今月の神道のことば
令和6年7月 明浄心
『続日本紀』宣命にあることば。
『続日本紀』は2つめの官選歴史書で、だいたい奈良時代をカバーしています。
宣命とは、天皇のおことば。すべて漢字で書かれていますが、語順はほとんど日本語そのもの。つまり、和文ということになります。
これに対し、漢文体で書かれているものは「詔」「勅」と言います。
では「明浄心」とは、何でしょうか。『続日本紀』の中では9例、このことばが使われています。
「明き浄き心」、明るく清らかな心で、朝廷に仕えている、仕える。すべて、そのような文脈です。
これに「正直」を加え、神主の一般的な免許の総称「階位」に取り入られているのは、けっこう知られていることでしょう。
神道においても、重要視されてきた徳目だということです。
しかし、明るい、清らかな心を保つのは、簡単なようで難しい。
将来のことを考えると不安だ。あの人がうらやましい。子供、親、仕事でつながりのある人との関係が、私の思うように行かない。
私たちの日常の悩みはさまざま。悩むからこそ人間。その対処を考えるからこそ、成長があるとも言えます。
ただ、人の本性は「明るい」「清らかだ」と、祖先が考えていたのも確かです。
悩みがある、心苦しい、不安から逃れたい……。そんなときでも、一時のもので、心の本当のところは「明るい」「清らかな」んだ、と心の片隅に置いておく。
それだけでも、ちょっと気持ちが楽になることでしょう。
令和6年6月 神感は清水へ月の宿るが如く、誠ある人の心には神明感応ましますなり
大意=誠実な人の心には、清らかな水の水面の上に月の姿が移るように、神様のお示しがはっきりと感じられます。
伴部安崇『神道野中の清水』にあることば。
伴部安崇は寛文8(1668)年生まれ、元文5(1740)年没。
江戸の人で、垂加神道という神道の流派の学説を学び、広く一般の人に「神道とはこんなものだ」「神道ではこう考える」ということを説きました。
『神道野中の清水』も、神道の考え方を分かりやすく、一般の人向けに書かれたものです。
誠実は美徳。誠実な人には神様の御加護があり、願いごとも叶えてくれる。
そう言われれば、そんな気もする……と、思われるかもしれません。道徳の教科書のようです。
誠実であるべく努めることは、日常生活を送る上で難しいこともあります。
しかし、人格を高めることは、実は「神」に近づくこと。神に近づくからこそ、神様のお示しも感じやすくなるということです。
このことばは、そうしたことを改めて教えてくれます。
令和6年5月 愼之莫怠也
大意=慎みをもって、励みなさい。
『日本書紀』景行天皇40年10月条にある、ことばです。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国に出征する途中、伊勢の神宮に参拝しました。
その際に会った、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授けられ、このように言われたのです。
「愼(慎)みて、怠ることなかれ」「慎みて、な怠りそ」と二通りの読み方がありますが、どちらで読んでも、意味は変わりません。
身を慎むと同時に、慎みの心を持つ。それで、怠らず、努力する。
ただこれだけなのですが、「これだけ」だからこそ難しいかもしれません。
自分が優れた人間だと過信し、ほかの人を見下す。
大言壮語するわりに、たいしたこともできず、あるいは失敗する。
そして、ついつい誘惑に負けて怠け、さまざまな義務を果たさず、後回しにする。
こんなことじゃダメだ……と、分かっていながら、なかなかできない、ということも、あるかと思います。
そんなとき、この倭姫命のことばを改めて思い出してみると、よいのではないでしょうか。
日本武尊はこの後、東国に出かけて戦果をあげ、戻ってきます。
そして、慎みの心を失ったような振る舞いをしたために、亡くなってしまいます。詳細はぜひ、現代語訳で十分ですので、確かめてみてください。
英雄として描かれている日本武尊でさえ、慎みを忘れたため命を落としてしまった。
そのような伝承が残っているのは、我々の祖先が慎みや、努力を美徳として考えてきたことも、示しています。
令和6年4月
思ふこと一つも神につとめ終へず今日やまかるか あたらこの世を
大意=神のためと考えていることを全く果たせないまま、私は今日、死ぬのだろうか。残念なことだ。
江戸時代の国学者、平田篤胤の辞世の歌です。
「まかる」は「退出する」、「あたら」は「残念なことに」。篤胤の思想は、やがて幕末の志士たちにも多大な影響を与え、明治維新につながっていきます。
しかし、思想を専門としていたわけではなく、神道、わが国の古典の研究はもとより、社会科学や自然科学の分野でも多種多様な文献を読み漁り、著作を残しています。
天狗にさらわれて、しばらく一緒に暮らしていたという少年を家に住まわせ、話を聞いたり、一度死んで生まれ変わったという少年のもとを訪れ、今に至るまでの経緯を尋ねたりもしています。
様々なことに興味を持ち、熱心に研究して、アウトプットも膨大。エネルギッシュな人だったようです。
そんな篤胤が亡くなったのは、天保14年(1843年)。69歳でした。
ペリー来航まで10年。当時としては、かなり長生きした方です。しかし、この歌を見ると、死の床についても、まだやり残したことがあると考えていたのは間違いないでしょう。
「神につとめ終えず」は、神棚にお供えして、祝詞を読んで……ということばかりでは、なさそうです。
「これをやります」と神に誓ったこと。あるいは「これがおまえの使命だ」と神様からお諭しがあったこと。そうしたことを果たせなかったから、悔いが残ると言っているのかもしれません。
多くの人に影響を与え、多数の業績を残してきてもなお、篤胤はこのような辞世を残しました。
こんにちの我々がどう生きていくべきか、老いても自分に満足せず最後まで頑張るべきなのか、篤胤の辞世はそうしたことを考える上でのヒントになるでしょう。
令和6年3月
玉串を持ち、神語唱ふることなどは、祭庭などの儀式、これもまた神道の一事にして、もっとも重しとするところなり。されど、このことばかりを神道と思ふは、天を管の穴より覗きたるに等し。管の穴より見たるも、天にてなきにはあらねど、それのみにては余りにせばきことなり。それ神道と云(いふ)は、人々日用の間にありて、一事として神道にあらずと云ふことなし
大意=玉串を捧げ、祝詞を読んだり神様のお名前を唱えたりすることなど、お祭りでの儀式は、神道で行うことで最も重いとされています。しかし、こうしたことだけが神道だと考えるのは、管の穴を通して天を見るようなものです。確かにその穴から見えるのも天ですが、ほんの一部でしかなく、あまりに狭い範囲でしかないでしょう。そもそも神道というのは、人々の日常生活の中にあり、どれをとっても神道ではない、ということはないのです。
豊受大神宮(伊勢の神宮の外宮)の禰宜という職にあった、度会延佳のことば。
慶安3年(1650)刊『陽復記』の中の一節です。
神様をまつり、お参りしたりするばかりでなく、日常生活の中にも、神道がある、日常生活のすべてが神道である――ということです。
これは、神棚をちゃんとおまつりしよう、などと狭い範囲のことを言っているのではありません。
例えば、自然の恵みがあるからこそ、私たちはごはんを食べることができます。
また、みんなと団結して、何かを成し遂げようと努力すること。
他の人のことを考えて、迷惑にならないよう環境を保つこと。
これらはほんの一例ですが、神様の心にかなった行動でもあります。
もともと日本人が持っている考え方。そこにも神道がある、ということです。
生活の中に溶けこんでいるので、改めて考えてみなければ、見えてこない。
でも、われわれの日常生活の中にも、明らかに神道的な考え方があるのですよ、そこにちょっと注目してみませんか。
度会延佳は、そんなことを言っているのでしょう。
令和6年2月
日神(ひのかみ)は顕(けん/うつつ)をつかさとり給(たま)へとも物(もの)のかけになりたる所(ところ)まては照(て)らしたまはぬ これ天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御心(みこころ)ならひに高天原(たかまのはら)のこゝろへなるなりーー富士谷御杖
大意=日の神は、我々の目にも見えるこの世界を司っていらっしゃるけれども、影の部分、目に見えないところまでは照らしなさらない。これは、天照大御神の、また高天原の神々の御心なのです
江戸時代終わりころの学者さん、富士谷御杖(ふじたに・みつえ)という人が『古事記燈』という本の中で、こんなことを書いています。
「日神」は「天照大御神」と同じと考えてよいでしょう。大御神はこれ以上ない、たいへん尊い神様とされています。
太陽の神様であると同時に、皇室の祖先の神様、伊勢の神宮の神様でもあります。
そして、そんな神様が、富士谷御杖の言うように、影の部分は照らさない。
影の部分を照らそうとしても、照らせないのでしょうか。そう理解するなら、天照大御神でさえ全知全能ではない、ということです。
照らせるけれど、あえて照らさない。御杖はそう言っているとも読めます。そうだとしたら、天照大御神は人間の目に見える世界をつかさどる一方で、影の部分を他の神様に任せている、ということ。
どちらで考えるとしても、神道における神様の特徴をよく表していると言えます。
さて皆さんは、どうお考えになるでしょうか。