何度も何度も前を通ったが、正直なところ入りづらくて通り過ぎていた。
地図アプリのレビューでも評価がない。周辺のカジュアルなバーで情報収集をしたが、行った人は見つけられなかった。ただ、「あそこはフリモメン用らしいから」という噂をあるバーの客が教えてくれた。
フリモメン。名は聞いたことこそあれど、実際にこの目で見たことはない。
もっとも、彼らは人間に「変身」できると聞くため、人間と見分けがついていないだけで、すれ違ったことも、会ったことも、あるのかもしれないのだが。
 さて、そのバーには仕事帰りや用事のついでに、つい足が向く。だが、「今入っていいのか?」と躊躇し、結局通り過ぎる。
  扉が開く瞬間を見かけたこともある。重厚なドアの蝶番が軋んだその中から出てきたのは、特に変わった風貌ではない大人の男性だった。「普通の人間も入れるのか?」と疑問に思うが、 これほど情報がない店なら「新規客お断り」の可能性もある。仮に足を踏み入れたとしても、冷たい視線で追い返される様を想像すると不安になり、結局、また、通り過ぎる。
しかしある晩、意を決して、といったところか、もしくは気が向いて、といったところか、そのバーに続く階段を登ってみようと思えた。もしかすると疲れていたのかもしれないが、ともかくその日は階段の方へ足を踏み出すことができたのである。
誰が見ているわけでもないのに妙に周りを気にしながら登った階段の先、
バーの扉の前には、張り紙が貼ってある。
「ブラザーズ・ユニティ」のルール
《必ず守るべき約束》
 このバーは、人間とフリモメンが互いに尊重し合うための「中立地帯」です。以下のルールを守れない場合、直ちに退店していただきます。
・ここで聞いた話、見たことは外で口にしない
  お互いの正体や秘密に関わることを漏らしてはいけません。
  例え他の客がフリモメンであると知っても、それを口外することは厳禁です。
・争いを持ち込まない
  この場所は対立を超えた空間です。人間とフリモメン、あるいはその中での意見の違いによる口論や暴力は一切禁止です。
・偏見を持ち込まない
  種族、出自、形状、プログラムのバージョンなど、他者の違いを尊重してください。
  差別的な発言や態度は一切許しません。
・他の客への無理な質問や接触はしない 相手が話したいことだけを聞くよう心がけましょう。
・無許可で撮影や録音をしない
  他のお客様の姿や会話を無許可で記録することは固く禁じます(映り込みを含む)。店内の雰囲気を楽しむことに集中してください。
《ノックして入る前に、この張り紙をよく読みましたか?》
 もし読んでいないなら、扉を開ける前に一歩下がり、もう一度確認を。
  この約束を守れる方だけ、扉の向こうの世界に一歩踏み込む資格があります。
扉をノックする音は、誠実さの証明です。どうぞ、ノックしてください。
あなたは、張り紙を読み終えたあと、ふと立ち止まる。
「フリモメン用のバー」という噂は、おそらくは本当だったのだ。
そう考えると、急に心臓が高鳴るのを感じた。フリモメンの存在が何かと噂になっているが、実際に会ったことはない。しかし彼らは確実にこの世界に「いる」のだ。だが、ホログラムを悪用し、人を騙しているケースが増えているというニュースも聞くし、他のバーで聞いた「俺の知り合い、フリモメンに騙されて結婚詐欺されたんだぜ」「こないだの事件、実は犯人がフリモメンだったって話、知ってるか?」といった噂も聞くに新しい。
もしバーテンダーが、隣の人間が、フリモメンだったら、どうする?
よく分からないものが怖いのは仕方ない。ただ、わざわざこんな場所に店を構え、入店を躊躇うようなルールまで決めるようなことをするこの店が、人間と、そしてフリモメンにとって最大限配慮された空間であるかもしれないということが伝わってきた。
そんなことを考え出すと、この扉を開けるのが急に重く感じられた。
しかし、ここまで来た以上、引き返すのも気が引ける。「ただ酒を飲んで帰るだけだ。深く考える必要はないだろう。」そう自分に言い聞かせながらも、指先にじんわりと汗が滲んでいるのを感じる。
扉に取り付けられた重厚な金属のノッカーを掴む。冷たい感触が掌に伝わり、一瞬だけ逡巡する。「これでいいのか?でも、ここまで来たんだから……。」
一呼吸置いて、意を決してその扉を叩いた。
数秒の沈黙ののち、扉が開く。