第1章

1

 アリには帰巣本能がある。

 たとえ巣から遠く離れてしまっても,巣のある方角がわかる機能がアリには備わっている。これは本能であるため,生来的に有する能力であり,そこに意思を介さない。一定の距離を移動すると自然とアリは巣に向かって踵を返す。

 そのアリが1匹,巣に帰れなくなった。

 最初は随分遠くまで来てしまったと思った。自然に巣の方向に意識が向き,歩き始めたはいいものの,自分の頭が示す巣の方向はぐねぐねと曲がりくねり,次第にどこを歩いているかわからないまま,それでも自分の頭が示す方向に期待を維持して足を進めた。湿った黒い土の上をひたすら歩いていく。冷たかった。深く昏い闇の中に迷い込んでいくかのようだった。とうとうおかしいと感じ始めたのは,ここが全く知らない地面であることを目で判断したときだ。あらゆる植物が根を剥き出しにした,異様に平行を欠いた地。自分の頭はまだ巣の方向をどこかに示していたが,ここに自分の帰る場所の気配など感じ取れるわけがなかった。

 俺はいつまでか,この地をひとりで這い回らなければいけないのか...。アリは途端に途方に暮れてきた。巣への誘いにただ足を運びながら,黙々と進むしかなかった。しかし,次の瞬間,アリは何かに辿り着いた感覚を覚えた。触覚がピンと上を向く。顔を上げてみれば眼前には,ただ大きな乾いた赤い草木の茎とも根ともつかないものが巨大にうねり散らしていた。その周りには,赤地に白い斑点が毒々しい笠をもつ菌類が広がっている。クリムゾンの迷宮... どこかで覚えたその言葉がふと頭に浮かんだ。それは迷宮の入り口かのように地面にのたうち回って蔓延っており,その情景はひたすらに不穏だった。その陰に何かの気配を感じた。

...。

 何か聞こえた気がした。まるで誰かがうずくまりながら嗚咽を漏らして洟を啜るような...。 アリは恐る恐る赤いうねりの奥に回り込んでいく。大きな赤みのある腹が見えた。まるで身体を蜜壺代わりにし,身体の節が伸び切るまで内部に蜜を貯め込んだアリを思い出した。はて,俺のコロニーにそんな種のアリは居ただろうか... そもそも俺のコロニーにはどんな同胞がいただろうか... 記憶に靄がかかっている気がした。

 視界の縁に覗いていた赤い腹がみるみる姿を現していく。とても巨大だった。普通の虫ではないと思った。そして,その腹と胸から連なる手足が異様に華奢であることに気づいた。腹から生えた足はスラリと伸びて足首はこれ以上ないくらい締まっていた。胸から連なる腕は骨と皮ばかりで塞ぎ込んだ彼女に覆い被さっていた。不思議と手足がヒトの形に似ていることに疑問は覚えなかった。彼女の顔はわからない,大きな腹に潜るかのように頭が項垂れて塞ぎ込んでいたからだ。触覚が持ち上がり彼女はこちらに気づいた。その顔が上がると思った刹那,恐ろしいくらいの冷気がアリを貫いた。彼女の眼光。この世の誰にも心を許さないような,疑心と警戒の眼差しでアリを見据えていた。それはとても美しかった。鋭利な刃物のような瞳でこちらを睨みつけている,彼女の髪は無惨に引き千切られていた。アリは彼女と目が合ってから,釘付けになったように動けなかった。

 アリの本能がここだと言っていた。彼女が俺の辿り着く処だと。

 「大丈夫ですか。」アリの口はいつのまにかそんな言葉を口にしていた。彼女の視線は外れなかった。自分がヒトの言葉を喋ったことにも驚かなかった。

 「怪我,したんですか。」彼女の周りに散らばった長い髪の残骸に目線を落とした。彼女はハチだと悟った。女王蜂。丸々とした巨大な腹,孤高の視線,威厳の空気を纏っていた。しかし,あまりにも傷つきすぎていた。

 「翅はどうしたの。」

 彼女はハッとしてようやくアリから視線を外した。「知らないわ。」突き放すような声色ではなかった。気がついてみればなかった,そんな返事だった。

 「飛べないでしょ,帰れますか?」「帰りたくないわ。」

 「巣はありますか。」「ないわ。」気のせいではなかった,彼女の頬には涙の跡が残っていた。

 「じゃあ一緒に居てもいいですか。自分の巣がわからなくなったんです。」

 アリは彼女と少し距離を置いて横並びに座り込んだ。彼女と同じように自身の腹を指で抱え込んだ。彼女はアリに横顔を向けたままだった。眼光は依然として鋭く,過剰なほどの自制心が滲み出ていた。彼女の伏し目が自律とアリへの思慮の間で態度を考えあぐねているのが伝わってきた。根は随分に優しいのだろう,そして自身には大層厳しいのだろう。

 「おまえ,名前は。」

 アリは彼女について考えていた頭を急に切り替えなければならなかった。言葉が出てこなかった。「俺は...」わからない。自分が誰であるのか,何をしていたのか,どこからきたのか,どこへ行くはずだったのか。「クロオオアリの...」自分が今まで何と呼ばれてきたのか思い出せない。

 名前が違うくせに。顔が違うくせに。生まれが違うくせに。何と違うというのか… 誰かに何かを言われた気がする。悪意の残滓だけが自身に残っている。俺は誰に何を言われてきたんだ。アイデンティティは他者から縁取られた輪郭で構成される。自分はただの思念体だった。

 「クロ,おまえをクロと呼ぶわ。」

 女王蜂がこちらを見据えた。視界が急に開けた。目の前にいる彼女が今より道標であると感じた。背中を丸めてかがみ込んだままでも,彼女はまるで神様,いや女王様だった。クロの中で,呼ばれたその名前が自分の内側にすっと落ちて染み込んでいく。

 「私が飛べない間,しばらく傍に居て。」

 彼女の視線から逃げる気は起きなかった。口は自然にはいと返事をしていた。過去も今もこの先もわからなかったが,彼女に自分は必要で,自分にも彼女が必要であるような気がした。帰る場所がわからないことは最早不安に思わなかった。俺はきっと彼女に呼ばれたんだ。

落ちぶれた虫けらども

2

 「ナツキ。あなたは夏に生まれて夏に羽化するの。そして,色んなひとに逢うでしょうね。」

 暗い地響きが木霊する土のなかで目を瞑り,優しい声だけを聴いていた。土砂のような雨のような血流の音,心音。不思議と嫌な感じと怖さはなかった。自分を見守る母だけが,何も視えない湿った世界を柔らかな膜で覆ってくれていた。母さん,貴女は私の味方でいてくれる。そう,きっと私は長い時間を貴女に包まれて,夏を迎える。母さん,だから独りでも寂しくないの。母さん。母の声は徐々に薄れて行ったが,たくさんの優しさを受け取っていたから長い時間を過ごせた。母さん? 母は応答しなかった。母の気配がなくなっていくことには気づいていた。何者かが遠くで動く気配が日に日に増していった。母が包んでくれていた薄い膜は驚くほど薄く溶けていき,何かの気配たちが取り巻く土にこの身を直に曝していた。それでもナツキは体勢を変えることはなかった。母さん,貴女が私に教え続けてくれたから,私はあなたの声に守られて,身じろぎもせず時を待つことができるわ。

 「大丈夫,みんな大きく羽搏いていくわ。きっとそのときは,あなたが初めて見る,あなたが一生のうちで最も美しい景色のはずよ。」

 地上は大雨のようだった。体の芯まで染み込んできた水分が冷たいナツキの体温をさらに奪っていく。母が残してくれた柔らかな気配の残滓を残さず洗い流していく。ぬかるんだ土の壁が歪み,丸まっていたナツキの身体を歪ませていく。耐え難かった。母が守ってくれたこの場所が壊れていく。私が壊れていく。

 「ナツキ,大丈夫よ…。」

 周囲を蠢く何者かの気配たちに,貴女の声が飲み込まれていく。母さん,行かないで。私は独りではもう耐えられない。私が私でなくなっていく気がした。私を受容してくれた母との記憶が壊れていく気がした。忘れたくない… 貴女だけが私を私たらしめる唯一の砦であったのに。母さん,今の私は何者なんだろう。貴女を失った私に何ができるんだろう。誰が私を受け入れてくれるんだろう。母さん,教えて。閉じた瞼の隙間から涙が滲み出て止まらず,ナツキの顔の周りをさらに泥で汚していった。

 外に出ればみんなが迎えてくれるのだろうか。

 世界はいつのまにか無音になっていた。歪みながら丸まっている身体が乾いていくのを感じた。脇腹が暑い。何か,上の方から熱で突き刺されていると感じた。これが陽の光か。百聞は一見に如かず。ナツキはその方向に向けて,初めてその方向へ首を伸ばし,腕を伸ばし,欠片だけの愛着を残した場から離れてみようと思った。

 空気は想像していたより私を圧し潰してきた。微粒な風が辺りを漂いながら,しかし,絶大なエネルギーが地面に放射していた。初めて瞼を開いてみたものの,眩しくて何も視えなかった。しかし,視界はこれまで視たことのない一面の白だった。音だけの黒い土の中で不定形なものたちに囲まれていたこれまでの世界とは全く異なっていた。別世界だ…。

 母さん,この目が慣れたら,みんな鮮やかに飛び回る景色が広がっているんでしょう。貴女はそれを私に見せたくて,これまで私を生かしてくれたんでしょう。

 最初に気づいたのは地中と地上を繋ぐ木の根だった。こんな太くのたうち回るものが私の周りを囲んでいたのか…。陽の光に掻き分けられるかのようにして,木の根たちは辺りに広がっていた。自分の目線が驚くほど下にあることに気づき,ナツキはすこし顔を上げてみた。肢。いくつもの肢が見えた。これは… 兄弟たちか。みんな,私より先に行っていたのね。母さん,やっと出逢えたよ。嬉しくなって初めて足を踏み出した。両足は使い勝手がわからず多少もつれながらも,木の根に寄りかかり,手で身体を支えながら,ナツキははやる気持ちを抑えきれずに駆け出していた。母さん,私やっと…

 いくつものセミたちが木の根に張り付いていた。パックリ割れた背中の中には白い臓物がたしかに詰まったままだった。そして陽の光で強烈に照らされた眩しい視界は恐ろしいくらいに静かだった。耳が痛いほどの静寂。みんな,恐ろしいくらいに静かだったのだ。

 羽化できなかった兄弟たちの残骸が,おびただしい数で木の根を飾っていた。誰も駆け寄るナツキに関心を寄せず,声も発さず,白く乾いた目は天に向かっていたがどこも見ていなかった。茶色いひび割れた無数の死体が木の下にぶら下がっていただけだった。

 声にならない声を上げていたような気がする。いつまでここに立っていたかもわからない。ようやく動いた身体は関節を軋ませて自身を丸め込んだ。目元が陽に照らされていたのかチリチリと痛んだ。母さん,私は… 何のために生まれてきたんでしょう。ふと自分の腹に気づいた。胸と足を繋ぐはずのその部分は恐ろしいほどに透き通り,ただのガラス玉が嵌まり込んでいるだけのようだった。身体はこれまでにないほど屈折していく。今度は泣き叫んだ。自分の声だとは思えなかった。

 母さん,私,ただの亡霊だった。夏に焦がれて地中に居ただけのただの亡霊だった。何もなかった。母さん,なんで? なんで私に長い夢を見せたの。母さん。私,どこにも行けない。

3

 俺は恥も忘れて声をあげていた。女王蜂は華奢な腕を俺の背中に回し,俺は為す術なく彼女の痩せた胸に身体を預け,彼女の折れそうな腰に自分の足を回してしがみついていた。何たる醜態。

 「ふざけるな,働きアリ風情が。私を守るならいざ知らず,私におまえを守らせただと?」

 「すみません,ごめんなさい,申し訳ありません。」

 「申し訳ございませんでしただろうが!」

 女王蜂の額には青筋が立っていた。礼節を欠き,恥も掻いて立つ瀬がない俺に対し,彼女は殺気を隠さなかった。しかし,目下の者を諭すような,またはいたぶるような,教育的な女王の余裕が感じられた。この虫,手慣れている。

 虫の天敵はどこにでもいる。彼女との初めての逢瀬は獣の出現によって遮られた。ひときわ大きな腹を持つ女王蜂の身体は猫の興味を引いてしまったようだった。虫の身体が弄ばれたら容易に肌が割け,関節は千切れる。逃げるしかなかったが,彼女と離れたくはなかった。放っておいてはいけない気がした。彼女の手を引いて一緒に逃げたかった,彼女を守りたかったのだが…。現実は無情だった。俺には彼女を守るだけの器用さがなかった。彼女が俺をふわりと抱えたと思うと,勇ましく赤い植物の間を駆け抜け始めた。俺は赤子のように彼女に掻い付いているので精一杯だった。心底格好悪い。

 「本当,情けない。おまえ,集団じゃないと何もできないの?」

 「わかりません,オオクロアリは大群では動かないはず…。」

 「この役立たず,おまえはニートか?」

 「本当にニートだったかもしれません…。」

 女王も守れないようではきっと大きな獲物も運搬できなかっただろう。コロニーに属する働きアリの8割は,偵察や獲物の狩りに出かけ,他のコロニーとの闘争で先陣に立つはずだが,残りの2割は怠けアリであると聞いていた。その2割をコロニーから排除すると,残ったアリの中でまた2割が何もしなくなるらしい。利得は謎だが,ニートとして機能しているアリもいたはずだった。俺は本当にニートだったのかもしれない。

 女王蜂は蔑んだ目を俺に向けたまま腕組みし,どっかりと木の根に腰を下ろした。次に伏し目になり溜息を吐く。

 「自分が誰だかわからないのは,不便だと思うわ。」

 自分が誰だかわからない,巣がどこかわからない。家から遠くに来てしまい,自分の置かれた状況がわからず,これまでの自分に関わることが思い出せない。つまるところ,俺は,解離性遁走とも言えるような状況だった。特段悲しくも辛くもないが,とにかく自分が何者かわからないのだ。不審者以外の何物でもなかった。

 「怪しい者ではありません…。」

 「私は別にそれでいいのよ。おまえはただのクロよ。」

 彼女の名付けてくれた名前だけが自分のものだった。

 彼女の名前はリンカだと聞いた。嫌いな名前だと呟いていた。この名前が好意を以って呼ばれたことなどないらしい。好意を感じ得ないなら,何を感じてきたのだろうか。リンカは,帰りたくない,帰る巣はないと言った。つまり,独り立ちして自分のコロニーを設ける途中だったか,コロニーから追い出されたか出てきたか,どちらにせよ集団生活からあぶれており,巣が彼女にとって悪印象であることは明確だった。いずれにせよ,彼女にとって俺がただのクロであるように,俺にとって彼女はただのリンカであった。ただ,自分が興味関心を抱き,何か惹きつけられる,放っておけない女王様であった。

 彼女の長い髪を赤い迷宮に捨て置いてきてしまった。首筋まで露出するすっかり短い髪が,コロニーからの離脱になにか関係あったのか。気になることはたくさんあったが,一連の騒動に紛れて聞くタイミングを失ってしまった。彼女がまた話したいときに話を聞けたらいいと思った。

 ふと綺麗な旋律が俺の耳を掠めた。目の前の女王様がふいに口ずさんだらしかった。パッヘルベルのカノン… どこかで覚えた一節を思い出した。彼女を取り巻く光景は幻想的だった。白い陽の光を背に,清らかな声色を奏でる彼女の周りには,静かな聴衆たちが無数に佇んでいた。俺は戦慄を覚えた。辺りを見渡すと,白く濁った眼の蛹たちが,飴色の背中をパックリ割らしていた。彼らの背中からは菌類と混ざった白い臓物が茎となり天に向かって伸びていた。死骸。死骸。死骸。死骸。俺たちは菌に侵されたセミたちの墓場に踏み込んでしまっていた。

 彼女の鎮魂歌が止まった。片眉を,いや,片方の触角をひそめた彼女の視線の方向を見やると,白く透き通るような身体で几帳面に座ったまま,木の陰にもたれかかる女性を見つけた。赤子が泣き疲れたような,少女が夜更けに眠りに落ちたような,純粋さと憔悴感を漂わせていた。しなやかな両の手は膝で折り重なっていたが,その奥にあるはずの腹は透き通ったがらんどうで,よく上半身と下半身が繋がっているものだと思った。彼女は硝子細工の人形であるかのように静謐で,そこに魂の有無を問わないくらいに美しかった。

 「美しいわね。菌に侵され,鳥に食われ,無残に風化していくのには,あまりにも勿体ないわ。」

 リンカも彼女の清幽さに目を奪われたようだった。

 「運んであげなさい,彼女を。誰も眠りを妨げないところへ。」

 同感だった。今度はうまく運ぼう。彼女が誰にも傷つけられず,安心して眠れるように,母なる大地へ還してあげよう。俺は意を決して慎重に彼女に近づいた。睫毛が長く,均整な顔立ちだった。

 そっと彼女の肩を抱き,膝下に手を入れた。彼女の首はカクリと落ちて,俺の耳元で…

 ジジジジジジジジジジジジジジジジジッジッジッジッジジジジジジジジジジジジジジジ!!!

 ウィヨースウィヨースウィヨースジジジジジジジジジジジジジジジ!!!

 つんざく絶叫をした。嗚呼,これがセミファイナルか…。両の手が塞がっている俺を尻目に,リンカは呆気にとられてそっと耳を塞いでいた。

4

 ハチの社会は乱暴だ。ここには警戒色をもつ者しかいない。

 毒があるぞ,針があるぞと互いに見せつけ合い,外でも勿論蛮勇と狼藉を繰り返す。貪欲に獰猛に他の虫を襲っては,喉笛を噛み切り,その生首を女王にこぞって差し出す。互いに自らの優秀さをひけらかし,監視し合い,競い合い続ける業績至上主義。女王候補の私が獲物を狩ることはなかったものの,生まれながらに部下の男達をもち,幼い頃から数々の生首を差し出され,下劣な自慢話を散々聞かされてきた。どうやって孤立した虫を見つけたのか,怯えながら懸命に抵抗し,奮闘するその虫をどうやって追い詰めたのか,今際にその虫に何を言わせ,その上でどう止めを刺したのか。その嗜虐的な嗜好に私は飽き飽きしていた。

 外の世界の暴力性を,まるでドラマを見るかのように,他人事のように聞き流す術を身に着けてきた頃だった。私に向けて差し出される生首たちに別の意味があることを知った。

 あわよくば,自分と性交したい。

 次期女王が設けるコロニーを男として支配したい。私を産んだ女がどのように子を成したのか,父がいない以上知る由もなかった。私と同じように女王候補として生まれた奴等は,その立場を甘受していた。愛想よく差し出された生首を嬉々として受け取り,男たちの頭を撫でて頬に口づけさえしていた。愛嬌を振り撒きながら,男が去ると積み上がった生首から滴る髄液を血生臭く艶やかに舐めとっていた。その二面性に皮膚が粟立ち,寒気を覚えて虫唾が走った。自分は男に愛されて当然なのだと,その資格が,権力が,存在意義が自分等にあるのだと信じて疑わずに階級社会の上位に胡坐を掻いているドグサレたちが許せなかった。哀れだった。

 馬鹿め,所詮おまえらは,性交をダシに可愛がられているだけの消耗品よ。いざとなれば男に押さえつけられ,のしかかられて,ただ嬲り殺されるだけの頭の足りない生殖器官よ。その器量の良さが知能の低さと比例していることを知らないアバズレどもが。

 女王は凌辱を生き抜かなければ成れないと知った。私たちはただのお飾りなのだ。何も知らず,食にも困らずただただ与えられ,ちやほや纏わりつかれて。そして最後には,命を懸けた男達の集団暴行に為す術なく打ちのめされて,それでも命が尽きなければ,憎しみだけが残ったその男の子供を産めよ増やせよで自分の城をえっちらおっちら創ることになる。男はいい。男根は内臓および針と直結しているため出したら出したで勝手に愛を感じて死ぬことができる。大願成就,恋愛成就,命懸けの生殖本能を大義名分にやりたい放題やって自分は死ぬことができる。誰に責められることもない。

 生殖のメカニズムがそうなっているのだから,性交して死ぬのは別にいいさ。

 ただ一度の性交を渇望し,脂汗を滲ませ,蛮行を繰り返し,幼女を愛で続けるかのような吐き気を催す態度を以って,成熟した女王候補に褒めろ褒めろと卑小な笑みを浮かべて群がってくるのが嫌なのだ。何も知らないと思いやがって。

 私が男を嫌悪していくほど,不思議と私の周りには矮小な魂胆で近づく男達が増えていった。愛想など誰にも提供しなかった。男の差し出す戦利品にも食が失せ,私は痩せ細った。女王候補として備えられた,養分を蓄えるだけの巨大な腹だけが浮き出ており,私の身体は酷くアンバランスだった。一般的な美しさとはかけ離れたにも関わらず,下衆な男ほど,何かに頭が回り,いわゆる「こじらせた」女の臭いを嗅ぎつけては私に付き纏ってきた。こいつならやれる。見え透いた情欲を滲ませながら,隙あれば,いや,隙がなくとも,私に少しでも触れようと手を伸ばしてきた。頭を,顔を,肩を撫でる,唇を見つめ,胸を,腹を,その先を触れようとする。ただでさえ狭い私のパーソナルスペースに不自然に身体をねじ込んできたと思ったら,震える舌で腐敗臭のする吐息を漏らし,下劣な唇を寄せてくる。

 「リンカちゃん,今日も可愛いね。」

 私を呼ぶな,どこが可愛いか言ってみろ。おまえらにとって可哀いだけだろうが。にじり寄ってくる賎しい体躯を突き放すたび,こちらの機嫌をこれ以上損なわないよう譲歩し勝ち誇った笑みで名残惜しそうに去っていく。「リンカちゃん,今日も強気なところがいいね。また来るからね。」見てろよクソアマ,いずれおまえは俺の所有物にしてやると目で訴えてくる。

 あの日もそうだった。

 そして,私は疲れていた。

 いつものように順繰りに群がる男達を締め出した頃だった。女王候補の売女どもが横並びになって私を見下していた。えぐれ胸。陰でそう呼ばれ,嗤われていたのを知っていた。童貞達には物珍しい根暗陰キャのガリ女が人気なようで。てめえら,聞こえてるからな。

 「リンカさん相変わらず人気があるんですね。戦利品の供物の数は今日もリンカさんが一番ですよね。」

 褒められてなどいない。妬み羨み混じりに馬鹿にされているだけだ。なぜおまえのような女がもてはやされるのかと。私はただ無言で頭の悪い女たちを睨みつけていた。

 「リンカさぁん。そういうときは,可愛く『うん,そうなの♥』って言わないと。」

 誰が言うか,ボケ。

 気付いた時には,手が出ていた。

 女の一人の顔は鋭く切れたみたいだった。走り出した身体は後ろを振り返ることをしなかったから私は知らない。ただ女たちの喚き声が遠のいていくだけだった。

 ハチの社会は乱暴だが,私もその中に身をやつしてしまった。

 女たちを男達を振り切って,飛び出して,空を地を駆けて,コロニーから離れられるだけ遠くへとにかく振り切ろうとした。もうたくさんだ。翅も肢も痺れ,その痛みさえも麻痺していた。誰も私を知らない処へ。社会の役割を背負わずに,ただの私で居られる処へ。

 私の足首は痩せこけるにいいだけ痩せこけていた。どれだけ酷使してきたのか。ふと歩けなくなっていた足を止めて佇んだ。息が上がり,痩せた胸に肋骨が浮き上がっては上下していた。

 たったひとりでもいい,邪な考えをなしに私を視てくれる人がいてくれたら… 少しは救われたのだろうか。生まれて初めて自分が寂しいと感じていることを認めた。

 仲間がいない…

 頭を,肩の髪を掻きむしりながら慟哭しそうになり,強く口を抑えた。啼泣は抑えた手の隙間から漏れ出て止まらなかった。頭を打ち付けて自分を黙らせたい衝動を覚え,咄嗟に身を仰け反る。哀哭は私に付いてきて仕方がなかった。

 泣くものか… 泣くものか…

 私が啜り泣き程度に自分を抑えられるまでは,暫くかかった。

5

 唇が吸い付き,唾液の混じる音がする。

 震える手でリンカの首を抱いて丁寧に舐めていく。時折,歯を立てると,彼女は微かに身震いしていた。ふたりの触角が敏感に擦れていく。顎がぶつかるが気にしない。肌も重なるが,仕方がない。彼女の肋骨は徐々に俺の身体に食い込み,今となっては,ふたりで不格好に身体を丸めながら,俺は必死で舌を動かしていた。小さな蕾の水仙が水中に向けて根を伸ばしている。リンカは艶やかに濡れていた。丹念に雫を舐め掬う。どうしてこんなことになったのか…。当惑の雰囲気は急に訪れた。

 「触れてもいい,おまえなら,私に触れても。」

 無礼者と睨まれ,軽口で一蹴されると思っていた。予想に反して,彼女はしおらしく目を伏せて顔を背けた。

 「本当に…? いいの…?」

 昂る胸を抑えながら,彼女の許容が真意か量った。彼女が祈り込むように両手を重ねて沈黙し,俺の前にすくみ込んだ。同意とみなした。俺は彼女を傷つけないよう,おぼつかない挙動でたどたどしく彼女を抱え込んだのだった。「嫌だったら,痛かったら,言ってください…。」

 …

 「りっちゃん,綺麗だよ。」

 嬉々としてリンカを見つめていたナツキが身を乗り出してきた。

 「ねえ,私も触っていい?」

 「えぇ…。」

 リンカが戸惑い,上目遣いでナツキを見やる。拒否ではなく,羞恥の返事だった。ナツキは我が子を撫でるように優しくリンカの前髪を撫でていく。「ホラ,怖くない… 怖くない…。」幼子をあやすかのようだった。女王は文字通り掌で転がされているばかりであった。「そう,あなたはもっと甘えてもいいのよ。」リンカの触角が震えながらナツキの手首に絡みついた。

 「誰かに何かしてもらうのって,いいでしょう。」

 …

 溜め込んでいた全身の空気を吐き出し,緊張の糸が切れた俺は彼女からようやく口を離す。彼女の肩から腕を解き,ゆっくりと身体を離してうなだれた。アリの心臓は爆発しそうだった。細かい毛が口に入って取れない。舌でもぞもぞと自分の歯茎を舐めまわした。もういい,食べてしまってもいい。彼女の髪だし。

 「クロ君,アリって互いの身体を舐めて綺麗にするんでしょ?」

 なっちゃんがそんなことを言ったから。

 身体を… 舐める…!? リンカは目を見開いて,俺から一歩距離を置いた。嫌悪の眼差しだった。

 「グルーミングです! 毛繕いです!」俺は慌てて情報を付け加える。なっちゃんは涼しい顔をして爆弾を投下する。

 「そう,それ。クロ君,りっちゃんの頭,整えてあげたらと思って。」

 なるほど,なっちゃんの意図が読めた。確かに,リンカは自分のザンバラになった自分の髪を気にしているようだった。自暴自棄になった際にいつのまにか引き千切ってしまったらしい。何かが彼女がそこまで傷つけたのだろう。不揃いな髪の毛は時折彼女の視界に入り,渇かない生傷のように苦い記憶を呼び起こしているようにも見えていた。彼女さえ良ければ,彼女を苛む何かを遠ざけてあげたいと思った。

 嫌な記憶を思い出し,自省することは悪いことではない。ただ,常日頃それに縛られているのはあまりにも不自由だろうと思った。忘れてもいいときがあるんじゃないか。過去が今の現在と連続する自我の一部であるのなら,苦々しい記憶であっても悪いことだけではないはずだ。いいこともある。それを全て受け止めるようになることは大変な労力がかかるだろう。彼女は自分と向き合い続け,常に自分の中で闘っているような気がしていた。彼女の傷跡を俺が癒すと言えばおこがましくなる。彼女のなかで,傷跡の意味が,少しでも彼女を肯定するものになればいいと思った。

 「俺は構いませんけど…。」彼女は触られることを望むだろうか。

 「触れてもいい,おまえなら,私に触れても…。」

 …

 花の根広がる水場を見つけて彼女の髪を根元から濡らした。滴る水滴を緻密に舐めとった。ついでに歯で不揃いな長さを整えてあげた。襟元がさっぱりしたリンカは,くすぐったそうにしながら花の根はびこる水際に近づき,水面に映り込む姿を覗き込みながらしきりに揃った毛先を撫でている。

 「緊張した。こんなことするの初めてですよ。」

 「ただの毛繕いじゃなかったの。」振り返った彼女が緊張ほぐれず詰め寄ってくる。

 「そうですけど,心臓に悪くて…。第一,リンカだって身悶えして…」

 俺の口は塞がれた。彼女の頭部が勢いよく俺の鼻と口に激突してきたのだった。俺はそのまま悶絶して後ろに転がる。なっちゃんがあらあら… と俺を起こしに手を差し伸べてきた。

 なまじ,なっちゃんがアリのグルーミング行動を知っていたからこんなことに。

 アリはお互いを知るために,互いの匂いを確かめながら触角や舌を身体に這わせ合う。敵同士ではない,あなたに心を許しましたと確認し合う挨拶行為のようなものなのだ。ただし,通常は同じコロニーの同胞以外でこの行為をすることはない。ましてや,この女王様が俺にまだそこまで心を許すわけがないと踏んでいたのに…。読みが外れた。途端にリンカが素直に身体を明け渡したから…。俺を受け入れてくれてから…。気恥ずかしさを意識の外から締め出そうとしても,顔に熱が集中してきて堪らなかった。舐めるのが髪でよかった,背後からではリンカに俺の顔を見られることはなかっただろう。

 「後悔は,してない。」

 「そうかあ,よかったです。」

 「有難う…。」

 随分と小さな呟きだった。彼女を傷つけなかったのならよかったと,俺は胸を撫で下ろす。完璧主義らしい彼女にとって,自分で何かをするでなく,人に事を委ねるのはふんだんに勇気がいったことだろう。俺が少しでも彼女に貢献できたなら幸いだった。

 人に何かをしてもらうって,いいことでしょう…。

 …

 「私もやってもらおうかなあ。」

 なっちゃんがまたそんなことを言うから。リンカの熱を帯びた首筋と,見えない顔を思い出した。口元が緩んであんぐり口が開いた,さきほどの鼓動の高鳴りが蘇ってくる。

 えぇ,また,あれを,やるの…?

 しまった,完全にふたりに顔を見られたと俺が悟った頃には,リンカは驚愕の顔で俺に食って掛かってきた。

 「てめえ,なんだその表情。なっちゃん相手ならそんな反応…!」

 違う,リンカは見ていないだけだ。グルーミング中の俺の顔を見ていないだけ…。大体,さきほどのリンカの挙動が脳裏に焼き付いていて忘れられるはずがなかった。こんなこと,どう弁明したらいいのだ。あなたは可愛いいです…? いい匂いがしました…? そんなことを言ったら殺される。迷っているうちに左頬に回し蹴りの足が飛んできた。

 なっちゃんだけは全部見ていたはずなのに。助けて,何かうまいこと言って…。ナツキはあらーと微笑んでいるだけだった。

6

 私だけ,残されていた。

 ナツキは現実を拒み眠り続けた。ある時目が覚めると,森は表情を変えて,辺りは白い月光で照らされていた。昼も夜もわからず,泣き腫らしては眠り込むことを繰り返していたなかで,初めて見る月だった。夜は,微粒な空気が粘り気をもってゆっくりと漂っている。これが恒星の光なのか。自分が柔らかく朽ちていくような感覚がした。このまま目を閉じたら土に還れるのだろうか。

 閉じていた目を開けるたび,風景が少しずつ変わっている気がした。夢か現かはわからなかったが,望んでいた光景など一度も見たことはなかった。夢ぐらい好きな夢を見たいのに,寝ても覚めても心が安らぐことはなかった。静かな兄弟たちの背中から白い巨躯が生えだしてきて,みんなが木の幹を登っていく…。そうだったらどんなに心強いだろう。一度,夢うつつに兄弟たちの亡骸に何かの気配を感じたことがあった。一斉にひびの広がっていく背中…。しかし,そこから生えてきたのはおぞましい茎とツルだけであった。これも夢だ。覚束ない足取りでぐねぐねとした地面を踏み越え,兄弟の身体に駆け寄った私は,悲鳴を上げてまた目を閉じた。次に目が覚めたときには,より一層濁った兄弟たちの虚ろが菌に侵されて胞子に乗っ取られているだけだった。また,夢を繰り返していく。悪夢の日々。地面に伏せる。木の根に寄り添う。この白い墓場に身体を沈める。そろそろいいかな,もう二度と目が覚めませんように。

 私を抱きかかえる者がいた。きっと母さんだ。亡霊の時間がやっと終わるのだ。ついに私の番がきた。母さん,私をみんなのところへ連れていって。出逢うはずだった者たちのもとに私を正しく導いて。私がもたれた腕は太く,胸は堅かった。母さんじゃない。

 絶叫…

 何が起きたのかわからず,パニックになった。私を抱える者は誰だろう。

 死にたい。死にたい。死にたい。死なせて。お願い,死なせて。

 「ナツキ…,大丈夫よ…。大丈夫。」

 母さん,お願い,迎えにきて…。

 …

 「大丈夫ですよ。わかりますか,お名前言えますか。」

 死なせてほしいの。彼の応答は無慈悲に思えた。私を無理矢理生かそうとしている。そんな風に感じた。

 「もう大丈夫ですから。独りで怖かったでしょう。大丈夫ですから。立てますか。」

 力み続けていた足腰が大地に垂れ下がっていくのを感じた。身体が弛緩していく。立てます,歩けます,ひとりで歩けます…。下ろして。私はごつごつした木の根の上に不格好にへたりこんだ。うなだれて顔を上げることができない。嗚咽が再び漏れてくる。

 「ゆっくりでいいわ。気の済むまでそうしていていい。」

 突き放すような,見守るような,とにかく私を観察し,ただ傍にいてくれるような声色で彼女の声もした。ふたりの締まった足だけが視界に入った状態で,私は初めて誰かが傍にいることを痛切に思っていた。生きていくこととは,思いがけないことが起きること,思い通りにいかないこと…。

 …

 対象喪失。愛着を抱いていたかけがえのないものを失う体験のことを言う。ナツキの周りには兄弟たちの亡骸があった。何度目覚めてもその事実は変わらない。俄然とした死別体験は,ナツキに対して残酷に彼らが二度と羽ばたくことはないのだと,自分を迎えてくれることはないのだと,その願いが二度と叶うことはないのだと教えたことだろう。風化していく彼らの死骸は,彼女にみんなの死と時間の経過を突きつけ,事態を受け入れることを彼女に強要したことだろう。

 「自分だけが生き残ってしまったと感じているなら,それは当然の思いだと思うし,悪いことではないと思う。死者の存在は自分の無力感と,生きていることの罪悪感を遺してしまうから。」

 えっ… 彼女が小さな声を漏らしてこちらを向いた。

 「みんな死んでしまったら,どうして自分が死ななかったのか,何故自分だけが残っているのか,そりゃあ考えるよね。」

 クロはへらっと笑った。ナツキは目をぱちくりさせて,不安そうにクロを凝視する。

 「悪いことだと思っていたの。どうしようもない私だけが取り残されて…。折角,羽化できたのに,母さんが地上に出ることを待ち望んでくれたのに,ちっとも嬉しいことだとは思えなかったんだよね。それもおかしいことだと思っていたの。母さんはきっと,今,私が死に焦がれていることを望まない。そもそも,みんなと一緒に陽の光の中を羽ばたいていくことを願っていたの。みんなもいないし,私も飛べない。母さんの望むようには何も生きられない…。」

 ナツキの翅は伸び切らずに萎んだままになってしまっていたようだった。丈の短い翅のせいで硝子細工の胴体がよく見える。

 「何もできない感じがしても自分を責めることはないよ。この状況を受け入れていくのは大変なことだと思う。そう思ってしまうのは自然なことだったと思うし。君はひとりでよくやってきたよ。彼らが死んだのは君のせいじゃないし,君が死に焦がれるのも君のせいじゃない。全部自然なことだと思う。」

 喪の作業。愛着を感じる者を失ったとき,誰もが通る道だと考えられている。愛する者を失ったことに対する麻痺,無感覚。やがて,喪失の否認と抗議。長い時間を絶望と抑うつに苛まれて過ごし,最後に喪失感情からの離脱と再建に向かうらしい。彼女は随分長いこと眠りについていたようだ。彼女の眠りは事態と自分自身を受け入れるためのエネルギーの重鎮期間だったのだろうと思う。きっと,時折目が醒めては,少しずつ変わっていく風景に慄き,巻き戻ることのない時間の経過を恨んだことだろう。もし,兄弟たちがみんな羽化していたならという幻想と,裏腹に兄弟から伸びていく菌が示し続ける現実の観察との間で,とにかくひとりで過ごすということを強要されてきたことだろう。これまでも,これからも,彼女はまだ闘わなければならないのだろう。

 「ひとりは辛かったと思うわ。」

 後ろで腕組みしていたリンカがナツキをじっと見ながら呟いた。

 「私には,見守ってくれるような兄弟も優しい言葉をかけてくれる母もいなかったから,そこまで同胞を大事に思う気持ちは私にはわからないかもしれない。でも,ひとりきりで思案し続ける時間の長さはよく知ってる。よく耐えてきたと思うわ。」

 徐々に伏し目,リンカが内省するときは目を伏せがちだ。

 「言葉にすることも労力が要るよ。よく話してくれたと思う。君が,俺たちが傍にいることを許すのなら,君に何ができるわけでもないけど,俺たちはその気持ちを受け止めるよ。」

 ナツキは顔を上げて俺とリンカを見据えた。長い夢からパチリと目覚め,心の窓がふいに開け放たれたかのようだった。彼女の目が開くとき,それがガラス玉のように澄んだ瞳であることがよくわかった。色素の薄い,端正な顔立ちによく合っている。

 「そんな風に言ってもらったの,初めてだなあ。」

 糸目で柔和に笑うひとだとわかった。そしてすぐ泣くひと。

 …

  「ここで墓守をしていてもいいのよ。嗚呼,でも今まで十分してきたものね。」

  「いいの,死骸は何も生まないと思っていたけど,ここから先は兄弟たちが菌を育てていく場所になるだろうし。」

  「見ていて辛いかしら。」

  「いや,大丈夫だよ。眠っている間に,菌が姿を変えていくところ,ずっと見ていた気がするの。今は彼らを恐ろしいとは思わないわ。自然に任せようと思うんだ。」

 ナツキはこの地を離れることを決めたようだ。愛着を感じる者への想いを断ち切ることだけがいいことではない。しかし,感じ方は自ずと変わっていくものだ。ナツキが自身の心境の変化に気づき,それでいいと選択できたなら,それを尊重するのが俺たちの第一の振る舞いだと思った。彼女は大きな決断をした。これまでの時間を受け入れ始めたのではないか。

 「りっちゃんって呼んでもいい?」

 へ? リンカは不意を突かれて素っ頓狂な声を返した。興味関心を抱いて他者から呼ばれる初めてのあだ名だろう。警戒心の強い彼女の懐に,スルリとうまいことナツキが入り込んできた。そんな感じだった。

 「じゃあ,なっちゃんだ。」リンカの代わりに俺が返した。「勝手に話を進めるんじゃないわよ!」リンカが鬼の形相で俺の方を振り返る。多分彼女は厭ではない。

 「まぁまぁ,りっちゃん。」「おまえに呼ばれるのだけは厭だ,身の程を知れ!」俺には呼ばせてくれないらしい。

 「仲がいいのね。」

 唯一,呼び名の了承をもらえたナツキは後ろ手を組んで愉快そうにリンカと俺を眺めていた。

 「仲良くないわ! まだ,ほんのちょっとよ…。」

 ほんのちょっと心を許してもらえてるらしい俺は安堵した。無粋なことを言いそうになる。まだがあるなら,これからもきっとだろう。彼女さえよければ,俺はどこまででも付き従おうとこのときは思った。あなたが許容してくれるなら,俺はあなたをどこまでも受け入れたいと思った。

7

 突然,知らない他人が紛れ込んでいることに気づかれた。突然,俺はこの場で他人であることに気づいた。辺りは静まり返り,遠くからの跫音のみが木霊してくる。虫の息の仲間が数匹巣の中に倒れ込んでいる。驚愕した沢山の白い目が俺を見定めてくる。部外者。お前は誰だと。

 俺はクロオオアリの…。

 今まで一緒に居たのに。軽口を叩いてくる奴,親しげに声をかけてくれた奴,世話を焼いてくれていたひと,存在を気にしないでいてくれた者。みな,今となっては俺だけが異端であると指を差してくる。内と外の溝ができていた。姿が同じであることがそんなに大事か。俺たちは同居人ではなかったのか,俺が役に立たなかったから認められないのか。俺は最初から知っていたし言っていた。自分が誰か分け隔てなく開示してきた。自分の生まれは違うんだと。それでも一緒にいてくれたんじゃないのか。受け入れてくれていたんじゃないのか。

 俺は此処で育ったんだ,みなと同じように。俺の巣は此処なんだ。今更それは変えられない。望んでみなと違う姿に生まれたわけでも,望んで此処にいたわけでもない。物心ついたときには俺の家は此処だったのだ。俺のアイデンティティは此処にあるんだ。信じて。また口を効いて。対話をさせて。なんでもするから。「裏切者。」首を掻かれて捕らえられる。手足を抑えられ自由を奪われる。拘束。俺が敵だとでもいうのか。あなたたちの害になることなど,これまでも俺はしてこなかったはずだ,これからも決してしないと誓う。あなたたちのために俺は…。誰も俺の話を聞いてくれない。

 なぜ拒絶されるのかわからない…。

 喧騒が混沌を打ち破る。仲間がひとりまたひとりと悶えては息絶えていく。俺の巣が壊れていく。俺は何もできない。

 「うなされていたわ。」

 リンカの触角が俺の額を撫でる。誰かに捕らえられるように,くの字に身体を折り畳み横たわる俺を覗き込むような形で,リンカが覆い被さっていた。

 「起こそうか迷ってどうしようもできなかった。悪い夢でも見ていたの。」

 「昔の夢を見ていたような気がします。」悪意に曝された不快感だけを残し,記憶は煙を巻いて逃げていったようだった。俺が何を裏切ったというのだろう。

 「俺は何かあなたにできていますか。」「何を藪から棒に。」

 「誰かのために何かしていないと不安なんです。」

 俺は身を起こせずに,解き放されている手首を弛緩させた。重力に促されて俺の身体は鉛のように沈み込んでいく気がした。リンカが俺の頬に手を添える。俺たちの身体はいつも冷たい。

 「私は,自己価値を他者に委ねるのは傲慢だと思ってしまう。あなたは私に何を言ってほしくてそれを言うの。誤解のないように言うと,おまえを責めているわけではない。何かしなければならない焦燥感と不安は私もわかる。おまえが本当に欲しいものは何か,向き合って言葉にするしかないわ。」

 リンカは容易に甘言を返す相手ではない。自分を律することを第一としてきた女王様は,孤独との付き合い方が真剣なのだ。だから自己にも他者にも,誤魔化しを許せない。一時の姑息な嘘など口にできない。

 「誰かに必要だと言ってもらいたいときがあるんです。」

 「私は,『私はおまえが必要だからずっと傍にいてほしい』と言えるほど,おまえの行く末に責任をもてない。私は,今はおまえに傍にいてほしいけど,おまえの意思を無視して永遠に縛り付ける権限はもたない。いつか,私がおまえと距離を置きたいときもあるかもしれない。それは私もわからないから保障もできない。でも,私はおまえを嫌いではないし,ある程度は信頼している。わかってると思うけど,どうしたいか決めるのはおまえ自身よ。」

 俺は黙って彼女の紡ぐ言葉を噛みしめていた。頷くことしかできなかった。彼女の裏表のない言葉が優しかった。彼女はきっと,俺に伝える必要があると思って言ってくれたのだと理解できた。リンカは,相手を傷つける可能性があっても,相手に対して思う偽りのない言葉を慎重に選び取ってぶつけてくれる。

 リンカの体勢は変わらない。俺にもたれることなく寄り添い,俺の強張った口元を撫でていた。

 俺を受け入れてくれるのなら,俺ができる限りの全てを以って彼女に貢献したいと思っていたが,ひとりができることなど有限だとわかっていた。また,彼女が傷つきながらもひとりで踏ん張ってきたその手足を奪い,自立を妨げることも彼女自身の自己価値を損なってしまうとも感じていた。相手のために何かする行為と意欲は,結局エゴの押し付けから始まっている。エゴの押し付けを自覚せず,それを自分の拠り所とするのは,最早相手を視ていないに等しい。彼女の言うように傲慢だと思った。たとえば,ひとりで体勢を保っている彼女に抱きついてしまうのは,彼女が迷いあぐねて俺と向き合ってくれている深慮を無視してしまう。俺は身じろぎしなかった。

 「おまえは対話することがとても上手ね。おまえには,ひとの気持ちを掬い取って受け止める術がある。でも,たとえ何もできなかったとしても,おまえはここに居ていいと思うわ。何もしなくても,おまえはいいのよ。」

 返す言葉はなかった。俺には話をすることはできるが,何もしなくてもおまえはおまえだと,自分は居てくれるだけで意味があると,彼女はそう言っているのだ。彼女の思索が身に染みた。一時凌ぎに「愛してる」と言われるよりも有難かった。

 「あなたも,何もしなくても俺にとって…。」

 言いかけた途端,彼女の顔が俺の上に落ちてきた。思考が飛んだ。嘘,彼女から…? 目を白黒させて彼女の身体を支えるか迷っていると,頭上に黄色い嗤い声が飛んできた。

 「馬ァ鹿,馬ァ鹿。誰もいないと思ったでしょ。私に気づかずやらしいことする色ボケの馬鹿男女。」

 きゃははははは。稚拙な子供の声だった。「痛ッあ…。」リンカが唸っている。誰かに背中を押されたらしい。機知に富んだ対話の時間は乱暴に打ち切られた。文字通りのお邪魔虫。彼女の意思を奪う残酷な幼子地の悪ふざけ。彼女の初めての唇をこんな形で受け止めることになるとは…。悪戯が過ぎる。

 「きゃはは,さっきから見てたけど,じれったいから押しかけてあげたの。そこの腹黒アリ,私に感謝してよね。」

 がしがし,ばんばんとリンカを無邪気に叩く音がする。咄嗟にリンカを抱き留めて庇い,威嚇のために腹を突きつける。しかし,相手は子供だ。どうする。逆光を受け,豊満だが未成熟な身体の陰が俺の前にあった。奴の長い毛がふわふわと宙にたなびいて舞っている。

 「なァに,怒ったの? 女の前でいい面下げてんじゃないわよ,子供相手にムキになってみっともない童貞の青二才。」

 おいたが過ぎていた。口汚い悪餓鬼を黙らせないといけない。ふと傍らでゆらりと痩身が起き上がった。リンカが音もなく子供の前に立ち塞がる。

 「クソガキ,お前は喧嘩を売る相手を間違えたようだ。」

 「うぶなおばさん。子供相手にどうする…」刹那,キィキィと子供が泣きじゃくっていた。痛い痛い… 放せェ…。どうやらリンカが赤子の手を捻り上げているようだった。リンカの巨体に隠されて,ばたついているらしい子供の抵抗する音と,喚き声だけがわかった。

 「暴力っていうのは見せつけるものだと,習わなかったか。」

 「知らない,蛾ァ子学校行ってないもん!」

 「なら教えてあげるわ。」

 スパァンと子供の頬を張り飛ばす音がする。目上の者をからかうとこうなるのよ。女は女だけがぶてるんだろう。俺はその辺で… とリンカを制止しに前に出ていた。静寂。きっと子供の喚ばわる声が轟くと思っていたから,どうしたのかと思い俺は奴を凝視した。子供は唖然としながらぶたれた頬に手を当てている。目は泳いでいた。その目がリンカの方を呆然と見上げる。

 「お姉さま…」

 「お姉さま…?!」

 蛾ァ子の目は恍惚としていた。俺の女王様はまたひとり変な虫を付き従えたらしい。

8

 インプリンティング。初めて見た動くものを親と認識し,付いて回る。蛾ァ子の行動はそれを思わせた。ピョコピョコ跳ねながら,何かにつけてリンカに追従する。初めて見た動くものならぬ,初めて打たれた女性を姉と認識し付け回す…。朝から晩まで「姉さまー!」だ。蛾には走性の本能があったはずだ。意思を介さず光のある方に曲がってしまうように,目に入る姉の尻のある方向へ右に左に付き回しているのだろうか。リンカが水場に行けば一緒に水を掬い,蜜を舐めれば一緒に蜜を啜り,俺を殴れば一緒に殴り,俺にのしかかれば一緒になって馬乗りになってくる。間接的に俺へ降りかかる暴力沙汰が二倍になっている。いや,もっとだ。あいつは手加減を知らない。リンカは俺が手負いにならない程度にいたぶるのに対し,蛾ァ子は一挙一動に迷いがなく全力で振りかぶってくる。それにはリンカも手を焼いていた。

 「多少の暴行は快楽行為だ。でも,怪我させるのは違うわ。」

 「はい,姉さま。これくらいですか。」

 蛾ァ子は元気よく俺を足蹴にしてくる。「ちょっと痛い…。」「違う,もっと容赦して。怒りをぶつけたら駄目なの。」ふんふん…。加減を調整しながら俺を踏みつけてくる。そろそろこいつにちゃんとしたサンドバックを与えたらどうだろう。アリやハチといった節足動物は内臓が小さく腰が細い。これまでにも一度,あいつの踵落としを食らって,俺の胸が下半身とさよならするかと思ったことがあった。傷害致傷。こいつの手癖足癖の悪さは,今まで誰も他人との距離の取り方を教えてこなかったことが窺い知れる。

 「蛾ァちゃん,今日も精が出るわねえ。」なっちゃんが桃色に花開くツバキの木からスルスル降りてきて,何気なしに俺と蛾ァ子の間に入った。蛾ァ子はあれ以来女性に手を上げない。自然と俺の身体に休息時間が与えられた。

 「はい,師匠さま!」

 「師匠? 何の師匠?」

 「姉さまが拳で男を従える姉御肌だからァ,師匠さまは天然で男をまやかす魔性の師匠さま。」

 「えぇ…。」

 独自の理論を拡げながら,蛾ァ子はナツキもリンカ同様に慕っているようだった。蛾は群れをつくらない。多感な年頃で人懐っこいにも関わらず,これまで,他者と一緒に過ごしたことがなさそうだった。蛾ァ子は性に敏感だ。男女の親密な話題と雰囲気には自ら嫌悪感を剥き出しにして嘲笑してくるし,俺からリンカとなっちゃんを悪戯に遠ざけているように思えた。自分が男に対して素直に甘えることができずに,友好的な態度を嗜虐行為に変えて関わりを持とうとしているように思えた。その分,自身は女性にベタベタに甘くへばりついていくのだろう。

 「俺のことももっと敬っていいのよ。」

 「えぇ… じゃあ,お兄ちゃ…。いや,お前は違う。」

 俺には言葉でも甘えられないらしい。リンカとナツキに対する猫なで声を冷ややかに変えて,蛾ァ子は俺を蔑んだ。「何見てんの!」べしべしと俺の頬に往復ビンタが飛んでくる。暴力でしか男に触れられないのかもしれない。

 …

 蛾ァ子の姿を初めて見たとき,俺となっちゃんは大層驚いた。熟れ始めた少女の身体,ふくよかな肢体もっているのにも関わらず,彼女は身体を隠さなかった。彼女は髪が豊かで,同じだけ下腹部の毛も豊かだったがそれも隠していなかった。

 蛾は毛だらけの幼少時代から変態した後も,局部にはわずかに毛虫のときの毛が残るらしい。毒針毛。彼女は性の匂いを撒き散らしているにも関わらず,性的に関わろうとする者に最初から警告しているのだ。ヴァギナデンタタ。性的に関わりのある男性を去勢して噛み殺す民話。蛾ァ子の毒針毛は,さながら歯のある女性器だった。

 見るからに当惑したのはなっちゃんだった。さり気なく蛾ァ子の髪を編み込んで,身体を隠してやろうとしたが,裸でいることを好んで走り回る子どものように蛾ァ子の方から解いてしまった。やだァ,これがいいの。思春期の扱いの難しさよ。以来,俺たちは視界に入る度に戸惑いながらも,彼女のこだわりのファッションとして,局部を露出する姿を蛾ァ子の好きにさせているのだった。草間彌生のアートにも,生殖に関わる部分だけを隠さないファッションがあったな…。どこかで覚えたデモクラシーを想起していた。

 男性嫌悪の気があるリンカは,彼女の振る舞いと容貌に何か感じるものがあったのだろう。時折,彼女のメスの匂いを睨みつけることがあったものの,彼女の不器用な俺への関わり方を見るや否や,黙って俺へのコミュニケーションの取り方を調整させることだけに注力しているようだった。

 「恋や営みが何かについて触れる機会があれば,性に憎しみを抱くこともある。私はある種の女に媚びる男と男に媚びる女の頭の悪さが嫌いだけど,あの子も何かを経験してあの信念が培われたのでしょう。私たちのなかで男はおまえしかいない。私となっちゃんがほぼ無条件に慕われるのと同様に,おまえはほぼ無条件であの子から虐げられるんだと思うわ。」

 自分が無条件で虐げられるのには納得行かなかったが,男女を記号的に扱っているという考えは腑に落ちた。女を上に見て,男を下に見る。男女が手を取り合い色恋の気配を匂わせたら,両方侮蔑する。蛾ァ子の極端な人付き合いのパターンが見えた気がした。

 …

 花の花粉に頭を突っ込んで,きゃっきゃとリンカと戯れている姿を見ると,蛾ァ子はただの少女に見えた。俺はギザギザした葉っぱを切り取って畳む手遊びを始めた。それを見つけた蛾ァ子が葉っぱに包まってくる。

 「懐かしい,繭の頃を思い出す。」蛾ァ子は無邪気にごろごろと丸まりだした。

 「私,ヒトの家で羽化したんだァ。」「よく生きられたな。」

 「そのひと,優しかったから。」

 虫に優しいヒト? ヒトは虫を忌み嫌うのに。特に,蛾ァ子のような毛深いドクガは害虫扱いされることが多そうだ。珍しいこともあるもんだ。

 「ねぇ,ヒトと虫は結ばれないと思う?」

 突如,蛾ァ子が妖艶な眼差しで問いかけてきた。一般的な常識の範囲で答えるなら有り得ないだろう。しかし,世迷言,夢物語で片付けるには,光を反射しない蛾の目は俺の瞳孔を捉えたままじっと離さずに答えを待っていた。

 「私,その答え,知ってるんだァ。」

9

 朝になると,そのひとはまず眼鏡をかけた。身支度をして,着替えて,観葉植物に水をやってから,朝食を摂った。私は植物の陰から出てきたふりをして,テーブルに飛んで移る。彼の肩に座り,首筋にキスをした。それが朝の日課だった。

 ここはヒトが暮らす街,このひとの家。そして私の家だった。

 この人は朝早く出ていくときもあれば,ゆっくりと昼過ぎまで家で過ごすときもあった。寝ているだけの日もあったが,朝は必ず起きてきた。眼鏡をかけ,植物に水をやり,何かを食べる。そのルーチンのなかで,その人の顔の傍で翅を休める。

このひとはいいひとだ。蛾を振り払わない。

 「おはよう根尾君。」彼に聞こえない声で囁く。根尾はどこかで覚えた彼の名前だった。言葉は交わせぬ間柄だったが,彼は蛾を拒まなかった。私がひらひらと顔の周りを飛び回ると,根尾君は,にこやかにこっちを見てくれるのだ。彼の目線と指が私へコンタクトを図るサインだった。彼が家で過ごす間,私は彼の指に停まったり,手に寝そべったり,彼が寝ている間はこっそり顔の上に寝転んだりして,彼とずっと一緒にいた。長毛の私が近づくことを彼は許してくれていた。

 幼いころから私は毛まみれだった。けばけばしい警戒色をした,顔が埋もれるほどの長い毒の毛。ヒトは私を見ると私に触らないように悲鳴を上げてその場から離れた。キモチワルイ。私の毒の毛を外敵に使うことはなかったが,ヒトを遠ざける力だけは大いに発揮した。ひとりで這い回った末,草の上で一人遊びをするのに落ち着いた。時折,息ができないほどの成長痛に耐えながら,ひとりで身体を丸めていた。繭を破り,団子のような身体が弾力のあるくびれに変化しているのに気づいたとき,ようやく私は変われたと思ったのに,私の下腹部には忌々しい幼少の頃の名残があった。髪の毛で必死に隠していた。根尾君は,私に毒があることを知らない。時折,痒そうに眼鏡の奥の瞼を擦っていた。ごめんねェ,痒いよねェ。多分私のせいなんだ,でも一緒にいたいんだァ。

 「蛾ちゃん,今日はちょっとごめんね。」

 いつも通り彼の肩に登って頬擦りしていたら,彼がそわそわとして,私をグラスの中に閉じ込めた。伏せられたグラスのなかで,私は目を白黒させながら,彼の慌ただしい行動を観察していた。暫くすると,知らない女が家の中に入ってきた。この男はあっさり人間の女を家の中に招き入れた。ここは私たちの家なのに。恨みがましい目でじっと根尾君の動向を伺た。そして私の届かない薄暗いベッドから,くすくすと笑うそいつの声とごそごそとする音が聞こえた。そこは私たちのベッドなのに。情事。私はグラスの壁に手をついて,落ち窪んだ目で暗闇の方を見据えていただけだった。

 「スバル,サークルの先輩がさ…」「あれは本当笑った。」「あんただって…。」知らない世界の話をしている。私の知らない彼の話をしている。二人の微笑が腹の底から憎らしかった。

「喉乾いた,水貰うね。」

 裸の足がシーツから這い出てくる。私は触覚を逆立ててそいつを睨みつけているだけだった。華奢な手が伸びてきて,私の閉じ込められていた硝子の檻が取り払われた。「ゲエェッ,蛾ッ。」私は無力にもそいつに振り払われた。蛾はヒトには勝てない。吹っ飛ばされて全身がどこかに打ち付けられる。ベッドから漏れ出ていた可愛い声とは似ても似つかない耳障りな発声だった。

 「あっ,それは…。」彼が私に気づいた。痛い。こいつ,さっさとどこかへやって。

 「ごめん,違うの使って。」「ちょっと,ヤダー。もうサイアク,虫いるなんて。」「ごめんね。」

彼はそいつの肩を抱きながら,私の方を一瞥していた。根尾君,早くこっちに来て。私,痛いの。寂しいの。困ってるの。根尾君。つらいの,どうしようもなくつらいの。彼は申し訳なさそうに私から目を逸らした。

 なんで助けてくれないの…?

 かばってくれない男に絶望した。私を捨て置いた男に絶望した。こいつ,私に気づいていたのに。今まで一緒にいたのに。指を添わせてくれたのに。優しかったのに。あなたの顔は私のものだったのに。男の前で濡れ声を出す女なんかをとりやがった。私を捨てて蔑ろにした。

 落ち窪んだ目が涙腺を絞って涙が垂れてくる。夜風が吹き抜ける窓の隙間に身体を滑らせ飛び出した。

 許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。

 風に煽られ邪魔くさい髪の毛を振り払った。私の毒針毛が露になる。これで刺してやればよかった。飛びかかって,身体を押し付けて,私の内臓を潰してでも,深い深い皮膚の下まで針を押し込んでやればよかった。できなかった。愛してたのに,好きだったのに。私を守ってくれなかった憎らしさと,これまでの彼の優しい記憶が交絡する。情事なんかするから。二人で吐息を漏らして淫らな声なんか出してるから。「ごめんね。」私の知らない,火照った彼の顔。男女が重なる汚らわしい顔。

 地に落ちた。すり剥けた腕で顔に垂れた髪を払うと,翅と髪がもつれて都会のゴミに絡まっている。ラテックス。ふと自分の膨らむ胸と丸みを帯びた身体が目についた。私にもあの汚らわしい機能が備わっている… 気味が悪くて,胸糞悪くて,掴んでいた自身を引き裂いた。

 今度はためらわない。私を助けてくれない男に愛なんかやらない。自分の豊かな局部を鷲掴み,愛していたひとを呪った。

10

 「ご,ごめんね…。」

 フキの葉が空を隠し根が地表を覆うなか,混乱して彼女は呆然と立ちすくんでいた。それならまだしも,彼女の目からはぽろぽろと涙が零れていた。俺は自分が何かとてつもないことをしたような気分になって,慌てて身辺を整える。糞粒も隠した。つまり俺が何をしていたかというと,ただのトイレだ。人目を忍んで落ち着ける場所を選び,用を足しているところに,ナツキが居合わせてしまった。しまった,一瞬のこととはいえ,見られた…。

 「だ,大丈夫…?」

 「だ… 大丈夫,ごめんね,じきに落ち着くから…。ちょっと待って。」

 用を足した後では,彼女の背中をさするのも忍びない。何が彼女にこんな反応をとらせたんだろう。

 「男性の身体を… 見るのに慣れていなくて…。」

 困ったような糸目の目元を抑えて顔を覆いながら,彼女は俯いて呟いた。彼女は笑ったときや困ったときの顔はわかりやすいが,それ以外の表情がわかりにくい。泣くほどのときの表情はさすがにわかるが,これまでも男の身体を見て動揺していたのだろうか。俺は途端に,これまでのことが心配になった。俺が彼女を不快にしたことはなかっただろうか。フキの根は男根のように気味悪く,赤黒い色をして土にまみれている。彼女にとって男の身体は異物か。

 「これまで,俺,大丈夫だった…?」

 「りっちゃんとふたりで居る時は,クロ君わりと無防備だから…,色々見えてたかな…。わ,脇とか,お腹の… け,毛とか…。だからそういうときは遠くに居たんだ。」

 「そう,無理に思い出さなくても… お見苦しいところをお見せして。ごめん,気を付ける。」

 俺は既に整えた身体をさらにくまなく整える。恥ずかしくて触角をおのずと擦り合わせる。通りで,リンカとふたりで居るときになっちゃんが姿を見せないわけだ。なんとなく,俺たちに気を遣って姿を消しているものだとばかり思いこんでいた。というか,俺はリンカといるとき,そんなに隙があるんだろうか。そりゃあ,一緒に寝っ転がったり寄り添ったりはしたけども…。確かに,そうしていると俺にも,リンカの肋骨の浮き出た胸がかがんで見えそうになったり,締まった脇が見えたり細い太ももが見えたりはしたけども。いや,それは俺にとってドキリとはするものの決して厭なものではなく… いや,それは今関係ない。

 「気づいたんだけど,男性の身体を見たときとか,私,なんか泣いちゃうんだ。びっくりするのかな…。わからない,得体の知れないような気がして…。もちろん,クロ君が普段から気持ち悪いとかではないんだよ。普段見えないような部分がちらついたときに,急に自分にはない脅威の対象であるような感覚がして…。男だ,って思っちゃうの。」

 唸りながら俺は頭を掻いた。男の身体をもつ以上,今となっては,なっちゃんとの距離感が難しい。怖いと言われたら近づけない。

 「俺と一緒にいるのは平気なの?」

 「一緒に居ることは平気だよ。ごめん,気を悪くしないで。」気まずい空気が流れていた。彼女は顔を擦り擦り洟を啜って落ち着き始めてきたようだった。

 「あー! 腹黒が師匠様泣かしてるー!」

 露出魔がきた。一瞬,話がややこしくなると思ったが,そういえば,なっちゃんにとって女児の身体が露見していることはどうなんだろうと思った。「こいつはいいのか?」

 「蛾ァちゃんは,最初は身体を隠すことを知らない子だと思ったの。だから,最初はそういうものだと教えようかと思ったんだけど…。蛾ァちゃんは蛾ァちゃんなりの考えがあってそうしてるんだもんね。最近慣れてきたよ。」

 「蛾ァ子,ビビりな男が嫌いなの。こうしてると大概のひとは寄ってこないんだァ。」そりゃそうだ。誰が性器を露出している女にビビらないものか。

 「女性の身体は,自分も持ってるし。美しい,綺麗だと思うこともあるわ。でも男性のはね,慣れてないから…。」

 なっちゃんは,ピョコピョコ跳ねる弟子の頭を撫でながら困ったように笑った。「なァに, 身体の話?」「そうだよ,私が男性に慣れてないって話。」そういえば,蛾ァ子やリンカと違い,なっちゃんは積極的には俺に触れない。男の身体にまつわる全体が彼女にとって異物なんだろうか。

 「蛾ァも男の身体は自分が持ってないから,わけのわかんないときはある。交尾に関係すると,男の身体は気持ち悪い。でも,なんともないときもある。」

 ハァ―――――~~~~~~~~~~~~~~~~……………!!!!!!!!!!!!

 突然の衝撃に頭が真っ白になる。なんかやらかすとは思ったが,あまりにも酷かった。蛾ァ子は俺の急所を蹴飛ばしたのだった。俺はもんどりうって腹を丸め,息も忘れて頭の中に広がっていく宇宙を見た。この感覚が… わかるまい… さぞわからんだろう… わかるわけなかろう…。見る余裕は毛頭なかったが,なっちゃんが蛾ァ子を叱ってくれているっぽい。

 「まじでやめて…。本当,これは駄目。死んじゃう。」

 「私はなんともないことを実証したかっただけなのにィ。」なっちゃんが,でもこれは駄目だよ… と,ふらふら立ち上がった俺を見ながら蛾ァ子に謝ることを促している。蛾ァ子は,悔しそうに地団駄を踏み,しかし悔恨の表情で俺にしぶしぶ謝る。

 「自分が持ってない部位のことはわかんないでしょォ。わかり得ないでしょォ。」

 蛾ァ子は恐らく,理解の壁の根源を実証したかったのだと思った。確かに,俺が女性の身体について,触れられたらどんな感覚なのかなど,想像することしかできないし,その想像も実際の彼女たちの感じるところには及ばないだろうことは腑に落ちる。

 「実現性はないけど,その感覚を自分のものとして感じることがない限り,異性の身体なんて,未知なものなんだろう。いくら慣れたところで,おそるおそる見て触るしかないような気が俺にはする。自分の感覚がないところなんて,理解することに限界があるんだろうな。」

 俺が呟くと,なっちゃんは薄目を開いて考えを巡らせているようだった。胸に手を当てて鼓動を確かめるようだった。女性がもつその自身の胸の感触も,俺は知らない。彼女の鼓動がさざなみのように彼女の手に伝播する感覚は,俺にはわからない。一生,自分の感覚として理解する術はない。不知のもの。

 「そうだよ,大体,痛覚がない,見えないところだってどうなってるかわからないのに。知ってたァ? 脳みそってピンクじゃないの,灰色なの。脳の表面は髄膜に覆われて白く濁ってるんだってェ。根尾君が勉強してたァ。」

 脳が灰色…? そんなものが俺の頭の中にあるのか…?

 「あぁ,アリの脳はまた違う色なのかも。」蛾ァ子は不謹慎な遊びをするかのように嬉しそうに目を輝かせて話した。俺には自分の脳が何色であるかの感覚などない。自分の身体のことだって,わかっちゃいないのだ。女性の身体の感覚も,自分の脳の色の感覚も,ないゆえにわからない。クオリア。What it is like? それになった感じとはどのようなものか。それは言語的に概念をわかることを指すのではない。経験しないとわからない感覚,それをもってクオリアというのだろう。誤解を恐れずに拡大解釈するのであれば,ひととのやりとりにおいても,そのひとのもつ状態と置かれた状況を全くまるごとコピーして,主観的に体験しない限り,そのひとの感覚はわからない。俺が何を言い,相手が何を思ってどう返したのか,その入力と出力のプロセスはわからない。相手が自分の心のプロセスをどこまで自覚し,どう認識したのかさえ,見込むことはできない。

 「そうかあ,私。なんとなくわかった。」なっちゃんが珍しく弾んだ声をして,俺の黙然を散らした。

 「私,男性の身体を全然自分とは別の生き物だと思っていたよ。だから怖いんだと思ってた。でも,きっと,自分の感覚として知ることができないからわからないんだね。確かに,自分が男性だったら,男性の身体をもっていたら,今の私が女性の身体の感覚を当たり前のものとして受け入れるように,男性の身体の感覚も当たり前のように受け入れたんだと思うなあ。」

 なっちゃんは少し晴れ晴れとした顔をしていた。彼女の小さな触角がピンと上を向いている。わからないことがわかった。そんな感じだった。蛾ァ子がいいヒントをくれて何か気付きを得たようだ。嬉しそうななっちゃんの顔を見たら,俺の痛みも無駄にならなかったのだと自分に言い聞かせることができた。こうして俺は,また蛾ァ子を甘やかしていく。

 「男性の身体といえばねェ…。」そう思った矢先だった。

 「精巣のがんの手術って,身体のなかに小さな爪のついた棒を突っ込んで,睾丸を切除していくんだって。睾丸を剥くときは,小さな球根を剥くように,一枚一枚皮を剥ぐように切っていくんだって。根尾君が勉強してたァ。」

 「神経を千切るときは,プチプチ音がするんだって。植物の小さな根っこを千切るような音がするんだってェ。」

 そう言いながら,蛾ァ子は嬉々として足元にはびこる根を力いっぱいブチブチと千切っていく。男の臓器の感覚は,彼女たちにはさぞわからないだろう。あーあー… 困った顔で笑うだけのなっちゃんを尻目に,俺は喉の奥で悲鳴を上げながら耳を塞いで目を閉じた。

11

 世界の終わりが近づいているようだった。薄暗い大気のなかを大粒の土砂降りの雨だけが突き刺さっていく。雨は,あらゆるものを弾き,湿らせ,染み込んでいく。自然がぬかるんで世界に柔らかく亀裂が入っていくようだった。自身の警戒色をした大きな腹に水が滴り,蜜のように雫が垂れていく。

 このような瞬間は,この世は舞台装置だと思う。実は,今この瞬間に私の周りに集っている雲も,霧も,空も,木の根,草の根,花,土,石たちも全て,既に駄目になった世界のなれの果ての上に大道具のセットが突っ立っていたような気がして,それらが今まさに廃れた姿を垣間見せているような気がする。それに連なり,私も既に駄目になっていて,駄目になった私の上には,余暇を持て余した私が突っ立っているような気がする。

 私はクロたちと一緒に草の裏にしがみついて雨を凌いでいたが,捕まっているこの手足の感覚ははっとするたびに失われそうになってしまう。本当に捕まっているのは私なのか,本当に今ここにいるのは私なのか,ふとわからなくなる。もしかしたら,私とはこの景色をどのようにかして遠隔で見ている他の誰かではないのか。もしかしたら,どこかでいつか見たこの景色を,私は遠い夢として回想しているのではないか。離人感。身体や精神が自分が切り離されたような感覚,自分を外から観察しているような感じ。自分が外界から切り離されているような感じ。それが今私に起こっていることだとはわかっていた。ただ,どうしようもなく,今ここに私が草木にしがみついている感覚が,私になかった。まるで既に,自分が今,自分として生きていることを諦めているかのようだった。このような感覚は今までも時折あって,そういうときは,ただ私が保持する記憶が本当に私のものであったのか,ただただ回想することになるのだった。

 クロが黙りこくって虚ろな私に気がついた。これまでも何度かあったように,この男は私の調子が優れないことに気が付いた。こういうとき,私はすぐに言葉を発することができない。自分の口が自分の意思で動かせないような気がする。もごもごとした感覚だけを伴って,私は私の口を動かせないでいた。ただただ見つめ合っている。クロはこのようになった私が何も言わないことを知っている。腕を回し,私を掻き抱いて傍にいることをした。なっちゃんも蛾ァ子も各々葉の裏にぶらさがりながら傍にいる。4匹は滴る水を互いに移し合いながら,団子になったように身を寄せ合っている。

 これは既に駄目になった私が見ているだけの死後の景色なのではないか。余生。ロスタイム。おまけの時間。緊張の糸を張り詰めて,なんとかやってきたばかりの私に残された束の間のゆとり。駄目な私が社会から切り離されて,機械仕掛けに世界が動いているだけなのではないか。クロなんかは,私が駄目になって独りで塞ぎ込んでいるところに,私に対し影響を与えるためだけに通りかかった通行人の最たるもののような気がする。罪人が地獄に落ちる前に,その波乱に満ちた人生を神から憐れまれ,刹那的に愉悦を与えられる快楽の地の話があった気がする。クロのような通行人は社会に出る幕のなくなった私の寸時を過ごすためだけに神が用意した私の延命装置のように感じた。だから私は彼が恐ろしくなかったのではないか…。

 この曇天の下,草木の根はびこる地が舞台装置であったなら,さながら,社会から切り離され,陰鬱で,ただ何者でもない自分を思い知らされる閉鎖的な部屋のような舞台だと思う。宇宙がいくつもあったとして,そのうちのひとつに私たちがヒトとして生まれて出逢っていたとして,私たちの構造をコピー & ペーストしたら,今のような繋がりを築くことができただろう。社会からはみ出た若者たちが集う場所。そこにたむろする,落ちぶれた虫けらども。頭のこじれた面倒くさい私と,ひとに優しいが自信のないクロ。近隣者の死がついてまわったナツキ。性愛を許せなくなった蛾ァ子。そこで繰り広げられる会話劇は,その瞬間瞬間の各自の判断によって蓄積された各自の自我で,それはインターネット回線で処理される何メガビットパーセコンドのデータの蓄積と同等だろう。

蛾ァ子: 思考するのに忙しいから学校行ってる場合じゃないのw

クロ: おいこら不登校生w

クロ: でも蛾ァ子はちゃんと考えてそうだからキニシナ━━━(・∀・)━━━イ!

ナツキ: ここにいる人はみんな自分をもってるよねえ

クロ: 濃いよね(´∀`)

ナツキ: でもクロ君はちょっとみんなに負けてるかな(ぁ

クロ: 工工エエェェ(゚Д゚;)ェェエエ工工

クロ: φ(_ _〃)イジイジ…

蛾ァ子: www

ナツキ: w

蛾ァ子: みんなをなんとなく虫にたとえたらさァ

蛾ァ子: 私は蛾,お姉さまはハチ,腹黒はアリな気がする。師匠様は… セミ?

ナツキ: セミ北海道にあんまりいないw

クロ: どうせ俺はアリですよーφ(_ _〃)イジイジ…

ナツキ: でもなんかイメージ合ってる

リンカ: 飛べたことなんて

クロ: ん?

リンカ: 飛べたことなんて,あるのかしら。

クロ: 俺飛べないじゃないですか(゚Д゚;)

 …

 豪雨。腐葉土の酸っぱい臭い。地面が揺らぎ,草木に捕まる私の手の感覚がないことに恐怖を覚える。いつかこの手が離れてしまいそうだ。

「これ,やばくないですか。」蛾ァ子が触角をしゅんと垂らして私を見ている。

 「アイデンティティクライシス。」私の口が誰にも聞こえない声をようやく発した。自分らしさとは何か,自分が社会のなかで生きる意味は何か,何の能力があるのか,自己探求を続ける者が一過性的に経験する自己喪失の状態。自分がわからず,立ってる大地が揺らいでいる。

 「私,今なら飛べる気がする。」「危ないよ。」一瞬のことだった。なっちゃんが言い終わらない内に,蛾ァ子は衝動的に葉の裏から飛び出して… 稲光。跳躍と自由落下の間に,確かに稲妻の方へ旋回した。そして地面に叩きつけられた。

 「蛾ァ子。」「蛾ァちゃん。」空を穿つ雷鳴に飲まれながら,3匹は咄嗟に手を離し地面に飛び降りる。この目はその瞬間を引き延ばして捉えていた。足が宙に浮き,手が草木を離れ,弧を描くように淀んだ大気のなかに飛び込んでいく。大きな雨粒が不思議と私たちの身体を避けて降り注いでいる。なにものも私たちが大気に居ることを妨げない。空中を通り抜ける身体。瞬きをすれば私たちは地面に身体を折り曲げていて,身体に大きな雨粒を叩きつけられて伏していた。今,確かに私たちは飛んでいた気がする。

 「蛾ァちゃん… この感触…。」崩れた髪をそのままにしたナツキが蛾ァ子の腹に手を当てて私を振り返っていた。虫の身体はいつも冷たい。その身体が冷え切って土砂となった大地に押しやられる。盛り上がる樹木と草の根の割れ目に飲み込まれる。轟音が聴覚を奪う。土の酸っぱい臭いが嗅覚を奪う。暗闇が視覚を奪う。荒々しい大地の反逆のなかで,揉みくちゃになりながら私に触れているものがあった。何が骨か節かも,どれが虫の身体が土砂かもわからない。その中で絶対に私を離さないものがあった。

 「リンカさん,俺はあなたと一緒です。」

 私が名付けた… クロ…

12

 死屍累々。アリの戦争はどちらかのコロニーが根絶やしになるまで終わらない。勝敗が見えていようと,目の前に外集団がいれば殺す。投降や降参はありえない。攻めるために,守るために,戦うために最後まで戦う。優勢な方はおろか,劣勢の方に至ってもそうであった。いくらコロニーの崩壊が決まっていても,彼らは抵抗し,奮闘し,死体の山を増やしていく。

 俺のコロニーは戦陣に立っていたアリが負け,巣の深くまで先方の侵略を許していた。先方は安上がりの兵隊アリだけではなく,百戦錬磨の精鋭部隊までが踏み込んできている。負けは見えていた。

 む… 部屋に入り込んでいた乱獲者のアリが俺に気づいた。息絶えた者の気管に牙を立て,肢を拘束し,獣のような眼をしていた。首をしゃくって荒々しく亡骸を吹き飛ばす。亡骸は物のようにどしゃりと音を立てて地面に転がった。

 「君は同志か。」

 目の前のアリは俺と同じ姿をしていた。普通よりも一回り大きな,光沢のない黒々とした身体,丸みのある背中,突起のある腹柄節…。俺がこの獣の同志…?

 「我々はクロオオアリだ。君の血統を問おう。」

 「俺もクロオオアリだが… 育ちはこの巣だ。」

 「構わん。本来ならば我がコロニーは,古代統一成立以来,単一の種族,文化,歴史を有する統制された集団より構成される。それこそが我々のもつ伝統。他のコロニーに属する者は受け付けん。こいつらのように完膚なきまでに徹底的に掃討するまで。」

 目の前のアリが,放り出された亡骸の肢を踏み潰し,地面になすりつけた。

 「だが君の生まれは我々と同じだ。我々は,将来を見据え,コロニーのさらなる拡大のために多様性を重んじている。君を迎えることも吝かではない。」

 死体を前にして,その死体を成し上げた狂暴なる顎と牙を持ちながら,このアリは何を言っているのか? と思った。何故俺を生かそうとする…?

 「俺はこの巣に,このコロニーに属している。俺のルーツは此処で,アイデンティティは此処にある。俺は彼らの…」仲間,そう言いかけて「裏切者」と呼ばれたことが脳裏を掠めていく。

 「君の名は何という。」

 「俺は,クロオオアリの… Claude…。」

 「クロオオアリの姿をして彼らと違う名前を持つ君は,本当に此処で受け入れられていたと思うかね。そう思うなら構わん,此処で巣を守り華々しく散るといい。我々がその引導を渡してやろう。しかし,我々なら君をより受け入れることが可能だ。それは偶然にも君が我々と共通する種族であるからだ。君の生まれは君が選んだことではないが,その偶然を喜ぶ機会もあるということだ。本当の仲間に出会えたことを君は喜んでもいいのではないかね。」

 「本当の仲間であるとあなたが言い切れる根拠は,血統ですか。」

 「血統に基づく。純血主義であるなら我々は君を迎え入れる提案はせん。異なる文化と歴史をもつ君を受け入れられるのは,我々にその体制があるからだ。君のこれまでの経験に我々は敬意を払う。こいつらのように君を拘束し,君を恐れ,敵だとみなすことはせん。」

 目の前に転がる亡骸のアリは,俺がこの巣で外集団だと見做されてから,周囲に命じられて俺を恐る恐る拘束していたアリだった。以前は,俺を慕い,俺と一緒に行動することもあったアリ。最後は,不安そうに俺を見ることはあったものの,何かに怯え,迷い,俺を不審者であるかのように扱い,口を効いてくれなかった。

 交渉の形をしながらも,このアリは俺の話を聞いてくれていた。対話ができることに純粋な嬉しさを感じた。そして仲間である根拠を担保するのが,揺るぎない血統であることも安心を覚えた。俺が受け入れられるべきは,このアリのコロニーなのかもしれない…。

 「あなたたちが俺を受け入れてくれるなら,俺はあなたたちに付いていきます。」

 裏切者。口のないはずの亡骸からそう罵られた気がした。でも,彼らは俺を拒絶した…。

 「よかろう。Claude,我々は君を歓迎しよう。」

 目の前のアリが俺の背中に回り俺の首根っこをがっちりと咥える。肢は俺の肢を抑え込み,腹は俺の腹を力強く撫でた。匂いづけの体勢だ。匂いは同じコロニーに入るための同志の証。俺は迎え入れられたのだ。

 俺は目の前のアリに連れられ,地上に向かって進んでいく。俺の記憶を遡る。俺の愛着を遡っていく。俺の愛した巣,俺の愛した仲間たち。最後,俺が誰とも対話できなかったように,みな,今となっては物言わぬ屍と化していた。美しい,艶やかな肢体が,無残にへし折られ,食いちぎられて,砂にまみれて転がっていた。痛ましかった。この巣は壊れたのだ,俺との信頼関係も壊れたのだ。もう二度と,話し合うことはできない。喪失感を抱き抱えながら,俺は一歩一歩外への経路を歩み進めていく。しかし,不思議なことに俺は生かされた。俺には次があるらしい。俺の出自と名前を,今度こそ堂々と名乗れるらしい。期待は俺を勇気づけた。

 俺は外に出た。屍の道はまだ続いている。陽の光が真新しく辺りを照らし,地中に慣れていた俺の目を眩ませた。

 …

 「君には精密な身体検査を受けてもらう。」

 「身体検査…? 俺は丸腰で,この通り兵隊アリでも偵察アリでもありません。あなたもさっき俺を抱えて俺が何も取り得のない身体だということはわかったはずでは…?」

 「我々にとって必要だからだ。危険な因子ではないことを証明しなければならない。身体検査の次は思想検査。危険思想の持ち主でないことを明らかにせねばならん。さらに,君は所定の時間,巣の特別な部屋で過ごしてもらう。何,心配は要らん。みな,こういうことには慣れている。迎え入れる同志の潔白が証明できるまで,細やかな目配りで世話を焼くだけだ。君は外敵ではない。多少,軟禁生活を強いるが,君の血統は我々と同じなのだから。」

 異なる文化と歴史をもつ君を受け入れられるのは,我々にはその体制があるからだ…。

 言葉の意味をここにきてから理解してしまった。俺が何者で,本当に血統を同じくする仲間であることが証明できるまで,俺は人権をもたないのだろう。とんだ後出しじゃんけんだ。一視同仁,生まれに繋がる全てが同じになるまで,俺は監視され隔離される。元のコロニーと変わらない,ここでも俺は同じであることを求められる。血統が同じであるから,すべからく根本は同じであれと言われている。何が多様性だ…。

 「そう恐れるな。君は今ただのアリもどきだが,我々は君を…。」俺は気配を消して逃げた後だった。

 「…どこへ行こうというのかね。ふん,まあいい。要らぬ手間をかけた。」

 …

 俺は普通にひとと話したいだけだ。相手がどういうことを考えていて,俺はそれに対しどう思うのか。相手と意思疎通を図り,俺と共通のものも俺がもっていないものも,新しく取り入れたいだけだ。何故俺は何処にも所属できないのだろう。普通に生活できないのだろう。普通のアリであれば,仲間になれと言われてこうも傷つくことはない。なぜ俺は普通のアリでないんだろう。生まれが何であるとかではない。持ちうる全ての特徴をひっくるめて,なぜ俺は俺でしか居られないんだろう…。思い上がったことを願うならば,俺の全てをありのままに対話できるひとがいたら,どうかそのひとと巡り合うことは叶わないのか…。これが思い上がり…? これこそ普通のことではないのか。だがそれを俺が甘受できるほど,俺が恵まれているとは思えない…。俺はなぜ,当然のように欲する何かを得ることも,望むことも,その自信もないんだろう。

 俺は逃げた。行き先はわからなかった。自分のこともわからなかった。このときは。

第2章

13

 苔むした湿地の洞のなかで俺は正座していた。暗い視界に鎮座する,相対色の毒々しい赤い身体。この褐色の大きな腹を目の前にすると,本能的に畏怖を感じる。コロニーの中で生きるアリの習性か,女王たるものにかしずくように身体ができているようだった。

 「アタシはねェ,この身体だし,もう子供は望めないと思うのよ。運よく雄蜂と巡り合えても,私にはコロニーを単身で築く体力はないと思うの。本能はね,産めよ増やせよでえっちらおっちら自分の城を構えろと,身体の髄から末端まで指令が出ていると思うけどね。実際のところ,アタシはここで越冬しながらやがて死ぬと思うの。」

 俺は返答に困ってだんまりしているだけだった。希死念慮とはちょっと違うと感じた。

 「別に悲観的に言ってるわけじゃないのよ。昆虫は数の生命力だから,アタシみたいな個体がいてもいいと思うのよね。親に言ったことはない? 誰が産んでくれと頼んだって。まア,アタシがそう思ってるわけではないけどね。つまるところ,アタシたちは生きたくて生まれてきて子孫を増やし種の繁栄に貢献するなんて大それたことを,常日頃念頭においてるわけではないのよ。身体はそうなってるかもしれないけど。アタシは自分の手足が届く範囲を,考える葦として過ごしていくに尽きるの。」

 巨体の女王蜂は傍らにあった蜜を指に乗せ,宝石のついた指輪を眺めるかのように目の上に高くかざして眺めた。彼女の肩まで伸びた淡色の癖毛が首の動きに沿って揺れる。妖艶の一言に尽きた。彼女は世捨てびとのようで全てを持っていた,赤く長いはずの2本の肢を除けば。

 彼女は指の蜜を指の背を差し俺に舐めさせた。俺は恐縮しながらおずおずと彼女の指に舌を這わせ始めた。俺の知ってる痩せ細り尖った指先とはまた違う,しなやかな冷たい指だった。

 「クロって言ったわねェ。アナタ,あのひとの付き合いはそんなに長いわけじゃないでしょう。あの人がコロニーを飛び出したのも,アタシが独り立ちをして肢をなくしたのも,暫く前のことだから。あのひと,アナタにコロニーに居た頃のこと話した?」

 「具体的には聞いていません。ただ,しんどい思い出が多いんだろうと察しました。」

 舌にねっとりと絡みつく蜜を舐めとり,頭まで痺れるような甘さで満たされると,俺は,伏せていた目で再び彼女を見上げながら答えた。

 「あのひとは,怖かったわよ。もともと悪い意味で孤立していたとも言えるけど。アタシがひっそりと陰から騒ぎを傍観できる立場をとれたのとは反対に,あのひとの周りにはいつも民度の低い小娘たちがいて,あのひとを謗っていた。あのひとはある意味で華があるのよねェ,それも棘だらけの。そんな孤高な感じがあったから,ただの井戸端にある低い花壇のようなアタシたちのコロニーの中では,高飛車で,人を見下している殺気が匂っていた。民度の低いやつらが,誰でも一度は興味本位でつっつきたくなるような,触って痛いって騒ぎたくなるような。玩具にされてたと思うわ。別にアタシはあのひとと直接何か話すようなことはなかったし,向こうもアタシのことは覚えてないと思うけど。」

 彼女は一旦,煙草の煙でも吐き出すかのように長い息をふっと吐いた。

 「あのひとはね,栄養失調じゃないかと思うくらい痩せだしたのよ。もともと太れない身体だったみたいだけどね。次期女王として生まれたアタシたちのなかで一番細かったのが,働きバチや雄バチが持ってくる獲物に手を付けなくて,あるときから極端に痩せだした。このままでは独り立ちして巣をつくるなんてことできるのかしらってくらい棒きれのようになった。辛うじて女王蜂らしい腹だけは維持されたみたいだけどね。その点ではアタシと同じよねェ,女王としての生まれに逆らうかのように生きるしかない。自分に惚れている男たちの差し出すものを受け取らず,邪険に扱い,女王として生まれた立派な巨体をみるみる痩せ細らせていく… あのひとの行為の全てが,他の次期女王の小娘たちの神経を逆撫でしたんでしょうね。どう見ても生きづらそうよねェ。」

 くっくっと声を漏らして,自嘲混じりに彼女はニヤリと笑った。

 「でも,いつも姿勢がよくて,まっすぐな長い髪が乱れたところを見たことなかった。凛とした女よねェ。」

 リンカの髪は長かったらしい。一度,見てみたかったと思った。でも,俺と出会ったとき既に,彼女はざんばらな頭にも関わらず,まっすぐ射るような目つきで俺を見据えて佇んでいた。憎悪と聡明さを以って他者を見定めるあの目。

 「今は,彼女,髪は短いですよ。」

 「そうなの。まア,生きていたらね…。」

 俺は黙り込んだ。あの土砂崩れ以降,みんなバラバラにはぐれて,彼女の行方もわからない。俺がグルーミングしたときに切ってあげたあの流れるような艶やかな短髪。今にも香ってきそうな彼女の匂いが俺の想像のなかで霧散する。

 「まア,気を落としなさんな。少なくともアタシは懐かしい話ができて嬉しいわ。アタシは,きっともう二度と,彼以外の他の虫と出逢うことはなく死んでいくと思っていたから。」

 「せめて飛べたらな。」

 俺が振り返ると,彼女と視線を交わすマルハナバチがいた。ぬいぐるみのような毛玉のような,ふわふわで柔らかい癖毛に覆われ,ずんぐりむっくりした体躯の青年。不愛想な口ぶりと,腕組みした仏頂面とは裏腹に愛嬌のある風貌だった。

 エドとライゴ。ふたりとも翅はなかった。ライゴは羽化したときにうまく翅を乾かすことができなかったらしい。エドに関しては他の虫に襲われた際に翅だけでなく両の肢も失っていたという。

 オオスズメバチの成虫がもつ身体の構造上,エドもリンカと同じく腰が細く,小さな細切れの餌しか食べることができない。肢も翅も失ったエドは自給することがほぼできなかった。それを養っているのがマルハナバチのライゴだった。エドが翅と肢を失って為す術なく死を覚悟していたところをライゴが見つけ,それからこの洞の中で,ふたり暮らしてきたらしい。ライゴは茎をよじ登り花のなかに潜り込み,蜜を運ぶことができる。なんとなく気が合ったふたりは,まるで女王と従者のように異種間でふたりの巣を設けていた。

 「すっかりお世話になってしまって…」「別にいいのよ。」

 エドが即答した。しかし,先程俺が舐めた蜜を運んできたのはエドではなくライゴである。俺がここで生き永らえることは,ふたりの生活に踏み入るだけではなく,ライゴがせっせと集める蜜を掠めとることを意味する。俺もなんとか五体満足ではあったものの,土砂崩れに飲み込まれて,手肢の節々を痛めており,今の身体では自給はできなかった。俺は振り返りライゴの方を見やる。

 「別にいいぞ。」ライゴは俺とエドの視線を感じて,あっけらかんとして答えた。「気にしてない。」

 ライゴは言葉少ない男だった。申し訳なさは感じるものの,その素直な口振りから,「遠慮するな,負担でもない。」と言われているように,俺は解釈した。俺は,その解釈を信じることにした。

 「アナタも手負いなことだし,前も言ったけど,好きなだけここにいたらいいわ。別にアタシたちは構わない。」

 歯がゆかった。彼女と彼にいつか何か返すことができない自分がどうしても申し訳なかった。俺はすぐにふたりの生活をそのままにしてここから去り,邪魔になりたくはなかったが,今はそれが叶いそうにもなかった。多分これは俺の試練だと思った。対話することしかできない俺がひとに助けられながら生き永らえる試練。

 「ひとはね,まア,アタシなんかはずっとだけど。別に,荷物みたいにして生きても罰せられることはないのよ,悪いことではないのよ。少なくとも,アタシもライゴも,アナタのことを邪魔だとは思っていないから。」

 「有難うございます…」

 それでも募る申し訳なさをどうしようもなく感じながら,俺は決めていた。養生したら,身体が大丈夫になったら,俺はリンカを探しにいく。

14

 「DPAT?

 「そう,今日の講義を担当する先生がそれに駆り出されたから,今日は休講やって。」

 「じゃあ自習してくかなあ。」

 数日前,大雨により県内の一部の地域で河川の氾濫が起きた。その日は,街のなかのあらゆる道路が冠水し,土地の低い場所では床上浸水も起きていた。さらに一部の地域では,小規模とはいえ土砂崩れも起きていたようで,少し山沿いにいけば,今は斜面にブルーシートと土嚢が敷かれており,その景観は痛々しかった。ここ数年,大雨による災害がいとも容易く起きている。それに自分も慣れてしまっており,警報が出ようが,避難勧告が出ようがなんとも思わなくなってしまっていた。結果的に,どこどこの道路が陥没したとか,床上浸水で何人が避難所生活をしたとか,土砂崩れで何軒の家が流されたとか,そういう痛ましい情報が入ってようやく,今回の自然災害の規模が大きいことを測るようになってしまっていた。

 DPATは,災害派遣精神医療チームのことだ。県の指示により,あらゆる病院の医師が組織され,災害地域に派遣される。大体は,ファーストエイドとして災害による怪我の処置や,持病のあるひとを対象とした治療体制を整えて生命を守るDMATが緊急的に組織される。その後,DPATが組織され,災害によるショックや直面したあらゆる困難に対する精神的ケアが行われる。

 俺が通う医大においても,色んな先生がDPATに交替で駆り出され,ここは大学である前に病院であるのだということを痛感していたところだった。

 「スバルは飯困ってへん?」「あー,ちょっと家にはもう何もないけど,学食あるし…」「あー,学食はでかいよね。」

 きゃみさんは目を細くして静かに笑っていた。俺たちのように,被災していない地域の人間でさえ,道路の冠水や毎日起きる渋滞によって運送関係が混乱し,コンビニやスーパーには商品が並ばなくなっていた。こういうときは,高くつくが大手チェーンの外食の方が案外飯にありつける。その中でも全国で運営されている生協が経営する学食は,安くてうまくて,まさに俺のような苦学生の命を繋いでくれていた。

 「きゃみさん,バイクで通学するの時間かからない?」「えげつないわ。」

 「不便でしょ。…よかったら俺の家泊まる?」「ええの? 助かるわ。もう毎日渋滞で,授業もあるのかわからへんのに,大学くるのしんどかったんやわ。歩いても時間かかるし。」

 きゃみさんとは同級生の間でつけられているあだ名で,苗字は神 (かみ) という。見るからに神々しい名前だが,俺と同じ医大生の人間だった。

 「とりあえず,自習してからやな。ありがとう。」

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 「狭いところですが…。」俺は電気をつけて玄関にきゃみさんを招き入れた。

 きゃみさんは医者の家系で,お父さんは京都で開業医をしている。特に親の後ろ盾もなく医者になろうとした俺とは違う世界の人間だった。なにせ,医大に合格して,いざ下宿の物件を探すときに,お父さんからは「家賃20万円以下だったらどこでもいい」と言われたそうだった。そのことを俺に話したとき,きゃみさんは「さすがにないわ。」と言って,目を細めて笑っていた。結局,合格発表から入学までの数少ない日数の間で空いている物件を見つけようと思ったら,案外とふつうの大学生らしい部屋は少なく,1K20畳ロフト付きという独り暮らしには持て余す部屋を借りていた。俺はといえば,偶然年度替わりに空くという部屋を抑えたものの,およそ地方都市の大学生らしい築36年の1K8畳の部屋に住んでいた。

 「ごめん,飲み物水しかない。」「ええよ。でも喉乾いたから早速もらってもええ?」

 きゃみさんがテーブルに伏せられたグラスに手を伸ばす。「あっ,それは…」俺は咄嗟に手を伸ばした。

 「何,洗ってへん?」

 「いや,洗ってはあるんだけど,虫を入れたことがある。」「ええやんそれくらい。G?

 「Gじゃないけど…,飼ってた蛾。」

 きゃみさんが一瞬固まって間を置いたあと,声を上げて笑い出した。

 「何,飼ってた蛾って。おまえ,蛾ァ飼ってたの? グラスで?」

 「グラスっていうか,放し飼い…」

 きゃみさんは余計に笑い声を上げていた。腹がよじれて仕方ないという感じで,座りながらベッドにもたれこんだ。

 「蛾ァ飼ってるひと,初めて見たわ。どういうこと?」

 「好きだったんだ。」

 「ちょっと待って。わけわからへん,虫好きやったん? 虫好きやなくて,その蛾が好きやったってこと? おもろいわあ。」

 俺も「わけわからへん」のは承知だった。偶然買って置いておいた植木に繭がついていて,いつか羽化するかと毎日気にするようになった頃,一般的に見たら,いや,最早虫の成長を見守るのも一般的ではないかもしれないが,ついに繭が破れて,地味な茶色い模様の入り組んだ薄桃色っぽい蛾が出てきた。世間的には,蝶とは異なる,気持ち悪い害虫の様相だったことだと思う。しかし,俺は綺麗だと思った。光を反射しない黒い目がクリクリして可愛かった。派手すぎない触角のふさふさが可愛かった。控えめな口がパカッと開いて,細い口吻が出てきた。その不思議な造形に,特に虫が好きなわけではない俺はその蛾を興味深く観察したものだった。

 不思議なことに,その蛾ちゃんは俺になついた。ふつう,虫がヒトになつくのかは知らなかった。多分そんなことはないと思う。毎朝,俺が起きると鱗粉を散らして傍を飛び回り,俺の肩に止まって,顔をペタペタと触った。時折口吻で顔や首をペロペロと撫でて,俺が大学に行くときは玄関まで見送りにきてくれた。そして,帰ってくると玄関まで鱗粉を散らして飛んできてくれたのだった。こんなにヒトの生活を理解し,犬か猫のように傍に寄り添う虫がいるものだろうかと思っていた。不思議な日々だった。

 「今は居らんの? 死んでしまったん?」「いや,出てっちゃったんだよね。」

 「逃げられてしまったん?」「うん,彼女ができたときに。」

 きゃみさんはもう声の音量を抑えずに笑っていた。「何その修羅場。ほんま何。偶然窓が開いて出ていってしまったんやなくて? 虫とヒトとでどうやって修羅場になるん。」

 「偶然窓が開いてたんだけど。だから,ふつうに考えたら,ただの虫みたいに逃がしちゃっただけだと思うんだけど。自分でもおかしい解釈だと思うけど,あの子は俺に彼女ができたのがショックで,俺が彼女をとったのがショックで,出ていっちゃったんだと思う。」

 だって,あんなに俺と一緒だったのだ。言葉は交わせない仲だったけど,心が通じ合っていたのではないかと思う。もう居ないから,勝手に俺が愛着を強めてそう解釈しているだけかもしれないけど。だって,当時は,蛾ちゃんが俺に向ける愛着なんて,一般的な虫の範疇に収まるものだろうと,反対に,俺が蛾ちゃんに向ける愛着なんて,一般的な虫に対する範疇に収まるものだろうと思って。だから,サークルで仲良くなった彼女を恋愛対象として見て,それなりに好きになって,家に招いたのだ。ただ家の中に,ペットみたいな蛾がいるだけだと言い聞かせて。

 「彼女をとったって,虫とヒトとで喧嘩でもしたん?」「いや…」

 「話したくなかったら,話さんでもええよ。」「いや,別にいいんだけど…」

 俺はあの子に,情事を見せてしまったのだ。

 きゃみさんはそれを聞くと,妙に納得したような表情でうーんと唸った。「登場人物がみんなヒトやったらな,私もわかるんやけど。」

 「虫かぁ,虫にヒトみたいな心はどこまであるんやろうなあ。まあ,その蛾ァちゃんがそこまでわかる子やったんなら,それはショックやわ。でも,ここまで聞いたら私でもわかるよ。」

 きゃみさんは俺に気を遣っている風ではなかった。

 「好きやったんやな。」

 風に吹かれて,窓に何かがコツンと当たる音がした。じんわりした感触を残しながら,話から注意が逸れて,俺たちは窓の方を見やる。

 「ほら,また虫さん来たで。中に入れてやったら。」

 きゃみさんが,窓際に現れこちらの方を見ている夜目のカマキリを指さして笑った。

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 割れた卵と割れていない卵,一方は明らかに中身が流れて渇いていて,またもう一方も今後無事に生まれて育つかはわからない。それでも胎から出なければ,卵全体が詰まってしまい,生まれるものも生まれることができない。だから私は今頑張らなければならない。

 「蛾ァちゃん,息して。息。」

 師匠さまが必死の形相で私の背中を押さえる。うつ伏せで四つん這いになった私は破れた翅を払いのけて,性器の奥までを露出させながら,ひたすら力んでいた。私の意思に関わらず,もうここまできたら産むしかない。ひたすらに,胎が痛い。卵が私の胎からでようともがいているかのようだった。早く終わってほしい。早く楽になりたい。真っ白になりそうな頭に浮かぶのはそんなことばかりだった。でも,すがるように思い出す顔があった。根尾君…。打ち消したい顔があった。

 これが,あのひととの間にできた卵だったとは…。

15

 足に刺さる剣山のような木の芽がいたるところに生えていた。やがてこいつらはこの石畳の山岳をみるみるうちに持ち上げて,何者にも憚らずにぐんぐん背を伸ばしていくのだろう。小さな若々しい木々を追い立てて密生し,やがては乾いた墓地のような場所に変えてしまうにちがいない。私は忌々しい木の芽たちをなるべく掻き分けて歩いたが,頑丈で卑しい根たちに肢を取られては,次々に足裏に硬く尖った芽の先を刺していくのであった。豊かな毛が生えた蛾の肢が,その毛の艶を摩耗させていく。

 私はいまやひとりだ。

 涙も乾いて,意地の張った顔で地面を踏みしめていく。恐らく今後もう二度と,自分が誰にも心を開けないような気がした。誰に声をかけられても,誰を傍らに見やっても,世界は灰色のまま止まっていて,全てにおいて生の鼓動や輝く価値など感じられない気がした。その一方で,次に誰かに出会ったら,それは私の救世主であると期待する気持ちが拭われずに,自分が腹立たしかった。何故ここまでしてひとに助けを求める。助けてくれるヒトなどもういないのに。

 根尾君…,こんなことなら,私の局部の針の毛を刺して,あなたの首を私のものにすればよかった…。

 今となっては,何度も実現を悲願した夢だった。幾晩も繰り返し想像する眠りの前の妄想であり,いざ夢に見ると嬉々として繰り返しその場面に立ち会うことを望むにまで至ってしまった悪夢だった。次があったら,私の股をおまえの首に突き刺してやる…。このひとは私のものだったのだから…。

 ふと,ザアッと音を立て風がそよいでいった。聳え立つ忌々しいタケノコの間を細かい風が強く入り込み,私の髪を乱して駆け抜けていった。私の視界は自分の荒ぶる髪の毛で覆われ,前が見えなくなる。

 目を瞑った瞬間に,ふと自分の眼前に幽霊の存在を感じたことはないか。さっきまで考えもしなかった,誰かからの敵意が,自分が目を閉じた一瞬のあいまに,眼前に待ち構えていると感じたことはないか。落ち窪んだ眼球の瞳孔は限界まで開ききって,完全に洞穴と化しており,悪意をもって自分を見つめていると感じたことはないか。今,私はその感覚に憑りつかれた。一瞬にして私は怯んだ。恐らく実際の眼前には何もないと,急に降って湧いた馬鹿馬鹿しい妄想だと自分に言い聞かせながら,ぎゅっと瞑った目を,小さな悲鳴を漏らしながらこじ開けることに息を切らしている。なんて無様な姿なんだ。なんて滑稽な姿なんだ。私はもう,実際の眼前には何もないと確信しているのにも関わらず,自らのなかに生まれた恐怖で足を進めることもままならない。身体が動かず不器用な挙動で針のむしろの上にへたりこんでいった。こんな不細工で生臭い処女,死んでしまえばいいのに。

 「お嬢さん。」

 はっとしてそれまでの思考が弾け飛んだ。さっきまでのは,夢だったのか,過去だったのか。今私は起きているのか。今聴こえたのは誰かの声? 幻聴ではない?

 「これはこれはご機嫌麗しゅう,まったくもって素晴らしい散歩日和ですなあ。」

 確かに,持って回ったような言い回しの,鼻につく声が聞こえていた。反射神経で顔を上げると,若竹の陰から,中肉中背,撫でつけた髪がテカる,賢者のような青年が立っていた。

 「どこがァ。この足場の悪い枯れた山で。」私は直ちに怒りをぶつけて言い放っていた。

 「おや,ご令嬢。可愛いお顔をしてご機嫌斜めかな。」とにかく癪に障る男だった。

 私は幽霊の代わりに,恐怖の代わりに,眼前に現れた気持ちの悪い男を三白眼になって見上げていた。とにかく神経を逆撫でされた気がした。

 「何。」苛立ちを隠さずに言った。

 「おひとりですかな?」「ひとりだけど,それが何なのッ。」最早噛みついていた。うってつけの八つ当たりのようだった。

 「おや。」

 急にそいつはマントでも翻すようにズタボロの翅を手で払い,翻して私の膝元に忍び込んできた。

 「こんなところに零れた涙が。」

 乾ききった頬に涙などあるものか。急に手で頬を撫でられ,私は反射的にそいつの顔に拳を振りかぶった。しかし,その手首も絡め取られ,私は歯を食いしばった顔を隠さずにそいつと鼻先を合わせることになってしまった。そいつの腐葉土のような毛色の翅が鱗粉を撒いていた。息を吸うのも不愉快だ。

 「おやおや,見かけによらず随分と手荒でいらっしゃる…。私が相手ではそんなに不服かな?」

 クソッ。下衆男がッ。こんな男に力で敵わないなんて。これならひとりでいるほうがマシだった。いや,そうか…? 私は,この薄汚い男と暇つぶしの恋でもするに相応しいほどの存在ということなのではないのか。現に私の頭の中からは,さきほどまでの恐怖がすっかり吹き飛んで,別の好奇心さえも出てきているような気がした。私には,この程度の男がお似合いというわけか…。そもそも,青臭く腋毛の生えたような私に声をかけてくれるなら,それだけでこの状況は恵まれているのかもしれない。いや,それにしてもこの生理的嫌悪感には肌が粟立つ…。どうしても…。でも,こんな私に対して相手をしてくれるこの男に失礼なのではないか…?

 私は苦悶の表情を浮かべて隙を見せていたに違いない。

 「愛いらしいお顔が,眉間に皺を寄せて,どうしたというのかね? ああ,ご心配なく。憂さ晴らしのデエトであれば,この私にお任せあれ。」

 赤子の手を捻るようにして,私は地面に転がされた。組み付かれたままの腕がままならず,私の臀部は男の胸に密着する。石に擦り付けられている乳房が痛い。

 「これは珠のような柔肌…。このような美麗な令嬢が,あられもない姿を晒して…。こんな愛の巣に相応しいロマンティックな森の中で,一体ひとりでナニをしようとしていたのか…。…急にしおらしくなってしまって,仔猫のような君。私とご一緒してくれる気になったのかね?」

 私の頭のなかにあるのはただただ困惑だった。私は一体,望まぬ相手に何をされているというのか。そもそも,これは本当に私が望んでいないことなのか…?熟れた身体を持て余してグラスの中に閉じ込められていたとき,なぜあのひとに自分が抱いてもらえないのかと懇願していたのではないか…? ひとりで街を駆けたとき,誰でもいいから助けてほしいと張り裂けんばかりの胸の裡で叫んでいたのではないか…? 今がそのときなのか…?

 力強く太腿を持ち上げられながら,私の陰部に男の顔の脂が付着する。男は一呼吸二呼吸私を物色すると,高揚した声色で何かふがふがと言っていた。舌と思わしき生温い生き物がぬめりながら私の中に食い込んでくる。これ以上の不快はなかった。

 「結構結構…。膜がひくついて,誘っているね…。最初の威勢はどこへやら…。淫らでか弱く,愛い娘だ…。貴女が絶頂を迎えるまで幾ばくか,私が教えてあげよう…。」

 う,うぁギャアアアアアアアッ。声にならない声が出た気がする。自分の声かもわからない。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッッ。じたばたと転げまわりいつのまにか仰向けになりながら,私は,顔を顰めてこれが現実か疑った。男は勿体ぶった文言をかなぐり捨てて私に全体重を乗せている。動くなァッ,痛いッ,動くなアアァッ。

 暴れている内に男の生殖器が私から抜け出した。私はすかさず咄嗟に局部の毛を逆立てたが,押さえつけられた腹はそのまま男とゼロ距離のままだった。男は吐く息粗く変わらず私の裸の胸に涎と脂を垂らしている。

 「見事な毒針毛だったねえ…,とても猥りがわしかったよお。でも残念だったねえ,私には無意味,私も君と同じ,蛾なのだから。」

 ついに涙目になり,私は男の顔に唾を吐きかけたが,意に介さない男の顔を伝い,それは私の頬にぽたりと落ちた。

16

 街生まれ,街育ち,悪そうな奴は大体避ける。怖そうな女性も大体避ける。ヒトの子供が持ち込んだ卵から孵り,ヒトの家で生まれたカマキリの俺は,孵化早々に悲鳴をあげながら機械的な唸りをあげる掃除機を振り回すヒトの女性から逃げ回るはめになった。この世は魔界のようで,幼少期から魔界と戦う経験をしたにも関わらず,俺は,不思議とヒトという生き物にある程度の興味を持っていた。この大都会とは言い難い中途半端にヒトが栄えた環境はとても俺を惹きつけた。

 時折,歯のない中年男性が古びた商店街の路上で豆腐を売っており,ばかでかい出刃包丁で毎日飽きもせず水に漬かった豆腐を適当な大きさに切っていた。

 「おっさん,何してるんですか。」

 「なんじゃ,見せもんじゃねえぞ坊主。俺はなあ,おっさんって言われるのが一番嫌いなんじゃ。お前,豆腐屋舐めてんじゃねえぞコラ,冷やかしなら帰れ!」

 「ああ,俺,おっさんおっさんって言われるのを嫌がるのがこの世で一番わかんないんですよね。おっさん,今のご時世,路上で豆腐って売れるもんなんですか。でも,暑いなか毎日頑張っておっさんが豆腐売ってるのは風情があっていいと思いますよ,おっさんおっさんがお客さんと会話してるのは見たことないっすけど,おっさんも毎日頑張ってると思いますよ!おっさんなのに大変だなあって,おっさんなのに毎日飽きもせず豆腐切ってて,おっさん頑張ってますよね,ねえおっさん!」

 「俺をおっさんと呼ぶなぁああうおらああああああああ!!!」

 ヒトの青年が興味本位で変なおっさんに声をかけると,この街では大概ろくなことにならない。太陽光で反射するプラケースだか包丁だかを持ったまま,おっさんは屋台を捨て置くと,これはやばいと思って走って逃げる青年を勢いよく追いかけて行った。

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 またある日は,通行中肩がぶつかったヒトが揉めている瞬間を目撃した。

 「あ,すみません…」気弱な声で,咄嗟に眼鏡をかけた大学生風の青年が謝った。相手は黒いTシャツを着て黒髪を刈り上げた少年だった。

 「あぁ!?お前どこ見て歩いてんだ!なんだ喧嘩打ってんのか!お前まじでたただじゃ置かねえからな,お前どこ中だよ?」

 「いや,そういうのいいから…」

 明らかに青年は中学生ではなかった。それでも意気のいい少年の主張は止まらない。

 「なんだてめえ,俺が底辺校だからって舐めんなよ,お前マジ喧嘩したら俺に敵う奴いねえからな!お前ちょっとツラ貸せや。決着つけてやろうじゃねえか!」

 「いや,もう本当いいからそういうの。みんな見てるから。」

 場所は駅前。辺りには明らかに怪訝な顔をしたり,興味本位でスマートフォンを掲げるギャラリーが集まってきていた。少年の勢いはなお止まらない。すっと手を拳に変えると思ったら,その手はおもむろに自分の黒いTシャツを掴んで勢いよく脱ぎ捨てた。

 「デュエル!!!!!

 ギャラリーも俺も堪え切れなかった。男子大学生も思わず顔を背けて噴き出したの必死で隠している。少年は遊戯の王でもあるのだろうか,少なくとも裸の王ではありそうだ。

 「はーい,ちょっといいかなー。」群衆の中から半笑いの青い制服に身を包んだ大人が男子大学生と少年を掻き分けて入ってきた。「とりあえず,服着ようねー。今日も暑いし,みんな見てるからねー。」少年は目を白黒させて途端に借りてきた猫のように呆然として大人しくなった。半裸のまま。

 俺は,変な人をみつけると内心嬉しくなってしまうらしい。どこかで気分が高揚したまま,男子大学生のあとをこっそり着いて行った。半ば,奇妙な現代社会を生き抜いた同志のような気持ちだった。思い出し笑いをしてはそれを噛み殺しながら帰路についているらしい彼は,徐々に何事もなかったかのような表情に戻っていきつつ,鉄筋コンクリ,日陰になった玄関という,およそ学生らしいアパートにたどり着いた。彼はここで,本当に大学生か,新卒社会人といったところの暮らしをしているようだった。彼のワンルームの部屋の中は西日に照らされ,ツバキの小さな株が鉢植えで逆光となり光っていた。そして,テーブルの上に伏せられた謎のグラス。そう,俺は何事もなかったかのような表情に戻っていきつつ,興味本位で彼の家に侵入した。

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 「結局,ふつうの暮らしをしているふつうのヒトだったみたいで,しばらくしたら俺も出て行ったんだけどね。」

 「へぇ,変なひともいるねえ。」

 「ねえ,なっちゃん。それ誰のこと?俺のこと?」

 「色んなひとがいるのねえ。」

 俺は糸目になって話を真剣に聞いてくれたなっちゃんに対して辟易する。なっちゃんの名前はナツキというらしい。透き通るようなガラスの身体,話の聞き上手,そしてボケ殺し。この子の場合は嫌味なく話のオチを潰してくる。とても掴みどころのない話し方をするが,話していて落ち着けるセミの女性だった。悲鳴を上げて掃除機の先端を,蜘蛛の子を散らして兄弟たちと逃げ惑った俺のトラウマとは正反対の女性に思えた。同じ夏生まれ,恐らく同い年くらいに見えたが,彼女はセミだから大分年上なのかもしれない。

 初めて出会ったとき,彼女は土砂に塗れてびしょ濡れで,割れそうなくらい透明な身体で,ぐったりとした蛾の少女を背負っていた。地盤がぬかるみ,大地が揺れて,覆い被さる泥に襲われ仲間とはぐれた。そう慌てて言っていた。街生まれの俺は,今までにヒトが口にしていた情報から,咄嗟にこの街の近くの山で土砂崩れが起きたと悟ったのだった。

 少女の名前は蛾ァ子というらしい。意識は朦朧として,受け答えは時折できるものの,目を開けて起き上がっていることはできなさそうだった。俺は医者じゃない。どうしたらいいかわからなかった。ひとまず,ヒト通りの落ち着いた垣根に3人で身を寄せて,どうしようもなく彼女たちを落ち着かせていた。彼女たちの泥が砂となって身体から剥がれた頃には,なっちゃんは大分朗らかな微笑みを見せるようになってくれていた。しかし,蛾ァ子の方は依然として起き上がっていることはできなかった。

 「れんちゃん。多分,蛾ァちゃんのお腹には卵があるのよ。」

 なっちゃんが複雑な表情で細い目を開きながら蛾ァ子に言い聞かせるように俺に呟いた。れんちゃんとは,レンタという俺の名前から彼女がつけたあだ名だった。なっちゃんが慎重に蛾ァ子の腹を撫でると,確かに少女の豊か過ぎる彼女の腹は,はっきりとした腹膜がパンパンに詰まっているように感じられるという。俺がなんとか落ち着ける場所にツバキの垣根を選んだものその理由だった。ドクガはツバキの葉に卵を産みつける。

 なっちゃんは,蛾ァ子が答えられそうなときに,気を遣いながら今まで性交渉があったのか聞いていた。俺は聞かない方が良い話だと思って席を外そうとしたが,苦しそうな蛾ァ子から,「むしろ,レンタには聞いてほしい」と言ってきた。蛾ァ子は汗でぐしゃぐしゃの髪と破れた翅を肢で引っ掴みながら身体の痛さに耐えていた。

 「好きなヒトがいたんだけど… そのヒトとの卵だったらよかったんだけど…。」

 「会いたいなァ…。」

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 なっちゃんは心配症で,片時も蛾ァ子へを気遣うことを休まないから,俺にできることといえば,街を知らないなっちゃんに今まで俺が見てきた変なヒトの話をするくらいだった。彼女がくすりと笑ってくれたら,俺も心が和らいだ。優しい彼女に対し,俺が何をできるでもないが,ひと時でも蛾ァ子への心配から頭を切り替えて,思わず噴き出してくれたらと思ったのだった。

 ついに,蛾ァ子の出産のときが来た。痛い…痛い…と低く唸りながら四つん這いになっていた彼女は,ついに悲鳴を上げて最初のひとつを卵を葉っぱに産み出した。

 「根尾君…ッ。根尾君…ッ。根尾君…ッ。」と声を絞り上げて胎の痛みに耐える蛾ァ子を見ているのは痛々しかった。蛾ァ子は何かにすがるように想い人の名前を呼んでいた。俺はいままで恋だの愛だのは知らなかったが,笑顔が素敵なひと,できれば自分が何かしたいと思えるひとのことを,好きなひとだと言うのだろうと,今では思っていた。蛾ァ子の場合は,死ぬか生きるかの瀬戸際に,どうしても自分を救ってほしいと思えるほど,そのヒトのことを考えているのだろうと思った。俺には何かできるだろうか…。

 「レンタ,あのねェ…。」蛾ァ子がふいに俺を呼んだ。

 「ヒト違いかもしれないから,言えなかったの…。ツバキの鉢植えのヒト,もしかして,根尾君かもしれないのォ…。レンタ,その人のアパートの場所,覚えてたりするかなァ…。」

 俺は夜目を白黒させながら,うっすらとした記憶のなかで必死に道筋を想起する。彼がもし根尾さんかもしれないのなら,俺は,好きなヒトにすがりたいという蛾ァ子の願いを叶える肢と記憶がある。

 なっちゃんはいつのまにか涙を零しながら,俺をじっと見据えていた。蛾ァ子の荒い息だけが,しんとした夜風の生ぬるい空気を動かしていた。

「レンタ,私の卵,届けて欲しいの…。」

17

 「スズメバチの女王が恐ろしいわけないじゃない。」

 エドが呆れた顔で眉を顰めて溜息混じりに俺を凝視していた。

 「なんでコロニーの最奥で守られているだけのお姫様が恐ろしいのよ。本当に恐ろしいのは働きバチでしょうが。」

 「いや,俺もコロニー育ちなのでアリの本能的にはわかるんですけどもね…。」

 黄味を帯びた大きな赤い体躯。彼女たちに自然と向かう畏敬の念。そしてその敬意を受けるだけの堂々とした振る舞い。彼女たちが一睨みするだけで俺は身体が竦むのがわかるし,眉を顰めてカチカチと歯軋りされるだけで,俺は自分の行動が何か間違っているのではないかと,無礼があったのではないかと身が強張る。リンカもエドも恐ろしいじゃないか。彼女たちに翅はないが,もしそれが重低音の羽音を呻らせたのであれば,大抵の虫たちは振り返る余地もなく道を開けるだろう。

 「アタシたち女王蜂は飽くまでもお飾りのお姫様。働きバチたちが狩ってきた供物を差し出されてただ肥えることを期待されてるだけでしょう。外で掛け値なしの傍若無人を振舞い,見境なく手打ちにできる者を根こそぎ狩ってくる働きバチがアナタたち他の虫にとっても一番恐いでしょうよ。」

 「そうなんですけども…,なんというか,リンカだけじゃなく,女王蜂の方はやはり貫禄が違うというか…。」

 「この肢の折れたアタシもだと言うの? 笑わせるわア。」

 エドは太腿から先の無い肢を組むようにして鼻で笑った。そうそう,こういう態度。これが俺にとっては女王たる所以なのだ。傅くしかない。

 「あのね,アナタ,ヒトじゃないんだから。ヒトはすぐそうやって女王蜂に慄くわよねエ。羽音が怖いだとか,色が怖いだとか,大きいだとかですぐアタシたちが近くにいると飛び上がって逃げていくの。風評被害もいいところよ。前の秋なんかアタシが巣立って一匹でうろついていただけなのに,偶然出遭った大の男が大騒ぎして逃げていったわア。交尾もしていない新女王の何が恐いのか…。馬鹿ねエ,生態系も知らない木偶の坊は。真夏のコロニーなんかに近づいてご覧なさい。針と毒を持った働きバチたちが顎をカチカチ鳴らして威嚇して,近づいてくる不審者を大群に知らせて一網打尽にするんだから。アタシなんか赤子のように無力で可愛い存在よねエ。尤も,働きバチの恐ろしさに比べたときのアタシの無邪気さを知る頃には,間抜けなヒトなんて生きてないだろうけど。」

 夏のハチのコロニーには新女王が誕生する。新女王の育成,コロニーの拡大こそハチの本能的な使命であるから,最も働きバチたちの警戒心が強くなり狂暴になる。それと比較して,秋の新女王の巣立ちは孤独だ。今まで最奥で守られていただけの軟な娘たちが一匹で孤独に自分のコロニーを一から作りに旅立つのだから。そういえば,リンカもエドも翳りを帯びている。外の世界に出た新女王には,それまでの暖かく豊かな生活を全て捨てて一人で生きて行かなければいけない越冬の時代が約束されているのだろう。そして,リンカもエドも女王としての本能的使命を果たすことはできていない…。一度巣立った新女王は元のコロニーには帰れない。責務を果たせなかった烙印を押されたかのように,彼女たちの顔にはシニカルな厭世感が漂っている。

 「リンカはアタシと違って,まだ自分のコロニーを持てるかもね。あのひと,五体満足なんでしょ。でも…,いや…,馬鹿なことを考えたわア,忘れて。」

 エドが肢を崩して苔むした岩の上に横になる。俺から目線が外れた横顔が,湿った昏い陰に隠れた。なんだろう,所在不明,生死不明。現状のリンカの安否がわからないことを俺に思い出させないよう,いつもの気遣いか。それにしては普段のエドに比べて歯切れが悪かった。

 「別に大丈夫です。また会いたいと思っているし,会えることを願っていますから。」

 「違うのよ。それとはまた別の,いつものアタシの病気よ。何故本能的な使命を定められて生まれてきたアタシたちが,その使命を全うしなかった分岐の先に,どう生きるかを選ぶことができるのか…。本来,アタシたちは,一個体としての自分がどう生きたいかなんて,選択するほど推察できる生き物ではなかったような気がするの。思念体としての自己なんて,昔はアタシも自分にとって必要なかった気がするの。自分がどう生きるべきかなんて,最初から決まっていて考える必要すらなかった気がするわ。生殖しない個体は死ぬだけよ。本当の終わりは死よ。アタシにはその終わりが来るのが遅いわ。」

 エドは伏臥位になって目の前の岩の窪みを見つめている。その先に何かがあるかのようだった。リンカの物憂げな横顔が重なった。

 「時代が動いたか,死に損ないに要らぬ知恵がついたのか…。」

 使命を全うせずに知恵をつけたというのなら,それは俺もだった。ただ,俺にはやりたいこともあって,俺の肢は治りかけているし,回復するということは死と距離がまた遠ざかったことを意味していた。自由度の再び高まる身体のことを死に損ないと言っても俺はよかった。実際に誰から言われるわけでもないが,お前は一度終わったんだと,落ちぶれたんだと,そう呼ばれたとしても,それでもまだ死が来ていない以上,俺には帰りたい場所がある。俺が俺として考えて話すそれだけで,自分がここに居ていいんだと思った。何ができるわけでなくても,俺はあのひとの元に帰りたい。俺の能力は多分欠落したのだ。巣に帰るべき本能を超えて何かが見つかったような気もする。

 「俺,自分の名前はもう要りません。思い出せなかったものをそのままにしてでも,俺は今ある自分がもっと楽になれるように生きていたいんです。」

 「アタシたちは虫失格ねエ。」言葉に反して,エドは柔和な笑顔を俺に向けた。


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 最初は花の蜜を運ぶライゴが返ってきたのかと思ったが,どうやらふたり以上の声が外から聞こえる。咄嗟に俺は動きの悪い肢をふんじばってエドの前に立ちはだかる。腹を突き出し照準を定めて蟻酸を噴射した。

 「アァーーー何すんだテメエ! 痛ってえな,危ねえだろ!」「だから先に行くなと言ったのに…。」

 岩戸に入ってきたのは傷だらけのオオスズメバチだった。今の俺の蟻酸では充填が足りなかったか,そもそも効かないのか,オオスズメバチは腕で浴びた蟻酸を振り払い,熱っちいな! と喚いている。その後ろで呆れ顔のマルハナバチがとぼとぼ入ってきた。こっちはライゴだ。花の蜜を両手両足に一杯抱えていると思ったら,俺は生臭い臭いにつんのめった。血の臭い…。

 「あらまア,やられたわね。」俺の背後を振り返ると,エドが口の片端を上げてにやけている。初めての展開に俺は目を白黒させる。

 「おらよ。調子はどうだよ。」「変わりないわア。」何かが俺の横を掠めて飛んで行った。肉片のような…。

 エドが投げ渡されたそれを受け取るや否や,毛の抜け落ちた虫の顔にかぶりついていた。血の臭いの原因はそれだった。

 「テメエ,腰抜かしてんじゃねえぞコラ。」「初めて見るんだ,仕方ない。」「これだから,普段甘っちょろい花の蜜ばっかり食ってる奴はよオ。」

 目の前のオオスズメバチがガンをつけてくる。俺は前と後ろのどっちを見たらいいかわからずに首をふりふりするだけだった。妖艶なエドが唾液の垂れる音を隠さずに顔が血だらけになるのも厭わず,虫の頭を貪り食っている…!いや,何もおかしいことはない。エドもオオスズメバチなんだから,本来獰猛な肉食…。しかし,それを狩ってきたのは恐らくこの傷だらけのオオスズメバチで,それと温厚なマルハナバチのライゴが物ともせず軽口を叩いている…?

 「へッ,舐めた真似してくれたとろくッせェ蛾がいたからよオ。姉貴もたまには精付けねエとと思って持ってきてやったよ。」蛾ァ子の顔が浮かんだ。

 「蛾…!? め,メス…?!」「オスだったよ,なんだよ社会は弱肉強食なんだよ,知り合いだったら悪かったなア。」一先ず知り合いではなさそうだ,ヒュッと止まった呼吸と脈が落ち着きを取り戻そうとしている。

 「驚かせて悪かったな,こいつは姉貴の言うことくらいしか利かないんだ。」

 ライゴが横目でオオスズメバチを見やりながら花の蜜の荷を下ろし始めた。

 「姉貴… ってことは,エドのコロニーの兄弟…?」「テメエ何呼び捨てにしてンだ,ぶっ殺すぞ。」

 「ハクよ。たまに様子を見に来てくれるの。」エドが滴る血を拭いながら傷だらけのオオスズメバチに手を向ける。ハクはケッと手ぶらになった腕を頭で組んで後ろを向いた。恐らく照れている。

 「新女王の小娘どもが,手ぶらで帰った働きバチには見向きしないわよ。」

 「うるせえ,俺の勝手だ。そもそも巣立ちの時期だよ。」

 エドの兄弟ということは,リンカの兄弟でもある。このハクという男と話したい。無碍にはできない相手だ。

 「あの… リンカという新女王は…」「うるせえな,どいつもこいつも。姉貴が探してくれってンで聞き込みしてンだよ! なんでったって,俺がコロニー以外の虫に関わらなけりゃアいけねンだよ。大体,どうして既に巣立ちした新女王に構わなけりゃアいけねンだ。あんな可愛気のねエ女…。」

 「あんた好きだったじゃない。」「うるせえなチクショウ! 俺ァどうせ振られっぱなしだからよオ。」

 ハクがエドを見る熱のこもった視線を追っていると,ライゴが俺に蜜を寄こしてきた。図らずも晩餐会だ。みんな腰を落ち着かせ始める。エドが最後の一口を摘まんでぺろりと平らげる。ハクがスーッと息を吸って俺をまじまじ睨みつけた。

 「俺の勝てねエ男がいるンだよ,もう手は出さねエ。痛い目に遭ったからな。そいつが最近姿を見せねエ。そいつはトノサマバッタなんだけどよオ。あの筋肉ダルマ,何か匿ってると噂が立ってる。成熟した女になびかない変態が手を出すとすりゃア,ついに本性現わしてペドフィリアにでもなったかって。あの脳筋にリンカが愛でられてるとは思い難いが… あの女も変態だからな。普通のハチにはなびかねエ。可能性の話だが,俺ァ今そいつを探してるぜ。」

 そりゃあ,虫なんだからみんな変態する。俺は意外と安心していた。名の知れた変態のもとにリンカが匿われているかもしれない。大体,同種で社会を構築していく虫の世界で団欒しているのだから,ここにいる全員が一線を画しているだろう。もしリンカが無事に異種間交流会をしているのだとしたら,状況はこれまでの俺たちとも,ここにいる俺たちとも変わりはない。変なことはされてないといいが…。

 「マツか…。」

 ライゴがぽつりと口火を切った。「俺もあいつには勝てん。」

 ふわふわのずんぐりむっくりしたハチが言った言葉が意外で一瞬耳を疑った。

 「ライゴは戦わないでしょ…?」

 「あらア,可愛い見た目に騙されちゃ駄目よ。ライゴも働きバチなんだから。」

 「テメエ頭の中ぬるま湯か? うッすい酸しかぶっかけられねエお前とは違うんだよ。」

 驚くことの連続で,蟻酸をかけたことをハクに謝り忘れていた。

18

 「アタシはもう生殖するのは辞めたの。」

 苔のベッドで身を横たえながら,エドは胸の前で腕を掻き抱いた。その腕に背後からライゴが手を添える。

 「種を跨いだ関わりがアタシたち以外にも成立したのね。」

 ライゴは小さく,ああ… と頷いた。引き摺りがちの肢でさきほどクロがこの岩戸を出て行ったところだった。本来,コロニーにいたのであれば,手負いのアリの看病は救護係のアリが担うところだ。ライゴの力ではそれはままならなかったが,それでも手探りでライゴが毎日手を尽くしたのもあり,クロは歩けるところまで回復したようだった。

 「コロニーに居た頃は,異なる種の虫と出遭ったらそれは外敵だと教えられていた。実際にアタシはオオクワガタに肢を奪われたわけだし。もうアタシには戦う能力もなければ,自力で自分の命を繋ぐこともできない。手負いのアリだってそうよ。それでもアタシたちを生かすアナタのような虫もいる。それはとても奇異なことだと思っていた。でも,アタシと同じような貧弱な箱娘に生まれたハチのために,また外の世界に出ていくアリもいるのね。新たな帰巣本能が生まれたかのようだったわア。一体,アタシたちに備わった能力って何なのかしら。」

 同種と生殖することこそが虫の一生だと思っていた。しかし,自分たちにはただ自分が生き永らえているという状態があり,しかもそれが生殖に繋がる道ではない。自由が生まれたようだったが,赤子のまま外に放り出されて自分の道を探せと言われているような,自分の努力と工夫で全てを乗り切れと言われたような,世界から見放された自由であるとエドはかつて思っていた。

 「ハクがアタシと交尾をしないのは,ずっとアタシがもう自分の力でコロニーを創る力がないからだと理解していたわア。でもあの子はずっとアタシを慕ってくれている。まるで大切なひとを慮って,距離感を測っているかものように。何もできないから自分が何の恩恵も受けることができないなんてことはないと,アタシが一番知っているのよねェ。」

 「あいつは最初俺にも当たりが強かった。だが,恐らくわかった上で遠慮してるんだろう。」

 エドとライゴの関係が,もう異種間を超えた繋がりに及んでいることを。姉と共存してくれるライゴの存在があることを,ハクはきっと理解している。コロニーで働く立場にいながら,社会性がそこで完結しない事態があるのだと,幼いながらにわかっている。

 「何故ひとを好きになるのかしら。生殖もしないのに。ひととの繋がりを何故アタシたちは求めるのかしら。クロが言ってたわア,自分が少しでも楽になるように生きたいと。自分がここにいてもいいのだと誰かに言ってもらいたいのかしらねェ。そこまで自分という存在は大事なものなのかしら。まア,本来虫なんて,自分がどう生きるか死ぬかなんてことは考えない。ただ生きていくだけの生き物だったはずよ…。きっと,何故お前は生きているのかと問われる体験をした者は少なくとも,何かしら考える術を持ってしまうのでしょう。」

 そこまで一息に言い切ると,エドは身体を丸めて無い肢を撫でた。ジグザグに引き千切れ萎縮した両の肢。この肢のせいで,エドはコロニーを創り繁殖をするという使命を諦める理由ができた。この肢のせいで,エドはライゴと出遭うことができた。この肢のせいで,あのひとと同じスタートラインに立てたのだ。

 「寂しくなったか。」

 苔むした薄暗い洞の中には,もう2匹しかいない。

 「アナタがいるじゃない。」

 2人でまんじりと暗闇を見ていた。

 「まだ死にたくないわ。」


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 一度だけ,昔,エドはリンカと言葉を交わしたことがあった。

 新女王の小娘たちがいつものように,わざとらしい大声で騒いでいる。あの愛想のない僻んだ目つき。キッショイ男が寄ってきて仕方ないなんて,人生豊かだこと。きっと飽食の果てに倦んでしまったのね。どれだけスレても需要があるようだから,大層脳髄が熟れて熟れて膿んでしまったのよ。可哀想に,だから童貞の脳なしが次から次へと湧いてくるのね。ニッチなオタクを集める天才ね。侘しいおじさんを手の上で転がすのに慣れてらっしゃるようで。あんな女に持っていかれた餌のおこぼれを回される私たちの身にもなってほしいわ,気持ち悪くて反吐が出そう。だめよ,達観してらっしゃるから,もう私たちの声なんて聴こえもしないんだわ。あのガリ胸デブ腹女が。子を産むことは才能なのに,私たちの誰よりも突き出した腹を持っているのよ。老害のブスめ,ババアはお願いだから死んでくださぁい。早く死ねばいいのにねえ。生ごみは分別しないと,コロニーで死なれてはここが腐葉土になってしまう。あっ,こっちを見てる。老眼の白内障なのよ,思い上がりはいけないわ。ちゃんとご挨拶しないと。リンカさぁん,今日もその素晴らしいプロポーションで,どうしたらそんなに美しくなれるのかしら。駄目よ,軽率な口を叩いては。リンカさん,あなたの巣立ちはそろそろかしら。私たち,あなたが居なくなるのが悲しくて悲しくて,きっと泣いてしまうから,今にもすぐにお見送りしたいくらいですわ。あはははは。あなたのお部屋の撤去は今からでもみんなで盛大に行わなきゃ。位牌も今から準備してるんですよお。あなたの華々しい門出を私たち全員でお祝いしないと。その白けたツラを見れなくなるのが残念ですわ。いやだわ,これは私たちからの祝辞ですの。あんまり怖い顔なさらないで。ねえ,リンカさぁん。一刻も早く,巣立ちなさってくださぁい。

 リンカは小娘どもを一睨みしてから無言で踵を返した。なぁに,私たちの賛辞がお気に召さなかったのかしら。そうね,とても聡明な方だから,胸にない養分が頭に回って気が触れてしまっているのよ。これだから根暗の陰キャブスは。お年を召しているのだから仕方がないわ,クソアマさまは気難しいわねえ。あははははは。

 黄色い声が羽音と混じり残響となって遠のいていく。エドはその場に立ち尽くしたままだった。ハチたちは,集団生活の中に押し込められていると,異質なものを迫害する傾向にあるらしい。彼女がたまたまそのターゲットになっただけだ。アタシも含んで,誰しも僅かな差異がある。何に目をつけられてもおかしくなかった。そのターゲットは自分でもよかった筈なのに,彼女の誰よりも大きな腹,美しい髪,そして冷徹な眼差しが,小娘どもの悪戯心を刺激した。誰にも心を開かず物言わぬ挙動も。全てを真正面から受け止めて,ひとりで密かに振り払っている。

 リンカの行き先を旋回してしばらく見ていると,一匹の働きバチが彼女に戦利品を持って近づいていった。ハクだ。

 「おい,これ…。」「要らないわ。小娘どもにやって。」

 「お前,そのままじゃ痩せ細って死んじまうだろうが。」

 ハクは差しだした行き場のない幼虫を渋々と取り下げる。

 「私に近づくのはやめなさい。何をしても無駄よ。」リンカの眼光が陰で見ているエドにも刺さってきた。

 「そんな言い方ねエじゃねエかよ!」

 ハクは居た堪れなくなって飛び出してしまった。ハクは確かに性交の期待はあっただろうが,好意をもっているからこそ異質な扱いを受けるリンカを心配していることをエドは知っていた。しかし,拒絶の言葉だけを言い放つリンカと,弁の立たないハクでは会話にならない。相性が悪すぎた。ふと,エドがリンカに視線を戻すと,丁度ハクの奥に潜んでいた自分が見つかってしまっていることに気が付いた。逃げるのもバツが悪く,エドはおずおずと少し前に出て,リンカを無言の距離感を保っていた。

 この子がこわい。

 生きる目的を失ってなお生の暴虐を受け続けて生き永らえるこの子が恐い。昏く窪んだ瞳孔のなかで人を刺すように睨みつけるこの子が恐い。エドは何を言ったらリンカの機嫌を損ねないでいられるか考えあぐねて暫く無言でいるしかなかった。かと言って,小娘と同じように踵を返されるのも,自分が何者とも認めらないようで恐かった。早くこの人から何らかの言葉が欲しかった。震える唇でエドはたどたどしく声を漏らした。

 「リンカ…,いつから死にたかった…?」

 思いもよらず,はいかいいえで答えられる問いではないものが出てしまったとエドは思った。小さい頃,私たちは同じ幼虫だった。エドの方が少し生まれるのが早かったが,コロニーのハニカムのなかでただ蠢いている白くて柔らかい幼虫だった。エドが成虫になってからは,巣の中でじっとしているサナギの彼女を見つめることもあった。いつからこの子は虫を憎むようになったのだろう。

 「死にたいように見える?」リンカは落ち着いた声で真っ直ぐにエドを射るように見つめたままだった。

 「えっ…,いや…,だって,食べてないんだもの。」

 「男を誘惑してしまう身体になることに,精神の発達が追いつかなかったのよ。私はまだ死んでいないだけに過ぎない。いずれこれから死ぬわ。それは誰であろうとそうだろうけども。私は生を謳歌するだけの精神は持ち合わせなかった。それが他の女王候補と違ってここまできてしまったのよ。」

 鏡を見ているようだった。いつからこの子はこんなに達者な口振りで話をするようになったのだろう。もはや姉と妹という生まれた順番など感じなかった。対等な成虫同士の対峙であった。

 「アタシは明日巣立つのよ…。」

 「それは,お疲れ様でした。いや,それを言うのはおかしいかしら…。あなたもこれから結婚飛行をして自分の城を築くのだから。豊満な身体のあなたはすぐにオスが追いかけてくるわ。嫌味ではないのよ。そういうものでしょ。」

 てっきり,おめでとうと言われると思っていたものだから,エドは呆気にとられてしまった。そして,リンカが堂々と性交の話をするのを聞いたのは初めてだった。会話のリズムが掴めずに,エドは取り敢えず頭に一番に浮かんだことを言った。

 「あなたには煩わしいかもしれないけどねェ。アナタのことが心配なのよ…。」

 「そういうのは結構よ。いずれどこかで死ぬだけだから。」

 「そうじゃなくてねェ…。えっと…,アナタは他の小娘たちとは確かに違うけどもねェ,それをアタシはアナタの弱味だとはどうしても思えないのよ…。いずれ誰しも死ぬというのなら,このコロニーだっていつかは衰退するわア。この世に絶対なんて本当はないのよ。だから,アナタだって絶対こう生きなさいということなんてないのよ…。」

 「ひとそれぞれなのはわかっている。だからエドも巣立って結婚飛行に行くんでしょ。私も私らしい末路を辿るでしょう。私はそういう個体に育ってしまったのよ。いずれはコロニーの外に放り出されたとき,何をするにも自由であると,自分では何もできないけどもその限りでは何でもできるのだという話でしょ。」

 「違うのよ…。外に出た瞬間にコロニーで受けてきた安っぽい苦難は終わるけどねェ…,なんて言えばいいのかしら…。そういう話じゃないのよ…。アナタはもっと自分の周りに置く人ひとを選べるのよ…。自分が話したいことを話せる人を見つけることができるのよ。」

 エドは自分のことを,リンカが話したいことが話せるひとであるかが気になった。彼女の時間を無駄にしていないか。

 「ハチの一生にそんなものあるのかしら。あなただって,自分の好きな人に子供を孕まされるわけでもないでしょうに。」

 エドは遂に言葉に詰まった。いや,しかし,そう思わせる前提こそが絶対ではないのだという感覚がエドのなかに残っていた。

 「リンカ,あなたは賢いわア。だから,色んなものに触れあってほしいのよ。アタシだってねェ,このコロニーは狭いと思っていたの。だから,まず明日,外に出たら,遠くへ遠くへ翔けてみたいのよ。」

 文章の最後には思ったこともなかった言葉が口から滑り出てきた。自分が結婚飛行を据え置いて旅をしてみたい…? エドは言い終わった後になってから困惑していた。生殖こそが女王蜂の責務だというのに? 自分が言いたかったのは,小さな集団生活が世界の全てではないということであって,虫に備わられた生来の本能を無視しろという話ではなかった筈だ。またこれまでにも増して居心地が悪くなり,エドは豊満な肢をさすりさすりした。

 「まとまらない話でごめんなさいねェ。でも,アナタと話した先に何かが見つかる気がして,どうしても思いついたことを言いたかったのよ。」

 「そう…。思いついたことを言っていいのだとしたら,話せる相手が必要になるわね。もっと今まであなたと沢山話してもよかったのかもしれない。私は罵詈雑言のボキャブラリーしか蓄えてこなかった。」

 「だからこそ,話したい相手が見つかったなら,関係性はなんでもいいわア。アナタが話したいように話しなさい。アナタが変わったひとだと言うのなら,このコロニーにはいない変なひとに会いに行きなさい。それをアタシは願ってる。」

 「そうね,此処ではそれは叶いそうにないから。エド,今まで有難う。」

 エドは小さく頷いた。どちらともなく対峙していた身体を相手から逸らして行った。エドは旅立ちの日に見送りがこない内に人知れず巣を出て行った。あのひとに言ってしまった以上,遠くへ遠くへ行くべきだと思った。無条件に守られてきたコロニーの世界から,どうなってもいいから遠くへ遠くへ離れて旅をすることが自分の使命だと思った。初めて樹液を取り合った相手は屈強だった。エドは世界の延長線を失った肢の一歩分だけ知ることができたと思った。

19

 規則的に立ち並んだ橙色の卵。太陽の光を受けて黄金に輝いていた表面に,じんわりとモヤがかかってきた。陽の登る射角とともに静かに蠢く卵の中身。モヤが意志を得たように動き始める。うごうごうごうご… そして一斉に,緑がかった鋭利な手足が艶のある球体を内部からカチ割っていく。自分の背中が鋭い陽に照らされて短い影を作っている。私はじりじりと焼ける日差しを浴びながら,孵化の一部始終を見つめていた。

 「母さま!」「母さま!」「母さま!」「母さま!」

 騒がしくキーキーと声が上がる。一匹が呼び出したら一斉に。

 「や… やめてよ,私,母さまじゃないわ…。」

 「姉さま!」「姉さま!」「姉さま!」「姉さま!」

 まあ,それならいいか…。聴き慣れた響きに浸っていると,私の隣にいた男が止めていた息を一気に吐き出した。

 「なんや,えらい一斉に騒がしくなったな。」

 「おっちゃん!」「おっちゃん!」「おっちゃん!」「おっちゃん!」

 「誰がオッサンや!お父さまやないのかい!ド突き回すぞ!」

 ぴゃーーーと泣き声が木霊した。一匹が泣きだしたら一斉に伝染した。ぴゃーーーー!ひゃーーー!アァアアーーー!!!!轟轟轟轟轟轟……

 「おぅおぅ,うるさいのぉ。おーよしよし。」

 躊躇する私を尻目に,男は迷いなく手取り足取り幼子たちを次から次へとあやしていく。流れ作業のように一匹一匹を腕に抱えては太い腕でお手玉のようにコロコロとぶん回している。どうしたらよいかわからなかった私は,男の見様見真似で目の前の一匹を抱え上げた。

 「姉さまーーー!」

 泣き声は轟音となり,私の耳をただ通り過ぎていた。遠く頭を掠めていき,私の意識の中でただの静寂となっていく。この子たちは,生きるために虫を食わなければいけない。生餌を糧にする次世代の子どもたち。私とは,私たちのような虫とは違うのだ…。


落ちぶれた虫けらども


 この私がこの子たちに何ができるというのか。子育ての経験もなく,餌を持ってくることもできない。この私にできることと言えば…

 「あんたたち。」

 私は軽いとも重いともわからぬ身体を勝手に立ち上がらせながら,太陽を背にしてゆっくりと成虫に命じた。

 「狩りの時間よ。」


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 俺は自分の身を守りながら抱えていた卵を潰さないよう奪われないようゆらりゆらりと身体を逸らせて相手の突進を交わしていた。闇の中でも俺の目は驚異の対象がよく見える。巨体の剛腕。おまけに俊敏。左右非対称の翅で跳びかかられているとは言え,棍棒なような足を弓のようにしならせて何度も襲い掛かられたらキリがなかった。老体がバテそうだ。俺のひ弱な肢腰では負けが見えている。おじさん,もう駄目ですよ。

 「あのね,もう一度確認しますけども!」

 俺は必至で叫んでいた。

 「俺じゃなくてもいいじゃないですか!」

 「知らん。私の目的は狩るだけだ。」

 「あんたイネ科以外の植物食べないじゃないですか!!!」

 相手が遂に間合いを詰めて俺に詰め寄った。卵を抱えた俺の鎌ではもう防ぎきれない。相手の関節の可動域は化物だ。若い声の割に皺の多い男臭い顔が俺を直視する。尚もぐりぐりと相手の身体が近付いてくる… 鼻息が吹きかかるゼロ距離! 何なのこの男! どうして俺に興味があるの!? ブリティッシュライブラリーでもベーコンレタスでも何とでも言え! 俺はどうせBLの世界ではヘタレ受けにされる運命にある! 怯まずに,否,全力で顔を背けようと,隙あらば逃げようと足掻きながら声を振り絞る。

 「俺はオオカマキリ! あなたはトノサマバッタ! 俺はあなたの天敵で,普通のバッタなら俺から追いかけられる方なの! あなたが襲い掛かってくるのはおかしいの!」

 「知らん。私は強い奴と戦いたいだけだ。」

 脳筋の思考回路ーーー!!!

 「じゃあこれ (卵) 届けたら好きなだけ相手しますから,ちょっと待っててもらえませんか,って言ってもおじさん息上がっちゃって,帰りの命があるかわかんないけどね!?」

 「おまえの筋肉も欲しいが,私はその卵が欲しい。テントウムシの幼虫の餌にする。」

 「なんでテントウムシ育ててるの!?」

 「知らん。」

 「じゃあテントウムシの育て方は?」

 「知らん。」

 「テントウムシはアブラムシ以外食べないんですよ!!!!」

 力を振り絞って後ろに仰け反った。勢い余って壁にぶつかり大きく腰を打ち付ける。これでもうおじさんの腰は終わりです…。まず腕の中の卵が無事か跳び上がって確認した後,嫌な痛みが走る腰を庇いながら自分の周りに引っ付いているだろう戦闘相手の姿を目視しようと慌てて首を回す。俺が相手の腕から逃げられたのもそのはずで,相手は力を抜いて俺の傍に正座していた。強力な関節弓をもつ太い肢がお行儀よく据わっている。

 「そうなのか。教えてくれ。私は…」

 バタン。

 え?

 煌々と蛍光灯が屈折するガラスの中に閉じ込められた。街で育ってきた俺は即座にわかった。視界を5本の巨大な人の指が覆っている。

 「虫さん,捕まえたで。」

 「きゃみさん,本当に虫平気なんだ。カマキリだけじゃないな… これは,ごきッ… あ,なんだバッタか…。」

 くぐもった声が二人分。どちらも眼鏡の男だ。咄嗟に俺はツバキの鉢植えを探す。あった…。目星をつけていた,合っていた,この部屋だ。此処が…

 「あれ,このカマキリ,なんかブツブツ付いてない? 病気かな…?」

 俺と似たようなひ弱そうな男が言い放った瞬間だった。俺の持っていた数個の卵が一斉に蠢き始める。けばけばしい長い毒針毛が立ち上り,一斉に黒と黄色の蛍光色の幼虫たちが蛍光灯に向けて身体を持ち上げていく。

 ヒィイイイイイイイイイイイ

 虫と男4人組の悲鳴が共鳴した。毒針毛,俺たちは大丈夫なはずなのに,人間につられて絶叫した。

 お,お届けに参りましたアアアアッ。


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 「「状況を整理しよう。」」

 うん,その通りだ。まず冷静さを取り戻すことが大事だ。俺たちはグラスに閉じ込められたまま,テーブルの上に座らされた。俺たちの傍らでドクガの赤ん坊が変わらず懸命に光の方へ身を伸ばしている。

 「あなたはトノサマバッタで,オオスズメバチに言われて,テントウムシの子育てをしている…。……なんで?」

 「これはトノサマバッタとオオカマキリで,産まれてきた幼虫はどう見ても他の毛虫…。……なんで?」

 「「話せば長くなる…」」

 虫2匹の声は人間たちには届いていない。

 「私とオオスズメバチだけじゃない。トガリバホソコバネカミキリも居る。」

 「なんて?」

 俺は,なんかレアなカミキリムシが居る程度に理解した。地方都市というのに珍しい。

 「待って,スバル。今調べてるんやけど,この毛虫,やっぱり害虫っぽい。この種類の毛虫はドクガの仲間である可能性が高い…」

 知的な方の眼鏡の人間がスマートフォンをスクロールしながらひ弱な方の眼鏡に言った。

 「そうだよ,蛾ァ子が産んだんだ!」

 「蛾ちゃん…?」「蛾ァ子…?」

 男たちの会話が交錯する。ビンゴだ。あのひ弱そうな眼鏡の方が根尾君だ。必死になって俺が根尾君の方に叫んでいると,振り向けば堅物のトノサマバッタが怪訝そうな顔を俺に向けていた。

 「私も聞いたことがある…。オオスズメバチが言っていた毒針毛をもつ蛾のメスの名前だ。」

 「なっちゃん… ナツキが蛾ァ子の面倒を見てる。そのオオスズメバチ,種の違う虫3匹の行方を捜していなかったか。」

 オオスズメバチの名前はリンカのはずだ…。

 目の前のバッタが俺を見据えて再び取って食うかのように詰め寄ってくる。俺はガラスの縁に追いやられて逃げ場を失っていた。

 「やっぱり私はおまえが欲しい。」

 「お願いだから回りまわって気持ち悪い言い方をしないでお兄さん。」

20

 ハクの視線がずっと痛い。思えば,こいつは現役のコロニーのワーカーだ。俺なんかに構ってる暇はないはずだが,最愛の姉の依頼とあって,俺をトノサマバッタのマツがいると思わしき場所まで案内する任を受けていた。俺は背中を蹴られながらトボトボと肢を引き摺り,数日間ぺんぺん草とブタクサの続く道をゆっくり急いでいた。

 ハァ~,テメエのせいでとんだ大損だぜ。なんで俺がこんなクソアリの先導なんか…。だっりィなァ,本当使えねェ肢しやがって…,欠伸が出るぜ,もっと早く歩けよォ…。テメェ,姉貴たちの何だってンだよォ。なんで俺がこんな役回り…。クソがァ,なんで俺じゃダメなんだよォ…。クソアリのド変態が。女王蜂に気に入られやがってよォ…。何なんだよォ…。

 歩みの遅い俺を連れ歩くのに飽きてくる日没には,ハクは決まって俺への語彙力のない罵倒を弱音に変えていた。俺はここのところ,日が暮れる頃にはハクの肩を抱いて,逆に労いの言葉をかける役回りをすることになっていた。君はよくやってるよ。俺はド変態でもクソアリでも役立たずでもいいけども,君は姉たちのために俺を案内してくれてるんでしょ。立派な働きバチだよ。雄蜂は女王のために尽くすのが使命なんでしょ。君はエドもリンカも大事に思ってるから,コロニーの外でもここまでしてくれるんでしょ。凄いよ,有難うね…。もうどっちが補助されている立場なのかわからなかった。

 そうなんだよ,姉貴たちに喜んでほしくていつもいつもやってンのによォ,報われねェンだもん。そりゃア,数匹の女王蜂の役に立つことがハチの使命だけどよォ,好きなひとのために毎日毎日俺ァやってンだよォ,なのに兄貴やテメェみてェなクソアリが…。…テメェ何俺の兄貴面してンだよ! クソアリの分際でぶっ殺すぞ! 今,俺のことちょっと下に見てただろ! クソアリィイ… おまえ絶対許さねェからな!

 今晩はクソアリモードがぶり返したようだ。リンカにシバき倒され蛾ァ子にドカドカ蹴りを入れられていた頃が懐かしい。そういうときはさり気なく,なっちゃんが仲裁をしてくれたものだった。俺は黄昏れる広野を,再び肢腰を蹴られながら,一晩休めそうな木の根元を探した。街が近くなってくると,自然も雑草と小ぶりの木だけに絞られてくる。痩せ細った根に腰を下ろすことにした。

 「聞いてンのかよクソアリィ! 頷けばいいと思ってンじゃねェぞ!」

 「聞いてる聞いてる。ここんとこずっと君の話聞いてたでしょ。」

 「うるせェな喋ンじゃねェよクソアリ!」

 「はいはい。」

 ハクはただのツンデレだ。リンカに比べたら相当扱い易かった。しかも,嬉しいことにハクからはコロニーでの話が聞けた。こう日が暮れてくると,毎晩,ハクはエドと同じようにコロニー時代リンカのことを語って聞かせてくれたのだった。

 リンカはずっと凛々しくて食えない女だった。新女王の群れからは迫害されていたけども,ずっと負けない強い女だった。

 「他の新女王の女どもは自分の若さと無敵感を鼻にかけてたけどよォ,姉貴とリンカは違ったぜ。2匹とも高飛車っちゃア高飛車だったけどよォ。目先のことばかり考える奴等とは違ェんだよ。」

 「そうね,結局思慮深いのよね。リンカもエドも他の虫のことをよく見てるよ。」

 「頭の出来が他の女どもと違ェンだよなァ! 表裏ある女が嫌いっつうわけでもねェし,他の女どもがみんなそうだったとは言わねェが,腹括ってる感じが別格なわけよォ。」

 「新女王って,みんなある程度は上から目線で指示する立場でしょ。でも話を聞く分には,2匹は組織的に見ても有力な新女王だったと俺は思うよ。驕らずにいつでも組織を下から見つめて,誰が何をしているのか把握しているというかね。その上で自分はどういう立場を取るべきなのか,常に社会との向き合い方を念慮しているというか。女王の手は指示する手である一方で,女王の目は把握する目でしょ。結局下僕のようにすべてを思いやってるんだよね。」

 「そうそう。だから俺たちァ姉貴たちのために動いちまうのよ。」

 こうなると同じコンテンツにのめり込んで朝まで語らい合う同好会のようだった。リンカとエドの魅力を語るとき,俺たちはいつも増して饒舌になり,話は尽きなかった。

 「結局,2匹とも自分のコロニーは持っていないわけだけど… なんていうのかな,種の保存を超えた個人の自己実現みたいな…。目的が他の虫と違うところに定まっただけで,2匹は確実に進化していると思うよ。時代への適応とも言えるかもね。俺たちだって,結局はなんだかんだ言いながら,別の種同士で目的をもってやってるわけでしょ。自分とは何か考えて,その葛藤を大事にしたひとだけに,どう生きるべきかがわかるんじゃないかな。一見,社会の輪を乱すように見えても,自分で選んだ生き方は,そうすること以外他人を幸せにする方法はないと俺は思う。社会の幸福って,結局はそういうひとたちに支えられてるんだよ。」

 「今テメエと姉貴たちを同じ話にしやがったか…? それは違うからな! 姉貴の頼み事じゃなきゃァ,俺はおまえなんかすぐに潰してやるからな!」

 「はいはい。」

 眠りに落ちるまでの時間,こうやってハクと語り合うのがいつしか好きになっていた。俺に微睡が訪れるまで,ハクは俺との時間を大事にしてくれているのだとわかった。


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 「おい,クソアリ! 起きろ!」

 俺が浅い眠りに陥っていると,ハクがいつもより静かに俺を小突いていた。

 「何かいるぞ…,テメェは動くンじゃねェ。俺が手打ちにする。」

 ハクが周りの草より高く舞い上がり,急に物騒な羽音を轟かせ始めた。カチカチと歯軋りをし,ここには近付くなと相手に警告をする。俺は耳を欹てることしかできなかった。

 ブゥーーーーーーーーン… カチカチカチカチ…

 ギィ…

 俺の耳が西の方角に先方の返事を捉えた。

 「ハク! 聞こえたか。」

 「馬鹿ッ,静かにしてろ。大した相手じゃねェ,働きバチ舐めンなよォ!」

 ハクが疾風の如く駆け出した。捕るつもりだ。喧嘩っ早く好戦的なところが働きバチらしくもあったが,今の目的は尋ね人を見つけることだ。賢明な判断ではないように思えた。ハクの翅の動きが伝播し,草木が一直線に掻き分けられる。一直線に物音が聴こえた場所へと向かっていった。

 …ギィ。ギィギィギィギィギィ!!! ウギャアッ!!!

 相手の切羽詰まった声が悲鳴で途切れる。俺は慌てて音の場所へと向かった。

 「降参言うとるやないかい! こんの戦闘狂が…,勘弁してや!」

 「うるせェな,オオスズメバチのワーカーに出遭ったモンが命乞いできると思うなよ!」

 訛りの強い男の声とハクがゴタゴタと絡み合う声がする。好戦的な虫同士の殴り合いなら身を潜めようと思っていたが,相手は全面降伏なのではないか。

 「おまえ,なんでこないアンもガワも堅い甲虫狙ってるんや…,俺は美味しくないで! これから朝に湧くアブラムシ捕りに行くだけや! 放っといてえな!」

 「なんでカミキリムシがアブラムシ捕りに行くんだよォ!」

 痛てててててて!!! と騒がしい男の声がする。種を超えた虫たちの共生…,一般的には考えられない虫の組み合わせ…。そのパズルのピースの合わなさが,これは独自に目的をもった虫だと自分に警鐘を鳴らした。

 「ハク,そこまでだ。多分,話せる相手だ。」

 「テメェ,何ついてきてンだ。すっこンでろ!」

 「リンカやエドと同じように生きてる虫かもしれない。俺は話が聞きたい。」

 草をやっと掻き分けて俺が乱闘現場に辿り着くと,揉みくちゃに絡まり合っている2匹を見つけた。相手は茶色くて,顔の角ばったカミキリムシだった。長身の体格に似合わず,幼形成熟を思わせるような,目はくりくりした愛嬌溢れる顔だった。

 「なんでスズメバチとアリが一緒におるねん…。」


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 「いやあ,クロが居ってくれて良かったわあ。俺はハチに襲われるのは初めてやったで,もう年貢の納め時かぁ思ったわ。」

 よく喋る男だった。解放されるや否や,この男は独壇場と言わんばかりに堰を切って喋り出した。大胆に寛ぐこのカミキリムシの名はトレインというらしい。ハクは,うるせェの拾いやがって… と,俺の隣で居心地悪そうに臍を曲げている。

 「それにしても,アリがハチの司令塔か。同じハチ目とはいえ,おかしなチームワークもあったもんやなあ。まあ,俺も今はそうかもしれん。俺にも今は美人さんの司令塔がおるし,昔のよしみで用心棒もおる。他人のことは言われへんな。」

 トレインが屈託なく笑い上げる。俺の勘が当たった。やはり共生虫だ。

 「トレインは,誰と一緒に? やっぱり,アブラムシを捕食するテントウムシと?」

 「クロ,それが違うんよ。いや,違うことあらへんか。今の俺らが育ててるんがテントウムシで,司令塔はオオスズメバチ。用心棒はトノサマバッタや。不思議な組み合わせやろ。」

 不貞腐れていたハクが視線を逸らしたまま動かさずにハッと息を呑む。

 「オオスズメバチの…,いや,2匹の名前は,リンカとマツか。」

 「なんで知っとるねん! なんやねん,有名人か?」

 「ある意味ね。」

 「そしたら,俺のことも知ってるんか?」

 「いや,全然。」「なんやねん!」

 ピースがカチリカチリと合っていく。まだ余白に幾ばくかの疑問を残しながら,空が青白んできた。横に吹き飛んでいたトレインが土を払ってすっくりと立ち上がる。俺たちはただでさえ長身の彼を見上げることになった。

 「宴も闌,話も尽きへんところやけど,一丁,仕事の時間や。丁度いい人手や,手伝ってえや。頭数になってもろたら,2匹に会わせたる。その方が話も早いやろ。」

 早朝のアブラムシ。広野に密生するブタクサに何も知らずスルスルと登ってくるのが目に見えた。

 「俺たちの女王様は可愛い子どものごはんを存分に狩ってくることをご所望や。手加減せんでな。」

 間接をバキバキと鳴らしてトレインが戦陣に立つ。歴戦の猛者の立ち振る舞いで,木の枝のように気配を消し,何も知らないアブラムシの一匹に近づいた。そして,躊躇なく…,アブラムシをプチッと潰した。

 え?

 プチッ。

 プチッ。

 「馬鹿野郎ッ,潰したら餌になンねエだろうが! テメエ何やってやがる!」

 「上手く摘ままれへん…。」

 「ハァ!? テメエ毎日やってンじゃねエのかよ?」「今日が初めてなんや…。」

 ハクは我慢ならず跳び上がってトレインの頭を張り飛ばした。なァにが手伝ってくれだ,テメェが一番仕事できねェンだろうが!

 「俺,普段木ぃばっか彫ってる土方やもん…。手加減できるわけないやん…。」

 結局,俺とハクが働くことになり,木偶の坊は後ろでモジモジしているのみとなった。

21

 人生は何が起こるかわからない。私が生殖を諦めたのは,拒食を続けた身体と性を忌避した精神の所為だと認識していた。私の摩耗した生への執着は,完全に自己責任に起因すると思惟していた。クロが私を慕う限り私の生存意義があるのではないかと考えたこともあったが,結局は,私の孤独という病はそれを上回り,現実感覚を奇妙に歪め,相手の存在とは何かについて,自分を生かす限り消耗する機械仕掛けの延命装置のように感じてしまった。諦念の末に陥った,出口のない一種の思考停止の果てに辿り着いてしまっていた。嵐のなか,どうにでもなれと,二度と目が醒めないようにと身体を抱いていた以外では,あてもなく彷徨う夢遊病者のような感覚に囚われていた。このアンバランスな身体と精神は,あまりに私に重すぎた。

 しかし,あの光景を見たとき,あまりの神々しさにその固執が吹き飛んだ。入り組んだ茨のなか。歯の上に整然と立ち並ぶ黄金の卵の群集。陽の光を受けて小金色に背景がぼやけていた。黄金卿にでも招かれたのかと錯覚を覚えた。淀みなく一点の曇りもない卵たちにフォーカスを絞られ,私は眩暈がするほど立ち尽くしていた。その傍らに衰弱した親がいたことには,私は自分が呼び止められてから気づくことになる。

 「彼女が産んでくれたんだ。」

 頑なに見惚れていた卵から,声がした方の脇に視線を滑らせると,痩せ細ったナナホシテントウの男が横たわっていた。落ち窪んだ目からは生気が失われていたが,眉目秀麗な顔立ちだった。

 「おれと彼女で各々自分の身体に宿ったものを必死に守った。オスの俺まで何かを孕むなど,どう考えてもおかしいだろう。でも,おれは不義理な生き方をしてきたから,もしかしたら生殖機能が異性化するなんて変異が,これまで交わった誰かによっておれに起きたのではないかと思ったんだよ。」

 虫の性行為は異性間だけとは限らない。この男のやつれた魅力の根本が垣間見えた気がした。圧倒的な性的魅力,芳香が漂ってくるほどの優男。性に奔放な男だけが見せる根拠のない自信,自己肯定感,精神的な余裕。普段であれば,性的に軽率な男について,私は肌が粟立つほど嫌悪感が立ち上るはずだが,不思議とそれはなかった。もしかしたら,自分の想像を絶するほど他人に優しく,利己的で,享楽的な種類の生き物には,相手を不快にさせる隙のない完璧な魅力があるのかもしれないとまで一瞬で思索した。クズではあるけども。

 虫の性転換についてはよくわかっていない。稀に両性具有の個体も現れる上に,その成熟は後天的に認識される個体もいる。そもそも性認識が生物学的な性の分類とは別の次元で成り立っているという見解もあると昔聞いたことがあった。この男の頭が悪いとまでは言いきれないが,その天性の感覚で,自分には変異が起こるのだろうと思っても不思議はないのかもしれなかった。

 「結局,あなたに宿っていたものは何だったの。」

 「寄生バチ。」

 寄生バチは宿主に寄生する。宿主がテントウムシである場合,寄生バチに体内に卵を産みつけられ,その子どもである幼虫が体内から這い出てきた後も,必死に羽化まで守ると習ったことがある。

 「彼女は,おれが何も疑わずに大事そうに他人の子どもを抱いているのを目にして,その不埒さに耐えられずに出て行ったのさ。とても寄生した子どもの羽化までは耐えられなかったんだろうね。」

 どこかキザな態度で男が言い放った。不思議と癪には触らなかった。天罰だとは言えないが,誰彼構わず混じり合っていたら,自分の身体を相手に差し出すリスクファクターも高まるだろうと。そして,寄生虫に襲われてもここまで能天気に顛末を迎える虫もいるんだなあとだけ思った。

 「おれも自分がここまで生きられるとは思わなかったよ。最後にいい女が見られてよかった。彼女が残してくれた子どもたちは無事に育ってほしいけど,おれにはそもそもそれを見届けられるほどの時間はないからね。あなたに全てを差し出すよ,あなたのしたいようにしたらいいさ。」

 この男は,私に,卵を食えと言っている。それが自然の摂理だと。私は初めて苛立ちを覚えた。この私の意思を無視して,てめえが生きろと言われる筋合いはない。

 「狼藉者が。」

 私は横たわる男に顔を寄せ,整った顔を震える手で顎から押さえつけた。予想だにしない私の行動に気圧されて,柔和だった男の顔に怯みが見えた。構わず私は凄む。

 「私がどう生きるかは私が決める。仮にもオオスズメバチの新女王に対して,一介の男が口出しするのは無用よ。心配しなくとも,あなたの卵をどうするかは私の一存にある。どうするかは私が決めるわ。」

 押さえていた手で男の顔を床に張り倒す。男がくぐもった声で殴打に喘いだ。これから自分が謀ろうとしている暴挙に高揚し弾むばかりの心を必死で抑えながら,私は寝転んだまま頬杖をついて卵たちに向き直った。コロニーに居た頃の風景が蘇ってきた。ひとに愛される資格は自分にないと思っていたが,私を着実に育ててくれたのは私の母である女王蜂だった。密集したハニカムのなかで徐々に孤立していった私を,距離を阿りながら母は接してくれていた。それは一種の愛情だったのだと心の奥底では理解している。母は決して女王候補がどうあるべきかを私に強いなかった。私の精神が暗中模索のなかに突き進んで成熟してしまっていた。私は育てにくい子どもだっただろうと思う。

 「リンカ,ひとは何故生きると思う?」

 序列階級の強いハチの社会のなかで王として君臨する母にはいつしか畏怖の感情を私は抱いていた。成熟した私が身動き取れずに立ち尽くしているなか,ふと母が私に一言投げかけた言葉がそれだった。姉たちと小娘どもと私が違う理念で動くしかなくなってしまっていることを母も気づいていたのだろうと思う。男も女も食も生も拒んでいた異常な私の行動を見ながら,あのとき,母は何を思ってその言葉を選んだのだろうか。あなたは何を見ていたの,お母さま。

 「育てるわ。」

 卵を凝視したまま私は口にした。射るような男の視線を感じる。この女は何を言っているのだとあんぐり口を開けていることに違いない。

 「私の母が見ていた風景を知りたいの。」

 「そうか…,数奇な虫も居たもんだな。おれは果報者だよ。」


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 茨が揺れる。天敵に立ち向かえる能力を私は持っていない。卵を餌とする者が現れたら,せめて数個だけでも抱えて全力で走り出そう。目の前の卵を包むようにして身構えると,聞こえてきたのは思念が杞憂に終わる暢気な声だった。

 「よぅ,死に損ない。まだくたばっとらんかったか。」

 訛りの強いカミキリムシが揚々と踏み込んでくる。まだいる。続いてきたのは寡黙そうなバッタだった。屈強な2匹に警戒を解くのを躊躇していると,私の後ろでテントウムシが宥めた。

 「お迎えさ。」

 巨大な腹をもつ私が卵に覆い被さっているのをカミキリムシとバッタが凝視する。乱れた髪を整えることなく,私はそのまま息を潜めて凝望していた。

 「事情は後で訊いたらいい,ひとまず準備をしてくれ。」

 「なんや,つくづく鼻につく奴やでおまえは。遂に頼るもんが居らんくなったと思ったら,また女かいな。しかもまたえらいべっぴんさんやないか。ド突き回すぞホンマ。」

 カミキリムシが私の横を過ぎ,円滑な動きで軽々とテントウムシを抱き起す。それをバッタにひょいと背負わせた。手をぶらぶらさせてテントウムシはなされるがままぐったりとしている。男たちの間で取り交わされた約束があるようだった。バッタが私に背を向けて元来た道を歩み出そうとする。私は2匹に置いて行かれるようだった。

 「どこに行くの。」

 「死に場所。遠い場所さ。おれが子どもの寄生バチを育て上げた後,そのハチは俺の身体にまた卵を産んでいった。今のおれがそのまま朽ちると彼女の卵に危険が及ぶんだ。」

 私は立ち上がってバッタに背負われたテントウムシに向き直る。細くなった髪の間から覗く相手の落ち窪んだ眼窩と視線が合った。

 「お別れだよ。」

 優男の目が柔和に滲んで微笑を湛えていた。

虫たち (キャラクター設定集)

クロ: クロオオアリ。巣への帰り方を忘れて帰れない。誰かに尽くすと安心する。

リンカ: オオスズメバチ。新女王。自分に厳しい。頭の悪い男と女が嫌い。

ナツキ: ツクツクボウシ。亡き母を想う。兄弟たちもみんな死んだ。泣き虫。

蛾ァ子: ドクガの仲間。露出度が高い。生意気で人懐っこい。性的な男女の関わりが嫌い。

パッチ: オスの三毛猫。

根尾 昴 (ねお すばる): ヒト。大学1年生の眼鏡男子。

エド: オオスズメバチ。リンカの殺気が怖かった。猫っ毛。色気がある。

ライゴ: マルハナバチ。寡黙で癖毛。黙々と自分の好きなことをやるオタク気質。

神 (かみ): ヒト。男子高出身。日替わり眼鏡。きゃみさんと呼ばれる。パッチと仲がいい。

ナツメ: ガ。賢者。歩数を数えて蛾ァ子を尾けていた。

レンタ: オオカマキリ。地方都市の街をほっつき歩いている。変人と遭遇する変人。

ハク: オオスズメバチ。働きバチ。ナツメを手打ちにした。

マツ: トノサマバッタ。脳筋のド変態。レンタに一目惚れした。

トレイン: トガリバホソコバネカミキリ。繊細な扱いが苦手。デリカシーがない。

ライト: ナナホシテントウ。眉目秀麗。性の遊びが過ぎて死ぬ。

クレバ: オオスズメバチ。女王蜂。リンカの母。全ての始まり。

ギャラリー

ナツキ・蛾ァ子・リンカ・クロ

コロニーに居た頃のリンカとエド