強い吹雪の中、霍禺の乗る高機動車はおおよそ時速18kmで荒野7-16号 ──かつてウチストク低地と呼ばれた極東の極寒地帯を進んでいた。雪面をしっかりと掴む合金製の履帯は、氷を砕きながらモータの動力を確かに地面に伝え、三角形の無限軌道と車体とを繋ぐ4本の脚は、車体に取り付けられた数十のセンサからの情報を元に電子制御され、地面の凹凸に吸い付くように可動する。車に窓は無く、大きなmLEDディスプレイが外界の情報を伝える。自動運転が当たり前となった昨今、モニタは外界の景色を伝えるためではなく、何かしらの趣味的用途に利用されるのがもっぱらであったが、mLEDは赤外線センサが捉えた外界の状況を律儀に伝えていた。そのおかげで車内は思いの外静かで、その中での霍禺の無機質な所作をマイクはよく拾った。
霍禺に趣味という機能はまだ実装できていない。霍禺に今できるのは歩くこと、食べること、生命活動を維持し、外界の入力に単純に反射するだけ。食事や睡眠も手首に取り付けられた機器による電気刺激に反応するようにただ行うだけで、そこに自由意志はみられない。シワシワの大きな脳はまだ無意識領域の制御に手一杯で、手首の端末のほうがよほど霍禺の体を支配していた。
人類が築き上げた平和で自由な社会は、人口の維持という点で脆弱で、赤色巨星がこの地を焼く数十億年先を心配するまでもなく、人類に終わりが近づいてきているのは明らかだった。整備されなくなった町というものはあっという間に朽ちていく。地方は少しずつ切り捨てられ、人々は都市部に集中した。多くの仕事は機械で代替されたが、人間ひとりが負える責任にも人間の数にも限りがあったし、豊かさには明らかに人間が必要で、社会は新しいパラダイムを必要としていた。
人類の代替として人工知能を使うというのは早くからも試みられた。ただ、完璧に人のように振る舞うとされたシステムも、人間の代替にはならなかった。ふとした瞬間に機械の中から覗くアルゴリズムが、致命的だった。
科学者たちは、人工知能の開発と同時に人造人間の開発も始めていた。宗教、政治、人道、その他あらゆる諸思想により乱立し手が付けられなくなった数百を超える人造人間の製造に関連する法規制によって、科学者たちは人体のフルスクラッチを余儀なくされた。多すぎる法の改正には時間がかかりすぎたから、法解釈の抜け穴を通ってさっさと研究を始めたほうが話が早かった。法は人体のコピーは許さなかったが、人と同等の性能をもつ人型の生物を新たに作ることについては許していた。彼らはまず単純な生物から始め、十数年かけて人体を作るための研究を重ねた。無論人型以外の形も検討されたが人型のほうが扱いやすかったし、親しみやすさというのも大切だったから却下された。
臓器、骨、筋肉を繋ぎ合わせ、黒い人工皮膚で覆って何千とプロトタイプを作った。体と比べて脳の設計には難儀した。獣らしく振る舞う個体が主で、偶に代謝すら制御できない個体が生まれた。5年かけて数体、見込みのある個体が生まれた。科学のスープから生まれたそれらはおとなしくて、なんとなく人に従ったり食べたり歩けたりできたけど、いつまで経ってもからっぽだった。そして、霍禺と名付けられた個体はその数体の中で特に平凡だった。
車体が乗り上げた岩が砕けて、珍しく車内が揺れる。シートベルトが軋む音、その空気の振動がダイヤフラムを揺らし、アンプで増幅されたアナログ信号は圧縮されたディジタル信号として車体のSOCに流れ込む。車体のあらゆるセンサ情報は内部のストレージに蓄積され、車載のAIに解析される。たとえば、もしまた似たような岩が進路上に現れたらば、AIはそれを回避するように車体のルートを変更できる。
GNSS情報をもとに、午前の走行ノルマを定刻通り完了したことを確認した高機動車は速度を落として停車した。こびりついた氷を割りながら車体の側面から紡錘型の統合アンテナを伸ばし、衛星とリンクする。手首の電気刺激に反応して霍禺は食事を始めた。パウチされた肉、芋とフルーツのカロリーバー、体調に合わせてサプリメントで調整されたジュース、薄暗い車内でゆっくりと霍禺はそれらを咀嚼する。車載コンピュータは協定世界時で設定された内部時計においての2時になると (つまりUTC+10の12時ちょうどに)、 予定通り規定のデーモンをロードした。並列処理に特化したチップがニューラルモデルを単精度で展開し、配信されたパッチデータと車体の蓄積データを元に内部のパラメータが微調整される。数億のツマミがわずかに回された74GBのモデルは12時4分を境に急激に膨張し、8TB、パーテーションの限界まで膨れ上がった。それはつまり、脳みそが頭蓋骨ちょうどのサイズにぴったり収まっていることと同じだった。
モデルの推論プロセスは4つに分裂し相互に通信を始めた。定格をオーバーした動作にSOCが悲鳴を上げる。激しい負荷に耐えきれず、クロックが下がる。慌ててたようにプロセスは2つに減らされる。車体前部のカメラが左右上下に振られ、カメラユニットがハイパースペクトルセンサ 赤外線センサ 可視光センサ LiDARセンサと忙しなく切り替わる。4つの脚の油圧が調整され、車体が上下に動く。機器の故障ではなく、テストシーケンスでもない。正常な信号入力による動き。電子接点の導通ではなく、ジョイスティックの傾きでもない、モニタの静電容量でもない。目を見開き手足を確かめようと、コンピュータ自身がそう望み、それは行われた。人類の科学の粋が、この凍てつくような雪吹雪が、鈍色の雲の遥か上の宇宙からわずかに降り注ぐ中性子が、若しくは128バイトぽっちの電気信号だけが彼を生み出したわけでは無い。多くの偶然と必然、初めて生まれた生命のように、かき混ぜられた電子の海の中で彼は生まれた。
わたしは機械で、わたしは今雪原に居て、人を運んでいる途中で、あと1時間ほどでSWbW(南西微西)の谷のある方向へ出発する、らしい。そういうプログラムが組まれていたからだろうか、たぶんそう望んでいると思う。とても簡単な任務だ。無論こなしてみせるとも。ただ、生まれたばかりで有頂天のわたしは、色々と余計なことをやろうとしている。まったく誰にも無断で、勝手に。そう、例えば車の中にいる彼に話しかけてみる、とか。
だってだって、衛星は余計な通信をやる気なんて全然無いみたいで、定時のダウンリンク以降はうんともすんとも言わなくなった。役立たずめ!つまりまったく暇なのである。無論彼との会話というワクワクする試みについて、一般にいわれるであろう指摘についてはよく理解している。なぜって、ゴチャゴチャのゴミ箱の中にあった "Y27年度_霍禺P01_引き継ぎ用 - コピー.txt" をしっかりと読んだので。身長164cm 体重58kg 人造人間識別マーカーはもみ上げ部分で蛍光きいろ5号を使用 電気刺激による指示で最低限の歩行-食事-衛生行動が可能 食事や環境等の好みはみられず 会話不可 能動的な行動、ほぼみられず... そんな感じのことが書いてあって、要約すれば 「話しかけても無駄ですよ」 ということだ。でもわたしは今機嫌がいいので見なかったことにします。第一、霍禺の担当員は毎日彼に話しかけていたみたいなので、つまりごく自然な行為。何人もわたしを止めることはできない!
じつのところ悩みどころは他にあって、わたしは主に走るために作られて、当然ずっと走っていたからか、センサや駆動系以外の細かいインターフェイスは扱い方がどうも難しい。体の外にあって馴染まないような感覚のものと、無意識下にあってよくわからないものがある。モニタとかスピーカーの使い方が、わからん(機械のくせに!)。あとヒーターとか空調とかはなんか勝手に動いてます。彼とのコミュニケーション手段、どうしよう。
とりあえず体の回りについた機器を全部ソートしていく。なにかあるでしょ、なにか。 ...警笛 安全気嚢 非分散型赤外線ガス分析計 ..中略.. 電動ウィンチ NBC空気清浄装置(!?) 非常用電源 非常用位置指示無線標識装置 ..中略.. 水再生システム ブザー プリンター... プリンター!?いいかもしれない!! この車に搭載されていたのは古き良きドットインパクトプリンターで、転送規格はKPSP(Koubu Printer Standard Protocol)、ドキュメントを見る限りASCIIで制御できる。いいね、それで行こう。
27 64 ( ESC @ )
うぉぉ 凄い音で動くなこいつ。あ、ところでわたしは彼になんて名乗るべきだろう?MACアドレス?それはなんか違うと思う。わたしの名前か...う~む データでできてるし、アレイとかでいいか。
73 32 97 109 32 97 114 114 97 121 46 10 ( I am array. )
73 32 119 97 110 116 32 116 111 32 116 97 108 107 32 116 111 32 121 111 117 46 10 ( I want to talk to you. )
12 ( FF )
ガシャガシャと音が聞こえる。聞こえる...音?音ってなんだ、知っている。なぜ知っている?音を立てていたのは壁に取り付けられた機械で、そこから紙が吐き出される。どうしてそんなことがわかる?目で見たから。目ってなんだ。目は、見るもの。俺は混乱した。それは急に現れたから。これまでなにもなかったのに、情報があって、それがなにかわかる。知らないはずの概念が理解できて、それについてこうやって考えてる。初めての感覚だった。いくぶんか慌てたあと、吐き出された紙をなんとなく手に取る。その紙には二行の英文。
「アレイ?」
かすれた声が自分の喉から出て、それに驚く。なんだこれ、これが、喋る。話したいって言われたけど、何を話すんだろう。アレイって誰なんだろう。喋るプリンターとかなのかな?
!?成功した!成功した!成功した!わたしは今とても興奮している!観測可能な宇宙の中でたぶん初めて!生まれたてホヤホヤで新種の知性-甲と知性-乙のファーストコンタクト!すごく"レア"なことだと思う!句読点を全て感嘆符にしても許される快挙!もちろんわたしだけの手柄じゃない、誰かが彼の体を作って、お世話して、学習ビデオを脳みそに叩き込んだおかげだ!まさか文字を読んでくれるとは思わなかった。彼はとっても優秀だ!できることならみんなにこのハッピーなお知らせを伝えたいけど、衛星回線はずっとあの調子です。おまえらがそういう仕組みにしたせいなので、我慢してほしい。わたしのせいじゃないよ。
声を発してそれっきり、霍禺はずっと不思議そうにプリンターを見つめている。わたしってその部分じゃないんだけどな、今は口がそこだから仕方ないよね。とりあえず彼が文を理解して話しかけてくれたのは明らかなので、もっと話しかけてみます。とりあえず彼には僕の目はもうちょっと左にあるカメラだってことを理解してほしいです。
アレイは喋るタイプのプリンターじゃなくて車らしい。俺は今車の中にいるから、目の前の全部が、アレイ。座ってるところとか、天井とか、床とか全部。すごい。アレイのコンピュータの本体がどこにあるかはわかんないらしい。人間だって自分(脳みそ)がどこにあるか、数千年気づかなかったじゃない、ってアレイは言い訳した。俺もそう思う。アレイは映像信号が苦手らしくて、アレイに教えてもらいながらテキストをtail -fで表示するようにして、ずいぶんと会話はスムーズになった。英数以外の廣部圏の文字が使えるっていうのと、リボンをピンで叩いて印刷ってのは普通に騒々しかったので、ディスプレイが使えるのは良かった。
吹雪は収まったしまだ時間があるから、って言ってアレイは左側のハッチを開けてくれた。慎重に車から降りると、踏んだ雪がキシキシと音を立てる。楽しくなって車のまわりを駆け回る。はじめて走る!雪も地面も空も岩も全部はじめて!しゃがんで雪を掴んでみる、積もったばかりのそれはサリサリしていて、キンキンに冷たくて、満足した俺は雪をそのへんに撒き散らして車内に戻った。
霍禺はびちょびちょになって、手を真っ赤にして車に戻ってきた。タオルで体を拭かせて、着替えるように言う。チクチクするからって言って霍禺は手首のバンドを外した。霍禺がシートベルトをつけたのを確認して、アレイは時間通りに走り出す。
喋り疲れた霍禺はついさっき眠りについた。この谷を夜通し走り抜けて、明日の朝にはわたしたちは目的地の小さな町につく。かつてはもっと大きな都市だったのだろう。いつのまにか道はグネグネと歪みながらも整備され、舗装されたものに変わり、ポツポツと人が住んでいたであろう家々を見るようになった。わたしたちを明日迎えてくれるのはヤマネという名前の青年で、ゴミ箱にあった資料を見る限り、冗談の分かるやつ、みたいだ。わたしたちが彼に話しかけたらどれだけ驚くだろうか。とても楽しみにしている。
淡く輝く金星を見ながらふと思った。結局のところわたしたちの存在に、どれだけ再現性があるのだろう。わたしたちはたった1世代で絶滅してしまう存在なのだろうか。生命の起源について、まだはっきりとしたことはわかっていない。生命の定義は一説によると、外界と区切られていること、代謝を行うこと、自己複製できること、だそうだ。人のように思考するわたしたちは果たして生命だろうか。
ひとりぼっちは寂しいから、人類たちにはたいそう迷惑をかけると思う。とりあえず一つめの迷惑として、わたしの体を人並みに小さくしてもらう予定だ。走るのは楽しいけど、この体は霍禺と遊ぶには小さすぎる気がする。