祝詞作文資料

河野鉄憲祝詞作文秘訣』(抄)

解題・凡例のようなもの

    『祝詞作文秘訣』について

『祝詞作文秘訣』は昭和1125日、會通社刊。定価二円十七銭。356ページ。

 概要については、以下の章立てを参照。なお「篇」は昨今の書籍では「章」にふさわしいくらいの分量である。

第一篇 祝詞の實際と取扱法

第二篇 祝詞の本義に就て

第三篇 祝詞と古典の關係

篇 祝詞用語の取扱法

第五篇 祝詞奏上の根本と祕訣

第六篇 祝詞文の言ひ表し方

第七篇 分類註釋 祝詞用語辭典

第八篇 枕詞の用法と解釋

第九篇 祝詞送假名の用法

第十篇 祝詞文の組立祕訣

第十一篇 諸祭祝詞の作り方と作例

第十二篇 綱要 祝詞文法

第十三篇 祝詞作文上逹の祕訣要項

 上記のように本書の内容は祝詞の祭祀上の位置、語源などを初め、奏上法、文法事項と実に多岐に亘るが、特筆すべきは第十篇、第十一篇で具体的な祝詞の作成法につき詳述していることだろう。

 ここではその二篇と、第十三篇を紹介したい。祝詞作文の上で、最も役に立つところだからである。

 なお、権利関係を考慮して紹介は上記にとどめるが、第七篇で筆者がまとめた用語集も、たいへん実用価値が高い。本書は戦後、復刻版が出ており、古書でも割と手に入りやすいし、条件つきながらネット上でも公開されている。ぜひ一度は目を通して欲しい内容だ

   凡例のようなもの

一、旧漢字は現行の漢字に改めた。歴史的仮名遣いはそのままである。

一、傍点等による強調はゴシック体とした。

一、踊り字のうち「ゝ」「ゞ」は本文そのままとしたが、「く」形式のものは書き改めた。

一、本文中に一か所、線によって語句を結んでいるところがあるが、見にくくなるのでこれを省いた。

第十篇 祝詞の組立秘訣

第一章 執筆前の準備

 いよいよ祝詞を作らねばならぬからと言つて、漫然と「掛巻くも畏き」と書き初めて、出来るものではない。先づ筆を取り祝詞の草稿を作る前に、その祝詞を奏上する祭典の目的を明瞭にせねばならぬのである。

 祈年祭の祝詞なら「何故祈年祭をするのか」を知る必要がある。これは殊に民間の雑私祭になると必要で、その家主や工場主は「どんな目的のために祭典をするのか」を訊かねばならぬ。

 某工場の地鎮祭をするとしても、如何なる意味から工場を設置し、何をするための地鎮祭かその執行する主催者に、先づ祭典の目的を聞かねばならぬ。

 これを忘れては祝詞は絶対に出来ないのである。

 次は祝詞作文に必要な資料の蒐集である。神社昇格奉告祭祝詞に、神社の由緒や昇格の事歴を知らねば、どうしても祝詞は出来ないのである。葬祭詞。誄詞に、故人の事歴や年齢その他病死の経過等の資料を蒐集しなければ、絶対に祝詞は出来ないのである。この資料の蒐集は、雑私祭なれば、祭典を依頼された時に聴くとか、参考資料を貰ふとかせねばならぬし、神社の場合はその資料を調査し、これを如何に祝詞に盛るかを考へねばならぬ。

 大体からして祝詞作文執筆前に、祭典の目的を明瞭にし、その資料を蒐集すれば、先づ外部から求める仕事は済んだのである。

 次に、名作祝詞の作例を見て研究することである

 如何な能文達筆の士と雖も、それは皆名作祝詞の模倣と研究との、努力の賜物であるのである。

 冒頭に作例模倣の不可を論じたとは言へ、それは労なき結果を求める事を喝破したので、名作祝詞の模倣と習練なくしては、決して立派な祝詞は出来ないのである。故に先づ地鎮祭の祝詞を作るとすれば、充分に名作の地鎮祭祝詞を読み、その表現法や用語を研究することである。無論、よい章句や用語をドンドン取り入れて作る事である。

 つまり、この三項の前準備が是非とも必要である。

第二章 祝詞の主眼點を摑む

 いよいよ筆を取り、原稿用紙を前にして、祝詞の草稿を作らむとする時、何処にその祝詞の主目的を置くかゞ必要である。

 地鎮祭ならば、葬祭ならば、どんな事を述べればよいかである。然しこれは一概にこゝで何祭の主眼は、こゝであると述べにくいから略するが、先づ主目的の趣向を考へることである。例へば地鎮祭なれば「何卒神様の御蔭で敷地が崩れぬやうに」と言ふのが、祝詞の主目的である。

 大体からして、祝詞のこの主目的となるのは、神様の神威を称讃する神徳句を主とするもの、それから神様にある事を祈願する祈願句を主とするもの、それから祭典の事を叙述する祭祀句を主とするもの、それから神様に祈願した事が完成したのでなす報賽句を主とするもの等と言つた風に、祝詞でそれぞれの主要なる目的を別にしてゐるものがあるから、先づこの祝詞では、どんな事を叙述するのが一番主要な事かを考へねばならぬ。

 地鎮祭詞では、何を主要な事として叙述するかを知らねば、先づ立派な地鎮祭詞は出来ないのである。この意味から従来の作例を研究する場合にも、この祝詞の主眼は何処だと言ふことをチャンと知らねばならぬ。

 この主眼点に「こんな事を述べよう」と考へついたら、次に、その主眼となるものゝ語を見付ける事である。これは「用語辞典」の項目に、類別してあるから参考にして頂きたい。

第三章 祝詞の構成に就て

 作例や用語等で大体からこんな事を書かうと考へは纏つた処で、祝詞の体をなすものでない。そこで、祝詞は、どんな章句から構成されてゐるかと言ふ事を知らねばならぬ。

(一)冒頭句とは==祝詞文の第一番の冒頭にある章句で、普通「掛巻も畏き何々大神の大前に某恐み恐みも白さく。」と言ふ章句である。

 然しこれは必ずしも、冒頭句の一定した形式といふのではないので、この間いろいとの複雑した形式を持つてゐる。

 然し兎も角も、「何々大神様の神前で神職の私が今から次の如く祝詞を奏上します」と言ふ意味を述べるのが冒頭句である。

 それからこの冒頭句の前に今一つ全文の冒頭とも言ふ章句がある。これは延喜式祝詞に、よくある文体であつて「集侍、神主祝部等諸聞食と宣る」と言ふ如き章句で、現代では大祓詞にのみ「集侍れる人等諸聞食せと宣る」とあるだけであつて、他の祝詞には前文の冒頭とも言ふべきものはないから、冒頭句と言へば前述した如き意味のものと思へばよい。

 先づこれは祝詞の頭であつて、この冒頭句がなかつたら祝詞として正しい構成体をなさないのである。

(二)神徳句とは==祝詞の起源の時にも説いた如く、その昔祝詞とは神様の御徳を称讃したものである。即ちこの神徳句を叙述することが、目的であつたと説いた。この神徳句は冒頭句に述べた「何々大神」の神徳を叙述するのである。又祝詞を奏上する対象の神の神徳を称讃する代りに、吾が建国以来の肇国の神業を賞讃することもある。

(三)頌徳句とは==これは祝詞を奏上する対象が神である時は、神徳句であるが、葬祭詞や霊祭詞のやうに、人である時は、頌徳句、事歴句とも称すべきである。その叙述の趣きは尊卑の差だけで、矢張り神徳句と同じ意味のものである。

(四)事由句とは==これは祭典をどんな理由から何人が、何処で何時するかを述べる章句で、所謂祭典の現実性をハツキリと示すものである。

(五)祭祀句とは==従来この詞句は、献饌句と言ふやうな名称で呼ばれたが、これは単に献饌の事のみを述べるだけでなく、広く祭典の現状を述べるから祭祀句とすべき妥当だと信ずる。

 即ちこの祭祀句は、祭場のこと、潔斎のこと、祭典の現状、神饌を奉る有様、それから、氏子信者の参拝の事等を叙述する章句である。

(六)祈願句とは==これが、一般の祝詞に於ける、その主眼の要点とも言ふべき章句である。即ち「如斯神様の御神徳を叙述して称讃し、祭祀を何某等が致しますのは、こんな願事あるためで、是非ともこの祈願のことを聞食て、願意を充させて下さい。」と言ふ意味が、この章句の目的である。それから祈願が受納され、神様の御恵み得たものは、その御礼の報賽祭をする。この報賽祭の場合、祈願句に取つて替るものは、報賽句である。

(七)奉賽句とは==つまり祈願の御体の章句であるが、大体から祈願句を述べて、その願意の完成された事を申すので、大体の形式からして祈願句と同じものであると言ひ得る。

(八)奉告句とは==それから祈願句と同じものに、神様に或る事を奉告するものがある。これはある事柄の奉告であると共に、半ばその事柄の完成を願ふ祈願句であるとも言ひ得る。故に以下本書の記述上厳密に分類した祈願句、報賽句、奉告句は便利上総て「祈願句」と言ふ名称を用ひることゝする。

(九)終結句とは==祝詞で主眼の事を奏上すれば、すでにもう祝詞の目的は果したのであるから「恐み恐みも白す」と結ぶのである。つまり「以上の如く謹みて申上ます」と言ふ意の章句を最後に置くのである。

(一〇)別文章句とは==これは本文の祝詞の主眼の事より以外の事を、神へ祈願するので、その祭典の時に続いて奏上するのであつて、本文の終結句「恐み恐みも白す」と述べ、一段落をつけし後に、改めて「辞別て」と述べ第二の主眼の事を述べて終結句を以て結ぶべきである。

 以上の如く、前文の冒頭、別文の章句は特別な例として、祝詞には、冒頭句、神徳句、事由句、祭祀句、祈願句、終結句と言ふ章句の総てを以て構成されねばならぬか、と言ふに決してそうでないものがある、

 即ち神徳句を省きしもの、事由句を省きしものといろいろの体がある。又冒頭句と終結句とは、冒頭と結尾とになければならぬが、之れにも変化がある。それから神徳句、事由句、祭祀句、祈願句の順序にも、いろいろの変化のある、つまり変体の祝詞もある。

第五章 祝詞文実際の作り方

(第四章略)

 これで大体祝詞文は、冒頭句の次に何の章句それから何と言ふやうに、骨組の配列順序のいろいろの体は判つたのである。以下この祝詞の章句、即ち骨組に肉をつけ血液を通はし、筋をつけ、肌は栲綱の白妙な柔肌のやうな、美しいものに仕上げる方法を知らねばならぬ。

 其処で骨組の配列順序は、前章の(三)の(二)例祭祝詞の体の章句の順に述べる。

 この前に、一寸申上げたいのは祝詞の長短であるが、これは各章句を長くすれば、祝詞全体は長くなり、短くすれば従つて短くなるのである。尤も、各章句の全般を平均して短くする方法と、ある祭祀句とか、冒頭句とか特別の句をのみ短くすると言ふ方法もある。これは各章句のもとに長短の要訣を述べるから、取捨を考へられたい。

章 冒頭句の作り方

 冒頭句とは前述の如く「掛巻も畏き何々大神の大前に神職姓名恐み恐みも白さく。」であるが、なかなかこの言ひ表し方にいろいろあるのである。それは兎も角、この冒頭句の主体となるものは、次の二つである。

(一)神名――神職名――奏上句(恐み恐みも白さく)

(二)神名――奏上句

 右の二つの表現の形式からなつてゐるので、(二)は神職名を省略したものである。近世現代の祝詞には(一)の形式が多く、延喜式祝詞には(二)の形式が多いのである。それから冒頭句の中で、一番短い章句と言へば(二)の形式で

「御年皇神等の前に白く」(式)の冒頭が最も簡明である。次が(一)の形式で

「御年皇神等の前に神職某恐み恐みも白さく。」が、それに次いだものである。

 然し、これ等は単に冒頭句の骨組のみで、あまり敬意も修飾もないので、これにいろいろと肉をつけ血を通はすと、祝詞文はいよいよ華麗な荘重なものになるのである。


(一)神名を敬意、修飾、詳述する方法

(イ)神名の敬意を表すこと。

 神様に敬意を表す為め、神名の直前に「掛巻くも畏き」を加へつ。これは必ず、神名の直前でなければならぬのである。神名との間に他の事を叙べ其の上に附しては意味をなさない。即ち

「掛巻くも畏き、此の神籬に招き奉る八幡大神」では悪いのである。これは

「此の神籬に招き奉る、掛巻くも畏き八幡大神」としなければならぬ。然し、神名の上に鎮座地名を冠した時は、神名の延長と見て許さるゝべきか。即ち「掛巻くも畏き村松に坐す天照大神」の如き用例もある。

(ロ)鎮座地名を冠するもの

 これは神社の場合などに、用ひられる方法である。其の神社の鎮座地名を神名の上に附けるのである。

「遠津淡海国磐田県見附の地に斎奉る天満大自在天神」

 の如くなすのである。それからこの鎮座地名を冠する時に「衣手の常陸国」とか「神風の伊勢国度会の拆釧五十鈴川上」等と、枕詞をつけて、文章をなだらかに荘重にする事を忘れてはならぬ。

(ハ)神徳を神名に附するもの

 この冒頭句の神名に、神徳を附するものは、冒頭より直ちに「高天原に神留座」と神徳句を並べて後に神名を申すものと、鎮座地名を述べて後に神徳句を述べたものとある。

 前者の例は

天皇が大命に坐せ。恐き鹿嶋坐。健御賀豆智命」

高天原に神留坐。皇睦神漏岐命。神漏弥命以て。天社国社と称辞竟奉る。皇神」

 後者の例は

「中山の此美豆山の麓の磐根に宮柱太敷立。高天原に千木高知る吉備津宮を常宮と定め賜ひて。神長柄神佐備鎮り座す。我皇大神」

 の如きである。要するに、この神徳句をあまり長く詳しく叙述すると、冒頭句にのみ重味が加つて、一寸法師の如く頭の大きい祝詞になつては大変だから、あまり長く叙述してはならぬ。無論、冒頭句で神徳句を述べた場合は、本文の方の神徳句は省略してもよいのである。本文で神徳句を省略する場合は、こゝでやゝ長めに叙述して、祈願句と対照させる方法を取る事もある。

(ニ)奉仕者の事を述るもの

 現代の祝詞には、あまり用ひないが、延喜式祝詞や、近世の祝詞には間々ある形式で、何々大神に何人が奉仕するの意から出たものである。

座摩の御巫の称辞竟奉皇神等。」(式)

御門の御巫の称辞竟奉皇神等。」(式)

「掛巻も畏き加知弥神社の」(「吾」とは奏上者自身のことで、自分の奉仕する意である)

(ホ)祭場設備のことを冠すもの

 これは一般の雑私祭で斎場を求め、注連縄を張り斎竹を立て、浄砂を敷き、神籬を設備して後、神を降神して執行する場合の祝詞で、普通、神名を述べる前にこの事を述べるのである。

 どんな事を述べるかと言ふに、単に

「この神籬に招来しました、何々大神」と述べるのが一番簡単であるが、この神籬の事を又より一層詳しく言ふと、

「この何といふ地名の処を、立派な斎場と撰んで、注連縄を張り、斎竹や真榊を立て、浄砂を敷き、神籬を立てゝ、如何なる風にして神様にお招きし奉りて、こゝに斎ひ奉る、某大神」

と詳しく述べれば、これまたかなりな長章となるのである。

「此の神籬に招き斎ひ奉る、掛巻も畏き産土大神」

「荒山の真木の大木を、本打切り末打断ちて、柱は太く、板は広く厚く造り設けつる、此の皇典講究所國學院大學の、高楼を伊豆の真屋と斎ひ定めて、招鎮め奉る、屋船二柱大神。」

 右の如く神名に就て、それぞれ附加する文章があるが、要は何処までも神様の神威を敬ひて申す意味のもので、単に「掛巻くも畏き」よりも、鎮座地や祭場の事を述べて、より一層吾々の崇敬の有様を申上げ、又神徳を称讃して、益々神の尊さを表現するためのものである。


(二)奏上句の敬意、修飾、詳述の方法

 これは「神職某恐み恐みも白さく」又「恐み恐みも白さく」「前に白さく」の章句を、より一層、敬意、修飾し、詳しく述べる方法である。

(イ)神職名の事

 これは普通「何々大神の大前に」の下に「宮司位勲功爵氏名」と述べるのである。延喜式祝詞にはこの神職名を述べる例は少ない。然し近世祝詞よりは多く見ゆる例で、その職名や位勲功爵氏名を正しく称すものや、単に「神主」とか「神職」とか漠然と言ひて氏名を附すもの、又「神職」とのみ言ひ「恐み恐みも白さく」と続けるもの等ある。

 それからこれは、終結句の時に述べるが、冒頭句に神職名を言はずして、終結句に言ふ例もある。

(ロ)神職の潔斎奉仕の状態を述べること

 これは荷田信名の「准后御産之御祈之祝詞」の冒頭句に見ゆる例で、原文は省略するが「皇后様の御安産の御祈願せよとの勅令を、神職の某等が承りてより七日間、この間は斎戒沐浴心身を清めて、掛巻くも畏き某大神の大前に、恐み恐みも白さく。」といふ意味で、言はゞ、冒頭句の初めに、事由句を冠したものである。これは祝詞の体としては、特殊な作り方であるが、冒頭句に如斯した体のある事も心得てゐて貰ひたい。

 然し、この潔斎奉仕の状態を正しく冒頭句の中に用ゆるとせば、神職名の次に

「御前に神職某、忌回り清回りて、慎敬恐々も白さく。」

 と述べるべきである。

(ハ)祭祀的事由句を附するもの

 大体からして(ロ)の神職の斎戒奉仕の状態は、この祭祀句の発達したものである。それからこゝで祭祀句と言ふが、厳密に言へば事由句の文章も含められてゐるである。

 それからこの祭祀句を冒頭句の中に附する時は、「何々大神の御前に」の次に直ちに続くのであつて、「神職」とか「神主某」等を言はないのが例である。

(一)「広前に、今年二月初午の日の、朝日の豊栄登を吉日の吉時と定て、斎奉る幣は、和妙荒妙……(神饌品目)……尾鰭の真魚食奉り、称辞竟奉る。」

 これは冒頭句の中に、事由句(吉時と定めまで)と祭祀句とを取り入れたものである。

(二)広前に、某月某日を、生月の生日と為て、朝日の豊栄騰に、神主高師連梁守等、奉斎称奉らく。」

 これは事由句のみを、取り入れたものである。

(三)「大前に御酒、御食、居並恐み恐みも白く。」

 これは祭祀句のみを取り入れたのである。こんな場合、多く神職名を入れないでよいが、強いて入れるとせば、(二)の如く、その取り入れた句の最後に附ける。(一)は「真魚食奉り」(三)は「居並」の下に附せばよいのである。

 然し、この事由句、祭祀句を冒頭句に入れる場合、本文には事由句、祭祀句は入れぬものである。

(ニ)奏上章句の修飾

「恐み恐みも白さく」又「白さく」で結構だが、これに、より敬意を表す意味で、「鹿自物伊這ひ廻り、鵜自物頸根突き抜きて、恐み恐みも白さく。」等とするのである。


(三)冒頭句の長短に就て

 冒頭句の一番短い句と言へば、

「八幡大神の大前に白く。」であるが、普通の祝詞として

「掛巻も畏き、八幡大神の大前に、神職某恐み恐みも白さく。」

 と言ふのが普通で、これにいろいろ前述の如き章句を附加すれば、段々と長章のものとなつて来る。


(四)神名の尊称と敬語

 冒頭句では、神名を尊称の場合、「大神」と称すか「皇大神」か「皇大御神」か、或ひは「命」か「大人」かその取扱ひに充分の注意を払はねばならぬ。

 尊貴の神や高貴の霊に不敬の尊号を奉つてはならぬ。この取扱ひ方は「用語辞典」に詳述してあるから参考されたい。


(五)尊敬の程度をあらはす冒頭句

 冒頭句があまり短いとそれは返つて尊敬の程度をあらはさぬ事となる。

 祝詞文はあまり修飾語や枕詞の多いのも、返つて華麗すぎて荘厳味を欠くおそれがあるが、何れにしても長いものは敬意をこめたものである。然しそれには相当に敬意の章句を用ゆる事が必要である。むろん、終結句と長、短は相対照する事も必要である。

章 神徳句の作り方

 冒頭句が先づ出来て後に、神徳を作らねばならぬが、祝詞のなかで、六ケ敷いのはこの神徳句の作り方である。

 起源の項にも言つた如く、祝詞とはこの神徳句から出発してゐるのであつて、この句を作るための参考として、古事記や日本書紀の如き、古典に通暁してゐて、この古典の文章を要約して言ひ表はす事を日常練習しなければならぬ。又延喜式祝詞や、近世名家祝詞等に述べられてゐる神徳句をよく読み利用して、自分のものとする事が必要である。

 こんな名作祝詞を真似る事は、決して文章の焼き直しと言ふ事ではないから、どんどんその章句を引つ張り出して来て、利用する事を第一の仕事とせねば、決して立派な祝詞は出来ないのである。

 大体からして、神徳句の用語は「用語辞典」にそれぞれ意味の異るものを分類して、名作祝詞から引き出して来てあるから、大体に於て間に合ふとは思ふが、尚ほ名作祝詞の何処に求める神徳句があるか紹介して置くから余暇に研究されたい。

   建国国体の神徳句の名作例

 祝詞式で「大祓詞の前半」「遷却祟神祭祝詞の前半」それから近世名家では平田篤胤の「豊香島大神祈願祝詞」や「毎朝神拝詞」などに、なかなか立派な長章の神徳句がある。

   神社の神徳句の名作例

 祝詞式でその神社の神徳を詳述したものは、春日祭。広瀬大忌祭。龍田風神祭。平野祭。久度古開。伊勢神宮の諸祭等の祝詞である。この場合、伊勢神宮の神徳句は建国神業の神徳と共通の処があるが神社のは、その神社々々の祭神、由緒によつて、それぞれ異る事は言ふまでもない。

   雑祭の神徳句の名作例

 祝詞式では大殿祭。御門祭。鎮火祭。道饗祭。鎮魂祭の祝詞がよい。又現代の雑祭祝詞の神徳句では近世名家の祝詞にも、其他作例集にもいろいろあるが、要するにこれは又々種類のなかなか多いものである。


(一)建国神徳句の作り方

 建国の神業や、国体の事に関する神徳を叙述する祝詞、皇室に関する諸祭、国家に関する諸祭、戦事軍事に関する諸祭などで、なかなか用ゆる範囲が多いのであるから、日頃から名作祝詞や作例等で研究して置くべきである。

 言ふまでもなく「天つ神が如何にして国を開き、天壌無窮の国体の礎を築きしか、そして万世一系の皇統は連綿として続き、日の御稜威は天地の内外、六合を照す」ことを叙述するのである。

 此の場合、長章の句を述べる事は略するが、平田篤胤の「毎朝神拝詞」の如きは、随分長章の神徳句を述べてゐる。無論短章を以つてしても意味は充分に述べる事が出来る。それは、

「高天原に神留坐、神漏伎神漏美の命以って、皇御孫命の所知食給ふ皇国は。」

 と言ふのでも、建国の神業と国体との事は申し述べてゐるのである。

「皇御祖天津神の大命以ちて、事依さし給へる随に、我が天皇命は、天下四方国を安国と平けく知食して。」

 要するに長章の場合等は用語辞典を取捨して作られたい。


(二)神社神徳句の作り方

 これも用語があるが、神社々々で、その祭神や由緒が異る如く、神社の神徳句も異るので、長章の場合は、

「何々天皇の何年に、某国の藩主某、崇敬創祀してより、神威は弥益々に立栄えたとか。いふ風に神社の由緒を詳しく述べる事もよい。然し、これはなかなか祝詞作文に通暁せる熟練の士でなければ出来ぬことであるが、初学者と雖も、名家の祝詞にどんな風に表現してあるかを、研究して是非とも試るべきである。

 然し、又短章を以て要約して述べる作り方もあるから、強ひて長章にしなければならぬと言ふ理由ではないのである。けれども神社の由緒と関係のある千年祭とか、千五百年祭の如き、昇格や贈位の諸祭の如きは、是非とも、由緒を詳述して神徳の高く尊き事を述べねばならぬ。

 常の場合は、

「高天原に神留坐す、神漏岐神漏美命以ちて、天社国社

宮と鎮座す、大神の広き厚き恩頼で」

 と言ふ神社法令の例祭祝詞にある章句が尤も簡明でよいと思ふ。


(三)雑祭神徳句の作り方

 井神祭では水の恩恵の神威をたゝへ、地鎮祭には大地の恩と、敷地の神の神徳を称讃する。火神、山神、木神、諸業守護の神、それぞれ祭祀する神々の神威を称讃するのである。此の雑祭の神徳句は、これまた実に多種多様であつて、私が一行か二行の説明で、この何百題かの神徳句の作り方を一つ一つ述べる事は至難であるから、名作祝詞の作例の研究を希望し、又参考まで、私の「実用雑祭祝詞大鑑」を一覧されゝばこの作例は充分に長章の文で集めてある。

 私の祝詞大鑑のは、それぞれ諸祭別々の長章の神徳句であるが、一面この多くの雑祭の神徳句を、ほんの二、三十字の短章を以つて表現する方法がある。それは、

「此の御井を広く厚く守賜ひ幸賜ひて、」(草鹿砥宣隆)

「此の何々業(職業)を、夜守日守に守給ひて、恩頼を蒙らせ給ふ。」

「皇神の遺給ひ、伝給ひし例のまにまに。」(岩崎長世)

「皇神等の広き厚き御慮を、かしこみ」(敷田年治)

 とすれば、この「皇神等の神威」と言ふのは、その業や事柄を特に守護される祭神なので、その祭神の神威を称讃した事になるのである。


(四)葬祭、霊祭、頌徳句の作り方

 葬祭、霊祭の祝詞の中で一番六ケ敷いのは、この頌徳句の作り方で、これは故人の事歴や性格等を叙述して、その徳や人格を称讃し、又追悼するのである。

 故人の事歴である故、老幼男女で異り、尊貴卑賎で内容が異るので、一口に如何に作るものとは述べられない。

 然し「何時生れて、性質はどうであつたとか、学問は何ををしたとか、事業は何々をして、如何なる功績を立てた。」とその在世中の履歴を述べ徳を頌へることを目的とするのである。

 この履歴を述べて頌徳句とする作例は、私の雑祭祝詞大鑑の後篇に述べてあるから参考にされたい。

章 事由句の作り方

 これは何時何処で何某等がどんな意味から祭典をすると言ふ事を述べるのが、この事由句である。

 尤もこの事由句を特に詳しく述べるものと、簡単に述べ省略するものとがある。然し、雑祭祝詞などでは、特に祭典の現実性をハツキリさせるために、この事由句を詳述しなければならぬ。

 先づ祈雨祭祝詞の例を考へて見ると、

◎祭祀の理由とは

 「此頃久しく雨降らず、日の累れば、植ゑし田も蒔きし畠も凋み枯なむとするが故に。」

◎日時とは

 「八十柯日はあれども、今日の生日の足日に。」

◎何人とは

 「何々村の諸人等」

◎場所とは

 「皇神等の大前に参ひ集ひて」

 と言つた風の章句が事由句である。この事由句は大概祭祀句に連るのである。


(一)祭祀をなす理由

 どんな理由から、この祭祀をするかと言ふ事は、神徳句の趣から判る事でもあるが、普通長いと短いにかゝはらず、必ずこの理由の事は述べねばならぬのである。

 祈年祭の理由には「今年の御年始め給はむとして」と述べ、例祭は「一年に一回仕奉る、常の例の今日の御祭に。」と言ふのが理由である。それから祭典に於ても、大該に執行の理由の明瞭であるものは、それ程詳述し重大視する事もないが、何々工事や建築、開拓、団体の組織、病気、戦事、その他いろいろの奉告祭や報賽祭等では、時に経過の状態を述べるものは、この理由を詳しく述べねばならぬ。

 例へば、竣工祭の如きものは、

「如何にして此の工事を初めるようになつたか。何年何月何日起工し、何人に工事を請負はせてより朝夕に勉励して、例へば道路なれば、何処より何処まで何里の程、何年何月何日、美事に竣工したから、この竣工の奉告祭をする。」といふ如き、理由を必ず述べねばならぬ。


(二)日時の事

 祭典を執行する日時を述べるのであるが、この時、すでに日時の定つてゐるものは、今日の生日の足日」と称讃のみにてよいが、特にする祭典の如きは、この祭日の日時を撰び定めた事を述べる。

「八十柯日はあれども、今日の生日を吉日の甘日と撰び定めて。」と作るべきである。又「今日」の処に「昭和十年八月十日」と固有の年月日を以てする方法もあるが、これは祭典の理由の章句の中に固有の年月日を述べたら、こゝで決して「昭和十年月日」と再び用ひてはならない。祭典の理由の章句の中では、一、二これを用ひてもよいが、彼にも用ひ、此にも用ひると言ふたうに沢山用ひてはならぬ。


(三)祭典執行の主催者

 何人が祭典の主催であるかを述べる事も、事由句の主要な役割である。個人が主催の祭典の場合でも、その主催者の姓名を述べると、述べないでは大きな差異がある。

 個人や団体やが主催で執行する祭典には、必ず家主や代表者の住所姓名、又姓名、或ひは職姓名を述べる事を忘れてはならぬ。それから、家庭の場合なら続いて家族の事を言ひ、団体ならば、その団体員の事を述べねばならぬ。

【例】

(一)家庭等の場合

 「家内の主佐伯龍彦伊を初め家族諸々」

(二)某が神社参拝等の場合

 「□□町の木村佐平伊」「氏子□□町の木村佐平伊」

(三)団体等の場合

 「日出小学校の長辻治六伊を初め職員児童諸々。」

 「□□会社常務取締役藤原銀次郎を初め諸人等」

(四)官公吏等の場合

 「従四位勲三等法学博士井上友一伊」

 「大分県知事田口易之伊」

 右の如き場合、位勲功爵など述べてもよいのであるが、特に神威を畏む場合には官職姓名のみ述べるか。述べるとしても、あまり声高々と奏上すべきでない。

 それから、氏子等が恒例として執行する祭典等では、氏子の代表者の姓名等は述べぬがよいのである。つまり、この問題は一該に「これだ」と論ぜられないので、デリケートな崇敬の感情に属する問題であるかsら、よく時処を考へて処理し、作文せねばならぬ。


(四)場所のこと

 事由句では、場所を厳密に「□□山の吉処」等と固有名詞を冠した土地を言はない。大該「皇神等の大前に」とか「御前に」とか「斎場」とか述ぶればよい。又或る場合には省略してもよいのである。


(五)事由句の短章

 何れにしても、雑私祭祝詞などでは、この事由句の詳述を必要としなければならぬが、同じ雑祭詞でも、そんなに詳しく理由を詳述しなくても、恒例でしたり、ありふれた祭祀などでは返つて短章の簡明なものがよい。

【例】

神徳句 皇神等の恩頼を蒙らせ給ふ随に、

事由句 某伊の

祭祀句 捧奉る幣帛を

 こんな簡単なる「某伊の」だけでは果して事由句とは言はれぬかも知れぬが、兎も角事由句の一要素としての役目は果してゐるのである。

「新船を浮めんとして、今日の生日に某伊の」

「新室に移らむとして、今日の吉日に某伊の」

の如く短章の事由句を用ひても、充分に事由句の役目を果すのである。

章 祭祀句の作り方

 祭祀句は従来、献饌句、献供句等と称し、主として神饌を供へ奉る事を述べた句であると言はれて来た。

 然し、決して神饌を献る事のみを述べてゐないのである。

 つまり祭祀の現状を叙述した処の章句である。即ち祭祀句であつて、先づ潔斎のことを述べ、次に祭場の事を述べる。この祭場の事は神社の場合や、一般の斎場や、家庭の神棚や霊屋等の場合がある。次に参拝の有様、それから献饌の状態、祭式の状態、神事の現状等を叙述するのが、この祭祀句の目的である。

 無論、祓詞は別であるが、祝詞の総ての場合、必ずこの祭祀句は簡単、詳述の如何を問はず、是非含まつてゐなければならぬのである。

 それは祭祀と言ふ事実を表現するのが、この祭祀句であるからである。

 要するに祭祀の現状、事実を言ひあらはしたものが、潔斎をしたなら潔斎の事を述べ、神衣を供へたらその事を述べるのが祭祀句の役目である。

 以下、祭祀句の作り方に参考となる用語は、用語辞典に輯録してあるから利用されたい。


(一)潔斎の状態

 これは、奉仕者の潔斎や、氏子の潔斎の事を述べるので、或ひは海や河の流れで身を滌ぎ祓ひ清めたり、或ひは斎館に参籠して、三日間とか七日間とか別火、謹慎して潔斎し、大祓を何回もした事などを叙述するのである。

「神主神部物忌し、身を潔め心を清めて。」(荷田春満)

「大海の清き渚に、身滌祓して。」(栗田土満)

「神職等、忌回り清回りて。」


(二)神饌調理の状態

 神様に供へる神饌の物品である、米は神社の斎田で如何に斎戒して耕作したか、その米やいろいろの神饌物を如何に神職が謹み敬ひて、洗ひ清めたか、どうして調理したか等を叙述するのである。


(三)祭場の設備や、境内清掃装飾の状態

 これは冒頭句の中の祭壇の事、即ち神籬の事を述べるのと連関がある。冒頭句に神籬や斎場設備の事を述べるのは、仮に祭場を設備する雑祭の祝詞であつて、仮の斎場を設ける祝詞では冒頭句に述べるから、この祭祀句の中では、この装飾の事は述べないのが本当である。

 つまり、これは神社の如き場合に限るのである。神社では日頃でも清掃してあらうが、特に祭典なるが故に、大宮の内外を塵一つ置かず清掃し、注連縄も張りかへ、大幟、万歳幡、錦旗、真榊を立て列ね、歳旦祭ならば門松を立て、幕を掛け、新しい御簾、帳をかゝげ、灯台に御灯をともし、神宝を連ね、庭燎を焼きて、祭事の装飾設備をなす事等を詳述するのである。


(四)社殿建築の事

 祭祀の根本起源からすれば、社殿を建築すると言ふ事も、祭祀句の一部であるが、多くこれは社殿建設に関する祭祀の主体となつてゐるので、この祭祀句では述べない。


(五)神宝、神衣、奉献の状態

 延喜式の春日祭の祝詞を見ると

「貢る神宝は、御鏡、御横刀、御弓、御桙、御馬に備奉り、御服は、明妙、照妙、和妙、荒妙に仕へ奉り。」

 とあつて、祭典の時に神宝や神衣を奉献されたのであるが、現代の神社祭祀では、幣帛の現物を奉らせ給ふ時は、神衣の料と言ふ事も出来るが、多く、神宝や神衣を奉献することは、普通の祭典にはなく、神宝奉献祭、神衣祭など特定の祭事があるから、先づ祭祀句の中に、この事は述べないと言はれる。


(六)献饌の状態

 祭祀句を献饌句と言はれた如く、この祭祀句の中心主体となるものは、神饌を神に供へる順序に、一つ一つ叙述した、献饌の章句である。

「献奉る御食は、和稲荒稲に仕奉りて、御酒は甕の上高知り、甕の腹満並べて、大野の原に生ふる物は、甘菜、辛菜、青海原に住む物は、鰭の広物、鰭の狭物、奥都藻菜、辺都藻菜に至るまでに置足はして。」(神社法令の祈年祭詞)

 と、米、酒、野菜、魚、海菜と順々に叙述してゐる。つまり此の如く神饌の品物を順々に列挙して行くのが、献饌の章句の作り方である。

 無論、この例の祝詞の外に、野鳥、水鳥、菓子、果物、水塩などを供へれば、その事を叙述してよいのである。然し供へもせぬ神饌品の事を祝詞で申しては大変である。

 神様に供へもせぬ神饌の品目を「これも差上げます」と言つたら、神様は必ず「オイ嘘八百を並べるな。」と申されるだらう。これは兎角として右の祈年祭祝詞の献饌句を見ても、実際の神饌には野鳥も菓子、果物、水塩も供へてあるだらうが、大概、米、酒に野山の物、海の物を叙述して、総括的にあらはしてゐるのである。

 神饌を順々に片端から叙述せねばならぬからと言つて、記録か何かの様にピンからキリまで詳述するのも、あまり事々しいもので、これは祝詞文としては避けたがよいと思ふ。最大限度の神饌を供へたとしても、この祈年祭祝詞の献饌句のやうな作り方がよいと思ふ。それから普通の場合等は「御食御酒種々の物を」と言つたやうな作り方が、却つて好ましく奥ゆかしい気持がする。

 それから「神酒」の事でも「𤭖閉高知、𤭖腹満双て」と言ふのは瓶子一杯に酒を盛つたところ、瓶子を幾つも幾つも並べる事である。「甘菜辛菜」も一種類の野菜、大根だけではない。「鰭の広物、鰭の狭物」も何か小さな魚の一尾ではないのである。幾種類かの魚の事である。「奥つ藻菜、辺つ藻菜」でも然りである。

 それに実際は、酒は瓶子一つきり、しかも小さい。野菜は大根のみ、魚も鯛のみ、海菜も昆布のみでは、この献饌章句の意味に当らないので、祝詞に嘘がある。如斯嘘があつては大変であるのでよく祝詞の文章の意味と、実際とを照合して作らねば、変なものとなるのであるから注意を要する。それから、神饌を置きて奉る事を、この献饌の事を叙述した次に「横山なす置足はして。」とか「八取の机代に置足はして。」等と言ふ事があるが、これも、神饌を大変沢山供へ、三方を置く案を幾つも幾つも用ひるやうな時を言つたので、四、五台の数少ない神饌にこんな章句を用ひてはならぬ。

 祝詞には誇張法と言ふ修辞法があると言つても、供へものもせぬ神饌を山のやうに供へるでは全く爆笑ものである。要するに献饌の現状を述べる心持でゐればよい。


(七)神饌の調理を述す修飾文(献饌句の長章)

 神饌品の「御食」を、その調理する事を述べて、一種の修飾とする事がある。これをすると献饌句は益々長章となる。

「御食は天の平瓮の八十平瓮に盛満て。」

「斎臼に舂き、箕に簸設けて、御食にも炊ぎ。」

 等と、神饌品の一つ一つを修飾するが、これは近世祝詞により多く見ゆる体である。如斯すると祝詞は段々と長くなる。


(八)短章の献饌句

 神饌が沢山あると言つても、一々詳述せずともよいので、簡単に述しても不敬になるものではない。

 即ち短章の句は

「捧奉る種々の御饗物。」

「奉る幣帛。」「奉る御食物。」

「御食、御酒を初め、種々の物を。」


(九)献饌の有様

 神主が神饌を献る有様を述べる事は、「捧奉る」「奉る」の語であらはし得る。

「忌部の弱肩に太襷取かけて持ゆまはり。」

 等と言ふ章句が、これであるが、これも「八取の机も繁に満備」等と同じ神饌の多き時の事である。普通は「捧奉る」等がよい。


(一〇)神事の有様

 祭典について、神楽をするとか、舞楽をするとか、この外いろいろの神事をなす場合、大概献饌の章句の次に述するのが普通である。例は省略するが、用語辞典を参考にして作られたい。又別文に述べてもよいのである。

第十章 祈願句並に報賽句の作り方

 これは祝詞文の主体となり、目的となる章句である。その祝詞の題名の異る如く、この章句はそれぞれ総てに於て異るので、一様にこゝで作り方を述べる事は至難である。

 上は皇祚の御発祥を祝禱し奉る祝詞より。下は一国民の健康を祈願する祝詞に至るまで、その祝詞の多種多様なると同様に、この祈願句は大変に多いのである。

 昔から祝詞は禱詞、即ち祈願の言葉だと言はれた如く、実に祭典の目的は、この祈願なのである。


(一)祝福の章句に就て

「天皇命の大御代を、厳御代の足御代に幸奉り給ひ。」と言ふ章句は、皇祚、聖代の御弥栄を祝福なし奉るものであつて、祝福の章句とも言ふべきである。然し、つまりは聖代の御繫栄を神に祈り願ぐ言葉で、やはりこの祈願句の類である。


(二)奉告の章句に就て

 新兵が入営するから奉告祭をする。出征するから奉告祭をする。総ての事を初めんとして神様に、その由を奉告する祭典を執行する。つまり、それは、この事の完成を祈る祈願の意味である。鳥居、狛犬、橋梁が竣工したから氏神に奉告祭をする等と、奉告の章句を用ひるが、実は、其の事の完成した御礼、即ち報賽の意味のものと、報賽の意味の中に、より以上に神威の栄光を蒙らむとする祈願の意味のものである。


(三)報賽の章句に就て

 病気が全快した、無事に戦地から凱旋した、五穀豊熟であつた、甘雨が沢山降つて稲が甦つた、こんな時必ず御礼の祭典をする。この御礼の事を述べるのが報賽の句である。事が完全に終了したから報賽した。これから後は「神様ともう縁はありません」と言ふのではない。これから後も御守護下さいと、やはり祈願の事を申上げる。故に厳密に分ければ、これは報賽句と言ふ章句を設けるべきであるが、その内容は「如斯やうにお祈りしましたら神威を賜りまして、祈りの事が完成致しました、有難う御座いました。この後もどうぞこの様にして下さい。」と述べるので、所謂、祈願句の事を叙述するのが、主として順序で、やはりこの章句も同じ類と見るべきである。


(四)祈願句の叙述方法

 例へば祈雨祭の如き場合、「どうぞ急に雨雲が立ちほびこり、稲妻がきらめき雷鳴がして、篠つくやうな雨を降らしめ給へ。」と叙述する。

「何々をせしめ給へ」「守り幸へ給へ」等と、その祈願の要求を述べて、「如斯させて下さい。」と言ふのが、祈願句の特長である。

 それから特に祈願すると言ふやうな言葉を用ひれば、

「何々せしめ給へと乞祈み奉る状を聞召せと恐み恐みも白す。」と「乞祈み奉る」「乞願ぎ奉る」と言ふ用語を用ひると祈願と言ふ事がハツキリとするが、あへて如斯せずともよいのである。

 奉告の章句の叙述は、事を始める前のものは大概、事由句の中の「祭典をする理由」の処に「何々を為とする故、此の由告げ奉らく」等と述べ、祈願句には、やはり通常の如く事の完成を祈願するべきである。

 つまり、何等かの事を初めなさんとして、神の奉告祭をすると言ふ事は、とりも直さず、祈願祭と同じである故、格別に説くまでもない事である。

 事を完全に終了した奉告祭も、それは言はゞ報賽祭であつて、報賽祭と同じやうに叙述すればよいのである。

 報賽句の叙述は「何々の事を完全に立派に、出来ますやうにお祈りしました処、神様の恩恵で、祈願の事が完全になりましたから、御礼の事を申し上げやうとして」と言ふ意味の事を、祭典の理由、即ち事由句として叙述する。

 例へば祈雨祭の報賽祭の時に、

「去日は久しく雨降らず、五穀物も枯れなむとするが故に、天つ水を乞祈奉りしに許々太久の恩頼を蒙らしめ給へば、百姓等喜び奉り嬉しみ奉り。」

 と事由句の中に、神威ありし故に、その報賽祭をする理由を述べて祭祀句の上に「礼自利の幣帛」「礼代の御食物」とつけ、必ずこの「礼自利」の語を冠するとよい。

 祈願句は省略してもよいのであるが、この後の平安を願ふ為めに、

今も往先も、五穀物を天日の焦し枯す事无く守り幸へ給へと。」

 と矢張り、最初に祈願せし主意を簡単にお守り下さいと願ふのがよい。

 この時、祈願句の上に「今も往先も」又「往先の末々迄も」と、永遠に神様との御縁故を結ぶの意を述べるのが、この報賽句の叙述の方法である。

 何れにしても、あまり欲深い祈願であつてはならない。


(五)祈願句の濫用に就て

 祝詞の主体、目的がそもそも何であるかを、ハツキリつかまないで、この祈願句を全く迷路につき込むやうな祝詞を作られては困るのである。

 つまり祝詞の主題、目的を明瞭にしないで、あれも願ひ、これも願ひ、又その伝手にこれも祈願しやう、この事をお願ひするがよろしいで、実にこの祈願句を無茶苦茶に濫用するやうな祝詞を作られては大変である。

「そんな者はない」と賢明な読者は言はれるかも知れぬが、現に私はこの耳で、そんな祝詞を拝聴してゐるから賢明な読者のためにでもないが、笑話として申上げる。某氏の神幸御旅所祝詞の祈願句であるが、普通は

「大前に拝み奉る氏子諸々を守り給へ幸へ給へ。」

 位で充分であるのに、その祝詞には、

「先づ天皇命の大御代で初まり聖代の弥栄を願ぎ奉るより書き出して、親王諸王、百官人、天下の国民の繁栄、それより筆は御氏子の事に及び、先づ家内安全、健康、悪病諸病を防ぎ、盗人、洪水、地震の災を祓ひ、火事を初め諸の災に逢ぬ事を願ふ。次に筆鋒は氏子の産業に及び、先づ奥つ御年や五穀物、草の片葉に至る迄の豊熟を祈る。こうなると実に祈年祭かとあやしまれる。再び、商業工業の繁昌も祈り。再々度、その氏子は牧畜の業をなすもあれば牛は力強く、馬はヒンヒンモーモーとは。」

 まで言はなかつたが、実に御旅所祝詞に牛馬の肥えたりや、力強きを言ひ出されては、全く三河万歳の申し立てに似てゐると思つて、何とも言ひ出し得ず笑つた体験がある。

 これは、少しは私の筆の誇張があるかも知れぬが、祈願句をこんなに濫用されては、祝詞は全く台無しである。

 即ち、祈願句は、言はゞ祝詞の主目的であるから、その祝詞の主題から眺めて、これこそと思ふ事を掴み出して述べる事が必要である。

 祈願句の中に全く主体の違ふやうな事を述べたい時は「辞別きて」と必ず別文で述べるのが本当だと思ふ。

第十一章 終結句の作り方

 終結句とは「恐み恐みも白す」の事で、「以上のやうなことを謹みて申上ます」の意味がこの終結句である。

 この終結句は敬意を表らはし修飾して、「鵜自物頸根突抜きて、恐み恐みも白す」等と述べるのでこの作り方は用語辞典を参照されたい。

 さて冒頭句の作り方の於て一言したが、冒頭句に神職の位勲功爵姓名を述べぬ時に「恐み恐みも」の上に「神職姓名恐み恐みも……」となす例がある。

 又、神職の位勲功爵姓名を述べずに、「神職中取持ちて」とか「神職太玉串に隠侍りて」と述する事がある。この場合には冒頭句に神職の姓名を述べてもよいと思ふ。

 さて、この終結句で注意すべきは「恐み恐みも」と「白す」の間に附する「称辞」や「乞願ぎ」や「告げ奉らく」等の語を入れることである。

「称辞竟奉らくと白す」等を葬祭詞や霊祭詞等に述べては大変である。即ちこれは祝禱の祝詞に限るべきである。

「乞願ぎ奉らくと白す」は祈願祭。「告げ奉らく」は奉告祭のみに限るべきであつて、よくよく注意して述べねばならぬ。大概どんな場合でも「恐み恐みも白す」が一番無難である。

 葬祭等では「悲み悲みも、誄言申さくと白す。」「悲み歎かひ、惶み惶みも白す。」や「袖の涙を掻払ひ、悲み歎かひ、恐み恐みも白す」等と哀悼の意を「恐み恐みも白す」の上に附加して述べることもある。

第十章 別文の作り方

 別文とは本文の祝詞の「恐み恐みも白す」と終りたる次に、再び、本文の祈願句と異る主体の趣旨を叙述するのである。

 延喜式祈年祭の中に、伊勢神宮に奏上する祝詞に異例はあるが、これは特別な例で、普通は、冒頭句神徳句祭祀句もないので、たゞ事由句の一部と祈願句と終結句とからなつてゐる。

 そして常に「辞別て白さく」「又申さく」「辞別」等と述し、続いて「何々をなす故に、何々を成し幸へ給へと恐み恐みも白す。」と祈願句を述べるのが別文の作り方である。

第十篇 諸祭祝詞の作り方と作例

第一章 祓詞の作り方と作例

 祝詞文を部分的に取崩し解剖して、こゝの章句はこんなにして書く、この章句はこんな事を注意すべきであると述べたが、実際問題としては、未だ手の届かぬ点がある。それは祝詞がいろいろの祭祀で、それぞれ趣を異にしてゐるからである。

 大体、祝詞を構成する章句の作り方は、こんなものだと判つたが、諸祭によつて祈願句も神徳句も異るのであつて、諸祭の祝詞に就てその作り方と要点を述べようと思ふ。

 然しこゝで諸祭と云へば、簡単であるが、この諸祭の祝詞は厳密に分類すれば、二千題にも近い多くのもので、この一つ一つの説明は至難であるから、先づ代表的のものを撰び、その作り方と要点を述べ、併せて作例を附する事とした。

 作例もなるべく厳密にこの祭祀でなければならぬと言ふやうなものは避け、その類題に共通的にあれにも、これにも用ひられるやうに作つたものである。

 祓詞は祓戸大神の神威によりて、罪穢を祓ひ清めるものである。罪穢れは祭典の奉仕者の神職だけでなく、参列者其他の罪穢を祓ふのである。又、神饌や幣帛の罪穢、土地、社殿その他いろいろのもので、罪穢の触れたものをも祓ふのである。故に、祓詞では祓をなす対象物をハツキリ述べねばならぬ。例へば「官人等」「神職等」等と述べることが必要である。

 大体から、神社祭祀の場合は、神社法令に所載された祓詞を用ゆるべきであるが、神社に於てなす私祭の場合又雑私祭は、別に自分が作つて用ひてもよいのである。法令の祓詞の中で「掛まくも畏き伊邪那岐大神……祓戸大神等」は、神徳句と冒頭句とを兼ね併せたもので、罪穢を祓ふ祓戸大神は、伊邪那岐大神が禊祓をした時に、生れた神と言ふ、神徳を冒頭から述べたのである。故に作例の(一)の如く「高天原に……恐み恐みも白さく」と述べても、神徳句と冒頭句を兼ねたもので同じ意味である。

 それから「罪穢を祓ひ給ひ清め給ふ」形容の文としては、作例の如く「朝御霧夕御霧云々」と述べると長章文となり、注意は強く荘重味を帯ぶる。この形容の文は、大祓詞の後半の中から引用したものである。

(作例略)

章 大祓詞の作り方と作例

 六月、十二月の晦日の大祓に読む大祓詞は、その本質から言へば、大祓の時以外に絶対に読むべきものでないが、中古より、この大祓詞の読奏は、諸祭の時、必ず読まねばならぬと言ふ風に考へられるやうになつた。明治維新後、大祓詞を何でも彼でもの、諸祭に読奏される事は禁められたが、従来の慣例から、民間では雑私祭に、この大祓詞を祝詞奏上の前、即ち祓詞として、読奏しなければ、主催者側で気の済まない人々も多いので、祓詞でも大祓詞でも同じやうなものであるが、如斯、大祓詞を諸祭に読奏する処から、罪穢を祓ふと言ふ、言はゞ大祓詞の作り変への祓詞が出来るやうになつた。

 この中で有名なのは「六根清浄祓詞」であるが、これは単に大祓詞の作り変へとは言はれないが大祓詞の代用の祓詞として、民間諸祭に古くから用ひられた。即ち「天照皇大神の宣く、人は則天下の……目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず」と言つた調子で。「目」「耳」「口」「身」「意」の六根の清浄を述べたものである。然しこれは真に祝詞としての体をなさず、漢音を混じたもので、仏典の記述に近いものであつて、祓詞とは言はれない。

 この六根清浄祓詞からヒントを得たものか、やゝ似た事を祝詞文の体に記述したものに久保季玆の「内外の汚穢を清むる詞」(近世名家諄辞集)がある。

 又この外三種神器を称讃して、罪穢を祓ふ祝詞がある。

 然し何れにしても、罪穢を祓ふ祓詞で、大祓詞の代用として民間の諸祭に用ひられるのであるが、私の意見としては、長章の祓詞と見て、大祓詞の精神、章句から出発した、祓詞を作り変へるのがよいのではないかと思ふ。作例は、大祓詞の作り変への長章祓詞である。

(作例略)

章 神社諸祭祝詞の作り方と作例

 神社で執行する諸祭は、其の主要なるものは祈年祭、新嘗祭、例祭等の大祭。これにつぐ歳旦祭、元始祭、紀元節祭、天長節祭、明治節祭、特別由緒ある祭祀等の中祭。これにつぐ小祭や諸色(遥拝大祓)等であるが、これ等の中で大祭中祭、諸式の祝詞や祓詞は、神社法令に明らかに示されてゐるから絶対に、これによつて奏上すべきである。然し中祭、小祭の中には、神社法令によつて定められてゐない諸祭の祝詞がある。これは、その神職の手によつて作文し読奏しなければならぬ。

 それは先づ恒例になす諸祭では、毎日執行する日供祭や、月毎になす月次祭や、祭神の縁日祭や、例祭前夜祭や、除夜祭等である。これ等の祝詞では宝祚の弥栄、国家安全、ひいては氏子信者の平穏無事と、産業の豊熟等を祈願するのである。

 尤も何れの祝詞でも以上の事を祈願しないものはないが、特に、これ等の祝詞にはこの事を述べるがよい。そして事由句として、毎月の月次であるとか、一年の終りの除夜である事等をハツキリと述べる。特に例祭の前夜祭等の祝詞には祭典の準備し、清掃装飾してある事を述べる。

 それから神社諸祭では神事に関する祝詞で、神幸祭、神楽、舞楽、卜占、探湯、蟇目、武事、神饌田、神職奉仕、祭式等に関する祝詞がある。無論、それぞれ内容を異にする事で一口にどんな事を述べると言はれないが、此種の諸祭は、神幸祭なれば「どんな風にして神幸祭をしたか。氏子が如何なる有様で神輿捧げ奉り、神幸路に七五三縄に張り、旗や榊や神宝の列を正して、如何に立派に神幸祭を仕へ奉るか」等と言ふ神幸祭の実状を述べ、ひいて神徳称讃すると言ふ事を主としなければならぬ。前章にも言つた如く、この種の祝詞にあまり氏子の生業が豊熟にあることを極度に詳述したのでは、全く神事の祝詞とは思へなくして、祈年祭の祝詞や、牛馬神祝詞のやうになるから注意を要する。

 次に神社に於ても、社殿建築に関する諸祭がある。これは地鎮祭、立柱祭、上棟祭の一般民家の場合とやゝ同じ目的のものであるから、その條下に説くが、社殿は言ふまでもなく神様の御住居であれば、それだけ慎重に、敬意を至さなければならぬ事は説くまでもない事である。この外、境内の開拓、参道開通、架橋等の諸祭もあるが、これも、一般の開拓、道路、架橋の諸祭とやゝ似たものである。

 次に神社の創立、昇格、合祀の祭典や、この記念祭、則ち創立千年祭、千五百年祭等の諸祭の祝詞は、是非とも其神社の由緒事歴を述べて、神徳を詳述をする事を以て、祝詞の主体としなければならぬ。尤も皇室の弥栄、国家安康、氏子の生業豊熟も述べるが、主体は神徳の詳述に置かねばならぬ。

 それから、氏子や崇敬者より宝物、什器、工作物、神饌初穂料、燈明料の奉納の奉告祭には、「何々を奉納しました」と神様に奉告し、此際はその奉納者の家内安全、生業豊熟を祈願する事を目的とせねばならぬ。

 この外神社でなす諸祭は職業平安、家内安全、任官奉告、冠、婚の諸祭、初宮、厄年祭等でその種類は多いが、これ等は主として、神社が主体となつて執行する祭祀でなく、個人の申出要求によつて神社で執行する祭祀なので、つまり雑私祭なのである。

 以上の如く神社が主となつて行ふ祭祀でもなかなか種類が多いので、一つ一つの作例を述べる事は至難であるから、次に代表的なものを参考に述べよう。

(作例略)

第四章 職業平安諸祭の祝詞に就て

 雑私祭祝詞の中で、一番多いのは、職業平安諸祭の祝詞である。神代は農業立国であつたので、生業、ナリハヒと言へば即ち農業であつた。故に五穀豊熟を祈る祈年祭がこの主なるものであつた。

 無論、現代でも、祈年祭の根本精神からすれば、職業平安諸祭を総合統一したものは、この祈年祭であると言ひ得る。然し、これは兎角、職業は昔は士、農、工、商と言つたが、現代は何百種かの職業がある。この職業がいろいろとある如く、その祝詞の数も多いので、一題々々に付ての作り方はなかなか至難であるから代表的のものを述べることとする。先づこの職業を大略分類しても農業、漁業、商業、工業、自由業、金融業、興業、通信業、出版業、土木業、宿営業等の幾多の職業があるので、この一つ一つの作り方や作例に就て述べることは、至難であるから、作例は私の雑祭祝詞大鑑を参考にして頂くとして、其の代表的なもののみを記述する。

章 業平安諸祭の祝詞に就て

 農業の完全は、五穀の豊熟にある。つまり祈年祭祝詞が、この農業平安祝詞の代表的のものである。春になり、田園の耕作に先立つて執行するのは、何と言つても祈年祭、即ち五穀豊熟祈願祭である。それから旱天幾十日、五穀の生育を憂へて祈雨祭をなす。雨が多く降つてはと祈晴祭をする。暴風を止めて欲しい風神祭、それから除蝗祭、水路祭、五穀豊穣の報賽として行ふ新嘗祭と、農業に関連した祭は多い。

 又養蚕や、牧畜や、林業に関する祭祀もあると言つた風で、一口に農業と言つてもなかなか種類が多いので、一様にこんな作り方だと説明する事は至難である。要するにその祭祀をする目的の意味をハツキリ述べることが必要である。

 風神祭の祝詞であるとすれば

「唯今は稲が稔る穂含み時で、最も大切な時であるから、どうぞ暴風を吹かせないで、静穏にして、五穀を豊熟にさして下さい。」

 と「暴風雨を止めて下さい」といふ主目的をハツキリ言ひあらはすべきである。除蝗祭祝詞でもその主目的である「害虫の災を祓つて、五穀豊熟にして下さい」との事を主体として述べ祈願すればよいのである。

 それに、この祝詞に家内安全の意味を述べたり等する事は絶対に避けねばならぬ。

 無論、風神祭祝詞には、風を幸ふ神の神徳を叙述した神徳句や、風神の故事によつて奉る物等の事をも叙述してよいのであるが、これは必ずしも主体でないから略してもよいが、単に祈願のみにあらず、神徳を称讃すると言ふ意味からすれば必要でもある。

(作例略)

章 業平安諸祭の祝詞に就て

 漁業の平安豊漁を祈願し、報賽する祭祀の祝詞もなかなか多いのである。漁労の方法からしても、釣と網と養魚とではそれぞれ祝詞も異るし、又遠洋と近海の漁業、海と河の漁業でも異り、又貝藻類の漁労によつても、その祝詞が異はねばならぬ理由である。然し、これ等全般による作り方の説明は至難であるが、要するに、人智を以ては、測り知れない海の中の魚類を取るのであるから、神様の神威によつて、何卒漁場は平穏無事で、海の彼方から魚を呼び集め下さいまして、一尾も残らぬやうに、沢山大漁さして下さい、と言ふ事を祈願するのである。

 つまり祝詞の主体として、海上安全と、大量の実状とを述べて、如斯あらせて下さいと、祈願するがよい。

(作例略)

章 商業平安諸祭の祝詞に就て

 一口に商業、商売と言へば簡単であるが、なかなか呉服屋も、荒物屋も、酒屋も、八百屋もあると言つた調子で、その商売繁昌の祝詞も幾種類かあるのである。

 呉服屋では、その呉服がよく売れる事を祈願せねばならぬ。従つて祝詞にそれを述べねばならぬ。又呉服屋と酒屋と八百屋とでは、商売繁盛を祈る神様も違はねばならぬのである。

 其処で一般的に商業を主催する神様と言へば「豊受比売神、大国主神、事代主神、太市姫神」等の経済力を主宰する神、福徳円満の神、市場の神を祭ればよいのであるが、この商業を主宰する神々の外に、例へば呉服屋なら衣服の事を開き始めし「長白羽神、天日鷲神、天羽槌雄神」を併せて祭る事である。八百屋なれば蔬菜を主宰する「和久産巣日神、意富加牟豆美神」を併せて祀るべきである。

 其処で此等のいろいろの商売繁昌の祝詞は如斯、冒頭句の神名も異れば、又其の祝詞の主体の叙述もそれぞれ異はねばならぬ。

 例へば文房具の場合でも、この文房具店と言ふ商売は何のためにするのかと言へば、文明の開け行く事、即ち文化事業を助ける必需品を売るのである。

 つまり文房具を売る事は、高天原の初めの時から弥益々に神ながらに立栄え行く処の、文化事業の需要品を供給する事である。

 如斯、文房具を売ると言ふ事は、この文化事業の事に神威を蒙らせる神々様の、お働きのあらはれであると、つまり、文房具供給の事を述べて、文房具を主宰する神の神徳を称讃する事を述べねばならぬ。如斯神様の神威の御活動による、文房具の商ひの事をお守り下さいまして、私の商ひます文房具は何卒沢山に良品を売り弘めまして、此後も、この文房具を供給し、売ると言ふ神ながらの神威のこもる事業に努力させ、発展させて下さいと言ふことを、祈願する事を以て、商売繫昌の祝詞の主体としなければならぬ。

 其処で、この場合、例えば文房具の主催神の神徳を称讃したなら、祈願句の中にも、それに照応して「これから後も、文房具の良品を正実に商売する事によつて、文化事業を益々完全に発達させて下さい」と述べなければならぬ。然し神徳句をあまり詳述しない場合等は、「何卒、商品を広く多く売り弘めて利益をあらせて下さい。」と祈願すればよい。

 商品の種類を詳しく分類した、商売繫昌の祝詞は私の雑祭祝詞大鑑によつて頂くとして、次に商業の何れにも適する祝詞を作例とする。

(作例略)

章 工業平安祝詞の作り方と作例 並に、自由業、金融業、興業、通信出版祝詞の作り方

 近代の科学の進歩は、実に目ざましいものである。科学の進歩が、吾々の文化生活に寄与するものは工業である。

 故に神代の工匠とも見られる、家を造る事、剣や鏡や玉を造ると言ふ工業の根底から出発して、現代は幾百種かの工業製品は、益々多くなり、且つ文化生活を複雑にもなし、高めもしてゐるのである、新しい工業がどんどんと生れ、新しい製品はグングンと造り出されて世に送られてゐる。この工業のいろいろの製品を造る人々が、工業平安繁栄の祭祀をする。其処で祝詞の種類も新しいものがどんどんと生れて来る理由である。

 或る場合の祝詞には「何々の工業を弥栄えに栄えしめ給へ」と言ふ位でよいかも知れぬが、何々の製品を造る会社の平安祭には、必ずその製品を事歴を述べ、製品の特殊の能力を発揮する事を述べねばならぬ祝詞が必要である。

 故に工業平安祭の各種の祝詞の作り方は、なかなか六ケ敷しいのである。

 新しい現代語や、新奇な内容の事件を述べねばならぬのは、この工業祭祀の祝詞である。工業の内容を分類して見ても(一)繊維染色機械器具化学工業(二)飲食物工業(三)雑工業(四)電気ガス業(五)鉱山業(六)交通業と言つた風に分類される。これ等の中で、第一類に属するものでも毛織物、人絹、機械業、汽車電車製造、自動車製造、セメント、煉瓦、マツチ、ゴム、人造肥料等と実に新奇な内容をもつ祝詞がある理由である。第二類の飲食物工業にしても、酒や醤油の祝詞は昔からあるが、ビール、サイダ、たばこに至つては実に頭痛鉢巻ものである。第四類の水力電気も、ガスも神代には無つたのである。又第六類の交通業など「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」は昔の夢で、航空輸送、飛行機、地下鉄道の時代なれば、その祭事の祝詞には、必然的に、これ等を取扱はねばならぬのである。それから工業の祝詞に次で新しい祝詞は自由業といふ類のもので、これは従来、和歌文学医神の祝詞はあつたが、歌舞や、薬剤や病院に関する祝詞は比較的新しいものであらう。

 然し、特に新しい内容をもつ祝詞は、金融業といふ類に属する銀行、信用組合、保険等に関する祝詞である。

 それから特に外国文化輸入による娯楽機関の経営主たちの祭祀たる、映画、演劇、蓄音機。それから通信に関するラヂオ、無線電話、出版に関する新聞、雑誌、宿営業のホテル、アパートの類を列挙し来ると、実におびたゞしい数に上るのである。

 これは私が、現代こゝで説くのみでなく、五十年後、百年後、吾が国の文化が進めばすゝむ程、新しい内容をもつ祭祀が生れ、且つ祝詞をも造らねばならぬ次第である。故に故に実に神職も新進尖鋭の智識を以つてゐないと、氏子からお祭の要求があつても、祝詞を読めない始末になる。

 さてこれ等の新しい内容の祝詞の作り方のコツを申上げやう。この作例に示す工業平安祝詞のやうに、短章のもので済しても、済ませぬ事もあるまいが、皆様の考へからしても、作例の如き短章では決して幾百かの工業に適用されないので、必ずもの足りないことと思ふのであらう。つまり、普通に

祝詞を作ると言へば、マツチ会社の祭典では、マツチ主宰の神を招神し、この大前で、神名を申述べその神徳を称賛し且つ、マツリの完全な製品の出現を祈らねば、先づマツチ会社の平安祝詞は出来たとは言はれない。

 新聞社が繁栄の祈願祭をして呉れと言ふのに、新聞の事を主宰する神様の神名をも述べず、神徳も申さず、どんなやうに新聞事業を発展さして下さいと迄の事を祈願しなくして、どうしてその祝詞は出来たと言はれるであらうか。

 其処で、私は参考までに、映画、マツチ、ゴム、新聞、石油、ラヂオ、電気と其の主催する神名を述べてもよいのであるが、実に多いので、拙著「雑祭祝詞大鑑」を参考にして頂くとして、大体のこれ等の新奇な祝詞の作り方を説明しやう。

 先づ冒頭句は、ゴム会社の祝詞なれば

「掛巻も畏き、久々能遅神、大己貴神、少彦名神等を招請奉り坐奉りて畏み畏みも白さく」

 と、その製品、また事業を主宰する神々の神名を述べる。この場合、産土大神をも、併せて祭祀してもよい。又冒頭句の神名に冠するに「ゴムの事を主宰給ふ、掛巻も畏き久々能遅神……」としてもよいのである。

 つまり冒頭句の作り方は、映画の場合でもラヂオの場合でも、この心得を以つて作ればよいのである。即ち「ラヂオの事を奇魂の神秘に守り給ふ、掛巻も畏き何々大神」とすればよい。

 然し、六ケ敷いのは、神徳句と祈願句の作り方である。

 其処で先づ煉瓦の繁栄を祈る祝詞の神徳句の場合を述ぶれば、

「高天原に神留坐、神漏岐神漏美之命の、開き給ひ創め給ひし現世は、弥遠長に栄えい行きて、奇魂神秘に厳しく契り置き給へる、他国の事業の種々移り入り来坐ぬるが中に、此の火もて焼き造る煉瓦はしも」

 と述べる。即ち煉瓦は外国から輸入された事業であるが、この輸入の外国の事物も、天地を創造した神漏岐神漏美命の神威で、奇魂の神少彦名神を常世国(外国)にお遣はしになつて、神秘に其の事の完全なる発達を契り置かれたものである。これが神威の神秘によつて輸入された煉瓦であるの意を以て神徳句としたのである。

 それで外国から輸入された事物と見るものは、総てこの筆法で述べると、割合にスラスラと叙述されるのである。

 例へば「自動車」の神徳句を煉瓦の事の章句を利用して述べると。

 高天原に……来坐ぬるが中に。此の油を焚きて、速けく馳り往く自動車を」

 蓄音機の神徳句は

「高天原に……来坐ぬるが中に。アメリカの国のエヂソンと云ふ人の敏心以ちて、研き究めて、発明きし蓄音機はしも。」

 とすると、新奇な外国の輸入事物と見るべきものでも、割合に平易に出来るのである。

 つまり、この新奇な事物を呼び出すまでが至難なので、これが出来たらあとはスラスラと出来る。前の例の「自動車」の神徳句の続きは、つまり

「自動車を」と呼び出したのだから

「製造す某伊の車は、器械は精しく巧しく、速けく馳ける車の美しき装もつ車と、諸人等に賞でられ弥多に製り出さしめ給へ。」

 と祈願句を述べればよいのである。この祈願句は、その事物の完全なことの実状、それから需要の多くあるといふ事を述べて、如斯あらせて下さいと祈願すればよいのである。

 又「自動車を」と言はず「自動車はしも」と呼び出して、自動車が交通機関の重要なもので、これが如何に、吾が国の文化事業の源泉となるものであるか。如斯、社会を益する事業であれば、何某が自動車の製造業を初める事を聞食て、その製品を守護して下さいと祈願すると言ふやうに、叙述すれば、いよいよ立派なものになる。

 それから外国の輸入でない事物で、吾が国に発明されたやうな事柄は、その事物が、どうして生れたかの由来や事情を述べて、如斯る事が出来て、文化生活を裨益することも即ち、神様の神威の偉大な故だと神徳句を叙述して、完全の実状を述べ祈願句とすればよいのである。

 以上甚だ概略であるが、大体こんな作り方をすれば、新奇な題目の祝詞も、割合に平易に作られるであらう。

 然し、如何に平易といへども、一体映画とは何か、新聞とは何の用をなすものか、と言ふその事物の由来や内容や事歴、概念をハツキリと掴まなくては、駄目である。故にそんな場合、祭祀の主催者から、よく資料を集める事が必要である。

(作例略)

第九章 諸団体、学校祭祀祝詞の作り方と作例

「団体」と言ふ概念のもとに、公私いろいろの会合や結社や団体が、その目的の遂行を神に祈願する為めに祭祀をなすのである。

 この祝詞の作り方もなかなか至難なものが多い。

 先づ此処で団体と言ふものを考へる時、その団体は、一つの目的を以て、この目的に向つて完全にならう、神ながらにならうとするのが、その根本である。

 これ等の団体の分類種別によつて、目的を述ぶれば、

(一)政治団体の祝詞の目的は、どうか天皇国家のため真に立派な、神ながらの政治に奉仕したい。それで、この団体は、政治のどの方面の如何なる事を、特に理想にするかと、言ふ事を主体とすればよい。

(二)軍事団体の祝詞の目的は、吾が国は神代より細矛千足国と言はれ、又草薙剣を唯一の理想武神と崇敬する如く、武の国である。故に国民は天皇の醜の御盾となる事を本来の面目としてゐる。故に吾々は、軍人精神の発達完全を期すべきであるが、特に陸軍とか或ひは海軍とか又在郷軍人会とか、それぞれ目的の異る使命の完全なる遂行をなし度いと祈願する事を、祝詞の目的としなければしなければならぬ。

(三)産業団体の祝詞の目的は、これは産業といふ中に農商工といろいろの生業がある。この完全なる発達を主体とするのでやゝ職業平安祭とよく似てゐる。

(四)学事、教育、学校団体の祝詞の目的は、小さく考へると大人、青年子女、児童といろいろ分類されるであらうが、教育者も被教育者も、共に智識を開発し、以て人格の向上を以て、その祝詞の主文から、この事を祝詞の唯一の主体とすればよい。

(五)神職神道団体の祝詞の目的も、神明の奉仕の完全と、自らの人格の向上を以て、その祝詞の主文となすべきである。又、運動体育に関するものは、軍事に於けるものと同じで、運動によつて武士道精神の錬磨を目的とし、完全なる日本国民たらん事を祝詞の主目的とすべきである。

(作例略)

第十章 地鎮、建築、開拓、土木工事諸祭祝詞の作り方と作例

 昔から家屋を建てるに、先づ敷地の鎮めをする地鎮祭をなし、次に柱を立てる立柱祭、棟上げ祭と言つた風に執行した。

 地鎮祭と言ふものは、主として家屋の敷地の鎮祭が主たるものであつたが、現代は生活の複雑化に伴ひ、地鎮祭にも各種各様のものがあるやうになつた。

 即ち単に家屋の敷地の鎮祭のみでなく、土地を開拓する土木工事の如き、即ち運動場、飛行場、野球場、公園の類も土地開拓祭とも言ふべきであらうが、其の開拓せし土地の鎮祭に外ならないので、言はゞ地鎮祭の類である。それから、池を掘る、運河を造る、水道を敷く、築港や堤防の工事等は治水工事祭であるが、大体に於て地鎮祭の趣旨のものが多く、中には水の鎮祭も含んでゐる類のものがある。それから道路、鉄道、架橋、トンネルも、地鎮祭の性質を含む外に、衢神等の祭祀もあるのである。

 要するに土地開拓、治水、道路、架橋といつた類の祭祀も、地鎮祭の複雑化し、発達したものと見るべきである。故に大地やその敷地を主宰する神々の神霊を以て、工事の目的によつてなす事を、障

碍なく完成せしめて頂きたい。そして其の完成した敷地、土地、堤、道路、橋は、大地の神の神威で大雨でも崩ける事無く、地震の災でも破壊される事無く、永劫にガツチリと存在さして下さいと、祈願すればよいのである。

 つまり右に述べた、いろいろの地鎮祭の祝詞の祈願句は、その目的、主体には以上のやうな事を叙述すれば足るのである。故に家屋の敷地でも、土地の開拓、治水、道路、橋でも、永劫に破壊せられぬやうにと願ふのが第一の目的である。

 尤も第二の祈願として、例へば運動場の開拓なれば、これで運動の事を発達させるとか、治水なれば、津浪が来ても安全だとか、洪水でも堤防で止めて安穏であるとか、道路や橋は交通機関の根本となるとか言ふやうな事を述べてもよいが、これは堤防、道、橋の利用を述べたもので、一種の神徳句とも言ふべきものである。

 兎角、事由句の中にこそ、こんな事は述べる方がよいのである。即ち何々小学校は運動場が狭いので、運動の発展を障害させる原因となるから、相議つて工事を起し初めんとすると言ふ事を事由句として叙述するのがよいのである。

 道路の祝詞でも同じく、この何町から何村の間は道幅も狭く交通も不便であつて、地方の文化開発に障害を来してゐるから、広い路の立派な路を造らうとして工事を起し初めたといふ事を叙述するのである。

 次に立柱祭の祝詞は「今日は吉日なので、立派な用材を以て柱を立て初めるから」と事由句に述べ、

「どうぞ棟上げを立派にさして下さい。」と祈願するのである。

 上棟祭の祝詞は、「今日は吉日なので、柱も立て梁を造り、棟を上げて屋宇を建てあげますから、神様の神徳を称讃し、如斯無事に出来たことを感謝しますと共に、今後もどうぞ火の災も、水の災もなく、風にも自信にも破壊しませぬやうに」と、祈願しなければならぬ。

 新室祭は大殿祭とも又家祈禱とも宅神祭ともいひ、或ひは家移りの時、この祭事をもなすので、新築の家屋の罪穢や禍物を祓ひ清めて、立派な完全な家屋であらせて下さいと祈願する祝詞でなければならぬ。

 これは上棟祭祝詞と同じやうに、家屋の神の神徳を称讃し、永遠に崩れない立派な住家であらせて下さいと、願ふのである。

 右の如く、立柱祭、上棟祭、新室祭とあるが、現代は昔の如く木造建築のみであるとは言へない。洋館の場合もあれば、会社の工場の如きものもあるから、事由句の中にどんな家屋を建てると言ふ事を叙述しなければならぬ。

 例へば洋館を立つる時は、洋館の事を述べて、

「新館造る大地の底津岩根を、掘り返し深海松の深き地内より、厳の真金の柱築立て、石土以ちて築き固め鎮め堅めて、些少の揺ぎもせぬ常磐堅磐と成遂、煉瓦セメントを以て、壁柱を築き固め。」

 と言ふ風に述べ、如斯した広い立派な家屋を建設した故、どうぞ永劫に崩れさせないで下さいと、祈願することが必要である。

(作例略)

第十一章 治病・健康祈願祭祝詞の作り方と作例

 吾々人類が一番苦痛となり、恐怖となるのは病と死とである。病苦を脱し、一日でも長寿でありたい、そして健康でありたいのは、人間の至情である。そこで病の平癒や延命長寿を祈る祭祀をなすのである。故にこの祝詞の作文も多い理由である。

 つまりこれ等の祝詞は、病魔や死魔やもろもろの災難を祓ひのけて、身体の健康を祈るのが、祝詞の主目的となればよいのである。

 即ち

「身に諸々の障无く、種々の患无く、健かに穏ひに在らしめ給ひ」

「家内豊けく、弥益々に常磐堅磐に、寿命長く、身健かに真幸くあらしめ給ひて、子孫の百八十続に立栄えしめ給へ」

 と言つたやうに祈願することを、主目的とすればよいのである。

 尤も、此種の祝詞では、何々病と、病気に罹つてゐる時、全快さして下さいと言ふものもあり。又流行病が蔓延してゐるから祓ひのけて下さい、流行病をこの町村に入らせないで下さい等といふ祝詞もある。

 又今年一ケ年健康であらせて下さいとの星祭や、今年は厄年で年廻りが悪いから、危険な事無く健康であらせて下さいと、願ふ厄年平安祭、それから出行の方向の危険を脱れて無事を祈る方除祭、旅行の間の健康無事を祈る祈願祭等がある。右の如く各種各様の祝詞があるが、主目的は、健康無事延命が祝詞の主体であればよいので、事由句の中に、旅行をするのだからとか、厄年だからと言ふ事を叙述すればよいのである。

 それから火の災、雷の災、地震の災を憂ひてする祭事の、鎮火祭、霹靂祭、地震祭の祝詞も、その災の危険に触れさせず、健康無事延命が主なる目的であるから、やゝ同じことを述ぶればよいのである。大体から言つて祝詞に、健康と延命と、生業の豊熟を祈らぬものはないから、健康延命はどんな事を述べるべきかを、記憶して置くがよい。

(作例略)

第十二章 家祭民間年中恒例祭祝詞の作り方と作例

 民間の神事として、家庭と一番関係の深いのは、神棚の前でする家内安全祭、竈祭、井神祭、馬屋祭、屋敷内の神祠の祭等の、所謂家祭である。この祝詞に就ては、従来多く読まれ、又作られもしたもので、作り方の説明をなすほどの事もないと思ふが、神棚では、天つ神国つ神産土大神に、生業豊熟と家内の安全を祈る。竈は火の恩、井戸は水の恩恵を謝して、此の後も、その神恩を蒙る事を祈らねばならぬ。家敷の神には、同じく屋敷の守護と家内安全とを祈るべきである。

 それから民間に年中の恒例行事としての諸祭、日待祭、月待祭、庚申祭、甲子祭、蛭子講、稲荷祭の諸祭は、その祭神の縁日に、民間で信仰如何の程度で行はれるのである。これ等の祝詞の作り方は日待祭ならば天照大神、月待祭は月読命、庚申祭の猿田彦神、甲子祭の大国主命、蛭子講は蛭児命また事代主命、稲荷祭は稲荷大神と、それぞれ祭神の神々の神徳を称讃する処の神徳句を、必ず叙述しなければならぬ。

 祈願句は、これ等の諸祭の祝詞は、大略共通して生業の豊熟と家内安全を祈ればよいのであるから左程六ケ敷いものでもない。然し、生業即ち職業が農、商、工等といろいろあるので、農家の稲荷祭では五穀の豊熟を祈るが、商家の場合はこれでは一寸オカシイから、商売繫昌を祈らねばならぬ。つまり職業平安祭の祈願句の調子ですればよい理由である。

 然し、この祝詞で六ケ敷いのは、神徳句の叙述であるが、これは祭神の神話を知る事につとめるが一番よい。大体から前の用語辞典の中に述べてある語を綴れば、割合に容易であらう。

(作例略)

第十三章 結婚出生成年諸祭祝詞の作り方と作例

 人生の重儀と昔から言はれて来た、冠、婚、葬、祭の中で、着冠、即ち成年の式、それから婚儀も祭事の一部である事は説くまでもないことである。

 結婚を神前に於てなすことは、神代の遺制であつて、諾冊二神が別天神の神勅によつて、結婚され、夫婦路の根源を開かれたことに、結婚が初るのだから、神前にて結婚するのは当然のことである。

 故に、この結婚祝詞には、諾冊二神の神婚の神徳句を必ず叙述しなければならぬ。それから神社にて行ふ場合、自宅の場合を論ぜず、産土大神と諾冊二神を祭る事は説くまでもない。

 先づ諾冊二神が夫婦道の実践をされ、修理固成された神徳を叙述し、何某と何某の娘の何子が結婚しますことを聞食されて、この二人を夫婦道の実践に進ましめて、立派な子孫を生み、立派な家庭を作らして下さいと、祈願すればよいのである。

 結婚式の中にする、夫婦が神に誓ふ誓詞は、普通媒介人が奏上するが、男のは今日から何子を妻としますと述べ女のは某の妻となりますからと、互に永遠に夫婦の間は変りませんと、誓ふので、良夫、嫁と誓詞は別々に奏上すべきであるが、一緒に兼た誓詞を奏上してもよい。

 誓詞はなるべく簡単で短章なものがよい。結婚によつて、妻は妊娠するそして安産祈願祭をする。

「某の妻何子が妊娠しましたから、どうぞ神威を以て安産さして下さい」

 と祈るのである。この際木花咲耶姫命の安産の神徳を称へて、どうぞ神威をかゞふらせて下さいと叙べる。子供が生れて、一定の日が経過して初宮参りをなす。

 この祝詞は安産の報賽と、いよいよ某の子何某が氏子となりますからを奉告し、今後永遠に氏神の神威を仰ぐことを祈願する。

 紐落、袴着等といよいよ子供の無事成長した事を奉告し、健康、智識、人格の完成を祈るのである。次にこれ等の祝詞の作例を示す。

(作例略)

第十四章 軍事・戰時・招魂祭祝詞の作り方

 軍事戦事に関する祝詞もいろいろあつて、その代表作例を示すとよいが、大体用語辞典によつて参照を願ふことゝして、大略その作り方を述べよう。

 普通に多いのは入営、退営の祝詞であるが、退営は現役を無事に完了した報賽の事を述べればよいので、大体に於て入営の祝詞と叙述に於て共通点が多い。さて入営の祝詞であるが、先づ

「某が徴兵令によつて、国民の義務として歩兵第何聯隊に入営するが、もともと日本は尚武の国で、軍人となる事は、国民としての本分を生ずものであるから、大君の醜の御盾となる覚悟を以て軍務に従ひ、軍事を習得するのである故、どうかお守り下さい。」

 と祈願すればよいのである。

 然るに、往々この入営の祝詞に、出征の祝詞と同じやうなものがある。「戦争に当つては、戦死することを辞せない軍人となる」と言ふ事を述べるために、やゝもすると戦時の事を詳しく長く叙述するものがある。

「陸軍は山河を越えて如何に戦ふとか、海軍は激浪にもまれて如何に戦ふとか」

 戦争の実状をあまりに詳しく述べる事は、入営の祝詞には考へねばならぬ。

 然し戦時に於て、出征の祝詞や、戦勝祈願の祝詞では、戦争が如何にして起つたかを事由句として述べ、戦争の実状をも詳しく述べて、どうぞ、無事に凱旋さして下さい。又戦勝さして下さいと、祈願することを主体とせねばならぬ。

 招魂祭の祝詞も、戦争と戦死の実状を述べて、哀れにも戦死したが、これは国家守護の神となつたのであるからと慰霊の言葉を述べ、幽冥から何卒、国家を守護して下さいと述べねばならぬ。

(作例略)

第十五章 葬祭靈祭祝詞の作り方と作例

 葬祭霊祭に関する諸祭式の祝詞は、悲嘆の事を叙述しなければならぬものであるから、特に六ケ敷いのである。つまりこれは祝詞の中でも称詞ではなく、死を悲み悼み、その生きし程の面影を偲ぶ処の誄詞が本体でなければならぬ。悲しみを表らはす追悼なので、多く叙述の方法に、月、雪、花の自然物に仮りて文章を表現し、悲嘆や追悼をあらはすのである。それで枕詞や歌語を用ひる事が多い。読奏の方法も、悲嘆の情を以てすべきである。先づ葬儀の祝詞で、第一に主なものは何某が何月日に死亡した事を、幽冥大神、産土大神に報告し、いよいよ幽籍となりましたと奏上する帰幽奏上祭詞である。これはその宅に幽冥大神を招神して奉告する祝詞であるから、一般の奉告祭詞と同じやうなものであるが、悲しみの情を以てすべきことは説くまでもない。

 死者の生前の罪穢を祓ひ、清浄な神ながらの霊魂として、幽冥の不知境に迷はず、神都にて、永劫の幸福に生きさせて下さいと、祈願するのである。それから死体を清めて納棺し、霊舎に祭る霊代に霊を移す遷霊式をなす。この時心霊を移す祭詞を奏す。これは死後、霊舎に鎮座し奉り霊祭をなす故の霊代であるから、心霊にお遷り下さいと願ふのである。

 如斯、遷霊を終つてから、霊魂を鎮め奉る祝詞を奏する場合もある。いよいよ葬儀の日になれば、柩と永久の別れをなす棺前祭をなす。この棺前祭祝詞に、病気か戦死か、災で死んだのか。いろいろとその死亡の実状と、永久に別れられないが、世の制として葬儀をしなければならぬので、今最後の御膳を差上ますと述べる。次に発葬祭詞は、いよいよ今から家を出立ちまして、奥都城所の葬場に最後のお伴をしてお送り致しますと、葬送の実状を述べる。

 こゝで一言したいのは、葬送の実状を述べると言ふ事である。祝詞であるから誇張してもよいと言ふかも知れぬが、あまり葬送も盛大でない、ほんの簡単な下賤なものゝ行列に、道を八十隈洩れず掃き清めて、旗手列並めて、笛鼓の調を合せて云々と、まるで国葬のやうな聖代な文章の祝詞も奇妙なものである。旗手の列を並べてが紙幟一本淋しく送るのでは、全く嘘八百の祝詞である。注意されたい。

 葬場祭詞は、つまり葬祭の一番中心をなす祝詞である。遷霊は心霊を遷すこと、棺前は家に於ける訣別の意、発葬は葬送を初める事の意を述べる祝詞である。然しこれ等は、いはゞこの葬場祭詞に従属せる行事の祝詞と見るべきである。即ちこの葬場祭の祝詞が、葬祭の根本たる祝詞である。この祝詞には、

「柩に鎮めます某霊の前に申上げます。あなたは、未だ亡くなられるやうなお方ではない。あなたは、幾年月に生れて何の事に従ひどんな功績を立てられ、この後も未だこの事に従はれて、いよいよ努力をされ、御使命を果される御方であるのに、哀れにも死亡された。全く、この死亡は悲しい事で永劫に死体を止めて置きたいが、世の慣ひで、それも出来ぬので、今日葬式をして、地下に葬り納めますから、どうぞこの墓を永劫の住居として鎮座下さいまして、子孫のためにお守り下さい。」

 と述べねばならぬ。

 つまり、その霊の人生々活の絶ゆる事を歎き、死を歎くのであるから、故人の一生の履歴功績、人格を称讃し惜しむ事を述べるので、よく故人の履歴人格を知らねばならぬ。又死の実状も知つて、それをも述べねばならぬのである。つまり、故人の事歴や死の模様を述べて悲しみ偲ぶのは家主の読む誄詞と同じであるが、たゞこの葬場祭詞は、これ等を叙して、死を惜み悲しむが、世の制度として葬式をせねばならぬから、これをよく聞食て、墓所を永劫の住居として鎮座して下さいと祈る処が違ふのである。それから葬式前に墓所の地鎮祭を執行して、地霊にこの墓処の守護を願ふ事をなすのである。次に霊祭祝詞は十日祭より五十日祭までの十日日毎の霊祭は、故人の死を悲しみ、未だ死んだと言ふ様には思へない。着物や什器を見て故人の生活や面影を思ひ出し、悲歎の涙に暮れて、夢現の日を送ると述べる。然し、一年二年の霊祭は星霜の経過の早きを述べ、常は生活に熱中して忘れがちなるも、この忌月が訪れては、再び故人の思ひ出に胸がせまり、生きし程の事蹟を思ひ偲びて霊祭をします事を聞食して、この家を御守護下さいと述べる。霊祭も三、四十年、五十年、百年祭の祝詞にはあまり悲しみの事を述べず、たゞ故人の人格を功績を称へ、守護を祈るがよい。祖霊祭祝詞は祖先の功績と家業の礎を開いた事を称へて、その徳を追悼し、此後の守護を祈る事を述べるべきである。

 この外霊祭に関しては何々の殉職者や物故者の慰霊祭をなすが、詳細の作例は私の祝詞大鑑を参照されたい。

(作例略)

第十三篇 祝詞作文上逹の秘訣要項

(一)古代語の智識を豊富にすること

 祝詞文を造るには、何と言つても言葉を多く知り、その解釈力と構成力を知ることである。


(二)神話や歴史に通暁すること

 祝詞に神徳句があり、これを作る以上に於ては神話や歴史を知り、神徳句の創作要点を掴まねばならぬ。又雑祭神の事も研究すること。


(三)祝詞構成の章句を暗記し練ること

 祭祀句には如何なることを述べる、事由句はどうである。何祭にはどんなことを祈願したらよいか。その章句を作例集などによつて、大該のものは暗記して置くと便利である。読書百遍の事をやらねば寝てゐては、立派な祝詞は出来ぬ。


(四)古祝詞の体を学び音韻に注意すること

 祝詞は朗読するものであるから、その格調や構成、音韻の事に注意して研究すること。


(五)想念の表現に努力すること

 何の祝詞だから、如何なることを述べると言ふ想念をウンと、まとめて草稿を書く。大体に言ふべき事を述べ得てから、句読を考へ音韻を注意して、再び磨き、最後に文法の誤りはなきかと考へて訂正する。最初から、文法がどうのかうのと、あまり考へると、心の中の想念が出て来ないから、考へのまゝどんどんと書き誌して後に訂正するがよい。


(六)草稿を数回試読すること

 祝詞文の草稿がこれでよいといふ位出来たら、必ず数回試読して、読切や、格調を磨き奏上の練習をすべきである。