを置いていく、それはとどこおりなく済んでいたんで、あんなことがなければ私だって、忘れていたはずなんですよ。ちょっと変わったお客さんがいたな、くらいでね。

 客商売ったって、私は奥の方にふだんいますから、そんなもんでしょうよ。

 最初はね、その受付の子が「パイプが受付にもどってくる、おかしい」って、言いだしたんです。

 何回かもどってきているっていうんで、私も持って行ったんですよ、一時置場に。

 ところが、やっぱり受付にもどってきている。

 何だ、これはって思いましたけど、見かけはただのパイプですからね。仏像とか絵とかだったら怖いけど、何回かくりかえしましてね。

 一時置場にパイプを持っていく。受付に戻ってくる。また持っていく。

 ちょうどお坊さんがきて供養が終わって、じゃあここから運びだすってタイミングで、その車にポンと置いたんですよ。そのパイプをね。

 それからはもう、受付にもどってこなくなった。

 ところが、それから数日たちましてね、私が所要で出ていて用事を済まして帰ってきたところ、事務所のようすがおかしかったんです。

 ふだん電気をつけっぱなしにしてるんですが、消えているし、受付にも誰もいないし、戸締りしないで勝手にみんな、帰りやがったなって思ったんです、最初は。

 でも、違ったんですよ。

 ブウウウー――ン、て感じの、蠅か蚊が飛んでるような音だと思ったんですけどね、音のする方に近づいてみると、明らかに人の話し声でした。

 何だよ、誰だよって叫びながら近づいてみると、うちの従業員がみんな揃って、壁に向かって正座していましてね……二列横隊で、計十名が、ですよ。

 全員がめいめい、何かを壁に向かって話しかけている。

 ときどき、あいづちも打っている。

 ウーン、と考え込んで間を取るやつもいる。

 目が死んでいるというか、半開きでね……ゾッとした。本当に、気持ち悪かった。

 とりあえず手前の若いやつの頬っぺた叩いて、おい、しっかりしろ、なんて怒鳴りながら、全員そうやって……よく、ビンタはビンタする方の手も痛くなるって言いますけど、本当ですよ。夢中で気づきませんでしたけど、一段落したら急に手のひらが痛みだしましてね、見たら、真っ赤になっていて手を冷やしました。

 従業員の方は、何も憶えていない。

 気づいたら、社長に殴られていたとか言って……まあ、暴力だの何だの言い立てるやつがいなくて、それはよかったんですけど。

 はい、どうも変なものに関わっちゃったらしいって、全員思っていたらしくて。

 こんなふうに全員、というのはさすがになかったけど、これまでには一人や二人、預ったもののせいらしい異変を、多かれ少なかれ経験していますから。

 ただ、そのときはパイプのせいだとは思いもよらなかったんです。

 何かが影響してるんだろう、でも今預っているものの供養が済むまで待とう、ちょっとまだキャパに余裕はあるけど、お坊さん呼ぶわ……そんな話になりました。

 でも、翌日お寺に電話したら、あいにくいつものお坊さんが都合悪い。葬儀がたてこんでるっていうんですよね。

 そこを頼み込んで、何とか三日後に来てもらえることになったんです。

 その間も、従業員が「壁が気になる」って言うんです。はい、正座して向かっていた壁です。

 事務仕事してても、受付をしてても、ときどき誰もが壁の方をチラチラ見る。何とはなしに、気になってつい見てしまう。

 私も壁の方を見ていて、他の従業員と目があって気まずくなったりね。

 おい、これは絶対、壁に何かあるんじゃないかって話になりますよね。

 それで、金がもったいないけど業者を呼んで壁を開けてもらったんですよね。

 何か配管が通っているのか異音がする、おかしいかもしれないとか何とか理由をつけてね。

 で、ウン十万かかるなと思いつつ壁を開けてもらったらば……中はコンクリでしたよ。電気の配線が上の方を通っているくらいで、もちろん空調でも水道でも、配管なんてもんはない。

 そのコンクリの壁にどうやって打ち付けたのか、錆びた釘に固定されるようになって……あのパイプがあった。

 ええ、間違いありませんよ。

 人型のシミのようなものが、ついていましたから。

 何でしょうね、これ、って業者さん、言ってましたけど。モニュメントか何かのつもりで、大工さんが置いたのかな、なんて。

 そのときいた従業員、そこでいっせいに壁から目をそらしましたよ。

 私も何なんでしょうね、ただのパイプみたいだし……なんてとぼけていると、その業者さん、異常ないのでもう少し様子を見ましょうか、っていって、パイプを持ってったんです。

 それからね……その業者さんと、連絡がとれなくなったんですよ。

 壁をふさいでもらうつもりでいたんですけどね。こんなんじゃ困るってんで、何かのついでに通りかかったんで会社に寄ってみたら、もぬけの殻だった。

 他の業者を呼んで、壁をふさいでもらって、それからは何もないんですけど。

 やっぱり、あのパイプが、よくなかったんじゃないかな……あの工事にきていたあんちゃん、見所があったのに、かわいそうなことしたなって思うんです。

 ちゃんと、いわくつきのパイプで、いつのまにかこの壁の中に……いや、こんなこと言っても、信じてもらえないか。

 じぶんでもスッキリしないんですけどね。あのパイプ、どこに行ったのか。

 今もその業者のところに、あるかもしれませんね。


   第九十九夜 角の生えた藁人形9

 ひととおり、お話は聞きましたが、最初に言ったように、うちにそんなものを持ってこられても、ね……。申し訳ないけど、そうとしか。うちじゃ、お焚き上げっていうのは、やってないんですよ。

 いやいや、一般の方のイメージってあるから。それはいいんですよ。神社ならどこでも、預ってお祓いしてお焚き上げして……っていうのを、やってると思われても、ああそうなんだろうなってね。

 最近は少ないけど、夏になると心霊スポットに行ってとりつかれた、お祓いしてくれって深夜にくる若い人もいますよ。

 うちじゃもう、相手にしませんけどね。インターホンが鳴っても出ない。こっちだって寝てるんだし、そういうのって自業自得ですから。

 話がそれました。

 あなたは、祖先から受け継がれてきた、恐らくは呪いがかかっている藁人形を、他人の家に置いてきた。

 職業が建築屋さんだからって、それをいいことに、壁の裏の見えないところに貼りつけるようにしてから、壁で覆った。

 ところが、最初に藁人形についていたものが、このパイプに移って、あなたのもとへ戻ってきた。

 あなたの話をこう聞いたんですが、そう理解して、よろしいですね?

 私にはとても信じられませんが……このパイプについているシミが、藁人形にそっくりだと。まあ、私にもそうは見えますけれども。

 今話した肝試しじゃありませんが、自業自得に思えますけどね。いや、失礼は承知です。

 それに、その藁人形……ですか? 姿を変えて、あるべき場所に戻った、ということかもしれない。それで何の問題があるんでしょうか。

 あなたの話が本当だったとしても、藁人形がパイプになって、あちこち移動している間のことは、私にはわかりませんよ。

 でも、これだけは言えます。

 藁人形でも、パイプでも、関わった人が何らかの……恐らくは嫌な感情を抱いたのはまちがいありません。

 はっきり言いますね。原因をつくったのは、あなたなんですよ。たくさんの人に嫌な思いをさせた張本人なんですよ、あなたは。

 お焚き上げはしてませんが、これをお祓いしろって言われたら、そりゃあしますよ。

 ご神前で祝詞を読んで、おおぬさ、あの紙を垂らしたやつでサラサラとやりますよ。

 あなたはそれで、気が済むかもしれない。

 スッキリして帰るかもしれない。

 でも、あなたがここに持ち込んだパイプ……もしくは藁人形ですか、それに関わった人の気持ちはどうなんでしょうね。

 これを持っていたら嫌な思いをする。だから、人に押しつける。そうして押しつけあって、今に至る。

 偉そうなことを言ってますけど、私だって嫌な思いはしたくありませんよ。

 家族がいますから、何か私の身に起こっても嫌ですし、それのせいで家族の身に災難が降りかかるのはもっと嫌です。

 私だって、これに関わった人の立場だったら、同じことをしていたかもしれない。

 あなたの立場だったら……やっぱり、あなたと同じことをしていたかもしれない。

 ただ、たまたま私の家には、代々伝わるそんな藁人形はなかった。

 あなたの家には、たまたまあった。

 あなたの責任は、その藁人形とやらを、どうにかしようとして人様に迷惑をかけたことだけに限られるような気がしますがね。

 ……私が言えるのは、これくらいでしょうか。

 どうですか? お祓い、していきますか?

 ……そうですか。まあ、そうですね……人をたどって謝ってまわるのは、現状では難しいかもしれませんね。

 神様に謝って何とかしてもらう……まあ、それもひとつの考え方でしょう。

 それで、お祓いのあと、どうしますか? そのパイプは。うちじゃ預れませんし……。

 はい、ではお焚き上げしているところを紹介しますか。

 北海道の相内神社、というんですが……。